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2004年12月31日 (金)

トラックバック雑記文・04年12月31日

 今年も残りわずかとなりました。ここで私の今年最後の雑記文です。

 私が朝起きたら、「やじうまプラス号外版」というテレビ番組(テレビ朝日系列。私の住んでいる地域では東日本放送)で、少年犯罪に関して、出席している「知識人」たちが侃々諤々の議論をしていたのですが、結局、そこらの「若者報道」を超える結論が出なかった。ま、所詮こんなもんでしょう、と思いましたが。少し古い記事になりますが、
 歯車党日記:ネットについていけないマスコミの姿を露呈する佐世保・小学生殺傷事件(石黒直樹氏:ライター)
 は、一読に値すると思います。とりあえず、「インターネット」とか「少年犯罪」に関する安易なイメージに逃げない、という努力が、マスコミには欠けているような気がします。無論、ここから逃げない人もいますけれども(「良識派」ですね)、このような人の文章になかなかお目にかかることができない、というのがわが国の少年犯罪報道、さらには若者報道の悲しいところであると思います。
 若者報道がらみで言ったら、社会学者の北田暁大氏の「試行空間」に掲載された、渋井哲也「大人が知らない小学生のどっぷり「ネット生活」」(「中央公論」2005年1月号)に関する評価も参考になります。あと、香山リカ、森健『ネット王子とケータイ姫』(中公新書ラクレ)も必読でしょう。

 少年犯罪報道で、常套句として使われる言葉の一つに「子供は大人社会の鏡である」という表現があります。木村剛氏のブログにもこのような記事があります。
 週刊!木村剛:子供は大人を映す鏡である(木村剛氏:エコノミスト)
 残念ながら、私はこのような言葉が大嫌いなのです。なぜかというと、このように「納得」してしまうことは、少年犯罪その他を「消費」する考えでしかないからです。また、これを言い換えれば、「子供」をスケープゴートにすることによって「社会」を糾弾する、というあまりにも反動的な策動が見え隠れします。
 木村氏がそうだとは言いませんが、このような言葉を平気で振りかざす人は「子供」のことにかんしてかなり歪んだ幻想を持っているように思えます。同時に、「子供は大人社会の鏡である」と言う人々は、なぜ社会のいいところが子供達に反映されないのでしょうか。無論、良いところは見えづらい、ということはあります。しかし、よいところも評価しないと、公平な評価、とはいえないのではないのでしょうか。
 これは新聞の投書欄にも見出すことができます。たとえば、一部の若年が不逞な態度を取ると「現代の若者の側面を垣間見た」だとか「こういうことが全国で起こっていると思うと恐ろしい」とかいった言葉がさも「お約束」の如く振りかざされます。逆にいいことがあると「こういう人は少ないが、…」「この殺伐とした時代に…」という言葉が必ず出てくる。このネガティヴさはいったいなんなのでしょうか。このような「大人」たちの思考態度も問題視すべきではないかと思います。
 蛇足ですが、「2004年・今年の1冊」でも採り上げた、東京大学大学院助教授の広田照幸氏の著書『教育』(岩波書店/思考のフロンティア・2004年5月)の文章を引用します。

 青少年の道徳教育をめぐる言説や制度は、「正しい人間」「より道徳的に価値の高い生き方」を社会的に定義する機能を果たす。それは成人を対象にした一般行政におけるよりもはるかに踏み込んで、人の生き方の序列付けを行うことになる。……青少年の道徳の問題に仮託してなされる議論は、むしろ社会全体における道徳的基準を再定立(略)する機能を果たす(それゆえ、「子供に道徳を押し付ける前に、まず大人が襟を正せ」という議論は、提示されている道徳的基準をそのまま社会全体で受け入れる危うさを持っている)。(74~75頁)

 少年犯罪に関する言論であれば、「ン・ジュンマ(呉準磨)の備忘録」に掲載された「やはり日本が「歴史の終わり」の先駆?」という文章のほうがかなり説得力があります。

 今年もいろいろありましたね。私が気になったことに関してほかのブログなどからの記事を集めてみました。
 天皇制をめぐる問題
 千人印の歩行器:天皇萌えの世紀?(栗山光司氏)
 MIYADAI.COM:「開かれた皇室」論者は自分が何を言っているのか分かっているのか(宮台真司氏:社会学者)
 「自己責任」バッシング(これに関する私の見解は、「統計学の常識、やってTRY!」に記されております)
 MIYADAI.COM:右翼思想からみた、自己責任バッシングの国辱ぶり
 性教育の問題
 試行空間:荒川から考える1(北田暁大氏:社会学者)

 評論家の福田和也氏が、著書『晴れ時々戦争いつも読書とシネマ』(新潮社)の中で、「年の終わりに往く人、来る人」なる文章を書いていたことがあります。「往く人」は「往ってほしい人」で、「来る人」は「来てほしい人」です。福田氏の文章では、「往く人」にスペースを使いすぎて、「来る人」を書くスペースがなくなってしまった、というオチでしたが、私なりに2004年の「往く人・来る人」のトップ3をあげてみるとこうなります。
 「往く人」第3位:海老沢勝二氏(NHK会長)
 海老沢“エビジョンイル”勝二氏はいかにして進退を決めるのでしょうか。
 第2位:荷宮和子氏(ライター)
 『なぜフェミニズムは没落したのか』(中公新書ラクレ)も、「相変わらず」でした。
 第1位:正高信男氏(京都大学霊長類研究所教授)
 この人の暴走を誰か止めてやれ…

 「来る人」第3位:イチロー氏(メジャーリーガー)
 第2位:田臥勇太氏(NBA選手)
 わが国のスポーツ界にも革命をもたらしそうですね。田臥氏は今後の活躍が期待されます。
 第1位:小沢一郎氏(元・民主党代表代行)
 やはり、民主党には小沢氏がいなくちゃ。

 11月に始まったこのブログで、今年私が書いた文章は以下の通りです(お知らせと、トラックバック雑記分を除く)。
 正高信男という病 -正高信男『ケータイを持ったサル』の誤りを糾す-
 「生物学的決定論」が蔓延する病理と、その病理を広めるマスコミについての断片的考察
 統計学の常識、やってTRY!
 正高信男という堕落
 2004年・今年の1冊
 2004年・今年の1曲
 私の今後の方向性としましては、現在「正高信男という頽廃」「再論・正高信男という病」「センセイ!荷宮和子はおやつに入りますか!?」「カウンセリングが俗流若者論と結託するとき~江原啓之という病」を執筆中です。また、来年の初めのほうには、なぜ私が「子供は社会の鏡である」という言葉が嫌いか、ということを論じた文章を掲載します。来年は、今年よりももっと若者報道に対するアンテナを立てていこうと思いますので、どうぞごひいきに。
 それでは、よいお年を!

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2004年・今年の1曲

 筆者が2004年に買ったCDの中でもとりわけ私の印象に残った曲を紹介します。今回は、
 メロキュア「しあわせ」(作詞:日向めぐみ、作曲:岡崎律子)
 笠原弘子/岡崎律子「I'm always close to you」(作詞・作曲:岡崎律子)
 中原麻衣/岡崎律子「いつでも微笑みを」(作詞・作曲:岡崎律子)
 以上を推薦します。

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 その夜、私は岡崎律子氏と日向めぐみ氏のユニット「メロキュア」のアルバム「メロディック・ハード・キュア」を静かに聴いていた。2004年5月11日、岡崎氏の訃報が私の耳に届いた日である。
 私が岡崎氏の曲を聴くようになったのは平成14年のことだ。正確に言うと、岡崎氏の書いた曲を、だが。私が最初に岡崎氏の曲と認識して聴いていたのは、声優の林原めぐみ氏のアルバム「iravati」(キングレコード、1997年8月)に収録されている「Good Luck」(作詞・作曲:岡崎律子、歌:林原めぐみ)である。また、林原氏がラジオ番組で何回か岡崎氏に言及していたので、私は岡崎律子という名前を心のどこかにとどめていた。折りしもそのときは、名曲「For フルーツバスケット」(作詞・作曲・歌:岡崎律子/キングレコード・2001年7月)の、声優の堀江由衣氏がカヴァーしたものが上梓されていた。
 また、平成14年は、岡崎氏が、シンガーソングライターの日向めぐみ氏と、ユニット「メロキュア」を結成した年でもある。私がこのユニットのCDを買ったのは平成15年6月、メロキュアの2枚目のシングルとなる「1st Priority」(コロムビアミュージックエンターテインメント、2003年2月)であった。翌年3月に上梓されたメロキュアのアルバムを聴けばわかることだが、このユニットはコーラスを重視しているらしく、岡崎氏や日向氏のヴォーカルを、さらに両氏自身によるコーラスでますます洗練されたものにしている。
 岡崎氏は2004年に入ってからも、精力的に活動していた。堀江由衣氏のシングル「心晴れて 夜も明けて」(作詞・作曲:岡崎律子/キングレコード・2004年2月)や、ゲーム「シンフォニック=レイン」の曲、メロキュアの最初のアルバム「メロディック・ハード・キュア」(コロムビアミュージックエンターテインメント・2004年3月)、そして堀江氏の最新アルバム「楽園」(キングレコード・2004年4月)に提供した曲など、岡崎氏の関わったCDが多数上梓されていた。多くのファンや関係者は、岡崎氏がこれからもまた大いに活躍することを期待していたかもしれない。そんな中で……突然の訃報だった。
 私が今回挙げた3曲は、それらの岡崎氏の曲の中でも岡崎氏の死という事象と重ね合わせてみるとより一層感慨深くなってしまう曲である。
 メロキュアの「しあわせ」(メロキュア「メロディック・ハード・キュア」に収録)は、アルバムの中では唯一岡崎氏と日向めぐみ氏の合作である。日向氏が作詞、岡崎氏が作曲と歌を担当する、というスタイルである。日向氏は、この曲の歌詞を恋人同士が語り合うときのシチュエーションを想定して書いたのかもしれない。しかし、この曲の歌詞には、日向氏から岡崎氏に対するメッセージとしての意味合いが含まれているのではないか、と感ずる。同じユニットで2年間走り続けてきた絆。岡崎氏と日向氏の約束。それを岡崎氏が歌い上げる…。
 後ろの2曲は、ゲーム「シンフォニック=レイン」のキャラクターソング集「RAINBOW」(キングレコード・2004年5月)に収録されている曲で、歌手はそのゲームに出演している笠原弘子、中原麻衣、浅野真澄、折笠富美子の4氏である。そして、岡崎氏が全曲の作詞・作曲を担当している。
 とりわけ印象深いのは笠原氏の「I'm always close to you」と中原氏の「いつでも微笑みを」である。この2曲に共通するテーマは「別れ」であり、二つとも別れる人へのメッセージを含んでいる。そして、二つとも痛切な「悩み」を打ち明けた曲であり、そして希望の光で終わる。笠原氏や中原氏の歌唱もまた、曲のメッセージ性が存分に伝わってくるものに仕上がっている。ここで挙げなかった、このCDに収録されている笠原氏や中原氏のほかの曲、そして浅野氏と折笠氏の曲も、歌詞の並みならぬ叙情性とメロディライン、そして歌が絶妙なまでにマッチしており、たいへん聴き応えがある。まさに今年最高のアルバム、といっても過言ではない。
 そして、岡崎氏が生前にレコーディングしていた「シンフォニック=レイン」の曲の岡崎氏ヴァージョン10曲、そして「For フルーツバスケット」の全11曲が収録されたアルバム「For RITZ」が、キングレコードから2004年12月29日――岡崎氏の誕生日にあたる――に発売された。
 ぜひ、手にとって聴いてほしい。岡崎氏の愛した音楽を。

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 2004年・アルバム8枚
 1:笠原弘子/中原麻衣/浅野真澄/折笠富美子「RAINBOW」(キングレコード・2004年5月)
 2:岡崎律子「For RITZ」(キングレコード・2004年12月)
 3:メロキュア「メロディック・ハード・キュア」(コロムビアミュージックエンターテインメント・2004年3月)
 この3枚に関しては、本文で述べたとおりです。

 4:千葉紗子「everything」(ランティス・2004年6月)
 梶浦由記氏のプロデュースによる千葉氏のオリジナルアルバム第2弾。ミディアムテンポを中心に構成された曲と、透き通った千葉氏のボーカルに思わず聞き入ってしまう。千葉氏が初めてコーラスや作詞に関わった曲もある。

 5:林原めぐみ「center color」(キングレコード・2004年1月)
 「シャーマンキング」「朝霧の巫女」などの最近のアニメソングや、アニメ「新世紀エヴァンゲリオン」のテーマソング「残酷な天使のテーゼ」の再カヴァーなど、林原氏が声優として、ヴォーカリストとして多彩な顔を見せるアルバム。新曲は林原氏にとって初めての梶浦由記氏の作曲。ちなみに、林原氏は平成16年6月に女児を出産した。

 6:米倉千尋「BEST OF CHIHIROX」(キングレコード・2004年5月)
 デビュー曲であり、OVA「機動戦士ガンダム第08MS小隊」の主題歌にもなっている「嵐の中で輝いて」から、2003年に発表された、アニメ「カレイドスター」の主題歌の「約束の場所へ」まで、米倉氏のアニメ・ゲームタイアップ曲30曲を2枚組で一挙収録。この量と質で値段が税込み3000円とは安すぎる。初回限定版には、奥井雅美氏との期間限定ユニットで歌った「カレイドスター」のオープニング・エンディングも収録。

 7:小森まなみ「ユ・メ・ノ・チ・カ・ラ」(キングレコード・2004年7月)
 今年、ラジオ番組「mamiのRadiかるコミュニケーション」が20周年、「小森まなみのpop’n!パジャマEye」が10周年を迎えたラジオパーソナリティによるベストアルバム。通販限定だった曲「Life ~上を向いて歩こう~」や、CD未収録の「きゅんきゅんのパワー」、高橋直純氏とのユニットで歌った曲などもある。全曲が小森氏の作詞によるものだが、少なくともこのアルバムに収録されている曲の歌詞のテーマには一貫性があるようだ。それが何かは、このCDを聞いてのお楽しみである。ちなみに、岡崎律子氏が作曲した曲も4曲収録されている。

 8:志倉千代丸・編「ゲームボーカルベスト ~志倉千代丸楽曲集Vol.3~」(サイトロンディスク・2004年8月)
 ゲームソングで活躍する作曲家が提供した曲を集めたCDの第3弾。「Memories Off」「Missing Blue」「Remember 11」などから14曲を収録。歌手(声優)も、水樹奈々、笠原弘子、田村ゆかり、清水愛、皆川純子各氏など、強力なラインナップ。ちなみに当初では、坂本真綾氏の曲も収録される予定だったらしい。第4弾では入れてほしい。ついでにこの作曲家の書いた歌で最も有名なのは「NOVAうさぎのうた」だろう(笑)。もちろんこのCDには収録されていない。

 2004年・シングル収録曲20曲(上位5曲はレヴューつき)
 ※原則として1枚1曲。また、2004年に発売されたアルバムに収録されている曲は除外した。

 1:angela「Shangri-La」(作詞:atsuko、作曲:atsuko・KATSU/angela「Shangri-La」キングレコード・2004年8月)
 インディーズから、昨年、アニメ「宇宙のステルヴィア」のテーマソングでメジャーデビューし、一躍人気を獲得したユニットによる、「楽園」からの旅立ちを前にした葛藤を描いた歌。成人式実行委員会の私に言わせてもらえば、これは「成人式で歌いたい歌」だ(笑)。アニメ「蒼穹のファフナー」オープニング。

 2:tiaraway「想い出good night」(作詞・作曲:志倉千代丸/tiaraway「想い出good night/can you feel crying alone?」サイトロンディスク・2004年10月)
 tiarawayは声優の千葉紗子氏と南里侑香氏によるユニット。この歌は、千葉氏と南里氏をして「tiaraway解散か?」と思わせしめた別れの歌。親しかった人との想い出がフラッシュバックしてくるような歌詞と、千葉氏と南里氏のヴォーカルに魅せられる。卒業式で歌ったら最適かもしれない。もちろんユニットは解散しない。アニメ「W~wish~」エンディング。

 3:FictionJunction YUUKA「inside your heart」(作詞・作曲:梶浦由記/FictionJunction YUUKA「inside your heart」ビクターエンターテインメント・2004年7月)
 作曲家の梶浦由記氏のソロプロジェクト「FictionJunction」に、声優の南里侑香氏(YUUKA)が歌手として抜擢された。この歌は、聴くだけで夜明けの情景が脳裏に浮かんでくる。南里氏の歌唱と流れるようなメロディラインが魅力。ちなみにFinctionJunction YUUKAの最初のシングル「瞳の欠片」(ビクターエンターテインメント・2004年4月)のカップリング「nowhere」は、別な意味で有名な歌である。理由が知りたくば、検索サイトで「ヤンマーニ」で検索してみよ。アニメ「MADLAX」エンディング。

 4:皆川純子「TRUTH」(作詞:皆川純子、作曲:大久保薫/皆川純子「TRUTH/Darkness of chaos」キングレコード・2004年4月)
 暗い部屋で一人でたたずんでいる情景が浮かび上がってくる愛の歌。悲壮感が漂う皆川氏のヴォーカルに惹かれる。ちなみに、カップリングの「Darkness of chaos」(作詞・作曲:志倉千代丸)は、アルバム紹介で8番目に紹介した志倉千代丸氏の楽曲集にも収録されている。

 5:椎名へきる「メモリーズ」(作詞:椎名へきる、作曲:松本泰幸/椎名へきる「メモリーズ」ソニーレコード・2004年8月)
 声優として、歌手として歩んできた10年を、リスナーへのメッセージとして歌い上げた曲。椎名氏の真っ直ぐな想いが伝わってくる。唯一の難点は、この曲が収録されているCDがDVD付きであり、CDにもこの曲と伴奏だけのものしか収録されていないため、割高感を感じる。質でカヴァーしきれているが。

 6:水樹奈々「innocent starter」(作詞:水樹奈々、作曲:大平勉/水樹奈々「innocent starter」キングレコード・2004年10月)
 ※アニメ「魔法少女リリカルなのは」オープニング

 7:新居昭乃「懐かしい宇宙(うみ)」(作詞・作曲:新居昭乃/新居昭乃「懐かしい宇宙」ビクターエンターテインメント・2004年8月)
 ※アニメ「KURAU Phantom Memory」オープニング

 8:田村ゆかり「空の向こう側に」(作詞・作曲:太田雅友/田村ゆかり「夢見月のアリス」コナミメディアエンターテインメント・2004年5月)
 ※ラジオ番組「田村ゆかりのいたずら黒うさぎ」第3期エンディングテーマ

 9:高橋直純「還りの泉」(作詞・作曲:高橋直純/高橋直純「Keep on Dancin'」リアライズレコード・2004年4月)
 ※岩手放送50周年企画CD「FURUSATO~桃源郷イーハトーブの四季」提供曲

 10:JAM Project「VICTORY」(作詞:影山ヒロノブ、作曲:河野陽吾/JAM Project「VICTORY」ランティス・2004年4月)
 ※PS2ゲーム「スーパーロボット大戦MX」オープニング

 11:FictionJunction YUUKA「瞳の欠片」(作詞・作曲:梶浦由記/FictionJunction YUUKA「瞳の欠片」ビクターエンターテインメント・2004年4月)
 ※アニメ「MADLAX」オープニング

 12:野川さくら「Joyeux Noel ~聖なる夜の贈りもの~」(作詞:尾崎雪絵、作曲:影山ヒロノブ/野川さくら「Joyeux Noel ~聖なる夜の贈りもの~」ランティス・2004年12月)
 ※ラジオ番組「野川さくらのマシュマロ♪たいむ」エンディング

 13:下川みくに「悲しみに負けないで」(作詞・作曲:下川みくに/下川みくに「悲しみに負けないで/KOHAKU」フライトマスター・2004年10月)
 ※アニメ「グレネーダー ほほえみの閃士」エンディング

 14:水樹奈々「パノラマ -Panorama-」(作詞:水樹奈々、作曲:本間昭光/水樹奈々「パノラマ -Panorama-」(キングレコード・2004年4月)
 ※PS2ゲーム「ロスト・アヤ・ソフィア」オープニング

 15:村田あゆみ「Shining Star」(作詞・作曲:志倉千代丸/村田あゆみ「Shining Star――Memories Off ~それから~ feat. 村田あゆみ」サイトロンディスク・2004年7月)
 ※OVA「Memories Off 3.5」エンディング

 16:諏訪部順一「Believe in you」(作詞:Pazz、作曲:八七/諏訪部順一「Believe in you」NECインターチャネル・2004年1月)
 ※アニメ「テニスの王子様」キャラクターソング

 17:高橋直純「SUMMER WIND」(作詞・作曲:高橋直純/高橋直純「愛しくて」リアライズレコード・2004年8月)

 18:田村ゆかり「Sweet Darlin'」(作詞・作曲:太田雅友/田村ゆかり「Little Wish -lyrical step-」コナミメディアエンターテインメント・2004年10月)
 ※ラジオ番組「田村ゆかりのいたずら黒うさぎ」第4期オープニング

 19:堀江由衣、UNSCANDAL「スクランブル」(作詞・作曲:スズーキタカユキ/堀江由衣、UNSCANDAL「スクランブル」キングレコード、2004年10月)
 ※アニメ「スクールランブル」オープニング

 20:保志総一朗「Shining Tears」(作詞:近藤ナツコ、作曲:たかはしごう/保志総一朗「Shining Tears」キングレコード・2004年11月)
 ※PS2ゲーム「シャイニング・ティアーズ」オープニング

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2004年12月25日 (土)

2004年・今年の1冊

 私が2004年1月1日~12月15日に読んだ本の中でも、特に私の印象に残った本を紹介します。
 今回は、山本七平『日本はなぜ敗れるのか』(角川Oneテーマ21、2004年3月)を推薦します。
 bk1書評:「「戦後の克服」とは何を意味するのか

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 大東亜戦争から幾多の昼夜を経て、来年、2005年は敗戦から60年を迎える。
 大東亜戦争といえば、わが国では多くの論者がこの戦争に関して論評を加えているので、1984年生まれの私ごときがそれらに文句を言うのは失礼なのかもしれない。
 しかし、最近のわが国における、一部の論者によるこの戦争の捉え方に、私は違和感を覚えているのである。
 私が違和感を覚えているのは、最近になってなぜか勢いづいている「保守」を自称する人たちに関してである。彼らは言う、戦後のわが国は大東亜戦争や戦前を否定し、そのため現在のような荒廃した風景――政治家の汚職や、深刻な青少年問題など――が広がるようになったのだ、と。だから、大東亜戦争を「正しく」教えて、教育基本法を改正し、さらに憲法も改正すれば、「国民の誇り」が復活し、少年犯罪も人口減少もみんな解決できる、とまで言っている。
 しかし、これは「若者論」あるいは「俗流憂国論」でしかないのではないか。これら「若者論」「俗流憂国論」は、自分の気に入らないことをそのまま天下国家論と結びつける。すなわち、自分の私憤を国家的なアクシデントとして代弁することに、「若者論」「俗流憂国論」は腐心しているのである。一部の改憲派たちの論理も、これに見事に当てはまってしまう。
 私はうすうす感じていた。彼らのこのような思考法こそ、わが国が大東亜戦争を克服できていないことを示しているのではないか、と。大東亜戦争は、安易な精神論が横行し、それゆえ負ける戦争に突き進んでしまった、という論評は、最近になってもさまざまなところで見かける。しかしそれらの議論もまた、ある種の「反戦イデオロギー」によって誇張されたものも多い。
 そんな中、たまたま手に取った本書は、私の持っていた違和感を一気に晴らしてくれる本であった。
 日本人論や日本社会論に関心のある読者はすでに知っていることだろうが、著者、山本七平氏は、自らの戦争体験や独自の思考をもとに『私の中の日本軍』『「空気」の研究』などを世に問い、それらの日本人論、日本社会論は「山本日本学」として、著者が逝去した1991年以降も語り継がれている。
 翻って今年。イラクでは邦人が人質に取られ、あるいは殺害された。長崎で起こった少女による凶悪犯罪は、わが国における少年犯罪に対する「世論」の凶暴さ、単純さ、脆弱さをまたもや露呈させた。そんな中、2004年4月、本書が山本氏の新刊として角川書店から刊行された。
 本書は、著者が1970年代半ばに書いた、単行本未収録の原稿を書籍化したものである。そして本書の内容は、大東亜戦争でフィリピンに派遣され、そして米軍の捕虜となった技術者の日記を読み解く、というものである。
 著者が引用する日記、『虜人日記』には、「敗因二十一か条」として、日記の筆者が大東亜戦争の敗因としているものを21個上げている。例えば、その15条には、こうある。「バアーシー海峡の損害と、戦意の喪失」と。
 「バアーシー海峡」とは、フィリピンのルソン島と台湾の間にあるバシー海峡のことで、現在だと中国とフィリピンの国境が通っている。なぜこの日記の筆者、そして著者はバシー海峡を敗因として捉えるのか。これには戦時中の日本軍が行った大いなる過ちが潜んでいる。
 戦争も深刻さを増してきた頃、日本軍はフィリピンこそが戦況逆転の好機だと思い込み、フィリピンに人員を送る必要に迫られた。しかし日本には老朽化した輸送船しか残されていなかった。また、日本軍がフィリピンで取った行動とは、まず佐官を先に現地に送り、それから兵隊を輸送船に乗せてフィリピンに運ぶ。そして無事に着いた兵士を用いて部隊を形成する、というやり方であった。
 この輸送船には、一坪あたりなんと14人の兵士が乗っていた、というのだから驚きである。結果的に輸送船に乗った兵士は約3000人になる。山本氏は言う、《すべての人間は思考力を失っていた。否、それは、思考を停止しなければ、できない作業であった》、と。敗因にある「戦意喪失」は、間違いなくこの環境からきている。
 当然、この輸送船は老朽化しているし、さらに敵である米軍の武器の性能も向上しているから、輸送船は容易に沈められてしまう。しかも、15秒という短さで。これでは、著者も言うとおり、あのアウシュヴィッツの一人1分20秒とは比べ物にならない効率で、人命を犠牲にしてしまうのである…!
 たとえ無事にフィリピンに到着することができたとしても(著者は《「死のベルトコンベア」からこぼれ落ちたように》と表現している)、物資なんてぜんぜん運ばれていない。従って、《砲なき砲兵、自動車なき自動車隊、航空機なき航空兵》が大量に発生してしまうのである。現地の兵站で受ける挨拶も、《「何だって大本営は、兵員ばかりこんなにゾロゾロと送り込んで来るのだ。第一、糧秣がありゃしない、宿舎もない、兵器!とんでもない。そんなものがあったら、すでに到着した部隊を兵器なしで放り出しておくわけがあるまい。当分、シナ人墓地ででも宿泊してろ」》というものであった。
 このような状況を前にして、大本営は、ただひたすら物資と兵士をフィリピンに送り続け、そして浪費し続けた。「死のベルトコンベア」を大量に作っていたのである。
 このことに対する山本氏の分析は、至極辛辣なものである。曰く、
 《ただある一方法を一方向に、極限まで繰り返し、その繰り返しのための損害の量と、その損害を克服するために投じつづけた量と、それを投ずるために払った犠牲に自己満足し、それで力を出し切ったとして自己を正当化しているということだけであろう。》
 この「バシー海峡」以外にも、本書で取り上げられている「日本の敗因」は多岐に及ぶ。例えば、「実数と員数」「日本の学問は実用化しない」「克己心の欠如」「反省力がない」「精神的に弱かった(一枚岩の大和魂も戦いが不利になれば意味がない)」「日本文化に普遍性がなかった」…。これらの議論は、全てが戦時中のものを指して言われたものでありながら、戦後のわが国にも当てはめることが容易なものばかりである。
 そう、わが国は「戦争」を克服していないのだ。戦後も、戦争の総括が行われず、朝鮮戦争の軍事特需に始まる爆発的な好景気に溺れた。長期停滞に陥った今、そんな状況下で「戦後の克服」などと叫んでも、それがリアリズムをもって人々の耳に受け入れられるはずもないのである。さらに最近のわが国の動向―― 少年犯罪に対する言論の貧しさや憲法・教育基本法の改正論議、そして「若者論」――を見ていると、大東亜戦争に向かった「敗因」が、再び復活しているような気がしてならない。
 著者は、大東亜戦争と同様の戦争として、西南戦争を挙げている。西南戦争では、武士によって組織された西郷隆盛の軍が、徴兵制によって集められた平民による政府軍に敗北した。西郷は、生粋の武士は平民による軍隊に負けるはずはない、と思い込んでいたにもかかわらず、である。いや、そうだからこそ、というべきか。
 敗戦から60年を迎える現在、我々は本書を読んで、西南戦争――大東亜戦争を引き起こした、近代のわが国における国民の脆弱性について考えるべきかもしれない。期せずして本書のタイトルは『日本はなぜ敗れるのか』である。「敗れたのか」ではないところに、編集者や附註を行った人たちのただならぬ気迫を感じるのは、私だけだろうか。

――――――――――――――――――――

 ここからは2004年に私の印象に残った本、例えば俗流若者論に抗うための本や、知的好奇心を刺激してくれる本など、30冊をレビューとともに紹介します。bk1に投稿した書評にも飛べます。

 2004年・さらに30冊

 1:金子勝、児玉龍彦『逆システム学』(岩波新書、2004年1月)
 書評:「真摯な対話が生み出したもの」
 市場原理主義やネオ・ダーウィニズムに抗い、小さなクラスター(経済学なら小さな共同体、生命科学なら細胞や遺伝子)のつながりから万物を見極めようとする新しい科学概念の提唱。理系と文系の華麗なるコラボレーションを見ることができる。

 2:高安秀樹『経済物理学の発見』(光文社新書、2004年9月)
 書評:「経済物理学とは何物か」
 物理学者が集い、経済現象について語り始めた。物理学の手法は経済学に何をもたらすか。そしてそこからわかったことは?物理学の新たな可能性に思わず心が躍ってしまう、珠玉の一冊。

 3:パオロ・マッツァリーノ『反社会学講座』(イースト・プレス、2004年5月)
 書評:「それでも若者論を信じますか」
 少年犯罪は凶悪化していない!パラサイト・シングルの撲滅は社会的不平等を激化させる!学力低下なんてたいしたことない(しかし勉強はしろ)!少子化不安論なんて眉唾だ!そして、出版不況の真の元凶は新聞だ!!「若者論」が絶対書けない資料や結論をさながらマジックショーの如く我々の目の前に見せつける、抱腹絶倒、おまけに「若者論」への耐性もつく一冊。

 4:斎藤環『ひきこもり文化論』(紀伊國屋書店、2003年12月)
 書評:「臨床家としての「覚悟」」
 精神科医として20年以上にわたって「社会的ひきこもり」を研究してきた著者による現代青年論、比較文化論。臨床家としての覚悟と意地が伝わってくる。本格的な若者論とはこうあるべきだろう。

 5:今井一『「憲法九条」国民投票』(集英社新書、2003年10月)
 書評:「「参加型民主主義」への重大な提言」
 勇ましい理想論ばかり振りかざす改憲派、自分の意見が支持してくれないと知るとさも自分と同じ考えを持たないものは莫迦だとばかりに身内で囁きあう護憲派。こんな状況は「憲法改正国民投票法」で打破せよ。各地の住民投票を取材した市民派ジャーナリストによる重大な一石。

 6:島泰三『親指はなぜ太いのか』(中公新書、2003年8月)
 書評:「誠実さが生み出す臨場感」
 マダガスカルのアイアイに始まり、世界中のさまざまな霊長類の手と主食の関係を「手と口連合仮説」で読み解く。そして、人間の手はなぜこんな形をしているのか。学問でありながら紀行エッセイでもあり、まさにサル学の骨頂である。

 7:中西準子『環境リスク学』(日本評論社、2004年9月)
 書評:「グレーゾーンの評価」
 ファクトにこだわり続けた著者がひたすら追った環境リスク学の短い歴史。狂牛病やダイオキシンに関する騒動への批判などもあり、読み応えあり。特に公共事業に関わる人は必読。

 8:宮崎哲弥、藤井誠二『少年の「罪と罰」論』(春秋社、2001年5月)
 書評:「少年犯罪問題の基礎認識」
 現代の青少年は本当に凶悪化しているのか。戦後の残虐な少年犯罪を読み解き少年犯罪の歴史や少年犯罪報道の虚構を暴く。また、本当に被害者の救済や加害少年の更生のためになる少年法改正とは何か。リアルな議論に触れたい方に。

 9:斎藤美奈子『物は言いよう』(平凡社、2004年11月)
 書評:「フェミニズム・メディア・リテラシー」
 「それって、フェミコード的におかしくないですか?」…明らかに性差別な言説から詳細に検証しないとその差別性がわからないような言説まで、また政治家の発言から男性差別まで幅広く検証・採点する。特に「若者論」を読むときは座右においておきたい。

 10:佐藤卓己『言論統制』(中公新書、2004年8月)
 書評:「「教育の国防国家」のリアリズム」
 戦時中の言論統制の立役者として悪名高かった情報官・鈴木庫三とは何者か。新史料の発掘により見えてくる戦時中の言論史。そして、「教育の国防国家」とは。

 11:金子勝、アンドリュー・デウィット、藤原帰一、宮台真司『不安の正体!』(筑摩書房、2004年10月)
 第一線の経済学者、国際政治学者、社会学者が一同にそろい、イラク戦争後の世界と社会について語りあった、危機感とリアリズムに満ちた対談本。参加者自身による解説も読ませる。

 12:日垣隆『現代日本の問題集』(講談社現代新書、2004年6月)
 書評:「二元論的思考からの脱却」
 イラク・北朝鮮問題からライフスタイルまで、気鋭のジャーナリストが独自の視点で「現代日本の問題」を斬りまくる。下手なオピニオン雑誌よりも効率よく、そして確実にわが国の抱える問題点が俯瞰できる本。

 13:阿部謹也『「世間」とは何か』(講談社現代新書、1995年7月)
 有史以来日本人を束縛し続ける「世間」とは何か。日本社会論の基礎の基礎にして古典的名著。

 14:ウォルター・リップマン、掛川トミ子:訳『世論』(上下巻、岩波文庫、1987年2月)
 第1次世界大戦後の混乱を研究した本であるにもかかわらず、著者が現代に存在しているかのような錯覚を覚えるほどのリアルな問題提起を含む、大衆社会論、メディア社会論の古典。

 15:宮台真司、宮崎哲弥『エイリアンズ』(インフォバーン、2004年10月)
 「論壇」の外にいるものを自称する二人による、領空侵犯的な対談集の第3弾。テーマの設定は至極行き当たりばったりであるにもかかわらず、この二人の問題意識と知性の高さには驚かされる。行き過ぎの面もあるが。

 16:ダレル・ハフ、高木秀玄:訳『統計でウソをつく法』(講談社ブルーバックス、1968年7月)
 書評:「思考のレッスン1」
 統計は嘘に満ち溢れている。その「統計の嘘」を見抜き、社会に警鐘を鳴らした古典的名著。新聞や雑誌、テレビに接するときは常に大まかな内容を思い出せるようにしておきたい。

 17:山口義行『経済再生は「現場」から始まる』(中公新書、2004年3月)
 書評:「地域経済につける薬」
 地域金融論で知られる経済学者が、地銀の努力や先端技術の導入などで、どん底から立ち上がった地域経済の現場をリポート。「足で書いた経済書」といえる。

 18:林原めぐみ『林原めぐみの愛たくて逢いたくて… ファイナルシーズン』(角川書店、2004年8月)
 2004年9月号で終了した「Newtype」誌の長期連載の書籍化第3弾。多様な対談相手、林原氏の受け応えの秀逸さ、そして写真の美しさに惹かれる。林原氏のメッセージが収録されたCD付き。なお、「Newtype」2005年1月号から林原氏の新しい連載が始まっている。

 19:松谷明彦『「人口減少経済」の新しい公式』(日本経済新聞社、2004年5月)
 書評:「覚悟を問う」
 少子化が人口減少社会を招くという通説を否定した上で、人口減少経済の到来が何をもたらすかを希望的な観測でもって予測。悲観論に慣れてきた人にとってはサプライズとなることは確実である。

 20:歪、鵠『「非国民」手帖』(情報センター出版局、2004年4月)
 書評:「「非国民」たれ!」
 2004年4月に休刊した「噂の眞相」の名物匿名コラム欄「撃」を書籍化。その批評眼や先見性の高さは、もっと高く評価されてもいいのではないか。評論家・宮崎哲弥氏による解説も読み応えあり。

 21:笠原嘉『青年期』(中公新書、1977年2月)
 斎藤環氏などに大きな影響を与えた、青年期病理学の古典的名著。この学問は国際的に見てもまだ若いほうだが、少なくとも現在のわが国で横行している俗流若者論が決して触れない「青年期の病理」の歴史的な経緯を知るにはうってつけ。

 22:広田照幸『教育』(岩波書店/思考のフロンティア、2004年5月)
 書評:「教育論を若者論から奪還せよ」
 定常化社会における教育とはどうあるべきか。教育学を思想として再構築する意欲的な本。政策論的には少し甘い気もするが。

 23:近藤康太郎『朝日新聞記者が書いたアメリカ人「アホ・マヌケ」論』(講談社+α新書、2004年7月)
 書評:「「アメリカ人=前頭葉が異常なサル」」
 「AERA」でおなじみの朝日新聞記者によるアメリカ滞在記。わが国の社会への根本的な疑念が含まれており、「軽いけれど重い」不思議な本。

 24:五十嵐太郎『過防備都市』(中公新書ラクレ、2004年7月)
 書評:「不安を煽ることはいいことか」
 気鋭の建築評論家が、静かなる攻撃性にあふれる街の様子をリポート。セキュリティ不安社会への批判のたたき台になるか。

 25:小森まなみ『しあわせレシピ』(主婦の友社、2004年3月)
 著者初の「実用書」を目指したようだが、むしろエッセイとして読み応えがる。第4章は「声優グランプリ」の連載の中から選りすぐりのもので構成されている。この章はレシピ+エッセイになっているので、一度作って食べてみるのはどうか。

 26:小田中直樹『歴史学ってなんだ?』(PHP新書、2004年2月)
 歴史学は役に立つのか、そもそも「役に立つ」とはどういうことか。歴史学のみならず、学問全体にわたる問題点を提起しているようにも見える。大学受験を控えた高校生や浪人生にお勧め。

 27:広田照幸『教育には何ができないか』(春秋社、2003年2月)
 書評:「現代若者論の大いなる陥穽」
 著者が教育に関して新聞や雑誌に発表した論文などを集めたもの。一般に「教育の問題」といわれているものの虚構と本質を俯瞰できる。俗流若者論に抗うためのネタ本としても。

 28:篠原一『市民の政治学』(岩波新書、2004年1月)
 近代は第2ステージに入ったという認識から、市民のための政治=「討議デモクラシー」を提唱する。リベラル派を自称する人は読んでおいて損はない。

 29:斎藤美奈子『男性誌探訪』(朝日新聞社、2003年12月)
 書評:「雑誌という「人格」」
 「文藝春秋」から「プレイボーイ」「メンズノンノ」まで、華麗なる男性誌の世界を気鋭の文芸評論家が読み解く。評論というよりもエンターテインメントの色合いが強い。

 30:溝口敦『食肉の帝王』(講談社、2003年5月)
 ついに逮捕されたハンナングループ代表・浅田満。浅田被告はどのようにして利権を拡大していったか。講談社ノンフィクション賞に輝く、渾身のルポルタージュ。(文庫版はこちら)


 蛇足:今年のブック・オブ・ワースト
 1:正高信男『人間性の進化史』(日本放送協会出版部/NHK人間講座・2004年11月)
 あまりにも突っ込みどころが多すぎて、読むたびに私を怒らせてくれる素晴らしい(笑)本であります。まさに海老沢“エビジョンイル”勝二氏の有終の醜(美ではない)を飾るに相応しい。「正高信男という頽廃」、予想以上に執筆が難航しております。公開は来年1月中ごろになる予定です。

 2:江原啓之『子どもが危ない!』(集英社、2004年9月)
 マスコミの俗流若者論にスピリチュアルな(霊的な)解説をつけているだけの空疎な本。自らの論理の根拠が示されていないところが実に訝しい。この本の内容を信じているあなたは学力が低下しているぞ。山本七平氏の著書と、3・4・8・9・12・13・14・16・20・21・22・24・27を読んで出直して来い。

 3-1:荷宮和子『若者はなぜ怒らなくなったのか』(中公新書ラクレ、2003年7月)
 つまらない。
 3-2:荷宮和子『声に出して読めないネット掲示板』(中公新書ラクレ、2003年12月)
 書評:「天上天下唯我独尊、誹謗中傷罵詈雑言」
 ありえない。
 3-3:荷宮和子『なぜフェミニズムは没落したのか』(中公新書ラクレ、2004年12月)
 いい加減にしろ。

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2004年12月23日 (木)

トラックバック雑記文・04年12月23日

 週刊!木村剛(木村剛氏:エコノミスト)
 再び教育の話。今回は教師に関する話のようです。
 私は現在家庭教師をしているのですが、やはり他人に教えるのは難しいです。
 私の(教えられる側としての)教師体験といったら、中学校と高校のことが最も印象に残っています。といっても、中学校のことに関して言えば、一部の先生が…これ以上言うと、中学校の先生方の逆鱗に触れることになりますから、やめておきます。
 高校は、すばらしい教師陣に恵まれたと思います。私の高校は仙台第二高等学校(男子校)だったのですが、男子校だからこそ実現しえた(?)力の入った授業(教師の性別は問いません)のほか、人間的にもすばらしい先生が多かった。まさに「恩師」と誇りを持っていえる先生だったと思います。

 千人印の歩行器(栗山光司氏:bk1レビュアー)
 内田樹×高橋哲哉×宮台真司の3人による夢の対談、ですか。確かに実現したら大変面白い内容になることは請負でしょう。ただ、このような対談を企画してくれるようなオピニオン雑誌は「論座」(朝日新聞社)くらいしかないのではないか。「論座」の最新号(2005年1月号)には、寺島実郎×ジェラルド・カーティス×姜尚中という豪華メンバーによる対談が掲載されており、読み応えがあります。
 「論座」は、ほかにも村田晃嗣×アンドリュー・デウィット(04年12月号)や、船橋洋一×中西寛(04年8月号)、荻原博子×紺谷典子×中野麻美(04年3月号)、森本敏×田岡俊次(04年2月号)などという面白い組み合わせの対談を掲載しているので、図書館などで目を通してみるのもいいかもしれません。
 ちなみに私の妄想の中の夢の対談は、宮台真司(社会学者)×土井隆義(筑波大学助教授)×三浦展(マーケティングプランナー)。「郊外化と少年犯罪」について12時間ほど語ってほしい!

 ついでに、トンデモ若者論を完膚なきまでに論破できるような対談というのを考えてみました。
 正高信男(『ケータイを持ったサル』)×宮崎哲弥、森昭雄(『ゲーム脳の恐怖』)×斎藤環、荷宮和子(『若者はなぜ怒らなくなったのか』『声に出して読めないネット掲示板』『なぜフェミニズムは没落したのか』)×宮台真司
 ぜひやってくれええええ!

 呉準磨(ン・ジュンマ)の備忘録呉準磨氏
 最近見つけたサイトなのですが、とても面白いです。ぜひ一度読んでみることをお勧めします。
 ちなみに今回トラックバックしているのは「2004年の参考文献」。ちなみに私の2004年の本は山本七平『日本はなぜ敗れるのか』(角川Oneテーマ21)です。近いうちに、「2004年・私の1冊」と「2004年・私の1曲」を公開します。

 今年もいろいろありましたね。最近のトピックスについて私が気になった記事を少々。
 「NHK不祥事と受信料不払い拡大の経緯」(ジャーナリスト:坂本衛氏)
 海老沢“エビジョンイル”勝二氏はいつまで居座り続けるのでしょうか。あまつさえ、かの曲学阿世の徒・正高信男氏を「人間講座」の講師にしてしまって。エビジョンイルにはマサジョンナム!?

 はてなダイアリーキーワード:ほ、ほーっ、ホアアーッ!!ホアーッ!!
 「双恋」というアニメのイヴェント(私はアニメもイヴェントも見ていません)で、声優の堀江由衣氏(愛称は「ほっちゃん」)に発せられた謎の言葉…。さらに堀江氏とは懇意の声優の田村ゆかり氏(愛称は「ゆかりん」)がインターネットラジオで「ユアーッて言われたい」と発言したものだから「ゆ、ゆーっ、ユアアーッ!!ユアーッ!!」なんていう言葉まで生まれてしまって…。
 これをほかの人で応用してみるとどうでしょうね。とりあえず愛称がア段で始まる人ではやらないほうがいいでしょう。とくに愛称が「マ」で始まる人なんかでやってしまうと…正高信男が現れて「母子密着の病理」なんかこんこんと説きそうで、怖いぞ。

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2004年12月 9日 (木)

トラックバック雑記文・04年12月09日

 まず、「週刊!木村剛」からトラックバックをいただきました。ありがとうございます。

 週刊!木村剛(木村剛氏、エコノミスト)

 木村氏の文章とはあまり関係ないのですが、先日発表されたOECDの学力調査に対する個人的な見解を。
 確かに、現役の大学生の私にも、件の学力調査の結果は衝撃的でした。ですが、私がさらに衝撃的だったのは、これを報じたマスコミが、さも鬼の首でもとったかのような安易な文部科学省批判ばかりやっていたことです。
 これでいいのでしょうか。
 私は、学力低下の原因をひとり学習カリキュラムの削減に求めるのは愚策だ、と思っています。確かに、学習カリキュラムを削減すると、学力は低下するかもしれませんし、今回の調査はそれを裏付けた、とも言えるでしょう。
 しかし、私は学力低下の問題には、もっと大きな問題がぶら下がっているのではないかと思えてなりません。
 最近になって、東京学芸大学の山田昌弘教授が盛んに唱えている「希望格差社会」という概念があります。この言葉を広めたのが、山田氏の最近著『希望格差社会』(筑摩書房)および『パラサイト社会のゆくえ』(ちくま新書)です。あいにくながら私はこの2冊を読んでいないのですが、「中央公論」の2004年12月号に掲載された山田氏の論文は、学力低下問題の一側面を言い当てているのではないか、と思います。

 私が注目したいのは、近年(略)、経済的な指標で測られる量的な格差以上に、質的な生活状況の格差、いわば「ステイタス(立場)の格差」というべきものが出現してきたことである。……
 「ステイタスの格差」という言葉で表現したいのは、普通の人が通常の努力では埋めることができない質的な格差である。

 《普通の人が通常の努力では埋めることができない質的な格差》。そういえば、わが国の中学生は先進各国に比べて学習時間が少ない、という統計も同時に出ていました。しかし、いくら努力しても報われない社会が目の前にある、というのであれば、ある意味、学習時間が減少するのも仕方ないのではないでしょうか。
 学力低下の問題も含めて、最近の若年をめぐる深刻な問題の解決が難しい理由の一つに、それらの問題の「原因」が既存の「若者論」で説明できないところにあるのではないか、と思えてなりません。「社会的ひきこもり」にしろ、失業や無業者の問題にしろ、れっきとした社会的背景があることは、すでに多くの論者によって実証されています。学力低下の問題も、おそらくこの範疇に入るでしょう。
 ところが「若者論」は、それらの議論が発している最も重大なメッセージ――これらの問題の「原因」を、若年の精神の脆弱さに求めるのは徒労だし、単純な強硬論は事態を深刻化させるだけだ――を、簡単に棄却してしまい、「今時の若者は…」なんていう「愚痴」に収束させてしまいます。かくして「ひきこもり」とか「フリーター」とかいった言葉は、論者の目的とは明らかに違った形で世間に広まってしまいます。とくに保守的な雑誌の投書欄を見ていると、この傾向が明らかに現れています。そして、「若者論」で納得できなければ、「あいつらは俺たちとは根本的に違うんだ」といって、生物学的な決定論に逃げてしまいます(『ゲーム脳の恐怖』『ケータイを持ったサル』なんてその典型です)。
 しかし、「若者論」でいいのか。この国には、マスコミにも、学者にも、役人にも、「若者論」を排してものを考えることのできる人はいないのか。私は、わが国のさまざまな分野が、「若者論」に陵辱されるのが耐えられないのです。

 蛇足ですが、「スタンダード 反社会学講座」の第15章「学力低下を防ぐには」は、「学力低下」論の裏をついていて、非常に読ませます。

 日頃、週刊誌などが報じる公務員の不祥事や官僚の天下りに怒り心頭のみなさんも、自分の子どもには思いっきり甘い汁を吸ってほしいと願う、この矛盾。親子の関係や心情は、統計や理屈では割り切れないのです。家族や親子のあるべき姿、模範や理想像なんてものは存在しないのだという真理に、文学は紀元前から気づいています。社会学はいまだに気づく気配もありません。
(略)
  ということで、どうせたくさん勉強しなければならないのなら……と考えて行き着く先が、早期英才教育です。自分がバカなのは、小さい頃から勉強しなかったせいだ、だから子どもには他人より早く猛勉強を始めさせよう――と、自分の怠けグセを棚に上げて子どもに強制する都合のいい教育法です。
(略)
 いまから思うと、当時の人たちが、なんで勉強や読書をしないとテロリストになると考えたのか不思議です。だって、浅間山荘事件のつい3年前には東大紛争があったばかりだったんですよ。日本で一番勉強や読書をしていた人たちが暴れまくっていたというのに。世論なんてものは、その時々の印象的な事件に左右されて、すぐに180度変わってしまう無責任なものなのです。
(略)
 でも、じつは、学力低下が起こっているかどうかなんて、どうでもいいことなのです。学力が低下したから勉強しよう、ってのもなんだかおかしな理屈です。ちょっと太ったからダイエットしよう、みたいなのとは違うと思うんですね、勉強というものは。  学力が低下していようがいまいが、みなさん、勉強は続けなければいけません。勉強していないと、へっぽこ学者の強引な理論にねじ伏せられてしまいます。最近ではゲーム脳理論がいい例です。医学の専門知識がなくても、ある程度の学力・読解力を持ってる人なら、あの本を一読しただけで論旨や根拠にクビをひねるはずです。それなのに、大学の先生の研究だから間違っているはずがない、と無批判に取り上げる新聞・雑誌の多いこと。大手マスコミ各社は、大卒の社員しか採用していませんから、やっぱり大学生の学力は低下しているようです。

 MIYADAI.com(宮台真司氏・社会学者)
 元衆議院議員の白川勝彦氏が警察から違法な職務質問を受けたそうです。この文章にはわが国の警察機構に対する重大な問題提起が含まれています。

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2004年12月 5日 (日)

トラックバック雑記文・04年12月05日

 歯車党日記(石黒直樹氏:ライター)
 わが国を代表するジャーナリストの一人、大谷昭宏氏への公開質問状として書かれているのですが…
 大谷昭宏氏:対話も感情もない「萌え」のむなしさ
 相当ひどい文章です。もちろん石黒氏の文章ではなく大谷氏の文章が。
 大谷氏は、この文章で「若者論」をやらかしています。どのあたりが「若者論」なのかというと、

 この日刊スポーツの紙面でも少しコメントさせていただいた奈良市の有山楓ちゃん(7)誘拐殺人事件。
  書くこともおぞましいが、犯人が「娘はもらった」というメールとともに母親の携帯電話の画面に送りつけてきた写真は、その後、殺害後のものらしいことがわかった。さらに犯人は浴槽のような所で少女を水死させ、遺体に無数の傷をつけていたことも明らかになった。
 もちろんいまの段階で犯人の動機は不明である。だが、私はこれらの状況からどうしても最近気になっていた「萌え」という現象を思い起こしてしまう。

 《最近気になっていた「萌え」という現象を思い起こしてしまう》?どこをどうやったらそうなるのでしょうか。

  もちろんまだ犯人像が絞れないいまの段階で、今度の事件の犯人を直接、この萌え現象と結びつけることはできない。ただ、解剖結果から誘拐直後に殺害しているということは、犯人は一刻も早く少女をモノを言わないフィギュアにしたかったことは間違いない。その上でフィギュアになった少女の写真を母親に送りつけ、ここでもまるでモノをやり取りするかのように「娘はもらった」という言葉を使っている。これまでの誘拐犯なら「娘はあずかった」だ。

 ちょっと待ってください。《犯人は一刻も早く少女をモノを言わないフィギュアにしたかったことは間違いない》なんて、よく書けるものです。大谷氏は、この事件の犯人が「若者」であると勝手に想像した上で、こう書いているのでしょう。確かに、さまざまなメディアで、この事件の犯人が20~30代の男であるという予測が出ています(ただし、その予測を出している多くのメディアが、週刊誌やワイドショーなど、信頼しにくいメディアなのですが)。しかし、大谷氏は、そこからさらにすっ飛んで、犯人の性格や行動、さらにはその背景までを勝手に書き飛ばしてしまっています。
 これは確実に思考停止以外の何物でもありません。
 この事件の犯人が見つかるのは、あまり遠くないと思いますが、もしその犯人像が大谷氏の想像しているものとは違ったら、大谷氏はどうするつもりなのでしょう(この文章は日刊スポーツに掲載されているものです)。自らの過ちを認めて謝罪するのでしょうか。いずれにせよ大谷氏がこのような罵倒文を書いたという形跡は残るわけですから、大谷氏は「大人」としてその責を負わなければなりません。
 結局、大谷氏のこの文章も、自分の気に入らないものと衝撃的な事件を短絡させて、天下国家を論じてしまった「若者論」でしかないのです。蛇足ながら、このような「若者論」にはまってしまうのは、どういうわけか「左翼」的な人が多い(無論「右翼」的な人だって「若者論」にはまります)。「若者論」は、イデオロギー的な位置づけをすれば「保守」、それも「俗流保守」です。ですから、「左翼」的な人が「若者論」を言ってしまうと突如右側に旋回した感じを受けるのですが、周りの人がそれを注意しない、あるいは右傾化として糾弾しないのも、「若者論」であれば保守的になっても構わない、あるいは一貫性を捨てても構わない、という共通前提があるからだ、という気がしてなりません。もちろん推測ですが。
 宮台真司氏は、「右」も「左」も「大きなもの」にすがりたがるという点では変わらない(「右」は「日の丸」、「左」は「コミンテルンの赤旗」)といろいろなところで書いていますが、私は、「若者論」にこそこの構造を見出します。

 大谷氏に対する石黒氏の批判は、至極まっとうです。いわく、

 ちょっと待て! 仮にも30年以上のキャリアを持つベテランジャーナリストである大谷氏が、まさか的外れな偏見や聞きかじりの知識だけで、差別意識丸出しのオタク叩きを大手メディア上で展開するだろうか? きっと大谷氏自身も年季の入ったオタクであり、萌えゲーやフィギュアにはまった末にあのような結論に至ったに違いない! まさかそういった裏付けも無しにああいった発言はしないだろう。何せベテランジャーナリストなんだから。

 参りました。

 そういえば、自称「女子供文化評論家」の荷宮和子氏が、今月10日に『なぜフェミニズムは没落したのか』(中公新書ラクレ)なる本を出すそうです。最近の荷宮氏の活動(『若者はなぜ怒らなくなったのか』『声に出して読めないネット掲示板』ともに中公新書ラクレ)は、「左翼」的な人が「若者論」でもって「俗流保守」に転落してしまうさまを如実に示しております。来年の2月あたりに「悲しみの評論家~荷宮和子と「2ちゃんねる」の内ゲバ~」という文章をここにアップデートする予定です。なぜかくも「2ちゃんねる」的な著者が、ここまでもてはやされるのか、ということに関する研究です。

 お知らせ:私はこのブログで、京都大学霊長類研究所教授の正高信男氏の最近の活動を批判していますが、いっそこれをシリーズ化します。「正高信男という病」「正高信男という堕落」「正高信男という頽廃」「正高信男という落日」「正高信男からの脱却」の5部作にする予定です。
 現在、「病」「堕落」を書き上げました。「頽廃」は執筆中です。

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2004年12月 4日 (土)

正高信男という堕落

 NHK人間講座のテキスト『人間性の進化史』を取り扱った「正高信男という頽廃」は、現在執筆中ですので、もう少しお待ちください。今回取り扱うのは、その正高氏が先日の読売新聞に書いた少年犯罪論です。

――――――――――――――――――――

 あの曲学阿世の徒、京都大学霊長類研究所教授の正高信男氏が、平成16年11月22日付読売新聞の「学びの時評」にて、少年犯罪について論じておられる。
 タイトルは、「「心の闇」指摘は的はずれ」。そのとおりである。わが国において、「不可解な」少年犯罪が起こると、即刻「心の闇」を問う報道が多い。しかし、その「心の闇」なるものは、結局マスコミ報道の受けでである「善良な」大人たちが脅えているもの(例えば、漫画、ゲーム、インターネット、携帯電話など)をスケープゴートにするための方便であり、自己検証を含むあらゆる検証を放棄する暴論である。
 正高氏もたまにはやるではないか、と思って本文を読んでいたら、この文章は、むしろ「心の闇」報道よりもさらに奇っ怪なものであった。やはり正高氏は正高氏であったか。
 とはいえ、一番最初の正高氏の問題提起は真っ当である。
《凶悪としか言いようのない少年犯罪が、頻繁に報ぜられるようになって久しい。……そのたびにマスコミは「心の闇」という表現を用いる。しかし、こういった発想は根本的なところで、問題の本質を見誤っている気がしてならない。》(正高[2004]、以下、注意がないなら全てここからの引用)
 しかし、正高氏の言うところの《問題の本質》は、なんと擬似心理学的決定論であるのだ。
 正高氏によると、《私たちが自分自身の行いを説明できるのは……心の中で、ことばによる判断を下しているからに他ならない》。この《判断》を「内的言語」といい、思考の基礎となっている。そして、その「内的言語」は、人間の《長い間の養育と教育を経て、ようやくたどり着く一つの到着点にすぎない》という指摘も、正しいのだろう。
 しかし、正高氏は、だから「心の闇」なんて存在しない、といってしまうのである。正高氏によると、自らの言動は全て内的言語で律することができるから、「心の闇」などあり得ない、というのである。しかし、本当だろうか。正高氏は、「心の闇」という言葉を誤解しているとしか思えない。マスコミが使う「心の闇」は、自分が理解できない(と勝手に思い込んでいる)存在=若年の、「理解できない」部分を「心の闇」というレッテルを貼って逃げているのである。従って正高氏が言うところの「心の闇」、すなわち内的言語で説明できない部分は、マスコミの言うところの「心の闇」とずれている。
 百歩譲って、正高氏の「心の闇」概念を受け入れるとしよう。しかし、仮に内的言語で自らの行動が全て説明できるとしても、それをアウトプットするためには「外的言語」でもって表出させるしかない。しかし、内的言語を全て外的言語でアウトプットさせることができる、という保証など、どこにあるのだろうか。
 そして、正高氏の議論はさらに混乱する。正高氏は、正岡子規の「一匹の人間」という言葉を引いて、
 《私たちは「一匹の人間」として、この世に生を受ける。そののち成長していく中で、ことばによって思考していく術を、ふつうは学んでいく。ところが成人してなお「一匹」として暮らす者の数が、急増しつつあるらしい》
 と説く。
 最後の一文は、一体何を言っているのか、さっぱりわからない文章である。まず、《急増しつつあるらしい》というなら、まずその根拠を示すべきであろう。さらに、《成人してなお「一匹」として暮らす者》の定義がない。これでは、正高氏が自らの思い込みによって物を書いていると謗られても仕方ないだろう。
 これはあくまでも私の推測であるが、正高氏が言うところの《成人してなお「一匹」として暮らす者》の定義は、いわゆる「社会的ひきこもり」だと思う。しかし、「社会的ひきこもり」のものが暴力的であるか、というと、決してそうではない、というのが、「社会的ひきこもり」研究の第一人者である斎藤環氏から提示されている(斎藤環[2003b][2004])。また、斎藤氏は、確かに「社会的ひきこもり」から引き起こされたとしかいえない殺人もあるけれど、それは極限まで追いつめられた「ひきこもり」のものが反社会的な行動に向けて暴発できないからこそ起こった。と指摘している。その証左として、「社会的ひきこもり」が引き起こす殺人は、その対象の多くが家族であり、あるいはその殺人犯と同様の状態に置かれた「ひきこもり」のものの多くが自滅、すなわち自殺を選ぶという。
 正高氏はその前で、アルベール・カミュの小説『異邦人』における殺人犯を紹介している。
《主人公ムルソーは、……友人の女出入りに関係して人を殺し、動機を「太陽のせい」と応える。判事に自分の行動を要約して、「レエモン、浜、海水浴、争い、また浜辺、小さな泉、太陽、そしてピストルを五発打ち込んだこと」……と述べるばかりである》
 断言するが、もし今、ここで殺人事件が起きて、その犯人が引用文のような「動機」を口にしたら、犯人が若年(少年ではない)なら直ちに「心の闇」として報道されるだろう。
 「不可解な」少年犯罪に関して「心の闇」が問われているのは、むしろその「動機」である。少なくとも一昔前は、すなわち、「酒鬼薔薇聖斗」事件や、「人を殺してみたかった」殺人事件に代表されるような殺人事件が喧伝されているときは、自らの動機から行動まで全てクリアにしてしまえる「不可解さ」が問題視されていた(宮崎、藤井[2001])。「心の闇」という言葉は、その検証を逃げるための方便に過ぎない。もっとも最近は、少年犯罪が起こったら、パブロフの犬の如く「心の闇」を振りかざすようになったのだが。
 正高氏は、心理学に心酔する、あるいは心理学を乱用するあまり、物事には全て「動機」がある、と思い込んでしまっている。しかし、自らの言動の「動機」を全て説明できないことこそ、既に心理学によって証明済みなのである。
 正高氏、少なくとも『ケータイを持ったサル』以降の正高氏は、自らの「専門性」に陶酔するあまり、多数の事実誤認と論理飛躍を働いている。しかも、それを検証すべきマスコミも、正高氏のそんな態度を賞賛し、検証しようとする態度はどこにも見られない。正高氏に近い分野の専門家、すなわち認知科学や認知心理学、動物行動学の専門家も、君子危うきに近寄らず、とばかりに黙視を決め込むのではなく、徹底的に批判するべきであろう。今のところ、マスコミで正高氏の言動を批判しているのは、宮崎哲弥氏(宮崎[2003]、宮台、宮崎[2004])と斎藤美奈子氏(斎藤美奈子[2003])しかいないのが現状だ。
 ついでに正高氏の事実誤認に関しても指摘しておく。正高氏は第3段落で《詳細が明らかになったのちも……理解に苦しむ事件は、確かに間違いなく増えている》と書いているが、戦後の少年犯罪を検証してみれば(宮崎、藤井・前掲書、斎藤環[2003a])、現在の観点から「理解できない」犯罪、例えば「切り裂きジャック」事件(1964年)や予備校生金属バット殺人事件(1980年)など、数多くあった。文化庁長官の河合隼雄氏と、評論家の芹沢俊介氏が指摘するとおり、報道の量が殺人の件数を大幅に上回ってしまった、という現実もある(河合隼雄、芹沢[2004])。また、宮崎氏らが指摘する通り(重松、河合幹雄、土井、宮崎[2004])、「大人の犯罪」や過去の少年犯罪が現在のマスコミにとってタブーになっているということも看過できない。
 さらに正高氏は、最後の段落で、《(「不可解な」少年犯罪を)厳罰に処すべきかどうかについても、議論されたことはない》と言っているが、最近になって、「不可解な」少年犯罪が起こるたびに何度「厳罰化」が叫ばれたことか。平成15年7月、長崎県で12歳の少年が5歳の少年を殺害したときに、当時防災担当大臣の鴻池祥肇氏が「殺人犯の親を始終引き回しの上打ち首にせよ。完全懲罰の原則にのっとった刑罰をしないと、戦後教育で育った子供たちを攻勢することは出来ない」と言う趣旨の失言をしたこと、平成16年6月、佐賀県で12歳の少女が同級生を殺害したことに際して、防災担当大臣の井上喜一氏が「元気な女性が増えた」と言う趣旨の失言をしたことを覚えていないとは言わせまい(芹沢[2003]、斎藤美奈子[2004])。
 どうやら正高氏は、論じる対象についての基礎的な知識すら欠いているようである。結局、最近の正高氏の仕事は、「善良な」大人たちや「優等生」たちが抱いている「今時の若者」のイメージに屋上屋を架すことしかしていない。「若者論」に溺れ、マスコミや「識者」にもてはやされている正高氏は、やがて自らの言動を律することができなくなり、華やかな頽廃の道を歩んでいくことになるであろう。
 (2004年12月3日)

 引用・参考文献資料
 河合隼雄、芹沢[2004]:河合隼雄、芹沢俊介「「ぬくもり」を求める子どもたちの現実」=「潮」2004年12月号、潮出版社
 斎藤環[2003a]:斎藤環『心理学化する社会』PHP研究所、2003年10月
 斎藤環[2003b]:斎藤環『ひきこもり文化論』紀伊國屋書店、2003年12月
 斎藤環[2004]:斎藤環「「ひきこもり」がもたらす構造的悲劇」=「中央公論」2004年12月号、中央公論新社
 斎藤美奈子[2003]:斎藤美奈子「斎藤美奈子 ほんのご挨拶」、「AERA」2003年12月8日号掲載分、朝日新聞社
 斎藤美奈子[2004]:斎藤美奈子『物は言いよう』平凡社、2004年11月
 重松、河合幹雄、土井、宮崎[2004]:重松清、河合幹雄、土井隆義、宮崎哲弥「日本社会はどこまで危険になったか」=「諸君!」2005年1月号、文藝春秋
 芹沢[2003]:芹沢俊介「長崎少年事件にみる子供と親の罪と罰」=「論座」2003年9月号、朝日新聞社
 正高[2004]:正高信男「「心の闇」指摘は的はずれ」=2004年11月22日付読売新聞
 宮崎[2003]:宮崎哲弥「今月の新書 完全読破」、「諸君!」2003年12月号掲載分、文藝春秋
 宮崎、藤井[2001]:宮崎哲弥、藤井誠二『少年の「罪と罰」論』春秋社、2001年5月
 宮台、宮崎[2004]:宮台真司、宮崎哲弥「M2 われらの時代に」、「サイゾー」2004年9月号掲載分、インフォバーン

 マーティン・ガードナー『奇妙な論理』全2巻、市場泰男:訳、ハヤカワ文庫NF、2003年1月(上巻)、2003年2月(下巻)
 笠原嘉『青年期』中公新書、1977年2月
 ロルフ・デーゲン『フロイト先生のウソ』赤根洋子:訳、文春文庫、2003年1月
 十川幸司『精神分析』岩波書店、2003年11月
 広田照幸『教育には何ができないか』春秋社、2003年2月
 パオロ・マッツァリーノ『反社会学講座』イースト・プレス、2004年5月
 山本七平『日本はなぜ敗れるのか』角川Oneテーマ21、2004年3月
 ウォルター・リップマン『世論』上下巻、掛川トミ子:訳、岩波文庫、1987年7月(上巻)、1987年12月(下巻)

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2004年12月 2日 (木)

トラックバック雑記文・04年12月02日

 「千人印の歩行器」栗山光司氏/bk1レビュアー
 宮台真司氏と宮崎哲弥氏の対談本第3弾『エイリアンズ』(インフォバーン)が紹介されています。私も読みましたが、このお二人の対談は何でこんなにも面白いのでしょう。ご本人は「自分は政治には興味がない、政治なんかよりももっと大切なことがある」と書いていますが、かえってそのようなスタイルが物事の本質を浮き彫りにしているのではないかと思います。それとも、既存の「知識人」がただマヌケなだけなのか。
 「知識人」といえば、私は総合雑誌を二つ読んでいるのですが、その二つである「中央公論」(中央公論新社)と「論座」(朝日新聞社)を除くと、ほとんどが「コップの中の嵐」状態に成り果てているような気がします。特に「正論」(産経新聞社)はひどい。毎回、テーマも執筆者にも意外性はありません。このような雑誌が、総合月刊誌の中では最も売れているというのが、私の想像を超える。私は声優雑誌(「声優グランプリ」主婦の友社、「hm3 special」音楽専科社)も読んでいるのですが、こちらに掲載されている声優たちのインタビューや連載コラムのほうが、少なくとも「正論」の大多数の論文・連載・当初に比べてリテラシーに富んでいる気もします。
 宮台氏がらみでは、宮台氏と金子勝氏らとの対談『不安の正体!』(筑摩書房)もお勧め。この2冊に関しては、近くbk1で書評を書く予定です。

 「週刊!木村剛」木村剛氏/エコノミスト
 今回は「中学・高校で税金のことを教えよ」という話。一般論としては正しいです。確かに、宮台氏などが指摘している通り、現在のわが国では法律の知識を持ったエリートがほとんどすべて官僚に流れていて、法律文書リテラシーを持っている人は官僚くらい、という背景があります。なので、一般市民が税金のことを知り、国民が常に行政をチェックできるようになれば、政治を市民の側に引き寄せることも不可能ではないでしょう。あと、わが国の政治にはオンブズマン制度がなく、ウォッチ・ドッグの役割を果たすべきマスコミや多くの知識人も空疎な天下国家論に狂奔している始末。やはりこの国は市民から変えていくしかないのか。
 欲を言えば、わが国は実は税金が極めて安い国家であることにも触れてほしかった。その安い税金の用途を明確化しない限り、増税は危険なのではないか、とも思います。

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