若者論において「子供」はいかなる役割を期待されているか
私は石巻市の隣にある矢本町で家庭教師をしており、その移動のためにJR東日本の仙石線や仙山線を利用するのだが、仙石線などの車両に1両に1枚のペースで下のようなポスターが貼られていた。また、本塩釜駅のホームには、現在でも貼られている。そのポスターに曰く、
《駅のゴミ捨て/子供が見てるぞ/高校生》
このようなポスターを見ると私は不快になるので、極力目をそらしているのだが、それにしても「子供が見ている」とはどういうことなのだろうか。高校生は大人なのだから子供たちの模範になれ、という意味なのだろうか?あるいは、高校生がそのような行為をすると子供も真似をするからやめろ、という脅し文句なのだろうか。しかし、そんな「純粋」な子供がこの世にいくら存在するのだろう。また、単に高校生の行為を戒めたい、というなら、最初から「子供」をダシにすることなどやめるがいい。そもそも駅にゴミを捨てるのは高校生が多い、というデータもない。
あるいは、「不可解な」少年犯罪が起こったとき、決まって一部の論者は「この事件は現代社会の歪みから生じた犯罪であり、今後このような事件が続発する可能性は高い」と主張する。しかし、このような議論に私は悪質な偽善性を嗅ぎ取ってしまう。第一に、そもそも少年による凶悪犯罪は減少傾向にある。さらに、わが国は他の国に比べて少年の凶悪犯罪率も少ない(2003年4月4日、5日付朝日新聞夕刊)。確かに一時期強盗は急増したが、その理由は単に強盗そのものが増えたのではなく、むしろ「若年は凶悪だから重罰に課せ」ということで強盗の基準が非常に厳格になったことに起因する。第二に、「識者」と目される大人たちが「不可解だ」と口をそろえる事件も、過去にさかのぼってみれば類似の事件は見つかる。上智大学名誉教授の福島章氏が著書『非行心理学入門』(中公新書)で少年犯罪の「伝統型」から「遊び型」への変化、及び低年齢化、女子による非行の増加を指摘したのは1985年のことだし、同様の指摘は過去にも多くあった。第三に、このような物言いが横行することによって、中高年の凶悪犯罪は意図的に隠蔽される。例えば現在のわが国では、駅での暴力行為に関しては若年ではなく中年(50代)によるものが最も多いのである。ちなみに、若年=20代は全世代中最低である。このような論理を振りかざす人は「左派」と目される人に多いが、そのような物言いをする人は、6月に佐世保で起こった事件に関して「このような犯罪は昔は男の犯罪だった」と放言した閣僚を批判できない。
このように、若者論、あるいは現代社会批判において「子供」という存在は大きな力を持っている。しかし、これらのような議論に接すると、私は抵抗を覚えてしまう。
どうして「子供」を安易に振りかざす人は、彼らが批判したい「現代社会の病理」なるものを「子供」に委託したがるのだろう。彼らにとって、「現代社会の病理」なるものは、「子供」がそれを体現しないとわからないものなのだろうか。また、このような人たちは、現代社会のどのような「病理」がどのように「反映」されるかを開示することはない。さらに、このような人たちは、「子供は現代社会を映す鏡だ」と口走るけれども、それならなぜ現代社会のよいところを子供たちは反映してくれない?よいところを反映してくれないのであれば、子供たちは現代社会を映してくれる曇りのない鏡などではなく、よほど偏光性の強い鏡、さらに言えば、現代社会の醜い部分を過剰に映し出す悪魔の鏡というべきだろう。
彼らにとって「子供」とはいかなる存在か、ということが透けて見えてくるではないか。要するに、彼らにとって「子供」とは、彼らが不快に思うもの(=「現代社会の病理」!)を批判するための方便であって、「現代社会の病理」を押し付けることができる存在に過ぎないのだ。私は、「現代社会」の「鬼胎」としての役割を期待される今の子供たちに対して同情を禁じえない。
私は何も、少年犯罪や若年の「問題行動」を、社会的な文脈を無視して論じろ、と言っているのではない。しかし、子供たちを「現代社会」の「鬼胎」として祭り上げるという行為は、「現代社会」に関して不快に思う大人たちの間に「昔はよかったのに、今はこんなにひどい時代になってしまった」という共通感覚を持たせ、少年犯罪その他を「消費」してしまう行為でしかないのである。
冒頭で採り上げた、「子供」を前面に押し出して「高校生」に注意を促す言説も、これと同根である。このような言説は、「子供」という「純粋な」存在を「不浄な」若年への監視機能として働かせる行為に他ならない。子供たちが「不浄な」若年を批判するにしろ、あるいはまねるにしろ、子供たちに期待されているのは「ピュアな監視機能」の形成、要するに(若年限定の)監視カメラとしての役割なのである。
子供たちは「純粋」だから、自らが批判したいもの、すなわち若年や「現代社会の病理」を押し付けて、「子供」をダシにした批判が出来る。「子供」をダシにする人たちは、そう思っているのではないだろうか。しかし「不快である」事は極めて主観的な判断基準に基づくもので、自分が不快に思うことに何でも「現代社会の病理」を見出してしまったら、それはもはやロールシャッハ・テストでしかないのである。
ちなみに、電車の中には、現在は、このようなポスターが貼られている。
いったい、何を言っているのか分かりませんね。JRのこのコピーを作った人は、電車の中が全面禁煙になっていることを忘れているようだ。こんな悪文が平然と掲示されるようなJRは、やはりおかしいというべきだろう。
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コメント
こちらにもコメントを。福島章氏といえば連想ゲームみたいですが、ぽぽぽーんと某政治家のコメントを裏から支えているイメージが浮かんでしまいますが、かれこそ先ほど書いた「刑事政策」専門の教授です。私は社会に問題をすり替えることをとても嫌うので、それゆえ彼のことは嫌いですけれど。ええ、そうして飯を食べているのですから仕方ないと言えばそれまでですね。
最後の写真ですけれど、中島義道の「「対話」のない社会」がおすすめです。看板や車内放送がうざい!って人はぜひ一読を(笑)。
投稿: ペペロンチーノ | 2005年1月 6日 (木) 00時59分
次はこのネタでも「斬り~」しますか(笑)
//headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20050107-00000101-yom-soci
ただこれも、ゲームそのものとの関わりの
問題のみならず、
やっぱ結局そんなゲームを許容する
「政治性」が社会に潜在(顕在?)してることと
絡めないと、個々のゲームの真の意味での
健全性/不健全性の判定コードが構築できない
ということにも思えますけどね、私には。
「政治的に正しいエロゲー」(笑)
投稿: ン・ジュンマ(呉準磨) | 2005年1月 7日 (金) 11時18分
「あのオバちゃんに怒られるから静かにしなさい」というセリフと同レベルかもしれませんね。
でも、「オパちゃんに迷惑がかかるから(怒られるので)止めなさい」という意味なら、正解だと
思っています。そんなセリフに“目くじら”立てて投書するようなオバちゃんは、きっと怒ってる
はずですから(苦笑)
「世間の目」を社会の掟にするのはそろそろやめにしないと、日本の民主化は進まないのでは。
投稿: rabbitfoot | 2005年1月 8日 (土) 12時18分