「地獄への道は…」という記事で「有害情報」規制について触れたけれども、いよいよその流れが本格化してきたらしい。
アニメ・漫画・ゲームも「準児童ポルノ」として違法化訴えるキャンペーン MSとヤフーが賛同(ITmedia)
まず、この運動を進めている団体(日本ユニセフ協会)は、国連のUNICEFとは全く別の団体(民間の協力団体。UNICEFの正式な在日の機関は、国際連合児童基金東京事務所(UNICEF東京事務所))である。従ってこの運動は(国連)UNICEFとは関係がない。そのことを念頭に入れて欲しい。
この団体の主張のおかしさについては、「ポルノ単純所持の処罰は妥当か」(福島みずほのどきどき日記)、「「タカくんの(自主規制)おいしいよう」は違法?日本ユニセフかわいそうです(頭が)」(黒屋堂)、「日本ユニセフ協会の署名にサインする前に読んで下さい」(せんだって日記)、「児童ポルノ法の危険な行方」(虹の色:兼光ダニエル真ログ帳)、「歪んだ正義に笑って立ち向かおう」(チラシの裏(3周目))を是非参照されたい。少なくともこれだけ読めば、この「運動」のいかがわしさがよくわかる。
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たとえば、友人から雑誌が送られてきて、そのなかに、児童ポルノがはいっていたらどうなるだろう。単純所持で犯罪となる。
友人が持ってきた本のなかにあったらどうなるだろうか。
困らせようとメールを送ってきた人がいたらどうなるのだろうか。これも単純所持になるのだろうか。
自分の携帯に、児童ポルノを持っていても「単純所持」になるだろう。
言えることは、処罰の範囲が拡大をすることと処罰の範囲に争いが起きるということである。(福島瑞穂)
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この人たちは名目上「子どもを守る」ってことで活動してるわけだが、そこには明らかに子どもではない人(AV女優だったりエロゲ声優だったり)や、そもそも人間じゃないもの(架空の人物)が含まれているわけで、結局この人たちが守ろうとする何かが存在するならば、それは「純粋な子ども」という(自分たちが持ってる)概念ではないの?(「黒屋堂」)
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アメリカ合衆国でさえも想像と現実の創作物の棲み分けについては非常に神経を払い、過去に米国最高裁判所は現実違法行為と偶像創作物における犯罪行為の描写については一律に取り扱ってはならぬ判例を繰り返し明確にしてきていることも私たちは忘れてはならないと思います。表現の自由については各国で様々な議論が行なわれているのであり、諸外国の一方の意見ばかり偏重してはならぬことは私は感じて禁じえません。(兼光ダニエル真)
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個人的に今回の改正反対しているのは無論警察の恣意的運用が可能な単純所持規制のやばさもあるけど、こいつらが二次元を敵視し弾圧しようとしているのを知っているから、もし今回通ってしまえば次か今回で確実に表現の自由が奪われ、言論弾圧がなされると考えているからですよ。(「チラシの裏(3周目)」)
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とりあえず、松浦大悟と福島瑞穂には本当にがんばっていただきたい。
ところで私が気になったのが、日本ユニセフが使っている表現である「準児童ポルノ」とか「子どもポルノ」という新定義だ。なんでこういう定義付けが必要なんだろうか。
そこで思い出されるのが『「準」ひきこ森』(講談社+α新書)じゃなかった「準ひきこもり」なる表現である。この概念の提唱者、樋口康彦は、「ひきこもり」という概念に「準」なる接頭語をつけることによって、ちょっと元気がないだけの大学生(なかんずく男子)が、何らかの心の病を抱えている存在であるかのように罵った。当然のことながら樋口は、「ひきこもり」なる存在についてはそれがすぐ問題であるかのように扱っている。
で、この「ひきこもり」という表現に「準」をつけたことでどうなったか。樋口は「元気がないだけの大学生(なかんずく男子)」に対して「準ひきこもり」と名付けたことによって、こいつらは(俺が問題にしている)「ひきこもり」の予備軍だ、そいつらと極めて近接した存在だ、と煽ることが可能になり、“本当の”「ひきこもり」になる危険性が高いぞ、とばかりに莫迦にして、精神論を平然と垂れるようになった。
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そもそも著者の言う「準ひきこもり」の定義すら曖昧。ちょっとコミュニケーションが苦手、となって、著者が「こいつはそうだ」と思えば、誰でも「準ひきこもり」になってしまうのだ。また、本書を読む限り、著者は「ニート」や「ひきこもり」と言うものの定義すらも理解できていないとみえる(例えば、ニート問題の背景に準ひきこもりがある、なんていうのはその証拠である)。(「たこの感想文」:「(書評)「準」ひきこ森」)
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こういう変な定義を創出することによって覆い隠されたのが、コミュニケーション能力が低いことは本当に問題なのか、あるいはどういう点で問題なのか、ということとか、本当に「ひきこもり」とはコミュニケーション能力の低さから来ているのか、などということだ。要するに社会的な(「ひきこもり」という言葉の定義や運用も含めた)背景とかである。
話を日本ユニセフに戻すと、この団体が捏造した「準児童ポルノ」という表現にも、「準ひきこもり」と同じように問題がある。要するに、例えばアニメや漫画、ゲームなどの(実際の被害者が存在しない)性的表現について、「児童ポルノ」というれっきとした性犯罪、あるいは性的搾取を目的としたものに対し「準」なる接頭語をつけることによって、「児童ポルノ」と「準児童ポルノ」は完全にイコールではないが、極めて近い存在である、と煽る目的がある。もちろん、実際の被害者が存在するかしないかという点については、些細であるどころかものすごく大きな違いがあるはずなのだが、そんなの関係ねぇとばかりに「表現」こそが問題であるように論点をずらしているのだ。
こうして考えてみると、彼らにとってすれば、実在の児童の保護よりも「表現」の規制、というか撲滅のほうが大事なのかもしれない。しかしそれは法律の及ぶ範囲ではなく、憲法に抵触する可能性が極めて大きい。
日本ユニセフと、こいつらの運動に賛同しているヤフーやマイクロソフトなどは、もう一度児童ポルノ禁止法の原点に返って、「表現」の規制が児童の保護とどうつながるのか、考えていただきたいものだ。
あと、こいつらに限らず、既存の概念に「準」みたいな言葉をつけて問題を変な方向に誘導しているような連中も注意すべきだ。例えば「ネオ依存症」(矢幡洋)とか「30代うつ」(香山リカ)とか。こういう奴らとこいつらの創出する概念は極めてうさんくさいものである。
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