学習指導要領改正案への疑問
「冬枯れの街」の「神様なんていつもそうよ理不尽なことばかり・・・。」で、私は下のようなコメントを書いた。
―――――
>学習指導要領
はっきり言って、これでは時間増の意味はないと感じました。だって、どうせ武道を小学生の段階から必修にするとか、伝統と文化云々とか、職場体験とかに費やされるわけですから、今までの教育政策のどこが間違っていたのか理解できていない。
第一、教育再生会議とか、あるいは今回の指導要領の改訂とか見ていますと、「ゆとり教育」なんて終わっていませんよ。同人誌でも書きましたけれども、私は「ゆとり教育」の本質とは、要するにポジティブリスト方式にあるのではないかと思います。言い換えれば、教育万能主義が政策に反映された形。今回はさらにそれを推し進めている形になっているわけですから、抜本的転換とはどうも言い切れない気がします。
第一寺脇研だって、今の子供は自然の経験がないから問題を起こすのだとか、社会が教育をやれば青少年問題はすぐに解決する、とか電波を飛ばしているわけでしょう。要は、寺脇のほざくところの「社会教育」みたいなものを地域がやるのか(=寺脇)、学校がやるのか(=今回の指導要領)の違いしかないと思うのでありますよ。
―――――
実際問題、文部科学省の「教育基本法の改正に対応した学習指導要領案の主な改訂点」(PDF)を読んでみても、なんのために授業時間を増やしたのかと訝ってしまうような改定案だ。第一、「道徳教育、体育や食育を充実」「感動を覚えるような魅力的な教材」「規範意識、人間関係を築く力、みんなのために働くことや社会参画への意欲や態度の育成」「自然の中での集団宿泊活動」なんて電波ゆんゆんで、こういう無駄なことのために授業時間が費やされてしまうのかと思うと、これを作った人の頭の中を疑ってしまうわ。そんなことを考える暇があるなら、まず現代の青少年に関する教育学や社会学などの研究成果をレヴューしなさい。
そもそもこの報告書を読んだだけでも、改正案の基となっている現行の教育基本法それ自体が問題をはらんでいる代物だということがはっきりとわかってくる。現行法は偏狭なナショナリズムに基づいているとか何とかいわれがちだけれども、実際には八方美人、要するに平成18年10~11月に教育再生会議あたりで話題になっていた(もちろん、中には間違った形で話題になっていたものもある)トピックを考えもなしに詰め込んだだけのものに過ぎないのではないか。
ところで我々が頭に入れておくべきなのは、少なくとも青少年「問題」については、「ゆとり教育」の先導者ともいわれる寺脇研と、そしてそれを批判する側(要するに今回の学習指導要領の改正案)の認識が共通しているということだ。寺脇については、『それでも、ゆとり教育は間違っていない』(扶桑社)という本で、その認識の偏狭さを余すことなく示している。いちいち挙げておくときりがないので、「冬枯れの街」の「申し上げたではありませんか、ご安心くださいと。もうすぐ仕掛けておいた罠が動き出しましょう。~国賊、寺脇研の醜態~」に丸投げしておく(苦笑)。
あとは藤原和博。この人も寺脇と並んで、宮台真司あたりとつるんで(ちなみに宮台は寺脇のブレーンであり、たびたび宮台と寺脇は対談している)「教育改革」(笑)を推進した人であるのだが、こいつもまた『新しい道徳 』(ちくまプリマー新書)なる言い訳がましい本を出した。これもまた笑えるのだが、何よりも驚くべきなのが以下の下り。
―――――
もう、読者は理解したに違いない。
復興すべきは「美しい日本」という国の姿ではない。(略)
それより、むしろ一人一人の「美意識」のようなもの。新しい国づくりは、100年以上前の前例に習って、まず「人づくり」から始めなければならない。
真に復興すべきは、コミュニティに生きる人々の「美意識」。
だから、教会の代わりに、学校を核にして地域社会を再生していく努力が望まれるのである。
日本では、もし「教会」の替わりが務まる組織があるとすれば、それは、「学校」しかないからだ。(藤原『新しい道徳』pp.174-175)
―――――
私は同書を、昨年末の冬コミのために東京に向かう高速バスの中で読んだのだけれども(余りにも内容が薄いので30分ほどで読み終えた)、これは正高信男の新刊か(俗流のテレビ批判、携帯電話批判、ブランド批判とか…社会認識が数年前でフリーズしているような気がする)と見紛うような第1章はともかく、藤原がこういう思想でもって「教育改革」を推し進めていること自体、驚くべきことではあるまいか。ついでに寺脇だってこういっている。
―――――
「三丁目の夕日」みたいな映画観て泣くんじゃなく、「三丁目の夕日」の時代にやっていたことを、子供と一緒にやればいいわけですよ。子供に「こんな遊びがあるんだぜ」とか言って、プレーパークで童心に帰って一緒に遊べばいいだけのこと。それで「一日遊ばせてもらってありがとう」って1万円とは言わずとも、千円も置いていけば、プレーパークの運営費なんかすぐ出ちゃいますよ。(寺脇『それでも、ゆとり教育は間違っていない』p.129)
―――――
少なくともこれだけ見ていると、今回の指導要領の改正案と、寺脇や藤原との違いが全く見えてこない。それどころかほとんど同一に見えてくる。そしていずれにも欠けているのが若い世代に対する真に科学的な検討と、そしてそれに基づく政策だ。それも経ないまま、ひたすら「ゆとり教育」、というよりもそれを受けてきた世代に対する不当なバッシングが横行するという奇妙な自体になってしまっている。少なくとも国際的な統計(というかPISA)を見てみる限りでは、我が国の子供の学力は、主要先進国(アメリカ、イギリス、ロシアなど…)に比すれば格段に高い。さらにいうと、東京理科大の調査によれば、少なくとも高校の理系学生においては、数学力がむしろ向上している、との結果すら出ているという。現代の我が国の子供たちは、言うなれば「もっと(正しく)評価されるべき」なのだが、今や「ゆとり教育」を擁護する側も叩く側も、そろって子供や若年層を叩いている。
なんというか、昨今の「教育改革」って、寺脇や藤原、そして宮台みたいな人間と、その取り巻きだけが理想とする教育の実現なのではないか、という錯覚すら覚えてしまう。そういう点においては、『それでも、ゆとり教育は間違っていない』と『新しい道徳』は、まさに全国民必読の書、なのかもしれない。また、「今日行く審議会@はてな」の「ゆとり教育から脱却していないし転換もしていない」が示すとおり、そして私も冒頭で述べたとおり、「ゆとり教育」からの転換とか脱却なんて、ない。
もう一つ。寺脇を批判した「教育ニュースへのツッコミ」の「既成事実化に対する私的な繰り言」という記事に、以下のような下りがある。
―――――
寺脇の著書は、主たる主張を通す側に立ったものが責任を明確にしろといっているように聞こえるのだが、それで自分はどうなのかとつつかれて終わっているような気がする。
自分と同じ立場の人を量産してもダメだと思う。
最近、だれの?というよりも、まず自分の足下を守るような消極的な闘いになってきていると感じる。
―――――
ごもっとも。特に寺脇のブレーンである宮台の『幸福論』(NHKブックス)なんて、まさにそんな内容だな。だって同書で語られていることって、「いかに年長世代(=宮台)が考える「よいこと」を、教育を通じて下の世代に伝えるか」ということばかりなんだし。
| 固定リンク
| コメント (5)
| トラックバック (1)
最近のコメント