« 2004年12月 | トップページ | 2005年2月 »

2005年1月21日 (金)

トラックバック雑記文・05年01月21日

 阪神大震災10年の夜は、故・岡崎律子氏の最新アルバム(「最終」アルバムとは思いたくない)「for RITZ」(キングレコード・2004年12月)を静かに聴いていました。

 千人印の歩行器(05年01月21日付/栗山光司氏)
 ン・ジュンマ(呉準磨)の備忘録:例のNHK問題・・・こう整理
 NHKvs.朝日新聞の対立がいよいよ激化してきました。ただ、私はこの対立については深く言うことができませんが、とりあえず苦言を言わせてもらうと、この対立はあまりにも不毛な対立といわれてもおかしくないような気がします。それこそ朝日(に限らずわが国のマスコミ)が常日頃非難している「言った/言わない」の対立がここでも現れていると思うからです。おそらくこの対立は、朝日もNHKも共に大幅に信頼を落として終わり、というのが結末になるような気がしてなりません。
 NHKが、阿部晋三氏や中川昭一氏に内容を確認したということは、ここで「政治介入」が成立しているのではないか、という見方もありえないものではないと思います。私は件の番組を見ていないのですが、件の番組の中で「女性国際戦犯法廷」という法廷モドキ(何せ、すでに死んでいる人物を「被告」にでっち上げて、反論権も保障せず「有罪」にしてしまうのですからね。法治国家ではまずありえない形式でしょう)が採り上げられているのは、ちょっと違和感を覚えました(ちなみに読売はこの一点張りでNHK側についているような気がします)。
 しかし、番組の内容について対立する側の政治家に意見を求めるというのは、しかもそれが政権党の政治家であるので、「政治介入」と見られても(それがたとえ誤解であっても)仕方ない、という一面もあると思うのです。確かに朝日新聞の一部の記者には、特定の極左的な運動に加担しているような記者もいるかもしれません(2年前に逝去したY・M記者は、この「女性国際戦犯法廷」に積極的に加担していました。と、面罵に近い批判をしてしまいましたが、私にとって朝日新聞は好きな新聞の一つです)。というわけで、NHKにも一定の落ち度があったし、朝日も少し騒ぎすぎではないか、というのが私の見解です。
 それにしても、読売をはじめ、ほかのマスコミがこの事件について何でもっと大きく採り上げないのか、不思議でなりません。
 この問題については、ジャーナリストの武田徹氏の記事と、同じくジャーナリストの坂本衛氏の記事も参考になります。

 週刊!木村剛:[週刊!神部プロデューサー]いよいよ「改憲」なのだろうか?!
 「週刊!木村剛」に掲載された文章ですが、木村氏の文章ではありません。
 今日付けの読売によると、中曽根康弘元首相が主催する「世界平和研究所」が憲法改正案を出したそうです。見た限りでは、中心は天皇陛下の元首化、首相の権威の強化にすえられていると思います。
 憲法に関して私が気になっているのが、現行憲法99条、中曽根改正案の116条です。

 天皇又は摂政及び国務大臣、国会議員、裁判官その他の公務員は、この憲法を尊重し擁護する義務を負ふ。(現行憲法。中曽根改正案は新仮名に改められると同時に、憲法を尊重し擁護するべき人物として「内閣総理大臣」の名前が付け加えられている)

 左派系文化人の一部は、この条文を、憲法改正を禁じた条文とみなしている向きがありますが、しかしそれは間違いだと思います。《憲法を尊重し擁護する》ということは、憲法を寄りよい方向に変えていく、というのも含んでいるのではないでしょうか。
 現在の護憲派の衰退の原因の一つとして、「何が何でも護憲」という態度にこだわり続けていることがあると思います。それで、なぜ護憲なのか、護憲のどこがいいのか、また、護憲をすることによってこの国の政策はどうなるのか、という戦略的な目標を提示することがかけている、という気がするのです。
 最近の一部の護憲派の焦りは滑稽です。国民投票法を実施する、というと、それは必ず改憲に繋がる、という主張がありますが、それは選挙民をあまりにも莫迦にした態度ではないでしょうか。
 私はかつて「2004年・今年の1冊」で、今井一『「憲法九条」国民投票』(集英社新書、2003年10月)という本を紹介しましたが、これは、特に護憲派の人たちには必読の文献でしょう。改憲派が勢いを増していく中で、護憲派はいかにして生きていくか、ということについて、本書は大いに示唆的です。

 走れ小心者 in Disguise!:「し、しっかりしろ警察……」
 同: 「あら。もう、もちついているみたいね…」(克森淳氏)
 奈良の女子児童殺害事件の後日談であります。前者の記事によると、《奈良の事件の容疑者には事件当日、新聞購読代金横領の容疑で逮捕状が出ていたにも関わらず、警察は行方をつかめなかった》というのです。さらに、ジャーナリストの日垣隆氏によると、小林薫容疑者は20歳のときに少女に暴力を振るっていて、逮捕されたのですが、判決はなんと執行猶予つきだったそうです。「日本版メーガン法」を主張する人は、このような警察や司法の体たらくを看過してはいけないのではないでしょうか。
 この事件における大谷昭宏氏、および「サンデー毎日」の騒ぎっぷりは異常でした。「サンデー毎日」なんて、小林容疑者のことを一貫して、しかも執拗に「ロリコン殺人鬼」と表現しているのです。「週刊文春」「週刊新潮」もここまでやっていないのに、ですよ。小林容疑者が毎日新聞の販売員だった、という事実と照らし合わせると、さらに以上というほかなくなってしまいます。いや、毎日の販売員だったから、か。
 今週の「サンデー毎日」を開いて驚きました。脳科学に関する連載で、「ロリコン殺人鬼」小林容疑者が、なんと「セロトニン欠乏症」なのではないか、というのが大々的に書いてあったのです。この記事には、かの曲学阿世の徒、北海道大学教授・澤口俊之氏も登場するし、この記事の結びが「理解できない犯罪が増えている。社会的観点ではなく、生物学的な観点からも検証しなければならない」といった内容の文章です。ああ、「サンデー毎日」はついに疑似科学まで持ち出してしまったか。
 いいですか。確かに小林容疑者はロリコンでした。これは事実です。しかし、ロリコンがみんな残虐な性犯罪を起こすわけではないのです。これもれっきとした事実なのです。一つの凶悪犯罪を取り上げて、ロリコンおよびロリコンメディアを敵視する必要がどこにあるのですか。特に、大谷氏と「サン毎」、そしてこれらの報道や言論に踊らされている人は、この事実を深く胸に刻み込んでおく必要があります。
 日垣氏の最新刊『世間のウソ』(新潮新書・2005年1月)には、「性善説のウソ」と題して、昨年6月に起こった佐世保の女子児童殺害事件におけるマスコミの体たらくを批判しています。この文章は、奈良の事件にも共通する問題提起を含んでいるので、ぜひ一度読んでください。日垣氏がらみでは、精神障害犯罪者を扱った『そして殺人者は野に放たれる』(新潮社・2004年3月)も読んでおく必要があるでしょう。

 蛇足。現在発売中の「通販生活」で、成人式に関する特集が組まれているのですが、ここにも大谷氏が登場し、トンデモ若者論を振りまいています。大谷氏は、わが国で少子化が進んでいることと、わが国において青少年による強姦罪の検挙件数が1965年ごろに比べて約20分の1に減少していることをご存知なのでしょうか。いったい大谷氏は、本当にジャーナリストなのでしょうか。デマゴーグでしかないのではないか?
 大谷氏の暴言の隣に、われらが平成17年仙台市成人式実行委員会実行委員長、伊藤洋介氏の至極まっとうなインタビューが掲載されているのが泣ける。

この記事が面白いと思ったらクリックをお願いします。→人気blogランキング

| | コメント (1) | トラックバック (2)

2005年1月10日 (月)

トラックバック雑記文・05年01月10日

 仙台市成人式におこしになった皆様、そして関係者の皆様、本当にありがとうございました。皆様の暖かい支持のおかげで、仙台市成人式は無事に成功を収めました!我々仙台市成人式実行委員会は、昨年8月25日の発足から、さまざまな試行錯誤を続けて、ついにこのような形にすることができたのです。実行委員会、そして当日のボランティアスタッフ(19歳と20歳の仙台市民のみで構成されている)の皆様は、今日の成人式を大成功に収めようと、精一杯がんばってくれました。そして私もがんばりました。大声で「これが仙台の成人式だ!」と誇りを持っていえるような結果となりました。
 私は、帰るとき、tiaraway(声優の千葉紗子氏と南里侑香氏のユニット)の「想い出good night」を歌っていたのですが、知らず知らずのうちに涙が出てきました。ここまで来ることができたのだ、と。
 最後に、皆様、本当にありがとうございました!

 週刊!木村剛:立ち上がりませんか、団塊の世代!(木村剛氏・エコノミスト)
 私が今回の成人式における市長や市議会議長の式辞で最も言ってほしかった言葉が「俺たちについて来い!」という思い切った言葉でした。市議会議長がこれに近いような言葉をおっしゃっていたので、感激してしまいました。
 ここからは20歳の莫迦の独り言ですが、「団塊の世代」の皆様には、ぜひともがんばってほしいと思います。上の世代が奮い立たないと、下の世代もどうすればいいか分からない、という面は確かにある。現在のマスコミに若い世代を奮い立たせようという気概はほとんどないと思います。マスコミが扱う若い世代のトピックといったら、たいていは「愚痴」か「若者論」でしょう。しかし、このような行為は「若者論」という自らが傷つくことのないシステムの上で惰眠することしか意味しないのであって、本当に若い世代について知りたい、というのであれば、さまざまなところに出て、行動することが必要なのだと思います。若年層は渋谷や原宿にしかいるのではないのですし、若年層の行動全体を渋谷とか原宿に結びつけることは、「善良な」中高年層に残酷なカタルシスを与えることにしかならないのだと思います。今こそ、現場が声を上げるときではないでしょうか。
 ついでに言っておきますと、今回の成人式で、我々仙台市成人式実行委員会の中でも、20歳の実行委員長に負けず劣らず活躍したのが、55歳の、障害を持った自らの子供が新成人になる女性でした。この人は私なんかよりも何倍も知恵を絞ってくださり、今回の成人式の大成功にも大いに影響を与えてくれた存在であります。先日放送された「OH!バンデス」(ミヤギテレビ)出場のアポイントメントを取ってくれたのもこの人ですし。
 蛇足。木村氏のブログにリンクされていた某サイト(名前は挙げません。自分で探してください。木村氏のブログを探せば簡単に見つかります)で、

 若者にも選択権があることを、ここ数年の行動で知らせてくれましたよね。 アルバイターやニート、パラサイトに至るまで、拒否することも自分だけの利益に繋げることも、自由気ままに生きることも、若者には選択できる。

 なんてことを言っていた人がいました。経済的不公平から失業やフリーターになるのは無視されているので、どうも違和感ばかり残る文章であります。「世間」が若年層に「自立」を強要することが、かえって「自立しない若者」を生み出しているという指摘も斎藤氏などから指摘されています(「Voice」2004年12月号)。成人の日に、「自立」というイデオロギーを至上のものとして捉えることを、一度考え直してみてはいかがでしょうか。
 「スタンダード 反社会学講座」の「第4回 パラサイトシングルが日本を救う」「第8回 フリーターのおかげなのです」「第12回~14回 本当にイギリス人は立派で日本人はふにゃふにゃなのか」PARTには、「世間」のフリーターやパラサイトシングルに対する偏見を見事に斬ってみせています。
 たとえば…

 すでに述べたように、多くの場合、若者の収入は低いので、支出の中に占める家賃の割合は高いのです。20%以上になります。それがさらに搾り取られる結果になります。パラサイトシングルが減れば、たしかに若者の間の格差は縮まるかもしれません。ただし、若者全員がいまより苦しい経済状態に陥って、ですが。  それより捨て置けない問題は、彼らが払った家賃の行く先です。若者が苦労して稼いだ収入が、家賃として「お金持ち」である大家の懐に収まってしまうのです。ひとり暮らしの若者が増加することによって、得をするのは大家だけです。そして今回の検証でおわかりになったと思いますが、大家というのは、少数の富裕層に属する人たちなのです。ひとり暮らしの若者が増えれば増えるほど、若者はより貧乏に、お金持ちはより贅沢な暮らしができるようになるだけのことです。これのどこが、公平な社会なのでしょうか。 (第4回)

 企業が使える人件費は無限ではありません。ひとつのパイを分け合っているのです。フリーターが安月給な分、正社員の給料が多くなる。ということは、全員が正社員になった場合、正社員一人当たりの給与は現行水準より大幅に下がるのです。自分の給料が下がるという犠牲を払ってまでフリーターをやめさせる覚悟が、みなさんにはありますか?(第8回)

 また、現在発売中の「現代思想」2005年1月号(青土社)は、「フリーターとは誰か」という特集を組んでおりますが、特に渋谷望氏の「万国のミドルクラス諸君、団結せよ!? アブジェクションと階級無意識」という論文は、ネオリベラリズム批判の観点からフリーター論を批判しております。渋谷氏には『魂の労働』(青土社)という著書があるのですが、これは未読です。近いうちに読もうと思います。

 千人印の歩行器:引きこもり者に語る言葉は何?(栗山光司氏)
 「ひきこもり」について。「ひきこもり」を語る言説には「若者論」ばかりが集まるのですが、以前の雑記文でも言ったとおり、「ひきこもり」を「若者論」で語るのは徒労です。栗山氏のブログでも紹介されているのですが、斎藤環氏の一連の仕事、特に『ひきこもり文化論』(紀伊國屋書店)はこの問題を考える上で参考になります。
 あと、斎藤氏によれば、「ひきこもり」と似た問題は韓国にも存在するらしいです(「中央公論」2004年3月号)。
 もう一つ。かの曲学阿世の徒、京都大学霊長類研究所教授・正高信男氏が今日の読売新聞で「ひきこもり」に関して相当ひどいことを書いています。正高氏は「ひきこもり」に関する本を本当に読んでいるのでしょうか。近く「またも正高信男の事実誤認と歪曲 ~正高信男という堕落ふたたび~」を公開します。

 お知らせ:「私の体験的成人式論」を、来月頭ごろに公開します。お楽しみに。

この記事が面白いと思ったらクリックをお願いします。→人気blogランキング

| | コメント (2) | トラックバック (1)

2005年1月 5日 (水)

若者論において「子供」はいかなる役割を期待されているか

私は石巻市の隣にある矢本町で家庭教師をしており、その移動のためにJR東日本の仙石線や仙山線を利用するのだが、仙石線などの車両に1両に1枚のペースで下のようなポスターが貼られていた。また、本塩釜駅のホームには、現在でも貼られている。そのポスターに曰く、
 《駅のゴミ捨て/子供が見てるぞ/高校生》
 このようなポスターを見ると私は不快になるので、極力目をそらしているのだが、それにしても「子供が見ている」とはどういうことなのだろうか。高校生は大人なのだから子供たちの模範になれ、という意味なのだろうか?あるいは、高校生がそのような行為をすると子供も真似をするからやめろ、という脅し文句なのだろうか。しかし、そんな「純粋」な子供がこの世にいくら存在するのだろう。また、単に高校生の行為を戒めたい、というなら、最初から「子供」をダシにすることなどやめるがいい。そもそも駅にゴミを捨てるのは高校生が多い、というデータもない。
 あるいは、「不可解な」少年犯罪が起こったとき、決まって一部の論者は「この事件は現代社会の歪みから生じた犯罪であり、今後このような事件が続発する可能性は高い」と主張する。しかし、このような議論に私は悪質な偽善性を嗅ぎ取ってしまう。第一に、そもそも少年による凶悪犯罪は減少傾向にある。さらに、わが国は他の国に比べて少年の凶悪犯罪率も少ない(2003年4月4日、5日付朝日新聞夕刊)。確かに一時期強盗は急増したが、その理由は単に強盗そのものが増えたのではなく、むしろ「若年は凶悪だから重罰に課せ」ということで強盗の基準が非常に厳格になったことに起因する。第二に、「識者」と目される大人たちが「不可解だ」と口をそろえる事件も、過去にさかのぼってみれば類似の事件は見つかる。上智大学名誉教授の福島章氏が著書『非行心理学入門』(中公新書)で少年犯罪の「伝統型」から「遊び型」への変化、及び低年齢化、女子による非行の増加を指摘したのは1985年のことだし、同様の指摘は過去にも多くあった。第三に、このような物言いが横行することによって、中高年の凶悪犯罪は意図的に隠蔽される。例えば現在のわが国では、駅での暴力行為に関しては若年ではなく中年(50代)によるものが最も多いのである。ちなみに、若年=20代は全世代中最低である。このような論理を振りかざす人は「左派」と目される人に多いが、そのような物言いをする人は、6月に佐世保で起こった事件に関して「このような犯罪は昔は男の犯罪だった」と放言した閣僚を批判できない。
 このように、若者論、あるいは現代社会批判において「子供」という存在は大きな力を持っている。しかし、これらのような議論に接すると、私は抵抗を覚えてしまう。
 どうして「子供」を安易に振りかざす人は、彼らが批判したい「現代社会の病理」なるものを「子供」に委託したがるのだろう。彼らにとって、「現代社会の病理」なるものは、「子供」がそれを体現しないとわからないものなのだろうか。また、このような人たちは、現代社会のどのような「病理」がどのように「反映」されるかを開示することはない。さらに、このような人たちは、「子供は現代社会を映す鏡だ」と口走るけれども、それならなぜ現代社会のよいところを子供たちは反映してくれない?よいところを反映してくれないのであれば、子供たちは現代社会を映してくれる曇りのない鏡などではなく、よほど偏光性の強い鏡、さらに言えば、現代社会の醜い部分を過剰に映し出す悪魔の鏡というべきだろう。
 彼らにとって「子供」とはいかなる存在か、ということが透けて見えてくるではないか。要するに、彼らにとって「子供」とは、彼らが不快に思うもの(=「現代社会の病理」!)を批判するための方便であって、「現代社会の病理」を押し付けることができる存在に過ぎないのだ。私は、「現代社会」の「鬼胎」としての役割を期待される今の子供たちに対して同情を禁じえない。
 私は何も、少年犯罪や若年の「問題行動」を、社会的な文脈を無視して論じろ、と言っているのではない。しかし、子供たちを「現代社会」の「鬼胎」として祭り上げるという行為は、「現代社会」に関して不快に思う大人たちの間に「昔はよかったのに、今はこんなにひどい時代になってしまった」という共通感覚を持たせ、少年犯罪その他を「消費」してしまう行為でしかないのである。
 冒頭で採り上げた、「子供」を前面に押し出して「高校生」に注意を促す言説も、これと同根である。このような言説は、「子供」という「純粋な」存在を「不浄な」若年への監視機能として働かせる行為に他ならない。子供たちが「不浄な」若年を批判するにしろ、あるいはまねるにしろ、子供たちに期待されているのは「ピュアな監視機能」の形成、要するに(若年限定の)監視カメラとしての役割なのである。
 子供たちは「純粋」だから、自らが批判したいもの、すなわち若年や「現代社会の病理」を押し付けて、「子供」をダシにした批判が出来る。「子供」をダシにする人たちは、そう思っているのではないだろうか。しかし「不快である」事は極めて主観的な判断基準に基づくもので、自分が不快に思うことに何でも「現代社会の病理」を見出してしまったら、それはもはやロールシャッハ・テストでしかないのである。
 ちなみに、電車の中には、現在は、このようなポスターが貼られている。
 IMG_0026
 いったい、何を言っているのか分かりませんね。JRのこのコピーを作った人は、電車の中が全面禁煙になっていることを忘れているようだ。こんな悪文が平然と掲示されるようなJRは、やはりおかしいというべきだろう。


この記事が面白いと思ったらクリックをお願いします。→人気blogランキング

| | コメント (3) | トラックバック (3)

トラックバック雑記文・05年01月05日

 あけましておめでとうございます。
 昨年から今年にかけて、声優の田村ゆかり氏や野川さくら氏がカウントダウンライヴを行ったそうです。5日の深夜に、文化放送でやっていた、野川氏のラジオ番組「野川さくらのマシュマロ♪たいむ」で、野川氏のカウントダウンライヴのために作られた曲「にゃっほ~♪New Year」(野川さくら「Joyeux Noel ~聖なる夜の贈りもの~」ランティス、2004年12月に収録)のライヴヴァージョンが放送されていたのですが、ラジオを聴く限り、ずいぶんと盛り上がったそうで。カウントダウンを終えたときの野川氏が、本当に楽しそうでした。

 さて。
 歯車党日記:いったい何だったんだろうね、フィギュア萌え族(仮)(石黒直樹氏:ライター)
 走れ小心者 in Disguise!:「おまえらなー……」(克森淳氏)
 奈良女児誘拐殺人事件における、マスコミのオタクバッシングまとめサイト
 奈良の少女誘拐殺人事件の犯人がとうとう逮捕されましたね。このことについては、「トラックバック雑記文・04年12月05日」でも触れたのですが、ジャーナリストの大谷昭宏氏がさらに暴走したようです。大谷氏が書いた文章「趣味と犯罪の境界 社会が決めるべき ― 「フィギュアマニア」に改めて思う ―」は、もはや言い訳としか言いようがない。
 私もこの事件をめぐる報道を見ているのですが、私の持った感想は「やっぱり「若者報道」は変わらない」です。昨年、少女性愛志向、いわゆる「ロリコン」の人が凶悪犯罪を起こしたとき、日本テレビ系列の「真相報道バンキシャ!」が、フィギュア会社の「ボークス」に置かれているドールを引き合いに出して、このようなものに熱狂するやつが凶悪犯罪を起こすのだ、という報道をして、ボークス社から抗議を受けた、という「事件」がありました。私もその抗議文を読んだのですが(ネットで公開されていました)、ボークス社の対応は正しいと思います。
 もちろんわが国では表現の自由が保障されています。しかし、表現の自由というものは、個人の表現したものに対して抗議する自由も伴っているはずでしょう。
 今回、大谷氏に対して抗議した人もきわめてまっとうです。大谷氏への質問状がネットで公開されているので、引用してみましょう。

 大谷様の記事は、過日、奈良市で起こった少女誘拐殺人事件について、犯人がまだ分かっていない時点で、犯人像について想像をし、その趣味嗜好にまで言及したものです。そこで大谷様は、「フィギュア萌え族」なる新語を用いられ、「フィギュア」や「萌え」といった趣味と、今回の犯罪の手口を結びつけて論じておられます。  たとえば、犯人が被害者を誘拐して時間をおかずに殺害したことを「解剖結果から誘拐直後に殺害しているということは、犯人は一刻も早く少女をモノを言わないフィギュアにしたかったことは間違いない」と断じておられます。未知の犯人の内面について、なぜかくも「間違いない」と断じられるのか、たいへん不可解です。
 また、同記事中の「フィギュア」趣味や、パソコンゲームの描写も出鱈目です。
 大谷様は克明に「パソコンの中に出てくる美少女たちとだけ架空の恋愛をして行くというのだ。そこにある特徴は人間の対話と感情をまったく拒絶しているということである。少女に無垢であってほしいのなら「キスしたい」という呼びかけに「ワタシ、男の人とキスしたことがないから、どうしていいのかわからない」と答えさせ、その答えに満足するのだ」とお書きになっていますが、このようなパソコンゲーム(いわゆる「エロゲー」や「ギャルゲー」)は、皆無であると断言できます。システム上、このような形式で個々のユーザーの気持ちに合わせて応答させることは不可能だからです。この一点だけでも、実状とは大きく乖離しております。また、文章上のレトリックとしても到底、成立しているものとはいえません。
 つまり、現時点では、大谷様の記事は全て想像に基づくものと考えるのが最も妥当な解釈と言わざるを得ません。しかし、想像であるかどうかは措くとしても、こうした記事が広く流布されることで、特定の趣味嗜好を持つ人々があたかも「犯罪予備軍」であるかのような誤った認識を多くの人々に与えるものであることは明白です。

 当然過ぎるほど当然な抗議だと思います。これに対して大谷氏の対応は、この抗議文を大谷氏に出した人を犯人と同じメンタリティだと断定してしまうのです。

 そうした趣味の人たちから寄せられる抗議の大半は、それらの趣味の中にも種々あって、それぞれ傾向が違う。なのになんでもかんでも一緒にするな、というのがまず一つ。もう一つは、あくまでバーチャルな世界のことであって、そのことと犯罪は結びつかないというものである。
 だけど世の中にはさまざまな人がいる。みんながみんな、きちんと境界を設けられるものではない。そうである以上、なんらかの歯止めをかけることが必要なのではないか。もし、欧米であのような劇画や動画を流したとしたら、厳しい懲役が待っている。
 今回の事件で被害にあった女児は一体、自分に対して何が目的で、あのような目にあわされたのか、まったくわからないまま亡くなって行ったのではなかろうか。社会がそんな被害を未然に防ぐために努力するのは、いわば当然のことではないのか。
 それでも彼らは人の趣味趣向に言いがかりをつけるなと言い張るのだろうか。警告を発する者には一方的に質問状を送りつけるのだろうか。
 利己と、自己しか彼らの目には映らないようになっているとしか私には思えない。
(日刊スポーツ・大阪エリア版「大谷昭宏フラッシュアップ」平成17年1月4日掲載)

 ここで少し思想的な問題に入るのですが、〈社会〉によって〈嗜好〉の優劣が付けられるべきなのでしょうか。無論、誰かの(大谷氏の)主観的な判断によって〈嗜好〉の優劣が付けられることは当然としてあると思います。
 しかし、だからといって、特定の〈嗜好〉が犯罪を誘発するものだとして糾弾されていいものでしょうか。大谷氏は少女性愛志向(ロリコン)が、少女に対する犯罪を誘発する、と考えているようですが、下手をすれば、例えば犯罪小説の愛好者は完全犯罪を起こそうとしているとか、経済小説の愛好者は経済でもって世界を征服しようとしているとか、そういった捉え方も可能になってしまうのではないでしょうか。
 大谷氏がロリコンを快く思わない、というのは自由です。しかし、それを目の前の猟奇犯罪と結び付けて、ロリコンや「オタク」に対してさしたイメージを持たない一般市民に歪んだ認識を植え付けてしまうのは、問題視されるべきだと思います。
 私が腹が立ったのは、大谷氏の次のくだりです。いわく、《警告を発する者には一方的に質問状を送りつけるのだろうか。利己と、自己しか彼らの目には映らないようになっているとしか私には思えない。》と。《警告を発する者》は常に正義であって、それに対してまっとうな抗議をするものですら《利己と、自己しか彼らの目には映らないようになっているとしか私には思えない》と誹謗されるのでしょうか。
 最近(に限らず、昔からですが)、「警鐘」などと称して身勝手な理論を振りかざす人が大勢います。しかし、仰々しい「警鐘」こそ、最も疑われてしかるべきなのです。そのためには、「警鐘」というものをまず疑う、という姿勢を市民が育てていくべきでしょう。道徳の体現者を気取るマスコミや自称「文化人」が形成する「道徳」は、果たして正しいのか。今回の事件報道、あるいはボークス社が抗議を行ったときの報道に共通しているもの――いや、昨年10月ごろに相次いで起こった「ひきこもり殺人」にも共通している――は、「得体の知れない他者」をいかにして「認める」か、ということだと思います。「得体の知れない」=「共同体の「善」を犯す」という図式を解体するしかないと思うのですが、「安心」という殻に閉じこもる「善良な大人」「優等生」たちや、彼らの目ばかりを伺って空疎な理論しか生み出せないマスコミがどこまでこれを理解できるか。
 この問題に関する参考文献としては、水谷修『夜回り先生』(サンクチュアリ・パブリッシング)あたりをお勧めします。

 週刊!木村剛:「週刊!木村剛」をどうすべきか?(木村剛氏:エコノミスト)
 私が思うに、「週刊!木村剛」は、ブロガーの交流の場の一つになっているのではないか、と思います。木村氏が発言して、それに関して多くの人がコメントをして、その中から木村氏が興味を持ったものを紹介したあと、木村氏に紹介された議論に関して新しい議論が生まれる。私も「トラックバック雑記文・04年12月09日」で、東京学芸大学教授・山田昌弘氏の「希望格差社会」論を紹介したところ、多くの方から反響をいただいて、嬉しい限りです。中には、私の所論を批判する人もいましたが、「そういう見方もあったか!」と膝をたたいてしまうようなものもありました。
 木村氏は、ブログ界の新しいスターを生み出すことに、少なからず貢献しているのではないかと思います。木村さん、今年もよろしくお願いします。

この記事が面白いと思ったらクリックをお願いします。→人気blogランキング

| | コメント (2) | トラックバック (7)

« 2004年12月 | トップページ | 2005年2月 »