カテゴリー「366.3 労働条件」の記事

2007年9月24日 (月)

「頼りになるやつが、できた。」

 「政府は大変な錯誤をしでかしていきました@「ニート“対策”」」の続き。NPO「POSSE」が「LAW! DO! キャンペーン」なるものを始めた。この試みは、もっと広がって然るべきものだろう。趣旨文には、以下のようにある。

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 現在秋期国会では、労働分野についての新たな法制度について議論がなされています。しかし、若者の感覚からは、違和感が感じられます。なぜなら今日の日本社会では、そもそも法律そのものが守られていないからです。私たちは、なによりもまず、既存の法令の遵守を実現するための施策を求めます。具体的には労働基準監督制度の強化や、その他の制度活用のサポートなど、法の適正化を実現するためのあらゆる方法がとられるべきです。その先にこそ、法改正の議論の意味があります。

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 このような認識を、我が国における若年労働運動の中核を担う団体の一つである「POSSE」が打ち出したことは、極めて高く評価されて然るべきものである。そもそも我が国における若年労働に関する言説は、労働条件の問題として捉えるよりも、若年層の「働くこと」に対する意識が変わったことにある、という視点が強く、現在でもその傾向は温存されている(ちょうど先日出た、三浦展の『下流社会 第2章』(光文社新書)の第3章や6章に書かれていることはまさにその典型だ)。

 然るに真に問題にすべきは、若年労働の現場、なかんずく末端の現場において、各種の労働法が遵守されておらず、またそのような無法状況を財界は推し進め、脱法を合法にするために法改正まで推進することである。そしてこのような行為が跋扈する要因の一つとして、若年層に対する言われなきバッシングが関わっているのは言うまでもないだろう。

 だからこそ若年労働の当事者、あるいはこのような運動に関わるものとしては、まず既存の労働法を遵守させることを徹底しなければならない。既存の労働法制が満足されないまま、「新しい正社員像を描くべき」だとか、あるいは「今の「格差社会」はかつての「階層社会」「階級社会」と本質的に違う」などといっても、所詮は絵空事に過ぎない。

 ちなみにこの記事のタイトルは、その「POSSE」が近いうちに出版する『しごとダイアリー(労働手帳)』のキャッチフレーズである。これは、トラブルに対する対処法や、相談窓口の一覧、さらに使い方によっては強力な法的証拠にもなるという極めて便利なものになるようだ。

 違法状態が異常であるように経営者側や財界に正しく認知させる必要があるし、またそのような状況を放置させてきた側にも責任を追求して然るべきである。この運動が、その発着点であることを、私は願ってやまない。

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政府は大変な錯誤をしでかしていきました@「ニート“対策”」

 

ニート支援拠点を倍増へ、全国100か所に…自宅訪問も(読売新聞)

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 これまでの対策は、相談を受けて支援に乗り出す“待ち”の姿勢だったが、積極的に関与する路線に転換することにした。今後は、相談員が若者を訪ねて自立支援を行ったり、地域のニートの存在を把握する支援体制づくりを目指す。

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 政府、終わったな。

 内閣府の調査を見ればわかるとおり、“働く意欲のない”「ニート」はここ10年ほどで増加しておらず、また平成18年の国民生活白書などを見れば、若年者の離職の原因としては、離職する若年者の新卒採用時における採用率によるところが大きい。さらに言うと、企業の側の姿勢を無視しないまま、若年層にばかり精神的な対応を迫る、ということ自体、どうかしている。

 それにしても、《相談員が若者を訪ねて自立支援を行ったり》ねえ…。これを立案した側は、例えば長田百合子やら、あるいは杉浦昌子やらがそうであったように、「自立支援」みたいな名目を掲げて、凄惨な暴力が発生したというケースを知らないのか。政府の名の下でそんな暴力を肯定してしまうのだろうか?それとも単なる利権の拡大だろうか。いずれにせよ、間違った認識に基づいて変なところに予算が付いてしまうのは問題であり、またその疑似問題を煽ってきたもの(なかんずく玄田有史)の責任は重い。

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2007年9月12日 (水)

舛添厚労相とネオリベ

「家庭だんらん法」に言い換え指示=「残業代ゼロ法」で舛添厚労相(時事通信)

 今更いうまでもないが、「残業代ゼロ法」とは、日本版「ホワイトカラー・エグゼンプション」のことを指す。しかし、《「家庭だんらん法」に言い換え指示》なんて、この人の思考レヴェルが所詮は安倍晋三程度でしかないことを示しているのと同様だな。

 私は、小林美希『ルポ 正社員になりたい 』(影書房)の書評で、こう書いたことがある。

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《むしろある程度生産性の高い人は、例えば今まで8時間かかっていたものを4時間で作り上げてしまえば、あとの4時間は自分の別なことに使えるわけですよね。ある部分フレキシブルに、個人に自主性を持たせた働き方へのシフトが必要です》《この仕事でいいものを作りたい、そして、お客様に満足してもらいたい、自分でお客様から評価を得たいと思う人というのは、どんどん仕事をするわけですよ》(奥谷禮子の発言。風間直樹『雇用融解』東洋経済新報社、pp.222,223、2007年5月)

 このような財界の人間観を金科玉条とし、ここ10年の間に、労働市場、特に若年労働市場や末端の起業において、様々な雇用破壊が行なわれてきた。

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 財界は、上の奥谷禮子の発言の如き人間観でもって、様々な労働破壊を行なってきた。要するに、彼らが想定しているのは、彼らの労働観にとって都合のいい人材であり、また彼らの大義名分として「国民のためになる」とかいうのがいわれるわけだが、実質的には自らの制定した制度に従うことが要求される。それを拒否するものは「自己責任論」で非難される。で、そこで称揚されるのが「家族」みたいな「誰も否定できないような」伝統的な価値観だったりするわけだが、そこに罠が生ずる。つまり、それに従わない奴は伝統の破壊者である、と主張するための口実を与えるからだ。

 これがネオリベって奴の本質なわけだけれども(ちょっと類型化しすぎか)、一部の論者は、「ネオリベ化した社会における「今時の若者」の行動」(客観的には存在しない「右傾化」など…)を批判することには熱心な癖して、ネオリベを推し進める勢力を撃とうとはしない。しても、空疎な(国民の福祉に利するような制度改変などにはつながらない)反米主義みたいな「物語」の下に「連帯」するだけだ。真に撃つべきものはたくさんいる。

 参考文献: デヴィッド・ハーヴェイ『新自由主義』(渡辺治ほか訳、作品社、2007年3月)

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