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2004年11月25日 (木)

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 木村剛氏の「週刊!木村剛」の記事「頑張れ!マスコミの良識派たち」について一言。
 マスコミの良識派に期待するところは大きいですね。私もこのブログで散々マスコミ(とくに若者論)を批判しているのですが、新聞を開いていると「これぞ良識派!」と喝采を浴びせたい人もいます。
 2001年の成人式報道の中では、私は毎日新聞の久田宏記者を推します。久田記者は01年2月6日、すなわち「成人式」ブームがいまだくすぶっている状態で、毎日新聞紙上で「大人気なかった大人側」なる秀逸なコラムを書いています(「記者の目」)。毎日は、2001年1月9日の社説や、2002年1月20日の「発信箱」欄はもはやトンデモですけど、「記者の目」は結構がんばっています。
 若者報道はトンデモが横行しやすい分野なのですが、それらのトンデモは概して「大人たち」や「優等生たち」に共通前提として共有されている「今時の若者」のイメージにただ乗りし、それを満足させるだけのものです。既存のイメージを破壊して、新たな若年の肖像を描いてくれるマスコミ人の誕生を願わずに入られません。
 …って、木村氏の記事の内容とは関係ないものになってしまいましたね。でも、問題意識は木村氏と同じだから、これでよしとしましょう(なんでやねん)。

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2004年11月18日 (木)

統計学の常識、やってTRY!

 1・平成の常識?
 TBS系列、日曜昼1時からの番組「噂の!東京マガジン」の中に、「平成の常識やってTRY!」(以下、「平成の常識」)なるコーナーがある。司会の森本毅郎氏の前口上によると、「若者の非常識ぶりから平成の常識を探る」というコーナーらしい。
 このコーナーに趣旨というものがあるとすれば、それは、アポなしで出演する、いかにも「今時の」若い女性が、この番組の主たる視聴者である中高年の間で「常識」とされていることができないことを嘆き、笑い飛ばすことだろう。
 だから、このコーナーは、エンタテインメントでしかないのである。
 ところが、このコーナーの結果を真面目に受け止めてしまう人もいるのである。例えば、評論家の佐高信氏と、コラムニストの中野翠氏である。佐高氏は、このコーナーに出てくる若年と引っ掛けて、「新しい歴史教科書をつくる会」への賛同を表明した林真理子氏や阿川佐和子氏の「頭の悪さ」を批判し(佐高信[1998])、中野氏に至っては、番組によって意図的に「選別」させられた若年を批判して、なんと「日本人の美徳」の喪失を嘆いてみせる、というものなのだ。
 中野氏曰く、
 《毎回、あまりのメチャクチャさに呆然となるのだが、一番ショッキングだったのは、ただの四角い箱を作るときの、ある男の子の釘の打ち方だった。(略)突如、「松の事は松に習へ、竹の事は竹に習へ」という芭蕉の言葉が、数十年ぶりに(略)鋭く浮上してきた。「自然に従う」心性は日本人の美点で、そこからすぐれた文化(略)が生まれてきたと思うのだが……もう駄目なのか》(養老孟司[1998]の解説)
 一人の「今時の若者」を嘆いてみせて、そこから飛躍して天下国家を論じてみせる、というのはまさしく俗流若者論の典型的パターンなのだが、それにしても明らかに「お遊び」のコーナーの結果をここまで本気にしてしまう感性も、凄い、というより呆れてしまう。「今時の若者」が関わっていれば、中野氏にとっては何だって「憂国」の材料になってしまうのだろう。「サンデー毎日」の中野氏の連載にも、このような姿勢が垣間見える。

 2・「平成の常識」の統計学的分析
 このコーナーが単なるエンタテインメントでしかないこと、すなわち、結果に信頼を置くことができないことは、次の点に留意すれば容易にわかる。
 ・サンプリングが雑(いかにも、という感じの人選ばかりしている)
 ・母集団がわからない(「若者の非常識ぶり」と森本氏は言っているが、「若者」って誰?)
 ・サンプル数が少なすぎる(たいてい10~20人である)
 ・比較の対象がない(若い女性以外をまるで考慮していない)
 ・映像とナレーションの効果
 第1、第2のの論点について。ある社会調査の結果が信頼を置けるものであるためには、まずサンプリングが適切であることが最低条件となる。例えば、新聞社が行う社会調査は、多くの場合、層化2段階抽出という方法を使っている。また、青少年に対する意識調査の場合、その多くが学校のクラス単位で行われる。これらの方法は、母集団が定まっており、またその母集団に属する全てのものが等しく調査の対象になる。
 ところが「平成の常識」の場合、テレビカメラが大型のショッピングモールやテーマパーク、あるいは江ノ島などに赴いて、アポなしで行ううえ、調査地点が1箇所しかないので、サンプリングが適切であるとは言いがたい。例えばチャーハンを作る場合、その取材場所で15人を取材し4人の人が正しく作れたとしても、全国的にチャーハンを作れる若年層と作れないそれが4対11の割合で存在しているとは到底言えない。
 母集団に関しても、冒頭で採り上げた森本氏の発言から、このコーナーが視聴者に想定してほしい母集団は若年層全体なのかもしれないが、このコーナーを見ている限りでは、どう考えても取材地における若年で、しかも女性限定である。
 まあ、50万歩ほど譲って、「平成の常識」におけるサンプリングが、現代の若年層を代表したサンプリングであると仮定しよう。しかしここで第3の論点にぶち当たる。例えば、先ほどのモデルケースで、チャーハンを作れるかどうか、ということを15人に取材して4人が正しく作れた、と書いたが、現代の若年層の人数に比べ、15人というのはあまりにも少なすぎる。そこで、この回答における有効正答率を統計学的手法を用いて算出してみると、信頼係数95パーセントで55.1~7.1パーセントの若年層がチャーハンを正しく作れる、という結果が出た。このように結果に開きがあるのも、サンプル数が少ないからである。
 さらに第4の論点についても注視する必要がある。このコーナーは若い女性の「非常識ぶり」を嘆いているけれど、それでは若くない(失礼!)女性や、男性全般に関してはどうなのだろうか。仮に中高年の女性に、「平成の常識」と同じ方法でインタヴューを試みて、このコーナーが問題にしたい若い女性よりも正答率が低かったらどうなるのだ。本書で血祭りにされる若い女性と比較されるのは「記憶」または「思い込み」であり、比較という観点から見るとまったく不公平としかいえない。
 第5の論点については、実際に番組を見てもらわないとわからないが、特にナレーションが「被験者」である若い女性の非常識振りを際立たせている。
 結局、統計学的に見れば、この種の番組は単なる「お遊び」でしかないのである。「平成の常識」は、統計学の非常識なのだろうか。
 然るにわが国ではこのような企画が後を絶たない。「若者の意識を調査する」とかいった名目で渋谷とか原宿に「突撃インタヴュー」を試み、ことに政治や社会問題についてはその「意識の低さ」を嘆き、若年層が得意である(とされている)ファッションなどに関しては、その「博識ぶり」を遠まわしに賞賛しつつも、やはり自分(中高年層)からかけ離れた世界の「不可解さ」を嘆いてみせる。情報の受け手である我々に必要なのは、このような企画や記事はエンタテインメントと割り切り、その統計学的誤りを突っ込み、「この企画(記事)は決して若年層全体の姿を現しているのではない」と自分に言い聞かせることである。
 それでは、これから読者の皆様を、若者報道の非常識振りから統計学の常識を探る「統計学の常識やってTRY」のコーナーへ誘おう。
 統計学の常識、やってトーーーーライ!

 3・若者の7割が小泉首相を支持?
 平成16年4月。イラクで日本の民間人3人が拉致された。政府とイスラーム指導者の努力で何とか救出されたものの、帰国した3人を出迎えたのはいわゆる「自己責任論」であった。私はこの動きを見て胡散臭いものを感じていて、結局これは「若者論」なのではないか、と思った(これが「若者論」であったことは、「正論」2004年6月号のあまりにも低俗な読者投稿特集が示している)。
 そんな面持ちで、朝日新聞社の発行している週刊誌「AERA」の04年4月26日号を読んでいると、「「自己責任」噴出のココロ」なる記事が掲載されてみた。「自己責任バッシング」を多く読んでいた私にとって、このような記事に出会えることは一種の喜びであった。しかし、この記事をよく読んでみると、タイトルからして「自己責任」を「AERA」お得意の「ココロ問題」として矮小化させているし、内容も空疎。「週刊金曜日」04年5月14日号に載った、アンドリュー・デウィット立教大学教授の「自己責任」批判でも読んで出直していただきたい。
 さて、私の目に止まったのは19ページに載っていたコラムである。見出しは「政府支持若者男性で7割」。どうやら「AERA」編集部は、この記事のためにネットでアンケートしたらしい。今回1つ目の「TRYマスコミ」(「平成の常識」では、サンプルである若い女性を「TRY娘」と呼ぶ)はこの記事である。
 記事によると、男性153人、女性154人に、「イラクで日本人3人が武装勢力に誘拐され、人質にとられた事件で、「誘拐犯グループの要求に応じて自衛隊を撤退することはあり得ない」という政府方針を支持しますか?」というアンケートをしたそうだ。結果は以下の通り。

 ※「「支持する」/「わからない、どちらとも言えない」/「支持しない」」で表示、単位%
 全体:56.4/22.1/21.5
 男性
 20代:67.7/19.4/12.9
 30代:74.2/12.9/12.9
 40代:61.3/12.9/25.8
 50代:60.7/3.6/35.7
 60代:59.4/25.0/15.6
 女性
 20代:50.0/34.4/15.6
 30代:35.5/29.0/35.5
 40代:38.7/35.5/25.8
 50代:56.7/23.3/20.0
 60代:60.0/23.3/16.7

 第一に注目すべきは、世代ごとのサンプル数及び回答者数であろう。ここでは男性153人、女性154人にアンケートしたというが、世代ごとの回答者数が公表されていない。仕方ないので、ここでの回答率から世代ごとの回答者数を割り出すしかないだろう。
 そこで、それぞれの回答率から世代ごとのサンプル数と、それぞれの答えの回答者数の中で最も信頼性の高いであろう物を割り出してみた。ただし、年齢の「~代」は省略する。
 ※「「支持する」/「わからない、どちらとも言えない」/「支持しない」/合計」で表示

 男性
 20代:21/6/4/31
 30代:23/4/4/31
 40代:19/4/8/31
 50代:17/1/10/28
 60代:19/8/5/32
 女性
 20代:16/11/5/32
 30代:11/9/11/31
 40代:12/11/8/31
 50代:17/7/6/30
 60代:18/7/5/30

 さて、世代ごとのサンプル数が決定したところで、いよいよ有効回答率を求めよう。各回答ごとの有効回答率を求めるのは少し面倒なので、ここでは小泉首相の決定に「賛成」した人の有効分布を求める。
 ただし、サンプル数が31人前後と中途半端に少ないため、これを大標本とみなすか小標本とみなすかは微妙なところである。なので、両方について検定してみよう。

 ※「統計回答率/小標本とみなしたときの有効回答率/大標本とみなしたときの有効回答率」で表示、単位%、信頼係数95%

 男性
 20代:67.7/78.7~54.8/81.5~53.9
 30代:74.2/83.9~61.7/87.1~61.2
 40代:61.3/73.1~48.1/75.7~46.9
 50代:60.7/73.1~47.0/75.9~45.5
 60代:59.4/71.3~46.4/73.7~45.1
 女性
 20代:50.0/62.7~37.3/64.5~35.5
 30代:35.5/48.5~24.0/49.6~21.3
 40代:38.7/51.8~26.9/24.3~53.1
 50代:56.7/69.1~43.4/41.8~71.5
 60代:60.0/72.1~46.7/74.7~45.3

 ご覧の通り、この統計では誤差がなんと10~15パーセントになってしまうので、この記事から簡単に小泉首相の態度に対する日本人の見方を示すことはできないのだ。さらに、世代別で見てみると、たった1人の回答が全体に約3パーセントの影響を及ぼしてしまう。はっきり言って、サンプル数が少なすぎる、というほかない。然るにこの記事の執筆者は、思わせぶりな見出しをつけて、さも若年層が政府の「自己責任」バッシングに加担しているかのように書いてしまう。記者の感覚を疑わざるを得ない。

 4・クロス集計
 この記事の問題点はまだある。質問を再録してみよう。曰く、「イラクで日本人3人が武装勢力に誘拐され、人質にとられた事件で、「誘拐犯グループの要求に応じて自衛隊を撤退することはあり得ない」という政府方針を支持しますか?」である。
 ここで我々が注意すべきなのは、この質問が「政府方針を支持するか」というところで止まっていることである。しかし本来ならば、この質問に加えて、例えば「イラクに自衛隊を派遣した首相の責任を問うべきか」という項目を加えるべきだろう。さもないと、この記事のように、政府の方針を支持したものはみんな自衛隊の派遣に肯定的である、といった誤解を読者に植え付けかねない。
 この質問には、「救出費用を被害者が負担すべきか」という最も大切であるはずの質問がない。首相の方針を支持した人のうち、何人が「自己責任」バッシングに加担したか、ということこそ、物事の本質であって、本来なら爆弾の質問とこの質問の2つでクロス集計を行うべきだったのだ。首相の方針を支持=「自己責任」バッシングという図式がいかに杜撰であるかは、明確である。
 ちなみに私はこのとき、政府の方針を支持した。「テロに屈してはいけない」という短絡した理由からではない。この事件と自衛隊の撤退はあくまでも別個のものだからである。自衛隊を撤退させるならば、この事件の背景を深く読み取って、いかなる条件の下で撤退すべきか、ということを鑑定しなければならない。撤退すれば全てが解決する、というのは何も考えていないのと同様だ。もちろん、人質は一方的な被害者なのだから、政府は人質の救出に全力を尽くすべきである。ましてや、被害者に救出費用を負担させるなど、もってのほかである。
 閑話休題、この記事は、小泉首相の方針を支持=自衛隊のイラク派遣を肯定=「自己責任」バッシング、という論法や、若年層が「自己責任」バッシングに加担している、という虚妄の問題設定を振りかざして、肝心の検証を怠った、デタラメな記事というほかない。このような記事が簡単にまかり通ってしまうようでは、編集部における記事のチェック機能も麻痺している、といわれても仕方ないのではないか。安易な「憂国」(何も「憂国」をやるのは自称「右翼」「保守」だけではない)を先立たせた、まさに「若者報道」の帰結の一つとして明記されるべきだろう。

 5・意識調査の問題点
 二つ目の「TRYマスコミ」は、01年1月26日付の朝日新聞夕刊(首都圏版)第1面である。見出しは「いまどきの17歳 他人に厳しく自分に甘く」であるが、この記事を見ると、《他人に厳しく自分に甘く》はまさにこの記事を書いた朝日の記者というべきだろう。
 記事を全文引用する。

《飲酒や朝帰りは当然オッケー、映画館で鳴るケータイは絶対に許せない。親が子を殴るのは半数以上が許すけれど、子が親を殴るのはダメ――。少年事件の多発で注目を集めているいまどきの「十七歳」はどんな道徳感を持っているのか、東京都の高校教諭(37)が生徒にアンケートを取ったところ、こんな結果が出た。更に生徒自身に分析させると、他人の迷惑好意は不快に感じるのに、自分がする時はむとんちゃく、という若者像が浮かび上がる。二十七日に東京で開幕する日本教職員組合(日教組)の教育研究全国集会で報告される。
 アンケートは、教諭が勤務する全日制都立高校生で三年生(十七、十八歳)の四クラス計百五十人を対象に実施。大人が問題にしがちなマナーやモラルに関する二十六種類の行為について「許す」か「許さない」かをきき、結果を生徒自身に評価してもらった。
 主な行為を「許す」割合が高い順に並べたのが表だ。常識的な結果と見ることも出来る。
 教諭が注目するのは生徒たち自身の受け止め方だ。「自分や友達がやっていそうなことは許す」「許せない行為の中には、自分がやる文には構わないが、他人がやると腹が立つものが多い」という傾向を読み取ったという。「利己的だ。情報化で他人の影響を受ける機会が減ったせいだろう」と分析する生徒もいた。
 学級崩壊や少年事件の続発を受けて、教育改革国民会議派奉仕活動を若者の全員が行うようにすることを提案。東京都は「他人の子どもにがまんさせよう」などと呼びかけて「心の東京ルール」と読んでいる。教諭はアンケートとは別に、三年生全員、約二百五十人にこれらへの意見を書いてもらった。
 「東京ルール」には、過半数が積極的に評価するか「いいのではないか」と理解を示した。一方、奉仕活動については、七割以上が否定的だったという。》
 表は以下の通り。
《高校生のバイト 100%
 高校生の茶髪 93%
 未成年の飲酒 88%
 高校生の朝帰り 87%
 電車の中の化粧 59%
 親が子を殴る 55%
 電車の中でいちゃつくカップル 47%
 ヤマンバギャル 46%
 電車の床に座る若者 40%
 不倫 26%
 援助交際 21%
 子が親を殴る 19%
 万引き 10%
 映画館で鳴る携帯電話 0%》

 この記事も、自己検証を怠った典型的な「若者報道」というほかない。まず、サンプルを取った地点が1地点しかないことだ。これでは、正確なサンプリングとは到底いえない。また、虚心坦懐にこの記事を読んだ限りでは、この「意識調査」は《教諭が勤務する全日制都立高校生で三年生(十七、十八歳)の四クラス計百五十人を対象に実施》であるから、記事はあたかもこの調査が「標本調査」であるかのように書いているが、本来は「全数調査」というべきである。
 「全数調査」なのだから母集団は必然的にこの教師が勤務していた全日制都立高校の3年生になる。この教師とこの記事を書いた記者は、全数調査と標本調査の違いを知らないのだろうか。この二つの調査の違いは中学校の数学で習う範囲であって、それを知らないとは言わせまい。
 1億歩ほど譲って、この調査が「標本調査」であると仮定しよう。しかし、ここでサンプルとされている全日制都立高校生の回答を一般化するためには、大幅な留保が必要になる。第一に、この全日制高校が、都立高校の中でどのような位置にあるか、ということだ。例えば、都内全体の偏差値的に見て高い学校と低い学校の格差や、あるいは普通科が中心の学校か専攻科が中心かということで生まれる格差など、判断すべき格差はいろいろある。どちらが正しい答えを得られるかはわからないが、少なくとも一つの高校における判断を一般化すれば、間違う可能性のほうが格段に高いことだけは言える。さらに言えば、この調査では東京以外の地方の状況を判断することができないので、この点から見てもこのアンケートの結果を《いまどきの17歳》全体に適用できない。
 もっとも、マスコミ的な《いまどきの17歳》のイメージを満足させるためにこの記事を書いたのであれば、私も納得できるが。
 ここから先は、わが国に怪物の如く横行している「意識調査」全般に関して言えることだが、この種の「意識調査」の目的は、高々マスコミで流されているような「今時の若者」のイメージを確認する、すなわち自らの色眼鏡の色の正しさを確認する行為に他ならない。第一に、他の国との比較がない。場合によっては、渋谷とか原宿とか東京都内だけで満足し、日本のほかの地方との比較がない。ちなみに、朝日新聞の近藤康太郎記者によると、米国内においてはトイレで飲食するのは珍しくないという(近藤康太郎[2004])。近藤氏によれば、米国ではある雑誌社が、電車内での行為をどこまで許すか、という特集記事を組んだところ、なんと電車内でスネ毛をそることまで許された、という。また、「世界まる見えテレビ特捜部」などの番組を見ていると、自分の親のあまりの莫迦ぶりに平行してしまう、という若い子供の証言を採り上げるイギリスの番組が紹介されたりもする。わが国のマスコミは、米英のマスコミのユーモアと寛容性を少しは見習ったらどうだ。
 話がそれた。ちょっと感情論に走ってしまったようだ。申し訳ない。
 第二に、時系列での比較がない。または、世代間の比較がない。前掲の朝日新聞の記事は、「大人たち」が「当然として」「問題に思っている」ことを集めたのだが、実際にどれほどの大人が問題に思っているのか、という数値的なデータは出てこない。わが国の「若者報道」では肝心なこの部分が省略されることが少なくないけれども、それでいいのか。
 昔は駅の中でしゃがむのは日常茶飯事だった、という証言もある。そして、「若者論」にうつつを抜かしているマスコミは、評論家の斎藤美奈子氏の以下の文を声に出して読むべきだろう。声に出して読みたい日本語である。
《露出過多の服装を「下着のようだ」「娼婦のようだ」と評するのは自由だが、昔の日本人は本物の下着姿(おばさんのシュミーズ、おっさんのステテコ)で外を歩いていたんだぜ。》(斎藤美奈子[2004])
 蛇足。ここで採り上げた朝日新聞の記事の中に、《教諭が注目するのは生徒たち自身の受け止め方だ。「自分や友達がやっていそうなことは許す」「許せない行為の中には、自分がやる文には構わないが、他人がやると腹が立つものが多い」という傾向を読み取ったという。「利己的だ。情報化で他人の影響を受ける機会が減ったせいだろう」と分析する生徒もいた》というくだりがある。この高校生たちは、「優等生」なのだろう。然るに、これらの証言、特に最後のものに関しては、懐疑的なものも多い、ということを肝に銘じてほしい。最後のものについては、「世界」2004年12月号で、明治大学教授の内藤朝雄氏が批判しているので、参照されたし。

 6・マスコミへの要望
 今回の「統計学の常識やってTRY」は、これでおしまいである。しかし、最後に、マスコミに言っておきたいことがある。
 それは、「今時の若者に特有の病理」みたいな表現を極力使うな、ということだ。このような問題設定をすることは、冷静な検証から自らのみを遠ざけて、「安全地帯」に逃げ込む行為であり、「善良な」読者の支持は得られても、問題の本質には迫れない。また、「今時の若者」を嘆く前に、まず古今東西の新聞記事や文献などを参照するべきだし、あるいは、過去の犯罪統計も読んでおくべきである。安易な「憂国」言説の氾濫は、国益を失う。国民が豊富な知識と冷静な判断力を持ち、本質を見極める能力を持ち、なおかつ自由に発言できることこそが国益であって、「若者論」の大盛況は国益と正反対の位置にある。
 それでは、次回の「統計学の常識やってTRY」をお楽しみに。面白そうなネタがあったらコメントかトラックバックで。

 参考文献・資料
 近藤康太郎[2004]
 近藤康太郎『朝日新聞記者が書いたアメリカ人「アホ・マヌケ」論』講談社+α新書、2004年7月
 斎藤美奈子[2004]
 斎藤美奈子『物は言いよう』平凡社、2004年11月
 佐高信[1998]
 佐高信『タレント文化人100人斬り』現代教養文庫、1998年7月
 養老孟司[1998]
 養老孟司『続・涼しい脳味噌』文春文庫、1998年10月

 谷岡一郎『「社会調査」のウソ』文春新書、2000年5月
 パオロ・マッツァリーノ『反社会学講座』イースト・プレス、2004年5月
 ダレル・ハフ『統計でウソをつく法』高木秀玄:訳、講談社ブルーバックス、1968年7月
 広田照幸『教育には何ができないか』春秋社、2003年2月

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2004年11月 7日 (日)

「生物学的決定論」が蔓延する病理と、その病理を広めるマスコミについての断片的考察

 先日放送された「世界で一番受けたい授業」というテレビ番組に関する批評です。

――――――――――――――――――――

 普段、私は毎週土曜日にはTBS系列の「爆笑問題のバク天!」及び「みんなのモンダイ!」を見ているのだが、平成16年11月6日は、その放送が日米野球で中止になっていたので、日本テレビ系列「世界で一番受けたい授業」という番組を見ていた。この番組は、毎回3人のゲストを招いて「授業」を行う、という形式の番組らしいのだが、この日の2人目のゲストは、最近『怪獣の名前はなぜガギグゲゴなのか』(新潮新書)なる本で話題になった(らしい)黒川伊保子氏だった。私はこの本を読んでいないのだが、作家の山本弘氏のウェブサイトにおける掲示板の書き込みや、評論家の宮崎哲弥氏の書評(「今月の新書 完全読破」=「諸君!」2004年10月号、文藝春秋)で酷評されていたので、内容的にはあまり期待しないで視聴した。
 ところが視聴してみてびっくりだった。最近わが国で異常なまでに蔓延している「生物学的決定論」、あるいは「疑似科学的決定論」をマスコミで大々的に発表し、参加者やスタッフもその「授業」の内容にまったく疑問をはさまなかったからである。しかし、この「授業」の内容には、科学的に検証されていないものが多く、さらには新たな差別思想の萌芽として認識せざるを得ないものすらあった。
 例えば、怪獣やロボットアニメの主人公機などにはガギグゲゴが多いという。なるほど、確かにゴジラ、ガメラ、ギャオス、ガンダム、グフ、ゲルググなどの例を提示されれば、「そうかも」と思うし、ガギグゲゴが入っているとそれなりに迫力が出る、というのもあるかもしれない(ザクがないぞ、というツッコミは、ここでは重要ではないので、ひとまず置いておく)。
 しかし黒川氏が提示した、ガ行が多用される理由は違うのだ。何でも、ガ行を発音するときは、舌を後退させて口腔に密着させるので、その刺激が脳に伝わり、胸倉を掴まれたような暴力衝動を受けるから、というのだ。特にギャ、ギィ、ギュ、ギェ、ギョは、胸倉を掴まれて、さらに前後に揺さぶられるような衝動を受ける、というのである。しかし、黒川氏はそれを証明するようなデータ的な証拠を示さない。刺激が脳に伝わるというなら、CTスキャンなどで脳の様子を調べるべきであろう。また、心理学的なアプローチもない。それに、例えばダ行やバ行のような、同様に攻撃性を持つであろうと思われる音についての比較も行わない。
 それらの科学的な根拠の代わりに、黒川氏は自らの理論の「証拠」として、ある「呪文」を用いるのだ――この「呪文」については、後述する。
 また、女性誌に「non-no」「An-An」などナ行が多用される理由についても(「Very」「LEE」などははどうなるのだろう)、ナ行の音には包容力があり、それが女性に安心感を与えるのだ、と黒川氏は説明しているが、例えばマ行のように、似たような系統の音と比較して説明することはない。その代わり黒川氏は、ある「呪文」を使うのだ――。
 さて、私は今まで「呪文」という表現を使ってきたが、この「呪文」の正体を明かそう。
 それは「潜在脳」である。
 黒川氏が「潜在脳」という呪文を使えば、どんなことも正当化しうる。先ほど言った、ガ行は攻撃性を示し、ナ行は包容力を示す、というのもそうだ。たとい自分が気づいていなくとも、「潜在脳」がそう感じているからそう信じろ、というのが黒川氏の主張であるのだが、人間の行動がさまざまな要素を排した「潜在脳」によって決定付けられるという議論は、それこそ人間の植物化論に他ならないではないか!そもそも「潜在脳」が、例えば人間の感じる「質感」のようにさまざまな経験を経て変わるか、ということを黒川氏は示してないし、そもそも「潜在脳」を最初から「あるもの」として論じているのだからたまらない。
 そして、「潜在脳」という呪文は、とうとう差別の領域に達してしまった。
 件の番組で生徒役を務めていた参加者の名前の中で、最も女性に好感を得ない名前は有田哲平氏だという。黒川氏によると、苗字の「Arita」という発音において、苗字にラ行の後にタ行が続くことは、発音すると舌を巻き舌にした後に空気を勢いよく口の外に出すから、他人を強く叩いた感じになる、だから若い女性には好かれない、というのである。また、名前の「Teppei」という発音の中の「ppe」(小さい「っ」+「ぺ」)はつばを吐く音だから、さらに好かれない、というのだそうな。ちなみに有田氏の名前は、年上には「かわいそう」という気持ちを持ってもらえるから、年上には好かれるらしい。
 黒川氏は気づいていないかもしれないが、わが国にはラ行の後にタ行が続く苗字などたくさんある(有田以外にも、村田、成田、広田、倉田、唐津など)。黒川氏は、これらの苗字を持つ人々にも「あなたの苗字は音感的によくない」と言うのだろうか。それに、私の苗字「後藤」も、聞き方によってはかなり攻撃的な苗字である。名前に関しては、もはや「お話」の領域だ。科学でもなんでもない。
 はっきり言う、これは明確な差別である。
 なるほど、確かに最近になってマーケティング調査の中にネーミングの研究が生まれ、その中でも「音感」の研究が注目を集めているのはわかる(例えば、木通隆行[2003])。しかし、そのような研究は、本来心理学や社会学との関係性を考慮しつつ、「音感」はヒットの要因の一つであっても、全てではない、という前提を持って、慎重に取り扱われるべきものである。
 ましてや「潜在脳」などというわけのわからない新(珍)概念を捏造して、「音感」が人間関係までも全て決定してしまうのだ、と拡大解釈してしまうのは、まさに人間社会の複雑な営みを排除した暴論である。
 それにしても、と思う。このような「生物学的決定論」「心理学的決定論」じみた理論で、人間社会の性質を説明したものが最近になって続出しているのは、何か奇妙な「意味」があるように思えてならない。「ゲームをやると脳が異常になり、少年犯罪が続発したり、あるいはフリーターが増える」という暴論を主張した日大教授・森昭雄氏は、その疑似科学性が精神科医の斎藤環氏を始め多方面から指摘されているにもかかわらず、マスコミや教育界からはもてはやされている。また、京大教授・正高信男氏は「今の若年は母子密着型=サル型の子育てをされているから、サル並みに思考力が退化し、その結果恥知らずな行動やパラサイト・シングルやひきこもりが増える」という暴論を主張し、それをぶちまけた本もベストセラーになった。
 少しでも青年期病理学をかじったことがあるものなら簡単にわかるのだが、「ひきこもり」と「恥知らず」は似ているようで実はまったく違う事象なのだ。それらを容易に結合させて、それに「科学的」解説を施してしまうという方法論は、自分はそんなこととは無縁だと思っている「善良な」人たちの耳にはき着心地はいいと思うが、実際にそれに真剣に向き合おうとしている人たちにとっては、苦痛でしかないのではないか。
 その意味では、教育社会学者の広田照幸氏が《青少年の「凶悪化」や道徳的な「頽廃」を憂う、大人たちの声ばかりがメディアを占領している。…息子たちを頭ごなしに叱る父親ふうの言説ばかりが支配する世界になっている》(広田照幸[2003])というのは誤りで、最近の「若者論」は、むしろ若年ではなく大人向けのものとして流通している。すなわち、「今の若い奴らがこんなにも異常なのは、自分の時代にはなかったこんなことばかりしているからですよー」という「説明」ばかりがはびこり、それを解決する具体的な処方箋、あるいは若年に向けた「箴言」が排除されているのである。そして、それらの言論の中では、最も大切なはずのもの――森昭雄氏なら「今の若年はゲームばかりやっている」、正高信男氏なら「今の若年は母子密着型の子育てをされている」――ですら、簡単に棄却されてしまう。
 このような「決定論」の蔓延は、若年層が科学に対して関心を失っていることよりも、科学の危機を表している。「思考停止」にまみれた「若者論」や「現代社会論」がはびこるこの事態を何とかしないと、わが国の将来は危ないと思うが、いかがか。
 (2004年11月6日)


 参考文献資料
 広田照幸[2003]
 広田照幸『教育には何ができないか』春秋社、2003年2月
 木通隆行[2003]
 木通隆行「流行語、ヒット商品の秘密は"音"にある」=「中央公論」2003年10月号、中央公論新社

 笠原嘉『青年期』中公新書、1977年2月
 斎藤環『ひきこもり文化論』紀伊國屋書店、2003年12月
 日垣隆『現代日本の問題集』講談社現代新書、2004年6月

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正高信男という病 ~正高信男『ケータイを持ったサル』の誤りを糾す~

 以下の文章は、私が2004年に入ってはじめて書いた文章ですが、最近正高信男氏の『ケータイを持ったサル』(中公新書)という本が20万部を突破したそうで。おめでとうございます。
 しかし、この本は内容的に間違いだらけであるのに重ねて、思想的な問題もはらんでいますので、私の現在の見解としてこの文章を公開いたします。なお、現在、この本に関する新しい論考を執筆中です。
 この本に関しては、オンライン書店「bk1(ビーケーワン)」でも批判しておりますので、そちらもご覧ください。
 トップページ→「書評ポータル」→「書評検索」:「書評者名:後藤和智」からアクセスできます。

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 ついに中公新書からトンデモ本が出た――そう言っても差し支えのないような、あまりにも乱暴で、杜撰な本が出た。
 京都大学霊長類研究所教授の正高信男氏の著作、『ケータイを持ったサル』である。この本は発売以来、新聞その他で大評判になり、新書では、解剖学者の養老孟司氏の一連の著作と並んで、現在でもベストセラー街道を行進中である。今年1月4日付の朝日新聞に掲載された中央公論新社の広告によると、掲載時点で15万部も売れているそうだ(ちなみに養老孟司氏の『まともな人』は24万部だそうだ)。
 私がこの本を手にしたのは昨年12月の上旬で、各所で話題になっていたし、タイトルからして「今時の若者」について取り扱っている本だろうから読んでみようか、という気持ちで読んでみたのだが、一読して唖然とした。冒頭の文は、この本に対する私の第一印象である。
 あまりにもステレオタイプな若者観。あまりにもデタラメな考証。その執筆スタンスは学者のものとは到底思えない。何故このような本がベストセラーとなり、「識者」と呼ばれる人にもてはやされるのか(現役の生物学者までもがこの本を絶賛していた)。そう思えてならない。
 例えばルーズソックスについて述べたくだりで、正高氏は《(筆者注・ルーズソックスの)真の機能にはたと気づいたのだ!》とはしゃいでいるが、正高氏をしてその《真の機能》なるものに気付かせしめたものが、なんとホテルのスリッパなのだ(11~12ページ)。しかも、その正高氏の珍説を裏付けるかのように、正高氏が持ち出してくるのは、①渋谷で靴のかかとを潰して履いている人100人のうち98人がルーズソックスを着用していたこと、②実際自分で着用してみて、ルーズソックスを履いてみると靴の感覚がなくなること、だ。
 これがいかにデタラメな考証であるかは明らかであろう。まず①に関しては、このような街頭調査は「偶然」に極めて左右されやすいし、調査地点が1箇所しかないのも統計学的には極めて大きな問題だ。サンプル数も少なすぎるし、靴のかかとを潰している人だけに限定する理由も分からない。②に至っては、何でこんなものを考証に持ち出してくるのか、と、もはや失笑するほかない。
 そんな初歩的な疑問は少しも抱かずに、正高氏は、ルーズソックスなどの現象を、たとえ家の外であっても「家の中」の感覚でいたい、とする今時の若者の感覚の表れだ、と結論付けている。だが、少し考えれば分かることだが、このような考証で導かれた「結論」に少しの信憑性も見出せまい。
 第3章では、ニホンザルがお互いの位置を確認するために「クー」という音を発する行為に触れ(これを「クーコール」というらしい)、その後唐突に《若者が携帯でメールをやり取りするのと、そっくりだと思う》と切り出してくる(67ページ)。こんな雑駁な比較で「コミュニケーションが退化している」と言ってしまう正高氏の感覚が分からない。他にも、特に第1章と第3章に、同じような粗雑な比較が頻繁に出てくる。こんな比較ができるのも、正高氏が、今時の若者はみんなサルだ、と思い込んでいるからだろう(事実、正高氏は、まえがきで渋谷の女子高生を「珍種のサル」と決め付けている)。
 統計データの面にも大きな問題がある。第2章は、親の年収や養育費の調査が載っているが、どうもこの調査がいただけない。まず、全体的にサンプル数が少なすぎる。また、都市部や農村部、郊外との比較もなく、時系列での比較もない。変数として採用されているのは現在の年収だけだ。あまつさえ、養育費の内訳は、他に統計を調べれば出てくるだろうに、正高氏は、推測だけで計算してしまっている(39ページ)。第3章・87ページの「エレベーターの会話」の調査では、サンプル数と調査方法すら明記されていない。
 第4章で採り上げられている「投資ゲーム」問題でも、正高氏は、女子高生50人を、携帯電話を頻繁に使う人とまったく使わない人、それぞれ25人ずつに分けて、そのグループの中でペアを組ませる、と書いているが、25人でペアは組めない。第5章の「4枚カード」問題でも、何故カードに書かれている文字を「数字」と「アルファベット」から「年齢」とか「社会的な決まり」に変えるだけで、「社会的かしこさ」を測定するテストになるのか疑問である。
 これほどまでに杜撰な本であるが、この程度で驚いてはいけない。同書のあとがきで、正高氏は、こんな恐ろしいことを書いているのだ。
 《ただ、私個人は基本的にサルとなじんだ行動の研究者である。だから、もっともっとサルに近づいた人間が社会にあふれるのを見てみたいと思っている。せいぜい体に気をつけて、長生きを心がけよう。》(184ページ)
 なんということだろう。正高氏は、「現代の日本人はサルに退化している」という架空の仮説を立て、その中で妄想を膨らまして、人間がサルに退化することがさも社会の危機であるかのように煽り立てていたのに、最終的には、日本人が退化することを望んでいるのだ。正高氏にとっては、《サルに近づいた人間が社会にあふれる》事は「よいこと」なのかもしれないが、それが度し難い無責任であることを、正高氏は何故知ろうとしない?
 最後に、私も、正高氏に長生きしてもらいたいと考えている。正高氏が、妄想から脱出し、元の真面目な動物行動学者に戻ることを、私は切に望んでいるからである。
 (2004年1月8日)

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はじめまして

 はじめまして。私は後藤和智(ごとう・かずとも)といいます。
 私は高校時代から若者報道の研究(と呼べるかどうか分かりませんが)を趣味でやっており、雑誌などに投稿しているのですが、このたび、私の活動を広げるために、ブログを始めました。つたない文章ですが、読者の皆様が身の回りに氾濫する「今時の若者」という言説を読み解く上での参考にしてくだされば幸いです。ひと月に1~4回くらいのペースで更新するつもりです。
 もちろん、若者報道以外のことも取り扱いますよ。
 以下、私の軽い自己紹介をさせていただきます。
 生年月日:1984年11月15日、岩手県釜石市生まれ
 肩書き:東北大学工学部建築学科2年、平成17年仙台市成人式実行委員会副委員長
 メディア歴:
  1999年3月:TBS「学校へ行こう!」の「未成年の主張」に出場
  2003年4月:河北新報「論壇」欄に「教科書検定」について投稿、掲載
  2004年4月:河北新報「持論時論」欄に「回転ドア事故」について投稿、掲載
  2004年6月:河北新報「持論時論」欄に「仙石線のゴミ箱」について投稿、掲載

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