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2005年2月28日 (月)

俗流若者論ケースファイル02・小原信

 いつの時代にも、比較的「新しい」メディアは不当な危険視に晒される。我が国においては、例えば終戦直後ではテレビや映画が子供の思考力を滅ぼすといわれ、それが青少年による凶悪犯罪の温床になると言われたし、青少年問題が深刻化するたびに「有害な」出版物の規制論が盛り上がったことは過去に暇がない(橋本健午[2002])。
 さて、現在、不当に危険視されているのはテレビ、ゲーム、携帯電話、インターネットなどといったヴィジュアルなメディアであり、しかしこれらに対する批判も感情論や推測の域を出ず、基本的なデータすらそろっていないのが現状である。典型的なのが、曲学阿世の徒・日本大学教授の森昭雄氏の「ゲーム脳」理論であろうが、森氏以外にも、学者としての良心をかなぐり捨て、もはや書き飛ばしとしか言えないような暴論を振りまいても恬然としている二流以下の学者が続出している、という現状がある。
 「中央公論」2005年3月号に掲載された、青山学院大学教授(情報倫理学専攻)の小原信氏による「幻実に翻弄される若者の時間と空間」はこの典型だろう。私がこの文章を読んで受けた第一印象は、まず、情報化社会の危険性を喧伝しながらも具体的な事例がまったくなく、ただ「今時の若者」の印象だけをこれでもかこれでもかと並べて文章を構成してしまっており、学者の書いた文章とは考えられない。また、論旨がわからない、というよりまったくない。論旨は限りなく拡散しているので、私はこの論文を読んでいるとき、常に虚空をつかまされている気がした。
 小原氏は言う、《溢れながら、何もない――。こういう「明るい絶望」をかかえる若者がふえている。……だれもが自覚する以上にパソコンの支配は決定的である。そうしてこれこそが現代日本の精神状況を読み解く鍵なのだ》(小原信[2005]、以下、特に断りがないなら同様)。しかし、まず、《こういう「明るい絶望」をかかえる若者がふえている》というのであれば、それを実証するデータが必要である。また、《だれもが自覚する以上にパソコンの支配は決定的である。そうしてこれこそが現代日本の精神状況を読み解く鍵なのだ》という断定も、あまりにも短絡的なのだが、小原氏は自信たっぷりに語っている。この自身は何なのだろう。
 小原氏は続けて、車を運転すると性格が変わるという「カーソナリティ」なる現象をもじって、パソコンの前で人柄が変わるというのを「パソコナリティ」と名付ける。しかし、小原氏の発明したこの珍奇な概念は、この文章の中ではあまり重要ではないのである。その理由は、これ以降の文章を読めばわかるので、文章の流れに沿って小原氏の文章を検証していこう。
 小原氏は最初のほうで《対面コミュニケーションから画面コミュニケーションへの以降は、音声やしぐさの認識から文字へ、視聴覚から視覚への転化を意味する》と書くが、これは正しいかもしれない。しかし小原氏はいきなりこうぶち上げるのである。曰く、《相手は画面の文字だけで判断する。見えない相手は画面の「笑」とか「ごめん」マークの絵文字メールで推測する。そこには人と人とのふれあいはない》だと。ふざけているのか。《見えない相手は画面の「笑」とか「ごめん」マークの絵文字メールで推測する》という人が、いくらいるというのだろうか?しかし、小原氏にはそういうことは気にならないのだろう。(ここまで232ページ)
 しかし、小原氏はさらに暴走する。小原氏は幼稚園や小学校の運動会、あるいはピアノの発表会を採り上げて、そこにおけるビデオ片手に奔走する父親・母親に関して、《その日他の人がどんな競技をし、ピアノで何を弾いたか……などは気にかけないまま、子どもは大写しの自分に陶酔する。親もビデオに写るわが子を確認すると足早に会場から立ち去る》などといってしまっている。しかし、自らが競技や演奏に夢中になっているとき、《子どもは大写しの自分に陶酔する》などということがありえるのだろうか?また、《親もビデオに写るわが子を確認すると足早に会場から立ち去る》というのも、小原氏が実際に見たことかどうか、まったくわからないし、そもそもそのような人が実際にいるのかすらわからない。しかし小原氏にとっては、そんなことはどうでもいいのだろう。
 また、小原氏は、昨年のアテネ五輪の報道に関しても触れているが、ここでも小原氏の認識はあまりにも偏狭だ。小原氏は、アテネ五輪の報道にすら情報化社会の「闇」を見出したがるのだが、例えばメディアによるスポーツの「支配」の影響だとか(玉木正之[2004])、あるいは「感動」の大安売りによる「「物語」への一体化」の強制など(石田雄太[2004]、大野晃[2004])ということはまったく眼中にないようだ。しかし、小原氏はそれでいいのだろう。(ここまで233ページ)
 小原氏は言う、《ケータイにはまった若者はサシで話すのが苦手である。「対面で話すと緊張し、疲れたり恥をかく」とひと見知りが増えている》と。しかし、《ひと見知りが増えている》というのであれば、その統計データや臨床事例ぐらい見せてほしい、というのが、実証的な検証を望む側の本音であろう。ところが小原氏は《「おみやげはテーブルの上」とメールすると「カステラ、ごちそうさま」同じフロアから返信が来る》と書くだけである。ここでも、小原氏が実際聞いた事例なのか、それとも実際に存在する事例なのか、捏造なのか、都市伝説なのかわからない(親子間の対話なのか、それともルームシェアしている友達間の対話なのか、あるいは同じ建物における対話なのか、それすらもわからない)。それなのに小原氏は《逆説的であるが、ケータイは会話をなくす方向に作用している》などと断言する。小原氏には自らの「思い込み」の正当性を検証しよう、という気概はないのだろうか。しかし、小原氏はそれでいいのだろう。
 小原氏の文章はさらに混乱を極め、《パソコンやケータイに依存しつづけると“幻実(ヴァーチャル)”が現実(リアル)化し、虚実が区別できなくなる。幻実を誇大化した映像を見ていると、現実と幻実が逆転してくる。しかし反面、幼児も不登校児もこの逆転のせいでノイローゼにならないでいる》などということを言い出す。《幻実を誇大化した映像を見ていると、現実と幻実が逆転してくる》だとか《幼児も不登校児もこの逆転のせいでノイローゼにならないでいる》ということが、本当に起こっているのだろうか?小原氏はそれに答えようとしないが、小原氏はそれでいいのだろう。そもそもこの文章には《幼児》も入っているのだが、幼児期からパソコンや携帯電話を使いこなす幼児?そんな幼児がいたら会ってみたいものだ。しかし、小原氏には見えているのだろう。
 小原氏は、《幻実が現実になると、ミッキーマウスをネズミだとは思わない》などと意味不明なことを言い出す。これには正直言って、数回ほどへそで茶を沸かした。《ミッキーマウスをネズミだとは思わない》というのは、決してそのような人が《幻実》に翻弄されているわけではなく、むしろ《幻実》を受け入れることによって、ミッキーマウスというキャラクターの背後にある「大きな物語」に同一化しているからである。小原氏にとって、このような物言いは、自分の生活圏内だけが「現実」であると言っているのに等しいのだが、小原氏にとってはそれでいいのだろう。同じ段落にある、《アキバ系の若者は現実の女性よりキャラクターグッズに「いやし」を見出すという》などという物言いも然り。このような物言いは、ジャーナリストの大谷昭宏氏の「フィギュア萌え族」概念にも共通する危険性をはらんでいるのだが、現実と戯れることができない奴は病気である、という思考は、かえって現実との関わりを放棄した、ある層に対する弾圧につながりかねないし、多様な感受性を否定するものでもある。現実の女性に残酷な性犯罪をやらかす輩よりも、《幻実》と戯れて萌える人のほうが、社会にとっては無害だろう。《幻実》を最初から「悪」と決め付ける小原氏は、ここでとんでもない勘違いと倒錯をしているのである。もう一つ、このような物言いは、小原氏の想像力が極めて狭いことも意味するのだが、小原氏はそれで構わないのだろう。(ここまで234ページ)
 小原氏は都市計画にも触れる。曰く、《快速や「のぞみ」(筆者注:東海道新幹線のことだろう)の停まらない街や都市は記憶されず、中間に存在するコミュニティへの関心は薄らぐ》だと。私は石巻で家庭教師をやっているとき、よく仙石線の快速に乗ったのだが、そこから見える住宅地や鳴瀬川、そして太平洋の光景は強く印象に残っているが何か。また、新幹線や快速は現代に突如として現れたのではなく、それこそ高度経済成長期のときに推し進められたのがほとんどだろう。確かに鉄道網の高速化は進んでいるけれども、それを推し進めたのは、少なくとも小原氏が問題視している「今時の若者」でないことは明らかなはずなのに。しかし、小原氏には気にならないのだろう。だから、《「パソコナリティ」においては、世界が無地感化し、他者や異文化というまわりが見えなくなる》と書き飛ばす。なるほど、田中角栄は「パソコナリティ」人間だったのだな。小原氏はきっとそう考えているのだろう。
 さて、ここまで小原氏の文章に散々突っ込みを入れてきたが、これでもまだ半分にも達していない。しかし、これ以降の文章にも、同様、あるいはもっとひどい「決めつけ」が横行しているので、いくら疲れようともがんばるほかあるまい。小原氏は「いじめ」に関して《現代のいじめは遅い者いじめである。いじめと虐待は、遅れる者を悪と見る発想から来る。……裏側には速さ=善という哲学がある。返信が来ないメールや、反応の乏しい相手にいらいらする》などというけれども、本当に《現代のいじめは遅い者いじめである》といえるような証拠を一つも提示していないのはどういうわけだ。それに《裏側には速さ=善という哲学がある。返信が来ないメールや、反応の乏しい相手にいらいらする》などと、勝手にメールの「闇」につなげないでいただきたい。「いじめ」に関わっている小中学生、あるいは現代の小中学生全員の間にどれだけメールの利用者があるかということをまず検討すべきだろう。しかし、小原氏にはそんなことはお構いなしなのだろう。(ここまで235ページ)
 小原氏曰く、《空に困らないのにアルバイトをする若者は、得た金で仲間とはりあうためのものを手に入れようとする。……買ったブランドものは製造年がチェックされ、仲間より古いと価値を失う。これが同化のなかの異化である》と。小原氏にとって、若年層が《仲間とはりあう》ことはすなわちブランド品を購入することなのだろうが、これは事実であるかどうかわからない。しかも《買ったブランドものは製造年がチェックされ、仲間より古いと価値を失う。これが同化のなかの異化である》というけれども、小原氏の若年層に対するあまりにも狭隘な考え方がここにも透けて見える。しかし、小原氏はそんなことなど露にも気にかけないのだろう。
 小原氏は《幻実に酔う者は感情が麻痺し知性も麻痺する》さらに《茶の間のテレビでアフガニスタンやイラクの戦争を見るとき、自爆殺人の瞬間も娯楽作品と化す》というけれども、《自爆殺人の瞬間》が実際テレビ画面で報じられるのは極めて少ない。それにアフガニスタンやイラクの戦争を「娯楽化」しているのはほかならぬマスコミであるし、戦争の「娯楽化」に関しては我が国よりも米国のほうがもっとひどい(近藤康太郎[2004])。しかし小原氏にとっては知らなくてもいいのだろう。(ここまで236ページ)
 小原氏は《情報社会に漂流する者は情報の記録に熱中して、撮りだめや録りだめはふやすが、選別しないので、ストックがほとんど役に立たない。そのうえ本も読まないから歴史や比較文化論の知識がない。ともかく身辺のことだけを連絡しあって幸せだと錯覚している。判断の材料は、手ものとの情報だけである》という。こんな残酷な断定を、よくここまでできるものである。まず、《選別しないので、ストックがほとんど役に立たない》ということが本当にあるかどうか検証すべきだろう。また、《情報社会に漂流する者》が《そのうえ本も読まないから歴史や比較文化論の知識がない》かどうか、有効な相関関係、そして因果関係が見出せるかどうかにも配慮すべきであろうに。でも、小原氏はこれでいいのだろう。
 ついに小原氏は本性を示す。曰く、《わたしがわたしとして生きるために、ケータイやメールは希望のある生き方を約束しているのか。若くて明るくても、「絶望する」ものは、生きながら死んだも同然なのだ》。ついに小原氏はここで本音を言ったのだ、《若くて明るくても、「絶望する」者は、生きながら死んだも同然なのだ》と!《生きながら死んだも同然》!ここまでひどい断言は、森昭雄や正高信男ですら言わない。小原氏は、常に希望のみを持たなければ人間は生きているとは言えない、と思っているかもしれないが、現代に「希望」があるのか、ということすら社会学者の命題になっているほどだ(山田昌弘[2004])。小原氏はありもしない希望を持てというのか。それに、「絶望から出発しよう」と盛んに唱える社会学者の宮台真司氏は、要するに人間に「死ね」といっているのだろうか?しかし、小原氏はそれでも平気なのだろう。
 小原氏は《幻実の世界でリセットになれると、現実がリセットできないことを忘れる》とまで言うけれども、情報メディアが全てリセットできると考えるのは大きな間違いである。例えばメールを送信する際、記述や送り先が間違っていたからといってリセットしてメールを自らの元に戻すことが可能だろうか?しかし、小原氏には気にならないのだろう。(ここまで237ページ)
 小原氏曰く、《スクリーン世代は、その世代とは違い、初めからケータイやパソコンを持ち、その世界に遊ぶことしか知らない。いまではケータイやメールの呪縛から離れることができない。……推薦状を書いてもらい入社してすぐに会社を辞めた者は、自分にあわなかったと言うが、自分への忠実しか見ていない。同じ学校の後輩が今後、採用されなくなるとは考えない》と。これもまた根拠不確定な断定である。第一、《推薦状を書いてもらい入社してすぐに会社を辞めた》ということが続発しているのか、ということに関して、小原氏は少しも考察せず、それが《スクリーン世代》の世代的傾向だとすぐに断定してしまう。しかし、小原氏はそれでいいのだろう。
 小原氏の残酷なる断定はまだまだ続く。《パソコンはバージョンアップされ、ソフトもすぐ次の最新版が出るから、いつも何かに追いかけられている。パソコンの技能にどれほど習熟しようと、自分より若い者に技能はすぐ追い抜かれる。友人も恋人も会社もいやならre-setしてしまう》だと。もういい加減にしてくれ。この文章は、もう文章として成立していない。しかし、小原氏は、文章が成立していなくても気にならないのだろう。(ここまで238ページ)
 これで最後のページである。はっきり言って、ここまで書いてきて心が枯れてきた。もう希望も何もなく、絶望のどん底に私はいる。しかし小原氏の狼藉は終わらない。小原氏はここまでやっと解決策らしきものを語っているけれども、例えば《パソコナリティの時代は速さを求め、画面だけに目を向け、画面のむこうにあるものをわかろうとしない。だが、待つことや育てるたのしみがあることを教えることは必要である》だとか《また生には意味があり、死にも意味があることを……語りつぐ課題はいま急を要する》などと、至極曖昧なことばかり。ここまで読んで不安に駆り立てられた読者が求めているのは、そんな抽象的なことではないと思うが。しかし、小原氏はそれで満足なのだろう。
 最後になって、小原氏はロンドンのことを事例として出す。しかし、ロンドンにおける「パソコナリティ」の進展はまったく問題にされずに、「パソコナリティ」化された社会=日本と、「パソコナリティ」化されていない社会=英国(ロンドン)という二元論に集約させようとする。この二元論の正しさは、永久にわからないままだ。しかし、小原氏はそんなことはどうでもいいのだろう。(ここまで239ページ)
 やっと小原氏の悪文…失礼、文章の検証が終わった。もう何もいらない、座る場所さえあればいい。しかし、ここで小原氏の狼藉を総括せねばならない。
 この文章における小原氏の狼藉の根源は、明らかに善悪二元論である。すなわち、《ケータイやメール》に代表されるような《パソコナリティ》に毒された「今時の若者」は、そのパーソナリティーの如何に関わらず病気であり、こいつらを何とかしないと我が国は滅びる、ということである。しかし、最初に言ったとおり、小原氏の文章には具体的な事例、例えば統計データや臨床事例、さらには新聞記事すら引用されていないのであり、小原氏の用いている事例は全て印象論なのである。しかし、印象論のみでものを語ってしまうのは、検証という作業の放棄であり、科学者としてあるまじき態度ではないのか。社会学者とて科学者であり、少なくとも科学的な方法論、すなわち緻密な検証を重ねて反論にも十分耐えうるようにしておく、という態度が必要だが、小原氏の文章にはまったくそれが欠けている。これでは、《「世の中が悪くなったのは、自分以外の誰かのせいだ」と証明すること》(パオロ・マッツァリーノ[2004])というパオロ・マッツァリーノ流の「社会学」の定義を受け入れざるを得ない。
 小原氏のこの文章においては、最初から「敵」が決まっているのであり、そしてその「敵」を潰すためなら、いかなる狼藉も厭わない。これこそがこの文章における小原氏の「信念」であり、良心や科学性といった視点はまったく欠けている。このような文章を陰謀論的な文章という。
 と、ここまで書いてきて、小原氏こそ最大の《パソコナリティ》人間なのではないか、という疑念が私の中に出てきた。小原氏の文章は、それこそ「敵」を一元的に決め付けて、善悪二元論の中に押し込むことによって、即時的で、社会的・歴史的な文脈からかけ離れた安易な「若者論」を生み出すことに専念している。そこには思考も放棄されており、小原氏を《パソコナリティ》人間と呼ぶことはもはや筋違いではあるまい。
 ここで疑問があろう。小原氏は《パソコナリティ》を、パソコンの前で人格が変わることであると定義したのではないか、と。
 残念。ここまで見たとおり、小原氏は《パソコナリティ》の概念を限りなく拡散させており、もはや最初の定義からは著しく乖離しているのである。小原氏による珍奇な概念の拡散は、さらには高度経済成長期に計画されたはずの都市計画にまで適応されているのだが、結局、小原氏の《パソコナリティ》概念は、自らの不快なものに《パソコナリティ》という烙印を押して、自分は「あいつら」とは違う、という快感を得るための空疎な道具に過ぎなかったのだ。
 この文章には、具体的な若年層の姿は存在しない。ここに出てくる若年層は、全て小原氏が作り上げたヴァーチャルな姿であり、マスコミで喧伝されている「今時の若者」の姿と明らかに同一である。小原氏は、自らの作り上げた虚構(《幻実》?)に呪縛されているのである。小原氏のやっていることは、「今時の若者」を情報化社会の「鬼胎」として祭り上げて、敵愾心を煽り、自らは関係ないと思っている「善良な」人たちに残酷なカタルシスを与えているだけだ。小原氏にとって、ここで採り上げた「今時の若者」は、自らの「使命感」を満足してくれるだけの存在なのであって、いくら貶めようが、いくら歪んだ烙印を押そうが、小原氏は傷付かない。小原氏から見れば、「今時の若者」は道具である。小原氏が若年層を見る視線は、明らかに人間を見る視線ではなく、サル(小原信は正高信男に近接するのか?)、あるいはエイリアンでも見るような視線である。
 しかし、小原氏が懸命に突き放し、いわれなき誹謗中傷を浴びせかけている「今時の若者」も、小原氏と同じ社会に生きているのだ。おそらく、小原氏にとってはそのような事実がよほど気に入らないのだろう。そして、その敵愾心を動力にして、このような文章とはいえないような悪文を書き飛ばし、同じような志向を持つ人々の「共感」を得て、自らの志向に会わないものを放逐しようとしたのだろうか。
 小原氏にとって、自らの社会的な立場というものはいかなる位置にあるのだろうか。もし小原氏がそれを自覚しているというのであれば、このような虚構に満ちた文章を書くのではなく、しっかりと思考して、そして実証的な研究をしたり、あるいは実践に移してほしい。自分が傷付かないような場所から大言壮語を言うのはやめてほしい。我が国には、青少年問題に対して真剣に向き合っている人が山ほどいるが、いまだ我が国においては「若者論」が優勢であり、それに屋上屋を架すようなことはあってはならない。

 参考文献・資料
 石田雄太[2004]
 石田雄太「“大衆”という偶像(サイレント・マジョリティー)におもねるテレビ局」=「論座」2004年10月号、朝日新聞社
 大野晃[2004]
 大野晃「検証 アテネ五輪報道」=「論座」2004年10月号、朝日新聞社
 小原信[2005]
 小原信「幻実に翻弄される若者の時間と空間」=「中央公論」2005年3月号、中央公論新社
 近藤康太郎[2004]
 近藤康太郎『朝日新聞記者が書いたアメリカ人「アホ・マヌケ」論』講談社+α新書、2004年7月
 玉木正之[2004]
 玉木正之「「メダルラッシュ」のあとにやるべきこと」=「論座」2004年10月号、朝日新聞社
 橋本健午[2002]
 橋本健午『有害図書と青少年問題』明石書店、2002年12月
 パオロ・マッツァリーノ[2004]
 パオロ・マッツァリーノ『反社会学講座』イースト・プレス、2004年5月
 山田昌弘[2004]
 山田昌弘「希望格差社会の到来」=「中央公論」2004年12月号

 植田和弘、神野直彦、西村幸夫、間宮陽介・編『(岩波講座・都市の再生を考える・7)公共空間としての都市』岩波書店、2005年1月
 笠原嘉『アパシー・シンドローム』岩波現代文庫、2002年12月
 斎藤環『ひきこもり文化論』紀伊國屋書店、2003年12月
 十川幸司『精神分析』岩波書店、2003年11月
 原克『悪魔の発明と大衆操作』集英社新書、2003年6月
 日垣隆『世間のウソ』新潮新書、2005年1月
 歪、鵠『「非国民」手帖』情報センター出版局、2004年4月
 山本七平『日本はなぜ敗れるのか』角川Oneテーマ21、2004年3月
 ウォルター・リップマン、掛川トミ子:訳『世論』上下間、岩波文庫、1987年2月

 石川雅彦「女子高生はケータイで脱皮する」=「AERA」2004年5月31日号、朝日新聞社
 内山洋紀、福井洋平「ブログの時代がやってきた」=「AERA」2004年7月12日号、朝日新聞社
 北田暁大「嗤う日本のナショナリズム」=「世界」2003年11月号、岩波書店
 斎藤環「韓国のネット依存者たちに学ぶ」=「中央公論」2004年9月号、中央公論新社
 杉田敦「「彼ら」とは違う「私たち」――統一地方選の民意を考える」=「世界」2003年6月号、岩波書店
 武田徹「ケータイを敵視する“メディア一世”たちの傲慢」=「中央公論」2004年4月号、中央公論新社
 田村ゆかり「琥珀の詩、ひとひら」=「hm3 SPECIAL」2005年4月号、音楽専科社

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