昨日のエントリーである「さすがにこれには腹が立った」に対し、「on the ground」のきはむ様よりコメントをいただきました。それについてお答えしようと思います。
―――――
次に、丸山や吉本を批判する「義務」などを負わせてなどいません。私が書いたのはただの願望であって、今やこの調子で舌鋒鋭く戦後思想を斬る後藤さんの文章が読みたくなってきたというだけのことです。そうすることに必然性があるなどとは主張していません。
―――――
少なくとも《思想」とか「批評」とか、ほんとまじうざいもんねー。爽快、爽快》などと揶揄されているものが《願望》のようには、私には思えないのですが。私の読解力か想像力が低いためなのかもしれませんが、あのような書き方では単に莫迦にしているようにしか聞こえません。
―――――
それから、いわゆる「思想」についてですが、これはむしろお聞きしたい。後藤さんが東など(宮台はここでは措いておきましょう)を批判するなら、彼らと(大雑把な括りになりますが)「方法」としては大差無い仕方を採っている萱野や仲正を評価するのは何故なのか。後藤さんは「方法」こそを問題にしているのだと言っているのだけれども、実際には「内容」によって色分けが為されているのではないか。
―――――
東と萱野や仲正が「方法」において大差ないと私は思っていません。そもそも萱野や仲正などは、東の如く(例えば「ギートステイト」などに見られるように)、インターネットやそれに関するところのテクノロジーの進展により、特に若い世代においてどのような心性の変化が生じるか、あるいは現在生じているか、ということから今の社会を覆う「現実」、あるいはこれからの「未来」について語る(少なくとも「ギートステイト」や「動物化するポストモダン」などはそういった内容ではないでしょうか)ということはしていないように思えます。また、例えば萱野の国家や暴力に関する伝統的な学説や歴史などの分析から現代の国家などを読み解くというやり方(『国家とはなにか』や『カネと暴力の系譜学』あたりがそうですね)や、あるいは仲正の現代思想そのものや、あるいはその受容をめぐる流れから現在を読み解くやり方(時論や左翼批判なども含めて)も、東のやり方とは一線を画しているはずです。むしろ東と仲正や萱野の方法論的な共通点を探す方が難しいような気さえします。
―――――
挑発的な言い方を重ねることになってしまいますが、後藤さんの「方法」というのは要するに、後藤さんの中にある何らかの基準によって若者の「敵」ないし「敵」になり得ると判断された言説に対して、定量的な実証がされていないというほぼ一点を衝いて攻撃を加えるもので、反面、「味方」にし得る言説に対しては「お目こぼし」があるのではないか。いや、これは具体的な箇所を挙げて述べるべきことですので、批判まで行かない疑問として受け取って欲しいのですが。
―――――
まあ、私にそういう側面がないとは言い切れないのでこれについて反論するのは難しいのですが、とりあえず《定量的な実証がされていないというほぼ一点を衝いて攻撃を加える》というのは間違いです。定量的に実証したと自称している言説について理論的な視点で反論を加えることも多いですし(それこそ本家でやっている「統計学の常識やってTRY」シリーズですね)、基本的な統計や歴史の間違いを指摘することもありますので、そのような物言いはないと思います。それともう一つ、きはむ様には、宮台が石原慎太郎などという極めてわかりやすい権力者とつるんでいることについてはどう思っているのかということを、ぜひお聞きしたいですね。
―――――
こうした後藤さんの問題意識は理解できるのですが、そこで東を宮台と並列して「若者論のレジーム」を作ったと言うのは、明らかに的外れです。そもそも「動物化」論は若者論ではありませんから。
―――――
《そもそも「動物化」論は若者論ではありません》というのは、少なくとも私からしてみれば誤読を含んでいる物言いだと思います。というのも「動物化」論というのは、出発点に関しては明らかに若者論を意識しているからです。そもそも東は『動物化するポストモダン』(講談社現代新書。以下「動ポモ」)p.14においてこのように語っています。
―――――
たとえば、コミックやアニメ、コンピュータは世代を越えて強い関心を集めているが、第一世代でSFやB級映画に向けられていた関心は、第三世代ではおおむねミステリやPCゲームへの関心に置き換えられている。また、第三世代は一〇代半ばにインターネットの普及を迎えており、その結果、彼らの同人活動の中心はウェブサイトに、イラストの中心はCGに変わり、先行世代とは流通経路も表現形式も大きく変わっている。本書の議論は、そのなかで、どちらかといえば第三世代の新しい動きに焦点をあてて組み立てられている。
―――――
このような言明の他、東が同書p.132あたりで宮台の『制服少女たちの選択』を引いて、オタクの消費行動と、この本において宮台が示した女子高生の消費行動には「動物化」という共通性があるという趣旨のことを述べていたり、東が「近代的な人間」と「ポストモダンのオタク」(「動ポモ」pp.136-137の周辺。「動ポモ」を読んでみる限りでは、このように名指しされる対象は東の言うところの「第三世代」と思われます)の人間性の違いについて述べていたりと、かなり若者論を意識しているように見受けられます。このような反論に関しては、先の引用文の後に続くこの部分に関しても同様です。
―――――
私も宮台が真っ当な水準の社会学を実践しているとは思っていませんので、彼に対する方法論的な論駁には賛同し易い。後藤さんの宮台に対する批判において私が違和感を覚えるのはむしろ、彼の問題意識や理論的前提を考慮しなさすぎではないか、ということです(これは、後藤さんには歴史観が足りないのではないかという疑問と繋がっています)。これに対して、東批判の方は、賛同できる部分が無い。私には方法論的な問題があるようには思えないからです。「荒唐無稽」と評される程の致命的な問題があるのなら、東と度々対話の機会を持っている萱野や、著書の中で東の「動物化」論に度々言及している仲正が、なぜその点を論難しないのか。
―――――
とりあえず《彼の問題意識や理論的前提を考慮しなさすぎではないか》という批判につきましては、むしろ宮台の《問題意識や理論的前提》を考慮したからと言って、宮台に対する批判を再考すべきとは私は思いません。なぜなら宮台がほとんど自前の《問題意識や理論的前提》をいいように換骨奪胎して若者に対する一方的なイメージ(それがポジティブなものであれネガティブなものであれ)を、さも若者の代弁者であるかの如く流布してきたことこそが問題であると私は考えているからです。そしてそうした行為の行き着く先に、近年の宮台における権力者へのすり寄りや、あるいは恋愛論(という名の的外れなオタクバッシング)などがあるとすればなおさらです。
東への批判に対する論難に関しましても、きはむ様のこの文章を純粋に読むだけでは、仲正や萱野が東を批判しないから後藤は間違っている、という論難にしか聞こえません。あと、どうもきはむ様の私の東批判に対する反応を見る限りでは、どうも私が東の言説を「荒唐無稽」と表現したこと「のみ」を非難しているような気がします。
さて、きはむ様が私の書いた文章、ないし座談会に対して言及したものについては、次のものが挙げられると思います。
「「俗流若者論」批判は切れすぎる刀か」(H19.6.26)
「幾つかの局地戦と「大局」」(H19.10.9)
「後藤さんの宮台批判について」(H20.1.19)
いずれも批判的言及なのですが、種々の論考の内容についてある程度踏み込んで批判しているのは、少なくとも私の読む限りでは一つ目の記事くらいではないかと思われます。それ以外については、いずれも私の論考の内容をさして吟味しないまま、私の「態度」だけについてひたすら愚痴っているようなだけ、という印象を受けます。その様な態度の不毛さに関しましては、特に後ろの二つの記事において「冬枯れの街」の管理人の方が述べておられますので、特に付け加えることはありません。
とりわけ「後藤さんの宮台批判について」のコメント欄において、きはむ様は私についてこのように評しておられます。
―――――
でも、こういった指摘は後藤さんには全く必要でないかもしれません。どうもここまでの私の感触だと、後藤さんは科学的であるよりも、ずっと政治的であろうとする人のようです。その選択そのものに難癖つけることはできませんから、この問題はもう後藤さん宛てではない形で書いた方がいいかなという気がしてきました。個人的に。
―――――
《後藤さんは科学的であるよりも、ずっと政治的であろうとする人のようです》と私のことを評されるきはむ様は、おそらく自身の方法論は私よりも科学的である、と思われているようですね(ところでこの文章における「政治的」とはどういった意味なのでしょうか。ちなみに私は『「ニート」って言うな!』の執筆過程で、この言葉を多用したところ、原稿を取りまとめていた本田由紀に散々だめ出しを食らったのですが)。そういった人が科学的な認識に基づく議論に対して、《歴史を遡って、丸山だろうが吉本だろうが、ロクなデータも示さずに日本や社会を語ってきた輩を縦横無尽に斬って斬って斬りまくって欲しいものです》とか、あるいは《「データ萌え」?「統計萌え」?》とか論難できるのでしょうか。私には不思議に思えてなりません。あと、
―――――
結局、後藤さんが宮台に引き続いて東を批判したのは、影響力のある(ように見える)論者を叩くことそのものが主目的だったのではないか。それは、言説の「効果」という面だけでなく、それによって一種のカタルシスを得るという意味でね(「陶酔」と書いたのはこういう意味です―何しろ宮台「葬送」論文公表の際に随分盛り上がっていらっしゃったので―)。意地の悪い見方ですが、どうも私はこの疑念を払拭できない。解り易く言うとカウンター言説の「ネタ」化への危惧ですか。
―――――
ということに関しましても、私のブログの内容などに触れないまま難癖をつけているだけですね。少なくとも「現代の理論」については、私がなぜ宮台を批判するのかと言うことについて論理立てて説明しているはずですし、カタルシスを得るのが主目的ならば、宮台や東の言説を徹底的に叩けばいいわけだし、わざわざ速水由紀子などの通俗的な「格差」論に絡めて批判するようなことはしないでしょう。
ただし、私がここまできはむ様のコメントについて返信したことは、あくまでも部分的なことであり、全体に関する疑念については、つとに赤木智弘様とTAKESAN様、特にTAKESAN様が指摘されているとおりです。とりわけTAKESAN様の以下のような質問――
―――――
えっと、ではきはむさんは、
>「データ萌え」?「統計萌え」?
などという表現を、いかなる認識に基づいて書かれたのでしょうか。さっぱり理解出来ません。定量的な評価を軽んじていないという言と、この皮肉の表現は、とても整合するようには思えないのですけれど。
―――――
に対する答えとして、きはむ様は以下のように応えられています。
―――――
ご指摘の表現は、稲葉(振一郎)さんがポストモダン左翼に向けて言い放った「他者萌え」という言葉を踏まえています。主に様々な場面でいわゆるマイノリティの存在ばかりをありがたがるような風潮に対して浴びせられたものですが、私自身はこの発言を行ったからといって稲葉さんが「他者」を軽視しているとは考えていませんので、言説上の整合性が欠けているとは認識しておりません。
―――――
少なくとも稲葉がポストモダン左翼に対して「他者萌え」と言うのと、きはむ様が私に対して《「データ萌え」?「統計萌え」?》と言うときの「萌え」なる表現の使い方は明らかに違うものではないかと思われます。このような答え方では、稲葉がこういっているんだから、その概念を転用している自分は間違っていない、というもの以上の答えにはなっていないと思います。ここで問われているのは、稲葉の言うところのポストモダン左翼が「他者」に対してとっている行動と、私がデータや統計に対してとっている行動が正しく対応しているか、ということではないでしょうか。いずれにせよ、萱野や仲正が東を批判していないから後藤は間違っているとか、あるいは稲葉がこういっているから自分の罵倒は正しいのだ、という態度では、まさにコメント欄でワタリ様がおっしゃっていた《大先生幻想(ブルデュー、「教師と学生の「コミュニケーション」)》に他ならないのではないでしょうか。
―――――
きはむ様以外にコメントをくださった方に対しても、この場を借りてご返信させていただきます。
>古鳥羽護様
少なくとも永山、昼間『マンガ論争勃発 2007-2008』での東の発言には、殊更おかしかったりする箇所はないと私は思います。ただ、東の近年のプロジェクトである「ギートステイト」や、あるいはかつて東などを中心に執り行われていた国際大学のグローバル・コミュニケーション・センター(GLOCOM)における議事録を見る限りでは、東の国家観やテクノロジーへの認識について、誤解というか少々危険なところがあるのではないか、という疑念を私が持っているのも事実です。ですので、東に対しては批判的な態度をとらざるを得ない、というのが現状です。
―――――
ただ問題は、本質的に純粋科学になりえない分野の専門家の見解に対して、どの様に科学的な批判を加えていくべきかという部分だと思います。
私が個人的にお世話になったから言うわけではありませんが、例えば精神分析学の専門家である斎藤環さんだとかをどう扱うのか? 彼が「思春期ポストモダン」の中で、俗流若者論に対抗する為にとして、若者の「無気力性」と「凶暴性」が一緒くたに論じられている事を批判する為に、「引きこもり系」と「自分探し系」の2つのモードを若者たちが行き来するという説を書いていますが、これとて、彼が臨床経験から分析した説に過ぎないわけで、どうしても「疑似科学」的な部分を排除できない精神分析学の限界事態を判った上で書いておられるように、私には見えるわけです。
なので、やろうと思えば、誰に対しても「若者の理解者のふりをして、若者を叩いている」と斬りかかれてしまうわけですが、おそらく、後藤さんが斬りかかっているのは、自分の手法の限界について述べずに、「私は若者の理解者であり、私の若者論は科学的かつ論理的であり、俗流若者論であるはずが無い。」と言って憚らない相手なのではないかと思います。
―――――
この点につきましては私も同意しますし、難儀な問題だとも思います。ただ《おそらく、後藤さんが斬りかかっているのは、自分の手法の限界について述べずに、「私は若者の理解者であり、私の若者論は科学的かつ論理的であり、俗流若者論であるはずが無い。」と言って憚らない相手なのではないかと思います》というご指摘にあるとおり、若者論や若者についての「現代的」と言われている現象を述べることで図に乗って、国家や社会、あるいは未来のあり方についてあることないことを饒舌に語っている人たち(私はこのような人については、特に宮台を意識しています)については、やはり手厳しい批判を与えていく必要はあると思います。
―――――
ただ、それでも本音を言えば、「児ポ法改定問題」について、反対派側の年長の論客たちは、既に同じ事を何度も言わされる破目になっていて、ウンザリしてきているという話が出てきているので、後藤さんが作り出した流れが、この問題の反対派内での、「世代間闘争」になってしまいやしないかという心配が、私の胸にはあるわけですよ。
―――――
そうですね、確かに私にもそのような危惧があります。ただだからこそ、私の言っていることが単なる世代間闘争ではなく、あくまでも若者論における思想や科学のあり方の問題であるということを(こういう表現は少々難ですが)理解させる、という努力が私には必要なのかもしれません(少なくとも現在の論壇状況では、そういう問いかけですらも単なる世代間闘争に貶められてしまう危険性は十分にあり得ますので)。
最近のコメント