あまりに勘違いに満ちた…
さて、以前に予告していた通り、鈴木謙介『チャーリー式100Q/100A』(ランダムハウス講談社。以下、断りがないならここからの引用)におけるニセ科学批判批判(Q80)について論評してみるよ…と思ったのだが、改めて読んでみると、どうも勘違いに満ちているというか、大多数のニセ科学批判言説とここで採り上げる鈴木(+荻上チキ)の議論がかみ合わない気がするのである(蛇足だけど、他の「質問」が概ね3~4ページくらいで終わっているのに対し、なぜかこの「質問」だけ5ページもスペースが費やされている)。なんというか、彼らの脳内で「ニセ科学批判者」のイメージをでっち上げ(ちなみにモデルはほぼ確実に私だろう)、具体的な言及を避けて、そのイメージに対して攻撃を仕掛けている感じがする。
ま、この「質問者」(24歳男性という設定。ついでに宮城県在住、大学院生とか書いてくれれば完璧なのに)の台詞からして、
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こんなのがあるから日本はダメになってしまうんだ!本当にこの国はまっとうな近代社会なの?(p.245)
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などと書いてあるのが駄目。第一、そういう風に考えている人っているのかしらね。
それはさておき。《菊池誠さんのような人が批判しているニセ科学》を《明らかにニセ科学なケース》であると述べているけれども、菊池(ほかニセ科学批判者)が批判しているのは別にそういったケースばかりでもないだろう。だが問題はここから。
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ゲーム脳だってそう。「肉ばかり食べていたらダメ」とか「ゲームのやりすぎはダメ」っていうのは、科学的な問題じゃないでしょう。(pp.246)
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ハイその通りではあります。しかし、ゲーム脳論批判において外せない論点としてあるのは、そのような《ゲームのやりすぎはダメ》という道徳律を、「ゲーム脳」の如きニセ科学で正当化することの問題である。これは「水からの伝言」論も同じで、「きれいな言葉遣いを心がけましょう」などといった道徳律の正当性を「水」に仮託することの問題点についても、採り上げられているはずである。
そういう指摘を無視して、《どこまでをニセ科学と捉えるかという話をすると、科学論の話になるよね》(p.246)と軽々しく言わないでいただきたい。
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質問者とはおそらく、話が逆なんだ。「世の中合理的にいくはずなのに、邪魔してるニセ科学のせいでうまくいかない」んじゃない。私たちは、「非合理的なもの」を世の中の中心からどんどん切り離してきた。(p.246)
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この点はよく誤解される(というか向こうが勝手に脳内で誤解している)ことなのだが、ニセ科学批判論者で《世の中合理的にいくはずなのに、邪魔してるニセ科学のせいでうまくいかない》などと考えている人はどれだけいるのだろう。少なくとも個別の非合理な議論に対する批判はいくらかあれど、非合理的なものすべてを呪詛しているような言説を展開している人はほとんどいない。
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だから、なぜニセ科学が出てくるかって聞かれたら、「私たちの社会が合理的に運営されている近代社会だからです」としか言いようがないんだ。(p.247)
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この点も、ニセ科学批判者が考えるような原因論とかなり違っているように見える。少なくとも我々の(?)理解では、ある種のニセ科学がはやってしまう理由は概ねこれくらいに収束されるのではないかと思う。
第一に、特定のイデオロギー的性向に対し、それを「正当化」してくれるものとしてニセ科学が流行るというもの。例えば脳の重さに基づく民族の優位性の主張とかがそれにあたる。第二に、一般の科学が曖昧な答えしか提示しないのに対し、ニセ科学の多くは明確な「答え」を出してくれる故に流行るというもの。怪しげな健康情報なんか典型で、それの戯画化に成功したのがMOSAIC.WAVの「ギリギリ科学少女ふぉるしぃ」である(笑)。そしてこのあたりの「解決」が困難であるのはむしろニセ科学批判論者のほうが肌で感じていることなのではないかね。
しかもp.247では荻上(?)がいきなりこんなことを言い出す。
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――「メディアリテラシー弱者叩き」「ニセ科学叩き」をしている人は、必ずしもそれが「間違っているから」叩くわけではないですよね。合理性同士の衝突に、根拠を与えるために利用されている部分もある。どうして私たちは、他人の合理性にまで口を出すのでしょう。(p.247)
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いや、だから、多くのニセ科学批判者は他人の合理性に口を出そうとはしていないと思う。それになんで唐突に《メディアリテラシー弱者叩き》なんて言葉が出てきたのかわからん。多くのニセ科学批判者は、たといニセ科学を批判しても、それを信奉する人を嘲笑するなんてしないだろう。《必ずしもそれが「間違っているから」叩くわけではないですよね》などと言うのであれば、まずどのような状況でそういうことが起こっているのか示すべき。それでは単なる嘲笑となんら変わりない。
また荻上(?)の発言。
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――「科学」についていえば、(略)たとえば「水伝」については科学的に「反証」は可能ですよね。だとすれば「ニセ科学」というレッテル貼りだけではない検証が求められる。でも、そういう検証にコミットするよりも、多くの場合は「プギャー」と嗤いたいだけ、バッシングが先鋭化する人もいます。(p.248)
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これを受けて鈴木は言う。
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一般に「ニセ科学批判」が問題になるのは、そうでない人(引用者注:専門家でない人)による場外乱闘でしょ。(略)「科学的知識」を基にしたそうした振る舞いは、あくまで「政治過程のコミュニケーション」だから。(略)
でもあるとすれば、「プギャー」という行為の先に何を求めるかをはっきりするところからだよね。その批判に依って、相手を改心させたいのか、それは無視して動員したいのか、あるいはもっと狭い身内だけで喜びたいのか、相手を深いにさせて楽しみたいのか。改心させたいなら、相手を怒らせてもしょうがない。説得しつつ、動員をやっていくのであれば、ユーモアや滑稽さを提示しつつ、少しずつ外堀を埋めていくという狡猾さが必要。(pp.248-249)
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「注文」つけられました。しかし、これを読む限りでは、ずいぶん誤解が多いし、特に後段はニセ科学批判を莫迦にしている印象すら受ける。少なくともここまでの論旨の展開を見るのであれば、《「ニセ科学批判」が問題になるのは、そうでない人による場外乱闘》という物言いは、ニセ科学批判を意図的に《合理性同士の衝突》みたいなものに矮小化させている行為にしか見えない。
第一、鈴木らがニセ科学批判に《政治過程のコミュニケーション》=《「プギャー」という行為》程度の認識しか持っていないのであれば、なぜニセ科学が批判されるのかについて思慮が浅くなるのは当然だし、またそれが個々のニセ科学について違ってくることもわからないと思う。そもそも、(《政治過程のコミュニケーション》=《「プギャー」という行為》ではない)ニセ科学批判は専門家にしかできないという認識それ自体が間違いだろう。
ちなみに《たとえば「水伝」については科学的に「反証」は可能ですよね。だとすれば「ニセ科学」というレッテル貼りだけではない検証が求められる》などと軽々しく述べられているが、少なくとも「水伝」については別に実験しなくとも今までの経験で概ね間違いであると見なせるのは、田崎晴明の「「水からの伝言」を信じないでください」の中で述べられている通りである。
ここで採り上げた部分以外は、概ねニセ科学批判者が見たら「そんなの知ってるよ」と言うことばかりなのではないかと思う。政策や教育に関する議論とコミュニケーションに関する議論を分けよ、というのは概ねわかりきっている(しかし、単なるコミュニケーションのツールに過ぎないものが、血液型ハラスメントなどの社会的に有害な行為につながったりという例に見られるとおり、政策論とコミュニケーション論は明確に分けられないとも思う)だろう。
結局鈴木らのニセ科学批判批判が的外れに見えるのは、ニセ科学批判の現状も、またその周辺や根本に位置する科学論、科学哲学への言及も薄いまま、ニセ科学批判論者の(鈴木らが考えるところの)社会学の言葉を使ってメタに立ったつもりになっているからだろう。結局「プギャー」と言いたいのは鈴木らのほうなのではないか、という疑念が私からは消えないのである。
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