カテゴリー「401 科学論・科学哲学」の記事

2009年2月10日 (火)

あまりに勘違いに満ちた…

 さて、以前に予告していた通り、鈴木謙介『チャーリー式100Q/100A』(ランダムハウス講談社。以下、断りがないならここからの引用)におけるニセ科学批判批判(Q80)について論評してみるよ…と思ったのだが、改めて読んでみると、どうも勘違いに満ちているというか、大多数のニセ科学批判言説とここで採り上げる鈴木(+荻上チキ)の議論がかみ合わない気がするのである(蛇足だけど、他の「質問」が概ね3~4ページくらいで終わっているのに対し、なぜかこの「質問」だけ5ページもスペースが費やされている)。なんというか、彼らの脳内で「ニセ科学批判者」のイメージをでっち上げ(ちなみにモデルはほぼ確実に私だろう)、具体的な言及を避けて、そのイメージに対して攻撃を仕掛けている感じがする。

 ま、この「質問者」(24歳男性という設定。ついでに宮城県在住、大学院生とか書いてくれれば完璧なのに)の台詞からして、

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 こんなのがあるから日本はダメになってしまうんだ!本当にこの国はまっとうな近代社会なの?(p.245)

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 などと書いてあるのが駄目。第一、そういう風に考えている人っているのかしらね。

 それはさておき。《菊池誠さんのような人が批判しているニセ科学》を《明らかにニセ科学なケース》であると述べているけれども、菊池(ほかニセ科学批判者)が批判しているのは別にそういったケースばかりでもないだろう。だが問題はここから。

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 ゲーム脳だってそう。「肉ばかり食べていたらダメ」とか「ゲームのやりすぎはダメ」っていうのは、科学的な問題じゃないでしょう。(pp.246)

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 ハイその通りではあります。しかし、ゲーム脳論批判において外せない論点としてあるのは、そのような《ゲームのやりすぎはダメ》という道徳律を、「ゲーム脳」の如きニセ科学で正当化することの問題である。これは「水からの伝言」論も同じで、「きれいな言葉遣いを心がけましょう」などといった道徳律の正当性を「水」に仮託することの問題点についても、採り上げられているはずである。

 そういう指摘を無視して、《どこまでをニセ科学と捉えるかという話をすると、科学論の話になるよね》(p.246)と軽々しく言わないでいただきたい。

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 質問者とはおそらく、話が逆なんだ。「世の中合理的にいくはずなのに、邪魔してるニセ科学のせいでうまくいかない」んじゃない。私たちは、「非合理的なもの」を世の中の中心からどんどん切り離してきた。(p.246)

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 この点はよく誤解される(というか向こうが勝手に脳内で誤解している)ことなのだが、ニセ科学批判論者で《世の中合理的にいくはずなのに、邪魔してるニセ科学のせいでうまくいかない》などと考えている人はどれだけいるのだろう。少なくとも個別の非合理な議論に対する批判はいくらかあれど、非合理的なものすべてを呪詛しているような言説を展開している人はほとんどいない。

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 だから、なぜニセ科学が出てくるかって聞かれたら、「私たちの社会が合理的に運営されている近代社会だからです」としか言いようがないんだ。(p.247)

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 この点も、ニセ科学批判者が考えるような原因論とかなり違っているように見える。少なくとも我々の(?)理解では、ある種のニセ科学がはやってしまう理由は概ねこれくらいに収束されるのではないかと思う。

 第一に、特定のイデオロギー的性向に対し、それを「正当化」してくれるものとしてニセ科学が流行るというもの。例えば脳の重さに基づく民族の優位性の主張とかがそれにあたる。第二に、一般の科学が曖昧な答えしか提示しないのに対し、ニセ科学の多くは明確な「答え」を出してくれる故に流行るというもの。怪しげな健康情報なんか典型で、それの戯画化に成功したのがMOSAIC.WAVの「ギリギリ科学少女ふぉるしぃ」である(笑)。そしてこのあたりの「解決」が困難であるのはむしろニセ科学批判論者のほうが肌で感じていることなのではないかね。

 しかもp.247では荻上(?)がいきなりこんなことを言い出す。

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――「メディアリテラシー弱者叩き」「ニセ科学叩き」をしている人は、必ずしもそれが「間違っているから」叩くわけではないですよね。合理性同士の衝突に、根拠を与えるために利用されている部分もある。どうして私たちは、他人の合理性にまで口を出すのでしょう。(p.247)

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 いや、だから、多くのニセ科学批判者は他人の合理性に口を出そうとはしていないと思う。それになんで唐突に《メディアリテラシー弱者叩き》なんて言葉が出てきたのかわからん。多くのニセ科学批判者は、たといニセ科学を批判しても、それを信奉する人を嘲笑するなんてしないだろう。《必ずしもそれが「間違っているから」叩くわけではないですよね》などと言うのであれば、まずどのような状況でそういうことが起こっているのか示すべき。それでは単なる嘲笑となんら変わりない。

 また荻上(?)の発言。

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 ――「科学」についていえば、(略)たとえば「水伝」については科学的に「反証」は可能ですよね。だとすれば「ニセ科学」というレッテル貼りだけではない検証が求められる。でも、そういう検証にコミットするよりも、多くの場合は「プギャー」と嗤いたいだけ、バッシングが先鋭化する人もいます。(p.248)

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 これを受けて鈴木は言う。

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 一般に「ニセ科学批判」が問題になるのは、そうでない人(引用者注:専門家でない人)による場外乱闘でしょ。(略)「科学的知識」を基にしたそうした振る舞いは、あくまで「政治過程のコミュニケーション」だから。(略)

 でもあるとすれば、「プギャー」という行為の先に何を求めるかをはっきりするところからだよね。その批判に依って、相手を改心させたいのか、それは無視して動員したいのか、あるいはもっと狭い身内だけで喜びたいのか、相手を深いにさせて楽しみたいのか。改心させたいなら、相手を怒らせてもしょうがない。説得しつつ、動員をやっていくのであれば、ユーモアや滑稽さを提示しつつ、少しずつ外堀を埋めていくという狡猾さが必要。(pp.248-249)

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 「注文」つけられました。しかし、これを読む限りでは、ずいぶん誤解が多いし、特に後段はニセ科学批判を莫迦にしている印象すら受ける。少なくともここまでの論旨の展開を見るのであれば、《「ニセ科学批判」が問題になるのは、そうでない人による場外乱闘》という物言いは、ニセ科学批判を意図的に《合理性同士の衝突》みたいなものに矮小化させている行為にしか見えない。

 第一、鈴木らがニセ科学批判に《政治過程のコミュニケーション》=《「プギャー」という行為》程度の認識しか持っていないのであれば、なぜニセ科学が批判されるのかについて思慮が浅くなるのは当然だし、またそれが個々のニセ科学について違ってくることもわからないと思う。そもそも、(《政治過程のコミュニケーション》=《「プギャー」という行為》ではない)ニセ科学批判は専門家にしかできないという認識それ自体が間違いだろう。

 ちなみに《たとえば「水伝」については科学的に「反証」は可能ですよね。だとすれば「ニセ科学」というレッテル貼りだけではない検証が求められる》などと軽々しく述べられているが、少なくとも「水伝」については別に実験しなくとも今までの経験で概ね間違いであると見なせるのは、田崎晴明の「「水からの伝言」を信じないでください」の中で述べられている通りである。

 ここで採り上げた部分以外は、概ねニセ科学批判者が見たら「そんなの知ってるよ」と言うことばかりなのではないかと思う。政策や教育に関する議論とコミュニケーションに関する議論を分けよ、というのは概ねわかりきっている(しかし、単なるコミュニケーションのツールに過ぎないものが、血液型ハラスメントなどの社会的に有害な行為につながったりという例に見られるとおり、政策論とコミュニケーション論は明確に分けられないとも思う)だろう。

 結局鈴木らのニセ科学批判批判が的外れに見えるのは、ニセ科学批判の現状も、またその周辺や根本に位置する科学論、科学哲学への言及も薄いまま、ニセ科学批判論者の(鈴木らが考えるところの)社会学の言葉を使ってメタに立ったつもりになっているからだろう。結局「プギャー」と言いたいのは鈴木らのほうなのではないか、という疑念が私からは消えないのである。

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2008年10月12日 (日)

これはいいものだ。

 ついに出ました、ロバート・T・キャロル『懐疑論者の事典』(小久保温ほか訳、小内亨ほか日本語版編集、上下巻、楽工社)

 懐疑論者の事典(上)

 懐疑論者の事典(下)

 さすがに「事典」という名を冠しているだけあって、インテリジェント・デザイン論やホメオパシーなどといった典型的なニセ科学のほか、占い、信仰、魔術などといった宗教・呪術的な概念、さらには精神分析に至るまで、懐疑的に見るための視点が詰まっている。他、回帰の虚偽、実用性の虚偽、大数の法則、論点先取りなどといった論理学や統計学に冠する概念まであり、まさに懐疑論者必携のものに仕上がっている。

 上巻p.163には「科学」という項目があるが、科学を論じるなら心得ておくべき下りがいくつかある。例えば、

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 科学理論とは、ある特定の範囲の経験的現象のありようを説明するための原理・知識・方法を統合したものである。(p.165)

 外なる宇宙空間と内なる原子を探るのを可能にするこうした科学理論を「ただの相対的な」もので、現実について「たんなるひとつの見方しか示さない」と言うのは、けっきょくのところ科学や科学的知識の本質をひどく誤解することになる。(p.167)

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 自戒を込めて言うが、科学(理論)というものが現実を万人に向けて説明する体系的な論理、考え方の集合であることを忘れて、徒に「科学主義」を振りかざしたり、あるいは他人にそのレッテルを貼って中傷するのはやめにすべきである。

 この「事典」、読み物としても十分におもしろいので、是非買っておくべき。

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2008年2月29日 (金)

ニセ科学と俗流若者論の関連性

 「PSJ渋谷研究所X」の管理人が、「『水からの伝言』の基礎知識」なるコンテンツを発表している。これはいわゆる「水からの伝言」論の紹介と、その問題点を抑える上では基本的なコンテンツとなっている。左巻健男の『水はなんにも知らないよ』や、田崎晴明の「「水からの伝言」を信じないでください」と併せて読みたい。また、「Interdisciplinary」でも、森昭雄の『ゲーム脳の恐怖』を精査するという連載が始まった。こちらにも注目したい。

 ところで、「『水からの伝言』の基礎知識」を読んでいて吹いてしまった箇所がある。

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●著名人等の影響
芸能人や著名人で、肯定的に引用したり共感を示すような発言を示した例として次の方々が知られています。

芸能人・文化人等:倖田來未、ヨーコ・オノ、松任谷由実、平原綾香、さとう珠緒、安野モヨコ、谷村新司、米倉千尋、窪塚洋介、瀬戸龍介、柴田理恵、白鳥哲(映画「ストーンエイジ」の監督)、川島朗(東京女子医大附属 青山自然医療研究所クリニック)
政治家:松あきら(当時参議院議員)、大仁田厚(当時参議院議員)

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 いや、私は何も、これほどまでの人が「水伝」を信じていたのか、ということに対して吹いたわけではない。少なくとも「芸能人・文化人等」で瀬戸より前に挙げられている人が信じていたことは既知だし(特に松任谷、谷村、米倉は個人的にファンなだけにどうかと思っている)、松が国会で「水伝」論をおおっぴらに宣伝したことも知っている。

 問題はこの人。《川島朗(東京女子医大附属 青山自然医療研究所クリニック)》だ。いやあまさかこの人が「水伝」の信者なんて、言っちゃ悪いけど実に納得してしまった。そもそも川島は、『心もからだも「冷え」が万病のもと』(集英社新書)なる本で、現代人の身体の以上は全部冷え性が原因だったんだよ!(な、なんだってー!!)といった内容の主張を展開している。しかも同書6章によれば、少年犯罪や「ひきこもり」も、身体が冷えているからだそうだ。

 とはいえそれを論証するための「証拠」が、自分が見た事例を一般化しているばかりなので、全く信頼性に欠ける。こういうのは、森昭雄や岡田尊司、あるいは幕内秀夫や丸橋賢などといった疑似医学系の通俗的な若者論では常に見られる論法である。

 ところでこれはあくまでも仮説なのだが、俗流若者論にはまる人って、ニセ科学に親和的なんじゃないだろうか。これはその逆よりもかなり関連性が強いのではないかと思う。要は通俗的な青少年に対する認識、要するに今の子供や若年層は根本的に異常である、ということを「納得」するため、あるいは「異常」な若年層を「矯正」する論理を構築するために(もちろん、両方である場合もある)、ニセ科学が使われる、ということだ。

 例えば森だ。『ゲーム脳の恐怖』の余りにも有名な一説である。

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 昨年、幕張メッセで開催されたテレビゲームショーに行くチャンスがあり、見学してきました。その会場の異様な雰囲気に私は驚き、ショックを受けてしまいました。というのも、中学生風の女の子が、左右に立派な白い羽をつけたエンジェルの格好をして、真面目な顔で歩いているのです。しかし、会場をよく見回してみると、テレビゲームのなかに出てくるキャラクターそっくりの衣装に身を包み、無表情で歩いている小中高生が、彼女のほかにも百人前後いることに気がつき、再度ショックを受けました。

 このとき、私はこの子たちの将来、そして日本の未来はどうなってしまうのだろうかと心配になってしまいました。本当に自分が別世界に来たみたいで、自分の意識を一瞬疑ってしまいました。
 (『ゲーム脳の恐怖』pp.4-5)

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 少なくとも同書、あるいは森の他の著書にあたれば、森の展開する「ゲーム脳」論が、このような若年層に対する歪んだ視線と決して無関係ではないことがわかる。また、森の言説を教育に持ち込もうとしている人たちや(高橋史朗とか)、あるいは森の理論に依拠して若い世代を語ろうとしている人たち(瀧井宏臣とか)も同じだろう。香山リカにしても、最初は「ゲーム脳」論に懐疑的だったけれども、岡田尊司が「脳内汚染」論(これも「ゲーム脳」論の二番煎じに過ぎないのだが)を展開すると、岡田は常に子供と向きあっている人間だから、岡田がそう実感しているのであれば、もしかしたら正しいのではないかなどと考えるようになっている。

 「水伝」が教育に導入された事例も同じ構造だろう。そもそも菊池誠や田崎や左巻、あるいは「『水からの伝言』の基礎知識」も指摘しているとおり、「水伝」が教育に用いられる際には、《およそ「人体や地球表面の大半は水なので、人間や環境も言葉の影響を受けます。だからよい言葉を使いましょう、水や自然、人に感謝しましょう」といったこと》(「『水からの伝言』の基礎知識」)という目的で使われる。もちろん、このような主張に対して、そもそも言葉などの美醜は文化によって差があったりするので、それをさも科学的な事実として証明されたということを偽装して、ある種の主張の押しつけに使っているのではないかという批判はされるべきである(このことを揶揄する論法として、「shine」という言葉を水に見せたらどうなるのか、というものがある。これは英語では光を表すが、ローマ字で表記された日本語であると考えると「死ね」になる)。ただ、他方で、なぜこんな非科学的で下らないものが道徳の授業に使われるのか、ということについても考える必要があるのではないかと思う。

 先に挙げた川島にしても、冷え性がどうとかというよりも、少なくとも青少年問題については、そもそも子供たちが異常になっている、という考え方があって、そこから冷え性原因論、あるいは水伝への肩入れになってしまったのではないか、という考え方もできるかもしれない。ニセ科学批判は、その非科学性に対する批判も必要であるが、それと同時にイデオロギー批判としての側面からのアプローチも可能であるし、こういうときこそ社会学などの出番なのではないかと思う。

 〈補記〉
 川嶋について商品を楽天で検索してみたところ、なんとこういうのがあった。「【DVD】波動医学連続講義波動医学実践試論 講師:川嶋朗

 「波動」!これって明らかに、物理学でいうところの波動ではなく、ニセ科学でよく使われる類の「波動」なんだろうなあ。大体これが売られているショップの他の商品を見てみると、怪しげな健康商品がたくさん出てくる。東京女子医大はこういう人が教員(准教授)を務めていることについて、どう考えているのか。

 ちなみにこの川嶋、江原啓之(笑)が編集した『KO・NO・YO』(新潮社)なる本にも登場している。嗚呼。

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2008年2月 3日 (日)

また「サンデーモーニング」か!

 出かける前に書いておく。

 久々にTBSの「サンデーモーニング」の「風をよむ」を見たわけだが、やっぱり酷かった。この番組については、以前「「食の安全」で本来考えるべきこと(あるいはTBS「サンデーモーニング」の頽廃)」という記事で採り上げたけれども、今度はつい先日の冷凍餃子中毒問題を、あろう事か最近の日本人が昔のよさを忘れたからだ、という結論に持って行こうとしていた。しかもそれが環境問題と密接に関わっているんだってさ。

 ちょっと待て。かなり奇妙な話だ。例えばこの番組では、食糧の輸入が多い国(=日本)は環境に負担を与えていると主張したいがために、「フードマイレージ」(食糧の輸入量と輸送距離を乗したもの)なる新単位を導入して、日本は環境に一番負担をかけている国だとしている。だが、環境省の資料によれば、実際の二酸化炭素の排出量が多いのはアメリカで、次いで中国、ロシアと来て、日本となるのだが、日本の排出量はアメリカの5分の1程度、中国の4分の1程度である。仮に二酸化炭素が地球温暖化の主因となっていると考えるのであれば、もっとも重視すべきは二酸化炭素の排出量だろう。

 さらに、食糧の他生産の外注の問題は、グローバルな経済システムと、その中で徘徊する新自由主義の問題と切っては切り離せない。これは極めて普遍的な問題だ。例えば、チャールズ・フィッシュマン『ウォルマートに呑みこまれる世界』(中野雅司:監訳、ダイヤモンド社)では、ウォルマートが安さを求める余り、生産の拠点を次々と外国(主として中国)に移転させ、そして国内の雇用や産業を衰退させたという話が展開されているけれども、これは何も米国に限った話ではなく、我が国だってかなり似たような側面があるかも知れない。

 そして何よりも考えるべきなのが、やはり生産管理や衛生の問題であろう。そして「サンデーモーニング」は、生産管理・衛生の問題と、グローバルな経済の問題などを全てすっ飛ばして、日本人の心のあり方の問題に帰してしまったのだ。お前はいつから教育再生会議とか「こころを育む総合フォーラム」とかになっちまったんだ。本当に考えるべき視点を無視して、こういう心の問題にすり替えたがる連中こそ、今の政権与党の旗振り役にはぴったりだと思うんだけど。いい加減「サンデーモーニング」を左翼だと言うのはやめにしないか。こういうところ(あと教育や青少年問題)ではしっかり俗流保守なんだから。

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2007年11月 4日 (日)

「食の安全」で本来考えるべきこと(あるいはTBS「サンデーモーニング」の頽廃)

 久々にTBSの「サンデーモーニング」の「風をよむ」を見たわけだが、相変わらず酷かった。TBSときたら筑紫とか亀田(笑)とかを叩く人は多いけれども、少なくとも「サンデーモーニング」だって十分に酷いよ。

 「風をよむ」のテーマは「食の安全」。まあ、学力低下している(笑)「サンデーモーニング」だから、まともな内容を期待する方がおかしいのだけれども、今回は明らかに納得がいかなかった。

 コーナーの構成としては、まず、製造時間などが明確に管理され、ある程度時間が経ったものは破棄するという寿司屋。次に、賞味期限が切れた食べものは絶対に食べない、という子供、食べさせないという若い親。さらに、食品の製造日表示が賞味・消費期限の表示に変わったのは欧米の「外圧」という指摘。

 そこから、「かつては個々人が食べ物の品質の管理を行なっていた」として、そのための様々な道具や手法が紹介され、高齢者に対するインタヴュー。ところがそれが近年になって失われているという「食文化研究家」の指摘。そして、出演者たちの話で、全てが人任せになってしまった現代においては人々の感性が衰退してしまったと述べ、そこから話は教育の話題になってしまう(当然、「食育」なんてのもでてきました。ついでに「食育」の怪しさについては「怪しい「解決策」」を参照されたし)。

 相変わらずの「感性が豊富だった「一昔前」/豊かになったけれども感性が衰退した「現代」」という対立図式にうんざりだけれども、こと今日の「風をよむ」に限って言うならば、以下のことについて述べる必要がある。

 第一に、戦後、我が国における栄養状況は大幅に改善されたこと。これについては「怪しい「解決策」」でも述べたので、二言はしない。ただ、そのようないい点を見過ごして、ただ単に感性や想像力が貧困になった、ということを言う人に対しては、あんたの知識のほうがよっぽど貧困じゃないか、と優しく指摘してあげましょう(笑)。

 第二に、このような量的な分析や、あるいは改善された面を無視して「昔のほうがよかった」と述べ、それを肯定することは、ニセ科学の温床である。これも先ほど採り上げた記事で述べた。

 第三に、今まで問題にならなかったのが現在になって急に問題視されるようになった、という観点の欠如。典型的なのが犯罪言説における「心」の問題であろう。森真一は以下のように述べる。

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 さまざまな事件や病理現象が起こるたびに、マスコミに登場するキャスターや評論家、専門家は“現代人の道徳意識や自己コントロール能力が衰退してきている”という趣旨の発言を繰り返している。(略)しかし現実にそうなのだろうか。むしろ、道徳的でしかも高度な自己コントロール能力の要求に応えようとする「聖人」のような人たちこそ、増えているのではないだろうか。
 (略)
 現代社会はデュルケムのいう「聖人たちから成る一社会」あるいは「僧院」のような社会である。また、「共同意識がより協力となり」人々の間のズレが僅少化している社会でもある。それゆえ、人々は相互に「共同意識」からの微妙なズレも見逃さず、これを非難する。(後略)
 (森真一『自己コントロールの檻』講談社選書メチエ、pp.60-62)

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 まあ、「僧院」の元締めたるマスコミが、自らの信奉する道徳から少しでも外れたものは叩きたくなるのは当然の理かもしれないが(笑)、人々の「安全」に対する敷居が限りなく高くなることもまた(社会的に構築されるものとしての)「問題」を生み出す、という視点も必要だと思う。何もこれは犯罪に限ったことではなく、給食費の未納に関する「問題」や、あるいは子育てだってそうだろう。

 そもそも「食の安全」が脅かされていると言われる昨今の「事件」においていったい何人の人が死んだのだろうか。こういうことを考えるのは極めて愚かなことはわかっているけれども、このような「事件」が騒がしく取り沙汰されることによって、他に採り上げられるべき問題が隠蔽されてしまう。というよりも、今この状態で集団食中毒なんて起こったら、果たしてどのような反応をマスコミはしてしまうのだろう。

 こういうときこそ、現実と実感の乖離によって起こる「モラル・パニック」を鎮めるための言説が必要なのではないか。変な「食文化研究家」など出さず、科学者や栄養学の専門家を出すべきだ。

 渡辺正は以下のように述べている。

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 残留農薬は「食品衛生法の基準値を超えた~」という報道もありますが、基準値は、体に影響がないレベルよりずっと低く決めた値。基準値の10倍や100倍の農薬が残っている野菜を食べ続けても心配いりません。アルコールのほうが影響大。もし農薬と同じ基準でアルコールを規制したら、1日に飲めるお酒はわずか2滴(0.1ml)に。僕は毎晩その3000倍飲んでいますよ(笑)。

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 BSEに感染する確率は、危険部位を除いた場合、ある試算によると、日本では100年にせいぜい1人。それを心配するなら、日本はお風呂で年間約3000人亡くなっていますので、風呂を100回に1回減らすほうがずっといいでしょう。確率論的には、牛肉を食べてBSEに感染する心配は、隕石に当たる心配をするようなもの。仮に100年間の全頭検査費用を2000億円としたら、税金が使われるわけで、もっと有効な使い道があると思いませんか?
 (以上2つ:安原宏美「「危ないニュース!」のウソ・ホント」、「おはよう奥さん」2007年7月号、学習研究社、pp.188。「冬枯れの街」の「ふつうに生活してる分には何の問題もありません!by 渡辺正 日本化学会副会長」から、本文を参照した上での孫引き)

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 後者の狂牛病の検査に関する議論は若干割り引いて考える必要はあるかもしれないけれども、今この瞬間にも経済的な苦難で自殺する人はいるだろうし(厚労省の統計(「自殺死亡統計(人口動態統計特殊報告)」平成17年版)によれば、最近になって30代の人口あたりの自殺者数がわずかながらであるが増加している)、風呂場や階段で死ぬ人(特に高齢者)もたくさんいるという事実もまた直視されるべきだろう。

 また我が国においては食品の安全管理はかなり徹底されており、渡辺正が言っているとおり「普通に生活している分には何の問題もない」。さらに言うと、これらの「事件」は、ただ単に賞味・消費期限の表示が偽装されていただけで、製造工程で異常なまでの菌が入っていたなどの、真に危険視すべき情報は(少なくとも報道に依拠する限りでは)ない。

 「食の安全」で本来考えられて然るべきことは健康とリスクの観点であり、「日本人の感性が衰退した」などという反証不可能かつ左翼くずれ高齢者層の「癒し」にしかならないことを述べるのは論外もいいところだ。

 しかし、こういう議論を見て、生産者や農村部の人たちはどういう風に思っているのだろう。ま、不二家の「事件」に際して、ありもしない職員の「発言」を捏造したTBSのことだから、こういう人たちの意見を掬い取ることなんて眼中にないんだろうけど。

 〈補記〉

 そういえば、賞味・消費期限表示の「偽装」報道について、「何日分」偽装していたかのことについて、触れたマスコミって、あっただろうか。少なくとも「サンデーモーニング」は触れていなかったけど。

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2007年10月26日 (金)

怪しい「解決策」

KOYASUamBLOG2:児童調査票から

 ついでに全国学力テストについても論じてみる。上の記事で、子安潤は、児童調査票によるクロス集計のデータを問題視している。

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いくつかの疑問を感じる。
一つは、相関させればその結果だろうけれど、それぞれの判断は因果関係の証明ではない。正答率の高い子がそういう環境・条件におかれているだけだ。
二つには、にもかかわらず、読書や朝食を摂るように強制する数値に利用される。
三つには、因果関係として利用されるから、なぜ読書ができないかといった原因と無関係に強制されてしまうことにある。結果として、強制されても読書はできない。
四つには、ひどく「よい子」圧力の強い分析となっていることだ。

学校調査にも同様の圧力が見られる。

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 なるほど。確かに相関関係すなわち因果関係として、様々な「解決策」が繰り出されるのは確かに危険だし、《ひどく「よい子」圧力の強い分析》となるのは間違いないだろう。

 ところで、この百花繚乱の「解決策」の中でも、とりわけ支持が強いのが「食育」だ。安原宏美はこう述べる。

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 「道徳」とか「9 条」とか「愛国心」のワーディングの話だと、「なんかやばそう・・・」という気がする人は多いと思う。けれども、「バランスのとれた食事を!」とか「子どもを犯罪から守ろう!」とか「環境をきれいにしよう!」 というのは大筋多くの人が同意できるので、私が権力者なら、こっちで粛々と物事を進めます。「そんな、目くじらたてること?」といわれそうな話で。

 2005年7月に食育基本法が施行されました。いまや日本全国の学校等で、食育が行なわれているようです。でも中にはコンビニ弁当や添加物を「毒物」扱いしたりする行き過ぎた授業もあるようです。

 かのTOSS の「食育」授業にはこのようなラインナップもあるようです。「自然塩」と「食塩」であさりの「砂出し」の実験があって、「自然塩は3分で殻が開いて、食塩なら5分。よって自然塩のほうが身体にいい」とか書いてある・・・。ええええーーーー!!まず、5分でも開かないと思うけどー(昔撮影でやったことがあります)早く開いたからって体にいいとか悪いとかでもないと思うが。
 (「女子リベ  安原宏美--編集者のブログ」:「「食育」も「キレる子ども」から」)

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 うわあ。そんな理由で自然塩のほうが健康にいいと言っちゃうのか。すごいTOSSクオリティだな。

 ちなみに狂信的な「食育」推進論者が軒並み敵視するのは砂糖である。これまた安原によれば、服部幸應はこういう風に書いているという。

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 箸の使い方や偏食などを正す指導や注意をされないままで済まされ、それに慣れてしまうと、ほかのことで親から注意や意見をされたときに、ムカついてキレる原因につながってしまいます。

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  (清涼飲料水を飲むと低血糖になって)、アドレナリンというホルモンが出ます。これは一種の闘争ホルモンでこれが出てくることで興奮状態になり暴力的な精神状態になってきます。低血糖の状態を補うためにアドレナリンが一気に出てきて興奮状態になるので、いきなりキレてしまい、しかも脳が活動していないために、自分でもわけがわからないうちに、人に暴力をふるったりしてしまうことが起こるといわれてます。

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 もちろんこれは科学的に誤りだ。例えば横浜国際バイオ研究所社長の橋本仁は以下のように述べる。

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 1998年1月28日栃木県黒磯市で、中学校の女性教諭が男子生徒にナイフで刺殺された事件がありました。
 事件の解説記事の見出しは、「キレる、いじめ-食生活に原因」、「食に関する教育の周知徹底を」、「砂糖の摂りすぎが心を不安定に」となっており、本文中に、某教授のコメントがあって「『栃木県の女性教師刺殺事件が起こった時、生徒がキレた状況は砂糖を大量に摂ったときの症状と似ているなと思った』砂糖を大量に摂ると、体内でインシュリンが大量に分泌され、血糖値が下がりすぎ、いらいらしたり暴力行為を起こしたりする。子供たちの心が不安定な原因の 1つは砂糖の摂りすぎにあると某教授は考えている。」と書かれていました。
 砂糖の摂りすぎによって低血糖が起きるということは、世界的にも科学的に否定されていることです。しかし、そうした記事が出ましたので、改めて「砂糖を科学する会」のメンバーである山梨医科大学の佐藤章夫教授にヒトを使った検証をお願いしました。学生に1回75gの砂糖を1日4回食べさせ、血糖値を計測するというものです。これは1日当たり300g、日本人の平均摂取量の6倍という高い水準ですが、それでも低血糖にはならないことが証明されています。
 さらに、浜松医科大学の高田明和教授は子供の脳には糖分が不可欠であり、脳内のドーパミンやセロトニンが増えることによって精神は安定し楽しくなる。そして、こうした脳内物質を増やすためには、砂糖や肉が重要な役割を果たしているとおっしゃっています。
 (橋本仁「砂糖への疑惑の払拭」

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 だが、服部のような主張は、例えば幕内秀夫も言っている(『勉強以前の「頭の良い子ども」をつくる基本食 』講談社、など)。彼らの言い分は、栄養学的に設計された食事は役に立たない、伝統に基づいた食事こそが一番なのだ、というものだろう。だが、そのような認識こそが、疑似科学の温床である(「科学ではわからないことがある」ということを金科玉条の如く振りかざす疑似科学者や似非霊能者のように。ついでにこの手の論者が、犯罪や教育の統計について呆れるほど無知なのは仕様です)。

 ちなみに松永和紀は、戦後の日本人の栄養が著しく改善されたことに触れ、こう述べている。

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 昔の平均的な日本人の食生活は貧しく、それが短命につながっていたというのは栄養学者の一致するところです。日本人は戦後しばらくまで、平均寿命が60歳に届きませんでした。生活改良普及員や保健婦などの地道な生活指導のおかげで、世界一の長寿国になったのです。

 ところが、昔の日本人が味噌をはじめとする大豆製品を多く食べ、健康的な生活を送っていたような錯覚が、一部の研究者や料理研究科、マスメディアなどによってまき散らされています。一時期流行した粗食など、どれほどマスメディアでもてはやされたことでしょうか。
 (松永和紀『メディア・バイアス』光文社新書、pp.161)

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 これが正しい認識だと思う。

 ところで、別に「今日行く審議会@はてな」の記事「フィンランド探し」にけちをつけるわけではないが(というより全面的に支持しています)、服部や幕内は、学力が最高だといわれているフィンランドの食生活を調査したらどうでしょうか(棒読み)。どうせたくさんの支持者と大手の新聞社や出版社がバックについているのですから、これくらいやらなければ顔が立たないというものでしょ。

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2007年10月16日 (火)

気になる本(H19.10.16)

 忘れないうちにメモしておく。安原宏美がブログで『臨床心理学における科学と疑似科学』なる本を紹介していた

 安原によれば、このようなことが書かれているらしい。

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 「心」に問題が集約することに問題意識を持っている方、逆に以下のような話を信じている方にも、決定版の本が出ました。

●虐待を受けた子どものほとんどが虐待する親になる

●アルコール依存症の子どもはアルコール依存症になる

●子どもは性的虐待について決してうそをつかない

●ロールシャッハテストのような投映法は、性格異常、精神病的な多くの形式、性的虐待を正当に診断する。

 すべて誤りです。

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 すごく気になるのだけれども、いかんせん高いな。修論などのためにもいろいろと勉強しなければならないこともあるし。さて、どうするか。

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