『「若者論」を疑え!』訂正のお知らせ
『「若者論」を疑え!』の訂正箇所をここで公表します。これ以外にも間違っている箇所などありましたらメールにてご連絡いただけますと幸いです。
第1章p.61 5行目
誤:教師を刺し殺していたのです
正:教師を刺し、2週間の怪我を負わせたのです
なお、この訂正箇所も含め、資料の出典などの一覧を記したWikiを5月中に作成予定です。それまでは暫定版を公開しておきます。
| 固定リンク | コメント (0) | トラックバック (1)
『「若者論」を疑え!』の訂正箇所をここで公表します。これ以外にも間違っている箇所などありましたらメールにてご連絡いただけますと幸いです。
第1章p.61 5行目
誤:教師を刺し殺していたのです
正:教師を刺し、2週間の怪我を負わせたのです
なお、この訂正箇所も含め、資料の出典などの一覧を記したWikiを5月中に作成予定です。それまでは暫定版を公開しておきます。
| 固定リンク | コメント (0) | トラックバック (1)
(これは宣伝専用のエントリーですので、トラックバック・コメントは受け付けないこととします)
前々から告知していたのですが、私の新刊となります『若者論を疑え!』(宝島社新書)が今月9日ごろに発売されます。アマゾンではもう予約が始まっているので、この機会にぜひ。
発売したら著者自身による解題なんか書こうと思います。書ければいいなあ。
| 固定リンク
以下のサイトにトラックバックします。
EU労働法政策雑記帳:現代の理論
西野坂学園時報:2008年巻頭言 日本経団連と新自由主義に裁きの鉄槌を
女子リベ 安原宏美--編集者のブログ:「少年法の改正と児童福祉の課題」
今日行く審議会@はてな:流されないこと
―――――
「現代の理論」(明石書店)平成20年新春号に、私の書いた文章「さらば宮台真司――脱「90年代」の思想」(pp.100-109)が掲載された。今回は、この文章について、著者自身による若干の解題を書いてみることとしたい。
まず、この文章が掲載されたいきさつであるが、実をいうと件の論考は、編集部から頼まれて執筆したものではなく、自分で書いてみた文章を売り込んだものだ。というのも、平成19年8月、このブログにおいて「俗流若者論ケースファイル85・石原慎太郎&宮台真司」という文章を書いて、そもそも我が国の若者論にとって宮台とはいかなる存在であったか、ということを考えずにはいられなかったからだ。そこで私はかつて収集していた宮台の若者論を改めて読み直し、そして分析を加えてみた。そしてそれを様々な雑誌や知り合いの編集者に売り込んだのである。
売り込む過程で、様々な人から様々なアドバイスをいただいた。また元の原稿を見せた編集者がまた別の編集者に読ませたりということもあった。そんな中、幸運にも、売り込んだ雑誌の一つであった、「現代の理論」の編集部の方から、文章を掲載させて欲しいとの連絡があり、私は早速それに応じた。まず、私のつたない論考を掲載することを認めてくださった編集部の方に、この場を借りてお礼を申し上げたい。
さて、本題に入ろう。本稿のタイトルは、ずばり「さらば宮台真司」である。そもそも宮台は、平成6年の、いわゆる「ブルセラ論争」によって、若年層の「味方」、あるいは「理解者」「代弁者」としての地位を築いた。宮台は当時から、若年層における「道徳観の低下」という言説を批判し、若年層の道徳は壊れているように「見える」だけで、それはむしろ世間などの「大きな物語」が消えたからだ、という論陣を張っていた。
そのような傾向は、平成7年、オウム真理教の事件より加速する。宮台は「終わりなき日常」を連呼していた。そこで比較されたのは、「オウム信者」、すなわち強迫観念的な「さまよえる良心」を持ち、その「良心」故に大事件を起こすようなものと、「女子高生」、すなわち「オウム信者」が抱えているような大変革への願望を持たず、「終わりなき日常」を「生き抜いている」ものであった。宮台は、前者を否定し、さらにオウム事件における評論家たちの言説をも否定し、後者を肯定した。
このような論理が展開されているのは、「オウム完全克服マニュアル」という壮大なサブタイトルがつけられた、『終わりなき日常を生きろ』(ちくま文庫)である。さらに、同書の文庫版あとがきには、宮台の「勝利」が宣言されていた。具体的にいえば、「女子高生」的なものが蔓延することによって、「オウム信者」的なものが生きづらくなり、その「救済」をしなければ大変なことになる、というものであった。
事実宮台は、平成9年の「酒鬼薔薇聖斗」事件の直後、『まぼろしの郊外』(朝日文庫)や『透明な存在の不透明な悪意』(春秋社)、『学校を救済せよ』(尾木直樹との共著、雲母書房学陽書房)などで、「専業主婦廃止」などの「救済」プログラムを打ち出した。
だが、宮台は、ここで若年層を見誤っていなかったか。例えば『終わりなき日常を生きろ』で採り上げられている事例も、実のところ実証性というものはなく、ただ自分の身の回りのインタヴューくらいでいろいろと妄想を構築しているものであったし、少年による凶悪犯罪も1960年代に比してはずっと少ないし、「酒鬼薔薇聖斗」事件が本当に宮台のいうような性質のものであったかということもわからない。この手の事件は、それ以降はほとんど起こっていないからだ。
そればかりではない。宮台はのちに、平成8年頃より、いわゆる「援助交際」に関するフィールドワークを辞めた、と公言している(『制服少女たちの選択』(朝日文庫)文庫版あとがき)。宮台にとって平成8年頃は《「とてもポジティブな時代」》が《終わった》(宮台真司[2006]p.395)ものであり、さらにその時代以降の「援助交際」女子高生は《私にとってのエイリアン》(宮台真司[2006]p.397)であると公言してすらいる。
思えばこの時期あたりから、宮台の言説は実証性をかなぐり捨て、若年層に対する突飛なイメージをひたすら煽り続けるようなものに変貌していた、といえるかも知れない。宮台が教育政策などとの忖度をろくに行なわずに、簡単に「救済」などと述べるようになったのも、宮台にとって若年層が「理解可能」な存在でなくなったことが原因といわざるを得ない。もちろん、変わったのは若年層というよりも、宮台の若年層に対する見方である。
そうなれば、宮台が平成10年頃より連呼するようになる「脱社会的存在」なるテーゼも理解できようというもの。宮台が安易な「社会防衛」に走ったのも、結局のところ宮台が若年層をモンスターとしてしか捉えていなかったことの証左なのである。なお、「現代の理論」文中ではスペースの都合上で触れられなかったが、この部分は芹沢一也の『犯罪不安社会』(浜井浩一との共著、光文社新書)での分析に大いに触発されている。ただ私の視点が芹沢と違うのは、芹沢が少年犯罪に対して寛容さを失っていく社会を掘り下げていくのに対し、私はその後の宮台の言説がいかに実証性に欠けているものであるか、ということを証明している。
例えば、平成19年3月に出された鼎談本である『幸福論』(鈴木弘輝、堀内進之介との共著、NHKブックス)の以下の記述を見てみよう。
―――――
ところがどうしたことか(笑)、偏差値七〇以上の大学でも学力はどんどん落ちているし、「人間力」にいたるとベキ乗くらいの速度で落ちている。分かりやすく言えば、「こいつはすごい」と思う人間に出会う可能性が十分の一以下に減った。それは間違いありません。(宮台真司、鈴木弘輝、堀内進之介[2007]p.35)
―――――
ギャグでいっているのだろうか。そもそも宮台はこのようなことを示すデータを一つも示していない。それどころか「人間力」などという(客観的な評価が不可能故に判断基準にするには極めて問題の多い)言葉を安易に用いているのだから、その言説のレヴェルはたかが知れているところだろう。結局のところ宮台のいっていることはいわゆる「ニセ科学」に他ならない。「ニセ科学」というと自然科学系のものを我々は想起しがちだが、宮台のような社会科学系のものにも注意を支払う必要がある。
それにしても宮台の最新のインタヴューである「出でよ、新しき知識人 「KY」が突きつける日本的課題」(「現代」平成20年2月号にも掲載されている)を読むと、いかに宮台が自らのやっていたことについて反省していないかということがわかる。例えば、
―――――
全体性を知らないエキスパートからは「善意のマッドサイエンティスト」が多数生まれます。自分が開発したものが社会的文脈が変わったときにどう機能し得るかに鈍感なエキスパートが、条件次第では社会に否定的な帰結をもたらす技術をどんどん開発していきます。(以下、断りがないなら全て「出でよ、新しき知識人 「KY」が突きつける日本的課題」からの引用)
―――――
私の見る限りでは、これは明らかに宮台のことである。なぜなら宮台は、平成9年頃、それこそ全体性など無視して若年層の「救済」「サルベージ」などを語り、舌の根の乾かぬうちに「脱社会的存在」などと不安を煽ったからだ。
―――――
不安はマスメディアにとっての最大のエサです。潜在的な不安があれば、不安を煽って視聴率を増やす戦略をとります。その結果、犯罪が増えていなくても、人々の不安だけが膨らむことになります。その延長線上に重罰化や監視カメラを要求する世論が盛り上がります。
―――――
「冬枯れの街」のエントリー「恐怖、この思念凝結兵器さえあればこの先千年を経てもなお統べる事ができよう!内在する恐怖によって~宮台転向記念碑~」でも突っ込まれているとおり、平成10年頃から若年層に対する不安を散々煽ってきたのも宮台である。
嗤うべきところは他にも多数あるので省略するけれども、我々は、宮台こそが若年層に対する不安を煽り続け、そして統計やデータ、及び科学的な検証によらない青少年言説を発信し続けてきた、ということを正しく認識すべきではないだろうか。そしてそのような言説が許されてきた「90年代」という時代の若者論についても、はっきりとノーを突きつけなければならないだろう。
そもそも90年代の若者論とは、青少年「問題」の肥大化と、青少年をめぐる解釈合戦によってその「問題」をバブルの如く大きくしていたような議論に他ならない。その中心にいた一人が、間違いなく宮台であった。今はそのような不安を鎮静させるのが先決でないか。そうしなければ、それこそ教育基本法の「改正」や、教育再生会議、あるいは種々の青少年「対策」のような、根拠のない不安に裏付けられた政治の動きを止めることはできないだろう。
ところで宮台は、こうも述べている。
―――――
ちなみに、文脈を参照して内容を割り引くことを「批判」と言います。批判というと日本では攻撃と勘違いされがちですが、違います。批判とは、隠されていた前提を明るみに出し、前提を取り替えると成り立たなくなることを証明して見せる営みのことを言うのです。
―――――
私の論考が、宮台の《前提を明るみに出し、前提を取り替えると成り立たなくなることを証明して見せる営み》となれば、著者としてうれしいことこの上ない(苦笑)。
引用文献:
宮台真司『制服少女たちの選択』朝日文庫、2006年12月
宮台真司、鈴木弘輝、堀内進之介『幸福論』NHKブックス、2007年3月
この記事が面白いと思ったらクリックをお願いします。→人気blogランキング
| 固定リンク | コメント (11) | トラックバック (4)
(これは宣伝専用のエントリーですので、トラックバック・コメントは受け付けないこととします)
「コミックマーケット73」の出展内容について改めて告知します(「雑記帳」の記事の転載です)。(H19.12.26,4:07A.M. 場所についてわかりづらい、というご指摘がありましたので、修正します)
サークル:後藤和智事務所OffLine
(私一人ですけど)
日程:12月31日(月)
場所:東京ビッグサイト、西1ホール「ら」ブロック08a
(詳しくはコミックマーケット公式サイト、及び「コミックマーケット73」カタログ(同人誌専門店、アニメショップなどで発売中)をご覧下さい)
内容:
同人誌(コピー誌)を1冊頒布します。当初は2冊の予定でしたが、分量などを考慮して1冊にしました。
「青少年言説WORKS -後藤和智の仕事2006~2007-」
A4、36ページ、中綴じ
頒布価格:400円(予定)
頒布部数:120部(予定)
収録…「本から時代を読む 「俗流若者論」と対峙する」、「論座」平成18年8月号
「左派は「若者」を見誤っていないか」、「論座」平成19年6月号
「「若者論を読む」用語の解説」…「現代用語の基礎知識2007」
東京YMCAシンポジウム(平成19年2月18日)のパワーポイント(私の発表分のみ)
市民立法機構シンポジウム(平成19年6月3日)の配布資料(私の発表分のみ)
特別書き下ろし「若者論に使える用語集」
―――――
第1章 総論編…格差社会、ニセ科学(疑似科学)、心理主義ほか
第2章 少年犯罪・治安編…犯罪統計、認知件数/検挙件数/暗数、体感治安ほか
第3章 教育編…教育再生会議/教育基本法の改正、メリトクラシー/ハイパー・メリトクラシー、自立支援/長田塾裁判、砂糖有害説(シュガー・ハイ)ほか
第4章 経済・雇用・労働編…生活保護、ニート、労働者派遣法ほか
第5章 ゲーム・インターネット・携帯電話編…強力効果論/限定効果論、シリアスゲーム、強い紐帯/弱い紐帯、情報化社会論ほか
―――――
皆様のご来場をお待ちしております。
| 固定リンク
(これは宣伝専用のエントリーですので、トラックバック・コメントは受け付けないこととします)
一応雑記帳でも宣伝したのですが、第73回「コミックマーケット」に出展します。
サークル:後藤和智事務所OffLine
(私一人ですけど)
日程:12月31日(月)
場所:西ら-08a
内容:
同人誌(プリンター出力)を2冊頒布します。
1. 今まで私が行なってきた仕事をまとめたもの。
収録予定…「本から時代を読む 「俗流若者論」と対峙する」、「論座」平成18年8月号
「左派は「若者」を見誤っていないか」、「論座」平成19年6月号
東京YMCAシンポジウム(平成19年2月18日)のパワーポイント(私の発表分のみ)
市民立法機構シンポジウム(平成19年6月3日)の配布資料(私の発表分のみ)
2. 若者論を検討する上で使える語句の用語集(50個程度を目標にします)を作ります。
皆様のご来場をお待ちしております。
| 固定リンク
以下のサイトにトラックバックします。
たこの感想文:(書評)下流社会
葉っぱの「歩行と記憶」:[赤木の森@][cinema]その時、「平和が希望」と言っちゃうのですか、
他山の石書評雑記(フリーライター小林拓矢のブログ):[メモ][社会学][速報]『下流社会 第二章』発売
冬枯れの街~呪詛粘着倶楽部~:立つ安倍、後を濁した環境「問題」~脱地球的兎問題とダンス~
すごい生き方ブログ:「反撃タイムズ」第二回!!
西野坂学園時報:武道必修化にカタルシスを感じる愚劣老人ども
女子リベ 安原宏美--編集者のブログ:刑務所で自己実現・・・
POSSE member's blog:職場のメンタルヘルス①
―――――
『下流社会 』(光文社新書)を平成17年9月に出して、それでベストセラーを飛ばした三浦展は、それ以降、連綿と同工異曲と言っていいような本を出し続けた。私はそれらについて、いちいちチェックして買い集めてきたわけだが、いい加減『難民世代』(NHK出版生活人新書)あたりで食傷気味になってしまった。というのも、三浦の言説においては、その根本において以下のような問題を抱えており、とてもまともな議論とは言えないからである。
1. 三浦はいつも膨大なアンケート調査などをもとにして本を書くけれども、一応全国調査もあるけれども、詳細な調査については東京都とその周辺の3県(埼玉、千葉、神奈川)だけにとどまっており、他の都市圏(大阪など)との比較もないし、地方に至っては言わずもがな。彼の地方に対する態度は『ファスト風土化する日本』(洋泉社新書)に端的に表れており、せいぜい「重大な」少年犯罪が起こった場所にタクシーで行く程度でその地方の根本的な問題がわかった気になっている。週刊誌の記者でももっと取材するだろう。
2. 三浦が「下流」と判断した人間(あるいは社会階層)に対しては、これでもかといわんばかりの罵倒を投げつけている。その態度は『仕事をしなければ、自分はみつからない。』(晶文社)と『「かまやつ女」の時代』(牧野出版)に顕著に表れている。
この2点が三浦の根本的な問題なのだが、多くの人はこれに気づかずに、ただひたすら三浦の言説をありがたがっている。2で採り上げた著書に対する批判で述べたとおり、三浦の言説は極めて差別的な色を含んでいる。
さて、このたび発売された、三浦の『下流社会 第2章』(光文社新書)を手に取ってみたわけだが、本書は間違いなく三浦がここ2年ほどの間に粗製濫造してきた著作の中でも最も悪い部類にはいるのではないかと確信した。三浦における、三浦が勝手に名付けるところの「下流」の人間に対する罵倒はもはや揺り戻しが不可能なくらいの地点まで進んでおり、それが、今回の著作における自分でとったアンケート調査の解釈の仕方に顕著に表れているのだ(というわけで、今回は「統計学の常識、やってTRY!」の特別版としてお送りします。というより、このシリーズ自体およそ2年ぶりだ)。
まず、三浦の社会調査に対する認識が、大学の学部生レヴェルどころか、新書レヴェルの領域すら達していないことは、三浦が《毎度おなじみ》(三浦展[2007](以下、断りがなければ全てここからの引用)pp.3)として前書きに書く「下流度チェック」を見れば明らかだろう。今回もいくつかの項目が上がっているけれども(莫迦莫迦しいので書く気にもなれない)、本書は、三浦の怪しげなアンケート調査が、1億歩ほど譲って正しいものであると仮定しても、それは単に階層意識が「下」と答えた人がどのような意識や行動をとっていることを立証したに過ぎないのであって、こう考えているならお前は「下流」だ、と罵るための材料にはならない。要するに三浦は、統計のイロハのイ、つまり相関関係と因果関係の区別が付いていないのである。
三浦の社会調査の知識が「この程度」であることを念頭に置いて、同書を検討していくこととしよう。本書の構成は以下の通りである(伊奈正人のブログから引用)。
―――――
目次
第1章 すがりたい男たち
第2章 SPA!男とSMART男
第3章 上流なニート、下流な正社員
第4章 下流の自分探しを仕組んだビジネス
第5章 心が弱い男たち
第6章 危うい「下流ナショナリズム」
第7章 踊る下流女の高笑い――女30歳の勝ちパターンはどれか?
おわりに――あたらしい正社員像を描くべき時代
―――――
本書においては、主として第2,3,6章を中心に検討しておくこととする。まず、第2章については、三浦のアンケート調査の分析に対する意識が如実に表れているからである。また、三浦が、自らが「下流」と名付けたものたちに対して、これでもかと罵倒を続ける様が、後ろの2つの章にはっきりと現れているからだ。なお、採り上げないものの中でも、第1章は、延々と自慢話ばかりが続くので、採り上げるのも莫迦らしい。また、本書はあくまでも階層「意識」を中心に語られており、収入や支出などによる階層については語られていない。ちなみに当然のことながら、収入及び支出と階層「意識」の関連性も示されていない。
まず第2章から。何せこの章は、調査結果の曲解や牽強付会が多い。例えば、こんな感じに。
―――――
それからおもしろいのは、『週刊プレイボーイ』で、派遣社員が11.1%と他の雑誌に比べてかなり多い。『週刊プレイボーイ』はしばしば反中国、反韓国的な記事を書くが、実際、30~34歳の派遣は61%が中国は嫌い、53.8%が韓国は嫌いと答えており、かつ同じく61.5%が反社会的な書き込みの多さで悪名高いインターネットサイトの「2ちゃんねる」を利用していると回答している。これは25~29歳のフリーターの77.3%に次ぐ高さである。30歳前後の一部の非正社員たちの抑圧された感情が、反韓・反中意識となって現れていることが推測される。(pp.43)
―――――
ここまで強引な解釈も珍しい。第一に、《反中国、反韓国的な記事を書く》雑誌として真っ先に「週刊プレイボーイ」を挙げているが、例えば「週刊新潮」などはどうなのだろうか。このアンケート調査でも採り上げられているが、三浦はこれについて記述していない。第二に、雑誌の購読者層については全ての年代のデータを用いているが、反韓・反中意識については就業形態の、しかも年齢別のデータを用いている。ここで必要なデータは、「週刊プレイボーイ」を読むものの反韓・反中意識と、そして「2ちゃんねる」の利用者率だろう。
また三浦は49-51ページにかけて、購読誌別での政党の支持層を記述しているが、これの分析も強引である。ちなみに少しだけ注意しておくと、51ページでいきなり《秋葉原にいるオタク》という階層集団が出てくるけれども、この周辺の記述を見れば、《秋葉原にいるオタク》=「消費好きでパソコン好きな下流」、という『嫌オタク流』レヴェルの(笑)偏見を持っているのかもしれない。
などとふざけるのはやめにしておいて、57ページも見てみよう。
―――――
また、SMART男(筆者注:雑誌「SMART」の購読者層)の居住地は埼玉県が32.3%と非常に多く(男性平均は19.1%)、買い物などでよく行く街としては新宿、地元、池袋、渋谷、原宿、お台場、表参道に次いで大宮が22.6%、そしてよく行く店として丸井、パルコに次いでルミネ、イオンが挙がっている。
つまり、埼玉県在住で、日頃は地元のイオンか大宮のルミネか丸井でぶらぶらし、たまに渋谷、原宿に買い物に出てくるフリーターが多い読者層であることがわかる。(pp.57-58)
―――――
わからねえよ!
さて、三浦の頭の悪さ(笑)を白日の下にさらした上で、本番の第3章に移行しよう。三浦は、若年層の非正規雇用者は本当は正社員になりたくない、ということを示そうと必至になっているのだが、これがとにかく笑えるのだ。
―――――
(筆者注:三浦は、朝日新聞が行なった、いわゆる「ロスト・ジェネレーション」に対する調査を引き合いに出している)まず、あなたは今後正社員として働きたいと思いますか。非正規雇用の社員のまま福利厚生面の待遇を上げてほしいですか」という質問に対して、「正社員として働きたい」と回答したのは男性派遣社員の53%、男性パート・アルバイト・フリーターの42%にすぎなかった。「非正規雇用の社員のまま福利厚生面の待遇を上げてほしい」と回答したのは、派遣社員の40%、パート・アルバイト・フリーターの36%だった。(女性についての記述は略)
格差社会を批判する学者、政党、労働組合、メディア関係者は、非正社員がみな正社員になりたがっているのになれないと思っていると考えがちだ。そしてそう思ってくれた方が現政権を批判しやすい。ところが、非正社員は必ずしも正社員になりたいとは思っていないのだ。だから格差社会批判をするだけでは世論は盛り上がらないし、若者の支持は得られないのである。
そこに「下層社会」あるいは「階級社会」とは質的に異なる「下流社会」の特徴がある。(略)(pp.70-71)
―――――
三浦も認めているとおり(pp.72)、この調査において、《非正規雇用の社員のまま福利厚生面の待遇を上げ》るという対案が示されている故、《「正社員として働きたい」と回答した》ものが減ったという可能性は大いにある(ちなみに三浦はいくらか留保をつけており、これは3つある内の2番目なのだが、特に3個目の留保はかなり回りくどいものである)。さらに三浦は、正社員の労働条件が、非正規よりも厳しい場合があることまで認めている。これについては、小林美希も書いているとおり(小林美希[2007]pp.34-35)、例えばキヤノンなどで大規模に非正規雇用者の正社員化を推し進めた場合に、結局のところ正社員という名の過酷な労働形態が生まれただけ、というケースもあるため、三浦の分析は正しい。
そうすると、三浦が主張すべきことは、もし正社員が増えることを希望すれば、まず正社員の待遇をよくすることのはずだ。にもかかわらず、三浦は、こんなことを書いてしまう。
―――――
企業は、給料を上げること、昇進させることが正社員のメリットだと考えるが、若者は必ずしもそう考えない。給料が上がっても、束縛が増えるのは嫌なのである。残業も転勤も単身赴任もしたくないからである。(pp.76)
―――――
ちょっと待て、どこに《束縛が増えるのは嫌なのである。残業も転勤も単身赴任もしたくない》なんてことが書いてあるのだ?実をいうとこれは、三浦の身勝手な推論に過ぎないのである。ここに三浦の言説の特徴がある。要するに、自分が「下流」と見なした人間に対する度を超した罵倒である。
しかも三浦は、同じ章で、「ニート」に関して大チョンボをしでかしてしまう。
―――――
念のためにいっておくと、この調査は学生を含んでいない。だから、無業の男性は、いわゆるニートにほぼ相当すると考えてさしつかえない。(pp.82)
―――――
三浦は80ページにおいて「ニート」の正しい定義を書いているのに、なぜこう考えてしまうのだろうか?第一に、一口に「無業」といっても、その中には求職中(求職型)、求職意欲はあるが求職中ではない(非求職型)、求職意欲がない(非希望型)に分けられ、なおかつ、内閣府の調査によれば、全国で、平成14年で、無業者およそ213.2万人の内、求職型がおよそ128.7万人にあたり、非求職型(42.6万人)と非希望型(42.1万人)をあわせた数、つまり「ニート」に相当する人数が84.7万人である(内閣府[2005]pp.7)。要するに、仮に三浦の調査における無業者の内、「ニート」の割合が内閣府のものと同じならば、《無業の男性は、いわゆるニートにほぼ相当すると考えてさしつかえない》などということはできず、《無業の男性》の内「ニート」に相当するものの割合は、全体のおよそ5分の2に過ぎないということになる。ちなみにこの調査において、三浦が、無業者に対して現在求職しているかどうかを問うた形跡は、少なくとも本書からは見られない。
さらに87ページでは、三浦は「ニート」を《働く意欲がない若者》としてしまっており、また三浦は「ニート」の意識についてさんざん愚痴を述べているが、上記の指摘により、三浦の分析の全てが吹っ飛んでしまうと私は確信する。どうでもいいけれども、三浦は第4章でフリーターが増加した原因として、バブル時代に「自分探し」とやらが扇動された故、多くの若年層が自分にあった仕事をえり好みするようになったことを上げているが、それが数億歩譲って正しいとしても、三浦はそれを煽った一人として(そもそも三浦はバブル時代にパルコの雑誌に在籍しており、『「かまやつ女」の時代』に掲載されたプロフィールでは、「消費は宗教」とばかりに煽っていたと記述していたではないか!)、どう見ているのかということについては記述されていない。あくまで他人事である。
三浦による、非正規雇用者に対する罵詈雑言集への批判はこれだけにしておいて、第6章(「危うい「下流ナショナリズム」」)の分析に移る。というのも、私は、冒頭で採り上げた伊奈正人のブログで章立てを知ったとき、ついに三浦が、いわゆる「赤木問題」にコミットする!と思ったのだ。ついでにこれをミクシィで書いたところ、ある人からは、「赤木問題」ではなく、高原基彰のいうところの「不安型ナショナリズム」(高原基彰[2006])ではないか、という意見をいただいた。まあ、どちらにしろ、もしこれらについて三浦の分析を読んでみたいものだ。
ちなみに「赤木問題」とは、フリーターの赤木智弘が、「論座」平成19年1月号の特集で、「「丸山眞男」をひっぱたきたい――31歳フリーター。希望は、戦争。」と題する衝撃的な論考を発表したことに起因する問題であり(実際には、赤木の主張は、もっと深いもので、フリーターである自分を不可視化し、偽りの「平和」に甘んじている俗流左派への根本的な批判である。ちなみに、赤木の著書が、来月双風舎より発売されます。キャンペーンブログも展開中ですので、是非ご覧下さい)、それについて同年4月号で、佐高信、福島瑞穂、森達也などの左派の大御所が反論し、さらにそれについて、6月号で赤木が反論になっていないと再反論した。ちなみに赤木の再反論にほぼ便乗する形で、私も同号に書いている。
さて、そのような期待を抱いて、私は本書の第6章を開いてみたのだが、なんと、赤木の名も、あるいは高原の名も、全く出てこないのである。まあ、半分の半分くらいは予想通りだったが。で、三浦がどのようなことをナショナリズムと捉えているかというと、「愛国心があるほうだ」「日本文化が好きだ」「中国は嫌いだ」「韓国は嫌いだ」「アメリカは嫌いだ」とか、さらには「オリンピックやサッカー・ワールドカップで日本を心から応援する」といったものなのである。正直言って呆れてしまった。これでは俗流左派のナショナリズム観と全く同じではないか(どうでもいいけれども、三浦が「週刊SPA!」と「SMART」の読者層を「SPA!男」「SMART男」と書いているのに、「日経ビジネス」の読者に対してはそういうネーミングをしていない、というところに、三浦の意識が見て取れると思うのだが、どうか)。また三浦は、「上」のナショナリズムは愛国心などのポジティヴなものであるのに対し、「下」のナショナリズムは、反中、反米などのネガティヴなものであるとしている。しかしながら、それについても、「日本の歴史には誇りや愛着がある」をのぞいて、各階層で、たかが数パーセントの差しかない。果たしてこれが有意な差なのだろうか?
もう一ついうと、三浦の用いているアンケート調査においては、調査対象は20~44歳のみである。しかしながら、私が読売新聞の出口調査の分析を引用して示したとおり(平成17年9月28日付読売新聞、及び、後藤和智[2007])、あるいは朝日新聞が平成17年の総選挙の前に行なった調査にあるとおり(「朝日総研リポート AIR21」平成17年11月号、pp.146)、自民党の支持基盤は若年層よりも50代以上の高齢者であるのだ。その点についての三浦の配慮もない。
さらにいうなら、三浦のいうところの「SMART男」の投票行動について、三浦はこんなことを言ってしまう。
―――――
それに対して(筆者注:格差社会を実感しつつも、仕方なく実力社会を容認する「SPA!男」に対して)SMART男は、政党支持や投票行動から新自由主義的政治を支持しているように見えるのに、自分自身は成果主義、実力主義がよいとは思っていないというのは、一見矛盾している。
しかしそれは矛盾ではない。がんばりたい人は、どうぞがんばってください。でも僕はがんばりません。がんばらなくても、欲しいものはインターネットのオークションで安く手に入りますから、という価値観なのであろう。(pp.163)
―――――
まあ、これが三浦クオリティなのだろう。
他にも、三浦が「下流」と見なした人間に対する罵倒は、特に本書の「下流コラム」と称されるコラムにおいて激しいのだが、これについては気持ちが悪くなるので特に批判しないこととする。これ以上気を悪くしたら、私の健康に関わる。しかしながら、同書を通読して気づいたことは、所詮は三浦にとっては「格差」、というより「下流社会」とは、結局のところ見世物に過ぎず、さも動物園の中の動物の如く罵倒して楽しむものなのだろう(本書、あるいは三浦の他の「格差」本における感嘆符の濫用が、まさにこれを示していると言えるかもしれない)。そして三浦が粗製濫造している本もまた、そういうものに過ぎないのだろう。同書において、「下流」と三浦が勝手に名付けた人たちは、徹頭徹尾無気力と見なされている。
そんな三浦にとっては、例えば日雇い労働者の労働条件や、あるいは労働市場の構造変容、そして当事者による運動は見えないのだろう。事実、これらに関する記述は、全くと言っていいほど出てこない。ある言説に対して、それが語っていることと同時に、語っていないこともまた重要であると考えれば、様々な新聞やテレビが若年層の惨状を伝えているにもかかわらず(日本テレビやフジテレビだって報じているのだ)、三浦の認識は数年ほど遅れている。
小林美希は、いわゆる「ネットカフェ難民」に関する報道について、ブログで以下のように語っている。
―――――
社会問題ではない。これは、流行である。
もしもネットカフェ難民という言葉が流行語大賞などをとったら、世も末だ・・・。
この国は今、労働問題をきちんと論じていないことが多い。
ネットカフェ難民とか、なんでも格差で、労働問題の本質を見誤っている。
―――――
三浦は間違いなく、「下流社会」なる言葉で若年層をめぐる格差や貧困を、ことごとく若年層の精神に押しつけ、疑似問題化、脱政治化させた張本人だ。それにもかかわらず、多くのメディアが、三浦の言説をありがたがり、そして若年層に自己責任論を浴びせかけている。
派遣ユニオンは、グッドウィル・グループの不祥事に対して、折口雅博に対し「折口、ちょっと来い!」というデモを張った。私も「POSSE」に力を貸している以上、非正規雇用者などに関する運動の現実を伝えて、こういうしかないだろう。
「三浦、ちょっと来い!」
参考文献・資料
内閣府政策統括官「青少年の就労に関する研究調査」、2005年7月
後藤和智「左派は「若者」を見誤っていないか」、「論座」2007年6月号、pp.122-127、2007年5月
小林美希『ルポ 正社員になりたい』影書房、2007年5月
三浦展『下流社会 第2章』光文社新書、2007年9月
高原基彰『不安型ナショナリズムの時代』洋泉社新書、2006年4月
この記事が面白いと思ったらクリックをお願いします。→人気blogランキング
| 固定リンク | コメント (6) | トラックバック (2)
以下のサイトにトラックバックします。
他山の石書評雑記(フリーライター小林拓矢のブログ):[雑記][社会学]社会学の嫌われ者
冬枯れの街~呪詛粘着倶楽部~:大澤真幸の憂鬱
女子リベ 安原宏美--編集者のブログ:“子どもたちが危ない”…数字的には「?」
―――――
世代論が権力を免責する、という構造を、私はこのシリーズの一つ前の回(「俗流若者論ケースファイル84・河野正一郎&常井健一&福井洋平」)で述べた。要するに、例えば若年層の労働環境をめぐる問題などに関して、非正規、派遣労働者の待遇や賃金の問題であるとか、あるいは学校から労働市場への参入の問題などが取り沙汰されるべきなのに、それをぼかして「日本人の働き方に関する見方が変わりつつある」と述べて、「根本的な」解決策や、「メタ的な」議論のほうが尊重されるという傾向は、まさにそれである。客観的に観測できるような問題を無視して、個々人の内面ばかりを問題視するというのは、根本的にもっとも残酷な日和見主義に過ぎない。
さて、ブログ開設2年9ヶ月、「俗流若者論ケースファイル」シリーズ85回目にして、ついにこの人を批判することになろうとは思わなかった。首都大学東京教授、宮台真司である。今回検証するのは、宮台と石原慎太郎(東京都知事)による対談「「守るべき日本」とは何か」(「Voice」平成19年9月号)である。この対談は、どちらかといえば、東京都の青少年政策の宣伝という側面が強いが、それを推し進めるための前提として、現代の青少年が置かれている「現実」を語る、という趣旨のように見える。
ところが、石原も宮台も、青少年問題についての基本的な認識が欠落しているとしかいいようがない代物なのだ。本書で取り扱われている青少年問題は、「ニート」についてと、「セカンドライフ」に付いてであるが、のっけから石原と宮台は、以下のようにいってしまう。
―――――
石原 ニートがニートとして生まれた、いちばんのゆえんは何ですか。彼らはただの穀潰しだと思うね。要するに、抱えている家庭に余裕がなかったらあんな存在なんて成立しえないでしょう。
宮台 そのとおりです。でも、ひきこもりは人から「穀潰し」といわれ、自分でそう思っても前に踏み出せず、社会に復帰できません。彼らが「反社会的」であれば「穀潰し」の批判が有効ですが、「脱社会的」なのです。問われるべきは若い世代から大規模に社会性が脱落した理由です。(石原慎太郎、宮台真司[2007](以下、断りがなければ全てここからの引用)pp.80)
―――――
少なくとも私は、私と宮台と宮崎哲弥、そして内藤朝雄の対談において、宮台が「ニート」は疑似問題であり、むしろ「ニート」を、それこそ穀潰しであると批判している方こそ問題であると述べていたはずだ。以下、引用する。
―――――
宮台 (略)僕から付け加えると、まず旧来の「今時の若者は」的攻撃に加えて、昨今目立つのは、流動性不安がもたらす「多様性フォビア」としての若者フォビアです。処方箋は流動性フォビアの手当て。次に、本家英国と違い「失業者を含まない」日本版ニート概念は初期のフリーター批判と同じく怠業批判ルーツで、「こいつらが日本を滅ぼす」と言いつつ馬鹿オヤジが10年後の年金を心配する俗情がある。(略)最後に、スキル上昇(フリーター対策)から動機づけ支援(ニート対策)に自立支援策を拡げ、ポストと予算を獲得した公務員がいる。(略)(宮台真司、宮崎哲弥[2007]pp.100-101)
―――――
このような分析に、少なくとも私は大筋で同意する。また、宮台も『「ニート」って言うな!』を読んだはずであれば、我が国において「ニート」と呼ばれている人たちのおよそ半分が、「非求職型」すなわち就労意欲はあるものであるということも御存知であるはずだし、昨今増加した「ニート」もこの層の増加が原因であるということも知っているはずだ。
さらに宮台は、《ひきこもりは人から「穀潰し」といわれ、自分でそう思っても前に踏み出せず、社会に復帰できません。彼らが「反社会的」であれば「穀潰し」の批判が有効ですが、「脱社会的」なのです》と述べるが、少なくとも最近の井出草平の著書などに見られるように(井出草平[2007])、「ひきこもり」=「脱社会的」と安易に断じることはできない。井出は、むしろ規範に対して敏感であるからこそ不登校から「ひきこもり」に至った事例もある、ということを示している。
もう一つ言うと、「ニート」や「ひきこもり」について宮台の言う、「彼らは「反社会的」ではなく「脱社会的」である」という物言いは(ついでに言うと、このような物言いは、芹沢一也が指摘するとおり(浜井浩一、芹沢一也[2006])、平成10年ごろから、宮台が少年犯罪を説明するために活発に使用していたものだ)、一見すると彼らに対して「理解」を示すようなそぶりを見せながら、実際には単なる説教(それこそ「穀潰し」批判みたいに)よりも実害が大きいと私は考えている。なぜなら、第一に、少年犯罪については、過去の事例を探せば「脱社会的」と言えそうなものなどいくらでも見つかる(例えば、昭和40年10月に起こった、中学2年生の少年が、異性に対する興味から近所の主婦を殺した、というもの。詳しくは赤塚行雄[1982]を参照されたし)。第二に、そのような「定義づけ」をさせることによって、例えば統計的な状況(少年犯罪は増えていない、など)を無視する口実として使われるからである。第三に、第二の理由を引き金として、根本的に間違った政策が構築されてしまう可能性があるからだ。
現にそのような危険性は、以下の発言にも表れている。
―――――
石原 ニートの悪いところはそういう依存性、甘ったれた考え方だよね。それは何が醸し出したんですか。
宮台 郊外化です。第一段階の郊外化が一九六〇年代の「団地化」。「地域の空洞化」を埋め合わせる「家族への内開化」が内実です。専業主婦の過剰負担ですね。第二段階の郊外化が八〇年代の「ニェータウン化」。「家族の空洞化」を埋め合わせる「市場化&行政化」が内実です。コンビニ化ですね。これに今世紀に拡大した「ネオリベ(新自由主義)化」が加わり「貧しくても楽しいわが家」どころか「豊かでないかぎりコミュニケーションから見放された環境で子供が育つ」。脱社会化の背景です。(pp.81)
―――――
少なくともそのような戯れに興じているのであれば、少なくとも多くの「ニート」論の多くが的外れであることを証明したほうがいいのではないか、と思うのだが。言うまでもなく、このような物言いは、例えば労働法をめぐる問題などを隠蔽する。
同様の危険性は、以下のような発言にも表れる。
―――――
宮台 それをどう呼ぶかは別にして、「世間の空洞化と母子カプセル化を背景に、親に抱え込まれ、社会を生きる力を失った存在」にどう規範や価値を伝えるかです。今期青少年問題協議会の冒頭、「ニート問題は規範や道徳の伝達の問題ではなく、伝達のベースになる台がなくなる『台なし』の問題だ」と申しあげました。
友達や家族と一緒に映画を見て、周りが「ダメな映画だ」と語り合うのを聞き、映画が再解釈される経験が年少者によくあります。そこに注目したのがクラッパーの限定効果説。「子供がもつ素因が刺激の有害性を決める」という仮説と「子供の周囲の人間関係が刺激の有害性を決める」という仮説の複合です。刺激が素因を育てるのではないとします。
要は情報は単独で有害無害を論じられず、情報をやりとりする「社会的基盤=台」によって意味や意義が変わります。穀潰しだと非難しても、ニートが「穀潰しですが、なにか?」と非難の意味を理解できない可能性があります。道徳や価値を伝える言葉一般にいえますが、自分も相手も同じ台の上に乗っていると感じられるからこそ説教を聞く。そうした台がない「台なし」では道徳的説教は無効です。(pp.83)
―――――
要するに宮台は、「ニート」については、例えば若年層の過酷な労働環境を解決したり、あるいは「ニート」を問題化する方を問題化するのではなく、まず《「世間の空洞化と母子カプセル化を背景に、親に抱え込まれ、社会を生きる力を失った存在」にどう規範や価値を伝えるか》どうかの問題として考えていると言うことか。私が聞いた発言と、どちらが本音なのだ。そもそも宮台が、「ニート」について《規範や道徳の伝達の問題》と《伝達のベースになる台がなくなる『台なし』の問題》を対立軸に置いているのが気になる。また、以下のような発言もある。
―――――
石原 やっぱり僕は親子三代で住まなくなったことが、日本の家族にとって致命的な欠陥になったと思うね。
宮台 柳田国男ですね。日本の農村では両親が生産労働に生活時間の大半を費やすので、爺ちゃん婆ちゃんが孫を育てることで社会性が伝承される、と。広田照幸のいうように、日本には親が子供を躾ける伝統がなく、世間の空洞化と母子カプセル化でむしろ躾は増大してきた。でも同時に窓意性(世間と関係ない親の勝手)も増大するから、親のいうことに従わなくなるか、従った結果かえって社会を生きられなくなる。先の依存的暴力にも関連する問題ですね。(pp.82)
―――――
とあるが、少なくとも広田照幸を引き合いに出すのであれば、「家庭の教育力の」低下という言説が虚構であることくらい知っていると思うのだが。
この対談においては、宮台が石原に対して、青少年の「現実」を説明し、それを石原が解釈する、という形式で話が進んでいる。ただし、その宮台の「現実」の解釈が極めて恣意的というか、客観的、あるいは統計的な広がりや内容よりも、まず「現実」のヴィヴィッドさ、あるいは見た目の新奇性が優先するようで、それについては、以下に採り上げる「セカンドライフ」をめぐる言説にも現れている。少々長くなるが、引用しよう。
―――――
宮台 はい。ソニーが「ホーム」という新しいメタヴァースを発表しました。こちらはユーザーの自由度が小さい配給制的空間です。こうした事例は公共性論として重大な問題を提起します。「この社会に意味があるか」にも関連します。要は「この現実が嫌なら『セカンドライフ』に出て行け」「『セカンドライフ』が嫌なら『ホーム』に出て行け」といえるのです。すると第一に、この現実を公正なものにすることや面白いものにすることへの需要が減ります。それでよいのか。第二に、そのぶんセカンドライフに「逃亡」する人が増えますが、今日の物差しでは「ひきこもり」に該当する彼らをどう評価すべきか。
石原 感覚的にはわかるけれど、バーチャルゲームだけやっていて食べていけるの?
宮台 彼らは「セカンドライフ」上では活動的なのです。生活保護を受けながら「セカンドライフ」で億万長者として暮らす者もいます。二十四時間中睡眠に五時間、食事に一時間使い、残りを「セカンドライフ」内の経済活動に充てて専用通貨を稼ぎ、換金してカップラーメンを買ってすするという生活です。
石原 しかし、バーチャルな世界で味わう満足感は結局、いつか崩れて消えてしまうでしょう。
宮台 それでもこれからはそういう人が増えます。そうした流れを認識することがニート問題に近づく一歩です。ニートには、「現実に怯えて前に踏み出せない者」と、「わざわざ訓練して社会に出ることに意味を認めない者」が含まれます。前者は、経験値を高める訓練で不安を克服すればOKです。後者は「自分が自分であるために社会や他者が必要」と感じないように育ち上がっており、簡単に引き戻せません。愛国教育や道徳教育が足りないのでもない。国にコミットする以前に、社会にコミットしないのですから。(pp.85)
―――――
ソースは忘却したが、少なくとも我が国の「セカンドライフ」についての評判は、広告や起業の盛り上がりばかりが先行しすぎて、我が国のユーザーはむしろ置いてけぼりにされている、という話が聞いたことがあるが、それはさておき、宮台は「セカンドライフ」を引き合いに出しておきながら、それをめぐる我が国の客観的な情報(加入率、評判など)を採り上げることは一切ない。
いや、それは以下に挙げる問題に比べればたいした問題ではないのかもしれない。この言説における宮台の最大の問題点は、例えば《生活保護を受けながら「セカンドライフ」で億万長者として暮らす者》がいることは採り上げるけれども、そこから一気に跳躍して《それでもこれからはそういう人が増えます。そうした流れを認識することがニート問題に近づく一歩です》などと語ってしまうことだ。要するに、宮台の「社会分析」みたいなものに必要なのは、客観的、あるいは統計的なデータよりも、自分が見聞きした(見た目的に)新規な事例のほうが優るということか。内田樹とどこが違うのだ。「脱社会的存在」をめぐる言説と同様、底が知れた、というべきか。
宮台の語る、「「ひきこもり」などに代表されるような「脱社会的」な人たちが、現実での承認に嫌気がさして「セカンドライフ」や「ホーム」に逃げ込む」という言説は、例えば香山リカの「精神的にも肉体的にも劣化した存在が、「セカンドライフ」に逃げ込む」などといった言説と同様に、利用者の社会的な属性などと照らし合わせて検証される必要がある(なお、既存のインターネット・コミュニティに関する研究については、例えば池田謙一[2005]や、宮田加久子[2005]がある)。佐藤俊樹だっただろうか、情報社会に関する未来予測というのは、それがいまだに実現していない未来を語っている故、未来に託して結局のところは自分の思想を語っているに過ぎない、という言説を述べていた人がいたが、宮台の「セカンドライフ」論はまさにそういうものだ。
ところで、この対談の終盤において、石原は以下のように語っている。
―――――
石原 やはり、日本文化の独自性、個性をどうやって抹消させずに維持するかという問題に繋がってくると思う。人間というのは、精神や感性、情念のある不思議な動物だから、それぞれ違った風土や文化を生み出し、それが時間と空間に撫でられることで文明がかたちづくられたわけだけれど、結局、文化までもが個性を喪失すれば、その国はキンタマを抜かれた男みたいな存在にしかならない。(pp.88)
―――――
このような認識は宮台にも共有されているようで、この直後に、
―――――
宮台 三島由紀夫がそんな状況を「博物館的文化主義」と呼びました。歌舞伎や能を残しても、魂を残さなければ意味がない。魂とは入れ替え不可能性であり、大英博物館に陳列できるような文物が魂であるはずがないというわけです。統治権力としての国家はクーデターや敗戦で簡単にひっくり返る程度の存在です。国家に連なる者でなく、国家によって守られるべき「何か」に敏感な者だけが国士です。「何か」とは日本人なら思わずミメーシス(感染)してしまうもの。だから国士に不可欠な要素は「感染力」です。
都内のホテルで石原都知事とご面会したあと一緒に歩いていたら、おばさんたちが「慎太郎知事だ!」と黄色い声で騒いでいました。私なぞに目もくれず(笑)。これぞポピュリズムと揶揄されるものとは別次元の「感染力」だと思います。そんな「感染力」をもつ人が昔は身近にたくさんいました。勉学動機も、自称保守が推奨する競争動機や、自称左翼が推奨するわかる喜びだけでなく、あの人みたいになりたいと感染して箸の上げ下ろしまで真似する感染動機こそ重要でした。そうしたコモンセンスの継承に鈍感な輩が保守を名乗る昨今は笑止です。彼らが文化から「感染力」を奪っています。「凄い奴」に感染して自分も「凄い奴」になる。これがミメーシスです。テクノロジーのネガティブ面を指摘しましたが、あえてポジティブ面をいえば「凄い奴」の数が減るなかでメディアが「凄い奴」を媒介する可能性ですね。(pp.88)
―――――
と述べている。この対談におけるコンセンサスとは、昨今の青少年問題が、我が国が国家としての「感染力」を喪失したことと、そのような状況に真剣に向きあおうとしないものたちの問題である、ということだろう(ついでに言うと、先の都知事選において、石原が当選したとはいえ前回よりも大幅に得票数及び得票率を減らしたのはどういう理由によるのでしょうね?)。然るに、冒頭でも述べたように、このような物言いなど、権力を免責するものでしかなく、大規模な文化的状況を語っているように見えて、実は何も語っていないに等しいのである。
それにしても象徴的というか衝撃的なのは、かつて宮台は、例えば「援助交際」をめぐる言説において、そのような行動をとる少女は一部だが特別ではない、という理由で、新しい状況がきている、と言って、上の世代に退場を促していたのだ。そして、この対談においては、同様のロジックが、権力にすり寄るための口実として使われている。これは宮台の得意とする戦略的な立ち位置の転換によるものなのか、あるいは単に首都大学東京のポストが恋しいだけなのか、またあるいは権力者として政治を動かす立場になりたいのか、それとも天然なのか、それは判断しかねる。しかし、このような宮台の「転向」(?)について、宮台をカリスマとして崇め奉っていた人たち――かつての私もその一人であったことは否めないが――は、いかにして宮台を捉えるつもりなのだろうか。
近年においては、例えば浅野智彦や本田由紀などに代表されるように、今までステレオタイプに捉えられてきた事象――例えば、若年層の道徳・規範意識や、自意識、あるいは就業、逸脱などの行動――について、できるだけ客観的に捉え、またその上でいかに若年層を社会学的に考えるか、という研究や著作が蓄積されている。そのような状況にあって、宮台などが行なってきた、何らかの新奇な「概念」をでっち上げて、そこから大上段から「現実」を語る、という行為が以下に相対化されていくのか、あるいはされるべきか、ということを考える必要があるのではないか、と思う。
まあ、とりあえず、このエントリーで言いたいことは、以下の一言に尽きるわけで。
「絶望した!宮台真司に絶望した!!」
―――――
宮台がらみで、もう一つ、おもしろい発言があったので、紹介しよう。平成17年に行なわれたという、宮台と田口ランディとの対談だという。
―――――
宮台 殺したいと思えば殺せるし、犯そうと思えば犯せるのに、それだけは絶対にしたくないと思う「脱社会的存在」がいるのは、なぜでしょうか。これは解かれなければいけない問題です。〈世界〉の根源的未規定性を受け入れ可能にする機能をもつ「宗教的なるもの」の真髄に関わる問題でしょう。
(http://www.miyadai.com/index.php?itemid=541)
―――――
《殺したいと思えば殺せるし、犯そうと思えば犯せるのに、それだけは絶対にしたくないと思う「脱社会的存在」がいるのは、なぜでしょうか》とは…。単に「脱社会的存在」なる定義付けが間違っていた、という考えには至らないのだろうか?
文献・資料
浜井浩一、芹沢一也『犯罪不安社会』光文社新書、2006年12月
井出草平『ひきこもりの社会学』世界思想社、2007年8月
池田謙一(編著)『インターネット・コミュニティと日常世界』誠信書房、2005年10月
石原慎太郎、宮台真司「「守るべき日本」とは何か」、「Voice」2007年9月号、pp.80-89、PHP研究所、2007年8月
宮台真司、宮崎哲弥『M2 ナショナリズムの作法』インフォバーン、2007年3月
宮田加久子『きずなをつなぐメディア』NTT出版、2005年3月
| 固定リンク | コメント (14) | トラックバック (7)
(これは宣伝専用のエントリーですので、トラックバック・コメントは受け付けないこととします)
「後藤和智の雑記帳」開設のお知らせ
サブブログを作りました。簡単な告知などは全てこちらでやっていく予定です。
なお、Wikiについては、何とか9月末までには作りたいと考えております…。
| 固定リンク
―――――
日本人は、過去を忘却することで遺恨を乗り越えてきた。ただ、「死者には、追憶される権利がある」(H・アーレント)。残った者が記憶にとどめないと、死は復讐する。上を向いて歩く顔の少ない、上っ面景気の、劣化した日本の惨状は、記憶の耐えられない軽さに御巣鷹から上がった怨嵯の声ではないのか。(河野正一郎、常井健一、福井洋平[2007](以下、断りがなければ全てここからの引用)pp.21)
―――――
《上を向いて歩く顔の少ない、上っ面景気の、劣化した日本の惨状は、記憶の耐えられない軽さに御巣鷹から上がった怨嵯の声ではないのか》――日本人が「劣化」していると、さしたる根拠もなく主観的に決めつける人たちは、何でこんなに傲慢なのだろう?かつて私が「想像力を喪失した似非リベラルのなれの果て ~香山リカ『なぜ日本人は劣化したか』を徹底糾弾する~」なる記事で批判した香山リカもそうであったが、彼らの脳内においては、我が国はどこもかしこも「劣化」し、その現実を直視し、それを克服することこそ我が国の「再生」につながるという思考が既に形成されている。
今回検証するのは、「AERA」平成19年8月13日・20日合併号に掲載された、河野正一郎、常井健一、福井洋平による「劣化する日本に響く御巣鷹の声を聴け」である。本書においては、「再生」までは書かれていないけれども、少なくとも現代に対する傲慢な態度は変わらない。リードには、以下のようにある。
―――――
あれから22年がたった。
当時、あの時が岐路だったとは気づかなかった。
最後に、上を向いて歩いたのはいつだったろう。
520人の命を思い出し、いま、足元を見る。
追憶すれば、未来が見える。そんな気がする。(pp.16)
―――――
などと能書きを垂れているものの、この記事の著者たちの現代社会に対する見方は極めて一面的である。というよりも、統計的に見れば、あるいは少し考えれば直ちに「劣化」なるものが虚像であることが明らかなようなものについて、日本人が「劣化」した証拠であり、そしてその根源は昭和60年(1985年)にあるものであると繰り返している。
例を挙げてみよう。17ページ、2段目から5段目にかけて、渋谷の歯科医師宅で予備校生が妹を殺害したという今年初めの事件を採り上げて、そこには昭和60年を起点とする「家族」の崩壊があるとする。その「理由」について、河野らは以下のように記述する。曰く、
―――――
85年には、「8時だヨ! 全員集合」(TBS)の放送が終わっいる。ザ・ドリフターズの伸本工事は言う。
「家族そろってテレビを見る習慣があの年、終わったんでしょうね」
同じ時間帯、フジテレビでは「オレたちひょうきん族」を放送、ドリフを追い落とす勢いだった。ドリフも低俗と批判されたが、その批判も親子が一緒にテレビの前に座っていればこそ。ひょうきん族が家族そろって見る内容には思えなかった。
85年は「夕やけ二ャン二ャンの放送開始年でもある。当時、秋元康は番組の曲の詞を依頼される際、テレビ局から、「毒を入れて」と言われた。そこから「セーラー服を脱がさないで」が生まれた。
毒をはらんだ女子高生ブームは93年のブルセラ/援助交際フームヘと直結していく。
テレクラ。コードレスホン。深夜のコンビ二。若者の夜のライフスタイルを変える「三種の神器」が生まれたのが85年だったのは、だから偶然ではない。
当時のセブンーイレブンの「いなりずし」CMはこう始まる。
「私は夜中に突然いなりずしが食べたくなったりするわけです。(中略)こんな自分を私はかわいいと思います」
社会学者の宮台真司によると、いなりずしを買いにいった若い女性が、ついでに雑誌を買う。ページをめくると、テレクラの広告が出てくる。コードレスホン片手に、家族の目がない自分の部屋から電話すれば、見ず知らずの男女が会話を始める。
「コードレスホンと、自室のテレビが普及した頃から、家族の空洞化が始まった。血がつながった家族だけでなく、多様な人間関係を『家族』としないと、帰る場所のない不安な人たちが街にあふれかえることになる」(pp.17)
―――――
以下、疑問点を挙げるとするならば、第一に、このような事件が起こったのは、本当にそのようなものが原因なのか。もしそれが原因ならば、件の事件が頻発していなければならないのだが、少なくとも少年による凶悪犯罪は減少しているし、また20代の殺人率だって世界に比べれば極めて低い。この記事の筆者らは、本当に現代になって件の如き事件が増えたのか、ということを検証する必要がある。第二に、類似の事件を過去から探すようなことをしなかったのか。第三に、「偶然ではない」(これは本書において繰り返される文言である)と書かれているのだが、それは本当なのだろうか?第四に、宮台真司のいうところの「家族の空洞化」は何を指すのだろう。第五に、たった一件だけの事件をもってして、「家族の空洞化」が進行している、ということはできるのだろうか。
ちなみに、赤塚行雄の『青少年非行・犯罪史資料』第2巻には、以下のような事件を報じた新聞記事が引用されている。昭和39年、1964年7月の話である。
東京、三鷹市の上連雀で、慶應大附属志木高校3学年の兄が、同校2学年の弟を殺害した。この犯人は、物盗りが入ってきたのを偽装し、逃亡中には、《事件当夜三人組の賊が侵入、自分はクロロホルムをかがされて、自由を失った》(赤塚行雄[1982]pp.375)という筋書きの元、物盗りの人相や服装、特徴などをノートに細かく記述した。ちなみにこの兄弟の父親は大学教授、母親は女性検事の第一号であった。また、この兄弟は高校に入学してから中学生を集めて野球のチームを作るも、兄(犯人)の独善的な采配からチームは分裂、家庭内でも弟の発言力が重みを増した。新聞報道は、《こんな状態にいたたまれず、F(筆者注:犯人のこと)はオノを振ったのだろう》(赤塚、前掲pp.376)としている。
さらに、この犯人は、《学校では内気で、友達もいない孤独な少年。また動物に異常な興味を持ち、ネコをハク製にしたり、生きているヘビの皮もはぐ残虐な性格も見られた》(赤塚、前掲pp.376)という。また被害者である弟もまた、チームが分裂してから、家族に対して恒常的に暴力をふるっていたというが、《E君(筆者注:被害者)を知る人たちは、E君がこのような乱暴だったとは考えられないという》(赤塚、前掲pp.375)。
このような事件がもし現在起こっていたとするなれば、間違いなく多くの自称「識者」たちは、「家族の崩壊」だの「心の闇」だのという言葉で、事件をスペクタクル化するだろう。しかしながら、この事件は昭和39年に起こったもの。というよりも、過去の事件をたどれば、これが現代で起こったら間違いなくマスコミや「識者」たちはここぞとばかりに意味のない「分析」を繰り返すだろうという事件などいくらでもある。
そもそもこの記事においては、そのようなスペクタクル化さえも、日本人の「劣化」の原因とされている。そしてその発端が、まさに昭和60年の「ロス疑惑」報道であった。ところで、この「疑惑」に関する報道の過熱ぶりは、その後検証され、反省されたのでしょうか(ちなみにこの事件は、最高裁において無罪が確定している)。さらに、同様にスペクタクル化された事件は、例えば平成元年の宮崎勤事件、平成7年の地下鉄サリン事件、平成9年の「酒鬼薔薇聖斗」事件があるのだが、それらについての報道も検証されて然るべきものであるが。「AERA」だって、特に少年犯罪に関して、スペクタクル化された報道を検証するという記事を掲載したのは、寡聞にして聴いたことがない。
19~20ページでは、「格差」についても語られてはいる。だが、そのいずれも実に下らない話。一つ目が、平成19年に甲子園の常連校、PL学園が予選で敗退したことを採り上げて、以下のように語っている。曰く、
―――――
07年夏のPL学園野球部は大阪大会の2回戦で敗退した。3年連続で、夏の甲子園出場を果たせなかった。ある野球部関係者はこう説明した。
「大会の成範がよくなくても、進路が約束されるようになった。勝ちに対する執念に差があるんです」
執念の有無が、上流と下流の間に「隔壁」をつくる。
神戸女学院大の内田樹は、国立大で授業をした際に学生から「現代思想を学ぶ意味は何ですか」と開かれた。
「(この学生は)ある学術分野が学ぶに値するかについての決定権は自分に属していると表明しているこの倣慢さと無知にほとんど感動しました」
学ぶことから逃走する学生が増えていることに、著書『下流志向』でそう驚愕している。
確かに、現在は「努力したら必ず報われる」とは言えない。しかし「努力は報われる」ことを信じるか信じないかで、努力する執念が二極化する。
「きわめて短期間に日本社会を階層化した原因である」
内田の指摘は重い。
(略)
いまだ現役を続けるKK(筆者注:PL出身の桑田真澄と清原和博)は執念に燃えられる最後の世代だ。満創痍の清原は07年夏、ひざにメスを入れて、まだバットを放さない。右ひじのけがと年齢による衰えを努力で克服した桑田は、メジャーのマウンドにしがみついている。(pp.19)
―――――
はいはい下流志向下流志向。それはさておき、これについてもいくらでも対案を挙げることができる。第一に、PLが甲子園の土を踏めなくなった原因として、他のチームが強くなったというという考えには至らなかったのだろうか。第二に、《ある野球部関係者》(って誰?)のいうところの《大会の成範がよくなくても、進路が約束されるようになった》時代と、そうでない時代の成績の差を、筆者らは説明する必要がある。第三に、何でPLの話から一気に学生一般の話になってしまっているのか。第四に、何も格差(ある意味では、こういう言葉を使うから、内田の如き「格差は経済問題ではない」という輩がのさばるという背景もあるが)や貧困は昨今になって突然降ってわいたものではない。
もう一つは、昭和60年(もう飽きた)における男女雇用機会均等法の制定が、「男社会に媚びる女とそうでない女」の、いわば「女女格差」を生み出した、という話。どうせなら、昭和60年ならぬ、昭和61年に制定された労働者派遣法を説明したほうがいいと思うのだけれども(派遣法については、門倉貴史[2007]によくまとまっている)。所詮は中森明夫をして「アエラ問題」なる造語を作らせしめた「AERA」、経済や労働環境の問題はスルーなのだろう。
これだけ我が国が「劣化」したといわれている事象を殊更に採り上げて、そしてその「原因」を探る、というこの記事は、果たして昭和60年のどのような事件に起因しているのだろうか、という皮肉はさておき、この記事において行なわれているものは、この記事の大半を構成しているような、殊更採り上げる必要のない些細なこと(本書冒頭で採り上げられているような、阪神が優勝し、また中曾根康弘が靖国に公式参拝したこの年に、W杯の予選の最終戦(韓国戦)で、多くの若い世代が「全日本」を熱心に応援するようになってから、若年層にとって「愛国心」はファッションとなった、などという議論はその最たる例だ。まあ、これにより、ここ数年で「愛国」ブームが発生した、という香山リカの妄言は否定されたけれども(笑))や、あるいは明らかに一つの原因を同定することが可能な事象(マスコミの犯罪報道の問題など)、また検証不十分な事象(家族内の殺人事件に象徴される「家族の空洞化」)について、ろくに検証せずに、日本人の心性が変化(=劣化)したからだ、と安易に決めつけるような行為である。
このようなことは、実をいうと類似することを行なっているものが存在する。それは昨今の政権与党、特に教育再生会議に代表されるような教育政策、あるいは「若者の人間力を高めるための国民運動」に代表されるような青少年政策である。要するに、予算や(金と人の)再配分、あるいは労働環境の改善や労働法の遵守などといった次元で解決されるべき問題を、日本人の意識が変化したからだ、という理由で過度に一般化させ、「国民全員で解決しなければならない」と煽るやり方である。そしてそこで用いられるのが世代論であり、また免罪符を与えられるのは権力である。
何もそこまで話を広げなくても、といわれるかもしれないが、問題解決の優先度を見誤り、あるいは世間の空気に便乗してエビデンスに基づいた検討を怠り、時には真に責任を問われるべき存在を免罪し、あるいは真に問題にすべき事象を隠蔽する。それこそが、昨今の政権与党における教育政策、青少年政策における特徴であると同時に、俗流若者論の特徴でもある。このような青少年問題における、権力とマスコミの共鳴こそが、青少年政策に暗い影を落としている。そのようなことに無自覚なマスコミが多数存在することこそ問題なのである。
ところで、このような若者論の蔓延は、昭和60年の何に起因するのですか、河野さん、常井さん、福井さん?
引用文献・資料
赤塚行雄(編)『青少年非行・犯罪史資料』第2巻、刊々堂出版社、1982年11月
門倉貴史『派遣のリアル』宝島社新書、2007年8月
河野正一郎、常井健一、福井洋平「劣化する日本に響く御巣鷹の声を聴け」、「AERA」2007年8月13日・20日合併号、pp.16-21、朝日新聞社、2007年8月
この記事が面白いと思ったらクリックをお願いします。→人気blogランキング
| 固定リンク | コメント (4) | トラックバック (1)
(「選挙たん(仮)」は、サイト「選挙に行こう」のマスコットキャラクターです)
(この記事においては、公職選挙法の規定に基づき、特定の候補者の名前を出すことは控えております。従って、この記事は、特定の候補者を支援、または批判する「文書図画」にはあたらないものと私は考えます)
参考:公職選挙法について
以下のサイトにトラックバックします。
フィギュア萌え族(仮)犯行説問題ブログ版・サブカル叩き報道を追う:「自虐的オタク観」を正す:6・30アキハバラ解放デモに寄せて
冬枯れの街:【祝】13日の金曜日~人を呪わば穴いくつでも掘る覚悟を!~
さて、参院選の公示が出され、ついに選挙戦に向けて各党が動き出すこととなったが、各党はマニフェストという形で、自らの党が進める政策を公約として広報している。また、それについて、例えば「言論NPO」などのように、総合的、あるいは各論的に評価するような動きもあり、あるいは私の所属している「POSSE」などは、どの点に注意して読むべきか、ということを提示している(「style3的マニフェストチェック」)。
私も、前回の衆院選に引き続き、青少年言説を検討してきた立場から、青少年に関わる政策の記述(教育、若年雇用など)を検討していこうと思う。今回は、以下の政党のマニフェストを対象とする。なお、今回は、都合により、前回行なった全体の感想の比較を割愛することとする。
自由民主党(以下:自民)
http://www.jimin.jp/jimin/jimin/2007_seisaku/kouyaku/index.html
公明党(以下:公明)
http://www.komei.or.jp/election/sangiin07/policy/index.html
民主党(以下:民主)
http://www.dpj.or.jp/special/manifesto2007/index.html
社会民主党(以下:社民)
http://www5.sdp.or.jp/central/seisaku/manifesto07s.html
日本共産党(以下:共産)
http://www.jcp.or.jp/seisaku/2007/07saninseisaku/index_kobetsu.html
国民新党(以下:国民)
http://www.kokumin.or.jp/seisaku/senkykouyaku.shtml
新党日本(以下:日本)
http://www.love-nippon.com/manifesto.htm
共生新党(以下:共生)
http://www.kyoseishinto.org/p/21
1. 教育
1.1 総論および評価軸
「教育」についてもう長い間とやかくやかましく言われ続けているけれども、特に政策としての教育を語る上でもっとも大事なことは、その政策が本当に(できるだけ)客観的な事実に基づいているか、あるいはそれを推し進めるための根拠は何か、ということである。従って、例えばマスコミで採り上げられるような極端な事例を、さも全体を代表する例であるかの如く取り扱って、それで政策を構築してしまう、というのは、はっきり言うが非常に度し難いこととしか言いようがない。
ところがそれを平気でやらかしてしまう人たちがいる。それが、かつての教育改革国民会議であり、また今の教育再生会議である。特に後者に限って言うと、まず人選からして教育学の専門家を入れようとする気配はなく(準専門家といえるような人だって品川裕香くらいである。大学関係者にしても、小宮山宏と中嶋嶺雄がいるけれども、彼らが教育学に付いてある程度精通しているとは思えない)、せいぜいメディアで話題になった人たちとか、あるいは政府と結びつきの強い財界人ばかりである。こんなところに教育政策についてまともな議論を要求する方がおかしいのかもしれない。
とはいえ、仮に政権交代が起こり、この「会議」が解散させられたとしても、また同じようなものが結成される可能性もないとは言えない。そもそも我が国の「教育」政策自体、何回も何回も「改革」の必要性が叫ばれ続けたけれども、それによって教育現場の状況が改善されたとはとても思えないし、昨今のものに関しては、一部の事例をわざと社会的な大問題にでっち上げて、自分で処理する(あるいは「処理する」という態度だけを示す)という、いわばマッチポンプのようなものさえも感じてしまう。
さて、この項目に関する評価軸であるが、何よりもまず金銭的な問題、つまり支出や予算の量、あるいはそれを調達する手段について触れられているからである。これに関しては、既に「言論NPO
最近のコメント