正高信男という病 ~正高信男『ケータイを持ったサル』の誤りを糾す~
以下の文章は、私が2004年に入ってはじめて書いた文章ですが、最近正高信男氏の『ケータイを持ったサル』(中公新書)という本が20万部を突破したそうで。おめでとうございます。
しかし、この本は内容的に間違いだらけであるのに重ねて、思想的な問題もはらんでいますので、私の現在の見解としてこの文章を公開いたします。なお、現在、この本に関する新しい論考を執筆中です。
この本に関しては、オンライン書店「bk1(ビーケーワン)」でも批判しておりますので、そちらもご覧ください。
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ついに中公新書からトンデモ本が出た――そう言っても差し支えのないような、あまりにも乱暴で、杜撰な本が出た。
京都大学霊長類研究所教授の正高信男氏の著作、『ケータイを持ったサル』である。この本は発売以来、新聞その他で大評判になり、新書では、解剖学者の養老孟司氏の一連の著作と並んで、現在でもベストセラー街道を行進中である。今年1月4日付の朝日新聞に掲載された中央公論新社の広告によると、掲載時点で15万部も売れているそうだ(ちなみに養老孟司氏の『まともな人』は24万部だそうだ)。
私がこの本を手にしたのは昨年12月の上旬で、各所で話題になっていたし、タイトルからして「今時の若者」について取り扱っている本だろうから読んでみようか、という気持ちで読んでみたのだが、一読して唖然とした。冒頭の文は、この本に対する私の第一印象である。
あまりにもステレオタイプな若者観。あまりにもデタラメな考証。その執筆スタンスは学者のものとは到底思えない。何故このような本がベストセラーとなり、「識者」と呼ばれる人にもてはやされるのか(現役の生物学者までもがこの本を絶賛していた)。そう思えてならない。
例えばルーズソックスについて述べたくだりで、正高氏は《(筆者注・ルーズソックスの)真の機能にはたと気づいたのだ!》とはしゃいでいるが、正高氏をしてその《真の機能》なるものに気付かせしめたものが、なんとホテルのスリッパなのだ(11~12ページ)。しかも、その正高氏の珍説を裏付けるかのように、正高氏が持ち出してくるのは、①渋谷で靴のかかとを潰して履いている人100人のうち98人がルーズソックスを着用していたこと、②実際自分で着用してみて、ルーズソックスを履いてみると靴の感覚がなくなること、だ。
これがいかにデタラメな考証であるかは明らかであろう。まず①に関しては、このような街頭調査は「偶然」に極めて左右されやすいし、調査地点が1箇所しかないのも統計学的には極めて大きな問題だ。サンプル数も少なすぎるし、靴のかかとを潰している人だけに限定する理由も分からない。②に至っては、何でこんなものを考証に持ち出してくるのか、と、もはや失笑するほかない。
そんな初歩的な疑問は少しも抱かずに、正高氏は、ルーズソックスなどの現象を、たとえ家の外であっても「家の中」の感覚でいたい、とする今時の若者の感覚の表れだ、と結論付けている。だが、少し考えれば分かることだが、このような考証で導かれた「結論」に少しの信憑性も見出せまい。
第3章では、ニホンザルがお互いの位置を確認するために「クー」という音を発する行為に触れ(これを「クーコール」というらしい)、その後唐突に《若者が携帯でメールをやり取りするのと、そっくりだと思う》と切り出してくる(67ページ)。こんな雑駁な比較で「コミュニケーションが退化している」と言ってしまう正高氏の感覚が分からない。他にも、特に第1章と第3章に、同じような粗雑な比較が頻繁に出てくる。こんな比較ができるのも、正高氏が、今時の若者はみんなサルだ、と思い込んでいるからだろう(事実、正高氏は、まえがきで渋谷の女子高生を「珍種のサル」と決め付けている)。
統計データの面にも大きな問題がある。第2章は、親の年収や養育費の調査が載っているが、どうもこの調査がいただけない。まず、全体的にサンプル数が少なすぎる。また、都市部や農村部、郊外との比較もなく、時系列での比較もない。変数として採用されているのは現在の年収だけだ。あまつさえ、養育費の内訳は、他に統計を調べれば出てくるだろうに、正高氏は、推測だけで計算してしまっている(39ページ)。第3章・87ページの「エレベーターの会話」の調査では、サンプル数と調査方法すら明記されていない。
第4章で採り上げられている「投資ゲーム」問題でも、正高氏は、女子高生50人を、携帯電話を頻繁に使う人とまったく使わない人、それぞれ25人ずつに分けて、そのグループの中でペアを組ませる、と書いているが、25人でペアは組めない。第5章の「4枚カード」問題でも、何故カードに書かれている文字を「数字」と「アルファベット」から「年齢」とか「社会的な決まり」に変えるだけで、「社会的かしこさ」を測定するテストになるのか疑問である。
これほどまでに杜撰な本であるが、この程度で驚いてはいけない。同書のあとがきで、正高氏は、こんな恐ろしいことを書いているのだ。
《ただ、私個人は基本的にサルとなじんだ行動の研究者である。だから、もっともっとサルに近づいた人間が社会にあふれるのを見てみたいと思っている。せいぜい体に気をつけて、長生きを心がけよう。》(184ページ)
なんということだろう。正高氏は、「現代の日本人はサルに退化している」という架空の仮説を立て、その中で妄想を膨らまして、人間がサルに退化することがさも社会の危機であるかのように煽り立てていたのに、最終的には、日本人が退化することを望んでいるのだ。正高氏にとっては、《サルに近づいた人間が社会にあふれる》事は「よいこと」なのかもしれないが、それが度し難い無責任であることを、正高氏は何故知ろうとしない?
最後に、私も、正高氏に長生きしてもらいたいと考えている。正高氏が、妄想から脱出し、元の真面目な動物行動学者に戻ることを、私は切に望んでいるからである。
(2004年1月8日)
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コメント
はじめまして、VIVAと申します。学習塾の講師で、読書のブログをしております。
今あるブロガーさんから、貴ブログをご紹介いただき、プロフィールを拝見し、『ニートって言うな』の執筆者だとわかりました。
拙文ですが、正高氏の著作と、『ニートって言うな』に関する記事をTBさせていただきました。
投稿: VIVA | 2006年9月10日 (日) 22時31分