カテゴリー「371.16 教育学方法論」の記事

2008年2月22日 (金)

学習指導要領改正案への疑問

 「冬枯れの街」の「神様なんていつもそうよ理不尽なことばかり・・・。」で、私は下のようなコメントを書いた。

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>学習指導要領

 はっきり言って、これでは時間増の意味はないと感じました。だって、どうせ武道を小学生の段階から必修にするとか、伝統と文化云々とか、職場体験とかに費やされるわけですから、今までの教育政策のどこが間違っていたのか理解できていない。

 第一、教育再生会議とか、あるいは今回の指導要領の改訂とか見ていますと、「ゆとり教育」なんて終わっていませんよ。同人誌でも書きましたけれども、私は「ゆとり教育」の本質とは、要するにポジティブリスト方式にあるのではないかと思います。言い換えれば、教育万能主義が政策に反映された形。今回はさらにそれを推し進めている形になっているわけですから、抜本的転換とはどうも言い切れない気がします。

 第一寺脇研だって、今の子供は自然の経験がないから問題を起こすのだとか、社会が教育をやれば青少年問題はすぐに解決する、とか電波を飛ばしているわけでしょう。要は、寺脇のほざくところの「社会教育」みたいなものを地域がやるのか(=寺脇)、学校がやるのか(=今回の指導要領)の違いしかないと思うのでありますよ。

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 実際問題、文部科学省の「教育基本法の改正に対応した学習指導要領案の主な改訂点」(PDF)を読んでみても、なんのために授業時間を増やしたのかと訝ってしまうような改定案だ。第一、「道徳教育、体育や食育を充実」「感動を覚えるような魅力的な教材」「規範意識、人間関係を築く力、みんなのために働くことや社会参画への意欲や態度の育成」「自然の中での集団宿泊活動」なんて電波ゆんゆんで、こういう無駄なことのために授業時間が費やされてしまうのかと思うと、これを作った人の頭の中を疑ってしまうわ。そんなことを考える暇があるなら、まず現代の青少年に関する教育学や社会学などの研究成果をレヴューしなさい。

 そもそもこの報告書を読んだだけでも、改正案の基となっている現行の教育基本法それ自体が問題をはらんでいる代物だということがはっきりとわかってくる。現行法は偏狭なナショナリズムに基づいているとか何とかいわれがちだけれども、実際には八方美人、要するに平成18年10~11月に教育再生会議あたりで話題になっていた(もちろん、中には間違った形で話題になっていたものもある)トピックを考えもなしに詰め込んだだけのものに過ぎないのではないか。

 ところで我々が頭に入れておくべきなのは、少なくとも青少年「問題」については、「ゆとり教育」の先導者ともいわれる寺脇研と、そしてそれを批判する側(要するに今回の学習指導要領の改正案)の認識が共通しているということだ。寺脇については、『それでも、ゆとり教育は間違っていない』(扶桑社)という本で、その認識の偏狭さを余すことなく示している。いちいち挙げておくときりがないので、「冬枯れの街」の「申し上げたではありませんか、ご安心くださいと。もうすぐ仕掛けておいた罠が動き出しましょう。~国賊、寺脇研の醜態~」に丸投げしておく(苦笑)。

 あとは藤原和博。この人も寺脇と並んで、宮台真司あたりとつるんで(ちなみに宮台は寺脇のブレーンであり、たびたび宮台と寺脇は対談している)「教育改革」(笑)を推進した人であるのだが、こいつもまた『新しい道徳 』(ちくまプリマー新書)なる言い訳がましい本を出した。これもまた笑えるのだが、何よりも驚くべきなのが以下の下り。

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 もう、読者は理解したに違いない。
 復興すべきは「美しい日本」という国の姿ではない。(略)
 それより、むしろ一人一人の「美意識」のようなもの。新しい国づくりは、100年以上前の前例に習って、まず「人づくり」から始めなければならない。
 真に復興すべきは、コミュニティに生きる人々の「美意識」。
 だから、教会の代わりに、学校を核にして地域社会を再生していく努力が望まれるのである。
 日本では、もし「教会」の替わりが務まる組織があるとすれば、それは、「学校」しかないからだ。(藤原『新しい道徳』pp.174-175)

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 私は同書を、昨年末の冬コミのために東京に向かう高速バスの中で読んだのだけれども(余りにも内容が薄いので30分ほどで読み終えた)、これは正高信男の新刊か(俗流のテレビ批判、携帯電話批判、ブランド批判とか…社会認識が数年前でフリーズしているような気がする)と見紛うような第1章はともかく、藤原がこういう思想でもって「教育改革」を推し進めていること自体、驚くべきことではあるまいか。ついでに寺脇だってこういっている。

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 「三丁目の夕日」みたいな映画観て泣くんじゃなく、「三丁目の夕日」の時代にやっていたことを、子供と一緒にやればいいわけですよ。子供に「こんな遊びがあるんだぜ」とか言って、プレーパークで童心に帰って一緒に遊べばいいだけのこと。それで「一日遊ばせてもらってありがとう」って1万円とは言わずとも、千円も置いていけば、プレーパークの運営費なんかすぐ出ちゃいますよ。(寺脇『それでも、ゆとり教育は間違っていない』p.129)

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 少なくともこれだけ見ていると、今回の指導要領の改正案と、寺脇や藤原との違いが全く見えてこない。それどころかほとんど同一に見えてくる。そしていずれにも欠けているのが若い世代に対する真に科学的な検討と、そしてそれに基づく政策だ。それも経ないまま、ひたすら「ゆとり教育」、というよりもそれを受けてきた世代に対する不当なバッシングが横行するという奇妙な自体になってしまっている。少なくとも国際的な統計(というかPISA)を見てみる限りでは、我が国の子供の学力は、主要先進国(アメリカ、イギリス、ロシアなど…)に比すれば格段に高い。さらにいうと、東京理科大の調査によれば、少なくとも高校の理系学生においては、数学力がむしろ向上している、との結果すら出ているという。現代の我が国の子供たちは、言うなれば「もっと(正しく)評価されるべき」なのだが、今や「ゆとり教育」を擁護する側も叩く側も、そろって子供や若年層を叩いている。

 なんというか、昨今の「教育改革」って、寺脇や藤原、そして宮台みたいな人間と、その取り巻きだけが理想とする教育の実現なのではないか、という錯覚すら覚えてしまう。そういう点においては、『それでも、ゆとり教育は間違っていない』と『新しい道徳』は、まさに全国民必読の書、なのかもしれない。また、「今日行く審議会@はてな」の「ゆとり教育から脱却していないし転換もしていない」が示すとおり、そして私も冒頭で述べたとおり、「ゆとり教育」からの転換とか脱却なんて、ない。

 もう一つ。寺脇を批判した「教育ニュースへのツッコミ」の「既成事実化に対する私的な繰り言」という記事に、以下のような下りがある。

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寺脇の著書は、主たる主張を通す側に立ったものが責任を明確にしろといっているように聞こえるのだが、それで自分はどうなのかとつつかれて終わっているような気がする。
自分と同じ立場の人を量産してもダメだと思う。
最近、だれの?というよりも、まず自分の足下を守るような消極的な闘いになってきていると感じる。

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 ごもっとも。特に寺脇のブレーンである宮台の『幸福論』(NHKブックス)なんて、まさにそんな内容だな。だって同書で語られていることって、「いかに年長世代(=宮台)が考える「よいこと」を、教育を通じて下の世代に伝えるか」ということばかりなんだし。

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2007年10月26日 (金)

怪しい「解決策」

KOYASUamBLOG2:児童調査票から

 ついでに全国学力テストについても論じてみる。上の記事で、子安潤は、児童調査票によるクロス集計のデータを問題視している。

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いくつかの疑問を感じる。
一つは、相関させればその結果だろうけれど、それぞれの判断は因果関係の証明ではない。正答率の高い子がそういう環境・条件におかれているだけだ。
二つには、にもかかわらず、読書や朝食を摂るように強制する数値に利用される。
三つには、因果関係として利用されるから、なぜ読書ができないかといった原因と無関係に強制されてしまうことにある。結果として、強制されても読書はできない。
四つには、ひどく「よい子」圧力の強い分析となっていることだ。

学校調査にも同様の圧力が見られる。

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 なるほど。確かに相関関係すなわち因果関係として、様々な「解決策」が繰り出されるのは確かに危険だし、《ひどく「よい子」圧力の強い分析》となるのは間違いないだろう。

 ところで、この百花繚乱の「解決策」の中でも、とりわけ支持が強いのが「食育」だ。安原宏美はこう述べる。

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 「道徳」とか「9 条」とか「愛国心」のワーディングの話だと、「なんかやばそう・・・」という気がする人は多いと思う。けれども、「バランスのとれた食事を!」とか「子どもを犯罪から守ろう!」とか「環境をきれいにしよう!」 というのは大筋多くの人が同意できるので、私が権力者なら、こっちで粛々と物事を進めます。「そんな、目くじらたてること?」といわれそうな話で。

 2005年7月に食育基本法が施行されました。いまや日本全国の学校等で、食育が行なわれているようです。でも中にはコンビニ弁当や添加物を「毒物」扱いしたりする行き過ぎた授業もあるようです。

 かのTOSS の「食育」授業にはこのようなラインナップもあるようです。「自然塩」と「食塩」であさりの「砂出し」の実験があって、「自然塩は3分で殻が開いて、食塩なら5分。よって自然塩のほうが身体にいい」とか書いてある・・・。ええええーーーー!!まず、5分でも開かないと思うけどー(昔撮影でやったことがあります)早く開いたからって体にいいとか悪いとかでもないと思うが。
 (「女子リベ  安原宏美--編集者のブログ」:「「食育」も「キレる子ども」から」)

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 うわあ。そんな理由で自然塩のほうが健康にいいと言っちゃうのか。すごいTOSSクオリティだな。

 ちなみに狂信的な「食育」推進論者が軒並み敵視するのは砂糖である。これまた安原によれば、服部幸應はこういう風に書いているという。

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 箸の使い方や偏食などを正す指導や注意をされないままで済まされ、それに慣れてしまうと、ほかのことで親から注意や意見をされたときに、ムカついてキレる原因につながってしまいます。

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  (清涼飲料水を飲むと低血糖になって)、アドレナリンというホルモンが出ます。これは一種の闘争ホルモンでこれが出てくることで興奮状態になり暴力的な精神状態になってきます。低血糖の状態を補うためにアドレナリンが一気に出てきて興奮状態になるので、いきなりキレてしまい、しかも脳が活動していないために、自分でもわけがわからないうちに、人に暴力をふるったりしてしまうことが起こるといわれてます。

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 もちろんこれは科学的に誤りだ。例えば横浜国際バイオ研究所社長の橋本仁は以下のように述べる。

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 1998年1月28日栃木県黒磯市で、中学校の女性教諭が男子生徒にナイフで刺殺された事件がありました。
 事件の解説記事の見出しは、「キレる、いじめ-食生活に原因」、「食に関する教育の周知徹底を」、「砂糖の摂りすぎが心を不安定に」となっており、本文中に、某教授のコメントがあって「『栃木県の女性教師刺殺事件が起こった時、生徒がキレた状況は砂糖を大量に摂ったときの症状と似ているなと思った』砂糖を大量に摂ると、体内でインシュリンが大量に分泌され、血糖値が下がりすぎ、いらいらしたり暴力行為を起こしたりする。子供たちの心が不安定な原因の 1つは砂糖の摂りすぎにあると某教授は考えている。」と書かれていました。
 砂糖の摂りすぎによって低血糖が起きるということは、世界的にも科学的に否定されていることです。しかし、そうした記事が出ましたので、改めて「砂糖を科学する会」のメンバーである山梨医科大学の佐藤章夫教授にヒトを使った検証をお願いしました。学生に1回75gの砂糖を1日4回食べさせ、血糖値を計測するというものです。これは1日当たり300g、日本人の平均摂取量の6倍という高い水準ですが、それでも低血糖にはならないことが証明されています。
 さらに、浜松医科大学の高田明和教授は子供の脳には糖分が不可欠であり、脳内のドーパミンやセロトニンが増えることによって精神は安定し楽しくなる。そして、こうした脳内物質を増やすためには、砂糖や肉が重要な役割を果たしているとおっしゃっています。
 (橋本仁「砂糖への疑惑の払拭」

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 だが、服部のような主張は、例えば幕内秀夫も言っている(『勉強以前の「頭の良い子ども」をつくる基本食 』講談社、など)。彼らの言い分は、栄養学的に設計された食事は役に立たない、伝統に基づいた食事こそが一番なのだ、というものだろう。だが、そのような認識こそが、疑似科学の温床である(「科学ではわからないことがある」ということを金科玉条の如く振りかざす疑似科学者や似非霊能者のように。ついでにこの手の論者が、犯罪や教育の統計について呆れるほど無知なのは仕様です)。

 ちなみに松永和紀は、戦後の日本人の栄養が著しく改善されたことに触れ、こう述べている。

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 昔の平均的な日本人の食生活は貧しく、それが短命につながっていたというのは栄養学者の一致するところです。日本人は戦後しばらくまで、平均寿命が60歳に届きませんでした。生活改良普及員や保健婦などの地道な生活指導のおかげで、世界一の長寿国になったのです。

 ところが、昔の日本人が味噌をはじめとする大豆製品を多く食べ、健康的な生活を送っていたような錯覚が、一部の研究者や料理研究科、マスメディアなどによってまき散らされています。一時期流行した粗食など、どれほどマスメディアでもてはやされたことでしょうか。
 (松永和紀『メディア・バイアス』光文社新書、pp.161)

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 これが正しい認識だと思う。

 ところで、別に「今日行く審議会@はてな」の記事「フィンランド探し」にけちをつけるわけではないが(というより全面的に支持しています)、服部や幕内は、学力が最高だといわれているフィンランドの食生活を調査したらどうでしょうか(棒読み)。どうせたくさんの支持者と大手の新聞社や出版社がバックについているのですから、これくらいやらなければ顔が立たないというものでしょ。

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2007年9月24日 (月)

政府は大変な錯誤をしでかしていきました@「ニート“対策”」

 

ニート支援拠点を倍増へ、全国100か所に…自宅訪問も(読売新聞)

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 これまでの対策は、相談を受けて支援に乗り出す“待ち”の姿勢だったが、積極的に関与する路線に転換することにした。今後は、相談員が若者を訪ねて自立支援を行ったり、地域のニートの存在を把握する支援体制づくりを目指す。

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 政府、終わったな。

 内閣府の調査を見ればわかるとおり、“働く意欲のない”「ニート」はここ10年ほどで増加しておらず、また平成18年の国民生活白書などを見れば、若年者の離職の原因としては、離職する若年者の新卒採用時における採用率によるところが大きい。さらに言うと、企業の側の姿勢を無視しないまま、若年層にばかり精神的な対応を迫る、ということ自体、どうかしている。

 それにしても、《相談員が若者を訪ねて自立支援を行ったり》ねえ…。これを立案した側は、例えば長田百合子やら、あるいは杉浦昌子やらがそうであったように、「自立支援」みたいな名目を掲げて、凄惨な暴力が発生したというケースを知らないのか。政府の名の下でそんな暴力を肯定してしまうのだろうか?それとも単なる利権の拡大だろうか。いずれにせよ、間違った認識に基づいて変なところに予算が付いてしまうのは問題であり、またその疑似問題を煽ってきたもの(なかんずく玄田有史)の責任は重い。

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2007年8月17日 (金)

コメントへの返答(H19.8.17)

 平成19年8月16日にいただいた一連のコメントについてですが、森口朗氏に関する部分についてお答えします。

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 失礼しました。森口朗ってたしか「戦後教育で失われたもの」(これも新潮新書)の中では「いじめのある学校を認めろ」などと抜かしていましたが、曰く「いじめられるのにはそれなりの理由があるからです」と。こんないじめ被害者を非難するような人物の「いじめ学」なんぞ一切信用してはいけません!!

本書のタイトルからしていかにも「スーパーペシニズム」とでも言うべき要素がたくさんあるでしょ?
「世の中が悪くなったのは戦後教育のせいだ!!」と言ったゲーム脳レベルの俗論が。

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 私が森口氏を知ったきっかけは、まさにその『戦後教育で失われたもの』でした。同書の発売直後に、同書をとある掲示板で批判的に言及したところ、ご本人から反論のメールがあり、それについて何回かやりとりをした、という過去があります。

 なるほど、確かに『戦後教育で~』という本には、「現代の若年層は戦後教育でだめになってしまったのだ」という、短絡的というか、まあ宿命論的というか、そんな議論が連呼されています。特に同書の第3章など、ほとんどどうしようもないとしかいいようがありません。

 しかしながら、同書に対してこのような評価を持つ私が、このたびの『いじめの構造』をなぜ高く評価したかというと、本書の中において展開されている「いじめ学」は、決して森口氏一人だけの手によるものではなく、基本的に多くの専門家の言説を、森口氏の手によって現実に対して説明しやすいように加工されているものであるからです。私は本書、特に本書の前半部分(第3章まで)は、一般の市民が専門家の議論をいかに「利用」すべきか、という一つの好例として見ております。

 もちろん『いじめの構造』にもまた、現代の教育に対して短絡的な見方が現れている部分も少なからずありますが(例えば、第1章の一部分など)、こと本書については、専門家の言説の有効活用の他、巷に流布している「いじめ」言説に対する論理的な批判、また「いじめ」が隠蔽されるメカニズムについての説明を十分に行なっている、という点で高く評価されて然るべきものだと思っております。

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