「生物学的決定論」が蔓延する病理と、その病理を広めるマスコミについての断片的考察
先日放送された「世界で一番受けたい授業」というテレビ番組に関する批評です。
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普段、私は毎週土曜日にはTBS系列の「爆笑問題のバク天!」及び「みんなのモンダイ!」を見ているのだが、平成16年11月6日は、その放送が日米野球で中止になっていたので、日本テレビ系列「世界で一番受けたい授業」という番組を見ていた。この番組は、毎回3人のゲストを招いて「授業」を行う、という形式の番組らしいのだが、この日の2人目のゲストは、最近『怪獣の名前はなぜガギグゲゴなのか』(新潮新書)なる本で話題になった(らしい)黒川伊保子氏だった。私はこの本を読んでいないのだが、作家の山本弘氏のウェブサイトにおける掲示板の書き込みや、評論家の宮崎哲弥氏の書評(「今月の新書 完全読破」=「諸君!」2004年10月号、文藝春秋)で酷評されていたので、内容的にはあまり期待しないで視聴した。
ところが視聴してみてびっくりだった。最近わが国で異常なまでに蔓延している「生物学的決定論」、あるいは「疑似科学的決定論」をマスコミで大々的に発表し、参加者やスタッフもその「授業」の内容にまったく疑問をはさまなかったからである。しかし、この「授業」の内容には、科学的に検証されていないものが多く、さらには新たな差別思想の萌芽として認識せざるを得ないものすらあった。
例えば、怪獣やロボットアニメの主人公機などにはガギグゲゴが多いという。なるほど、確かにゴジラ、ガメラ、ギャオス、ガンダム、グフ、ゲルググなどの例を提示されれば、「そうかも」と思うし、ガギグゲゴが入っているとそれなりに迫力が出る、というのもあるかもしれない(ザクがないぞ、というツッコミは、ここでは重要ではないので、ひとまず置いておく)。
しかし黒川氏が提示した、ガ行が多用される理由は違うのだ。何でも、ガ行を発音するときは、舌を後退させて口腔に密着させるので、その刺激が脳に伝わり、胸倉を掴まれたような暴力衝動を受けるから、というのだ。特にギャ、ギィ、ギュ、ギェ、ギョは、胸倉を掴まれて、さらに前後に揺さぶられるような衝動を受ける、というのである。しかし、黒川氏はそれを証明するようなデータ的な証拠を示さない。刺激が脳に伝わるというなら、CTスキャンなどで脳の様子を調べるべきであろう。また、心理学的なアプローチもない。それに、例えばダ行やバ行のような、同様に攻撃性を持つであろうと思われる音についての比較も行わない。
それらの科学的な根拠の代わりに、黒川氏は自らの理論の「証拠」として、ある「呪文」を用いるのだ――この「呪文」については、後述する。
また、女性誌に「non-no」「An-An」などナ行が多用される理由についても(「Very」「LEE」などははどうなるのだろう)、ナ行の音には包容力があり、それが女性に安心感を与えるのだ、と黒川氏は説明しているが、例えばマ行のように、似たような系統の音と比較して説明することはない。その代わり黒川氏は、ある「呪文」を使うのだ――。
さて、私は今まで「呪文」という表現を使ってきたが、この「呪文」の正体を明かそう。
それは「潜在脳」である。
黒川氏が「潜在脳」という呪文を使えば、どんなことも正当化しうる。先ほど言った、ガ行は攻撃性を示し、ナ行は包容力を示す、というのもそうだ。たとい自分が気づいていなくとも、「潜在脳」がそう感じているからそう信じろ、というのが黒川氏の主張であるのだが、人間の行動がさまざまな要素を排した「潜在脳」によって決定付けられるという議論は、それこそ人間の植物化論に他ならないではないか!そもそも「潜在脳」が、例えば人間の感じる「質感」のようにさまざまな経験を経て変わるか、ということを黒川氏は示してないし、そもそも「潜在脳」を最初から「あるもの」として論じているのだからたまらない。
そして、「潜在脳」という呪文は、とうとう差別の領域に達してしまった。
件の番組で生徒役を務めていた参加者の名前の中で、最も女性に好感を得ない名前は有田哲平氏だという。黒川氏によると、苗字の「Arita」という発音において、苗字にラ行の後にタ行が続くことは、発音すると舌を巻き舌にした後に空気を勢いよく口の外に出すから、他人を強く叩いた感じになる、だから若い女性には好かれない、というのである。また、名前の「Teppei」という発音の中の「ppe」(小さい「っ」+「ぺ」)はつばを吐く音だから、さらに好かれない、というのだそうな。ちなみに有田氏の名前は、年上には「かわいそう」という気持ちを持ってもらえるから、年上には好かれるらしい。
黒川氏は気づいていないかもしれないが、わが国にはラ行の後にタ行が続く苗字などたくさんある(有田以外にも、村田、成田、広田、倉田、唐津など)。黒川氏は、これらの苗字を持つ人々にも「あなたの苗字は音感的によくない」と言うのだろうか。それに、私の苗字「後藤」も、聞き方によってはかなり攻撃的な苗字である。名前に関しては、もはや「お話」の領域だ。科学でもなんでもない。
はっきり言う、これは明確な差別である。
なるほど、確かに最近になってマーケティング調査の中にネーミングの研究が生まれ、その中でも「音感」の研究が注目を集めているのはわかる(例えば、木通隆行[2003])。しかし、そのような研究は、本来心理学や社会学との関係性を考慮しつつ、「音感」はヒットの要因の一つであっても、全てではない、という前提を持って、慎重に取り扱われるべきものである。
ましてや「潜在脳」などというわけのわからない新(珍)概念を捏造して、「音感」が人間関係までも全て決定してしまうのだ、と拡大解釈してしまうのは、まさに人間社会の複雑な営みを排除した暴論である。
それにしても、と思う。このような「生物学的決定論」「心理学的決定論」じみた理論で、人間社会の性質を説明したものが最近になって続出しているのは、何か奇妙な「意味」があるように思えてならない。「ゲームをやると脳が異常になり、少年犯罪が続発したり、あるいはフリーターが増える」という暴論を主張した日大教授・森昭雄氏は、その疑似科学性が精神科医の斎藤環氏を始め多方面から指摘されているにもかかわらず、マスコミや教育界からはもてはやされている。また、京大教授・正高信男氏は「今の若年は母子密着型=サル型の子育てをされているから、サル並みに思考力が退化し、その結果恥知らずな行動やパラサイト・シングルやひきこもりが増える」という暴論を主張し、それをぶちまけた本もベストセラーになった。
少しでも青年期病理学をかじったことがあるものなら簡単にわかるのだが、「ひきこもり」と「恥知らず」は似ているようで実はまったく違う事象なのだ。それらを容易に結合させて、それに「科学的」解説を施してしまうという方法論は、自分はそんなこととは無縁だと思っている「善良な」人たちの耳にはき着心地はいいと思うが、実際にそれに真剣に向き合おうとしている人たちにとっては、苦痛でしかないのではないか。
その意味では、教育社会学者の広田照幸氏が《青少年の「凶悪化」や道徳的な「頽廃」を憂う、大人たちの声ばかりがメディアを占領している。…息子たちを頭ごなしに叱る父親ふうの言説ばかりが支配する世界になっている》(広田照幸[2003])というのは誤りで、最近の「若者論」は、むしろ若年ではなく大人向けのものとして流通している。すなわち、「今の若い奴らがこんなにも異常なのは、自分の時代にはなかったこんなことばかりしているからですよー」という「説明」ばかりがはびこり、それを解決する具体的な処方箋、あるいは若年に向けた「箴言」が排除されているのである。そして、それらの言論の中では、最も大切なはずのもの――森昭雄氏なら「今の若年はゲームばかりやっている」、正高信男氏なら「今の若年は母子密着型の子育てをされている」――ですら、簡単に棄却されてしまう。
このような「決定論」の蔓延は、若年層が科学に対して関心を失っていることよりも、科学の危機を表している。「思考停止」にまみれた「若者論」や「現代社会論」がはびこるこの事態を何とかしないと、わが国の将来は危ないと思うが、いかがか。
(2004年11月6日)
参考文献資料
広田照幸[2003]
広田照幸『教育には何ができないか』春秋社、2003年2月
木通隆行[2003]
木通隆行「流行語、ヒット商品の秘密は"音"にある」=「中央公論」2003年10月号、中央公論新社
笠原嘉『青年期』中公新書、1977年2月
斎藤環『ひきこもり文化論』紀伊國屋書店、2003年12月
日垣隆『現代日本の問題集』講談社現代新書、2004年6月
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