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2005年2月16日 (水)

トラックバック雑記文・05年02月16日

 週刊!木村剛:[ゴーログ]国民総背番号制にあなたは賛成ですか?(木村剛氏:エコノミスト)
 署名で書く記者の「ニュース日記」:500円偽造の不思議(伊藤圭一氏:共同通信記者)
 昨日の雑記文の続きです。
 昨日の雑記で私が国民総背番号制について《利点が大きいというのであれば、私は導入してもいい》しかし《不安要素が多すぎます》と表記したところ、次のようなコメントを頂きました。曰く、

すでに現状でも「不安要素が多すぎ」だとは思いませんか。
偽造通貨を一度に大量に正規の通貨と入れ替えるための手段として、郵便局の口座が使われているわけです。
すでに多くの振り込め詐欺をふくめて一連の事件の核心に銀行や郵便局の架空口座があることは疑いようがない。
大量の架空口座の開設がなぜ可能かといえば、偽造免許証が堂々と作られ売られているからだということは、大学中退の私にも分かる話です。ここまでくれば、もう確かな個人認証が必要でしょう。

 昨日の雑記文において、確かに私は個人認証の問題について少々見落とした点があったわけで、それは反省せざるを得ないと思います。
 もちろん、私とて現在のシステムにも不安要素が多すぎることは分かっております。しかし、ここで肝心なのは、いかに架空口座を作らせないか、というのがポイントだと思うのです。そのためには、個人認証の問題だけでなく、架空口座や偽造証明書の作成に関する警察の捜査の徹底化とか、銀行・郵便局の努力も必要になるでしょう。問題をひとり個人認証の問題にするのもどうか、と思います。このコメントは確かに鋭い指摘だとは思うのですが、少々論理の飛躍がある気もしてなりません。
 とはいっても、免許証や保険証の偽造を防ぐ、というのであれば私はむしろ賛成であります。
 ちなみに私が国民総背番号制について最も関心のあることは、今の政府に長期的なヴィジョンがあるかどうか、ということと、今の我が国の情報システムは国民総背番号制を導入するに足りうる技術力を持っているか、ということです。

 「週刊!木村剛」がらみでもう一つ。
 週刊!木村剛:モノ書きの老婆心:「匿名性」を護るために[ゴーログ]再び、モノ書きの老婆心:「匿名性」を護るために(木村剛氏:エコノミスト)
 「匿名性」に関する私なりの見解を示しておきます。
 私は高校時代の前半のあたりは、「無名」(たまに「広瀬川」を使うこともあった)というハンドルネームを使ってさまざまな掲示板に書き込むことが多かったのですが、現在はどこであっても「後藤和智」という本名を使用しています。それは、これは自分の発信する言論である、ということを常に意識するためです(自意識の発露、といわれればそうかもしれませんが)。自分が発信することは、すなわちその言論に関して自分で責任を負わなければならないわけで、もし批判された場合はその内容を真摯に受け止め、反論があれば相手の言論を認めた上で反論することが重要と考えています。
 ブログというものは、ネット掲示板とは違い、第一に自分や相手の「顔」が見えるということ、第二に自分の言論は自分で責任を負わなければならないこと、という点で大きく違っていると思います。木村氏も、「モノ書きの老婆心:「匿名性」を護るために」のほうで、

 つまり、「ブログ」は、皆さんが個人で公に向かって発行している新聞であり雑誌なのであって、その言論の責任は皆さんが個人で背負っているということなのです。これは、ひろゆき氏によって、巧みにしかも無料で護ってもらっている「2ちゃんねる」とは全く違う世界だということを認識すべきです。「PurpleMoon」さんも「先日、わたしのところへ、とある企業さんから『この記事を修正しないと裁判も辞さない』という、脅しとも取れる内容の警告メールが届きました。もちろん、すっごい嫌な気分ですが(笑)、こういうものがまさに、わたしに与えられた『表現の自由』に伴う『責任』なのでしょう」という経験をしていらっしゃるそうですが、それはすべてのブロガーにとっての現実なのです。

 と表記しておられます。少なくともブログの世界では、たとえ執筆者名(芸名、筆名、ハンドルネーム含む)を明らかにしていなくても「匿名性」というのはありえません。例えば「後藤和智事務所」であれば、たとえ「後藤和智」というのが偽名であっても(本名です。あしからず)「後藤和智事務所」というブログの名前が「名前」として流通することになります。ですから、ブログの世界に生きる人々(当然、私も含む)は、(ネット掲示板では存在する)「匿名性」という存在し得ない「聖域」に逃げることをしてはならない。これが書き手の倫理だと思うのです。これは、たとえば2chとブログの違いだけでなく、amazon.co.jpとbk1の違いにも見られます。amazonでは匿名の執筆者は「カスタマー」と表記されますが、bk1は半角4文字以上の名前を記入しないといけない(半角4文字未満、例えば全角1文字の人は、その文字のあとにスペースを付けて補う)。bk1には全ての評者に関してその評者の書いた書評が検索できるシステムを採用していますし、規制もamazonに比べて多いので、書評もamazonとは本質的に違うものになるかもしれません。
 ちなみに本ブログでは基本的にトラックバックやコメントの削除はしておりませんが、万が一「荒らし」と断定できるようなものであれば、ブログにお知らせした上で削除します。

 ン・ジュンマ(呉準磨)の備忘録:「小さな政府主義」は既に自民党の運動方針から漏れている
 小泉ワンフレーズ政治にも翳りが見え始め、自民党も政策をめぐって分裂しているようです。しかし、政権党である自民党が長期的なヴィジョンを示せず、場当たり的でただ選挙民の関心を引きそうな政策ばかり提示していたのでは、国民も背を向きたくなります。投票率の低下を徒に嘆いている人は、その点を無視しまくっていますね。マスコミも、投票率低下を嘆く政治家(政治屋?)の片棒ばかり担いでいないで、もっと権力を疑ってほしい。スキャンダリズムや若者バッシングばかりやっている場合ではないのです。

 弁護士山口貴士大いに語る:人権擁護法案に異議あり!(山口貴士氏:弁護士)
 ここで記されている法務省の体たらくには、開いた口が塞がりません。曰く、

・「昭和58年10月6・7日開催の全国次長検事会同における次長検事指示」により、刑事事件、再審事件において証拠の開示を頑なに拒み、
・人権侵害の可能性の高い取調過程の「可視化」に頑なに抵抗し、
・受刑者の処遇不満の申し立てにもほとんど対応せず、
・国民監視機関である公安調査庁を傘下にもち、
・国連が難民と認定したクルド人を強制送還(本年1月18日)し、
・獄中者の処遇、死刑囚の処遇について国連の人権委員会から度重なる勧告を受けながらもこれを無視

 凄まじい。やはり我が国には法務省とは独立した人権擁護機関が必要なのではないでしょうか。
 人権擁護法案に関する問題点は、「人権」概念の徒な拡大解釈が我が国において起こっていることにもあると思うのです。基本的に「人権」とは、国家が国民を縛ろうとすることに対する対抗概念なのであって、憲法はその人権を保障しなければならないものです(だから、憲法が権利ばかり主張して義務を明記しないから青少年問題が起こるのだ、というのは憲法の何たるかを理解していない人の言うことです)。かつて「左翼」的な人が「親が子供に危害を与えることは人権侵害だ」みたいなことをいっていた時期がありましたが、これははっきり言って「私人間効力」であって人権侵害などではまったくありません。あと、「有害メディア」規制を訴える一部のフェミニスト集団の代表が、「作品の中の人物にも人権がある」みたいなことを分かったような顔で言っていました(詳しくは「奈良女児誘拐殺人事件における、マスコミのオタクバッシングまとめサイト」の05年1月10日の4つ目の項参照)。日弁連の声明にもあるとおり、もし作中の人物が実在の人物をモデルにしているのであれば、それは名誉毀損などのほかの罪で問われるべきであって、「作中人物の人権侵害」などという変な概念を持ち出すべきではない。最も必要なのは実在する児童の人権擁護のはずです。「左翼」的な人々がこのような体たらくだから、低俗には低俗で対抗したがる一部の「右翼」が、「人権」概念を極度に貶めた議論ばかりするのです。

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