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2005年2月24日 (木)

またも正高信男の事実誤認と歪曲 ~正高信男という堕落ふたたび~

 曲学阿世の徒、京都大学霊長類研究所教授・正高信男氏にとって、「社会的ひきこもり」、さらには不登校は現代に突如として生じた現象であり、なおかつ暴力性、犯罪性の高いものでないと気が済まないのだろう。私がそれを痛感したのが、平成17年1月10日付読売新聞「学びの時評」欄に掲載された正高氏の文章「教育の本質は「攻撃性の転換」」である。この文章もまた、論理の飛躍といわれなき中傷に満ちていた。
 まず、冒頭で《とりわけ思春期以降の子どもが、親に向って攻撃衝動を向ける事件が、昨年の下半期に頻発した》(正高信男[2005]、以下同じ)というのであれば、その統計データぐらい見せてほしい。また、《こうした現象が顕著化する一因としては、若年層で社会的自立ができないまま成人するものの割合が急増していることも無視できないだろう》と正高氏は書いているのだが、《思春期以降の子どもが、親に向って攻撃衝動を向ける事件》と《若年層で社会的自立ができないまま成人するものの割合》に関して有効な相関関係が見出せるかどうか、という検討もすべきであろう。無論、統計学の常識として、相関関係は因果関係にあらず、というのがあるが、少なくともそのような議論を抜きにして安易に《それ(筆者注:社会的自立ができない人)がいつまでたってもできない人》の暴力性なるものについて語らないでいただきたい。
 この後、正高氏は、「攻撃性」と「社会性」について語る。しかし、正高氏の議論において欠如しているのが、子供が初めて「家族」以外の世界(いわば「家の外」)に踏み出すのは、幼稚園や保育園、遅くとも小学校であり、そのことについてまったく考慮していないのは解せない。もう少し言えば、子供が何らかの習い事をやっていたとしても、それはそれでそこに別の世界が登場するはずである。正高氏は、近代において教育というシステムが、社会へ自立を促すために段階的に子供を育てるというものであることを知っているのだろうか。子供は就職(ないしアルバイト)していきなり社会に出るわけではないのである。
 正高氏は、最後近くになって《ところが昨今、いつまでたっても家の外が、未知でおそれに満ちた世界のままでいる者が、その数を増しつつあるらしい》と言ってしまう。しかし、《その数を増しつつあるらしい》というのであれば、その定義と、統計的なデータを示すべきであり、《らしい》のままでは何も進まない、ということを正高氏は知るべきであろう。あなたも学者であれば、まず実証的なデータを示すべきであろうが。
 この文章において、正高氏は暗に「ひきこもり」や不登校、ないし若年無業者の犯罪率が高く、それらが急増している昨今において青少年による凶悪犯罪が急増するのは当たり前だ、といいたいらしい。しかし、まず青少年の凶悪犯罪それ自体に関して言うと、昭和40年ごろに比べて激減している。確かに強盗罪に関しては平成9年ごろに急増しているが、その最大の理由は強盗罪の水準が極めて低くなったことであり、全体的に見れば凶悪犯罪は急増しているという事実はない(浜井浩一[2005])。また、精神科医の斎藤環氏によると、「ひきこもり」による親族に対する殺人事件は、「ひきこもり」の中においても極めて少数であり、また、殺人事件を起こしてしまう場合も、さまざまな不安のファクター(当事者や両親の高齢化・衰弱、経済的困窮、周囲の無理解)が重なり、そこに就労のプレッシャーなどの「一押し」が重なることによって起こってしまう、という場合が多いという(斎藤環[2004])。そもそも正高氏は、多くの「ひきこもり」の青少年が、その多さにもかかわらず凶悪犯罪を起こしていない、ということをわかっているのだろうか。
 正高氏のこの議論において置き去りなのは、本当に不登校や「ひきこもり」の暴力性が、そうでない人に比べて暴力性が高いのか、ということである。正高氏は、動物行動学(多分)の理論を用いて、この答えにイエスと答えているが、正高氏の議論はあくまでもアナロジーの域を超えず、実証的なデータを示してこそはじめてそのアナロジーが成立する、というものである。確かに、教育論に動物行動学の視点を導入することは必要かもしれないが、だからといってデータや臨床事例がないと、その有効性は疑われて然るべきだろう。
 正高氏にとって、青少年による凶悪な犯罪は動物行動学的に潤色したお手軽なエッセイのネタに過ぎない、ということが、本書でも明らかになっている。正高氏は自らの専門性に陶酔して、信頼性の高い実証的なデータにあたろうとしない。こんな正高氏にコメントをいただいて、青少年問題を「わかった」気になっている「善良な」人たちに、私は危機感を禁じえない。
 さらにこの連載における正高氏のスタイルは「憂国して」終わり、というものである。特に「ひきこもり」や不登校といった、過分に社会問題や青少年問題とつながっている問題に関しては、その対応策についても、余裕があればでいいが語るべきだろう。しかし、「ひきこもり」や不登校に関して正高氏の述べることは、この文章のように、同じことばかりである。同じことばかり言って、その対応策はまったく語らない、語ったとしても曖昧な一般論に終始している。そう、一般論を「善良な」人たちに都合の言いように潤色し、実際に「ひきこもり」に苦しんでいる人たちは自らとは「本質的に」(「動物行動学的」に?)違う者(サル!)として阻害するのが、最近の正高氏の理論に他ならない。
 最近、玄田有史『仕事の中の曖昧な不安』(中央公論新社)、宮本みち子『若者が《社会的弱者》に転落する』(洋泉社新書)みたいに、青少年問題に関して、社会学的な視点から真剣に取り組んだ本が話題を呼んでおり、「ひきこもり」や不登校や無業者を過度に犯罪者予備軍と見做すような風潮は時代遅れになりつつあるように見える。しかし、それでも正高氏のような「若者論」が幅を利かし、歴史的な文脈を無視した(現在見られるような青少年問題に関しては、それらと強く関連しているような事例が、現在名古屋大学名誉教授の笠原嘉氏によって昭和50年ごろから指摘されてきた。詳しくは笠原嘉[1977][2002]を参照されたし)安易な「憂国」言説が受け入れられるような土壌は、確かに根強くある。このような状況を打破するには、「得体の知れない」=「共同体の「善」を犯す」という、「若者論」の元になっている思考を解体するしかないのかもしれないが、そのために要する時間は長く険しいかもしれない。しかし、そのために深く考えることは、決して無益ではないのである。
 それが、正高氏、及びその信奉者に理解できるのだろうか?かえって正高氏の議論は、「ひきこもり」の人たちをさらに囲い込むような者になる可能性のほうが極めて高いのではないか、と思えてならない。
 蛇足だが、正高氏は本文の最後で、奈良の女子児童誘拐殺人事件について触れて、その《背景にもこれと共通するものがあると思えてならない》と書いているけれども、この事件と、正高氏がここまで取り上げてきた事件は明らかに異質であり、もし共通する背景があるとするならば別に検証すべきだろう。あまりにも唐突過ぎる。

 引用・参考文献
 笠原嘉[1977]
 笠原嘉『青年期』中公新書、1977年2月
 笠原嘉[2002]
 笠原嘉『アパシー・シンドローム』岩波現代文庫、2002年12月
 斎藤環[2004]
 斎藤環「「ひきこもり」がもたらす構造的悲劇」=「中央公論」2004年12月号、中央公論新社
 浜井浩一[2005]
 浜井浩一「「治安悪化」と刑事政策の転換」=「世界」2005年3月号、岩波書店
 正高信男[2005]
 正高信男「教育の本質は「攻撃性の転換」=2005年1月10日付読売新聞

 斎藤環『ひきこもり文化論』紀伊國屋書店、2003年12月
 広田照幸『教育に何ができないか』春秋社、2003年2月
 広田照幸『教育』岩波書店、2004年5月
 パオロ・マッツァリーノ『反社会学講座』イースト・プレス、2004年5月

 斎藤環「ひきこもり対策は「予防」から「対応」へ」=「中央公論」2003年10月号、中央公論新社
 諸永裕司「大学生の自殺 急増の今なぜ」=「AERA」2001年1月29日号、朝日新聞社

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