統計学の常識、やってTRY!第2回
若者報道の非常識ぶりから統計学の常識を探る「統計学の常識やってTRY」の第2回である。今回私が採り上げる「社会調査」は、長崎県教育委員会による「児童生徒の「生と死」のイメージに関する意識調査」である(調査対象は長崎県内の小学4年1196人、小学6年1241人、中学2年1174人)。若者報道ではないが、この「調査」の結果がさまざまなところで引き合いに出されているので、今回はこの「調査」と、その取り巻きを検証することにしよう。
長崎県教委がこのような調査に取り組んだのは、昨年6月頭に起こった児童殺傷事件、及び一昨年7月に怒った幼児殺害事件の影響があることはほとんど間違いないだろう。その意気やよし。しかし、この調査でよく引き合いに出されている「死んだ人が生き返ると思いますか」という質問では、統計的な粗が多数見つかるのである。
この調査によると、死んだ人が「生き返る」と回答した人が、全体で15.4パーセント、小学4年で14.7パーセント(182名)、小学6年で13.1パーセント(146名)、中学2年で18.2パーセント(175名)いたというのである。また、都市部で16パーセント、その他の本土部で15.7パーセント、離島で11.6パーセントと、都市部になるにつれて高くなっているというのである。
しかし、この後に設定されている、なぜ「死んだ人が生き返る」と考えるのか、その理由を答えさせる設問で、大いに疑問が湧く。曰く、
①テレビや映画等で生き返るところを見たことがあるから
②生き返る話を聞いたことがあるから(テレビ等を見て、本を読んで、人の話を聞いて)
③ゲームでリセットできるから
④その他
これを誘導尋問といわずして何というのか。「その他」以外の全ての答えがメディアがらみではないか。この調査を引用する人は、どうしてこの調査の恣意性を疑うことをしないのだろうか。この設問を見る限り、設問の設計者が「今時の小中学生は死生観が麻痺している。それはメディアの悪影響が原因である」という偏った考え方をしているとしか思えない。麻痺しているのは、この設計者の良心であろう。この中から選べ、といわれる長崎県の子供たちに、私は同情を禁じえない。
話を「生き返る」と回答した人の割合に戻そう。「生き返る」と回答した人の割合は15.4パーセントだったことについて、多くの人は「ゲームの悪影響」を引き合いに出した。これらの人たちは、この後の設問への回答をよく見たのであろうか。「死んだ人が生き返る」と考える理由を問うた設問において「ゲームでリセットできるから」(こういう表現も大いに問題があるというが同化)と応えたのが、全体でたったの7.2パーセント、小学4年で11パーセント、小学6年で3.4パーセント、中学2年で6.3パーセントなのである。従って、「死んだ人が生き返る」しかもその理由は「ゲームでリセットできるから」と回答した者の数は、全体で1.1パーセント、小学4年で1.6パーセント、小学6年で0.44パーセント、中学2年で1.1パーセントである。こんなことをちっとも考慮せず、今回の調査結果で、長崎県教委の人は臆面もなくこう書いている。曰く、
ゲームの影響も確認してみたが、「ゲームでリセットできるから」という理由を挙げた児童生徒は比較的少数(7.2%)だった。しかし、たとえ少数であっても、子どもたちを仮想と現実の区別をつかない状況に陥らせるものであり、今日的な課題としてとらえておく必要がある。
いい加減気付いてもらいたい。7.2パーセントというのは、極めて恣意的な質問の誘導によって導き出された結論であると同時に、それは全体の1.5割に過ぎぬ「死んだ人が生き返る」と回答したものの中における割合、いわば「条件付確率」なのであって、実際の確率は全体で1.1パーセントに過ぎないのである。条件付確率(割合)と実際の確率(割合)の区別もつかないで、よく教育委員会をやっていられるものだ。しかも《たとえ少数であっても、子どもたちを仮想と現実の区別をつかない状況に陥らせるものであり》という文章には主語がない(この執筆者の意図から考える限り「ゲーム」であるのは明らかなのだが)、まさに悪文である。しかも論理飛躍ではないか。やはりこの設計者が教育委員会にふさわしいものであるか、疑いたくなってしまう。長崎県教委は、ゲームの悪影響よりも、他のメディアの影響と、自分たちの統計が適切であるかをまず疑ったらどうか。
ちなみに「その他」と答えたものの自由記述欄を見てみよう。この理由は大きく3つに分かれ、《祈れば人は生き返ると思うから》《霊が出てくるから》《肉体はなくなっても心は残っていて、別のものとして生まれ変わると思うから》(以上、小学生)《幽霊が生き返ると思うから》《人の魂は死んでいないと思うから》(以上、中学生)と言った宗教的な、あるいはスピリチュアル(霊的)な理由が多く、それ以外は《医学や科学の進歩によって、死んでも生き返と思うから》(小学生)《医学が発展すれば人は死んでも生き返ると思うから》《人が生き返るというのとは違うと思うが、技術が発達すれば、血液や細胞からクローンできると思うから》(以上、中学生)と言った、医学の進歩を過信したもの、そして《人は死んでも生き返ると信じたいから》《人は死んだら終わりだとすると悲しいから》(以上、小学生)《人は死んでも心の中に生きていると思うから》《亡くなった人に似ている赤ちゃんが生まれてくるから》(以上、中学生)と言った、「生き返る」と言う言葉の範疇に入らないと思われるものに大別される。
おそらく、設問に、例えば「人の心(魂)が残るから」だとか、あるいは「医学が発達すれば蘇生できるから」みたいなものを加えたら、調査結果は大きく変動していただろう。
また、設問の中でも、特に《生き返る話を聞いたことがあるから(テレビ等を見て、本を読んで、人の話を聞いて)》は至極曖昧である。例えば、母親が「私はよいことをすれば人はいつか生まれ変われると思う」と言ったとして、それが原因で子どもが「よいことをすれば人は生き返れる」と考えた場合でも、この回答をするだろう。要するに、回答の余地が大きすぎるのである。さらに《テレビ等を見て》とあるのは、第1番目の回答である《テレビや映画等で生き返るところを見たことがあるから》と重複しないだろうか。心配だ。
長崎市教委によるこの「調査」の考察には、意地でも「今時の子供たちは死生観が希薄である」と言いたい欲望が見え見えである。唯一確実性が高いのは《子どもたちは、自らの経験によるのではなく、周囲からのさまざまな情報の影響を受けて、死を認識していることが明らかになった》(変数に医学の発達による寿命の長期化が除かれているのは大目に見よう)という分析くらいで、それ以外は、この考察の執筆者は強引に「教育的」な提言をしたいのか、と言いたくなる。
はっきり言うが、この調査には、例えば高校生や大学生、そして社会人といった、異なる世代との比較がないのである(調査しづらい、という理由もあるだろうが)。だから、何をもって「今時の子どもたちは死生観が希薄である」と考えることができるのだろうか、という点からもこの調査に疑問を投げかけなければならないのである。そんなことも知らないで、《学校教育においては、飼育や栽培などの体験活動を一層重視するとともに、…子どもたちに命の尊さを語り、「生と死」について共に考えることが求められる》だとか、《今の子どもたちには、命はただ一つ、かけがえのないものであること、一度失われると決して取り戻すことができないことを…教えていかなければならないことを改めて痛感した》などと書き飛ばす。この調査から見る限り、「今時の」子供たちにおける「生と死」に対する考えが希薄である、ということは証明できないのである。
また、「命の尊さ」を教えれば残虐な少年犯罪は阻止できる、というのは、論理のすり替えであると同時に、たいへん甘い考え方である、ということを指摘しなければならないだろう。そもそも超圧倒的大多数の青少年が(たとえ他人のことをいくら憎んでも!)人を殺していないのだから、たとえ100歩ほど譲って「今時の」子供たちの「生と死」に関する考え方が希薄化しているとしても、その多くが実際の行動(殺人事件!)につながっていないのである。そもそも我が国において、青少年による殺人の件数は昭和40年ごろをピークに一貫して減少傾向にあるのだから、「命の尊さ」を教えることが抑止力になりえないこと、少なくとも抑止力になりえるのか疑問が投げかけられるべきであることは明らかであろう。そんなに「命の尊さ」が大事なのであれば、世界中で大量虐殺を行なっているジョージ・W・ブッシュや、自国民が大量に餓死していても恬然としている金正日に言っていただきたい。
また、この調査の設計者は「ゲームをやることによって仮想と現実の区別が曖昧になり、簡単に殺人を犯すようになったり、あるいは人が死んでもリセットして生き返ると考えるようになっている」などと臆面もなく考えているようだ。しかし、調査された青少年の何割がゲームをやったことがあるのだろうか。実際、かなりの割合ではないかと思われるのだが、それでも「人は死んだら生き返る」しかも「リセットできるから」と考えるものが全体の1.1パーセントしかいないというのであれば、むしろ少ないということもできる。しかも、長崎における凶悪殺人事件の少年犯罪者がゲーマーだったという事実はどこにもないのだから、このような仮定には最初から疑問が投げかけられて然るべきだ。我が国の俗流若者論は、青少年と若年には一貫して性悪説で向き合い、それ以外の世代には性善説で向き合う。私が朝日新聞社の雑誌「論座」の2004年2月号に、マスコミは少年犯罪が激増していると嘆いているが統計を見る限りではそんな事実はない、という投書を投稿したところ、同年3月号で、《検挙率の低迷を考慮すればむしろ少年犯罪は数字以上に深刻化しているであろうことは容易に推測できる》などという野暮な批判を受けた。しかし、検挙率低迷の最大の理由は、軽微な犯罪の認知件数が増加したことと、これまで警察が無視してきた、あるいは握りつぶしてきた被害届けを素直に受理するようになったことにあるのであって、凶悪犯罪の検挙率は現在でも90~70パーセント台の高水準を推移している。だから、この批判者が《容易に推測》した結果は明らかに間違いだった、ということである。ゲームに関しても然り。この統計によって明らかになったのは、設計者が「容易に推測」してみせた結論は、あまり有効性を持ち得ない、ということである。
長崎県教育委員会には、調査において恣意的な設問を作らないという真実はただ一つ、かけがえのないものであるということ、一度作って公表してしまうと決して撤回することができないことを本稿でしっかりと教えていかなければならないことを改めて痛感した。
このことを踏まえ、俗流若者報道における「社会調査」の在り方について総点検を行い、その充実を図るとともに、統計学・論理学・社会学が一体となった取組の推進に努めていきたい。
私は、現在、「統計の疑い方」や「有効正答率の計算の仕方」など、読者の理解に応じた「「善良な大人」たちの心に響く統計学教材」を作成中であるが、統計学からの逸脱行為を行なうと、学術的な制裁を受けるだけでなく、現実の子供たちに大変な誤解を与えることや、調査の行い手、及び報じ手に対しても多大な心配や迷惑をかけ、名誉を失うという悲しい思いをさせることを含めて「善良な大人」たちにしっかりと伝えるための参考資料も準備しているところである。これをブログで公開し、計画的かつ効果的な学習機会の設定を図っていきたいと考えている、まる。
(この結語のネタ元はこちら)
参考文献・資料
東京大学教養学部統計学教室・編『基礎統計学Ⅰ 統計学入門』東京大学出版会、1991年7月
小島寛之『文系のための数学教室』講談社現代新書、2004年10月
谷岡一郎『「社会調査」のウソ』文春新書、2000年5月
ダレル・ハフ、高木秀玄:訳『統計でウソをつく方法』講談社ブルーバックス、1968年7月
日垣隆『世間のウソ』新潮新書、2005年1月
パオロ・マッツァリーノ『反社会学講座』イースト・プレス、2004年5月
内藤朝雄「「友だち」の地獄」=「世界」2004年12月号、岩波書店
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コメント
統計学を知らない自称識者、多すぎ!もしくは、全てわかっている上で意識的に悪用してる、、、?それはいくらなんでも考えすぎかなぁ、、、私は帰国子女のような人間で、今日本の大学で勉強しているんですが、日本の学者って一体何を学んでいるんでしょうか。
以前、統計学の授業をとったのですが、教授はなんか自己満足気味に小さい声の早口でだらだらと語るだけでした。日本での教育経験が長い家族や友人に聞いたらそれが「理系」では結構当たり前だとか。以前から英語教育に関して思っていたことですが、日本の教育機関は教育者の教育が全然へたくそだと思う。さらに、理系とか文系とかっていう強引な分け方のせいで、統計のわからない社会学者みたいなのが横行するんじゃないんでしょうか。
あと、うちの大学では普通に正高信男氏が「ケータイでヘタ文字を使うとサルになる」と主張しているビデオを150人の大教室で見せられました。ギャグだと思ったら先生マジでした。私の日本語がダメなのかと思ってネットを探したらこのサイトに当たって、後藤さんの論理は納得がいくのでとりあえず安心しました。正高氏の言うことがすんげえおかしいと思ってるのは私だけじゃない。
アメリカでもマイケルムーア氏の映画にも出てきたコロンバイン高校の例を出すまでも無く、ゲームや音楽などが殺人の動機になるとか主張するバカが大量にいます。私は暴力的なゲームやマンガが大好きで、部屋でエアガンを好き勝手撃てるレイアウトをしてるような人間ですが、そのことを自嘲気味に他人に語ると真剣に警戒されるかもしれない今の社会がすごいイヤです。後藤さんみたいな学者がいっぱいいれば世の中良くなるのに、と思ったら、学者じゃなくて学生じゃあないですか。ゼヒビッグになって本とか書いてください。買うから。
投稿: Ryochan999 | 2005年2月18日 (金) 01時02分
http://psychodoc.eek.jp/diary/?date=20050126#p01
精神科医・風野春樹氏も同様の指摘をしていましたね。
投稿: 茨城県民 | 2005年11月19日 (土) 23時15分
確かにその通りだと思います。それに相当数の人間が何となく思っていた事を、理論立てて記述する事は、無価値なように見えてとても大事な事でしょう。
投稿: ナカノーヤ | 2006年5月17日 (水) 20時04分