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2005年2月20日 (日)

俗流若者論ケースファイル01・大谷昭宏

 新シリーズ「俗流若者論ケースファイル」を開始します。このシリーズは、新聞や雑誌の記事における俗流若者論を逐次検証・批判していくシリーズです。第1回は、このブログでも再三採り上げてきたジャーナリスト・大谷昭宏氏の、奈良女子児童誘拐殺人事件における発言について検証します。

――――――――――――――――――――

 我が国において、猟奇的な凶悪犯罪(特に殺人事件)が起こってしまうと、マスコミは即座にその「犯人像」を探り当てたがる。つい先日起こった寝屋川市の教師刺殺事件についても、警察が「動機」すら発表していない段階なのに、例えば読売新聞や朝日新聞などは、犯人がゲーマーであり、かつ「ひきこもり」状態にあったことを過剰に強調し、さもゲームや「ひきこもり」が犯罪と結びついているかのような報道をした。
 嗤うべし。そのようなプロファイリングをして犯罪が防げると考えるのは、国家が社会主義になれば凶悪犯罪は防げる、という考えとまったく同じである。「ゲームの悪影響」とか「「ひきこもり」の暴力性」なんかを強調することによって得するのは、自分は何が何でも大丈夫だと思い込んでいる「善良な」人たちのみであって、このような報道によって、圧倒的大多数である「ゲームをしているが実際に人を殺そうとは思っていない」人々や、「ひきこもり」が長期化している人々を囲い込むだけである。
 このような報道ないし言論は、猟奇的な凶悪犯罪が起こるたびに噴出する。そして、その報道や言論のまわりに、それを過剰に持ち上げたがる人たち――それは往々にしてそのような報道・言説を仔細に検証もせずに「消費」する人たちであることが多い――の群れが生じ、次の事件が起これば、それはすぐに忘れ去られる。
 これがマスコミの習い性であるならば、別段批判する必要はないのかもしれない。しかし、それがともすれば権力の横暴を許し、あるいは誤った認識を「世間」に与えてしまい、いわれなき被害を特定の嗜好を持った人々、あるいは特定の世代(それは往々にして若年層が多い)が被ってしまうのであれば、批判する意義もあるのかもしれない。このシリーズの意義は、そこにある。
 今回批判するのは、昨年我が国を震撼させた奈良県の女子誘拐殺人事件(以下「奈良事件」と表記)における、ジャーナリスト・大谷昭宏氏の言動である。なるほど、ネット上で一部の人が指摘するとおり、この事件においては、平成元年に起こったいわゆる「宮崎勤事件」とは違い、大規模なオタク・バッシングは生じなかったし、ここで大谷氏の言動を批判することは、大谷氏が生み出したプロファイリング、すなわち「フィギュア萌え族(仮)」(面倒なので、これ以降は「フィギュア萌え族」と表記する)に新たな意味を与えてしまうことになるかもしれない。しかし、ここにおける大谷氏の言動が、至極「若者論」的であること、また大谷氏の歪んだ人間観、さらには自らの主張が間違っていたにもかかわらず自らの言動を反省しないことに関しては、やはり批判されて然るべきだと思う。
 もっとも、今回検証するのは、「日刊スポーツ」の大阪版に掲載された大谷氏の連載コラムにおける奈良事件に関する文章であるので、「フィギュア萌え族」という表現は出てこないのだが、ここにおける大谷氏の言動には、相当に誤解、偏見が入り混じっている。
 大谷氏が「萌え」について最初に言及したのは、11月23日付の「日刊スポーツ」である。ちょっと長くなってしまうが引用してみる。曰く、

 書くこともおぞましいが、犯人が「娘はもらった」というメールとともに母親の携帯電話の画面に送りつけてきた写真は、その後、殺害後のものらしいことがわかった。さらに犯人は浴槽のような所で少女を水死させ、遺体に無数の傷をつけていたことも明らかになった。
 もちろんいまの段階で犯人の動機は不明である。だが、私はこれらの状況からどうしても最近気になっていた「萌え」という現象を思い起こしてしまう。
 なぜ萌えというのかは、諸説あって不明だが、要は若者たちが生身の人間ではなく、パソコンの中に出てくる美少女たちとだけ架空の恋愛をして行くというのだ。そこにある特徴は人間の対話と感情をまったく拒絶しているということである。少女に無垢であってほしいのなら「キスしたい」という呼びかけに「ワタシ、男の人とキスしたことがないから、どうしていいのかわからない」と答えさせ、その答えに満足するのだ。自分の意に沿わない答えや、気に入らない少女の心の動きは完全に拒否する。
 (大谷昭宏[2004])

 このような指摘は、おそらく評論家の東浩紀氏の著書(東浩紀[2001]など)における「萌え要素」に関する記述を誤読・曲解したものと思われるが、はっきり言ってデタラメ、というほかない。まず、なぜ《どうしても最近気になっていた「萌え」という現象を思い起こしてしまう》という状況が出てくるのかわからない。そのことについては、一応、直後の段落で説明されてはいるが、ここにも誤読は多い。例えば、《要は若者たちが生身の人間ではなく、パソコンの中に出てくる美少女たちとだけ架空の恋愛をして行くというのだ》とあるが、例えば東氏の指摘などを読んでみると、《キャラ萌えを触発する技法》だとか《消費者の関心を触発するため独特の発展を遂げたジャンル的存在》(以上、東浩紀[2001])などとあるとおり、大谷氏の言っているような、《生身の人間ではなく、パソコンの中に出てくる美少女たちとだけ架空の恋愛をして行く》ということとは本質的に(!)関係ないものであるといえる。
 だから大谷氏にとっては、「萌え」とは「今時の若者」の「病理」、ここでは《パソコンの中に出てくる美少女たちとだけ》の《架空の恋愛》しかできないという病理を照射するための概念でしかなく、本来の意味とはまったくかけ離れていることになる。私は基本的にオタクではないが、声優雑誌をよく読むので「萌え」には稀に(少なくとも一般人より少し多いくらい)接することがあるけれども、私の乏しい体験からも大谷氏の「萌え」概念の誤謬は簡単にわかる。
 生粋のオタクの方々には申し訳ないが、私は「萌え」と聞けば、「声優グランプリ」2004年8月号に掲載されている、声優の中原麻衣、千葉紗子、清水愛の3氏のインタヴューにおけるこのやりとりを想起する。

 清水 (略、筆者注:この3氏がパーソナリティを勤めるラジオ番組のコーナーについて)校則を作っちゃおうっていうコーナーなんですが、自分の欲望を満たすネタがたくさんくるんです(笑)。
 千葉 「必ずメガネをかけなければいけない」とかねっ。
 中原 そうそう。あと「女子は全員着物を着てなければいけない」とかも。
 清水 (小声で)着物萌え……。
 全員 (爆笑)
 (中原麻衣、千葉紗子、清水愛[2004])

 話を戻そう。大谷氏は、さらにこう続ける。

 もちろんまだ犯人像が絞れないいまの段階で、今度の事件の犯人を直接、この萌え現象と結びつけることはできない。ただ、解剖結果から誘拐直後に殺害しているということは、犯人は一刻も早く少女をモノを言わないフィギュアにしたかったことは間違いない。その上でフィギュアになった少女の写真を母親に送りつけ、ここでもまるでモノをやり取りするかのように「娘はもらった」という言葉を使っている。これまでの誘拐犯なら「娘はあずかった」だ。
 もう一点、犯人は少女を浴槽のような水を張ったところで水死させている。この殺害方法だと、少女をまったく傷のつかないフィギュアにできる。いや、少女の体には無数の傷があったではないか、という反論があるかも知れないが、それこそが犯人の異常性。少女を水死させることで無傷の状態でフィギュア化し、思いのまま傷つけるのは、自分でなければ気がすまなかったはずなのだ。
 まさにそこには、人間としての対話も心の動きもまったくない、無機質なモノしか存在しない。そんな犯人がつかまったところで、その犯人に両親の悲しみ、世間の怒りが通じるだろうか。
 (大谷昭宏[2004])

 大谷氏における「萌え」概念の誤謬については、しばらく問わないことにしよう。しかし、《誘拐直後に殺害している》とか《水を張ったところで水死させている》という事件は、過去にゴマンとあるにもかかわらず、なぜか大谷氏はこの事件の犯人に限って《犯人は一刻も早く少女をモノを言わないフィギュアにしたかったことは間違いない》だとか《少女を水死させることで無傷の状態でフィギュア化し、思いのまま傷つけるのは、自分でなければ気がすまなかったはずなのだ》とか言って、強引に猟奇犯罪と「萌え」を結び付けているような気がする。また、大谷氏がいかなる分析でもって、この犯人がフィギュアマニアであると判断したか、まったく不明である。結局大谷氏は、自分の気に入らないものを無理やり目の前の猟奇犯罪と結び付けて、社会的に排除してしまいたい、と考えているのに過ぎないのではないか。フィギュアとは、そのような大谷氏の思惑を盛り上げてくれる要素に過ぎないのであって、フィギュアという概念に必然性はまったくない。枝葉末節をつくことになるが、《これまでの誘拐犯なら「娘はあずかった」だ》というのであれば、その統計データくらい見せてくれ。
 さて、犯人は後に逮捕された。犯人逮捕後の我が国におけるマスコミ報道は、例えば「メーガン法の是非」みたいに、異常な性犯罪者の再犯をいかに防ぐか(ちなみに私は「メーガン法」には反対で、更生プログラムの充実化こそが急務だと考えている)、という方向に動いていたような気がする(詳しくは、日垣隆 [2005a][2005b]を参照されたし)。
 なので、大谷氏のような言動は、かえって少数である。しかし大谷氏は、犯人が大谷氏のプロファイリングとはまったく違ったことに関して、まったく謝罪しないどころか、むしろ自らのプロファイリング、そして自分自身の無謬性を少しも疑わず、論理をさらに暴走させてしまっていたのである。

 ただ、私が事件直後からそうした性愛を容認するどころか助長するような社会に歯止めをかけるべきだとコメントしてきたところ、その手の嗜好を持つ方たちから事務所あてに抗議の電話やメールが殺到。加えて配達証明つきの公開質問状まで送りつけられてきた。この点についてはっきりさせておきたい。
 もとより私は人の趣味は自由だと思っている。だが、公開質問状での「その類の嗜好についてきちんと取材したのか」という指摘を待つまでもなく、実際に大阪の日本橋など、マニアが集う場所も取材してみたし、インターネット上でのやり取りも見せてもらった。そこにあったのはここで書くのもはばかれるような幼女や少女を性的に弄ぶというよりは、加虐的、嗜虐的な傾向の強いものだった。
 そうした趣味の人たちから寄せられる抗議の大半は、それらの趣味の中にも種々あって、それぞれ傾向が違う。なのになんでもかんでも一緒にするな、というのがまず一つ。もう一つは、あくまでバーチャルな世界のことであって、そのことと犯罪は結びつかないというものである。
 だけど世の中にはさまざまな人がいる。みんながみんな、きちんと境界を設けられるものではない。そうである以上、なんらかの歯止めをかけることが必要なのではないか。もし、欧米であのような劇画や動画を流したとしたら、厳しい懲役が待っている。
 (大谷昭宏[2005a])

 さて、文中にある《その手の嗜好を持つ方たち》とは、漫画やアニメ、ゲームなどの表現規制に反対しているNGO「AMI」である。このNGOが、大谷氏の発言に対して、平成16年12月9日付で公開質問状を送付した。それに対する大谷氏のしどろもどろした返答はまた見ていて興味深いのであるが、これについては触れない。大谷氏は、この短い文章の中で、壮大なダブルスタンダードをやらかしているのである。
 大谷氏は、この文章ではっきりと《もとより私は人の趣味は自由だと思っている》さらに《世の中にはさまざまな人がいる》と述べられている。しかし、このように真っ当なことを述べることができるのであれば、なぜ《みんながみんな、きちんと境界を設けられるものではない。そうである以上、なんらかの歯止めをかけることが必要なのではないか》と平然と言ってしまうのであろうか。私は加虐的、嗜虐的な性描写は大嫌いであるのだが、だからといってそれが犯罪に結びつくものであり、国家による規制が必要だ、とは断じて思わない。かつてはそう思っていた時期があったのだが、今はそのような考え方からは訣別している。
 なぜか。それは、それこそ世の中にはいろいろな人がおり、もしかしたらそのような過激な性描写が、性犯罪の抑止に役立っているかもしれないからである。それに、過激な性描写を見たから性犯罪に及んだ、という統計データもないばかりではなく、過激な性描写を見ることがすぐさま残虐な性犯罪につながるという考え方は、人間の可塑性や理性をないがしろにする考え方だからである。
 大谷氏の言うところの《なんらかの歯止め》とは、のち(1月18日)に大谷氏が主張している《児童虐待、少女性愛者の異常に加虐的なフィギュア、アニメ、コミック、ビデオなどの制作、流布、販売者の検挙、取り締まり。まずそのことを実行して、野放しだ、という世界からの強い批判に応える》(大谷昭宏 [2005b])ということなのだろう。しかし、このような論理に関する疑問として、まず我が国において、青少年による強姦罪の検挙件数は、1965年ごろに比して件数にして約20分の1、人口比にして約10分の1に減少しているのだから、近年の《そうした性愛を容認するどころか助長するような社会》なるものによって影響を受けた青少年によって強姦罪が急増した、という統計的事実はない。検挙率を勘案しても然りである(もっとも、最近になって検挙率に関して懐疑的な視座が向けられているのも然りである。具体的にいうと、かつて警察は検挙率を上げるために被害届けを握りつぶしていたが、近年になって素直に受理するようになった、というもの。詳しくは小林道雄[2005]、新藤宗幸、今井亮一、佐藤一、小林道雄[2004]参照)。さらにいえば、暴力的なメディアに接して暴力衝動が発揮される、という「神話」に関しても、我が国においては社会学者の宮台真司氏らによって否定されている。もう一つ、我が国は児童ポルノ輸出大国である、という批判があるが、データを見る限りではそんなことは全然なく、児童ポルノサイト数においてぶっちぎりでトップなのが米国で、我が国は確かに8位という順位になっているけれども、割合で見ると2パーセントに満たない。ちなみに米国は76パーセントである。《野放しだ、という世界からの強い批判》という批判は、実際にはメディア規制を主張するフェミニスト団体の主張である可能性が高い。もっとも、フェミニストとて一枚岩ではなく、例えば社民党党首の福島瑞穂氏のように、メディア規制に反対するフェミニストもいるが。
 そろそろ大谷氏の言動の深層、そして大谷氏の人間観に迫ってみよう。ここでもう一度、大谷氏にとっての「萌え」概念に言及してみる。大谷氏は、「萌え」はヴァーチャルな人間関係でしか満足することのできない「今時の若者」の病理だと主張しているけれども、実際のところ、それは大谷氏が「そう思いたいだけ」なのではないだろうか。おそらく大谷氏には、最初から「今時の若者」への不満があり、その「病理」を証明したいが為に奈良事件を引き合いに出し、さらには「フィギュア萌え族」なる珍奇な概念を出したのであろう。だから大谷氏の根幹にあるのは、《生身の人間ではなく、パソコンの中に出てくる美少女たちとだけ架空の恋愛をして行く》という行動に代表されるような「今時の若者」に対する不安、怒り、そして敵愾心であり、それを排除して社会を「正常化」しようとする衝動ではないか、と思われる(そう考えれば「フィギュア」どころか「萌え」にも必然性はない)。
 もっともこのような考え方をするのは大谷氏だけではない、というのは推して知るべしであろう。インターネットや携帯電話のメールにはまる「若者たち」は病気である、という言説がいくら叩いても叩いてもそこらじゅうに噴出し、もっともらしい形で「世間」に容易に膾炙する状況にあって、大谷氏の発言は別段特殊なものではない。大谷氏がそうであった通り、このようなことを主張するものたちは「暴力的な表現」だとか「過激な性描写」を過剰に問題視する傾向にあるけれども、それは自らの「新しい」メディアへの敵愾心を最も表現しやすいものであるに過ぎず、論理のすり替えの一種である。
 結局のところ、大谷氏の一連の文章は、自らの歪んだ「使命感」を満足させるための「若者論」でしかなかったのではないか。そこには対話も感情も良心もない。いや、許さない、といったほうが適切か。大谷氏は、平成17年1月4日付の文章において、大谷氏に質問状を送付したNGO「AMI」について《それでも彼らは人の趣味趣向に言いがかりをつけるなと言い張るのだろうか。警告を発する者には一方的に質問状を送りつけるのだろうか。/利己と、自己しか彼らの目には映らないようになっているとしか私には思えない。》(大谷昭宏[2005a])と罵っているが、このような言葉は、大谷氏にこそ向けられるべきである。そして、大谷氏が、平成16年11月18日付の文章の冒頭の言葉は、何よりも大谷氏の人間観にこそ突きつけられるべき疑問なので、この文章を引き合いに出して、拙稿の終わりとしたい。

 非人間的なんて言葉は最早むなしい。言えるとしたら、脱人間的、没人間的という表現しかないのではないか。
 (大谷昭宏[2004])

 参考文献・資料
 東浩紀[2001]
 東浩紀『動物化するポストモダン』講談社現代新書、2001年11月
 大谷昭宏[2004]
 大谷昭宏「対話も感情もない「萌え」のむなしさ」=「日刊スポーツ」大阪版2004年11月18日号、日刊スポーツ新聞社
 大谷昭宏[2005a]
 大谷昭宏「趣味と犯罪の境界 社会が決めるべき」=「日刊スポーツ」大阪版2005年1月4日号、日刊スポーツ新聞社
 大谷昭宏[2005b]
 大谷昭宏「できることからコツコツと」=「日刊スポーツ」大阪版2005年1月18日号、日刊スポーツ新聞社
 小林道雄[2005]
 小林道雄「警察腐敗の根源はどこにあるか」=「世界」2005年3月号、岩波書店
 新藤宗幸、今井亮一、佐藤一、小林道雄[2004]
 新藤宗幸、今井亮一、佐藤一、小林道雄「警察改革はどうすれば可能か」=「世界」2004年5月号、岩波書店
 中原麻衣、千葉紗子、清水愛[2004]
 中原麻衣、千葉紗子、清水愛「Monthly People:中原麻衣&千葉紗子&清水愛」=「声優グランプリ」2004年8月号、主婦の友社
 日垣隆[2005a]
 日垣隆「性犯罪常習者に寛大な「野蛮国ニッポン」」=「現代」2005年3月号、講談社
 日垣隆[2005b]
 日垣隆「性犯罪常習者をなぜ野に放つ」=「文藝春秋」2005年3月号、文藝春秋

 斎藤環『ひきこもり文化論』紀伊國屋書店、2003年12月
 斎藤美奈子『物は言いよう』平凡社、2004年11月
 パオロ・マッツァリーノ『反社会学講座』イースト・プレス、2004年5月
 ウォルター・リップマン、掛川トミ子:訳『世論』全2巻、岩波文庫、1987年2月
 ジュディス・レヴァイン、藤田真利子:訳『青少年に有害!』、河出書房新社、2004年6月

 斎藤環「条例強化というお節介には断固反対する」=「中央公論」2004年1月号、中央公論新社
 斎藤環「「有害なわいせつ性」という社会通念こそ有害である」=「中央公論」2004年1月号、中央公論新社
 神保哲生「ニュースのラインナップはメディアの都合で適当に決まる」=「サイゾー」2004年3月号、インフォバーン
 瀬川茂子「東京都発「正しい性教育」」=「AERA」2004年10月25日号、朝日新聞社
 武田徹「ケータイを敵視する“メディア一世”たちの傲慢」=「中央公論」2004年4月号、中央公論新社
 西村由貴「小児性愛とは何か」=「現代」2005年3月号、講談社

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6月30日放送の、ムーブ!マガジンスタンド週刊新潮7月7日号の記事の紹介の中で、 「非喫煙者より肺がんになる率が2倍から4倍高くなる」、「口臭悪化の原因となる」等の、タバコの害の表示義務付けに対して、大谷昭宏氏が猛反発した。 大谷「まずデザイナーに対して失礼だと思うんですね。これ(Peace)戦後の象徴的なデザインなんですね。例えば私達ここにいる3人はモノを書きますよね。なんかの都合で我々の原稿に、誰かが書き加え�... [続きを読む]

受信: 2005年7月11日 (月) 01時18分

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