統計学の常識、やってTRY!第3回
さて、若者報道の非常識ぶりから統計学の常識を探るシリーズ「統計学の常識やってTRY」の第3回であるが、今回採り上げるものは、もうこれに類似したものを最近になってしょっちゅう目にしているので、本当にいい加減にしてほしい、という気持ちでこれを書いている。なので、もしかしたら過去2回のシリーズよりも文章が極端にゆるくなってしまうかもしれないことをご了承願いたい。
時は平成17年2月23日。遅く起きた私が読んだ読売新聞の社会面に、ある記事があった。筆者はこの記事を読んで、ああまたこの手の記事か、本当にいい加減にしてほしいよな、と思ったのだが、読んでみて、案の定「この手の記事」だった。今回の「TRYマスコミ」はこの読売新聞の記事である。
記事の見出しは、「「イラクってどこ?」44%」である。記事によると、《日本の大学生の約44%が世界地図上でイラクの位置を正しく示せず、アメリカについても約3%がどこにあるのか分からない》なのだそうだ。記事は以下のように続く。曰く、
調査は昨年12月から今年2月にかけて、25大学の学生約3800人と、9高校の生徒約1000人を対象に実施。世界地図上の30か国に番号を付け、その中から、アメリカやイラク、北朝鮮など10か国の場所を選ばせた。
その結果、最も正答率が低かったのはウクライナで、大学生が54・8%、高校生が33%。イラク戦争や自衛隊派遣でニュースに登場する機会が多いイラクは、大学生56・5%、高校生54・1%にとどまり、五輪に沸いたギリシャもそれぞれ76・5%と59・4%だった。
最も正答率が高かったアメリカでも大学生の約3%、高校生の約7%が間違え、中にはイラクの場所としてイギリスやインドを選んだり、アメリカの位置として中国やブラジルを示した“珍答”もあった。
まず、サンプリングの面からはクリアーしていると見做してもいいが、問題はどのような大学及び高校からサンプリングしたか、あるいはどういう方法で持ってサンプリングしたか、ということがすっぽり抜け落ちている、というところが気になる。記事には《25大学の学生約3800人と、9高校の生徒約1000人を対象に実施》と書かれているが、場所に関しては言及されていないのが気にかかるところだ。しかし、このような問いかけは枝葉末節をつくものでしかないだろう。
この記事において中心となっている論点は、イラクの位置に関して大学生の約56.5%と高校生の約54.1%が正しく答えられなかった、ということだろう。しかし私が気になるのは、文章の中に、イラクに関して《イラク戦争や自衛隊派遣でニュースに登場する機会が多い》とあることである。ここで一つの問いかけをしてみたい。
常日頃ニュースに接している層と、そうでない層の間で、正答率に有意差があったのだろうか。《ニュースに登場する機会が多い》と表記しているのであれば、これくらいの考察はあって然るべきであろうが。もしここで有意差がないとしたら、マスコミはイラクの位置を、度重なるイラク戦争報道にもかかわらず正確に伝えきれていない、ということになる。
どうやらこの記事を書いた読売新聞の記者にとってすれば、半数近い高校生と大学生がイラクの位置を知らなかったことが問題であるようだ。しかし、それは本当に問題なのだろうか。つまり、「どこにあるのか」が正確に答えられなかったからといっても、「何が起こっているのか(いたのか)」あるいは「いかなる歴史を持っているか」ということのほうが重要に思われる。もちろん、大まかな文化圏や地域圏のどこに属しているか、ということが最重要だけれども、このようにただ「場所」だけ問いかけるような設問は、それこそ地理教育の本質を覆い隠すものでしかないように思うのだが。無論、米国や北朝鮮、欧州諸国に関して言えば正確な場所を知っていなければならないけれども、全ての国の場所を正確に知っていなければならない、というのは酷ではないか。「場所」だけ知っていて、そこで起こっていることに関して何も知らなかったら、それこそ仏作って魂入れず、である。
そのようなことを少しも考えもせずに、ただ「数字」だけに右往左往するマスコミと学会は、滑稽を通り越してもはや不可解の域に入っている。もちろん《イラクの場所としてイギリスやインドを選んだり、アメリカの位置として中国やブラジルを示した“珍答”もあった》というのは問題外だけれども、このような事例を、さも鬼の首でもとったかのごとく嘲笑的に取り上げることに意味はあるのか?間違えたものの中の多くは、例えばイラクに関していえば中東のイスラーム文化圏の中にあることを知りながら、間違えてイランを指してしまった、というのが大半ではないか、と思うのだが。誤答の内容に踏み込みもせずに、安易な「今時の若者」批判をやらかすマスコミの学力は一体どうなっているのだろうか。
「この手の記事」だから、話は当然の如く学習カリキュラムへの批判に向う。曰く、
同学会よると、高校の「地理歴史」は1989年の学習指導要領改訂以降、「世界史」を含めた2科目が必修となり、残り1科目に「地理」を選択する生徒は半数にとどまっている。先進諸国などには地理を必修としているところも多く、同学会で地理教育専門委員会委員長を務める滝沢由美子・帝京大教授(地理学)は「最近、都道府県の場所や県庁所在地も知らない学生が増えていると話題になっていたが、実際に調べて驚いた。地理と歴史をバランス良く学ばせることが大切だ」と話している。
だったら滝沢氏に問いたい。まず、地理履修者と非履修者の間に有意差があったのだろうか。ちなみに私は高校時代に地理は選択しなかった。しかし、スリランカ以外の全ての場所を答えることができたが何か?というのも、私は中学時代に地図帳を読むのが好きだったこともあり、これも影響しているのかもしれない。滝沢氏は、中学校の学習カリキュラムに関して何も言っていないのはどういうわけか。
また、「この手の調査」に共通してあるのが、時系列、及び異なる世代間における差異を考慮せずに、「大人たちはイラクなどの場所を正確に答えられるはずだ」という前提でもって調査していることである。しかし、何割の大人がイラクの正確な位置がわかるだろうか。滝沢氏は調査しようとしなかったのだろうか。
社会人や、定年などで無業者になったものに関して意識調査や学力調査の類がしにくいことには理由がある。社会人に関して言うと、その人たちは生産労働に属しており、その時間を奪うと生産性が減少する。また会社という、学校よりも統制がとりにくい組織に属しているので、調査がしにくい、ということで集団式の調査はできない。また、郵送式で調査しても、サンプルされた人は地図帳を調べるなどの余裕ができるので不公平が生じる。訪問式の場合は、無業者でもない限り訪問してもたいていいるのは専業主婦(主夫)であろうから、サンプリングが正確でなくなる。サンプリングの正確さで言えば、街頭インタヴューなど論外である。もっとも有効な方法は、サンプルされる人にとってもっとも都合のつく時間を聞いて、その時間に来てもらう、ということであろうが、この方法を用いると時間と予算(謝礼が主になるだろうが)がかさむ。
だから必要なのは時系列での比較なのだ。この記事では、《初の「世界認識調査」》とあるけれども、第1回の時点では何も言えない。また、海外の事例も報告されないというのはどういうことか。いやしくも《先進諸国などには地理を必修としているところも多く》というのであれば、海外でも同様の調査を行なうべきであるのに、そのようなことを行なった痕跡もない。「この手の調査」にとって、「大人」と「外国」はタブーなのである。
それにしても、このようなお手軽な「学力調査」や「意識調査」が至るところで行われ、その上っ面に過ぎぬ「数字」だけを採り上げて騒ぎ立てるマスコミは、学習の意義と、社会調査の意義を問いかけようという気概が本当にあるのだろうか。
まず、学力を口にしたいのであれば、環境(学校のレヴェルや、専攻している科目の種類、ないし生活環境など)の差異を考慮するべきであり、調査する側はそのような変数を加えた結果を公表するべきである。また、できれば多くの比較対称(異なる世代、及び海外における事例など)を用意すべきだし、このような調査は、なるべくなら長い時間をかけて行なうべきである。そうしないと、この記事のように、安易な文部科学省批判しか生み出されないことになる。家庭・地域も含めた学習の意義や、教師としてやるべきことなど一切不問だし、調査で除外されている大人たちやマスコミ人(!)の知識も不問にされる。
このような調査が存在する意義とは何か。このような調査を報じる記事の目的を簡単に言えば、「眉間にしわを寄せること」だ。要するに、学力が低下しており、凶悪な犯罪をいとも簡単に起こし、「問題行動」を起こしまくる「今時の若者」に対するフラストレーションを高めるだけにすぎないのである。教育の意義や本質、あるいは調査への疑念などちっとも考えていないのだろう。また、学会も、「「今時の若者」は何々がわからない!」という記事ばかりが受けるという現象をおもんばかってか、自らの地位を少しでも上げたいが為にこのような調査ばかりやるのだろう。一見カレントに見える問題の尻ばかり追いかけて、学者としての倫理は置き去りである。ここに存在するのは、「今時の若者」をダシにした利権である。
そうか利権か。日本新聞協会の調査によると、我が国で若年層が新聞を読む時間は激減しているそうだ。そのような事実があると、新聞が中高年の読者の視線ばかり気にして「若者論」に精を出すのも、そんな傾向に二流以下の学者がただ乗りするのもやむをえないか。
主要参考文献・資料
潮木守一『世界の大学危機』中公新書、2004年9月
谷岡一郎『「社会調査」のウソ』文春新書、2000年5月
パオロ・マッツァリーノ『反社会学講座』イースト・プレス、2004年5月
ダレル・ハフ、高木秀玄:訳『統計でウソをつく法』講談社ブルーバックス、1968年7月
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