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2005年2月28日 (月)

俗流若者論ケースファイル02・小原信

 いつの時代にも、比較的「新しい」メディアは不当な危険視に晒される。我が国においては、例えば終戦直後ではテレビや映画が子供の思考力を滅ぼすといわれ、それが青少年による凶悪犯罪の温床になると言われたし、青少年問題が深刻化するたびに「有害な」出版物の規制論が盛り上がったことは過去に暇がない(橋本健午[2002])。
 さて、現在、不当に危険視されているのはテレビ、ゲーム、携帯電話、インターネットなどといったヴィジュアルなメディアであり、しかしこれらに対する批判も感情論や推測の域を出ず、基本的なデータすらそろっていないのが現状である。典型的なのが、曲学阿世の徒・日本大学教授の森昭雄氏の「ゲーム脳」理論であろうが、森氏以外にも、学者としての良心をかなぐり捨て、もはや書き飛ばしとしか言えないような暴論を振りまいても恬然としている二流以下の学者が続出している、という現状がある。
 「中央公論」2005年3月号に掲載された、青山学院大学教授(情報倫理学専攻)の小原信氏による「幻実に翻弄される若者の時間と空間」はこの典型だろう。私がこの文章を読んで受けた第一印象は、まず、情報化社会の危険性を喧伝しながらも具体的な事例がまったくなく、ただ「今時の若者」の印象だけをこれでもかこれでもかと並べて文章を構成してしまっており、学者の書いた文章とは考えられない。また、論旨がわからない、というよりまったくない。論旨は限りなく拡散しているので、私はこの論文を読んでいるとき、常に虚空をつかまされている気がした。
 小原氏は言う、《溢れながら、何もない――。こういう「明るい絶望」をかかえる若者がふえている。……だれもが自覚する以上にパソコンの支配は決定的である。そうしてこれこそが現代日本の精神状況を読み解く鍵なのだ》(小原信[2005]、以下、特に断りがないなら同様)。しかし、まず、《こういう「明るい絶望」をかかえる若者がふえている》というのであれば、それを実証するデータが必要である。また、《だれもが自覚する以上にパソコンの支配は決定的である。そうしてこれこそが現代日本の精神状況を読み解く鍵なのだ》という断定も、あまりにも短絡的なのだが、小原氏は自信たっぷりに語っている。この自身は何なのだろう。
 小原氏は続けて、車を運転すると性格が変わるという「カーソナリティ」なる現象をもじって、パソコンの前で人柄が変わるというのを「パソコナリティ」と名付ける。しかし、小原氏の発明したこの珍奇な概念は、この文章の中ではあまり重要ではないのである。その理由は、これ以降の文章を読めばわかるので、文章の流れに沿って小原氏の文章を検証していこう。
 小原氏は最初のほうで《対面コミュニケーションから画面コミュニケーションへの以降は、音声やしぐさの認識から文字へ、視聴覚から視覚への転化を意味する》と書くが、これは正しいかもしれない。しかし小原氏はいきなりこうぶち上げるのである。曰く、《相手は画面の文字だけで判断する。見えない相手は画面の「笑」とか「ごめん」マークの絵文字メールで推測する。そこには人と人とのふれあいはない》だと。ふざけているのか。《見えない相手は画面の「笑」とか「ごめん」マークの絵文字メールで推測する》という人が、いくらいるというのだろうか?しかし、小原氏にはそういうことは気にならないのだろう。(ここまで232ページ)
 しかし、小原氏はさらに暴走する。小原氏は幼稚園や小学校の運動会、あるいはピアノの発表会を採り上げて、そこにおけるビデオ片手に奔走する父親・母親に関して、《その日他の人がどんな競技をし、ピアノで何を弾いたか……などは気にかけないまま、子どもは大写しの自分に陶酔する。親もビデオに写るわが子を確認すると足早に会場から立ち去る》などといってしまっている。しかし、自らが競技や演奏に夢中になっているとき、《子どもは大写しの自分に陶酔する》などということがありえるのだろうか?また、《親もビデオに写るわが子を確認すると足早に会場から立ち去る》というのも、小原氏が実際に見たことかどうか、まったくわからないし、そもそもそのような人が実際にいるのかすらわからない。しかし小原氏にとっては、そんなことはどうでもいいのだろう。
 また、小原氏は、昨年のアテネ五輪の報道に関しても触れているが、ここでも小原氏の認識はあまりにも偏狭だ。小原氏は、アテネ五輪の報道にすら情報化社会の「闇」を見出したがるのだが、例えばメディアによるスポーツの「支配」の影響だとか(玉木正之[2004])、あるいは「感動」の大安売りによる「「物語」への一体化」の強制など(石田雄太[2004]、大野晃[2004])ということはまったく眼中にないようだ。しかし、小原氏はそれでいいのだろう。(ここまで233ページ)
 小原氏は言う、《ケータイにはまった若者はサシで話すのが苦手である。「対面で話すと緊張し、疲れたり恥をかく」とひと見知りが増えている》と。しかし、《ひと見知りが増えている》というのであれば、その統計データや臨床事例ぐらい見せてほしい、というのが、実証的な検証を望む側の本音であろう。ところが小原氏は《「おみやげはテーブルの上」とメールすると「カステラ、ごちそうさま」同じフロアから返信が来る》と書くだけである。ここでも、小原氏が実際聞いた事例なのか、それとも実際に存在する事例なのか、捏造なのか、都市伝説なのかわからない(親子間の対話なのか、それともルームシェアしている友達間の対話なのか、あるいは同じ建物における対話なのか、それすらもわからない)。それなのに小原氏は《逆説的であるが、ケータイは会話をなくす方向に作用している》などと断言する。小原氏には自らの「思い込み」の正当性を検証しよう、という気概はないのだろうか。しかし、小原氏はそれでいいのだろう。
 小原氏の文章はさらに混乱を極め、《パソコンやケータイに依存しつづけると“幻実(ヴァーチャル)”が現実(リアル)化し、虚実が区別できなくなる。幻実を誇大化した映像を見ていると、現実と幻実が逆転してくる。しかし反面、幼児も不登校児もこの逆転のせいでノイローゼにならないでいる》などということを言い出す。《幻実を誇大化した映像を見ていると、現実と幻実が逆転してくる》だとか《幼児も不登校児もこの逆転のせいでノイローゼにならないでいる》ということが、本当に起こっているのだろうか?小原氏はそれに答えようとしないが、小原氏はそれでいいのだろう。そもそもこの文章には《幼児》も入っているのだが、幼児期からパソコンや携帯電話を使いこなす幼児?そんな幼児がいたら会ってみたいものだ。しかし、小原氏には見えているのだろう。
 小原氏は、《幻実が現実になると、ミッキーマウスをネズミだとは思わない》などと意味不明なことを言い出す。これには正直言って、数回ほどへそで茶を沸かした。《ミッキーマウスをネズミだとは思わない》というのは、決してそのような人が《幻実》に翻弄されているわけではなく、むしろ《幻実》を受け入れることによって、ミッキーマウスというキャラクターの背後にある「大きな物語」に同一化しているからである。小原氏にとって、このような物言いは、自分の生活圏内だけが「現実」であると言っているのに等しいのだが、小原氏にとってはそれでいいのだろう。同じ段落にある、《アキバ系の若者は現実の女性よりキャラクターグッズに「いやし」を見出すという》などという物言いも然り。このような物言いは、ジャーナリストの大谷昭宏氏の「フィギュア萌え族」概念にも共通する危険性をはらんでいるのだが、現実と戯れることができない奴は病気である、という思考は、かえって現実との関わりを放棄した、ある層に対する弾圧につながりかねないし、多様な感受性を否定するものでもある。現実の女性に残酷な性犯罪をやらかす輩よりも、《幻実》と戯れて萌える人のほうが、社会にとっては無害だろう。《幻実》を最初から「悪」と決め付ける小原氏は、ここでとんでもない勘違いと倒錯をしているのである。もう一つ、このような物言いは、小原氏の想像力が極めて狭いことも意味するのだが、小原氏はそれで構わないのだろう。(ここまで234ページ)
 小原氏は都市計画にも触れる。曰く、《快速や「のぞみ」(筆者注:東海道新幹線のことだろう)の停まらない街や都市は記憶されず、中間に存在するコミュニティへの関心は薄らぐ》だと。私は石巻で家庭教師をやっているとき、よく仙石線の快速に乗ったのだが、そこから見える住宅地や鳴瀬川、そして太平洋の光景は強く印象に残っているが何か。また、新幹線や快速は現代に突如として現れたのではなく、それこそ高度経済成長期のときに推し進められたのがほとんどだろう。確かに鉄道網の高速化は進んでいるけれども、それを推し進めたのは、少なくとも小原氏が問題視している「今時の若者」でないことは明らかなはずなのに。しかし、小原氏には気にならないのだろう。だから、《「パソコナリティ」においては、世界が無地感化し、他者や異文化というまわりが見えなくなる》と書き飛ばす。なるほど、田中角栄は「パソコナリティ」人間だったのだな。小原氏はきっとそう考えているのだろう。
 さて、ここまで小原氏の文章に散々突っ込みを入れてきたが、これでもまだ半分にも達していない。しかし、これ以降の文章にも、同様、あるいはもっとひどい「決めつけ」が横行しているので、いくら疲れようともがんばるほかあるまい。小原氏は「いじめ」に関して《現代のいじめは遅い者いじめである。いじめと虐待は、遅れる者を悪と見る発想から来る。……裏側には速さ=善という哲学がある。返信が来ないメールや、反応の乏しい相手にいらいらする》などというけれども、本当に《現代のいじめは遅い者いじめである》といえるような証拠を一つも提示していないのはどういうわけだ。それに《裏側には速さ=善という哲学がある。返信が来ないメールや、反応の乏しい相手にいらいらする》などと、勝手にメールの「闇」につなげないでいただきたい。「いじめ」に関わっている小中学生、あるいは現代の小中学生全員の間にどれだけメールの利用者があるかということをまず検討すべきだろう。しかし、小原氏にはそんなことはお構いなしなのだろう。(ここまで235ページ)
 小原氏曰く、《空に困らないのにアルバイトをする若者は、得た金で仲間とはりあうためのものを手に入れようとする。……買ったブランドものは製造年がチェックされ、仲間より古いと価値を失う。これが同化のなかの異化である》と。小原氏にとって、若年層が《仲間とはりあう》ことはすなわちブランド品を購入することなのだろうが、これは事実であるかどうかわからない。しかも《買ったブランドものは製造年がチェックされ、仲間より古いと価値を失う。これが同化のなかの異化である》というけれども、小原氏の若年層に対するあまりにも狭隘な考え方がここにも透けて見える。しかし、小原氏はそんなことなど露にも気にかけないのだろう。
 小原氏は《幻実に酔う者は感情が麻痺し知性も麻痺する》さらに《茶の間のテレビでアフガニスタンやイラクの戦争を見るとき、自爆殺人の瞬間も娯楽作品と化す》というけれども、《自爆殺人の瞬間》が実際テレビ画面で報じられるのは極めて少ない。それにアフガニスタンやイラクの戦争を「娯楽化」しているのはほかならぬマスコミであるし、戦争の「娯楽化」に関しては我が国よりも米国のほうがもっとひどい(近藤康太郎[2004])。しかし小原氏にとっては知らなくてもいいのだろう。(ここまで236ページ)
 小原氏は《情報社会に漂流する者は情報の記録に熱中して、撮りだめや録りだめはふやすが、選別しないので、ストックがほとんど役に立たない。そのうえ本も読まないから歴史や比較文化論の知識がない。ともかく身辺のことだけを連絡しあって幸せだと錯覚している。判断の材料は、手ものとの情報だけである》という。こんな残酷な断定を、よくここまでできるものである。まず、《選別しないので、ストックがほとんど役に立たない》ということが本当にあるかどうか検証すべきだろう。また、《情報社会に漂流する者》が《そのうえ本も読まないから歴史や比較文化論の知識がない》かどうか、有効な相関関係、そして因果関係が見出せるかどうかにも配慮すべきであろうに。でも、小原氏はこれでいいのだろう。
 ついに小原氏は本性を示す。曰く、《わたしがわたしとして生きるために、ケータイやメールは希望のある生き方を約束しているのか。若くて明るくても、「絶望する」ものは、生きながら死んだも同然なのだ》。ついに小原氏はここで本音を言ったのだ、《若くて明るくても、「絶望する」者は、生きながら死んだも同然なのだ》と!《生きながら死んだも同然》!ここまでひどい断言は、森昭雄や正高信男ですら言わない。小原氏は、常に希望のみを持たなければ人間は生きているとは言えない、と思っているかもしれないが、現代に「希望」があるのか、ということすら社会学者の命題になっているほどだ(山田昌弘[2004])。小原氏はありもしない希望を持てというのか。それに、「絶望から出発しよう」と盛んに唱える社会学者の宮台真司氏は、要するに人間に「死ね」といっているのだろうか?しかし、小原氏はそれでも平気なのだろう。
 小原氏は《幻実の世界でリセットになれると、現実がリセットできないことを忘れる》とまで言うけれども、情報メディアが全てリセットできると考えるのは大きな間違いである。例えばメールを送信する際、記述や送り先が間違っていたからといってリセットしてメールを自らの元に戻すことが可能だろうか?しかし、小原氏には気にならないのだろう。(ここまで237ページ)
 小原氏曰く、《スクリーン世代は、その世代とは違い、初めからケータイやパソコンを持ち、その世界に遊ぶことしか知らない。いまではケータイやメールの呪縛から離れることができない。……推薦状を書いてもらい入社してすぐに会社を辞めた者は、自分にあわなかったと言うが、自分への忠実しか見ていない。同じ学校の後輩が今後、採用されなくなるとは考えない》と。これもまた根拠不確定な断定である。第一、《推薦状を書いてもらい入社してすぐに会社を辞めた》ということが続発しているのか、ということに関して、小原氏は少しも考察せず、それが《スクリーン世代》の世代的傾向だとすぐに断定してしまう。しかし、小原氏はそれでいいのだろう。
 小原氏の残酷なる断定はまだまだ続く。《パソコンはバージョンアップされ、ソフトもすぐ次の最新版が出るから、いつも何かに追いかけられている。パソコンの技能にどれほど習熟しようと、自分より若い者に技能はすぐ追い抜かれる。友人も恋人も会社もいやならre-setしてしまう》だと。もういい加減にしてくれ。この文章は、もう文章として成立していない。しかし、小原氏は、文章が成立していなくても気にならないのだろう。(ここまで238ページ)
 これで最後のページである。はっきり言って、ここまで書いてきて心が枯れてきた。もう希望も何もなく、絶望のどん底に私はいる。しかし小原氏の狼藉は終わらない。小原氏はここまでやっと解決策らしきものを語っているけれども、例えば《パソコナリティの時代は速さを求め、画面だけに目を向け、画面のむこうにあるものをわかろうとしない。だが、待つことや育てるたのしみがあることを教えることは必要である》だとか《また生には意味があり、死にも意味があることを……語りつぐ課題はいま急を要する》などと、至極曖昧なことばかり。ここまで読んで不安に駆り立てられた読者が求めているのは、そんな抽象的なことではないと思うが。しかし、小原氏はそれで満足なのだろう。
 最後になって、小原氏はロンドンのことを事例として出す。しかし、ロンドンにおける「パソコナリティ」の進展はまったく問題にされずに、「パソコナリティ」化された社会=日本と、「パソコナリティ」化されていない社会=英国(ロンドン)という二元論に集約させようとする。この二元論の正しさは、永久にわからないままだ。しかし、小原氏はそんなことはどうでもいいのだろう。(ここまで239ページ)
 やっと小原氏の悪文…失礼、文章の検証が終わった。もう何もいらない、座る場所さえあればいい。しかし、ここで小原氏の狼藉を総括せねばならない。
 この文章における小原氏の狼藉の根源は、明らかに善悪二元論である。すなわち、《ケータイやメール》に代表されるような《パソコナリティ》に毒された「今時の若者」は、そのパーソナリティーの如何に関わらず病気であり、こいつらを何とかしないと我が国は滅びる、ということである。しかし、最初に言ったとおり、小原氏の文章には具体的な事例、例えば統計データや臨床事例、さらには新聞記事すら引用されていないのであり、小原氏の用いている事例は全て印象論なのである。しかし、印象論のみでものを語ってしまうのは、検証という作業の放棄であり、科学者としてあるまじき態度ではないのか。社会学者とて科学者であり、少なくとも科学的な方法論、すなわち緻密な検証を重ねて反論にも十分耐えうるようにしておく、という態度が必要だが、小原氏の文章にはまったくそれが欠けている。これでは、《「世の中が悪くなったのは、自分以外の誰かのせいだ」と証明すること》(パオロ・マッツァリーノ[2004])というパオロ・マッツァリーノ流の「社会学」の定義を受け入れざるを得ない。
 小原氏のこの文章においては、最初から「敵」が決まっているのであり、そしてその「敵」を潰すためなら、いかなる狼藉も厭わない。これこそがこの文章における小原氏の「信念」であり、良心や科学性といった視点はまったく欠けている。このような文章を陰謀論的な文章という。
 と、ここまで書いてきて、小原氏こそ最大の《パソコナリティ》人間なのではないか、という疑念が私の中に出てきた。小原氏の文章は、それこそ「敵」を一元的に決め付けて、善悪二元論の中に押し込むことによって、即時的で、社会的・歴史的な文脈からかけ離れた安易な「若者論」を生み出すことに専念している。そこには思考も放棄されており、小原氏を《パソコナリティ》人間と呼ぶことはもはや筋違いではあるまい。
 ここで疑問があろう。小原氏は《パソコナリティ》を、パソコンの前で人格が変わることであると定義したのではないか、と。
 残念。ここまで見たとおり、小原氏は《パソコナリティ》の概念を限りなく拡散させており、もはや最初の定義からは著しく乖離しているのである。小原氏による珍奇な概念の拡散は、さらには高度経済成長期に計画されたはずの都市計画にまで適応されているのだが、結局、小原氏の《パソコナリティ》概念は、自らの不快なものに《パソコナリティ》という烙印を押して、自分は「あいつら」とは違う、という快感を得るための空疎な道具に過ぎなかったのだ。
 この文章には、具体的な若年層の姿は存在しない。ここに出てくる若年層は、全て小原氏が作り上げたヴァーチャルな姿であり、マスコミで喧伝されている「今時の若者」の姿と明らかに同一である。小原氏は、自らの作り上げた虚構(《幻実》?)に呪縛されているのである。小原氏のやっていることは、「今時の若者」を情報化社会の「鬼胎」として祭り上げて、敵愾心を煽り、自らは関係ないと思っている「善良な」人たちに残酷なカタルシスを与えているだけだ。小原氏にとって、ここで採り上げた「今時の若者」は、自らの「使命感」を満足してくれるだけの存在なのであって、いくら貶めようが、いくら歪んだ烙印を押そうが、小原氏は傷付かない。小原氏から見れば、「今時の若者」は道具である。小原氏が若年層を見る視線は、明らかに人間を見る視線ではなく、サル(小原信は正高信男に近接するのか?)、あるいはエイリアンでも見るような視線である。
 しかし、小原氏が懸命に突き放し、いわれなき誹謗中傷を浴びせかけている「今時の若者」も、小原氏と同じ社会に生きているのだ。おそらく、小原氏にとってはそのような事実がよほど気に入らないのだろう。そして、その敵愾心を動力にして、このような文章とはいえないような悪文を書き飛ばし、同じような志向を持つ人々の「共感」を得て、自らの志向に会わないものを放逐しようとしたのだろうか。
 小原氏にとって、自らの社会的な立場というものはいかなる位置にあるのだろうか。もし小原氏がそれを自覚しているというのであれば、このような虚構に満ちた文章を書くのではなく、しっかりと思考して、そして実証的な研究をしたり、あるいは実践に移してほしい。自分が傷付かないような場所から大言壮語を言うのはやめてほしい。我が国には、青少年問題に対して真剣に向き合っている人が山ほどいるが、いまだ我が国においては「若者論」が優勢であり、それに屋上屋を架すようなことはあってはならない。

 参考文献・資料
 石田雄太[2004]
 石田雄太「“大衆”という偶像(サイレント・マジョリティー)におもねるテレビ局」=「論座」2004年10月号、朝日新聞社
 大野晃[2004]
 大野晃「検証 アテネ五輪報道」=「論座」2004年10月号、朝日新聞社
 小原信[2005]
 小原信「幻実に翻弄される若者の時間と空間」=「中央公論」2005年3月号、中央公論新社
 近藤康太郎[2004]
 近藤康太郎『朝日新聞記者が書いたアメリカ人「アホ・マヌケ」論』講談社+α新書、2004年7月
 玉木正之[2004]
 玉木正之「「メダルラッシュ」のあとにやるべきこと」=「論座」2004年10月号、朝日新聞社
 橋本健午[2002]
 橋本健午『有害図書と青少年問題』明石書店、2002年12月
 パオロ・マッツァリーノ[2004]
 パオロ・マッツァリーノ『反社会学講座』イースト・プレス、2004年5月
 山田昌弘[2004]
 山田昌弘「希望格差社会の到来」=「中央公論」2004年12月号

 植田和弘、神野直彦、西村幸夫、間宮陽介・編『(岩波講座・都市の再生を考える・7)公共空間としての都市』岩波書店、2005年1月
 笠原嘉『アパシー・シンドローム』岩波現代文庫、2002年12月
 斎藤環『ひきこもり文化論』紀伊國屋書店、2003年12月
 十川幸司『精神分析』岩波書店、2003年11月
 原克『悪魔の発明と大衆操作』集英社新書、2003年6月
 日垣隆『世間のウソ』新潮新書、2005年1月
 歪、鵠『「非国民」手帖』情報センター出版局、2004年4月
 山本七平『日本はなぜ敗れるのか』角川Oneテーマ21、2004年3月
 ウォルター・リップマン、掛川トミ子:訳『世論』上下間、岩波文庫、1987年2月

 石川雅彦「女子高生はケータイで脱皮する」=「AERA」2004年5月31日号、朝日新聞社
 内山洋紀、福井洋平「ブログの時代がやってきた」=「AERA」2004年7月12日号、朝日新聞社
 北田暁大「嗤う日本のナショナリズム」=「世界」2003年11月号、岩波書店
 斎藤環「韓国のネット依存者たちに学ぶ」=「中央公論」2004年9月号、中央公論新社
 杉田敦「「彼ら」とは違う「私たち」――統一地方選の民意を考える」=「世界」2003年6月号、岩波書店
 武田徹「ケータイを敵視する“メディア一世”たちの傲慢」=「中央公論」2004年4月号、中央公論新社
 田村ゆかり「琥珀の詩、ひとひら」=「hm3 SPECIAL」2005年4月号、音楽専科社

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2005年2月25日 (金)

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 [ゴーログ]日本は本当に資本主義の国なのか?(木村剛氏:エコノミスト)
 痛い指摘だなあ。でも、本当にそう思ってしまうことも少なくありません。
 もとより、私は「日本は本当に資本主義の国なのか?」というよりも、「日本は本当に法治国家なのか?」ということです。そんな私の意識を強めたのが、下のような文章です。
 弁護士山口貴士大いに語る:石原知事「ババァ」発言、女性たちの賠償請求棄却(山口貴士氏:弁護士)
 山口氏はさすがに弁護士ということもあってか、《今回の判決の結論は概ね妥当ではないかと思います》と発言していますが、当然の帰結でしょうね。もしここで損害賠償が請求されたのであれば、まず明らかに損するのが、石原氏の「ババァ」発言(ちなみに、この発言の趣旨は「文明がもたらした最も悪しき有害なものはババァ」というもの)に怒り心頭を覚えながらも、訴訟しなかった人たちです。あと、自らの発言を恣意的に曲げられた、宇宙物理学者の松井孝典氏か。
 評論家の斎藤美奈子氏(斎藤美奈子『物は言いよう』平凡社)が指摘するとおり、確かにこの発言は暴言です。しかし、一政治家(及び言論人)が不特定多数の人を誹謗した発言に対して、その不特定多数(ここでは「ババァ」と蔑まれた人たち)の代表を自称するような人が発言者を提訴し、それで損害賠償を取れたとしたら、それこそ「声の大きい者が勝ち」的な歪んだ意識を生み出しかねず、我が国は些細なことで訴訟を起こしてしまうような国になるかもしれません。もしこれで損害賠償が取れたら、俺も正高信男(京都大学霊長類研究所教授)と森昭雄(日本大学教授)と澤口俊之(北海道大学教授)と荷宮和子(フリーライター)と大谷昭宏(ジャーナリスト)と江原啓之(スピリチュアル・カウンセラー)…を提訴しようかな。冗談ですが。
 石原氏のごとき暴論に対しては、それこそ良質な言論で対抗すべきなのです。悪質極まりない暴言であってもそれを訴訟という形で国家という「お上」に処理してもらう、というのは、それこそ国家に頼りすぎ、というほかありません。ここで自称「代表者」がやるべきだったのは、石原氏の倫理的責任を問うために請願したり、あるいは議会の人に働きかけて議員を通じてその信を問うということのはずです。訴訟などもってのほかです。
 以前の雑記でも書きましたが、「自分が不愉快に思うことはみんな国家が解決してくれる!」という変な思想が我が国において蔓延しつつあります。私はそれを「生活保守主義的プチナショナリズム」などと呼んでいますが、このような思想が蔓延しつつある背景には、マスコミが不安をあおったりだとか、あるいは「善良な」大人達が「常識」だと思ってきたことが少しずつ様変わりしつつあることが背景にあり、それらの「不安」を解消してくれる「安心」のよりどころとして「国家」が選択されている、ということがあるのかもしれません。しかし、国民の歪んだ「国家」依存志向が、社会学者の宮台真司氏言うところの「空気を利用した〈国家〉支配」に結びつくことは否定できません。マスコミ、特に私がこのブログで問題にしている若者報道が、それに思いっきり拍車をかけています。社会と言論のあり方を問い直す、ということは、もはや国民的課題になりつつあるのかもしれません。「今時の若者」の片言隻語を採り上げて「右傾化」だとか「国家意識の喪失」だとか叫んでいる場合ではないのですよ!分かっているのでしょうか?

 ふう。ちょっと騒ぎすぎましたので、このような記事でも眺めてリラックスしましょう。
 *☆.Rina Diary.☆*:お菓子の♪(佐藤利奈氏:声優)
 お菓子の車!しかも佐藤氏によれば、《本物の苺チョコレートやクッキーを使って装飾されています》だとか。面白みがあっていいですね。でも、実際に使うところを想像してみると…。

 お知らせです。bk1で私の新作書評が公開されています。どちらもお勧めです。
 日垣隆『世間のウソ』新潮新書、2005年1月
 title:我々は何に脅えているのか
 B・R・アンベードカル、山際素男:訳『ブッダとそのダンマ』光文社新書、2004年8月
 title:仏教は〈私〉の中にある

 あと、このブログにおいて書いた記事もぜひ読んでください。
 統計学の常識、やってTRY!第2回(2月17日)
 俗流若者論ケースファイル01・大谷昭宏(2月20日)
 統計学の常識、やってTRY!第3回(2月24日)
 またも正高信男の事実誤認と歪曲 ~正高信男という堕落ふたたび~(同上)

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2005年2月24日 (木)

またも正高信男の事実誤認と歪曲 ~正高信男という堕落ふたたび~

 曲学阿世の徒、京都大学霊長類研究所教授・正高信男氏にとって、「社会的ひきこもり」、さらには不登校は現代に突如として生じた現象であり、なおかつ暴力性、犯罪性の高いものでないと気が済まないのだろう。私がそれを痛感したのが、平成17年1月10日付読売新聞「学びの時評」欄に掲載された正高氏の文章「教育の本質は「攻撃性の転換」」である。この文章もまた、論理の飛躍といわれなき中傷に満ちていた。
 まず、冒頭で《とりわけ思春期以降の子どもが、親に向って攻撃衝動を向ける事件が、昨年の下半期に頻発した》(正高信男[2005]、以下同じ)というのであれば、その統計データぐらい見せてほしい。また、《こうした現象が顕著化する一因としては、若年層で社会的自立ができないまま成人するものの割合が急増していることも無視できないだろう》と正高氏は書いているのだが、《思春期以降の子どもが、親に向って攻撃衝動を向ける事件》と《若年層で社会的自立ができないまま成人するものの割合》に関して有効な相関関係が見出せるかどうか、という検討もすべきであろう。無論、統計学の常識として、相関関係は因果関係にあらず、というのがあるが、少なくともそのような議論を抜きにして安易に《それ(筆者注:社会的自立ができない人)がいつまでたってもできない人》の暴力性なるものについて語らないでいただきたい。
 この後、正高氏は、「攻撃性」と「社会性」について語る。しかし、正高氏の議論において欠如しているのが、子供が初めて「家族」以外の世界(いわば「家の外」)に踏み出すのは、幼稚園や保育園、遅くとも小学校であり、そのことについてまったく考慮していないのは解せない。もう少し言えば、子供が何らかの習い事をやっていたとしても、それはそれでそこに別の世界が登場するはずである。正高氏は、近代において教育というシステムが、社会へ自立を促すために段階的に子供を育てるというものであることを知っているのだろうか。子供は就職(ないしアルバイト)していきなり社会に出るわけではないのである。
 正高氏は、最後近くになって《ところが昨今、いつまでたっても家の外が、未知でおそれに満ちた世界のままでいる者が、その数を増しつつあるらしい》と言ってしまう。しかし、《その数を増しつつあるらしい》というのであれば、その定義と、統計的なデータを示すべきであり、《らしい》のままでは何も進まない、ということを正高氏は知るべきであろう。あなたも学者であれば、まず実証的なデータを示すべきであろうが。
 この文章において、正高氏は暗に「ひきこもり」や不登校、ないし若年無業者の犯罪率が高く、それらが急増している昨今において青少年による凶悪犯罪が急増するのは当たり前だ、といいたいらしい。しかし、まず青少年の凶悪犯罪それ自体に関して言うと、昭和40年ごろに比べて激減している。確かに強盗罪に関しては平成9年ごろに急増しているが、その最大の理由は強盗罪の水準が極めて低くなったことであり、全体的に見れば凶悪犯罪は急増しているという事実はない(浜井浩一[2005])。また、精神科医の斎藤環氏によると、「ひきこもり」による親族に対する殺人事件は、「ひきこもり」の中においても極めて少数であり、また、殺人事件を起こしてしまう場合も、さまざまな不安のファクター(当事者や両親の高齢化・衰弱、経済的困窮、周囲の無理解)が重なり、そこに就労のプレッシャーなどの「一押し」が重なることによって起こってしまう、という場合が多いという(斎藤環[2004])。そもそも正高氏は、多くの「ひきこもり」の青少年が、その多さにもかかわらず凶悪犯罪を起こしていない、ということをわかっているのだろうか。
 正高氏のこの議論において置き去りなのは、本当に不登校や「ひきこもり」の暴力性が、そうでない人に比べて暴力性が高いのか、ということである。正高氏は、動物行動学(多分)の理論を用いて、この答えにイエスと答えているが、正高氏の議論はあくまでもアナロジーの域を超えず、実証的なデータを示してこそはじめてそのアナロジーが成立する、というものである。確かに、教育論に動物行動学の視点を導入することは必要かもしれないが、だからといってデータや臨床事例がないと、その有効性は疑われて然るべきだろう。
 正高氏にとって、青少年による凶悪な犯罪は動物行動学的に潤色したお手軽なエッセイのネタに過ぎない、ということが、本書でも明らかになっている。正高氏は自らの専門性に陶酔して、信頼性の高い実証的なデータにあたろうとしない。こんな正高氏にコメントをいただいて、青少年問題を「わかった」気になっている「善良な」人たちに、私は危機感を禁じえない。
 さらにこの連載における正高氏のスタイルは「憂国して」終わり、というものである。特に「ひきこもり」や不登校といった、過分に社会問題や青少年問題とつながっている問題に関しては、その対応策についても、余裕があればでいいが語るべきだろう。しかし、「ひきこもり」や不登校に関して正高氏の述べることは、この文章のように、同じことばかりである。同じことばかり言って、その対応策はまったく語らない、語ったとしても曖昧な一般論に終始している。そう、一般論を「善良な」人たちに都合の言いように潤色し、実際に「ひきこもり」に苦しんでいる人たちは自らとは「本質的に」(「動物行動学的」に?)違う者(サル!)として阻害するのが、最近の正高氏の理論に他ならない。
 最近、玄田有史『仕事の中の曖昧な不安』(中央公論新社)、宮本みち子『若者が《社会的弱者》に転落する』(洋泉社新書)みたいに、青少年問題に関して、社会学的な視点から真剣に取り組んだ本が話題を呼んでおり、「ひきこもり」や不登校や無業者を過度に犯罪者予備軍と見做すような風潮は時代遅れになりつつあるように見える。しかし、それでも正高氏のような「若者論」が幅を利かし、歴史的な文脈を無視した(現在見られるような青少年問題に関しては、それらと強く関連しているような事例が、現在名古屋大学名誉教授の笠原嘉氏によって昭和50年ごろから指摘されてきた。詳しくは笠原嘉[1977][2002]を参照されたし)安易な「憂国」言説が受け入れられるような土壌は、確かに根強くある。このような状況を打破するには、「得体の知れない」=「共同体の「善」を犯す」という、「若者論」の元になっている思考を解体するしかないのかもしれないが、そのために要する時間は長く険しいかもしれない。しかし、そのために深く考えることは、決して無益ではないのである。
 それが、正高氏、及びその信奉者に理解できるのだろうか?かえって正高氏の議論は、「ひきこもり」の人たちをさらに囲い込むような者になる可能性のほうが極めて高いのではないか、と思えてならない。
 蛇足だが、正高氏は本文の最後で、奈良の女子児童誘拐殺人事件について触れて、その《背景にもこれと共通するものがあると思えてならない》と書いているけれども、この事件と、正高氏がここまで取り上げてきた事件は明らかに異質であり、もし共通する背景があるとするならば別に検証すべきだろう。あまりにも唐突過ぎる。

 引用・参考文献
 笠原嘉[1977]
 笠原嘉『青年期』中公新書、1977年2月
 笠原嘉[2002]
 笠原嘉『アパシー・シンドローム』岩波現代文庫、2002年12月
 斎藤環[2004]
 斎藤環「「ひきこもり」がもたらす構造的悲劇」=「中央公論」2004年12月号、中央公論新社
 浜井浩一[2005]
 浜井浩一「「治安悪化」と刑事政策の転換」=「世界」2005年3月号、岩波書店
 正高信男[2005]
 正高信男「教育の本質は「攻撃性の転換」=2005年1月10日付読売新聞

 斎藤環『ひきこもり文化論』紀伊國屋書店、2003年12月
 広田照幸『教育に何ができないか』春秋社、2003年2月
 広田照幸『教育』岩波書店、2004年5月
 パオロ・マッツァリーノ『反社会学講座』イースト・プレス、2004年5月

 斎藤環「ひきこもり対策は「予防」から「対応」へ」=「中央公論」2003年10月号、中央公論新社
 諸永裕司「大学生の自殺 急増の今なぜ」=「AERA」2001年1月29日号、朝日新聞社

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統計学の常識、やってTRY!第3回

 さて、若者報道の非常識ぶりから統計学の常識を探るシリーズ「統計学の常識やってTRY」の第3回であるが、今回採り上げるものは、もうこれに類似したものを最近になってしょっちゅう目にしているので、本当にいい加減にしてほしい、という気持ちでこれを書いている。なので、もしかしたら過去2回のシリーズよりも文章が極端にゆるくなってしまうかもしれないことをご了承願いたい。
 時は平成17年2月23日。遅く起きた私が読んだ読売新聞の社会面に、ある記事があった。筆者はこの記事を読んで、ああまたこの手の記事か、本当にいい加減にしてほしいよな、と思ったのだが、読んでみて、案の定「この手の記事」だった。今回の「TRYマスコミ」はこの読売新聞の記事である。
 記事の見出しは、「「イラクってどこ?」44%」である。記事によると、《日本の大学生の約44%が世界地図上でイラクの位置を正しく示せず、アメリカについても約3%がどこにあるのか分からない》なのだそうだ。記事は以下のように続く。曰く、

 調査は昨年12月から今年2月にかけて、25大学の学生約3800人と、9高校の生徒約1000人を対象に実施。世界地図上の30か国に番号を付け、その中から、アメリカやイラク、北朝鮮など10か国の場所を選ばせた。
 その結果、最も正答率が低かったのはウクライナで、大学生が54・8%、高校生が33%。イラク戦争や自衛隊派遣でニュースに登場する機会が多いイラクは、大学生56・5%、高校生54・1%にとどまり、五輪に沸いたギリシャもそれぞれ76・5%と59・4%だった。
 最も正答率が高かったアメリカでも大学生の約3%、高校生の約7%が間違え、中にはイラクの場所としてイギリスやインドを選んだり、アメリカの位置として中国やブラジルを示した“珍答”もあった。

 まず、サンプリングの面からはクリアーしていると見做してもいいが、問題はどのような大学及び高校からサンプリングしたか、あるいはどういう方法で持ってサンプリングしたか、ということがすっぽり抜け落ちている、というところが気になる。記事には《25大学の学生約3800人と、9高校の生徒約1000人を対象に実施》と書かれているが、場所に関しては言及されていないのが気にかかるところだ。しかし、このような問いかけは枝葉末節をつくものでしかないだろう。
 この記事において中心となっている論点は、イラクの位置に関して大学生の約56.5%と高校生の約54.1%が正しく答えられなかった、ということだろう。しかし私が気になるのは、文章の中に、イラクに関して《イラク戦争や自衛隊派遣でニュースに登場する機会が多い》とあることである。ここで一つの問いかけをしてみたい。
 常日頃ニュースに接している層と、そうでない層の間で、正答率に有意差があったのだろうか。《ニュースに登場する機会が多い》と表記しているのであれば、これくらいの考察はあって然るべきであろうが。もしここで有意差がないとしたら、マスコミはイラクの位置を、度重なるイラク戦争報道にもかかわらず正確に伝えきれていない、ということになる。
 どうやらこの記事を書いた読売新聞の記者にとってすれば、半数近い高校生と大学生がイラクの位置を知らなかったことが問題であるようだ。しかし、それは本当に問題なのだろうか。つまり、「どこにあるのか」が正確に答えられなかったからといっても、「何が起こっているのか(いたのか)」あるいは「いかなる歴史を持っているか」ということのほうが重要に思われる。もちろん、大まかな文化圏や地域圏のどこに属しているか、ということが最重要だけれども、このようにただ「場所」だけ問いかけるような設問は、それこそ地理教育の本質を覆い隠すものでしかないように思うのだが。無論、米国や北朝鮮、欧州諸国に関して言えば正確な場所を知っていなければならないけれども、全ての国の場所を正確に知っていなければならない、というのは酷ではないか。「場所」だけ知っていて、そこで起こっていることに関して何も知らなかったら、それこそ仏作って魂入れず、である。
 そのようなことを少しも考えもせずに、ただ「数字」だけに右往左往するマスコミと学会は、滑稽を通り越してもはや不可解の域に入っている。もちろん《イラクの場所としてイギリスやインドを選んだり、アメリカの位置として中国やブラジルを示した“珍答”もあった》というのは問題外だけれども、このような事例を、さも鬼の首でもとったかのごとく嘲笑的に取り上げることに意味はあるのか?間違えたものの中の多くは、例えばイラクに関していえば中東のイスラーム文化圏の中にあることを知りながら、間違えてイランを指してしまった、というのが大半ではないか、と思うのだが。誤答の内容に踏み込みもせずに、安易な「今時の若者」批判をやらかすマスコミの学力は一体どうなっているのだろうか。
 「この手の記事」だから、話は当然の如く学習カリキュラムへの批判に向う。曰く、

 同学会よると、高校の「地理歴史」は1989年の学習指導要領改訂以降、「世界史」を含めた2科目が必修となり、残り1科目に「地理」を選択する生徒は半数にとどまっている。先進諸国などには地理を必修としているところも多く、同学会で地理教育専門委員会委員長を務める滝沢由美子・帝京大教授(地理学)は「最近、都道府県の場所や県庁所在地も知らない学生が増えていると話題になっていたが、実際に調べて驚いた。地理と歴史をバランス良く学ばせることが大切だ」と話している。

 だったら滝沢氏に問いたい。まず、地理履修者と非履修者の間に有意差があったのだろうか。ちなみに私は高校時代に地理は選択しなかった。しかし、スリランカ以外の全ての場所を答えることができたが何か?というのも、私は中学時代に地図帳を読むのが好きだったこともあり、これも影響しているのかもしれない。滝沢氏は、中学校の学習カリキュラムに関して何も言っていないのはどういうわけか。
 また、「この手の調査」に共通してあるのが、時系列、及び異なる世代間における差異を考慮せずに、「大人たちはイラクなどの場所を正確に答えられるはずだ」という前提でもって調査していることである。しかし、何割の大人がイラクの正確な位置がわかるだろうか。滝沢氏は調査しようとしなかったのだろうか。
 社会人や、定年などで無業者になったものに関して意識調査や学力調査の類がしにくいことには理由がある。社会人に関して言うと、その人たちは生産労働に属しており、その時間を奪うと生産性が減少する。また会社という、学校よりも統制がとりにくい組織に属しているので、調査がしにくい、ということで集団式の調査はできない。また、郵送式で調査しても、サンプルされた人は地図帳を調べるなどの余裕ができるので不公平が生じる。訪問式の場合は、無業者でもない限り訪問してもたいていいるのは専業主婦(主夫)であろうから、サンプリングが正確でなくなる。サンプリングの正確さで言えば、街頭インタヴューなど論外である。もっとも有効な方法は、サンプルされる人にとってもっとも都合のつく時間を聞いて、その時間に来てもらう、ということであろうが、この方法を用いると時間と予算(謝礼が主になるだろうが)がかさむ。
 だから必要なのは時系列での比較なのだ。この記事では、《初の「世界認識調査」》とあるけれども、第1回の時点では何も言えない。また、海外の事例も報告されないというのはどういうことか。いやしくも《先進諸国などには地理を必修としているところも多く》というのであれば、海外でも同様の調査を行なうべきであるのに、そのようなことを行なった痕跡もない。「この手の調査」にとって、「大人」と「外国」はタブーなのである。
 それにしても、このようなお手軽な「学力調査」や「意識調査」が至るところで行われ、その上っ面に過ぎぬ「数字」だけを採り上げて騒ぎ立てるマスコミは、学習の意義と、社会調査の意義を問いかけようという気概が本当にあるのだろうか。
 まず、学力を口にしたいのであれば、環境(学校のレヴェルや、専攻している科目の種類、ないし生活環境など)の差異を考慮するべきであり、調査する側はそのような変数を加えた結果を公表するべきである。また、できれば多くの比較対称(異なる世代、及び海外における事例など)を用意すべきだし、このような調査は、なるべくなら長い時間をかけて行なうべきである。そうしないと、この記事のように、安易な文部科学省批判しか生み出されないことになる。家庭・地域も含めた学習の意義や、教師としてやるべきことなど一切不問だし、調査で除外されている大人たちやマスコミ人(!)の知識も不問にされる。
 このような調査が存在する意義とは何か。このような調査を報じる記事の目的を簡単に言えば、「眉間にしわを寄せること」だ。要するに、学力が低下しており、凶悪な犯罪をいとも簡単に起こし、「問題行動」を起こしまくる「今時の若者」に対するフラストレーションを高めるだけにすぎないのである。教育の意義や本質、あるいは調査への疑念などちっとも考えていないのだろう。また、学会も、「「今時の若者」は何々がわからない!」という記事ばかりが受けるという現象をおもんばかってか、自らの地位を少しでも上げたいが為にこのような調査ばかりやるのだろう。一見カレントに見える問題の尻ばかり追いかけて、学者としての倫理は置き去りである。ここに存在するのは、「今時の若者」をダシにした利権である。
 そうか利権か。日本新聞協会の調査によると、我が国で若年層が新聞を読む時間は激減しているそうだ。そのような事実があると、新聞が中高年の読者の視線ばかり気にして「若者論」に精を出すのも、そんな傾向に二流以下の学者がただ乗りするのもやむをえないか。

 主要参考文献・資料
 潮木守一『世界の大学危機』中公新書、2004年9月
 谷岡一郎『「社会調査」のウソ』文春新書、2000年5月
 パオロ・マッツァリーノ『反社会学講座』イースト・プレス、2004年5月
 ダレル・ハフ、高木秀玄:訳『統計でウソをつく法』講談社ブルーバックス、1968年7月

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2005年2月20日 (日)

俗流若者論ケースファイル01・大谷昭宏

 新シリーズ「俗流若者論ケースファイル」を開始します。このシリーズは、新聞や雑誌の記事における俗流若者論を逐次検証・批判していくシリーズです。第1回は、このブログでも再三採り上げてきたジャーナリスト・大谷昭宏氏の、奈良女子児童誘拐殺人事件における発言について検証します。

――――――――――――――――――――

 我が国において、猟奇的な凶悪犯罪(特に殺人事件)が起こってしまうと、マスコミは即座にその「犯人像」を探り当てたがる。つい先日起こった寝屋川市の教師刺殺事件についても、警察が「動機」すら発表していない段階なのに、例えば読売新聞や朝日新聞などは、犯人がゲーマーであり、かつ「ひきこもり」状態にあったことを過剰に強調し、さもゲームや「ひきこもり」が犯罪と結びついているかのような報道をした。
 嗤うべし。そのようなプロファイリングをして犯罪が防げると考えるのは、国家が社会主義になれば凶悪犯罪は防げる、という考えとまったく同じである。「ゲームの悪影響」とか「「ひきこもり」の暴力性」なんかを強調することによって得するのは、自分は何が何でも大丈夫だと思い込んでいる「善良な」人たちのみであって、このような報道によって、圧倒的大多数である「ゲームをしているが実際に人を殺そうとは思っていない」人々や、「ひきこもり」が長期化している人々を囲い込むだけである。
 このような報道ないし言論は、猟奇的な凶悪犯罪が起こるたびに噴出する。そして、その報道や言論のまわりに、それを過剰に持ち上げたがる人たち――それは往々にしてそのような報道・言説を仔細に検証もせずに「消費」する人たちであることが多い――の群れが生じ、次の事件が起これば、それはすぐに忘れ去られる。
 これがマスコミの習い性であるならば、別段批判する必要はないのかもしれない。しかし、それがともすれば権力の横暴を許し、あるいは誤った認識を「世間」に与えてしまい、いわれなき被害を特定の嗜好を持った人々、あるいは特定の世代(それは往々にして若年層が多い)が被ってしまうのであれば、批判する意義もあるのかもしれない。このシリーズの意義は、そこにある。
 今回批判するのは、昨年我が国を震撼させた奈良県の女子誘拐殺人事件(以下「奈良事件」と表記)における、ジャーナリスト・大谷昭宏氏の言動である。なるほど、ネット上で一部の人が指摘するとおり、この事件においては、平成元年に起こったいわゆる「宮崎勤事件」とは違い、大規模なオタク・バッシングは生じなかったし、ここで大谷氏の言動を批判することは、大谷氏が生み出したプロファイリング、すなわち「フィギュア萌え族(仮)」(面倒なので、これ以降は「フィギュア萌え族」と表記する)に新たな意味を与えてしまうことになるかもしれない。しかし、ここにおける大谷氏の言動が、至極「若者論」的であること、また大谷氏の歪んだ人間観、さらには自らの主張が間違っていたにもかかわらず自らの言動を反省しないことに関しては、やはり批判されて然るべきだと思う。
 もっとも、今回検証するのは、「日刊スポーツ」の大阪版に掲載された大谷氏の連載コラムにおける奈良事件に関する文章であるので、「フィギュア萌え族」という表現は出てこないのだが、ここにおける大谷氏の言動には、相当に誤解、偏見が入り混じっている。
 大谷氏が「萌え」について最初に言及したのは、11月23日付の「日刊スポーツ」である。ちょっと長くなってしまうが引用してみる。曰く、

 書くこともおぞましいが、犯人が「娘はもらった」というメールとともに母親の携帯電話の画面に送りつけてきた写真は、その後、殺害後のものらしいことがわかった。さらに犯人は浴槽のような所で少女を水死させ、遺体に無数の傷をつけていたことも明らかになった。
 もちろんいまの段階で犯人の動機は不明である。だが、私はこれらの状況からどうしても最近気になっていた「萌え」という現象を思い起こしてしまう。
 なぜ萌えというのかは、諸説あって不明だが、要は若者たちが生身の人間ではなく、パソコンの中に出てくる美少女たちとだけ架空の恋愛をして行くというのだ。そこにある特徴は人間の対話と感情をまったく拒絶しているということである。少女に無垢であってほしいのなら「キスしたい」という呼びかけに「ワタシ、男の人とキスしたことがないから、どうしていいのかわからない」と答えさせ、その答えに満足するのだ。自分の意に沿わない答えや、気に入らない少女の心の動きは完全に拒否する。
 (大谷昭宏[2004])

 このような指摘は、おそらく評論家の東浩紀氏の著書(東浩紀[2001]など)における「萌え要素」に関する記述を誤読・曲解したものと思われるが、はっきり言ってデタラメ、というほかない。まず、なぜ《どうしても最近気になっていた「萌え」という現象を思い起こしてしまう》という状況が出てくるのかわからない。そのことについては、一応、直後の段落で説明されてはいるが、ここにも誤読は多い。例えば、《要は若者たちが生身の人間ではなく、パソコンの中に出てくる美少女たちとだけ架空の恋愛をして行くというのだ》とあるが、例えば東氏の指摘などを読んでみると、《キャラ萌えを触発する技法》だとか《消費者の関心を触発するため独特の発展を遂げたジャンル的存在》(以上、東浩紀[2001])などとあるとおり、大谷氏の言っているような、《生身の人間ではなく、パソコンの中に出てくる美少女たちとだけ架空の恋愛をして行く》ということとは本質的に(!)関係ないものであるといえる。
 だから大谷氏にとっては、「萌え」とは「今時の若者」の「病理」、ここでは《パソコンの中に出てくる美少女たちとだけ》の《架空の恋愛》しかできないという病理を照射するための概念でしかなく、本来の意味とはまったくかけ離れていることになる。私は基本的にオタクではないが、声優雑誌をよく読むので「萌え」には稀に(少なくとも一般人より少し多いくらい)接することがあるけれども、私の乏しい体験からも大谷氏の「萌え」概念の誤謬は簡単にわかる。
 生粋のオタクの方々には申し訳ないが、私は「萌え」と聞けば、「声優グランプリ」2004年8月号に掲載されている、声優の中原麻衣、千葉紗子、清水愛の3氏のインタヴューにおけるこのやりとりを想起する。

 清水 (略、筆者注:この3氏がパーソナリティを勤めるラジオ番組のコーナーについて)校則を作っちゃおうっていうコーナーなんですが、自分の欲望を満たすネタがたくさんくるんです(笑)。
 千葉 「必ずメガネをかけなければいけない」とかねっ。
 中原 そうそう。あと「女子は全員着物を着てなければいけない」とかも。
 清水 (小声で)着物萌え……。
 全員 (爆笑)
 (中原麻衣、千葉紗子、清水愛[2004])

 話を戻そう。大谷氏は、さらにこう続ける。

 もちろんまだ犯人像が絞れないいまの段階で、今度の事件の犯人を直接、この萌え現象と結びつけることはできない。ただ、解剖結果から誘拐直後に殺害しているということは、犯人は一刻も早く少女をモノを言わないフィギュアにしたかったことは間違いない。その上でフィギュアになった少女の写真を母親に送りつけ、ここでもまるでモノをやり取りするかのように「娘はもらった」という言葉を使っている。これまでの誘拐犯なら「娘はあずかった」だ。
 もう一点、犯人は少女を浴槽のような水を張ったところで水死させている。この殺害方法だと、少女をまったく傷のつかないフィギュアにできる。いや、少女の体には無数の傷があったではないか、という反論があるかも知れないが、それこそが犯人の異常性。少女を水死させることで無傷の状態でフィギュア化し、思いのまま傷つけるのは、自分でなければ気がすまなかったはずなのだ。
 まさにそこには、人間としての対話も心の動きもまったくない、無機質なモノしか存在しない。そんな犯人がつかまったところで、その犯人に両親の悲しみ、世間の怒りが通じるだろうか。
 (大谷昭宏[2004])

 大谷氏における「萌え」概念の誤謬については、しばらく問わないことにしよう。しかし、《誘拐直後に殺害している》とか《水を張ったところで水死させている》という事件は、過去にゴマンとあるにもかかわらず、なぜか大谷氏はこの事件の犯人に限って《犯人は一刻も早く少女をモノを言わないフィギュアにしたかったことは間違いない》だとか《少女を水死させることで無傷の状態でフィギュア化し、思いのまま傷つけるのは、自分でなければ気がすまなかったはずなのだ》とか言って、強引に猟奇犯罪と「萌え」を結び付けているような気がする。また、大谷氏がいかなる分析でもって、この犯人がフィギュアマニアであると判断したか、まったく不明である。結局大谷氏は、自分の気に入らないものを無理やり目の前の猟奇犯罪と結び付けて、社会的に排除してしまいたい、と考えているのに過ぎないのではないか。フィギュアとは、そのような大谷氏の思惑を盛り上げてくれる要素に過ぎないのであって、フィギュアという概念に必然性はまったくない。枝葉末節をつくことになるが、《これまでの誘拐犯なら「娘はあずかった」だ》というのであれば、その統計データくらい見せてくれ。
 さて、犯人は後に逮捕された。犯人逮捕後の我が国におけるマスコミ報道は、例えば「メーガン法の是非」みたいに、異常な性犯罪者の再犯をいかに防ぐか(ちなみに私は「メーガン法」には反対で、更生プログラムの充実化こそが急務だと考えている)、という方向に動いていたような気がする(詳しくは、日垣隆 [2005a][2005b]を参照されたし)。
 なので、大谷氏のような言動は、かえって少数である。しかし大谷氏は、犯人が大谷氏のプロファイリングとはまったく違ったことに関して、まったく謝罪しないどころか、むしろ自らのプロファイリング、そして自分自身の無謬性を少しも疑わず、論理をさらに暴走させてしまっていたのである。

 ただ、私が事件直後からそうした性愛を容認するどころか助長するような社会に歯止めをかけるべきだとコメントしてきたところ、その手の嗜好を持つ方たちから事務所あてに抗議の電話やメールが殺到。加えて配達証明つきの公開質問状まで送りつけられてきた。この点についてはっきりさせておきたい。
 もとより私は人の趣味は自由だと思っている。だが、公開質問状での「その類の嗜好についてきちんと取材したのか」という指摘を待つまでもなく、実際に大阪の日本橋など、マニアが集う場所も取材してみたし、インターネット上でのやり取りも見せてもらった。そこにあったのはここで書くのもはばかれるような幼女や少女を性的に弄ぶというよりは、加虐的、嗜虐的な傾向の強いものだった。
 そうした趣味の人たちから寄せられる抗議の大半は、それらの趣味の中にも種々あって、それぞれ傾向が違う。なのになんでもかんでも一緒にするな、というのがまず一つ。もう一つは、あくまでバーチャルな世界のことであって、そのことと犯罪は結びつかないというものである。
 だけど世の中にはさまざまな人がいる。みんながみんな、きちんと境界を設けられるものではない。そうである以上、なんらかの歯止めをかけることが必要なのではないか。もし、欧米であのような劇画や動画を流したとしたら、厳しい懲役が待っている。
 (大谷昭宏[2005a])

 さて、文中にある《その手の嗜好を持つ方たち》とは、漫画やアニメ、ゲームなどの表現規制に反対しているNGO「AMI」である。このNGOが、大谷氏の発言に対して、平成16年12月9日付で公開質問状を送付した。それに対する大谷氏のしどろもどろした返答はまた見ていて興味深いのであるが、これについては触れない。大谷氏は、この短い文章の中で、壮大なダブルスタンダードをやらかしているのである。
 大谷氏は、この文章ではっきりと《もとより私は人の趣味は自由だと思っている》さらに《世の中にはさまざまな人がいる》と述べられている。しかし、このように真っ当なことを述べることができるのであれば、なぜ《みんながみんな、きちんと境界を設けられるものではない。そうである以上、なんらかの歯止めをかけることが必要なのではないか》と平然と言ってしまうのであろうか。私は加虐的、嗜虐的な性描写は大嫌いであるのだが、だからといってそれが犯罪に結びつくものであり、国家による規制が必要だ、とは断じて思わない。かつてはそう思っていた時期があったのだが、今はそのような考え方からは訣別している。
 なぜか。それは、それこそ世の中にはいろいろな人がおり、もしかしたらそのような過激な性描写が、性犯罪の抑止に役立っているかもしれないからである。それに、過激な性描写を見たから性犯罪に及んだ、という統計データもないばかりではなく、過激な性描写を見ることがすぐさま残虐な性犯罪につながるという考え方は、人間の可塑性や理性をないがしろにする考え方だからである。
 大谷氏の言うところの《なんらかの歯止め》とは、のち(1月18日)に大谷氏が主張している《児童虐待、少女性愛者の異常に加虐的なフィギュア、アニメ、コミック、ビデオなどの制作、流布、販売者の検挙、取り締まり。まずそのことを実行して、野放しだ、という世界からの強い批判に応える》(大谷昭宏 [2005b])ということなのだろう。しかし、このような論理に関する疑問として、まず我が国において、青少年による強姦罪の検挙件数は、1965年ごろに比して件数にして約20分の1、人口比にして約10分の1に減少しているのだから、近年の《そうした性愛を容認するどころか助長するような社会》なるものによって影響を受けた青少年によって強姦罪が急増した、という統計的事実はない。検挙率を勘案しても然りである(もっとも、最近になって検挙率に関して懐疑的な視座が向けられているのも然りである。具体的にいうと、かつて警察は検挙率を上げるために被害届けを握りつぶしていたが、近年になって素直に受理するようになった、というもの。詳しくは小林道雄[2005]、新藤宗幸、今井亮一、佐藤一、小林道雄[2004]参照)。さらにいえば、暴力的なメディアに接して暴力衝動が発揮される、という「神話」に関しても、我が国においては社会学者の宮台真司氏らによって否定されている。もう一つ、我が国は児童ポルノ輸出大国である、という批判があるが、データを見る限りではそんなことは全然なく、児童ポルノサイト数においてぶっちぎりでトップなのが米国で、我が国は確かに8位という順位になっているけれども、割合で見ると2パーセントに満たない。ちなみに米国は76パーセントである。《野放しだ、という世界からの強い批判》という批判は、実際にはメディア規制を主張するフェミニスト団体の主張である可能性が高い。もっとも、フェミニストとて一枚岩ではなく、例えば社民党党首の福島瑞穂氏のように、メディア規制に反対するフェミニストもいるが。
 そろそろ大谷氏の言動の深層、そして大谷氏の人間観に迫ってみよう。ここでもう一度、大谷氏にとっての「萌え」概念に言及してみる。大谷氏は、「萌え」はヴァーチャルな人間関係でしか満足することのできない「今時の若者」の病理だと主張しているけれども、実際のところ、それは大谷氏が「そう思いたいだけ」なのではないだろうか。おそらく大谷氏には、最初から「今時の若者」への不満があり、その「病理」を証明したいが為に奈良事件を引き合いに出し、さらには「フィギュア萌え族」なる珍奇な概念を出したのであろう。だから大谷氏の根幹にあるのは、《生身の人間ではなく、パソコンの中に出てくる美少女たちとだけ架空の恋愛をして行く》という行動に代表されるような「今時の若者」に対する不安、怒り、そして敵愾心であり、それを排除して社会を「正常化」しようとする衝動ではないか、と思われる(そう考えれば「フィギュア」どころか「萌え」にも必然性はない)。
 もっともこのような考え方をするのは大谷氏だけではない、というのは推して知るべしであろう。インターネットや携帯電話のメールにはまる「若者たち」は病気である、という言説がいくら叩いても叩いてもそこらじゅうに噴出し、もっともらしい形で「世間」に容易に膾炙する状況にあって、大谷氏の発言は別段特殊なものではない。大谷氏がそうであった通り、このようなことを主張するものたちは「暴力的な表現」だとか「過激な性描写」を過剰に問題視する傾向にあるけれども、それは自らの「新しい」メディアへの敵愾心を最も表現しやすいものであるに過ぎず、論理のすり替えの一種である。
 結局のところ、大谷氏の一連の文章は、自らの歪んだ「使命感」を満足させるための「若者論」でしかなかったのではないか。そこには対話も感情も良心もない。いや、許さない、といったほうが適切か。大谷氏は、平成17年1月4日付の文章において、大谷氏に質問状を送付したNGO「AMI」について《それでも彼らは人の趣味趣向に言いがかりをつけるなと言い張るのだろうか。警告を発する者には一方的に質問状を送りつけるのだろうか。/利己と、自己しか彼らの目には映らないようになっているとしか私には思えない。》(大谷昭宏[2005a])と罵っているが、このような言葉は、大谷氏にこそ向けられるべきである。そして、大谷氏が、平成16年11月18日付の文章の冒頭の言葉は、何よりも大谷氏の人間観にこそ突きつけられるべき疑問なので、この文章を引き合いに出して、拙稿の終わりとしたい。

 非人間的なんて言葉は最早むなしい。言えるとしたら、脱人間的、没人間的という表現しかないのではないか。
 (大谷昭宏[2004])

 参考文献・資料
 東浩紀[2001]
 東浩紀『動物化するポストモダン』講談社現代新書、2001年11月
 大谷昭宏[2004]
 大谷昭宏「対話も感情もない「萌え」のむなしさ」=「日刊スポーツ」大阪版2004年11月18日号、日刊スポーツ新聞社
 大谷昭宏[2005a]
 大谷昭宏「趣味と犯罪の境界 社会が決めるべき」=「日刊スポーツ」大阪版2005年1月4日号、日刊スポーツ新聞社
 大谷昭宏[2005b]
 大谷昭宏「できることからコツコツと」=「日刊スポーツ」大阪版2005年1月18日号、日刊スポーツ新聞社
 小林道雄[2005]
 小林道雄「警察腐敗の根源はどこにあるか」=「世界」2005年3月号、岩波書店
 新藤宗幸、今井亮一、佐藤一、小林道雄[2004]
 新藤宗幸、今井亮一、佐藤一、小林道雄「警察改革はどうすれば可能か」=「世界」2004年5月号、岩波書店
 中原麻衣、千葉紗子、清水愛[2004]
 中原麻衣、千葉紗子、清水愛「Monthly People:中原麻衣&千葉紗子&清水愛」=「声優グランプリ」2004年8月号、主婦の友社
 日垣隆[2005a]
 日垣隆「性犯罪常習者に寛大な「野蛮国ニッポン」」=「現代」2005年3月号、講談社
 日垣隆[2005b]
 日垣隆「性犯罪常習者をなぜ野に放つ」=「文藝春秋」2005年3月号、文藝春秋

 斎藤環『ひきこもり文化論』紀伊國屋書店、2003年12月
 斎藤美奈子『物は言いよう』平凡社、2004年11月
 パオロ・マッツァリーノ『反社会学講座』イースト・プレス、2004年5月
 ウォルター・リップマン、掛川トミ子:訳『世論』全2巻、岩波文庫、1987年2月
 ジュディス・レヴァイン、藤田真利子:訳『青少年に有害!』、河出書房新社、2004年6月

 斎藤環「条例強化というお節介には断固反対する」=「中央公論」2004年1月号、中央公論新社
 斎藤環「「有害なわいせつ性」という社会通念こそ有害である」=「中央公論」2004年1月号、中央公論新社
 神保哲生「ニュースのラインナップはメディアの都合で適当に決まる」=「サイゾー」2004年3月号、インフォバーン
 瀬川茂子「東京都発「正しい性教育」」=「AERA」2004年10月25日号、朝日新聞社
 武田徹「ケータイを敵視する“メディア一世”たちの傲慢」=「中央公論」2004年4月号、中央公論新社
 西村由貴「小児性愛とは何か」=「現代」2005年3月号、講談社

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2005年2月17日 (木)

統計学の常識、やってTRY!第2回

 若者報道の非常識ぶりから統計学の常識を探る「統計学の常識やってTRY」の第2回である。今回私が採り上げる「社会調査」は、長崎県教育委員会による「児童生徒の「生と死」のイメージに関する意識調査」である(調査対象は長崎県内の小学4年1196人、小学6年1241人、中学2年1174人)。若者報道ではないが、この「調査」の結果がさまざまなところで引き合いに出されているので、今回はこの「調査」と、その取り巻きを検証することにしよう。
 長崎県教委がこのような調査に取り組んだのは、昨年6月頭に起こった児童殺傷事件、及び一昨年7月に怒った幼児殺害事件の影響があることはほとんど間違いないだろう。その意気やよし。しかし、この調査でよく引き合いに出されている「死んだ人が生き返ると思いますか」という質問では、統計的な粗が多数見つかるのである。
 この調査によると、死んだ人が「生き返る」と回答した人が、全体で15.4パーセント、小学4年で14.7パーセント(182名)、小学6年で13.1パーセント(146名)、中学2年で18.2パーセント(175名)いたというのである。また、都市部で16パーセント、その他の本土部で15.7パーセント、離島で11.6パーセントと、都市部になるにつれて高くなっているというのである。
 しかし、この後に設定されている、なぜ「死んだ人が生き返る」と考えるのか、その理由を答えさせる設問で、大いに疑問が湧く。曰く、

①テレビや映画等で生き返るところを見たことがあるから
②生き返る話を聞いたことがあるから(テレビ等を見て、本を読んで、人の話を聞いて)
③ゲームでリセットできるから
④その他

 これを誘導尋問といわずして何というのか。「その他」以外の全ての答えがメディアがらみではないか。この調査を引用する人は、どうしてこの調査の恣意性を疑うことをしないのだろうか。この設問を見る限り、設問の設計者が「今時の小中学生は死生観が麻痺している。それはメディアの悪影響が原因である」という偏った考え方をしているとしか思えない。麻痺しているのは、この設計者の良心であろう。この中から選べ、といわれる長崎県の子供たちに、私は同情を禁じえない。
 話を「生き返る」と回答した人の割合に戻そう。「生き返る」と回答した人の割合は15.4パーセントだったことについて、多くの人は「ゲームの悪影響」を引き合いに出した。これらの人たちは、この後の設問への回答をよく見たのであろうか。「死んだ人が生き返る」と考える理由を問うた設問において「ゲームでリセットできるから」(こういう表現も大いに問題があるというが同化)と応えたのが、全体でたったの7.2パーセント、小学4年で11パーセント、小学6年で3.4パーセント、中学2年で6.3パーセントなのである。従って、「死んだ人が生き返る」しかもその理由は「ゲームでリセットできるから」と回答した者の数は、全体で1.1パーセント、小学4年で1.6パーセント、小学6年で0.44パーセント、中学2年で1.1パーセントである。こんなことをちっとも考慮せず、今回の調査結果で、長崎県教委の人は臆面もなくこう書いている。曰く、

 ゲームの影響も確認してみたが、「ゲームでリセットできるから」という理由を挙げた児童生徒は比較的少数(7.2%)だった。しかし、たとえ少数であっても、子どもたちを仮想と現実の区別をつかない状況に陥らせるものであり、今日的な課題としてとらえておく必要がある。

 いい加減気付いてもらいたい。7.2パーセントというのは、極めて恣意的な質問の誘導によって導き出された結論であると同時に、それは全体の1.5割に過ぎぬ「死んだ人が生き返る」と回答したものの中における割合、いわば「条件付確率」なのであって、実際の確率は全体で1.1パーセントに過ぎないのである。条件付確率(割合)と実際の確率(割合)の区別もつかないで、よく教育委員会をやっていられるものだ。しかも《たとえ少数であっても、子どもたちを仮想と現実の区別をつかない状況に陥らせるものであり》という文章には主語がない(この執筆者の意図から考える限り「ゲーム」であるのは明らかなのだが)、まさに悪文である。しかも論理飛躍ではないか。やはりこの設計者が教育委員会にふさわしいものであるか、疑いたくなってしまう。長崎県教委は、ゲームの悪影響よりも、他のメディアの影響と、自分たちの統計が適切であるかをまず疑ったらどうか。
 ちなみに「その他」と答えたものの自由記述欄を見てみよう。この理由は大きく3つに分かれ、《祈れば人は生き返ると思うから》《霊が出てくるから》《肉体はなくなっても心は残っていて、別のものとして生まれ変わると思うから》(以上、小学生)《幽霊が生き返ると思うから》《人の魂は死んでいないと思うから》(以上、中学生)と言った宗教的な、あるいはスピリチュアル(霊的)な理由が多く、それ以外は《医学や科学の進歩によって、死んでも生き返と思うから》(小学生)《医学が発展すれば人は死んでも生き返ると思うから》《人が生き返るというのとは違うと思うが、技術が発達すれば、血液や細胞からクローンできると思うから》(以上、中学生)と言った、医学の進歩を過信したもの、そして《人は死んでも生き返ると信じたいから》《人は死んだら終わりだとすると悲しいから》(以上、小学生)《人は死んでも心の中に生きていると思うから》《亡くなった人に似ている赤ちゃんが生まれてくるから》(以上、中学生)と言った、「生き返る」と言う言葉の範疇に入らないと思われるものに大別される。
 おそらく、設問に、例えば「人の心(魂)が残るから」だとか、あるいは「医学が発達すれば蘇生できるから」みたいなものを加えたら、調査結果は大きく変動していただろう。
 また、設問の中でも、特に《生き返る話を聞いたことがあるから(テレビ等を見て、本を読んで、人の話を聞いて)》は至極曖昧である。例えば、母親が「私はよいことをすれば人はいつか生まれ変われると思う」と言ったとして、それが原因で子どもが「よいことをすれば人は生き返れる」と考えた場合でも、この回答をするだろう。要するに、回答の余地が大きすぎるのである。さらに《テレビ等を見て》とあるのは、第1番目の回答である《テレビや映画等で生き返るところを見たことがあるから》と重複しないだろうか。心配だ。
 長崎市教委によるこの「調査」の考察には、意地でも「今時の子供たちは死生観が希薄である」と言いたい欲望が見え見えである。唯一確実性が高いのは《子どもたちは、自らの経験によるのではなく、周囲からのさまざまな情報の影響を受けて、死を認識していることが明らかになった》(変数に医学の発達による寿命の長期化が除かれているのは大目に見よう)という分析くらいで、それ以外は、この考察の執筆者は強引に「教育的」な提言をしたいのか、と言いたくなる。
 はっきり言うが、この調査には、例えば高校生や大学生、そして社会人といった、異なる世代との比較がないのである(調査しづらい、という理由もあるだろうが)。だから、何をもって「今時の子どもたちは死生観が希薄である」と考えることができるのだろうか、という点からもこの調査に疑問を投げかけなければならないのである。そんなことも知らないで、《学校教育においては、飼育や栽培などの体験活動を一層重視するとともに、…子どもたちに命の尊さを語り、「生と死」について共に考えることが求められる》だとか、《今の子どもたちには、命はただ一つ、かけがえのないものであること、一度失われると決して取り戻すことができないことを…教えていかなければならないことを改めて痛感した》などと書き飛ばす。この調査から見る限り、「今時の」子供たちにおける「生と死」に対する考えが希薄である、ということは証明できないのである。
 また、「命の尊さ」を教えれば残虐な少年犯罪は阻止できる、というのは、論理のすり替えであると同時に、たいへん甘い考え方である、ということを指摘しなければならないだろう。そもそも超圧倒的大多数の青少年が(たとえ他人のことをいくら憎んでも!)人を殺していないのだから、たとえ100歩ほど譲って「今時の」子供たちの「生と死」に関する考え方が希薄化しているとしても、その多くが実際の行動(殺人事件!)につながっていないのである。そもそも我が国において、青少年による殺人の件数は昭和40年ごろをピークに一貫して減少傾向にあるのだから、「命の尊さ」を教えることが抑止力になりえないこと、少なくとも抑止力になりえるのか疑問が投げかけられるべきであることは明らかであろう。そんなに「命の尊さ」が大事なのであれば、世界中で大量虐殺を行なっているジョージ・W・ブッシュや、自国民が大量に餓死していても恬然としている金正日に言っていただきたい。
 また、この調査の設計者は「ゲームをやることによって仮想と現実の区別が曖昧になり、簡単に殺人を犯すようになったり、あるいは人が死んでもリセットして生き返ると考えるようになっている」などと臆面もなく考えているようだ。しかし、調査された青少年の何割がゲームをやったことがあるのだろうか。実際、かなりの割合ではないかと思われるのだが、それでも「人は死んだら生き返る」しかも「リセットできるから」と考えるものが全体の1.1パーセントしかいないというのであれば、むしろ少ないということもできる。しかも、長崎における凶悪殺人事件の少年犯罪者がゲーマーだったという事実はどこにもないのだから、このような仮定には最初から疑問が投げかけられて然るべきだ。我が国の俗流若者論は、青少年と若年には一貫して性悪説で向き合い、それ以外の世代には性善説で向き合う。私が朝日新聞社の雑誌「論座」の2004年2月号に、マスコミは少年犯罪が激増していると嘆いているが統計を見る限りではそんな事実はない、という投書を投稿したところ、同年3月号で、《検挙率の低迷を考慮すればむしろ少年犯罪は数字以上に深刻化しているであろうことは容易に推測できる》などという野暮な批判を受けた。しかし、検挙率低迷の最大の理由は、軽微な犯罪の認知件数が増加したことと、これまで警察が無視してきた、あるいは握りつぶしてきた被害届けを素直に受理するようになったことにあるのであって、凶悪犯罪の検挙率は現在でも90~70パーセント台の高水準を推移している。だから、この批判者が《容易に推測》した結果は明らかに間違いだった、ということである。ゲームに関しても然り。この統計によって明らかになったのは、設計者が「容易に推測」してみせた結論は、あまり有効性を持ち得ない、ということである。

 長崎県教育委員会には、調査において恣意的な設問を作らないという真実はただ一つ、かけがえのないものであるということ、一度作って公表してしまうと決して撤回することができないことを本稿でしっかりと教えていかなければならないことを改めて痛感した。
 このことを踏まえ、俗流若者報道における「社会調査」の在り方について総点検を行い、その充実を図るとともに、統計学・論理学・社会学が一体となった取組の推進に努めていきたい。
 私は、現在、「統計の疑い方」や「有効正答率の計算の仕方」など、読者の理解に応じた「「善良な大人」たちの心に響く統計学教材」を作成中であるが、統計学からの逸脱行為を行なうと、学術的な制裁を受けるだけでなく、現実の子供たちに大変な誤解を与えることや、調査の行い手、及び報じ手に対しても多大な心配や迷惑をかけ、名誉を失うという悲しい思いをさせることを含めて「善良な大人」たちにしっかりと伝えるための参考資料も準備しているところである。これをブログで公開し、計画的かつ効果的な学習機会の設定を図っていきたいと考えている、まる。
 (この結語のネタ元はこちら

 参考文献・資料
 東京大学教養学部統計学教室・編『基礎統計学Ⅰ 統計学入門』東京大学出版会、1991年7月
 小島寛之『文系のための数学教室』講談社現代新書、2004年10月
 谷岡一郎『「社会調査」のウソ』文春新書、2000年5月
 ダレル・ハフ、高木秀玄:訳『統計でウソをつく方法』講談社ブルーバックス、1968年7月
 日垣隆『世間のウソ』新潮新書、2005年1月
 パオロ・マッツァリーノ『反社会学講座』イースト・プレス、2004年5月

 内藤朝雄「「友だち」の地獄」=「世界」2004年12月号、岩波書店

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2005年2月16日 (水)

トラックバック雑記文・05年02月16日

 週刊!木村剛:[ゴーログ]国民総背番号制にあなたは賛成ですか?(木村剛氏:エコノミスト)
 署名で書く記者の「ニュース日記」:500円偽造の不思議(伊藤圭一氏:共同通信記者)
 昨日の雑記文の続きです。
 昨日の雑記で私が国民総背番号制について《利点が大きいというのであれば、私は導入してもいい》しかし《不安要素が多すぎます》と表記したところ、次のようなコメントを頂きました。曰く、

すでに現状でも「不安要素が多すぎ」だとは思いませんか。
偽造通貨を一度に大量に正規の通貨と入れ替えるための手段として、郵便局の口座が使われているわけです。
すでに多くの振り込め詐欺をふくめて一連の事件の核心に銀行や郵便局の架空口座があることは疑いようがない。
大量の架空口座の開設がなぜ可能かといえば、偽造免許証が堂々と作られ売られているからだということは、大学中退の私にも分かる話です。ここまでくれば、もう確かな個人認証が必要でしょう。

 昨日の雑記文において、確かに私は個人認証の問題について少々見落とした点があったわけで、それは反省せざるを得ないと思います。
 もちろん、私とて現在のシステムにも不安要素が多すぎることは分かっております。しかし、ここで肝心なのは、いかに架空口座を作らせないか、というのがポイントだと思うのです。そのためには、個人認証の問題だけでなく、架空口座や偽造証明書の作成に関する警察の捜査の徹底化とか、銀行・郵便局の努力も必要になるでしょう。問題をひとり個人認証の問題にするのもどうか、と思います。このコメントは確かに鋭い指摘だとは思うのですが、少々論理の飛躍がある気もしてなりません。
 とはいっても、免許証や保険証の偽造を防ぐ、というのであれば私はむしろ賛成であります。
 ちなみに私が国民総背番号制について最も関心のあることは、今の政府に長期的なヴィジョンがあるかどうか、ということと、今の我が国の情報システムは国民総背番号制を導入するに足りうる技術力を持っているか、ということです。

 「週刊!木村剛」がらみでもう一つ。
 週刊!木村剛:モノ書きの老婆心:「匿名性」を護るために[ゴーログ]再び、モノ書きの老婆心:「匿名性」を護るために(木村剛氏:エコノミスト)
 「匿名性」に関する私なりの見解を示しておきます。
 私は高校時代の前半のあたりは、「無名」(たまに「広瀬川」を使うこともあった)というハンドルネームを使ってさまざまな掲示板に書き込むことが多かったのですが、現在はどこであっても「後藤和智」という本名を使用しています。それは、これは自分の発信する言論である、ということを常に意識するためです(自意識の発露、といわれればそうかもしれませんが)。自分が発信することは、すなわちその言論に関して自分で責任を負わなければならないわけで、もし批判された場合はその内容を真摯に受け止め、反論があれば相手の言論を認めた上で反論することが重要と考えています。
 ブログというものは、ネット掲示板とは違い、第一に自分や相手の「顔」が見えるということ、第二に自分の言論は自分で責任を負わなければならないこと、という点で大きく違っていると思います。木村氏も、「モノ書きの老婆心:「匿名性」を護るために」のほうで、

 つまり、「ブログ」は、皆さんが個人で公に向かって発行している新聞であり雑誌なのであって、その言論の責任は皆さんが個人で背負っているということなのです。これは、ひろゆき氏によって、巧みにしかも無料で護ってもらっている「2ちゃんねる」とは全く違う世界だということを認識すべきです。「PurpleMoon」さんも「先日、わたしのところへ、とある企業さんから『この記事を修正しないと裁判も辞さない』という、脅しとも取れる内容の警告メールが届きました。もちろん、すっごい嫌な気分ですが(笑)、こういうものがまさに、わたしに与えられた『表現の自由』に伴う『責任』なのでしょう」という経験をしていらっしゃるそうですが、それはすべてのブロガーにとっての現実なのです。

 と表記しておられます。少なくともブログの世界では、たとえ執筆者名(芸名、筆名、ハンドルネーム含む)を明らかにしていなくても「匿名性」というのはありえません。例えば「後藤和智事務所」であれば、たとえ「後藤和智」というのが偽名であっても(本名です。あしからず)「後藤和智事務所」というブログの名前が「名前」として流通することになります。ですから、ブログの世界に生きる人々(当然、私も含む)は、(ネット掲示板では存在する)「匿名性」という存在し得ない「聖域」に逃げることをしてはならない。これが書き手の倫理だと思うのです。これは、たとえば2chとブログの違いだけでなく、amazon.co.jpとbk1の違いにも見られます。amazonでは匿名の執筆者は「カスタマー」と表記されますが、bk1は半角4文字以上の名前を記入しないといけない(半角4文字未満、例えば全角1文字の人は、その文字のあとにスペースを付けて補う)。bk1には全ての評者に関してその評者の書いた書評が検索できるシステムを採用していますし、規制もamazonに比べて多いので、書評もamazonとは本質的に違うものになるかもしれません。
 ちなみに本ブログでは基本的にトラックバックやコメントの削除はしておりませんが、万が一「荒らし」と断定できるようなものであれば、ブログにお知らせした上で削除します。

 ン・ジュンマ(呉準磨)の備忘録:「小さな政府主義」は既に自民党の運動方針から漏れている
 小泉ワンフレーズ政治にも翳りが見え始め、自民党も政策をめぐって分裂しているようです。しかし、政権党である自民党が長期的なヴィジョンを示せず、場当たり的でただ選挙民の関心を引きそうな政策ばかり提示していたのでは、国民も背を向きたくなります。投票率の低下を徒に嘆いている人は、その点を無視しまくっていますね。マスコミも、投票率低下を嘆く政治家(政治屋?)の片棒ばかり担いでいないで、もっと権力を疑ってほしい。スキャンダリズムや若者バッシングばかりやっている場合ではないのです。

 弁護士山口貴士大いに語る:人権擁護法案に異議あり!(山口貴士氏:弁護士)
 ここで記されている法務省の体たらくには、開いた口が塞がりません。曰く、

・「昭和58年10月6・7日開催の全国次長検事会同における次長検事指示」により、刑事事件、再審事件において証拠の開示を頑なに拒み、
・人権侵害の可能性の高い取調過程の「可視化」に頑なに抵抗し、
・受刑者の処遇不満の申し立てにもほとんど対応せず、
・国民監視機関である公安調査庁を傘下にもち、
・国連が難民と認定したクルド人を強制送還(本年1月18日)し、
・獄中者の処遇、死刑囚の処遇について国連の人権委員会から度重なる勧告を受けながらもこれを無視

 凄まじい。やはり我が国には法務省とは独立した人権擁護機関が必要なのではないでしょうか。
 人権擁護法案に関する問題点は、「人権」概念の徒な拡大解釈が我が国において起こっていることにもあると思うのです。基本的に「人権」とは、国家が国民を縛ろうとすることに対する対抗概念なのであって、憲法はその人権を保障しなければならないものです(だから、憲法が権利ばかり主張して義務を明記しないから青少年問題が起こるのだ、というのは憲法の何たるかを理解していない人の言うことです)。かつて「左翼」的な人が「親が子供に危害を与えることは人権侵害だ」みたいなことをいっていた時期がありましたが、これははっきり言って「私人間効力」であって人権侵害などではまったくありません。あと、「有害メディア」規制を訴える一部のフェミニスト集団の代表が、「作品の中の人物にも人権がある」みたいなことを分かったような顔で言っていました(詳しくは「奈良女児誘拐殺人事件における、マスコミのオタクバッシングまとめサイト」の05年1月10日の4つ目の項参照)。日弁連の声明にもあるとおり、もし作中の人物が実在の人物をモデルにしているのであれば、それは名誉毀損などのほかの罪で問われるべきであって、「作中人物の人権侵害」などという変な概念を持ち出すべきではない。最も必要なのは実在する児童の人権擁護のはずです。「左翼」的な人々がこのような体たらくだから、低俗には低俗で対抗したがる一部の「右翼」が、「人権」概念を極度に貶めた議論ばかりするのです。

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2005年2月15日 (火)

トラックバック雑記文・05年02月15日

 MIYADAI.com:第二回 TEPCOインターカレッジデザイン選手権を終えて(宮台真司氏:社会学者)
 *☆.Rina Diary.☆*:持病が。(佐藤利奈氏:声優)
 宮台氏の文章は、建築に関する話です。私は現在大学の建築学科に通っているので、短文ながらも興味深い指摘があります。

■第一に、透明に見通せることを「コミュニケーションの触媒」だと勘違いする作品が多過ぎた。それではコミュニケーションに必要な最低限の感情的安全が得られないだろう。
■第二に、家や町が公私と上下の組合せから成り立つことを見抜いてほしい。洞窟の奥の見えにくい所が私。出口近くが公。私的な場に居て良いのは、上(強者)か下(弱者)か。
■第三に、時間/空間的に視角が限定され過ぎだ。時間的には「今」を相対化し、住居史に知恵を探りたい。空間的には「ここ」を相対化し、立地場所に想像力を働かせたい。

 私も、大学の課題で住宅を設計したことがありますが、住宅を設計するには、自らのやりたいようにやるだけではなく、たとえば社会学的な視座も必要なわけです。何せ、住宅を設計することは、単に何かを作るだけでなく、住宅と社会のかかわりも真剣に考えなければいけないわけで。だから、建築家と社会学者はどんどん関わりを深める必要があると思います。授業がらみで「住宅建築」「新建築」などといった建築雑誌を読むことが多くなりましたが、建築家の作品や論考のみならず、もっと社会学的な論考を載せてほしいと思います。どこかの新聞やオピニオン雑誌が「建築と社会」を取り扱った対談や特集をやってくれないものでしょうか。
 ちなみに佐藤氏のサイトにある《持病》とは、《「お引越ししたい病」》なんだそうな。引越しすると、自らの住環境や、周囲の人間関係も変わります。「引越ししたい」という「病」にかかってしまうことは、常に新しい環境を求めることなのかもしれません。これがいいことなのか、悪いことなのかは、もう少し深く考えてみる必要がありそうです。

 週刊!木村剛:[ゴーログ]国民総背番号制にあなたは賛成ですか?(木村剛氏:エコノミスト)
 ヤースのへんしん:公務員からドーゾ
 「国民総背番号制」に関する文章ですが、私としては、導入は慎重にやるべきだと思います。もちろん、この制度には利点も多数あるでしょう。しかし、制度を導入することによって新たなリスク、たとえば、予算、セキュリティ、偽造される可能性をあらかじめ勘案・予測しておく必要もあることは明らかです。これでリスクが少なく、利点が大きいというのであれば、私は導入してもいいと思いますが、不安要素が多すぎます。まず、国民が理解を示しているか。次に、管理とセキュリティは万全か。特に後者については、省庁のホームページが簡単にセキュリティを破られて進入されるという報道が多くなされていることからも分かるとおり、我が国の政治におけるセキュリティに関する知識が足りないことも不安要素たりえます。「ヤースのへんしん」では、

 結局は「指紋」などの、個人を特定できる体の一部を判定基準とするしかないと思うのです。
 それなら、背番号は必要ないわけですよね。

 と、番号を振る以外にも(偽造されにくい?)やり方があることを示唆しています。しかし、たとえば指紋を用いる場合にも、指紋データの漏出が問題になるでしょうから、サイバー政治戦略とは複雑なものです。
 ちなみに、「ヤースのへんしん」には、こんな面白い案もあります。

 まずは、公務員だけ先に背番号を付けて見たらどうでしょうか?
 保険証も免許証、ETC、定期券、クレジットカード、各種メンバーカードなどを一元的にオンラインで管理するわけです。
 東京に出張してるはずなのに、大阪の居酒屋でカードを使い、定期券で家まで電車で帰ってるとか、残業してるはずなのに役所の最寄の駅から5時15分に電車に乗ってるとか。
 「カラ出張」もできなくなるし、「カラ残業」もできなくなる。
 公務員の事件では、個人が特定できずにうやむやにされることが多いわけですから、背番号はいいかもしれませんよね。
 国が導入したいなら、まずは公務員だけ3年ほど導入してみたらどう?
 国民から給料を貰ってるんだから、国民を代表してやってみればいいんじゃない。

 まあ、公務員の不透明なカネの使い方を明らかにする、ということはできるのかもしれません。
 しかし、木村氏のブログで奇妙に思えるのは、「国民総背番号制」の導入の議論が、なんと偽造通貨の横行から始まっているのです(実際には他のブログからの引用で、木村氏が制度導入による犯罪の抑止効果を論じているわけではありませんが)。
 これでいいのでしょうか。
 《個人の認証の問題》というのであれば、なぜ国民総背番号制でなければいけないのでしょうか。「ヤースのへんしん」のような指紋認証システムとか、あるいはNシステム(自動車のナンバープレートの認証システム)のようなシステムでもいいはずです。このブログの筆者は、なぜ国民に番号を振る必要があるのか、という根本的な疑問に答えきれていない気がします。
 あまつさえ、このようなことを言っているブログさえありました(ブログ名は挙げません。木村氏のブログから探してください)。

 近年、凶悪な事件が連続して起こっており何か悲しい状態になっています。そして、もし国民総背番号制と登録制度があったら、犯罪に対して抑止効果があるのでは、と思わざるを得ません。

 正気の沙汰か、と思ってしまいます。《凶悪な事件》が何を指すのか分かりませんし、《国民総背番号制や登録制度》がどのような犯罪にどのように抑止力として働くのか、ということに関してはまったくあいまいなままです。はっきり言いますが、国民総背番号制度を導入して抑止力になりうるのは、私が考える限り脱税ぐらいではないか(これに関しても、木村氏が言うとおり、同時に所得税を申告制にすれば、所得税に関しては抑止力を失う)。国民総背番号制や登録制度を導入したところで、マスコミを騒がせるような凶悪事件を防げると考えるのは、まったくお門違いもいいところでしょう。
 それにしても、最近、「強い〈国家〉が自分の不愉快なものを癒してくれる!」という考えが出てきているのが気になります。具体例を挙げれば、憲法および教育基本法改正に奔走する一部の議論。これらを改正すれば、国家が自立することによって、国民にも自立心が生まれ、少子化も少年犯罪もみんな解決できる!って言っている改正論者は、まともな社会学者や経済学者を莫迦にしていますね。憲法に関する視座については、長谷部恭男『憲法と平和を問いなおす』(ちくま新書・2004年4月)を推薦します。少なくとも憲法と青少年問題を強引に結び付けて考えることのアホらしさが分かります。
 それから、ここでも何度か採り上げた「有害情報規制」。言っておきますけれども、この規制を導入する人にとっての「有害情報」とは、単に「自分の道徳的観念に照らし合わせて気に入らない情報」であり、それ以上のものではないのでしょうか。実を言うと私も、このブログで散々オタクメディア規制を批判してきましたけれども、露骨な性描写はむしろ嫌いです。しかし、嫌いなら見なければいいのではないでしょうか。いうなれば「見たくないものを見ないですむ権利」ですね。それを無視して国家による規制を求めるのは、国家と国民が自分と同じ価値観を持ってくれないと困る、ということに過ぎないのではないでしょうか。同じ論理で、いわゆる「禁煙ファシズム」も批判できます。私だってタバコは「大」を10回繰り返したくなるぐらいに嫌いです。しかし、嫌いであれば遠ざかればいい、あるいは分煙を主張するべきでしょう。自分の志向にあわないものは国家が規制しろ、という言論を、私は「生活保守主義的プチナショナリズム」と名づけます。どっかの俗流精神科医の「ぷちナショナリズム症候群」なる空疎な「若者論」とは一味違うぞ!これに関しては、また稿を改めて論じる必要がありそうです。

 山崎宏之のウェブログ:【大阪寝屋川中央小侵入事件】「ゲーム大好き」「ひきこもり」無職・17歳卒業生(山崎宏之氏)
 凄惨な事件がおきてしまいました。犠牲者のかたがたには、心から同情を禁じえません。
 しかし、この事件の報道(山崎氏のブログでは朝日新聞の記事が引用されていましたが、読売新聞も同じようなことを報じていました)が、またぞろ「ゲーム」「ひきこもり」を強調しているのは、なぜなのでしょうか。どうしてほかの要因を見ようとしないのでしょうか。「動機」(これが信用に足りうるものである保証はない)すら明らかにされていないのに、すぐさま「ゲームの影響で凶悪な犯罪を起こしてしまった」と思わせてしまうような報道、あるいは「「ひきこもり」は凶悪犯罪と親和性が高い」と思わせてしまうような報道をしてしまうのでしょうか。結局のところ、このような報じ方をする記者は、「自分とは関係ないところから凶悪事件が起こったのだ!自分の生き方は正しい!」という考え方に染まっているのではないか、と思えてなりません。ここから「生活保守主義的プチナショナリズム」が生まれてしまうのですね。ちょっと議論が飛躍してしまいましたが。
 話を戻しましょう。なぜ「ゲームの影響」「ひきこもり」を強調することはいけないことか。その原因として真っ先に投げかけられるべき疑問は、「ゲームが大好きな青少年はいっぱいいるし、「ひきこもり」の青少年もたくさんいると聞く。しかし、それではなぜ彼らは犯罪を起こさないのか」というものです。多くのゲーマーや「ひきこもり」の青少年が凶悪犯罪を起こさないのだから、この凶悪犯罪者を犯罪に駆り立てたものは、ゲームや「ひきこもり」以外の何か、と考えざるを得ません。安直なプロファイリングは、ある属性の人を凶悪犯罪者予備軍に仕立て上げることによってのみ成立するものですから、慎重でなければならないのは明らかでしょう。むしろ大事なことは、このような事件の再発を防ぐためには何が必要か(更生システムの見直しなど)、被害者遺族の心理的なショックを癒すためには、そしてこの犯罪者の処遇は、ということに他ならないはずです。特定の属性を持った人々や特定の世代に対する敵愾心を煽ったところで、何も変わらないのです。
 それにしても猟奇的な少年犯罪報道の「不変ぶり」にも、驚かされるところがありますね。

 もう少し「ゲームの影響」について語らせてください。
 最近になって、いろいろなところで長崎県教委による、小中学生の「死生観」をめぐるアンケートが話題になっていますね。なんでも、小中学生の約1.5割が「死んだ人が生き返る」と考えているのだとか。このような結果に関して、多くの人が「ゲームの影響」を疑っているようです。しかし、長崎県教委のアンケートを見ると、「リセットできるから」と考えたのは、なんと「生き返る」と答えた者の中のたった7パーセント!全体で見ると、0.07×0.15×100=0.85[%]となり、「ゲームの影響で死生観が麻痺している」のは全体の0.85パーセントに過ぎないのです。
 ついでにこの統計も疑ってみましょう。「死んだ人が生き返る」と答えた者への、その「理由」を尋ねる項目があるのですが、

 ①テレビや映画等で生き返るところを見たことがあるから
 ②生き返る話を聞いたことがあるから(テレビ等を見て、本を読んで、人の話を聞いて)
 ③ゲームでリセットできるから
 ④その他

 これでは誘導尋問ですよ。このアンケートの設計者は、何が何でも「メディアの悪影響」を捻出したいようですね。しかし、こんな杜撰な調査では、少なくとも統計学的な知識を持った社会学者には相手にされないでしょうね。近く、これを題材にして、久々の「統計学の常識やってTRY」をやろうと思います。
 ゲームに関しては、「コンピュータエンターテインメントレーティング機構(CERO)」という良心的な団体がありますので、こちらのウェブサイトもチェックしてみる必要があるでしょう。

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2005年2月11日 (金)

私の体験的成人式論

 1・平成17年1月10日
 「仙台魂をー!」
 「誓います!」
 円陣を組み、平成17年仙台市成人式実行委員会長の伊藤洋介氏の掛け声の後に、伊藤氏と私を含む実行委員11名が一斉に声をあげた。その後、私が
 「出陣!!」
 と勢いよくドアを開け、一人で勝手に暴走している私をよそに実行委員全員が平成17年仙台市成人式会場の舞台袖に移動した。
 平成17年1月10日。仙台市の成人式は、太白区の仙台市体育館で行われた。この日のために、実行委員11名は、8月25日の結成から、試行錯誤を重ねてがんばってきた。そしてこの日、その真価が試されるのである。
 そのときは、あまりいい予感がしているわけではなかった。というのも、成人式開始前に、実行委員の佐藤彰芳氏が、男子トイレで人が倒れていると報告していた。その人は酒に酔ったらしく、おそらく急性アルコール中毒であろうが、このような事件が起こっているのを聞いて、多くの委員が不安に陥っていた(ちなみにこのことについては、仙台の全ての新聞が、委細漏らさず報じていた。なんだかなあ)。
 舞台袖には実行委員と、仙台市長の藤井黎氏、仙台市議会議長の鈴木繁雄氏、副議長の斎藤建雄氏および石川建治氏、仙台市教育長の吉田睦男氏、そしてこれまでお世話になった仙台市教育委員会生涯学習課の皆様が集まった。舞台に上がる前、「誓いの言葉」を述べる実行委員の高橋望美氏と一本締めを担当する蘆立恵氏、そして伊藤氏が励ましあっていた。まもなく本番である。緊張するのも致し方ないことだ。私だって緊張していた。そして他の委員も同様であった。
 本番が始まった。次々と実行委員や市長、教育長などが壇上に登っていく。
 「国賊成人式報道これ討ってよし!」
 と小さく掛け声を上げて、私は壇上に登った。私は高校2年のときから成人式報道の研究をしており、受験勉強中も成人式報道に関する論文を書き上げて投稿していたこともある。今回私が成人式実行委員会に志願したのも、2001年以降「荒れる成人式」一辺倒になってしまった俗流成人式報道ではわからない、成人式の産みの苦しみが知りたい、ということだった。だから、成人式報道に対抗する、ということは私が実行委員会に在籍しているときの一貫しているテーマであった。この掛け声を上げていたとき、ほかの委員の一部が少し笑っていた。
 壇上に上る人たちの着席が終わった。午後2時。成人式の始まりである。会場は少々ざわついていたが、5000人という出席人数を考えれば、これほどざわついていても不思議ではない。ひとまず、出だしは快調だった。
 照明が落ち、司会の黒田典子氏が自己紹介をすると、会場から一部の不逞の輩が
 「典子ー!」
 と黒田氏に対して叫び声を上げていた。私は少し腹が立ち
 「あの莫迦、どうにかならねえか?」
 と小声で愚痴をこぼしたところ、
 「まあまあ」
 と、隣にいた実行委員の榎森早紀氏に諌められた。
 国歌斉唱、藤井市長の式辞が終わったあと、いよいよ伊藤氏の挨拶である。黒田氏の紹介の後、伊藤氏がいよいよ演壇の後ろに立った。伊藤氏の挨拶が始まる。それを後ろから見ていた私は、会場が荘厳な雰囲気に包まれたように感じた。そして伊藤氏も、いつもの明るいイメージとは違い、実行委員長としての貫禄を大いに湛えていた。伊藤氏の声がスピーカーを通じて響く。会場の多くの人が、伊藤氏の挨拶を真剣に聞いていた。
 来賓や主催者の紹介が終わったあと、高橋氏による「誓いの言葉」朗読である。高橋氏は、この「誓いの言葉」を、手話を交えて朗読しようとしていたのである。高橋氏のその話を聞いたある委員が、だったら全員でやってしまおう、と提案してしまい、最初の「誓いの言葉」という台詞と、最後の「誓います」という台詞だけは、新成人であるほかの実行委員7人(伊藤氏、蘆立氏、私、榎森氏、小野寺洋美氏、佐藤氏、三浦文子氏)も手話入りでやってしまおう、という走りになった。
 無論、舞台の向かって右端のほうには、プロの手話師による手話通訳がある。しかし、高橋氏の手話は、見た目こそ拙いものの、その存在感はプロを超えるようなリアリティを持っていたように思えた。この場面が、平成17年仙台市成人式前半の最大の盛り上げ場となったことは言うまでもない。背後に立っている私を含む7名も、拙く、さらにタイミングもばらばらであったが、規定された2つの台詞を手話入りで行い、委員としての5ヶ月弱に及ぶ蓄積と、新成人としての新たな旅立ちを自らの手に込めた。会場の多くが、この「誓いの言葉」に圧倒されていたような気がした。この様子を、新成人でない委員3名(井上澄子氏、丸山愛子氏、渡邊範之氏)はどう見ていたのだろうか。
 この「誓いの言葉」の後、一本締めを行った。壇上にいる全ての人が、蘆立氏を中心に据えて横一列に並んだ。蘆立氏のかけ声は、今までの練習やリハーサルでは見られなかった、この上なく気持ちいいものであった。そのかけ声とともに、実行委員や市長、市議会議長、そして会場の全員が一本締めを行った。実行委員は、一本締めの後は拍手してはいけない、といわれていたが、感動ゆえだろう、一部の委員が拍手をしていた。私は拍手をしていなかったけれども、心の中では拍手をしたい衝動に駆られていた。
 実行委員全員が、満面の笑みを浮かべて実行委員控え室に戻ってきた。その表情はまさに、成人式が成功したことを如実に物語っていた。ある委員が「終わったね!」と言っていたので、私はそれに呼応するように「まだ終わりではない!」と声をあげた。確かに前半戦は終わったが、いよいよ後半戦が待ち受けているのである。
 「仙台魂 ~20歳の感謝祭~」というテーマを掲げた後半戦。この後半戦は、イヴェント形式で、実行委員が企画してきたさまざまなブースを新成人が自由に回る、という企画である。無論式典が終わったら帰ってもいいのだが、出席したからにはここでも参加したい、という人も多かった。我々は、ただ楽しいだけのフェスティバルにしたくなかった。仙台市民としての誇りと、自分の責任を自覚できるようなものにしたかった。そのために、8月からがんばってきたのではないか。確かに前半戦は成功した。しかし後半戦で失敗してどうする。
 消防団が出初の演技を行っている最中、委員はそれぞれの持ち場についた。持ち場には、公募で集まった19歳と20歳の運営スタッフがついていた。私の持ち場を担当する運営スタッフは全て19歳であった。私はスタッフに最後の打ち合わせと指示を行い、後半戦の開始に備えた。
 いよいよ後半戦が始まった。ブースを覆っていた紅白の垂れ幕が外されると、私のブースには多くの人が集まってきた。他のブースもそうだったであろう。私のブースに関しても、私と同じブースに常駐している井上氏、そして運営スタッフがフル稼働で整理を行なってもまだ足りないほどであった。
 「エンジンがかかってきたぞ!」
 と私が叫んだときには、もう時刻は3時を回っていた。
 途中、高校時代の友達はもとより、なんと小学校時代の友達と久方ぶりの再会を喜ぶこともできた。実行委員としてブースに常駐しているときの最大の歓びであった。そんな歓びの中、終了時刻の4時に近づくに連れて会場から人数は徐々に減っていき、ついに午後4時を回った。大団円で終了を迎えることができたのである。感無量であった。我々の成人式は成功したのだ。
 スタッフ控え室で、実行委員とボランティアスタッフ、そして教育委員会の関係者が集まったが、勝利の美酒に酔いしれる暇もなく、即座に解散となった。しかし、実行委員の多くが簡単には帰らず、しばらくの間語りあった。その表情は、さすがに疲れきっていたとはいえ、実に生き生きとしたものであった。他の何物でも味わえぬ感動が、そこにはあったと記憶する。私が控え室を去ったのは午後4時40分ごろであろうか、そのときはすでに半分ほどの委員が立ち去っていたけれども、私は一人で地下鉄の富沢駅に向かった。途中、歩きながら、声優の野川さくら氏の「Joyeux Noel ~聖なる夜の贈りもの~」や、声優の千葉紗子氏と南里侑香氏のユニット「tiaraway」の「想い出good night」が口をついて出てきた。歌っているうちに、涙がこぼれてきた。感極まって泣いてしまったのは、おそらく我が短い生涯の中でもこれが初めてかもしれない。
 ちなみに、富沢駅へ向かうときに道に迷ってしまい、結局私よりも後に出た伊藤氏と高橋氏と一緒に地下鉄に乗ることになったのは内緒だ。

 2・「仙台魂」の成り立ち
 平成17年1月10日、午後2時以降の私の動きをまとめると、ざっとこんな感じになる。時間にすると2時間と30分くらいであるが、さまざまな想いに彩られた極めて密度の高い時間であった。
 このような成人式になるまで、仙台市成人式実行委員及び仙台市教育委員会生涯学習課はさまざまな試行錯誤を経てきた。その始まりとなったのは、前述の通り平成16年8月25日である。
 仙台市成人式実行委員会は、自らが実行委員に志願した18歳以上の仙台市民によって構成されている。20人近く集まった前回の実行委員会とは違い、今回の実行委員は11人、うち男4名女7名、また新成人は8名(男3名、女5名)であった。私はこの委員会の存在を大学1年のときから知っていたので、自分が新成人になる暁には絶対実行委員会に入ってやる、というつもりだった。また、成人式報道の研究のためでもある。もちろんこんな私は11名の中でも特殊で、他の人たちは、例えば仙台市のホームページで実行委員会募集のお知らせを見て、面白そうだから、という理由で入ってくる人も多い。実行委員で新成人は8名、私と、蘆立恵、伊藤洋介、榎森早紀、小野寺洋美、佐藤彰芳、高橋望美、三浦文子の各氏である。
 実行委員の丸山愛子氏は、前回の成人式に20歳のボランティアスタッフとして参加しており、それが面白かったから今回は実行委員として参加したい、と語った。渡邊範之氏は、平成17年に大学を卒業して仙台を離れるので、その思い出作りのために参加したい、と自己紹介の際に発言した。成人式の案内のパンフレットで《超オーバーエイジ》と書いている井上澄子氏は、障害を持った自らの子どもが20歳になる、という理由で新成人の親として参加していた。実行委員の中で新成人でない人はこの3名だが、この3名にも、そして8名の新成人も、さまざまな想いを抱えて、成人式実行委員会に臨んだ。
 しかし、まったくの初対面、というわけではないが、一部の人以外にとっては初対面の人たちばかりである。ほとんど知り合いのいない中で、成人式をつくっていかなければならないのであるから、おそらく全員が半分期待、半分不安を抱えて実行委員会としてのスタートを切ったに違いない。とりあえず第1回は実行委員会の概要と自己紹介、そして前回の成人式のヴィデオを見て、実行委員が何をすべきか、ということを大まかに掴んだ。
 第1回の課題として、とりあえず成人式の第2部でやりたいものを考えてくる、ということを市教委のほうからかされた。私はとりあえず、下手な鉄砲数撃ちゃ当たる主義でさまざまな企画を手短にまとめてきた。他の人はそれぞれ1人1~2企画程度であったが、伊藤洋介氏だけは、企画を沢山、しかも具体的にまとめて提出してきたのである。これには私は驚いた。私がせいぜい企画書の1行程度で語っていたものを、伊藤氏は企画1枚について企画書を1枚、それも沢山作ってきたのである。活動開始初期からの伊藤氏の活躍もあってか、第3回、伊藤氏は立候補した私と蘆立恵氏を凌駕する支持を得て実行委員長に選ばれた。
 だが、実行委員長及び副委員長(私と蘆立氏)を決めたのはいいのだが、肝心の企画が一向に決まらないまま進行してしまったのである。前回の反省を踏まえて、今回は企画をなるべく速いうちに決めてしまおう、という提案が市教委からあったのだが、それがなかなか決まらず、本来隔週であるはずの実行委員会を毎週開催するという事態に陥ってしまった。
 そんな混迷の中で、まずコンセプトから決めてしまおう、という意見が出た。なるほど、確かに方向性を1つ決めてしまえば、後はそれに乗って企画を立てればやりやすい。早速コンセプトを決めようとしたのだが、やはり意見百出であった。しかし、大方で共通していたのが、「20歳になって、周りの人などに対する感謝をする」という意見である。また、私は当初から、成人式は仙台市の主催であることを前面に押し出すべきだ、と主張し、他の人たちも「仙台」ということを前面に押し出す、という意見を持っていた。
 蘆立氏だったと思うが、誰かの口から「仙台魂 ~20歳の感謝祭~」という意見が飛び出した。実行委員は、即座にそのコンセプトに絶大な賛意を示し、これがコンセプトとなった。仙台、感謝。当初からあったこの2つが見事に融合した、素晴らしい言葉であり、ここには、我々の成人式にかける想いも存分に詰まっている。
 かくして「仙台魂」は動き出したのである。

 3・企画を立てる
 さて、一つの方向性が決まったのはいいが、次にやるべきことは企画を具体的な形にすることだった。
 無論、この企画を形作るためには、第1回で課題として出され、第2回以降で発案された数々の企画案が基盤となっている。
 私が最初から主張してきたのは2つある。まずは簡易式の健康診断。前回の成人式の第2部で、体力測定というものがあったが、これではだめだ、もっと包括的なものにしなければならないと思い、アルコールパッチテストなどを含めた簡易式の健康診断にすべきだ、と提案した。これは割と受けがよく、特にアルコールパッチテストに関しては多くの人が絶対やりたい、と賛意を示してくれた。
 もう一つは社会制度に関するパネルの展示。要するに20歳になるとさまざまな権利と義務が課せられるのだから、それを成人式の場でパネル展示すべき、という主張である。ところがこれに関しては反発が大きかった。すなわち、成人式の場に選挙だとか年金だとかを張り出して何の意味があるのか、と。このような主張に対して、私は自らの意見を曲げなかった。しかし、今になって考えてみれば、現在の制度に関する批判的なものの見方や、特に選挙に関しては「投票率至上主義」の謗りを受けかねない我が態度は恥ずべきものであったように思える。パネル展示に関しては、もう1つ、仙台で実施されている祭りを採り上げて、それにいかに市民が関わっているかを紹介すべき、という丸山氏の意見があり、社会制度の関する企画展示はこちらと統合する走りとなった。
 さまざまな企画が提出され、それが成人式の場にとってふさわしいものであるか、ということを、何回も何回も企画して、最終的に当日に至るのだが、企画を決定する段階で、もう一つの大きな壁も存在した。
 それは実現可能性である。
 当初は、例えばアフガニスタンの学校に募金を送るとか、あるいは新成人がステージに立って決意を表明してもらうとか、それこそ夢にあふれた企画が飛び出していた。しかし、これらの企画に関しては実現可能性という罠が大きく横たわっていたのである。例えばアフガニスタンに募金を送る場合は、まずどこに送るか、ということを、具体的な施設名(学校や病院など)まで明らかにした上で送らなければならないのである。実行委員長の伊藤氏が「ペシャワール会」(アフガニスタンで医療活動を行なっている団体)に問い合わせたところ、そのような答えが返ってきたというのである。
 ステージに上る類の企画については、平成13年にその絡みで騒動が起こった、という。実は、私が成人式報道研究に目覚める前、この騒動があったことをテレビで見ていた。平成13年ということで、マスコミが成人式批判なる莫迦騒ぎに熱中していた、という環境の下での出来事であったから、私に植え付けた印象も相当に強烈であったのだろう。市教委の方からこのヴィデオを見るか、と問いかけてきたので、私は苦笑いしながら、夢に出そうだといって遠回しに断ったのだが、結局見てしまった。
 ヴィデオを見て仰天した。私が予想していたよりも格段に平穏に収まっているではないか。これではっきりした。私の見たニュース映像は、自体がひどかった少しの時間だけを切り取って、大々的に報じたものであったのである。これでマスコミの成人式に対する態度が少し垣間見える気がして、少し悲しい気持ちになった。

 4・広がる可能性
 しかし、企画立案の段階では、何も実現可能性という足枷の下で可能性が狭まっていくことばかりではなかった。逆に、実現可能性が、成人式の企画を大きく飛翔させた、という一面もある。
 例えば、企画の中に、仙台七夕を意識して、自らの決意を短冊に書いて笹につるす、という企画があった。そこで使われている短冊は、仙台の伝統工芸品の1つである「柳生和紙」である。企画をまとめる段階で、ある委員が「柳生和紙」という和紙がある、という発言をした。この和紙に関しては、現在ではそれを作る職人が極めて少ないため、この和紙の存在を広めることができないものか、ということで使用が提唱されたのだが、この発案は実行委員の間では極めて評判がよく、即座に採用された。
 また、募金を送る企画に関しては、アフガニスタンは無理だとしても、仙台に最近できた「県立こども病院」という、我が国では数少ない小児科専門の大病院があるのだが、そこに贈るのかどうか、という発案があった。これは、実現可能性の視点から見ても、十分に実現可能なものであった。新成人の心を込めた募金などが「こども病院」に贈られるのを考えると、それだけでも気持ちが昂ってくる。
 私の発案である健康診断に関しても、ある委員がストレスチェッカーという機械の存在を教えてくれて、それを使うには機械のレンタル費と、常駐する機械のメーカーの職員の人件費がかかるのだが、その費用も予算を圧迫するようなものではなかったので、導入される運びとなった。結果的にこの企画は、素足にならなければならないので女子はあまり来なかったが、それでも評判としては上々であった。
 偶然が思わぬ結果をもたらすこともある。平成16年11月2日、インターネット関連企業の「楽天」が仙台に新球団「東北楽天ゴールデンイーグルス」を設立した。成人式の中には、小野寺氏のデザインによる成人式の案内パンフレットの表紙絵や、仙台のサッカーチーム「ベガルタ仙台」の団旗などをバックに写真を撮る、という企画があったのだが、その中に東北楽天のフラッグを入れてみてはどうか、という発案があった。そのためには成人式までに東北楽天のフラッグのデザインが決定する必要があったのだが、決定が間に合い、成人式の会場に東北楽天のフラッグが掲示された。
 かくして我々の成人式の企画はその可能性を次々と膨らまして、実行委員は当日までさまざまな準備をする運びとなった。
 今一度、平成17年成人式第2部の企画と、担当者を紹介しよう。(◎は当日のブース責任者)

 ・写真撮影
 担当:◎高橋望美、丸山愛子
 無地背景やデザイン背景、及びベガルタや東北楽天の団旗をバックに写真を撮ることができる。
 ・250/1000000人のメッセージ
 担当:◎井上澄子、小野寺洋美
 市民の皆様からいただいた写真によるメッセージの掲示をする。写真は実行委員が撮影した。
 ・健康&体力ステージ
 担当:◎後藤和智、三浦文子、井上澄子、小野寺洋美
 肺活量、握力、背筋力の体力測定、及びアルコールパッチテストとストレス測定による簡易式の健康診断。臓器提供意思表示カードなどの配布も行なう。
 ・祭りだわっしょい!
 担当:◎丸山愛子、榎森早紀、後藤和智、佐藤彰芳
 仙台で行なわれている主要な祭り4つ(青葉まつり、仙台七夕、ストリートジャズフェスティバル、光のページェント)を紹介。
 ・「仙台魂」を刻もう!
 担当:◎蘆立恵、佐藤彰芳、三浦文子、高橋望美
 短冊やオリジナルのうちわに自らの決意を書く。
 ・感謝の気持ちを手紙にのせて
 担当:◎渡邊範之、榎森早紀
 渡邊氏のデザインによる葉書きで、家族や友達などに感謝の気持ちを伝える。ここで回収箱に提出すれば送料は無料である。
 ・チャリティ・ホスピタル
 担当:◎伊藤洋介、渡邊範之
 県立こども病院に入院している子供達への千羽鶴と励ましのメッセージを書く。これをこども病院に送ったことに関しては、河北新報が報道した。
 ・ワンコインでベストショット!
 担当:◎小野寺洋美、伊藤洋介、蘆立恵
 古いタイプの「プリント倶楽部」で記念写真を撮る。ここで回収されたお金は県立こども病院に寄付される。

 5・当日の反省、そして大団円
 平成17年仙台市成人式は、冒頭でも述べたとおり、無事に結末を迎えることができた。しかし、それでも問題が山積している。例えば写真撮影のブースにおいて、前回はポラロイドカメラを設置していたのだが、今回は設置していない。それが原因で、成人式の会場で写真を撮りたい、という人たちから苦情を受ける羽目になった。また、あまりにも人数が多く、伊藤氏や私は自分が責任者として担当するブース以外のところをまわることができなかった、という反省もあった。
 今回の反省点を活かしつつ、いかに来年につなげていくか。「仙台魂」なる秀逸なコンセプトが生まれた今回の熱気を、いかに来年に伝えていくか。おそらく市教委の人も何人かは来年も成人式を担当するだろうし、今回実行委員になった人たちの中にも来年何らかの形で成人式に再び参加する人もいるかもしれない。
 成人式は、沢山の人の想いによって支えられている。今回の成人式に関わったのは何も市教委と実行委員会だけではなく、公募によって集まった、19歳と20歳の人だけで構成されるヴォランティアスタッフや、同じくヴォランティアで働く小学校や中学校の先生、そして会場設営に関わる業者の人々や、司会を務めた黒田典子氏、仙台市長・藤井黎氏他仙台市の主要なポストの方々、そして参加者、あるいは参加しなかった新成人。成人式にはそれぞれの物語があり、受け止める想いもそれぞれによって違う。
 平成17年1月28日、最後の成人式実行委員会と打ち上げが行なわれた。そこで各々の委員が自らの感想と反省を語り、これで平成17年仙台市成人式は完全に幕を下ろした。広瀬通近くのしゃぶしゃぶ屋で行なわれた打ち上げでは、実行委員会が大いに食べて、飲んで、実行委員としての最後のひと時を語りあった。ここでサプライズがあった。市教委の人が、実行委員それぞれに「修了証書」を手渡してくれたのである。市教委の人々が我々実行委員に与えてくれた評価は、全て満点であった。
 思えば、ここに、「仙台魂」のほかにも「実行委員魂」があったのかもしれない。
 ここで酌み交わした酒は、勝利の美酒の味がした。しかしこの「勝利」は何を意味するものであったか。それは自らの不安や、そのほか自らの足を引っ張るもの、成人式の意図を後退させるものに対する勝利であったのかもしれない。
 2次会はカラオケだった。ここで私はtiarawayの「Your Shade」を歌ったのだが、またしてもここで感極まって泣いてしまった。この曲は、実行委員の中では私以外誰も知らなかったのだが、みんな知らないにもかかわらず大いに盛り上がってくれた。他の委員も、ヒット曲を中心に制限時間の許す限り歌い続けた。
 そして最後は、「仙台魂」ということもあってか、仙台出身のシンガーソングライター、さとう宗幸氏の「青葉城恋歌」をみんなで歌った。残念ながらこの曲に関しては、私は「歌詞を見てやっとサビの部分だけ歌える」というお寒い状況なのだが、実行委員それぞれが自らの心に仙台魂と実行委員魂を刻み付けた。
 平成17年仙台市成人式実行委員会は幕を閉じた。実行委員のうち、渡邊氏は就職のため仙台を離れる。打ち上げの席の中で、伊藤氏は「とりあえずYMCAに戻る」と発言し(「通販生活」2005年1月号のインタヴューにもあるとおり、伊藤氏は「仙台YMCA」で活動している)、私も「とりあえず勉強と執筆だな」といった。現在、実行委員として苦楽を共にした人たちが何をしているのかはわからない。しかし、実行委員として苦楽を共にした経験は、全ての実行委員の中にある。
 2次会で私が歌った、tiarawayの「Your Shade」に、《『偶然』に動き出した全てを/『運命』と呼べる日まで…》というフレーズがある。平成16年8月25日、実行委員として集まった11人の組み合わせは確かに《偶然》であった。しかし、成人式という1つの形となったとき、この組み合わせは《運命》と呼べるくらいのものに変わっていた。この11人(毎回委員会に出席していた井上氏の子供も含めると12人になるが)の中で、誰かが欠けていてもこのような成人式にはならなかったのだから…。

 6・成人式をいかに肯定すべきか
 最後に、成人式のあり方について、私見を述べさせていただきたい。
 2001年1月28日付朝日新聞や、「通販生活」2005年1月号の特集が示すとおり、現在の成人式の走りは、昭和21年、埼玉県蕨市で敗戦直後に絶望感に打ちひしがれていた若年を励ますために行なわれたこととなっている。無論、昭和31年に経済白書に「もはや戦後ではない」と書かれて49年が経過した現在において、そのような状況があるはずもない。
 しかし、《雄化・雌化した今の若者たちを、一定の時間ある場所に押し込めておいて、「暴れるな」「行儀よくしろ」といっても、「動物生理学的」に不可能な話》(「通販生活」2005年1月号)などと極めて根拠薄弱な暴言を吐く大谷昭宏(わけあって敬称略)の如きはそこらに放っておくとして(そもそも《動物生理学的》って何なのさ)、早稲田大学教授・吉村作治氏の《20歳になったというだけの若者を励ますために、わざわざ税金を使って成人式をする必要があるのでしょうか》(「通販生活」2005年1月号)の如き批判には、大いに疑問が湧く。
 私は、平成17年仙台市成人式のパンフレットにおいて、《これからの時代にとって、「市民」あるいは「国民」としての自分の生き方を見直す、という意味での成人式があってもいいのではないか。そう思いこの委員会に臨んだ所存である。ここに参加することで自分を見つめ直す人が少しでもいれば幸いである》と書いた。また、自ら勝手にスポークスマンを買って出て、2004年12月24日付河北新報に投稿した文章でも、《私は「市民」または「国民」としての自分を見直すための成人式、という在り方重視している》と書いた(ちなみに、私の書いた文章の一部が、藤井黎氏の式辞で引用された。私の名前は出されなかったが)。
 私が成人式のあり方として一番賛成しているのは、町田市教育委員会社会教育課長補佐・松本司氏の所論である。松本氏は、2002年2月15日付朝日新聞「私の視点ウイークエンド」欄で、以下のように書いている。曰く、

 成人式は社会に出て行く若者に大人の自覚を促し、励ますためのひとつの手段にすぎなかったはずである。しかし、多くの自治体では、手段と目的が転倒し、ともかくも成人式を平穏に終わらせることに汲々としてきたのではないか。(松本司[2002])

 まったきその通り、というほかない。「荒れる成人式」への不安がマスコミによって煽られ、多くの自治体が、成人式の存在意義を疑わずにただひたすら成功させることのみに終始してきた。これでは「成人式」によって成人式が殺されている、といっても過言ではないではないか。
 政治や社会に対して参加する方法は何も選挙だけではないはずである。本来なら社会参加に関すれば多くの手段が約束されているはずである。だから、成人式は、そんな多様な社会参加へのあり方を提示する場として用意されるべきである、と私は考えている。それと同時に、自らの20年を振り返る節目としての成人式というものも重視すべきであり(「通販生活」2005年1月号のインタヴューで、伊藤洋介氏が述べていることであるが)、この2つを両立しない限り、現在の時代における成人式は成立し得ない、と私は考えている。平成17年仙台市成人式において、この目的が達成しえたと思われるのが、丸山愛子氏が提案した仙台の祭りに関するブースと、渡邊範之氏が提案した自分の親や友達に感謝の手紙を送る、という企画である。特に仙台市では、季節ごとに行なわれる祭りに関して、市民が主体的になって運営し、定禅寺ストリートジャズフェスティバルにおいては、一般市民が入ることのできる実行委員会を設けている(菊地昭典[2004])。
 また、成人式においてイヴェント的な企画をやることと、成人式の「本来の」目的を果たすことは、決して相反することではない。成人式におけるイヴェント的な企画は、例えば2002年1月14日付産経新聞に掲載されていた罵詈雑言的な社説における文章の如く、《後半は自由気ままにふるまう時間を与える代わりに、前半の式典だけは静かにしてほしい"お願い"である》と認識されることが多いが、新成人に多様な社会参加を提示したり、あるいは自分を見直すための機会を与えるというのであれば、むしろイヴェントを行なうべきなのである。
 これらのイヴェントの企画、そして式典には、より多く、しかし問題意識の高い市民の知恵をたくさん導入すべきであり、NGOやNPO、市民団体の参加も視野に入れなければならない。この意味において、成人式に関して市民による実行委員会を設置するにはそれ相応の意義があるように思える。平成17年仙台市成人式において、障害の持った方にも多く参加してもらえるように配慮したところもあるが、これは障害を持った子どもを持つ井上澄子氏の活躍がなければ実現し得なかったことである。
 ついでにマスコミに関しても言っておく。平成13年以降の成人式報道が果たしてきた役割は皆無に等しいのだが、もしあるとすれば、それは成人式に関する議論の論点をずらし続け、成人式のあり方を疑わずに無意味な成人式批判に奔走する連中を大量に生み出したことだろうか。若年層に対して社会参加の多様な選択肢を提示する、という責務を怠って、そのくせ若年批判しかつむげぬマスコミは、まさにその存在を疑われても仕方がない。マスコミの腐敗が生じるところに言論の堕落が生じる。そのことを何よりも証明してくれたのが、成人式報道なのである。

 平成17年仙台市成人式実行委員会のその他の役割
 バス・地下鉄記念乗車カード、及びパンフレット表紙デザイン:小野寺洋美
 「誓いの言葉」作成:高橋望美
 1本締めの言葉作成:蘆立恵
 ミヤギテレビ・仙台市の広報番組「みちのく亭仙台寄席」に出演(2004年1月8日放送):伊藤洋介、後藤和智、丸山愛子
 ミヤギテレビ「OH!バンデス」に出演(2004年1月7日放送):伊藤洋介、後藤和智、高橋望美、丸山愛子、三浦文子
 「OH!バンデス」の出演を交渉:井上澄子

 参考文献・資料
 菊地昭典[2004]
 菊地昭典『ヒトを呼ぶ市民の祭運営術』(学陽書房・2004年11月)
 松本司[2002]
 松本司「若者の社会デビュー事業に」=2002年2月15日付朝日新聞

 斎藤環『ひきこもり文化論』(紀伊國屋書房・2003年12月)
 篠原一『市民の政治学』(岩波新書・2004年1月)
 歪、鵠『「非国民」手帖』(情報センター出版局・2004年4月)

 Special Thanks(敬称略)
 伊藤洋介、蘆立恵、井上澄子、榎森早紀、小野寺洋美、佐藤彰芳、高橋望美、丸山愛子、三浦文子、渡邊範之(以上、平成17年仙台市成人式実行委員会)、内海雅彦、伊藤仁、冨田直美、鈴木一彦、齋藤浩一(以上、仙台市教育委員会)、藤井黎(仙台市長)、河北新報整理部、ミヤギテレビ、そして私の両親

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2005年2月 2日 (水)

トラックバック雑記文・05年02月02日

 *☆.Rina Diary.☆*:焼き焼き!(佐藤利奈氏:声優)
 佐藤氏と、声優仲間の木村まどか氏、山川琴美氏によるお好み焼きパーティーに関する文章です。
 私事になりますが、私は、先月(05年1月)28日、平成17年仙台市成人式実行委員会の打ち上げに行ってきました。実を言うとこの打ち上げは私にとって、生まれてはじめて仲間と酒を酌み交わした体験でありました。私は酒に慣れていないので赤ワインをワイングラス3杯ほど飲んだのですが、ほかの人はもう出来上がっているのではないかと思うぐらいはしゃいでいました。実行委員の榎森早紀氏や小野寺洋美氏、市教委の齋藤浩一氏や鈴木一彦氏などと語り合い、罵り合い(笑)、楽しい時間はあっという間に過ぎていました。こういうのもいいものです。またやりたいですね。
 この打ち上げには2次会もありました。2次会は打ち上げをやった焼肉屋のすぐ上にあるカラオケ屋に行ってカラオケをしました。私は、声優の千葉紗子氏と南里侑香氏のユニット「tiaraway」の「Your Shade」を熱唱してしまいました。まあ、この曲は私以外知らなかったのですが。でも、皆様知らないなりに盛り上がってくれました。
 成人式実行委員会の皆様、また会えるといいですね。

 だいちゃんぜよ:去りゆくドンたち(橋本大二郎氏:高知県知事)
 そういえば橋本大二郎氏は、もともとはNHKの記者でした。このたび、海老沢勝二氏が辞任したわけですけれども、橋本氏が現役の記者のとき、橋本氏の目に海老沢氏がどう映っていたか、そして今の海老沢氏は、という思い出話をつづったエッセイです。海老沢氏以外にも、堤義明氏や鈴木宗男氏にも触れられていますが、これらの人はさまざまな分野でドンとして君臨しつつ、そして散っていった人たちでした。橋本氏の

 面識のある方々が表舞台から姿を消すことに、いちまつのさみしさを感じます。

 という言葉には、橋本氏の想いが詰まっているように思えます。

 週刊!木村剛:[木村剛のコラム]並大抵の覚悟では日本は再建されない(木村剛氏:エコノミスト)
 MIYADAI.com:戦略なき対米協調で足元を見られる日本──三層の知恵で巻き直せ(宮台真司氏:社会学者)
 国家戦略を語ることは、まず徹底したリアリズムと、歴史的な深み、そしてできるだけ感情的にならずに、説得的になるようにすることが求められていると思います。そこらの自称「右翼」「保守」の人たちが、感情に任せて教条主義的に同じような台詞を発しているような駄文は「国家論」たりえるのでしょうか。また、自称「左翼」「リベラル」の人たちは、「国家」について語ること自体がナショナリズムだといっています。嗤うべしですよ。彼らの振りかざす「空想的平和主義」も、十分に国家戦略的なことを語っているのですから(でも「国家論」とは言えないなあ)。
 いずれ中国も台頭するでしょうし、中国を除くアジア諸国も中国に対抗すべく日本に同盟を求めているくらいですから、政治にしろ経済にしろアジア戦略の軸となるのはまず中国、そして北朝鮮なのかもしれません。米国に対する戦略を考えるにしても、対米追従を批判するならばそれに関する対案、それも感情的な対米追従論よりも説得的な対案を提案するべきだと思います。そのためにも、まず考えること。できるだけ他人の主張の受け売りを避けるようにしなければならないと思います。
 国内問題にしても、たかが「今時の若者」の「問題行動」に右往左往して、そこから「国家意識の喪失」だとか「偏狭なナショナリズムに踊らされる若者の激増」なんて罵倒してる場合じゃないのよ。ここで明らかにしておきますけれども、たとえば教育基本法の改正論や、宗教教育の是非に関して、熱心な賛成派と熱心な反対派の「青少年観」は驚くほど接近しているのですね。賛成派の論理は「「今時の若者」は国家意識や宗教観を喪失しているから、「問題行動」を起こす。これを阻止するためには国家意識や宗教観を涵養しなければならない」、反対派の論理は「「今時の若者」に国家意識や宗教観を涵養させる教育をすると、「問題行動」が激化し、偏狭なナショナリズムにつながる」。似てるでしょ。少なくとも「今時の若者」に関する偏った見方、という点においては。こんな「内戦」に反対する論理は、「今時の若者」という虚構それ自体を批判する問い方にしなければならないと思います。

 ン・ジュンマ(呉準磨)の備忘録:ローレンス・レッシグ「CODE」を読もうと思う(まだ読んでなかったのか!?)
 面白そうな団体のリンクがはってありました。今後の動向が注目されます。
 新政策機構「チームニッポン」
 代表は長野県知事の田中康夫氏だそうです。

 弁護士山口貴士大いに語る:ネット有害情報を阻止 都が青少年条例改正へ(弁護士:山口貴士氏)
 りゅうちゃんの日記:日本版ミーガン法をすぐには賛成できない理由
 先日(04年1月21日)のトラックバック雑記文において、私はメーガン法の制定に反対の立場を示しました。理由は、この事件は警察の初動が早かったか、あるいは犯罪者の更生システムが充実していれば十分に防げたから、と思っているからです。
 メーガン法を求める人も、メーガン法に反対しつつポルノメディア規制を求める人も、国家あるいは社会が強い態度で臨まなければ凶悪犯罪は防げない、というハードランディング的な考え方で共通しています。ならば、凶悪犯罪対策のソフトランディングとは何なのか、といえば、私は更生システムの充実化、そして社会政策の充実化だと思います。凶悪犯罪者が逮捕されて、その生い立ちを執拗に求めるのは、確かに必要かもしれませんが、たいていは枝葉末節をつくようなものでしかないのです。しかも、その「物語」構築において求められる「物語」が、今回の奈良女子児童誘拐殺人事件の如く「ロリコン」「フィギュア萌え族」(蛇足だが、小林薫容疑者が「オタク」だったという証拠、少なくとも秋葉原に出入りしていたという証拠はまったくない!)という、「あいつは俺たちとは違うんだ」というシナリオ、そうでなければ究極の呪文「心の闇」に傾きがちになるのですから、このように構築された「物語」が信用に足るものではない、ということは想像がつくでしょう。
 凶悪な性犯罪を防ぐための「第3の道」はソフトランディング的な主張になるべきでしょう。そのために、まず、更生システムの見直し(その文脈で厳罰化が議論されるのであればそれもかまわない)、警察の初動が早くなるような警察機構改革を私は求めます。
 そういえば、奈良女児誘拐殺人事件における、マスコミのオタクバッシングまとめサイトが、私の知らない間にずいぶん増えています。やはりオタクバッシングの中心となったのは大谷昭宏氏なのですね。
 しかし大谷氏の問題発言が見られるのは、何もオタクバッシングだけではありません。たとえば、最近公開した「成人式論は信用できるか・01」で、「通販生活」2005年1月号の成人式特集における大谷氏の発言を採り上げたのですが、ひどすぎます。そもそもこのような大谷氏の「若者論」における「歪み」に気づいたのが、「日本の論点2004」(文藝春秋)の「データファイル」で、「ネット心中」について採り上げられた部分において、大谷氏の主張が「強硬派」の主張として紹介されていましたが、その主張の骨子は「自殺系サイトを法規制しろ」というものでした。
 あれ?大谷氏は、黒田清(作家・故人)、本田靖春(作家・故人)両氏につながる、読売新聞OBのリベラル系ジャーナリストとして有名な人ではありませんでしたっけ?そんな大谷氏が、なんで「若者論」のときは国家に擦り寄って強硬派的な主張をするんだ?私のなぞは深まるばかりです。先日、「大谷昭宏は信用できるか」という文章を入稿しました。公開は今月末になると思います。

 蛇足。

 拙者、ギター侍じゃ…
 俺は大谷昭宏。メーガン法には反対だ。なぜなら…

 だけどみなさん、よく考えてみてくれませんか。性犯罪者の所在公表ということであれば、いまの日本でまず、まっ先にやらなければならないことは、この1月1日に社会復帰した神戸・須磨の連続児童殺傷事件の少年Aの住所氏名の公開ではないのか。
 いまの日本でそんなことをしたらどうなるか。近くに住む子どもを持つ親たちはパニックになるはずだ。近隣の幼稚園や保育園は間違いなく閉鎖になってしまう。
 あのオウム真理教(アーレフに改称)事件のときを思い出してほしい。直接、事件と関係ない幹部の娘が小学校に入学手続きをするというだけで地元はどんな騒ぎになったか。オウム信者らしい若者がマンションを借りたというだけで、地元の人は不寝番まで置いたではないか。
 いま少年Aの所在が公表されたら、おそらくこの男性の転入届けを受け付けた市長はリコールに発展するはずである。そんな日本の土壌、風土を考えたとき、やれ、メーガン法だなんて訴えるのがいかに空論かわかるというものである。
(日刊スポーツ・大阪エリア版「大谷昭宏フラッシュアップ」平成17年1月18日掲載)

 …って、言うじゃな~い…。

 でもアンタ、《そんな日本の土壌、風土》を乱用・悪用してオタクへの敵愾心を煽りまくりましたから!残念!!
 「青少年社会環境対策基本法は青少年を救わずメディアを殺す」斬り!!

 上のリンク先は、ジャーナリスト・坂本衛氏のサイトですから…。切腹!!!

 お知らせ。オンライン書店「bk1」で私の新作書評が公開されています。
 山室信一『キメラ 満洲国の肖像 増補版』(中公新書・2004年7月)
 title:建国のロマンと挫折
 宮台真司、宮崎哲弥『エイリアンズ』(インフォバーン・2004年11月)
 title:「よそ者」であるということ

 このサイトの右側の表示しております「参考サイト」に「奈良女児誘拐殺人事件における、マスコミのオタクバッシングまとめサイト」を追加しました。

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2005年2月 1日 (火)

成人式論は信用できるか・01

 評価
 90点台:時流に阿らず、正論を貫いた大論説
 80点台:多くの人が肝に銘じるべき名論説
 70点台:論説としての責任を十分に果たした好論説
 60点台:害よりも益のほうが大きい論説
 50点台:益・害が同じくらいの論説
 40点台:益よりも害のほうが大きい論説
 30点台:ほとんど害ばかりの論説モドキ
 20点台:益まったくなしの論説モドキ
 10点台:論説としての最低限の資格すら大いに疑われるべき論説モドキ
 1桁:論説モドキと呼ぶことさえいかがなものか
 0点:もはや論外

 特集:「通販生活」2005年1月号

 吉村作治(早稲田大学教授)
 評価:53点
 成人式批判の立場だが、「税金の無駄遣い」という理由で批判するのは腰が甘すぎやしないか。ただ、新成人が予算まで出してやっている成人式の事例を紹介しているのは興味深いので、この点では高く評価するべきだろう。

 鈴木藤一郎(伊東市長)
 評価:70点
 ほとんどが「成人式で暴行を起こした不逞の輩を告訴すべきか」というところに裂かれていたのが残念だった。成人式の改革という実務に取り組む立場であれば、その点をもっと強調すべきだったと思う。ここでは伊東市の取り組みが一部紹介されていたのだが、少なくとも求心力は十分だと思うので、ぜひ文章でまとまった意見を聞きたいものだ。

 大谷昭宏(ジャーナリスト)
 評価:0点
 出ました!トンデモ若者論!まず「今の若者は「雄化」「雌化」している」というけれども、そんな印象をどこで受けたのさ。自分の思い込みでしかないんじゃないの?おまけに成人式で一部の不逞の輩が暴れるのを阻止するのは「動物生理学的」に無理なんだってさ。じゃあ、何で我が国における青少年の強姦犯罪の検挙件数が1965年あたりの約20分の1になってるのさ(人口比で見ても約15分の1だ)。何で少子化が進んでるのさ。大谷氏よ、応えてみろよ!
 来賓たちも「選挙で票がほしいだけ」なんだと。とにかくこの大谷氏のインタヴューは、そこらの俗流成人式批判の欠片を集めたものに過ぎないのよ。あんた、ほんとにジャーナリスト?
 ちなみにこの大谷氏、昨年暮れに我が国を震撼させた奈良女子児童誘拐殺人事件に関しても「フィギュア萌え族」なるヘンな概念を振りまいて世のオタクたちにいわれのないバッシングを浴びせかけた(この概念の問題点については、「週刊SPA!」(扶桑社)2005年2月1日号の特集記事を読んでいただきたい)。ねえ、あんた、ホントーにジャーナリストなの?デマゴーグだろ!正体見せろよ!!!

 伊藤洋介(平成17年仙台市成人式実行委員会実行委員長)
 評価:77点
 我々の主張をしっかりと要約していた。仙台市の成人式にかける思いが伝わってくる、好感が持てるインタヴューであった。成人式に実務でかかわる立場であり、かつ成人式に新成人として参加する立場として、このインタヴューは貴重であろう。ただ、求心力に欠ける印象を受けた。

 トニー・ラズロ(文筆家)
 評価:90点
 成人式のあり方は住民投票によって決めよ、という立場。このインタヴューはリベラルからの成人式への疑問としてもっとも上質、かつ貴重である。最後の「成人式を「公式的」なものから「公共的」なものにせよ」という主張には感銘を受けた。

 佐藤藍子(女優)
 評価:50点
 成人式廃止は時期尚早、という立場で、とりあえず両論併記だが、当たり障りのない一般論に終始している印象を受けた。

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