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2004年12月 4日 (土)

正高信男という堕落

 NHK人間講座のテキスト『人間性の進化史』を取り扱った「正高信男という頽廃」は、現在執筆中ですので、もう少しお待ちください。今回取り扱うのは、その正高氏が先日の読売新聞に書いた少年犯罪論です。

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 あの曲学阿世の徒、京都大学霊長類研究所教授の正高信男氏が、平成16年11月22日付読売新聞の「学びの時評」にて、少年犯罪について論じておられる。
 タイトルは、「「心の闇」指摘は的はずれ」。そのとおりである。わが国において、「不可解な」少年犯罪が起こると、即刻「心の闇」を問う報道が多い。しかし、その「心の闇」なるものは、結局マスコミ報道の受けでである「善良な」大人たちが脅えているもの(例えば、漫画、ゲーム、インターネット、携帯電話など)をスケープゴートにするための方便であり、自己検証を含むあらゆる検証を放棄する暴論である。
 正高氏もたまにはやるではないか、と思って本文を読んでいたら、この文章は、むしろ「心の闇」報道よりもさらに奇っ怪なものであった。やはり正高氏は正高氏であったか。
 とはいえ、一番最初の正高氏の問題提起は真っ当である。
《凶悪としか言いようのない少年犯罪が、頻繁に報ぜられるようになって久しい。……そのたびにマスコミは「心の闇」という表現を用いる。しかし、こういった発想は根本的なところで、問題の本質を見誤っている気がしてならない。》(正高[2004]、以下、注意がないなら全てここからの引用)
 しかし、正高氏の言うところの《問題の本質》は、なんと擬似心理学的決定論であるのだ。
 正高氏によると、《私たちが自分自身の行いを説明できるのは……心の中で、ことばによる判断を下しているからに他ならない》。この《判断》を「内的言語」といい、思考の基礎となっている。そして、その「内的言語」は、人間の《長い間の養育と教育を経て、ようやくたどり着く一つの到着点にすぎない》という指摘も、正しいのだろう。
 しかし、正高氏は、だから「心の闇」なんて存在しない、といってしまうのである。正高氏によると、自らの言動は全て内的言語で律することができるから、「心の闇」などあり得ない、というのである。しかし、本当だろうか。正高氏は、「心の闇」という言葉を誤解しているとしか思えない。マスコミが使う「心の闇」は、自分が理解できない(と勝手に思い込んでいる)存在=若年の、「理解できない」部分を「心の闇」というレッテルを貼って逃げているのである。従って正高氏が言うところの「心の闇」、すなわち内的言語で説明できない部分は、マスコミの言うところの「心の闇」とずれている。
 百歩譲って、正高氏の「心の闇」概念を受け入れるとしよう。しかし、仮に内的言語で自らの行動が全て説明できるとしても、それをアウトプットするためには「外的言語」でもって表出させるしかない。しかし、内的言語を全て外的言語でアウトプットさせることができる、という保証など、どこにあるのだろうか。
 そして、正高氏の議論はさらに混乱する。正高氏は、正岡子規の「一匹の人間」という言葉を引いて、
 《私たちは「一匹の人間」として、この世に生を受ける。そののち成長していく中で、ことばによって思考していく術を、ふつうは学んでいく。ところが成人してなお「一匹」として暮らす者の数が、急増しつつあるらしい》
 と説く。
 最後の一文は、一体何を言っているのか、さっぱりわからない文章である。まず、《急増しつつあるらしい》というなら、まずその根拠を示すべきであろう。さらに、《成人してなお「一匹」として暮らす者》の定義がない。これでは、正高氏が自らの思い込みによって物を書いていると謗られても仕方ないだろう。
 これはあくまでも私の推測であるが、正高氏が言うところの《成人してなお「一匹」として暮らす者》の定義は、いわゆる「社会的ひきこもり」だと思う。しかし、「社会的ひきこもり」のものが暴力的であるか、というと、決してそうではない、というのが、「社会的ひきこもり」研究の第一人者である斎藤環氏から提示されている(斎藤環[2003b][2004])。また、斎藤氏は、確かに「社会的ひきこもり」から引き起こされたとしかいえない殺人もあるけれど、それは極限まで追いつめられた「ひきこもり」のものが反社会的な行動に向けて暴発できないからこそ起こった。と指摘している。その証左として、「社会的ひきこもり」が引き起こす殺人は、その対象の多くが家族であり、あるいはその殺人犯と同様の状態に置かれた「ひきこもり」のものの多くが自滅、すなわち自殺を選ぶという。
 正高氏はその前で、アルベール・カミュの小説『異邦人』における殺人犯を紹介している。
《主人公ムルソーは、……友人の女出入りに関係して人を殺し、動機を「太陽のせい」と応える。判事に自分の行動を要約して、「レエモン、浜、海水浴、争い、また浜辺、小さな泉、太陽、そしてピストルを五発打ち込んだこと」……と述べるばかりである》
 断言するが、もし今、ここで殺人事件が起きて、その犯人が引用文のような「動機」を口にしたら、犯人が若年(少年ではない)なら直ちに「心の闇」として報道されるだろう。
 「不可解な」少年犯罪に関して「心の闇」が問われているのは、むしろその「動機」である。少なくとも一昔前は、すなわち、「酒鬼薔薇聖斗」事件や、「人を殺してみたかった」殺人事件に代表されるような殺人事件が喧伝されているときは、自らの動機から行動まで全てクリアにしてしまえる「不可解さ」が問題視されていた(宮崎、藤井[2001])。「心の闇」という言葉は、その検証を逃げるための方便に過ぎない。もっとも最近は、少年犯罪が起こったら、パブロフの犬の如く「心の闇」を振りかざすようになったのだが。
 正高氏は、心理学に心酔する、あるいは心理学を乱用するあまり、物事には全て「動機」がある、と思い込んでしまっている。しかし、自らの言動の「動機」を全て説明できないことこそ、既に心理学によって証明済みなのである。
 正高氏、少なくとも『ケータイを持ったサル』以降の正高氏は、自らの「専門性」に陶酔するあまり、多数の事実誤認と論理飛躍を働いている。しかも、それを検証すべきマスコミも、正高氏のそんな態度を賞賛し、検証しようとする態度はどこにも見られない。正高氏に近い分野の専門家、すなわち認知科学や認知心理学、動物行動学の専門家も、君子危うきに近寄らず、とばかりに黙視を決め込むのではなく、徹底的に批判するべきであろう。今のところ、マスコミで正高氏の言動を批判しているのは、宮崎哲弥氏(宮崎[2003]、宮台、宮崎[2004])と斎藤美奈子氏(斎藤美奈子[2003])しかいないのが現状だ。
 ついでに正高氏の事実誤認に関しても指摘しておく。正高氏は第3段落で《詳細が明らかになったのちも……理解に苦しむ事件は、確かに間違いなく増えている》と書いているが、戦後の少年犯罪を検証してみれば(宮崎、藤井・前掲書、斎藤環[2003a])、現在の観点から「理解できない」犯罪、例えば「切り裂きジャック」事件(1964年)や予備校生金属バット殺人事件(1980年)など、数多くあった。文化庁長官の河合隼雄氏と、評論家の芹沢俊介氏が指摘するとおり、報道の量が殺人の件数を大幅に上回ってしまった、という現実もある(河合隼雄、芹沢[2004])。また、宮崎氏らが指摘する通り(重松、河合幹雄、土井、宮崎[2004])、「大人の犯罪」や過去の少年犯罪が現在のマスコミにとってタブーになっているということも看過できない。
 さらに正高氏は、最後の段落で、《(「不可解な」少年犯罪を)厳罰に処すべきかどうかについても、議論されたことはない》と言っているが、最近になって、「不可解な」少年犯罪が起こるたびに何度「厳罰化」が叫ばれたことか。平成15年7月、長崎県で12歳の少年が5歳の少年を殺害したときに、当時防災担当大臣の鴻池祥肇氏が「殺人犯の親を始終引き回しの上打ち首にせよ。完全懲罰の原則にのっとった刑罰をしないと、戦後教育で育った子供たちを攻勢することは出来ない」と言う趣旨の失言をしたこと、平成16年6月、佐賀県で12歳の少女が同級生を殺害したことに際して、防災担当大臣の井上喜一氏が「元気な女性が増えた」と言う趣旨の失言をしたことを覚えていないとは言わせまい(芹沢[2003]、斎藤美奈子[2004])。
 どうやら正高氏は、論じる対象についての基礎的な知識すら欠いているようである。結局、最近の正高氏の仕事は、「善良な」大人たちや「優等生」たちが抱いている「今時の若者」のイメージに屋上屋を架すことしかしていない。「若者論」に溺れ、マスコミや「識者」にもてはやされている正高氏は、やがて自らの言動を律することができなくなり、華やかな頽廃の道を歩んでいくことになるであろう。
 (2004年12月3日)

 引用・参考文献資料
 河合隼雄、芹沢[2004]:河合隼雄、芹沢俊介「「ぬくもり」を求める子どもたちの現実」=「潮」2004年12月号、潮出版社
 斎藤環[2003a]:斎藤環『心理学化する社会』PHP研究所、2003年10月
 斎藤環[2003b]:斎藤環『ひきこもり文化論』紀伊國屋書店、2003年12月
 斎藤環[2004]:斎藤環「「ひきこもり」がもたらす構造的悲劇」=「中央公論」2004年12月号、中央公論新社
 斎藤美奈子[2003]:斎藤美奈子「斎藤美奈子 ほんのご挨拶」、「AERA」2003年12月8日号掲載分、朝日新聞社
 斎藤美奈子[2004]:斎藤美奈子『物は言いよう』平凡社、2004年11月
 重松、河合幹雄、土井、宮崎[2004]:重松清、河合幹雄、土井隆義、宮崎哲弥「日本社会はどこまで危険になったか」=「諸君!」2005年1月号、文藝春秋
 芹沢[2003]:芹沢俊介「長崎少年事件にみる子供と親の罪と罰」=「論座」2003年9月号、朝日新聞社
 正高[2004]:正高信男「「心の闇」指摘は的はずれ」=2004年11月22日付読売新聞
 宮崎[2003]:宮崎哲弥「今月の新書 完全読破」、「諸君!」2003年12月号掲載分、文藝春秋
 宮崎、藤井[2001]:宮崎哲弥、藤井誠二『少年の「罪と罰」論』春秋社、2001年5月
 宮台、宮崎[2004]:宮台真司、宮崎哲弥「M2 われらの時代に」、「サイゾー」2004年9月号掲載分、インフォバーン

 マーティン・ガードナー『奇妙な論理』全2巻、市場泰男:訳、ハヤカワ文庫NF、2003年1月(上巻)、2003年2月(下巻)
 笠原嘉『青年期』中公新書、1977年2月
 ロルフ・デーゲン『フロイト先生のウソ』赤根洋子:訳、文春文庫、2003年1月
 十川幸司『精神分析』岩波書店、2003年11月
 広田照幸『教育には何ができないか』春秋社、2003年2月
 パオロ・マッツァリーノ『反社会学講座』イースト・プレス、2004年5月
 山本七平『日本はなぜ敗れるのか』角川Oneテーマ21、2004年3月
 ウォルター・リップマン『世論』上下巻、掛川トミ子:訳、岩波文庫、1987年7月(上巻)、1987年12月(下巻)

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