カテゴリー「361.16 社会学方法論」の記事

2009年2月10日 (火)

あまりに勘違いに満ちた…

 さて、以前に予告していた通り、鈴木謙介『チャーリー式100Q/100A』(ランダムハウス講談社。以下、断りがないならここからの引用)におけるニセ科学批判批判(Q80)について論評してみるよ…と思ったのだが、改めて読んでみると、どうも勘違いに満ちているというか、大多数のニセ科学批判言説とここで採り上げる鈴木(+荻上チキ)の議論がかみ合わない気がするのである(蛇足だけど、他の「質問」が概ね3~4ページくらいで終わっているのに対し、なぜかこの「質問」だけ5ページもスペースが費やされている)。なんというか、彼らの脳内で「ニセ科学批判者」のイメージをでっち上げ(ちなみにモデルはほぼ確実に私だろう)、具体的な言及を避けて、そのイメージに対して攻撃を仕掛けている感じがする。

 ま、この「質問者」(24歳男性という設定。ついでに宮城県在住、大学院生とか書いてくれれば完璧なのに)の台詞からして、

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 こんなのがあるから日本はダメになってしまうんだ!本当にこの国はまっとうな近代社会なの?(p.245)

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 などと書いてあるのが駄目。第一、そういう風に考えている人っているのかしらね。

 それはさておき。《菊池誠さんのような人が批判しているニセ科学》を《明らかにニセ科学なケース》であると述べているけれども、菊池(ほかニセ科学批判者)が批判しているのは別にそういったケースばかりでもないだろう。だが問題はここから。

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 ゲーム脳だってそう。「肉ばかり食べていたらダメ」とか「ゲームのやりすぎはダメ」っていうのは、科学的な問題じゃないでしょう。(pp.246)

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 ハイその通りではあります。しかし、ゲーム脳論批判において外せない論点としてあるのは、そのような《ゲームのやりすぎはダメ》という道徳律を、「ゲーム脳」の如きニセ科学で正当化することの問題である。これは「水からの伝言」論も同じで、「きれいな言葉遣いを心がけましょう」などといった道徳律の正当性を「水」に仮託することの問題点についても、採り上げられているはずである。

 そういう指摘を無視して、《どこまでをニセ科学と捉えるかという話をすると、科学論の話になるよね》(p.246)と軽々しく言わないでいただきたい。

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 質問者とはおそらく、話が逆なんだ。「世の中合理的にいくはずなのに、邪魔してるニセ科学のせいでうまくいかない」んじゃない。私たちは、「非合理的なもの」を世の中の中心からどんどん切り離してきた。(p.246)

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 この点はよく誤解される(というか向こうが勝手に脳内で誤解している)ことなのだが、ニセ科学批判論者で《世の中合理的にいくはずなのに、邪魔してるニセ科学のせいでうまくいかない》などと考えている人はどれだけいるのだろう。少なくとも個別の非合理な議論に対する批判はいくらかあれど、非合理的なものすべてを呪詛しているような言説を展開している人はほとんどいない。

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 だから、なぜニセ科学が出てくるかって聞かれたら、「私たちの社会が合理的に運営されている近代社会だからです」としか言いようがないんだ。(p.247)

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 この点も、ニセ科学批判者が考えるような原因論とかなり違っているように見える。少なくとも我々の(?)理解では、ある種のニセ科学がはやってしまう理由は概ねこれくらいに収束されるのではないかと思う。

 第一に、特定のイデオロギー的性向に対し、それを「正当化」してくれるものとしてニセ科学が流行るというもの。例えば脳の重さに基づく民族の優位性の主張とかがそれにあたる。第二に、一般の科学が曖昧な答えしか提示しないのに対し、ニセ科学の多くは明確な「答え」を出してくれる故に流行るというもの。怪しげな健康情報なんか典型で、それの戯画化に成功したのがMOSAIC.WAVの「ギリギリ科学少女ふぉるしぃ」である(笑)。そしてこのあたりの「解決」が困難であるのはむしろニセ科学批判論者のほうが肌で感じていることなのではないかね。

 しかもp.247では荻上(?)がいきなりこんなことを言い出す。

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――「メディアリテラシー弱者叩き」「ニセ科学叩き」をしている人は、必ずしもそれが「間違っているから」叩くわけではないですよね。合理性同士の衝突に、根拠を与えるために利用されている部分もある。どうして私たちは、他人の合理性にまで口を出すのでしょう。(p.247)

―――――

 いや、だから、多くのニセ科学批判者は他人の合理性に口を出そうとはしていないと思う。それになんで唐突に《メディアリテラシー弱者叩き》なんて言葉が出てきたのかわからん。多くのニセ科学批判者は、たといニセ科学を批判しても、それを信奉する人を嘲笑するなんてしないだろう。《必ずしもそれが「間違っているから」叩くわけではないですよね》などと言うのであれば、まずどのような状況でそういうことが起こっているのか示すべき。それでは単なる嘲笑となんら変わりない。

 また荻上(?)の発言。

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 ――「科学」についていえば、(略)たとえば「水伝」については科学的に「反証」は可能ですよね。だとすれば「ニセ科学」というレッテル貼りだけではない検証が求められる。でも、そういう検証にコミットするよりも、多くの場合は「プギャー」と嗤いたいだけ、バッシングが先鋭化する人もいます。(p.248)

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 これを受けて鈴木は言う。

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 一般に「ニセ科学批判」が問題になるのは、そうでない人(引用者注:専門家でない人)による場外乱闘でしょ。(略)「科学的知識」を基にしたそうした振る舞いは、あくまで「政治過程のコミュニケーション」だから。(略)

 でもあるとすれば、「プギャー」という行為の先に何を求めるかをはっきりするところからだよね。その批判に依って、相手を改心させたいのか、それは無視して動員したいのか、あるいはもっと狭い身内だけで喜びたいのか、相手を深いにさせて楽しみたいのか。改心させたいなら、相手を怒らせてもしょうがない。説得しつつ、動員をやっていくのであれば、ユーモアや滑稽さを提示しつつ、少しずつ外堀を埋めていくという狡猾さが必要。(pp.248-249)

―――――

 「注文」つけられました。しかし、これを読む限りでは、ずいぶん誤解が多いし、特に後段はニセ科学批判を莫迦にしている印象すら受ける。少なくともここまでの論旨の展開を見るのであれば、《「ニセ科学批判」が問題になるのは、そうでない人による場外乱闘》という物言いは、ニセ科学批判を意図的に《合理性同士の衝突》みたいなものに矮小化させている行為にしか見えない。

 第一、鈴木らがニセ科学批判に《政治過程のコミュニケーション》=《「プギャー」という行為》程度の認識しか持っていないのであれば、なぜニセ科学が批判されるのかについて思慮が浅くなるのは当然だし、またそれが個々のニセ科学について違ってくることもわからないと思う。そもそも、(《政治過程のコミュニケーション》=《「プギャー」という行為》ではない)ニセ科学批判は専門家にしかできないという認識それ自体が間違いだろう。

 ちなみに《たとえば「水伝」については科学的に「反証」は可能ですよね。だとすれば「ニセ科学」というレッテル貼りだけではない検証が求められる》などと軽々しく述べられているが、少なくとも「水伝」については別に実験しなくとも今までの経験で概ね間違いであると見なせるのは、田崎晴明の「「水からの伝言」を信じないでください」の中で述べられている通りである。

 ここで採り上げた部分以外は、概ねニセ科学批判者が見たら「そんなの知ってるよ」と言うことばかりなのではないかと思う。政策や教育に関する議論とコミュニケーションに関する議論を分けよ、というのは概ねわかりきっている(しかし、単なるコミュニケーションのツールに過ぎないものが、血液型ハラスメントなどの社会的に有害な行為につながったりという例に見られるとおり、政策論とコミュニケーション論は明確に分けられないとも思う)だろう。

 結局鈴木らのニセ科学批判批判が的外れに見えるのは、ニセ科学批判の現状も、またその周辺や根本に位置する科学論、科学哲学への言及も薄いまま、ニセ科学批判論者の(鈴木らが考えるところの)社会学の言葉を使ってメタに立ったつもりになっているからだろう。結局「プギャー」と言いたいのは鈴木らのほうなのではないか、という疑念が私からは消えないのである。

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2009年2月 4日 (水)

2000年代の若者論再考のためのアイデアスケッチ

 『おまえが若者を語るな!』(以下『語るな』)では若年層の「理解者」や、あるいは子供の「心」や「実存」の「翻訳者」として振る舞った人たちが、結局のところ若年層に対する誤解を広めた(そして彼らはそのように語られた若年層像を都合よく利用した)ことを述べたが、それをより深く検討するためには、(それこそ私が『語るな』でしきりに用いた)「宮台学派」みたいな特定の論者の影響を強調するような言葉ではなく、もう少し体系的に語れる言葉(現状では「日本型ポストモダン」くらいしか思いつかないけど)を使って、それらの論者が果たした役割を整理するという仕事が必要なのではないかと思う。

 とりあえず彼らの最近の社会や若年層に対する考え方を整理すると、
 ・今の若年層は、郊外化や情報化、消費社会化による実存の空洞化で個々人が孤立している状態。故に若年層は地元志向になったり、ナショナリズムに走ったりする(その逆で、第1文で示した状況がある故に、現代の若年層は国家や社会とのつながりを失った故に簡単に犯罪を起こすようになったりするというものもある)。
 ・人々は「大きな物語」を見失い、自分のまわりの「小さな物語」に拘泥するようになった。
 ・今の時代的状況として、「事実」とは個々人が選び取ったものでしかありえない。

 ということになる。そこから生み出される若者論の傾向として、
 ・(1番目の理由故に)今の子供たちは「教育」が困難になっており、それが若い大人世代まで広がっている。故に今の「教育」の課題とはそのような「消費社会化」した、もしくは「ポストモダン」の子供をいかに「近代化」させるかということである。(諏訪哲二、内田樹など。文化保守的傾向?蛇足だけど、少なくともここ5年くらいの諏訪って本当に同じことしか言わないよね)
 ・愛国心、もしくは国家への帰依の主張(藤本一勇『批判感覚の再生』言うところの「ポストモダン保守」的傾向)
 ・情報化社会以降の若年層に対する宿命論の押しつけ(鈴木謙介『ウェブ社会の思想 』)
 ・「実存」を集めることにより若年層を巡る問題を解決しようとする態度(鈴木謙介『サブカル・ニッポンの新自由主義』)
 ・決断主義の扇動(宇野常寛『ゼロ年代の想像力』)
 ・(1番目の理由故に)若年層の「分断」や「無関心」などを過剰に危険視する態度(疑問:運動に参加しない日本の若年層は本当に「民度」が低いのか?外国の事情と我が国の事情の比較は行ったのか?その過程を無視して日本の若年層は政治に無関心と批判することは許されないと思う)

 というものが挙げられる。それらを検討する上でとらえるべき視点としては、
 ・上記の言説の実証性の欠如(『語るな』の視点)
 ・上記の言説が生み出す世代論の不毛(同上)
 ・上記の言説が、ちょうどそれらの言説で語られる若年層に対し、自らの実存に関する所与の条件として受容されることの問題(ゼロ年代のアカデミズムなど)
 ・「ゼロ年代をサヴァイヴ」なるお題目の問い直し(どうせ中身なんてないんだろうけど)
 ・90年代以降の若者論、社会論の政治経済学的分析
 ・実効性のある議論や政策論をいかに語るか
 ・上記の言説が生み出される上での、主としてルーマンやギデンズの議論の我が国における受容
 ・付随する問題としての専門知や統計の軽視

 1. 「水紋鏡~呪詛粘着倶楽部~」(「半径3m以内に大切なものはぜんぶある。」)によれば、東浩紀は「潮」H20.10号でこういうことを述べていたそうな。経済学者は怒っていいと思うよ。

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 近代経済学のロジックは、出発点がバラバラな個人だから、共感の効果について語るのがむずかしい。社会がバラバラになった時代には適合的なんでしょうけど。

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 2. 鈴木謙介『チャーリー式100Q/100A』の第80問「ニセ科学は許さん!」――どう見てもモデルは俺です、本当にありがとうございました。なるほど、この御仁に私のような者はこう見えているのだな、と。しかも、仮に私がモデルでないとしても、ニセ科学批判をかなり誤解している節がある。そのうち書く。

 ・最後に…超素朴な疑問:なんで「2000年代」ではなく「ゼロ年代」なの?

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2008年5月11日 (日)

コメントへの返信(H20.5.11)

 昨日のエントリーである「さすがにこれには腹が立った」に対し、「on the ground」のきはむ様よりコメントをいただきました。それについてお答えしようと思います。

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次に、丸山や吉本を批判する「義務」などを負わせてなどいません。私が書いたのはただの願望であって、今やこの調子で舌鋒鋭く戦後思想を斬る後藤さんの文章が読みたくなってきたというだけのことです。そうすることに必然性があるなどとは主張していません。

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 少なくとも《思想」とか「批評」とか、ほんとまじうざいもんねー。爽快、爽快》などと揶揄されているものが《願望》のようには、私には思えないのですが。私の読解力か想像力が低いためなのかもしれませんが、あのような書き方では単に莫迦にしているようにしか聞こえません。

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それから、いわゆる「思想」についてですが、これはむしろお聞きしたい。後藤さんが東など(宮台はここでは措いておきましょう)を批判するなら、彼らと(大雑把な括りになりますが)「方法」としては大差無い仕方を採っている萱野や仲正を評価するのは何故なのか。後藤さんは「方法」こそを問題にしているのだと言っているのだけれども、実際には「内容」によって色分けが為されているのではないか。

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 東と萱野や仲正が「方法」において大差ないと私は思っていません。そもそも萱野や仲正などは、東の如く(例えば「ギートステイト」などに見られるように)、インターネットやそれに関するところのテクノロジーの進展により、特に若い世代においてどのような心性の変化が生じるか、あるいは現在生じているか、ということから今の社会を覆う「現実」、あるいはこれからの「未来」について語る(少なくとも「ギートステイト」や「動物化するポストモダン」などはそういった内容ではないでしょうか)ということはしていないように思えます。また、例えば萱野の国家や暴力に関する伝統的な学説や歴史などの分析から現代の国家などを読み解くというやり方(『国家とはなにか』や『カネと暴力の系譜学』あたりがそうですね)や、あるいは仲正の現代思想そのものや、あるいはその受容をめぐる流れから現在を読み解くやり方(時論や左翼批判なども含めて)も、東のやり方とは一線を画しているはずです。むしろ東と仲正や萱野の方法論的な共通点を探す方が難しいような気さえします。

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挑発的な言い方を重ねることになってしまいますが、後藤さんの「方法」というのは要するに、後藤さんの中にある何らかの基準によって若者の「敵」ないし「敵」になり得ると判断された言説に対して、定量的な実証がされていないというほぼ一点を衝いて攻撃を加えるもので、反面、「味方」にし得る言説に対しては「お目こぼし」があるのではないか。いや、これは具体的な箇所を挙げて述べるべきことですので、批判まで行かない疑問として受け取って欲しいのですが。

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 まあ、私にそういう側面がないとは言い切れないのでこれについて反論するのは難しいのですが、とりあえず《定量的な実証がされていないというほぼ一点を衝いて攻撃を加える》というのは間違いです。定量的に実証したと自称している言説について理論的な視点で反論を加えることも多いですし(それこそ本家でやっている「統計学の常識やってTRY」シリーズですね)、基本的な統計や歴史の間違いを指摘することもありますので、そのような物言いはないと思います。それともう一つ、きはむ様には、宮台が石原慎太郎などという極めてわかりやすい権力者とつるんでいることについてはどう思っているのかということを、ぜひお聞きしたいですね。

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こうした後藤さんの問題意識は理解できるのですが、そこで東を宮台と並列して「若者論のレジーム」を作ったと言うのは、明らかに的外れです。そもそも「動物化」論は若者論ではありませんから。

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 《そもそも「動物化」論は若者論ではありません》というのは、少なくとも私からしてみれば誤読を含んでいる物言いだと思います。というのも「動物化」論というのは、出発点に関しては明らかに若者論を意識しているからです。そもそも東は『動物化するポストモダン』(講談社現代新書。以下「動ポモ」)p.14においてこのように語っています。

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 たとえば、コミックやアニメ、コンピュータは世代を越えて強い関心を集めているが、第一世代でSFやB級映画に向けられていた関心は、第三世代ではおおむねミステリやPCゲームへの関心に置き換えられている。また、第三世代は一〇代半ばにインターネットの普及を迎えており、その結果、彼らの同人活動の中心はウェブサイトに、イラストの中心はCGに変わり、先行世代とは流通経路も表現形式も大きく変わっている。本書の議論は、そのなかで、どちらかといえば第三世代の新しい動きに焦点をあてて組み立てられている。

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 このような言明の他、東が同書p.132あたりで宮台の『制服少女たちの選択』を引いて、オタクの消費行動と、この本において宮台が示した女子高生の消費行動には「動物化」という共通性があるという趣旨のことを述べていたり、東が「近代的な人間」と「ポストモダンのオタク」(「動ポモ」pp.136-137の周辺。「動ポモ」を読んでみる限りでは、このように名指しされる対象は東の言うところの「第三世代」と思われます)の人間性の違いについて述べていたりと、かなり若者論を意識しているように見受けられます。このような反論に関しては、先の引用文の後に続くこの部分に関しても同様です。

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私も宮台が真っ当な水準の社会学を実践しているとは思っていませんので、彼に対する方法論的な論駁には賛同し易い。後藤さんの宮台に対する批判において私が違和感を覚えるのはむしろ、彼の問題意識や理論的前提を考慮しなさすぎではないか、ということです(これは、後藤さんには歴史観が足りないのではないかという疑問と繋がっています)。これに対して、東批判の方は、賛同できる部分が無い。私には方法論的な問題があるようには思えないからです。「荒唐無稽」と評される程の致命的な問題があるのなら、東と度々対話の機会を持っている萱野や、著書の中で東の「動物化」論に度々言及している仲正が、なぜその点を論難しないのか。

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 とりあえず《彼の問題意識や理論的前提を考慮しなさすぎではないか》という批判につきましては、むしろ宮台の《問題意識や理論的前提》を考慮したからと言って、宮台に対する批判を再考すべきとは私は思いません。なぜなら宮台がほとんど自前の《問題意識や理論的前提》をいいように換骨奪胎して若者に対する一方的なイメージ(それがポジティブなものであれネガティブなものであれ)を、さも若者の代弁者であるかの如く流布してきたことこそが問題であると私は考えているからです。そしてそうした行為の行き着く先に、近年の宮台における権力者へのすり寄りや、あるいは恋愛論(という名の的外れなオタクバッシング)などがあるとすればなおさらです。

 東への批判に対する論難に関しましても、きはむ様のこの文章を純粋に読むだけでは、仲正や萱野が東を批判しないから後藤は間違っている、という論難にしか聞こえません。あと、どうもきはむ様の私の東批判に対する反応を見る限りでは、どうも私が東の言説を「荒唐無稽」と表現したこと「のみ」を非難しているような気がします。

 さて、きはむ様が私の書いた文章、ないし座談会に対して言及したものについては、次のものが挙げられると思います。
 「「俗流若者論」批判は切れすぎる刀か」(H19.6.26)
 「幾つかの局地戦と「大局」」(H19.10.9)
 「後藤さんの宮台批判について」(H20.1.19)

 いずれも批判的言及なのですが、種々の論考の内容についてある程度踏み込んで批判しているのは、少なくとも私の読む限りでは一つ目の記事くらいではないかと思われます。それ以外については、いずれも私の論考の内容をさして吟味しないまま、私の「態度」だけについてひたすら愚痴っているようなだけ、という印象を受けます。その様な態度の不毛さに関しましては、特に後ろの二つの記事において「冬枯れの街」の管理人の方が述べておられますので、特に付け加えることはありません。

 とりわけ「後藤さんの宮台批判について」のコメント欄において、きはむ様は私についてこのように評しておられます。

―――――

でも、こういった指摘は後藤さんには全く必要でないかもしれません。どうもここまでの私の感触だと、後藤さんは科学的であるよりも、ずっと政治的であろうとする人のようです。その選択そのものに難癖つけることはできませんから、この問題はもう後藤さん宛てではない形で書いた方がいいかなという気がしてきました。個人的に。

―――――

 《後藤さんは科学的であるよりも、ずっと政治的であろうとする人のようです》と私のことを評されるきはむ様は、おそらく自身の方法論は私よりも科学的である、と思われているようですね(ところでこの文章における「政治的」とはどういった意味なのでしょうか。ちなみに私は『「ニート」って言うな!』の執筆過程で、この言葉を多用したところ、原稿を取りまとめていた本田由紀に散々だめ出しを食らったのですが)。そういった人が科学的な認識に基づく議論に対して、《歴史を遡って、丸山だろうが吉本だろうが、ロクなデータも示さずに日本や社会を語ってきた輩を縦横無尽に斬って斬って斬りまくって欲しいものです》とか、あるいは《「データ萌え」?「統計萌え」?》とか論難できるのでしょうか。私には不思議に思えてなりません。あと、

―――――

結局、後藤さんが宮台に引き続いて東を批判したのは、影響力のある(ように見える)論者を叩くことそのものが主目的だったのではないか。それは、言説の「効果」という面だけでなく、それによって一種のカタルシスを得るという意味でね(「陶酔」と書いたのはこういう意味です―何しろ宮台「葬送」論文公表の際に随分盛り上がっていらっしゃったので―)。意地の悪い見方ですが、どうも私はこの疑念を払拭できない。解り易く言うとカウンター言説の「ネタ」化への危惧ですか。

―――――

 ということに関しましても、私のブログの内容などに触れないまま難癖をつけているだけですね。少なくとも「現代の理論」については、私がなぜ宮台を批判するのかと言うことについて論理立てて説明しているはずですし、カタルシスを得るのが主目的ならば、宮台や東の言説を徹底的に叩けばいいわけだし、わざわざ速水由紀子などの通俗的な「格差」論に絡めて批判するようなことはしないでしょう。

 ただし、私がここまできはむ様のコメントについて返信したことは、あくまでも部分的なことであり、全体に関する疑念については、つとに赤木智弘様とTAKESAN様、特にTAKESAN様が指摘されているとおりです。とりわけTAKESAN様の以下のような質問――

―――――

えっと、ではきはむさんは、

 >「データ萌え」?「統計萌え」?

などという表現を、いかなる認識に基づいて書かれたのでしょうか。さっぱり理解出来ません。定量的な評価を軽んじていないという言と、この皮肉の表現は、とても整合するようには思えないのですけれど。

―――――

 に対する答えとして、きはむ様は以下のように応えられています。

―――――

ご指摘の表現は、稲葉(振一郎)さんがポストモダン左翼に向けて言い放った「他者萌え」という言葉を踏まえています。主に様々な場面でいわゆるマイノリティの存在ばかりをありがたがるような風潮に対して浴びせられたものですが、私自身はこの発言を行ったからといって稲葉さんが「他者」を軽視しているとは考えていませんので、言説上の整合性が欠けているとは認識しておりません。

―――――

 少なくとも稲葉がポストモダン左翼に対して「他者萌え」と言うのと、きはむ様が私に対して《「データ萌え」?「統計萌え」?》と言うときの「萌え」なる表現の使い方は明らかに違うものではないかと思われます。このような答え方では、稲葉がこういっているんだから、その概念を転用している自分は間違っていない、というもの以上の答えにはなっていないと思います。ここで問われているのは、稲葉の言うところのポストモダン左翼が「他者」に対してとっている行動と、私がデータや統計に対してとっている行動が正しく対応しているか、ということではないでしょうか。いずれにせよ、萱野や仲正が東を批判していないから後藤は間違っているとか、あるいは稲葉がこういっているから自分の罵倒は正しいのだ、という態度では、まさにコメント欄でワタリ様がおっしゃっていた《大先生幻想(ブルデュー、「教師と学生の「コミュニケーション」)》に他ならないのではないでしょうか。

―――――

 きはむ様以外にコメントをくださった方に対しても、この場を借りてご返信させていただきます。

>古鳥羽護様

 少なくとも永山、昼間『マンガ論争勃発 2007-2008』での東の発言には、殊更おかしかったりする箇所はないと私は思います。ただ、東の近年のプロジェクトである「ギートステイト」や、あるいはかつて東などを中心に執り行われていた国際大学のグローバル・コミュニケーション・センター(GLOCOM)における議事録を見る限りでは、東の国家観やテクノロジーへの認識について、誤解というか少々危険なところがあるのではないか、という疑念を私が持っているのも事実です。ですので、東に対しては批判的な態度をとらざるを得ない、というのが現状です。

―――――

ただ問題は、本質的に純粋科学になりえない分野の専門家の見解に対して、どの様に科学的な批判を加えていくべきかという部分だと思います。

私が個人的にお世話になったから言うわけではありませんが、例えば精神分析学の専門家である斎藤環さんだとかをどう扱うのか? 彼が「思春期ポストモダン」の中で、俗流若者論に対抗する為にとして、若者の「無気力性」と「凶暴性」が一緒くたに論じられている事を批判する為に、「引きこもり系」と「自分探し系」の2つのモードを若者たちが行き来するという説を書いていますが、これとて、彼が臨床経験から分析した説に過ぎないわけで、どうしても「疑似科学」的な部分を排除できない精神分析学の限界事態を判った上で書いておられるように、私には見えるわけです。

なので、やろうと思えば、誰に対しても「若者の理解者のふりをして、若者を叩いている」と斬りかかれてしまうわけですが、おそらく、後藤さんが斬りかかっているのは、自分の手法の限界について述べずに、「私は若者の理解者であり、私の若者論は科学的かつ論理的であり、俗流若者論であるはずが無い。」と言って憚らない相手なのではないかと思います。

―――――

 この点につきましては私も同意しますし、難儀な問題だとも思います。ただ《おそらく、後藤さんが斬りかかっているのは、自分の手法の限界について述べずに、「私は若者の理解者であり、私の若者論は科学的かつ論理的であり、俗流若者論であるはずが無い。」と言って憚らない相手なのではないかと思います》というご指摘にあるとおり、若者論や若者についての「現代的」と言われている現象を述べることで図に乗って、国家や社会、あるいは未来のあり方についてあることないことを饒舌に語っている人たち(私はこのような人については、特に宮台を意識しています)については、やはり手厳しい批判を与えていく必要はあると思います。

―――――

ただ、それでも本音を言えば、「児ポ法改定問題」について、反対派側の年長の論客たちは、既に同じ事を何度も言わされる破目になっていて、ウンザリしてきているという話が出てきているので、後藤さんが作り出した流れが、この問題の反対派内での、「世代間闘争」になってしまいやしないかという心配が、私の胸にはあるわけですよ。

―――――

 そうですね、確かに私にもそのような危惧があります。ただだからこそ、私の言っていることが単なる世代間闘争ではなく、あくまでも若者論における思想や科学のあり方の問題であるということを(こういう表現は少々難ですが)理解させる、という努力が私には必要なのかもしれません(少なくとも現在の論壇状況では、そういう問いかけですらも単なる世代間闘争に貶められてしまう危険性は十分にあり得ますので)。

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2008年5月10日 (土)

さすがにこれには腹が立った

 『「若者論」を疑え!』や、「m9」の論考などについて、いろいろとご感想をくださった皆様、誠にありがとうございました。自分に対する称賛や批判に対して突っ込みを入れるのは余り乗り気ではないのですが、今後の私の活動方針などを考える上で、大いに参考にさせていただきますので、書評など遠慮なさらずにお願いします。

 だがさすがにこれには腹が立った。さすがにここまで莫迦にされると言及せざるを得ない。「on the ground」の「田村・東・稲葉、徒然に」という記事。元々この人は、私が宮台真司や東浩紀などを批判的に取り扱っていること「それ自体」に対していろいろとけちをつけたがるようだが、今回のは特に酷い。

―――――

 凄いね、『動物化するポストモダン』=「荒唐無稽」だって。宮台が済んだから、次は東だ、と。局所的「ビッグネーム」を叩くほどに、陶酔の度、ますます深まれり。他方で、これも立ち読みの限りでは、新書の新著は高く評価できそうなのですが。こうなったらもう後藤さんには、歴史を遡って、丸山だろうが吉本だろうが、ロクなデータも示さずに日本や社会を語ってきた輩を縦横無尽に斬って斬って斬りまくって欲しいものです。「思想」とか「批評」とか、ほんとまじうざいもんねー。爽快、爽快。

―――――

 本当にこの書き手は私の論考や本を読んだのだろうか。第一、基本的な誤りだけを指摘したとしても、私は「m9」の論考においては宮台も批判しているので宮台への批判が「済んだ」なんてことは決してない。さらにいうならば、私があの論考で批判の主眼においたのは、速水由紀子や渋井哲也、三浦宏文などの、昨今の「格差」の原因を若年層の心性の変化に求めた議論に対してであり、宮台や東などはそのような言説の形成に影響を与えた存在(「m9」の論考のタイトル風にいえば「元凶」)として採り上げたに過ぎない。次に《「思想」とか「批評」とか、ほんとまじうざいもんねー》とかなんとか、私の気持ちを「代弁」してくれているが、過去の書評を見れば、例えば私が萱野稔人や仲正昌樹などの、まさに「思想」を職業にしている人たちの言説に対して高く評価しているのはわかるはずなのだが。大体なんで宮台とか東などを批判しただけで、そういう風ないわれ方をされたり、あるいは丸山真男や吉本隆明まで批判する義務を負わせられなければならないんだろうか。

 私が宮台や東などの批判的に言及する理由は、彼らの論説によって形作られた若者論のレジームが、若年層をめぐる問題に対して定量的、あるいは科学的な視点でものを見るという姿勢をかすませ、青少年問題を疑似問題化したという疑念があるからである。こんなことは「現代の理論」や「m9」(特に私は後者の論考で、そのことを端的に示したはずなのであるが…)を読んでいれば(読んでいれば!)わかるはずだと思う。

 そういうことを(意図的かどうかは知らないが)無視して、私が「思想」全般に対して煙たがっているように書いてしまう気が知れない。宮台や東こそが現代思想の最先端であり、代表格である、という風にこの書き手が考えているのではなさそうだが。

 ところで先の引用文には注釈がつけられているのだが、腹立たしいを通り越して、むしろおかしくさえある。

―――――

*2:「データ萌え」?「統計萌え」?

―――――

 少なくともこの人がエビデンスに基づく議論、あるいはそれにできるだけ近づけようとする態度に対して莫迦にした態度をとっていることが見え隠れするわけだが、まあ先の引用文を含めて、こういう風に人を莫迦にした態度をとるような人に《立ち読みの限りでは、新書の新著は高く評価できそうなのですが》などと言われたくない。

 とはいえ、なんで宮台とかを批判しただけで、このように社会学や社会思想全体を毀損したみたいな言われ方をしなければならないのだろう(第一ここ数年の、特に宮台の振る舞いを見ていれば、宮台こそが現代思想を毀損しているようにしか思えないんですが)。これはこれで、私にとって新たな思想的課題が見えてきた気がする。まあ、このような課題は「現代の理論」に採用された論考を書いていたときから持っていたし、今年の夏頃に角川書店から出る新刊(同人誌などで何回か予告しておりましたが、先月末に初稿が上がり、現在鋭意校正中です)で結構突っ込んで解き明かすつもり。同書では宮台などに対してもっと突っ込んで批判しているし、宮台、東およびその周辺以外の現代思想や哲学などの議論も十分に参考にしていますよ!

 〈補遺〉
 相手先になかなかトラックバックが送れない。なんでだろう。

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2007年11月18日 (日)

恥を知れ三浦展

世代論:ケイタイ格差、キャバクラ自由主義な「ジェネレーションZ」とは!?(毎日新聞)

 ああ、三浦展の如き、キーワードやスローガンばかりで虚飾して、実際にはほとんど何も語っていないような、あるいはヘイトスピーチやレイシズム(人種差別)と言っても仕方のないような議論によって若年層を「理解」したつもりになる莫迦が、またぞろ増えるんだろうな。

 この記事を支える三浦の世代概念については、既に「三浦展がまたバカなことをやらかすようです」という記事で述べたが、こちらの記事も、いかんせん突っ込みどころが満載。統計の非常識を地でいっている。

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 まず三浦さんが指摘するのは「ケイタイ格差」。PC回答者と携帯回答者の回答を比べると、生活水準を「上流」と答えた人は、PC回答者の方が携帯回答者より10ポイント以上多い結果となった。また、携帯回答者には「勉強嫌い」が多いが、PC回答者よりも「今後の生活に対する希望」を持っていることが分かった。この他にも、携帯利用者とPC利用者の間にさまざまな「格差」があるという。

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 まず《携帯回答者》と《PC回答者》の割合がどれほどであったかということと、また、この中でPCでも携帯電話でもインターネットを利用している層及び利用していない層を計上しているのか、考慮する必要がある。ついでに言うと三浦の言うところの「階層」なんてものは「意識」でしかないのだから、実際の階層に直接当てはめるのは無理、無駄というもの。

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 次に、性については自由になっているが、なりたい職業と実際になれる職業のギャップに悩んでいる「キャバクラ自由主義」。「なりたい職業」を聞いたところ、1位ミュージシャン、2位音楽関係、3位雑貨屋……と「いかにも夢見がちな職業」(三浦さん)が続き、なんと11位にはキャバクラ嬢・ホステスがランクイン(21.8%)。ちなみに公務員は16位で17.9%だった。

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 脳天が石巻市まで飛んだ。ここ、ギャグで言っているのですか?少なくともこの結果だけでは《キャバクラ自由主義》なんて概念を生み出すことはできない。第一に、《「なりたい職業」を聞いたところ、1位ミュージシャン、2位音楽関係、3位雑貨屋……と「いかにも夢見がちな職業」(三浦さん)が続き、なんと11位にはキャバクラ嬢・ホステスがランクイン(21.8%)》と書いてあるだけに、たかが11位でしかないのになんで《キャバクラ自由主義》なんて言葉が出てくるんだろうか。所詮はヴィヴィッドな言葉で若年層を「わかったつもり」にさせる(実際にはヘイトスピーチやレイシズムを煽っているしかないのだが)三浦クオリティが炸裂したと言うことだろう。第二に、《キャバクラ嬢・ホステス》などという表現に見られるように、おそらくこの結果は女性のみを抽出している可能性が高い。

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 さらにZ世代の特徴は「日本が好き・地元が好き」。この世代では「よさこい」や「ソーラン節」を踊ったことのある人が23.5%、女子高生の携帯回答者では5割以上に上ることから、「よさこいナショナリズム」と命名した。「よさこい」だけでなく、浴衣や甚平、和柄プリントの小物など「和物」に対する抵抗がなく、音楽ジャンルでは8割が「Jポップ」を好む。好きな映画も、女子の半数が「洋画」より「邦画」を選んでいるのが特徴だ。

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 石巻から脳天が帰ってきたと思ったら、今度はこの下りで山形市まで飛んだ。《この世代では「よさこい」や「ソーラン節」を踊ったことのある人が23.5%、女子高生の携帯回答者では5割以上に上ることから、「よさこいナショナリズム」と命名した》なんて香山リカみたいなことを言っているんじゃない。それにしても、《この世代では「よさこい」や「ソーラン節」を踊ったことのある》という経験が何でナショナリズムと見なされねばならないのだ。それに、《音楽ジャンルでは8割が「Jポップ」を好む》まで問題視されているけれども、単に敷居が低いだけでは?ともかく、この程度で「ナショナリズム」を論じるなんて、三浦も俗流左翼に転落したと言うことか(今に始まったことじゃないけど)。

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 最後に、三浦さんは「バーチャル・スピリチュアリズム」を挙げた。「奇跡を信じる」人がPCで3割、携帯で7割に上り、携帯の女子の55%が「人間には前世がある」と信じている。また43%が、スピリチュアルカウンセラーの江原啓之さんを信じていた。

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 今日は脳天がよく飛ぶ。今度は福島市まで飛んだぞ。三浦には、是非とも、リチャード・ドーキンスの『神は妄想である』(早川書房)を是非読んで欲しい。それを読めば、いかに我が国が牧歌的なところで騒いでいるかと言うことがよくわかる。何せ、米国ではたくさんの人が奇跡だとかを信じているのみならず、宗教右翼によって進化論を否定し、創造論を広めるような動きがあるんだから。

 というか、この記事を見る限りでは、三浦は女子ばかり問題視しているように見えるな。男子はどうなのだろうか。とはいえ、三浦は若年層であれば女にも男にも偏向した視線を送っているのは、女性なら『「かまやつ女」の時代』(牧野出版)、男性なら『下流社会 第2章』(光文社新書)を読めば一目瞭然である。ついでにこの世代論については、やはり上の世代との比較が全くない。そういう点を知っているのかどうかはわからないけれども、下のような結論を出すことはできないはずなんだけど。

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 三浦さんは、「90年代のバブルの崩壊によって日本社会の価値観が大きくゆらぎ、震災、オウム、酒鬼薔薇事件(神戸児童連続殺傷事件)などショッキングな事件が相次いだ。あるいはお父さんの会社が倒産した経験があるなどして、90年代に物心がついたZ世代は、これまでの日本人とは同じものを信じることができないのではないか」と指摘している。

 ちなみに、「ジェネレーションZ」は、「ジェネレーションX」、「ジェネレーションY」に続く世代、ということで「Z」と名付けられたという。「Z」の次は何になるのか……。【米岡紘子】

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 はー、最後はこの手の世代論と終末論ですか。懲りないねえ。というか、今まで多くの論者が若年層について変に持ち上げたり、あるいはその反動で急に貶めたりして、若年層について科学的、実証的な検証が注目されないまま、変な「運動」かスローガンやキーワードで若年層を「わかったつもり」にさせて、誤った政策や言説ばかりがはびこるようになった。そういうところに対する反省が、全く感じられない(感じられなくて当然かもしれないけれども)。

 ついでに統計や通俗的な世代論が疑えない毎日の記者としての「米岡紘子」という名前は是非とも覚えておこう(いつまで覚えていられるかわからないけれども)。ついでに「女子リベ」と「冬枯れの街」にも報告しておこう(笑)。

 ついでにこんな記事もある。

世代論:あなたは「おやZ層」?「ちょいわるZ層」? ジェネレーションZ度チェック!

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 14項目の質問のうち、「はい」の数をチェックしてみて下さい。
 1.今年は浴衣を着た
 2.音楽ジャンルではJポップが1番好きだ
 3.将来はミュージシャンになりたい(なりたかった)
 4.自動車に関心はない
 5.地元が好きだ
 6.よさこい、ソーラン節を踊ったことがある
 7.デートは郊外のショッピングセンター
 8.人間は死んだら生まれ変わると信じている
 9.日本の文化は素晴らしいと思う
10.パルコよりイオンが好きだ
11.スタバよりミスドが好きだ
12.今後日本が良くなると思わない
13.こつこつ頑張るだけでは報われない社会だと思う
14.(女性の場合)がさつでおおざっぱだ

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 結果はリンク先の記事を読んで欲しいが、俺は本気で殺意を覚えたことを記しておかねばなるまい。

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2007年11月14日 (水)

「セカンドライフ」の現実と幻想

 「冬枯れの街」の「…いい、私が作る!これ以上ダメージ受けたくない。」で知ったのだが、野村総合研究所が、インターネット上のコミュニティである「セカンドライフ」についての調査結果を発表した。おもしろかったのでメモする。

 1. 「セカンドライフ」は日本に定着しているか?

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 NRI(筆者注:野村総研)は、日本在住のインターネット利用者約10万人に対して、「セカンドライフ」の利用経験などに関する事前調査を実施しました。その結果、「セカンドライフ」を「知っている」と答えた回答者は53.6%、「利用している(ログインしたことがある)」という回答者は2.4%でした。

 この2.4%の回答者の中から1,000人を無作為抽出して「セカンドライフ」利用について尋ねたところ、「面白かった。今後も継続的に利用したい」と感じている人は27.1%にとどまり、利用の定着までには至っていないと考えられます。
 (野村総合研究所「三次元仮想世界「セカンドライフ」の日米における利用実態を調査」。以下、特に断りがなければ引用は全てここから)

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 要するに、「セカンドライフ」に《「利用している(ログインしたことがある)」という回答者は2.4%》で、さらに《「面白かった。今後も継続的に利用したい」と感じている人は27.1%にとどま》っているということは、全体で「セカンドライフ」について《「面白かった。今後も継続的に利用したい」と感じている人》は0.024かける0.271=0.006504、つまり0.65パーセントに過ぎないということになる。

 2. 「セカンドライフ」はどのように利用されているか

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 米国の利用者が、「セカンドライフ」の魅力として挙げた上位3項目は「自分のアバターを作って着飾れること」「他の人とテキストチャットを楽しめること」「モノ(オブジェクトやスクリプト)を作れること」であり、米国では創造・所有やコミュニケーションの場として「セカンドライフ」を活用されている傾向がみられます。一方、日本の利用者は「企業の島や建物を見られること」「自分のアバターを作って着飾れること」「イベントやテーマパークなどで遊べること」が多く、米国の利用者と比べて「セカンドライフ」で得られる体験に魅力を感じていることが分かりました。

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 要するに日本人利用者は、米国人のように「セカンドライフ」を金儲けやクリエイティブな活動の手段として考えているのではなく、ただ単にその中で「遊べる」ことを重視しているように見て取れるようだ。そうすると、我が国にとっての「セカンドライフ」は、mixiなどのSNSとほぼ同類なのかもしれない。

 そうすると、「Voice」(PHP研究所)平成19年9月号での石原慎太郎と宮台真司の対談における宮台の発言はかなり現実離れしたもの、ということになる。

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宮台 彼らは「セカンドライフ」上では活動的なのです。生活保護を受けながら「セカンドライフ」で億万長者として暮らす者もいます。二十四時間中睡眠に五時間、食事に一時間使い、残りを「セカンドライフ」内の経済活動に充てて専用通貨を稼ぎ、換金してカップラーメンを買ってすするという生活です。

石原 しかし、バーチャルな世界で味わう満足感は結局、いつか崩れて消えてしまうでしょう。

宮台 それでもこれからはそういう人が増えます。そうした流れを認識することがニート問題に近づく一歩です。ニートには、「現実に怯えて前に踏み出せない者」と、「わざわざ訓練して社会に出ることに意味を認めない者」が含まれます。前者は、経験値を高める訓練で不安を克服すればOKです。後者は「自分が自分であるために社会や他者が必要」と感じないように育ち上がっており、簡単に引き戻せません。愛国教育や道徳教育が足りないのでもない。国にコミットする以前に、社会にコミットしないのですから。
 (石原慎太郎、宮台真司「「守るべき日本」とは何か」(「Voice」2007年9月号、pp.80-89、PHP研究所)pp.85、2007年8月)

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 私はこの発言が収録されている対談を批判したとき、「そんなこと本当にあるのかよ」と軽く突っ込みを入れる程度だったが、これにより統計的にも疑念が提示できるようになった、ということになる(のかな)。

 野村総研の「セカンドライフ」研究(というよりこの発表)で不足しているのは、どういう層が「セカンドライフ」に参画し、またどういう社会的機能が形成されているか、ということであるが、少なくともインターネット上のコミュニティについては、池田謙一(編著)『インターネット・コミュニティと日常世界』(誠信書房、2005年10月)や宮田加久子『きずなをつなぐメディア』(NTT出版、2005年3月)などで研究がいくらか為されている。

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 NRIでは今後も、「セカンドライフ」に代表される仮想世界の技術および利用動向を調査し、技術開発や仮想世界を活用する企業への提言に役立てていきます。なお、今回の調査の詳しい分析結果は、2008年春に単行本「仮想世界ロードマップ―これから社会はどう変わるのか」(仮)として、東洋経済新報社より発行する予定です。

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 楽しみにしています。なお、野村総研は、最近も『大衆化するIT消費』(東洋経済新報社、2007年10月)という本を出した。これもチェックしておく必要があるかな。

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2007年10月30日 (火)

コメントへの返答(H19.10.30)

 「全国学力テストから遠く離れて」にいただいた、以下のコメントについて回答いたします。

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本論からずれて申し訳ないですが、給食費の未納の増加は「親のモラルの低下」が主因なのではないですか?
給食費未納問題の客観的な調査とは具体的にどうやればいいか教えていただきたいです。

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 実を言いますと、調査については既に文部科学省によって為されており、平成19年1月にその結果を発表しております。「学校給食費の徴収状況に関する調査の結果について」という報告書(PDF)です。

 これによれば、給食費の未納があった学校は全体の43.6パーセントですが、児童生徒数で考えると約1パーセント、金額で考えれば0.5パーセントに過ぎないことがわかります。

 また、給食費の未納に関する調査はこれが初めてですので、増加したと言うことは一概には言えないのです(減少したとも言えないのですが)。

 さらに、(朝日から産経まで上のデータをほとんど無視したにもかかわらず、こちらは大々的に喧伝されたのですが)「学校給食費の未納に関する学校の認識」という設問では、確かにこれについて「保護者としての責任感や規範意識」が原因であるとしている関係者が実に6割に達していることがわかります。然るにこの設問は、この項目以外に「保護者の経済的な問題」しかまともな回答がない(あと「その他」)のと、これは関係者に対する意識調査に過ぎないので、《「親のモラルの低下」が主因》と決めつけることは、極めて難しいと思われます。

 マスコミ(特にこの「問題」を煽り続けた読売や産経)においては、おおよそ極端だとすぐにわかるような事例しか出てこないと思うのですが、既に客観的な指標は存在するのですから、まず上の資料をご覧になることをおすすめします。また、少数の極端な事例によって世論や政策が決定されることの危険を、このブログの「「想像の~」という問題」という記事で採り上げていますので、ご覧下さい。

 (参考:女子リベ  安原宏美--編集者のブログ「モラルが下がって給食費未納」って「神話」じゃないの?

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2007年10月26日 (金)

三浦展がまたバカなことをやらかすようです

 タイトルの通り。

Peppermint Blue:[socitey][magazine]「下流社会」の次は「ジェネレーションZ」?三たび三浦展

 で、その三浦が立ち上げたプロジェクトがこちら。「GENERATION Z」。

 まあ、三浦のことだし、どーせ極めて怪しいアンケート調査と(どうせ東京と神奈川と千葉と埼玉でしかやっていないでしょ)、それに輪をかけて怪しい牽強付会ばかりの「分析」に終始するのだろう。しかし、「読めない世代」って、なんて傲慢な。あんたらが統計に基づかずに自らの思いこみを、さもロールシャッハテストの如く一つの世代に貼り付けてきて、実像とは極めてかけ離れた虚像を絶え間なく生産してきたんだろうが。恥を知れ。

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2007年10月25日 (木)

「想像の~」という問題

 私にとっては単なる大上段からの通俗的青少年言説の生産者に過ぎない高村薫だが、双風舎の谷川茂によれば(双風亭日乗:「来年の新卒求人事情。バブル期の轍を踏むのか?」)、「AERA」のコラムでまともなことを言っているらしい。以下、谷川のブログからの孫引き。

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 人材、人材と言うけれど、経営資源としての人材に、企業は何を求めているのだろう。企画、設計、製造、販売、管理等々、企業活動に必要なさまざまな人材は、どこまでも生産性で評価されるものではないのか。生産性を担保するのは個々の能力、意欲、責任感、そして社会人としての器であるが、大学を出たばかりの若者たちは、それらすべての点で未知数だろう。新卒の採用にこだわる日本の経営者たちの頭は、未だに画一的な大量生産時代から抜け出していないのかもしれない。
 私が経営者なら、ほんの少し生まれる時期が早かったために就職氷河期に遭遇し、社会の厳しさを身に染ませながら派遣社員や契約社員として働いている人たちを、真っ先に雇用する。自分の能力の限度を知り、適正を知り、意欲があり、社会人として鍛えられている人材を、採らない理屈はないからである。また、そうした通年採用を増やすことによって、社会で働くことについての学生たちの意識も、より地に足がついたものになるかもしれない。
 貧困層が拡大して中産階級が減少した社会では、かつてのような分厚い消費は望めない。中長期的には、経済は間違いなく低空飛行になる。就職活動中の学生さんたちは、頭を冷やして企業の顔をじっと見よ。

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 これはまさに正論なのだが、このあとに谷川が続けている以下の文章が、私は気になった。

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で、この女性(筆者注:雨宮処凜の新著『プレカリアート』(洋泉社新書)に出てくる大企業に勤務する女性)が抱くような非正規雇用の虚像、いわば「想像の非正規雇用」みたいなものが企業経営者の頭の中にはあり、それが非正規雇用の実像とズレているがゆえに、非正規雇用はダメだという風潮が変わることがないように思えます。逆にいうと、非正規雇用の実像が経営者にわかれば、もしかしたら何かが変わる可能性もあるのではないか、とついつい甘いことを考えてしまいます。希望的観測なんですかねぇ、これは。

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 なるほど、《「想像の非正規雇用」》か。確かに、マスコミなどによって非正規雇用者や青少年(あるいはオタク、若い母親など)に対する偏ったイメージが流布すると、そのようなイメージに基づいて様々な意志決定が行なわれているという状況を、人事に限らず、我々はいろいろな場面で見ているはずだ(教育再生会議とか教育基本法の「改正」とか)。

 つい先日、「お笑いみのもんた劇場」の管理人が制作した動画「(新)子供の犯罪被害が増えているというマスコミの嘘と煽り」(ニコニコ動画)を見たわけだが、妄想によって青少年政策が動かされる状況に対抗するためにこそ、我々は統計などの事実でもって闘わなければならないし、そういう人たちを支援する必要がある。

 また、ここ数年で状況は変わってきているのも事実だ。多くの若い論者や学者により、現在の青少年政策や教育政策を支配する状況に異議が唱えられてきている。そしてその動きを支持するメディアも、少しずつではあるが発生してきている。私にできることと言ったら、そのような動きに対し、資料を収集し、彼らが戦えるためのデータを提示することになるのかもしれない。

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 ついでにこれにも反応しておくか。谷川は、先ほどの「来年の新卒求人事情。バブル期の轍を踏むのか?」の一つ前に、「これが俗流若者論だ!」という記事で、藤田雄山・広島県知事の発言を紹介している。でも、谷川社長、認識が甘いですよ(笑)。この程度は典型的であってもまだ生ぬるい。本物(笑)は、もっと差別主義的で、非科学的で、非論理的で、下らなすぎて怒りを通り越して失笑しか出てこないようなものなのでありますよ!

 というか、24日付読売新聞の朝刊1面下で、丸橋賢の『退化する若者たち 』(PHP新書)の広告が、同書の発売から1年以上経っており、またそれほど売れている気配もないにもかかわらず、広告されているのを見て、正直萎えた(宮城県版だけであることを祈りたいが…)。

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2007年10月14日 (日)

「御巣鷹の声」と「靖国の英霊」

 以前本家のブログで批判した、河野正一郎、常井健一、福井洋平「劣化する日本に響く御巣鷹の声を聴け」(「AERA」2007年8月13日・20日合併号、pp.16-21)について、その執筆者の一人である福井洋平が、「AERA」の公式ブログで取材日記を公表している(最初のものは、もう1ヶ月以上過ぎてしまったけれど)。

 これはシリーズもので数回連載されているのだけれど、これを読んで、なぜあの書き出しから、典型的な「若者論」になってしまったのか理解できた…わけはない。むしろ余計わからなくなってしまった。何であんな風になったのか。「AERA」編集部に再び着任してから、「AERA」で通俗的青少年言説を書きまくっている河野正一郎(中条省平や寺沢宏次や三浦展に俗流若者論させたのもみんなこの人です)の想像力が暴走してしまったのか。

 この記事に一つもの申したいことがある。それは、この記事における「御巣鷹の声」が、保守論壇における「靖国の英霊」と全く同じ役割を負わされていることだ。

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 だが八木(筆者注:八木秀次『国民の思想』)の場合、死者は、彼が想定する「あるべき姿」を忘れているときにのみ現れる。死者は、八木が欲する「日本」の「あるべき姿」へ他の人々を誘導するために「召喚」されている。それが「生者の倣慢な寡頭政治」と同質でない保証がどこにあろうか。結局、八木の念頭にあるのは、「私たちの国の死者」のみであり、「私たちを見守っている」ような、彼にとって、あるいは彼が考える「国」にとって都合のよい死者のことなのである。(略)

 八木の「死者の民主主義」にそうした体制のマイノリティあるいは体制外の死者の声を汲み上げようとする姿勢は見られない。むしろ、積極的にそうした声を祓い清め圧殺する神官としての振舞いが濃厚である。ギリシア語でいうカタルシス=浄化・供犠・奉献の行為に傾いている。(藤本一勇『批判感覚の再生』白澤社、pp.48)

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 この部分は「靖国の英霊」言説に対する批判として書かれたものだけれども、この図式は、河野、常井、福井らによる「御巣鷹の声」言説にも共通している。すなわち、河野らは、1985(昭和60)年に怒ったことを(ほとんどなんのつながりもなく)次々と列挙して、この年から日本人は「劣化」した、と嘆くわけだけれども、そんな言説は、「靖国の英霊」言説に見られるような、敗戦によって日本人の精神的な連続性が断たれて、日本人が「劣化」した、という言説と何も変わらない。

 そういうことを編集部の中で指摘しなかった人がいなかったのだろうか(私も指摘できなかったけど…)。こういう視点から見てみれば、まあ「AERA」の青少年言説がいかに「劣化」しているか、ということを考えることができそうだ(笑)。

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