2004年・今年の1冊
私が2004年1月1日~12月15日に読んだ本の中でも、特に私の印象に残った本を紹介します。
今回は、山本七平『日本はなぜ敗れるのか』(角川Oneテーマ21、2004年3月)を推薦します。
bk1書評:「「戦後の克服」とは何を意味するのか」
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大東亜戦争から幾多の昼夜を経て、来年、2005年は敗戦から60年を迎える。
大東亜戦争といえば、わが国では多くの論者がこの戦争に関して論評を加えているので、1984年生まれの私ごときがそれらに文句を言うのは失礼なのかもしれない。
しかし、最近のわが国における、一部の論者によるこの戦争の捉え方に、私は違和感を覚えているのである。
私が違和感を覚えているのは、最近になってなぜか勢いづいている「保守」を自称する人たちに関してである。彼らは言う、戦後のわが国は大東亜戦争や戦前を否定し、そのため現在のような荒廃した風景――政治家の汚職や、深刻な青少年問題など――が広がるようになったのだ、と。だから、大東亜戦争を「正しく」教えて、教育基本法を改正し、さらに憲法も改正すれば、「国民の誇り」が復活し、少年犯罪も人口減少もみんな解決できる、とまで言っている。
しかし、これは「若者論」あるいは「俗流憂国論」でしかないのではないか。これら「若者論」「俗流憂国論」は、自分の気に入らないことをそのまま天下国家論と結びつける。すなわち、自分の私憤を国家的なアクシデントとして代弁することに、「若者論」「俗流憂国論」は腐心しているのである。一部の改憲派たちの論理も、これに見事に当てはまってしまう。
私はうすうす感じていた。彼らのこのような思考法こそ、わが国が大東亜戦争を克服できていないことを示しているのではないか、と。大東亜戦争は、安易な精神論が横行し、それゆえ負ける戦争に突き進んでしまった、という論評は、最近になってもさまざまなところで見かける。しかしそれらの議論もまた、ある種の「反戦イデオロギー」によって誇張されたものも多い。
そんな中、たまたま手に取った本書は、私の持っていた違和感を一気に晴らしてくれる本であった。
日本人論や日本社会論に関心のある読者はすでに知っていることだろうが、著者、山本七平氏は、自らの戦争体験や独自の思考をもとに『私の中の日本軍』『「空気」の研究』などを世に問い、それらの日本人論、日本社会論は「山本日本学」として、著者が逝去した1991年以降も語り継がれている。
翻って今年。イラクでは邦人が人質に取られ、あるいは殺害された。長崎で起こった少女による凶悪犯罪は、わが国における少年犯罪に対する「世論」の凶暴さ、単純さ、脆弱さをまたもや露呈させた。そんな中、2004年4月、本書が山本氏の新刊として角川書店から刊行された。
本書は、著者が1970年代半ばに書いた、単行本未収録の原稿を書籍化したものである。そして本書の内容は、大東亜戦争でフィリピンに派遣され、そして米軍の捕虜となった技術者の日記を読み解く、というものである。
著者が引用する日記、『虜人日記』には、「敗因二十一か条」として、日記の筆者が大東亜戦争の敗因としているものを21個上げている。例えば、その15条には、こうある。「バアーシー海峡の損害と、戦意の喪失」と。
「バアーシー海峡」とは、フィリピンのルソン島と台湾の間にあるバシー海峡のことで、現在だと中国とフィリピンの国境が通っている。なぜこの日記の筆者、そして著者はバシー海峡を敗因として捉えるのか。これには戦時中の日本軍が行った大いなる過ちが潜んでいる。
戦争も深刻さを増してきた頃、日本軍はフィリピンこそが戦況逆転の好機だと思い込み、フィリピンに人員を送る必要に迫られた。しかし日本には老朽化した輸送船しか残されていなかった。また、日本軍がフィリピンで取った行動とは、まず佐官を先に現地に送り、それから兵隊を輸送船に乗せてフィリピンに運ぶ。そして無事に着いた兵士を用いて部隊を形成する、というやり方であった。
この輸送船には、一坪あたりなんと14人の兵士が乗っていた、というのだから驚きである。結果的に輸送船に乗った兵士は約3000人になる。山本氏は言う、《すべての人間は思考力を失っていた。否、それは、思考を停止しなければ、できない作業であった》、と。敗因にある「戦意喪失」は、間違いなくこの環境からきている。
当然、この輸送船は老朽化しているし、さらに敵である米軍の武器の性能も向上しているから、輸送船は容易に沈められてしまう。しかも、15秒という短さで。これでは、著者も言うとおり、あのアウシュヴィッツの一人1分20秒とは比べ物にならない効率で、人命を犠牲にしてしまうのである…!
たとえ無事にフィリピンに到着することができたとしても(著者は《「死のベルトコンベア」からこぼれ落ちたように》と表現している)、物資なんてぜんぜん運ばれていない。従って、《砲なき砲兵、自動車なき自動車隊、航空機なき航空兵》が大量に発生してしまうのである。現地の兵站で受ける挨拶も、《「何だって大本営は、兵員ばかりこんなにゾロゾロと送り込んで来るのだ。第一、糧秣がありゃしない、宿舎もない、兵器!とんでもない。そんなものがあったら、すでに到着した部隊を兵器なしで放り出しておくわけがあるまい。当分、シナ人墓地ででも宿泊してろ」》というものであった。
このような状況を前にして、大本営は、ただひたすら物資と兵士をフィリピンに送り続け、そして浪費し続けた。「死のベルトコンベア」を大量に作っていたのである。
このことに対する山本氏の分析は、至極辛辣なものである。曰く、
《ただある一方法を一方向に、極限まで繰り返し、その繰り返しのための損害の量と、その損害を克服するために投じつづけた量と、それを投ずるために払った犠牲に自己満足し、それで力を出し切ったとして自己を正当化しているということだけであろう。》
この「バシー海峡」以外にも、本書で取り上げられている「日本の敗因」は多岐に及ぶ。例えば、「実数と員数」「日本の学問は実用化しない」「克己心の欠如」「反省力がない」「精神的に弱かった(一枚岩の大和魂も戦いが不利になれば意味がない)」「日本文化に普遍性がなかった」…。これらの議論は、全てが戦時中のものを指して言われたものでありながら、戦後のわが国にも当てはめることが容易なものばかりである。
そう、わが国は「戦争」を克服していないのだ。戦後も、戦争の総括が行われず、朝鮮戦争の軍事特需に始まる爆発的な好景気に溺れた。長期停滞に陥った今、そんな状況下で「戦後の克服」などと叫んでも、それがリアリズムをもって人々の耳に受け入れられるはずもないのである。さらに最近のわが国の動向―― 少年犯罪に対する言論の貧しさや憲法・教育基本法の改正論議、そして「若者論」――を見ていると、大東亜戦争に向かった「敗因」が、再び復活しているような気がしてならない。
著者は、大東亜戦争と同様の戦争として、西南戦争を挙げている。西南戦争では、武士によって組織された西郷隆盛の軍が、徴兵制によって集められた平民による政府軍に敗北した。西郷は、生粋の武士は平民による軍隊に負けるはずはない、と思い込んでいたにもかかわらず、である。いや、そうだからこそ、というべきか。
敗戦から60年を迎える現在、我々は本書を読んで、西南戦争――大東亜戦争を引き起こした、近代のわが国における国民の脆弱性について考えるべきかもしれない。期せずして本書のタイトルは『日本はなぜ敗れるのか』である。「敗れたのか」ではないところに、編集者や附註を行った人たちのただならぬ気迫を感じるのは、私だけだろうか。
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ここからは2004年に私の印象に残った本、例えば俗流若者論に抗うための本や、知的好奇心を刺激してくれる本など、30冊をレビューとともに紹介します。bk1に投稿した書評にも飛べます。
2004年・さらに30冊
1:金子勝、児玉龍彦『逆システム学』(岩波新書、2004年1月)
書評:「真摯な対話が生み出したもの」
市場原理主義やネオ・ダーウィニズムに抗い、小さなクラスター(経済学なら小さな共同体、生命科学なら細胞や遺伝子)のつながりから万物を見極めようとする新しい科学概念の提唱。理系と文系の華麗なるコラボレーションを見ることができる。
2:高安秀樹『経済物理学の発見』(光文社新書、2004年9月)
書評:「経済物理学とは何物か」
物理学者が集い、経済現象について語り始めた。物理学の手法は経済学に何をもたらすか。そしてそこからわかったことは?物理学の新たな可能性に思わず心が躍ってしまう、珠玉の一冊。
3:パオロ・マッツァリーノ『反社会学講座』(イースト・プレス、2004年5月)
書評:「それでも若者論を信じますか」
少年犯罪は凶悪化していない!パラサイト・シングルの撲滅は社会的不平等を激化させる!学力低下なんてたいしたことない(しかし勉強はしろ)!少子化不安論なんて眉唾だ!そして、出版不況の真の元凶は新聞だ!!「若者論」が絶対書けない資料や結論をさながらマジックショーの如く我々の目の前に見せつける、抱腹絶倒、おまけに「若者論」への耐性もつく一冊。
4:斎藤環『ひきこもり文化論』(紀伊國屋書店、2003年12月)
書評:「臨床家としての「覚悟」」
精神科医として20年以上にわたって「社会的ひきこもり」を研究してきた著者による現代青年論、比較文化論。臨床家としての覚悟と意地が伝わってくる。本格的な若者論とはこうあるべきだろう。
5:今井一『「憲法九条」国民投票』(集英社新書、2003年10月)
書評:「「参加型民主主義」への重大な提言」
勇ましい理想論ばかり振りかざす改憲派、自分の意見が支持してくれないと知るとさも自分と同じ考えを持たないものは莫迦だとばかりに身内で囁きあう護憲派。こんな状況は「憲法改正国民投票法」で打破せよ。各地の住民投票を取材した市民派ジャーナリストによる重大な一石。
6:島泰三『親指はなぜ太いのか』(中公新書、2003年8月)
書評:「誠実さが生み出す臨場感」
マダガスカルのアイアイに始まり、世界中のさまざまな霊長類の手と主食の関係を「手と口連合仮説」で読み解く。そして、人間の手はなぜこんな形をしているのか。学問でありながら紀行エッセイでもあり、まさにサル学の骨頂である。
7:中西準子『環境リスク学』(日本評論社、2004年9月)
書評:「グレーゾーンの評価」
ファクトにこだわり続けた著者がひたすら追った環境リスク学の短い歴史。狂牛病やダイオキシンに関する騒動への批判などもあり、読み応えあり。特に公共事業に関わる人は必読。
8:宮崎哲弥、藤井誠二『少年の「罪と罰」論』(春秋社、2001年5月)
書評:「少年犯罪問題の基礎認識」
現代の青少年は本当に凶悪化しているのか。戦後の残虐な少年犯罪を読み解き少年犯罪の歴史や少年犯罪報道の虚構を暴く。また、本当に被害者の救済や加害少年の更生のためになる少年法改正とは何か。リアルな議論に触れたい方に。
9:斎藤美奈子『物は言いよう』(平凡社、2004年11月)
書評:「フェミニズム・メディア・リテラシー」
「それって、フェミコード的におかしくないですか?」…明らかに性差別な言説から詳細に検証しないとその差別性がわからないような言説まで、また政治家の発言から男性差別まで幅広く検証・採点する。特に「若者論」を読むときは座右においておきたい。
10:佐藤卓己『言論統制』(中公新書、2004年8月)
書評:「「教育の国防国家」のリアリズム」
戦時中の言論統制の立役者として悪名高かった情報官・鈴木庫三とは何者か。新史料の発掘により見えてくる戦時中の言論史。そして、「教育の国防国家」とは。
11:金子勝、アンドリュー・デウィット、藤原帰一、宮台真司『不安の正体!』(筑摩書房、2004年10月)
第一線の経済学者、国際政治学者、社会学者が一同にそろい、イラク戦争後の世界と社会について語りあった、危機感とリアリズムに満ちた対談本。参加者自身による解説も読ませる。
12:日垣隆『現代日本の問題集』(講談社現代新書、2004年6月)
書評:「二元論的思考からの脱却」
イラク・北朝鮮問題からライフスタイルまで、気鋭のジャーナリストが独自の視点で「現代日本の問題」を斬りまくる。下手なオピニオン雑誌よりも効率よく、そして確実にわが国の抱える問題点が俯瞰できる本。
13:阿部謹也『「世間」とは何か』(講談社現代新書、1995年7月)
有史以来日本人を束縛し続ける「世間」とは何か。日本社会論の基礎の基礎にして古典的名著。
14:ウォルター・リップマン、掛川トミ子:訳『世論』(上下巻、岩波文庫、1987年2月)
第1次世界大戦後の混乱を研究した本であるにもかかわらず、著者が現代に存在しているかのような錯覚を覚えるほどのリアルな問題提起を含む、大衆社会論、メディア社会論の古典。
15:宮台真司、宮崎哲弥『エイリアンズ』(インフォバーン、2004年10月)
「論壇」の外にいるものを自称する二人による、領空侵犯的な対談集の第3弾。テーマの設定は至極行き当たりばったりであるにもかかわらず、この二人の問題意識と知性の高さには驚かされる。行き過ぎの面もあるが。
16:ダレル・ハフ、高木秀玄:訳『統計でウソをつく法』(講談社ブルーバックス、1968年7月)
書評:「思考のレッスン1」
統計は嘘に満ち溢れている。その「統計の嘘」を見抜き、社会に警鐘を鳴らした古典的名著。新聞や雑誌、テレビに接するときは常に大まかな内容を思い出せるようにしておきたい。
17:山口義行『経済再生は「現場」から始まる』(中公新書、2004年3月)
書評:「地域経済につける薬」
地域金融論で知られる経済学者が、地銀の努力や先端技術の導入などで、どん底から立ち上がった地域経済の現場をリポート。「足で書いた経済書」といえる。
18:林原めぐみ『林原めぐみの愛たくて逢いたくて… ファイナルシーズン』(角川書店、2004年8月)
2004年9月号で終了した「Newtype」誌の長期連載の書籍化第3弾。多様な対談相手、林原氏の受け応えの秀逸さ、そして写真の美しさに惹かれる。林原氏のメッセージが収録されたCD付き。なお、「Newtype」2005年1月号から林原氏の新しい連載が始まっている。
19:松谷明彦『「人口減少経済」の新しい公式』(日本経済新聞社、2004年5月)
書評:「覚悟を問う」
少子化が人口減少社会を招くという通説を否定した上で、人口減少経済の到来が何をもたらすかを希望的な観測でもって予測。悲観論に慣れてきた人にとってはサプライズとなることは確実である。
20:歪、鵠『「非国民」手帖』(情報センター出版局、2004年4月)
書評:「「非国民」たれ!」
2004年4月に休刊した「噂の眞相」の名物匿名コラム欄「撃」を書籍化。その批評眼や先見性の高さは、もっと高く評価されてもいいのではないか。評論家・宮崎哲弥氏による解説も読み応えあり。
21:笠原嘉『青年期』(中公新書、1977年2月)
斎藤環氏などに大きな影響を与えた、青年期病理学の古典的名著。この学問は国際的に見てもまだ若いほうだが、少なくとも現在のわが国で横行している俗流若者論が決して触れない「青年期の病理」の歴史的な経緯を知るにはうってつけ。
22:広田照幸『教育』(岩波書店/思考のフロンティア、2004年5月)
書評:「教育論を若者論から奪還せよ」
定常化社会における教育とはどうあるべきか。教育学を思想として再構築する意欲的な本。政策論的には少し甘い気もするが。
23:近藤康太郎『朝日新聞記者が書いたアメリカ人「アホ・マヌケ」論』(講談社+α新書、2004年7月)
書評:「「アメリカ人=前頭葉が異常なサル」」
「AERA」でおなじみの朝日新聞記者によるアメリカ滞在記。わが国の社会への根本的な疑念が含まれており、「軽いけれど重い」不思議な本。
24:五十嵐太郎『過防備都市』(中公新書ラクレ、2004年7月)
書評:「不安を煽ることはいいことか」
気鋭の建築評論家が、静かなる攻撃性にあふれる街の様子をリポート。セキュリティ不安社会への批判のたたき台になるか。
25:小森まなみ『しあわせレシピ』(主婦の友社、2004年3月)
著者初の「実用書」を目指したようだが、むしろエッセイとして読み応えがる。第4章は「声優グランプリ」の連載の中から選りすぐりのもので構成されている。この章はレシピ+エッセイになっているので、一度作って食べてみるのはどうか。
26:小田中直樹『歴史学ってなんだ?』(PHP新書、2004年2月)
歴史学は役に立つのか、そもそも「役に立つ」とはどういうことか。歴史学のみならず、学問全体にわたる問題点を提起しているようにも見える。大学受験を控えた高校生や浪人生にお勧め。
27:広田照幸『教育には何ができないか』(春秋社、2003年2月)
書評:「現代若者論の大いなる陥穽」
著者が教育に関して新聞や雑誌に発表した論文などを集めたもの。一般に「教育の問題」といわれているものの虚構と本質を俯瞰できる。俗流若者論に抗うためのネタ本としても。
28:篠原一『市民の政治学』(岩波新書、2004年1月)
近代は第2ステージに入ったという認識から、市民のための政治=「討議デモクラシー」を提唱する。リベラル派を自称する人は読んでおいて損はない。
29:斎藤美奈子『男性誌探訪』(朝日新聞社、2003年12月)
書評:「雑誌という「人格」」
「文藝春秋」から「プレイボーイ」「メンズノンノ」まで、華麗なる男性誌の世界を気鋭の文芸評論家が読み解く。評論というよりもエンターテインメントの色合いが強い。
30:溝口敦『食肉の帝王』(講談社、2003年5月)
ついに逮捕されたハンナングループ代表・浅田満。浅田被告はどのようにして利権を拡大していったか。講談社ノンフィクション賞に輝く、渾身のルポルタージュ。(文庫版はこちら)
蛇足:今年のブック・オブ・ワースト
1:正高信男『人間性の進化史』(日本放送協会出版部/NHK人間講座・2004年11月)
あまりにも突っ込みどころが多すぎて、読むたびに私を怒らせてくれる素晴らしい(笑)本であります。まさに海老沢“エビジョンイル”勝二氏の有終の醜(美ではない)を飾るに相応しい。「正高信男という頽廃」、予想以上に執筆が難航しております。公開は来年1月中ごろになる予定です。
2:江原啓之『子どもが危ない!』(集英社、2004年9月)
マスコミの俗流若者論にスピリチュアルな(霊的な)解説をつけているだけの空疎な本。自らの論理の根拠が示されていないところが実に訝しい。この本の内容を信じているあなたは学力が低下しているぞ。山本七平氏の著書と、3・4・8・9・12・13・14・16・20・21・22・24・27を読んで出直して来い。
3-1:荷宮和子『若者はなぜ怒らなくなったのか』(中公新書ラクレ、2003年7月)
つまらない。
3-2:荷宮和子『声に出して読めないネット掲示板』(中公新書ラクレ、2003年12月)
書評:「天上天下唯我独尊、誹謗中傷罵詈雑言」
ありえない。
3-3:荷宮和子『なぜフェミニズムは没落したのか』(中公新書ラクレ、2004年12月)
いい加減にしろ。
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