カテゴリー「311.3 ナショナリズム」の記事

2007年10月14日 (日)

「御巣鷹の声」と「靖国の英霊」

 以前本家のブログで批判した、河野正一郎、常井健一、福井洋平「劣化する日本に響く御巣鷹の声を聴け」(「AERA」2007年8月13日・20日合併号、pp.16-21)について、その執筆者の一人である福井洋平が、「AERA」の公式ブログで取材日記を公表している(最初のものは、もう1ヶ月以上過ぎてしまったけれど)。

 これはシリーズもので数回連載されているのだけれど、これを読んで、なぜあの書き出しから、典型的な「若者論」になってしまったのか理解できた…わけはない。むしろ余計わからなくなってしまった。何であんな風になったのか。「AERA」編集部に再び着任してから、「AERA」で通俗的青少年言説を書きまくっている河野正一郎(中条省平や寺沢宏次や三浦展に俗流若者論させたのもみんなこの人です)の想像力が暴走してしまったのか。

 この記事に一つもの申したいことがある。それは、この記事における「御巣鷹の声」が、保守論壇における「靖国の英霊」と全く同じ役割を負わされていることだ。

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 だが八木(筆者注:八木秀次『国民の思想』)の場合、死者は、彼が想定する「あるべき姿」を忘れているときにのみ現れる。死者は、八木が欲する「日本」の「あるべき姿」へ他の人々を誘導するために「召喚」されている。それが「生者の倣慢な寡頭政治」と同質でない保証がどこにあろうか。結局、八木の念頭にあるのは、「私たちの国の死者」のみであり、「私たちを見守っている」ような、彼にとって、あるいは彼が考える「国」にとって都合のよい死者のことなのである。(略)

 八木の「死者の民主主義」にそうした体制のマイノリティあるいは体制外の死者の声を汲み上げようとする姿勢は見られない。むしろ、積極的にそうした声を祓い清め圧殺する神官としての振舞いが濃厚である。ギリシア語でいうカタルシス=浄化・供犠・奉献の行為に傾いている。(藤本一勇『批判感覚の再生』白澤社、pp.48)

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 この部分は「靖国の英霊」言説に対する批判として書かれたものだけれども、この図式は、河野、常井、福井らによる「御巣鷹の声」言説にも共通している。すなわち、河野らは、1985(昭和60)年に怒ったことを(ほとんどなんのつながりもなく)次々と列挙して、この年から日本人は「劣化」した、と嘆くわけだけれども、そんな言説は、「靖国の英霊」言説に見られるような、敗戦によって日本人の精神的な連続性が断たれて、日本人が「劣化」した、という言説と何も変わらない。

 そういうことを編集部の中で指摘しなかった人がいなかったのだろうか(私も指摘できなかったけど…)。こういう視点から見てみれば、まあ「AERA」の青少年言説がいかに「劣化」しているか、ということを考えることができそうだ(笑)。

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