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2005年3月30日 (水)

トラックバック雑記文・05年03月30日

 走れ小心者 in Disguise!: 「ウソかホントか?ホントかウソか?」(克森淳氏)
 克森氏によると、ドイツのある医者が恐るべき実験を行ったそうです。
 その詳細がこちら
 リンク先の記事によると、なんでも《老人学が専門のカレン・ウェザビー博士がドイツ人男性200人を5年かけて調べた。100人には美しい女性の乳房をじっと凝視させ、もう一方の100人には女性の乳房がいっさい視野に入らないよう監視を厳しくした》といい、さらに《面白いことに、成人男性に女性の乳房を見せると、その容姿は日増しに輝きをみせ、乳房を見られない男性たちの顔面からはみるみる活気が去ってしまった》らしいです。私は、これはかなり疑似科学スレスレのところをいっているのではないかと思います。
 第一に、サンプルが少々少ないことです。まあ、これはあまり重要ではないでしょう。第二に、《美しい女性の乳房》と言っておりますけれども、《美しい》という言葉の基準がどこにあるか分かりませんし、そもそも1日にどれくらい凝視させたのか、また実物なのか写真なのか、ということも分かりません。また、それらの男性について乳房を見ることによってどれくらい欲情するか、ということも考慮に入れられてしかるべきでしょう。それ以外にも、学問的に突っ込みたいことはいっぱいあるのですが、まあ、ネタとして捉えておけば無害か。
 しかし、性的な刺激によって身体に何らかのよい影響が出てくる、というのは無視できないようです。朝日新聞社から出ている「AERA」の05年4月4日号でも、性的交渉ががん予防になる、という記事も出ていました。これも、どこまで一般性があるかどうかは分からないのですが、性ホルモンと健康の関係に関して、もっと学問的に理のかなった結論を期待しております。あと、そこで出た結果が単純なセックスレス批判とか性行為礼賛にならないことを祈る。

 ヤースのへんしん:頭に来る!
 テレビ番組でCMが流れているときだけ、音量が飛躍して大きくなることにストレートな怒りをぶつけている記事です。それには私も同意できます。また、話のクライマックスに近くなったときにわざわざCMを入れて、「引いてしまう」ことにも私は立腹しております。
 ここで考えたいのは、このような番組にとって番組それ自体が大事なのか、それともCMが大事なのか、ということです。コラムニストの小田嶋隆氏がかつて読売新聞社の「Yomiuri Weekly」の連載で(手元にないので掲載号までは分かりません)、このようなテレビ番組の姿勢に怒り心頭を発していたことを思い出します。小田嶋氏曰く、我々は「オマケ」を見せられているのか、と。要するに、このような手法を用いる番組にとってすれば、むしろCMこそメインで、肝心の番組は「オマケ」だというのです。なんだか、番組の内容で勝負しよう、という気概が見えてこない気がします。で、とにかく引き延ばしておいて、「来週に続く」ってか。テレビ番組の悪しき手法として定着してしまった感があります。
 放送局の皆様。あなたに魂というものがあるならどうかそのような悪しき手法ではなく、内容で勝負していただきたい。さもないと、視聴者はCMばかり印象に残ってしまうことになりますよ。

 週刊誌記者の日記:ヨン様と「竹島問題」(友澤和子氏:朝日新聞社「週刊朝日」編集部)
 *☆.Rina Diary.☆*:ほんわり(佐藤利奈氏:声優)
 私は読んでいないのですが、「週刊朝日」に、「ヨン様」ことペ・ヨンジュン氏の竹島問題に関する発言に対する反応を描いた記事が掲載されているようです。友澤氏の文章によると、

韓流ファンの知人やこれまで取材したことのあるファンたちに手当たり次第に聞いてみると、ヨン様の発言や韓国の態度に「韓国がいやになった」、といったような意見よりも、
ドラマやスターを愛好する気持ちに、容赦なく政治が絡んでくること、俳優の映画発表会見にさえ政治的な質問が浴びせられてしまう事態に、戸惑いと違和感を覚えている……というのが、主な反応でした。

 というのが主だった反応だったそうです。《ドラマやスターを愛好する気持ちに、容赦なく政治が絡んでくること、俳優の映画発表会見にさえ政治的な質問が浴びせられてしまう事態》我が国においてはいささか縁遠いことかもしれませんが、そういうところを理解しつつ、お互いに理解の道を探る、というのが、日韓友好の最大の手段である、と思います。
 友澤氏によると、《ぺ・ヨンジュンさんの韓国の公式ホームページの掲示板に日本人がたくさん書き込みをしている》そうです。そこでは、《そこでは、とても密度の濃いやりとりがリアルタイムで重ねられていました。/九州や韓国であった地震について、お互い無事や順調な復興を祈りあったりする書き込みも。》ということらしいです。政治の面では感情的な議論が飛び交っていますが、こういった草の根レヴェルでは心の通った交流が行われている、ということに、今日の日韓関係の二重性や複雑さを感じます。
 ネット上におけるこのような交流を可能にしたのが、どうやら翻訳ツールらしいです。翻訳ツールを通すことによってどこまで自分の感情が伝わるか、ということは分かりませんけれども、少なくとも文字の上では、さまざまな言語を持つ人が交流を持つことができる。他方で、現実の政治の世界では、いまだに感情論に基づいた没論理的な議論が続いている。小泉純一郎にしろ盧武鉉にしろ、あるいは日本の活動家にしろ韓国の活動家にしろ、互いに強硬な姿勢を見せてばかりで、単なる示威行動に終わっているような気がしてなりません。友永氏は、このような状況を《バーチャルの世界では国境も言葉の壁もやすやすと越えているのに、リアルの世界では、20世紀からの重い宿題を引きずり、領土や国境の壁がまだまだあつい……そんなことも考えさせられました》と嘆いていますが、我々は、20世紀の課題をいまだに引きずりながら生きている、ということを考えざるを得ません。その一つが、言葉(ネット上なら文章)による「対話」を目指すこと。
 佐藤氏の文章では、

私がレジでお会計をしていたら、横から「○○って商品はどこ?」と割り込んできたお客さんがいた。あぁ、急いでいるのね・・と、いつもなら気にしないトコロだけど、今日は私も急いでいたので、並んでほしいなぁ~と悲しくなった。
そしたら、お釣りを渡すときに店員さんが「お待たせしてしまって大変申し訳ありません!」と心底すまなそうに言ってくれた。彼の非ではないのに。
その言葉を聞いて、嫌な気持ちになっていた私の心がほんわり温まった。

 とあります。人というものは、何気ない一言で傷つき、何気ない一言で心が温まるものです。それは仲間内でも、あるいは他人同士でも、さらに言えば国籍が違う人同士でも同じこと。そう自覚することが、コミュニケーションの入口なのかもしれません。
 言うは易く、行なうは難し、ですが。

 思考錯誤: 『ケータイを持ったサル』か?(辻大介氏:関西大学教員・社会学者)
 辻氏は、最近の京都大学霊長類研究所教授、正高信男氏について、《しかしだな、その実験の解釈や議論の組み立てかたは、やはりトンデモと言わざるをえないところがある。いかに優れた自然科学者であっても、生半可に社会評論に手を出してしまうと、こんなことになってしまうんかいなと愕然としてしまう。お願いだから、正高さんには、こっち方面からはとっとと手を引いて(どうせ片手間しごとなんだし)、着実に本業を進めてほしいと切に思う。優秀な人が道を誤っちゃいけない。》と批判しておりますが、同感です。正高氏の最近の仕事は、霊長類学の学説を無理矢理マスコミが好んで採り上げているような若年層の「問題行動」と結び付けて、若年層を罵っている、というものにほかなりません。
 しかし、『ケータイを持ったサル』は、いくらトンデモであっても実験や調査を行っており、その点ではまだまだ救いようがある、といえるかもしれません。しかし、昨年12月から今年1月にかけてのNHK「人間講座」のテキスト『人間性の進化史』は、もはやポイント・オブ・ノーリターンに到達してしまったのではないかと思えるほどのひどい著作です。詳しくは「正高信男という頽廃」を読んでほしいのですが、この本は差別に満ちており、不適切なアナロジーの使用、前後矛盾、文学作品のトンデモ珍解釈など、トンデモ本としての要素が満載です。

 週刊!木村剛:[ゴーログ]逆境こそが経営者の資質を磨く!(木村剛氏:エコノミスト)
 たとえ逆境に陥っても、しっかり腰を据えて対処すること。これは経営者のみならず、日常生活の場において一般的に言えることだと思います。たとえ自らが批判の矢面に立たされても、そこにおいていかに冷静に対処するか、ということの重要性を感じることが、社会への還元の入り口であるように考えます。たとえ失敗しても、それを他人に押し付けないこと。まず自分の中で消化すること。
 また、経営者のみならず、言論を発する人にとって必要なのは、情報公開だと思います。私がここで研究している俗流若者論は、たいていはその論者が考える理由を開示しないまま、人々の感情(たとえば、「今時の若者」に関するフラストレーション)に訴えかけて、人々を扇動しますが、これは言論が行うべき行為ではなく、むしろ扇動屋の行為でしょう。私は具体的な議論にしろ抽象的な議論にしろ、まず理詰めで行うことを自らに課しています。自らの考える手順を公開することも、また情報公開の一種です。曖昧なアナロジーで煽り立てるのは無意味だし有害です。何度も言いますが、アウトサイダーをうまく取り込むためには、理詰めで攻めるしかないのです。

 蛇足ですが、私が「人権擁護法案反対の倫理を問う」で憲法と人権を概説したことについて、「近代国家礼賛か無政府主義か分からない」とか「電波」とか言いふらしている人がいました。どこかは忘れましたが、おそらくここを見ているので追記しておきます。
 私の立場は立憲主義です(近代国家礼賛か無政府主義か、というと、どちらかといえば近代国家礼賛に近い)。また、人権とはひとえに国家と国民の間に成立する力関係であり、憲法は人権を規定したものです。憲法や人権について詳しく知りたい方は、下に示した本・論文を読んでください。
 奥平康弘、宮台真司『憲法対論』(平凡社新書・2002年12月)
 長谷部恭男『憲法と平和を問いなおす』(ちくま新書・2004年4月)
 小林節「タカ派改憲論者はなぜ自説を変えたのか?」=「現代」2005年2月号、講談社
 水島朝穂「『読売改憲試案』の目指すもの――その憲法哲学を検証する」=「論座」2004年8月号、朝日新聞社

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2005年3月27日 (日)

トラックバック雑記文・05年03月27日

 春休み特別企画、無事終了しました。この企画が進行している間は、毎日文章を書いていたので、自分の頭も少々整理できた気がします。やはり、文章を書くことは、自分の考え方をまとめたり、あるいは眠っていた資料を復活させたり、または新しく資料を集めたりと、自分を活性化するきっかけになると思います。
 特別企画で書いた文章へのリンクを貼っておきます。
 「俗流若者論ケースファイル04・荷宮和子」(3月21日)
 「俗流若者論ケースファイル05・牧太郎」(3月22日)
 「俗流若者論ケースファイル06・若狭毅」(3月23日)
 「俗流若者論ケースファイル07・森昭雄」(3月24日)
 「俗流若者論ケースファイル08・瀧井宏臣&森昭雄」(3月25日)
 また、この企画の進行中に、私がこのブログで書いた文章(トラックバック雑記文とお知らせは除く)が「ウェブログ図書館」に登録されていました。木村剛氏とか「極東ブログ」とかいったブログ界のビッグネームと同列で、昨年11月に始まったばかりの私のブログが並んでいるのは、少々恥ずかしい気もします。

 週刊!木村剛:[ゴーログ]なんやねん!その「クラウンなんとやら」ちゅうんは!(木村剛氏:エコノミスト)
 ヤースのへんしん:井戸端会議
 木村氏がなぜか大阪弁だ(笑)。それにしても、マスコミにしろそこに登場する人にしろ、わけの分からないような概念で虚飾して自らを飾り立てるのが好きですね。実を言うと、私はこの文章にケースファイルの若狭毅論をトラックバックしておいたのですが、この若狭氏の文章においては、「セロトニン欠乏症」という珍概念(この概念は、東邦大学医学部の有田秀穂教授による)が使われているのですが、どう考えてもセロトニンだけを重大視して、たとえば同様に重要な脳内物質であるノルアドレナリンやドーパミンについては無視しているのです。
 「わけが分からないけれども響きが「かっこいい」表現」とか、あるいは「問題を重大視させるためにほかの要素を無視したでっち上げ」が多すぎます。もちろん、そのような概念のでっち上げは、マスコミ的には受けがいいかもしれませんが、かえって物事の本質から目をそらしたり、あるいは社会に無用な混乱を及ぼすだけになりかねません。肝心なのは、多くの人に分かってもらえるように、虚飾ではなく理詰めでわかりやすく説明することです。虚飾に満ちた概念で自らを着飾っている人は、そのうち良心的な人から「裸の王様」と罵られることでしょう。分かりにくいのも問題ですが、過度に分かりやすいのもまた問題です。新聞や雑誌には問題を分かりやすく解説した記事が多く載るのですが(それでも新聞社・雑誌社の思惑が入ることはある)、テレビではどうも時間の制約があるのか、そのようなものは少ない気がします。しかし、ワイドショー的な煽り合戦ではなく、視聴者を「説得」するような議論が求められているのです。できるところからはじめましょう。まず、「今時の若者」に関する扇情的な報道をやめるとか(笑)。
 「今時の若者」に関する扇情的な報道といったら、ちょっと目を放している間にまた「奈良女児誘拐殺人事件における、マスコミのオタクバッシングまとめサイト」に急展開が。3月12日付東海テレビ「スーパーサタデー」が、なんと本格的な報道加害をやらかしてしまったそうです。取材許可を得ないで、自宅に押しかけて取材!しかもその隣の家の表札にモザイクはかけない(これこそ報道加害ですよ)!そしていつもどおりの印象操作、事実誤認、さらに大谷昭宏(笑)!!「若者論」(私の言う「若者論」は、「理解できない「今時の若者」」に関する過度に扇情的な報道をさしているので、オタクバッシングも含まれます)のためならルールを破ってもいい、と考えてしまったマスコミは、いったいどこへ行くのでしょうか。

 週刊!木村剛:[ゴーログ]また、年金討論会でも企画しましょうか?(木村剛氏:エコノミスト)
 天木直人・マスメディアの裏を読む:3月25日 05年48号 ◆ 外交はオセロゲームか ◆ 先送りと言う名の拒否 ◆  「タクシーで逃げればよかった」という与謝野発言(天木直人氏:元外務省レバノン大使)
 年金に関して、私が言いたいことはただ一つ、まず人口減少を認めるべし。人口は確実に減少するのですから、なし崩し的な男女共同参画という名の戦時体制的人口増加政策よりも(斎藤美奈子『モダンガール論』(文春文庫)によれば、戦時中にも「働く女性」が美化されたようです)、人口が減少してもいいから、誰もが人間らしい生活を謳歌できるようにする政策に転換すべきでしょう。今のままでの男女共同参画社会論は、結局性別役割分担に帰結してしまうと思います。
 年金よりも必要なのはたくさんあります。その一つが都市計画です。現在、さまざまなところで超高層ビルの乱立が報じられ、その荒廃が嘆かれていますけれども、人口が減少するのだから、経済が縮小する(「縮小」と「衰退」は決して同義ではない)はずなのに、巨大資本は一度消えたはずの土地バブルを、超高層ビルを建てることによって復活させようとします。これで、ある意味では洗練された町並みができるものの、地域は荒廃します。高安秀樹『経済物理学の発見』(光文社新書)によると、我が国の1970年代以降の経済は土地の値段と軌を一にしています。だから、政府とか経団連とか東京都とかは、土地の値段を上げてバブルの夢再び、といきたいのでしょう。しかし、多くの先進諸国は日本ほど早くはありませんが人口減少に転じます。ですから、人口減少社会のパイオニアになるであろう日本が、人口減少社会に適合した政策モデルと経済モデルを提示することこそ、我が国の信頼を世界に広める最大の手段だと思います。都市計画も、先送りは許されないのです。
 ちなみに、環境問題の解決、という点から見ても、人口減少は望ましいものといえます。

 都市計画といえば。
 繪文録ことのは:丹下健三――代々木競技場、フジテレビ、新宿新都庁……コンクリートの威圧感(松永英明氏)
 保坂展人のどこどこ日記:下北沢の街は道路に引き裂かれるか(保坂展人氏:元衆議院議員・社民党)
 目に映る21世紀:新宿南口再開発のカンバン
 近代日本を代表する建築家、丹下健三氏が亡くなられました。91歳でした。
 先日(3月12・13日)東京に行った際、様々な都市・建築を見てきましたが、丹下氏のものも多く見てきました。新宿新都心のメガロポリスは、都庁をはじめとして丹下氏の設計した建物が多くあり、代々木国立競技場、フジテレビ本社も、丹下氏の設計によるものです。さらに、現在は愛知万博が行われていますけれども、大阪万博など、時代を象徴する建築を、丹下氏はたくさん設計してきました。
 東京都庁を見たときの雑感ですが、新宿の新都心が都庁を中心に回っている、という感じを受けました。そして、都庁それ自体が一つの都市を形作っており、また都庁の権力を象徴しているようにも見えました。ここには明らかにコンセプトがあり、形というものがありました。そして、代々木競技場にしろフジテレビにしろ、それ自体が非常に大きな建物でありながら、その建物がその土地にある意味を十分に表していたと思います。私は中には入ったことがないので、中にいる者としての感想は述べることはできませんけれども、少なくとも外側からはその建物の意味を感じることができました。丹下氏に限らず、都市計画や建築というものは、作ったら終わり、というものではありえません。作って使う人がいて始めて、都市や建築というものは意味を持ってくるのです。
 東京都庁とは対照的に思えたのが、秋葉原の再開発でした。現在、JRの秋葉原駅の電気街口には、ガラス張りの巨大なビルが建っているのですが、どう考えても秋葉原とは合わない、という感じがしました。秋葉原には様々なオタクが集まる、ということで有名で、そういうことを考えてみれば秋葉原に雑多な看板が並んでいるのもその地域の特色と思えます。東京都の思惑は、秋葉原をIT産業の拠点にする、というものらしいですけれども、その思惑とシンクロしてか、警察による職務質問が激増しているらしいです。朝日新聞社の「AERA」平成17年3月5日号によると、路上ライヴに対する締め付けは渋谷や原宿よりも強い、という嘆きがあるようです。
 建築というものは、その地域の地域性を踏まえて、そこから新たなものを創出しなければなりません。地域性を無視して、ただハコ物を作ってしまうだけでは、帰ってその地域の特色を壊すことになりかねません。秋葉原で痛感したのは、そのことでした。
 保坂氏のブログでは、下北沢の再開発問題が採り上げられています。保坂氏によると、なんと60年間も眠っていた道路計画がいまさら復活してしまった、というものです。しかも、下北沢を南北に横断する環七並みの太さの道路というですから、異常というほかありません。この計画が眠っている60年の間に、下北沢はさまざまな変化を遂げてきたことでしょう。保坂氏はこの復活劇の意図を《左右が開通していない250メートルの道路もどきでも建設すれば、駅前再開発が大々的に出来る――これが、下北沢再開発の隠れた狙いだ》と推測しています。これが完成すると、《演劇も、音楽も、若者風俗も、ゴチャゴチャした飲み屋もなくなる。ベットタウンの郊外駅のようなビル群が立ち並び、繁華街は壊死してしまう》と保坂氏は嘆いています。「再開発」という美名の下に、繁華街や地域が崩壊してしまったら、それこそ本末転倒というものでしょう。
 「目に映る21世紀」で俎上に上げられている新宿南口再開発の看板もすさまじい。美辞麗句だけがあって、ヴィジョンがありません。この筆者は、《いつまでも広告代理店やコンサルに頼らずに、『場』を開放しろよ、ボケが。そしたら俺もやりたいことはたくさんあるから(口汚くてごめんね)》と書いています。都市や建築を単なる金儲けの手段としてしか考えていない人は、この先確実に来るであろう人口減少社会に取り残されてしまうのは間違いないと思います。現在求められているのは、人口減少社会に対応して、かつ人を引き留める力があるような都市計画です。多くの建築家はそれを自覚しているのですが、政治は自覚しているのでしょうか。丹下氏の逝去を機会に、政治家の皆様には考えてほしいものです。

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2005年3月25日 (金)

俗流若者論ケースファイル08・瀧井宏臣&森昭雄

 ヨーロッパを資本主義という妖怪が徘徊している、と言ったのはカール・マルクスであるが、現代の我が国において徘徊している妖怪の一つとして、曲学阿世の徒・日本大学文理学部体育学科の森昭雄教授が挙げられるだろう。森氏に関しては前回、「潮」(潮出版社)平成17年4月号に掲載された森氏の文章を批判したが、その文章の最後のほうで、森氏が平成16年9月に新たに発明した「メール脳」という珍概念について軽く触れた。この概念は、ジャーナリストの瀧井宏臣氏の筆による、平成16年9月30日付東京新聞の「痴呆のような「メール脳」」という記事で紹介されている。ある人の脳波の波形が痴呆症の人と似ているからといって、その人を痴呆症ないしそれに類似した症状であると断定することはできない、ということをは精神科医の斎藤環氏をはじめさまざまな人が指摘しているのだが、いまだに脳波の形だけでその人の人間性・社会性を判断してしまう、という気風が瀧井氏をはじめ、特に「ゲーム脳」に肯定的なメディアやジャーナリスト、さらには学者にまでいまだにはびこっているので、それを徹底批判しておく必要があると思う。
 瀧井氏は冒頭で、《森教授は一九八〇年から痴呆者の脳を研究し、ブレインモニタという簡易型の脳波計を開発した》(瀧井宏臣[2004]、以下、断りがないなら同様)と述べている。このことに関しての詳しいことは斎藤環氏による「ゲーム脳」批判に譲るが、この計測器が、国際基準に準拠した測定を行いうるものか、という疑問が、多方面から投げかけられている。斎藤氏は、《脳波異常を論文化に耐える水準でしたければ、まず国際基準に準拠した測定を行い、そのデータを示すのが先である。次に、森氏が「発明」したと称する「ブレインモニタ」の測定結果の妥当性、信頼性を検証する必要がある。この手順を踏んだ上で、検査を簡略化する目的でブレインモニタを用いるのが、ギリギリ学問的に許容できる範囲であろう》(斎藤環[2003])と批判している。
 瀧井氏によれば、森氏がゲームよりも問題に感じていたのは《携帯電話だった。電車の中などで、小さな画面を見ながら親指でボタンを押し続ける若者の姿だった》というのである。そこで瀧井氏は、森氏が《二年間、携帯メールに熱中している中高校生の調査を進めた。今回、首都圏を中心とした全国二百十人について調査、結果をまとめた》ことを紹介する。その結果というものが、《それによると、全体の60%にβ波の低下が見られ、ゲーム脳と同等かそれ以上にひどい若者が目立ったという。β波の低下している中高生には、教科書を十分間以上集中して読めない、簡単な漢字が思い出せない、忘れ物が多いなどの傾向があった》という。
 さて、この「結果」と称するものに、いくつもの問題が見られる。まず、全国210人に調査した、というけれども、そのうち携帯電話使用者と非使用者は何人いるのか、ということが明示されていない。また、《全体の60%にβ波の低下が見られ》たというけれども、それはあくまで全体の平均であって、携帯電話使用者と非使用者の間に統計的に有意な差が見られた、ということを瀧井氏は突っ込むべきだった。また、この調査に関しては中高生しかサンプリングされていないけれども、それより上、あるいはそれより下の世代に関してサンプリングされていないところ、つまり、比較の対象がないことも、この統計データを疑う要素になりうる。森氏は、結論ありきでこの調査を行い、瀧井氏もその恣意性を疑うことをしなかった(できなかった?)としか考えられない。簡単に言えば若年層バッシングのための調査としか考えられない。
 瀧井氏は、その直後で、《ある高校三年の女子の場合、メールを一時間に四十通ほどのペースで、毎日六時間から八時間も送受信し続けていた。帰宅後、朝食の内容を聞いても思い出せなかった》と事例らしきものを出す。しかし、《メールを一時間に四十通ほどのペース》というのはあまりにも忙しすぎるとはいえまいか。だから、《朝食の内容を聞いても思い出せなかった》というのは十分にありうるケースのように思える。そもそもこの《高校三年の女子》のβ波はどうだったのだろうか。瀧井氏はその点をはっきりすべきである。
 また、森氏はメールを打つことが脳を使っていないことを指摘しているけれども、はっきり言ってこの発言は100パーセントが誤解であるといっても過言ではない。曰く、《一見、メールで文章を作っているので脳が働いているように思えますが、実際は一覧表から言葉を選んで文章を作っており、ほとんど前頭前野は働いていません。指の筋肉を収縮させているだけです》と。《一覧表から言葉を選んで文章を作って》いる人が、果たして何人いるのだろうか。これは、森氏のステレオタイプでしかないのではないか。1億歩譲って、メールで文章を作っている人が実際に《一覧表から言葉を選んで文章を作って》いるとしても、《一覧表》から言葉を選ぶということに関しても確実に何かを考えているだろう。森氏にとって最初から「悪」とその原因が決まっている。これでは陰謀論ではないか。
 瀧井氏は言う、《東京都の調査では、高校生の85%が携帯電話を持ち、71%が毎日のようにメールのやりとりをしている》と。しかし、その調査が、果たして森氏の「調査」にどれほど影響を及ぼしているのであろうか。さらに瀧井氏は《東京・渋谷の街頭で、ごく普通の服装をした二人の女子高生に聞いてみた》と書いているけれども、これでは基準が曖昧すぎやしまいか。《ごく普通の服装》とはいかなる服装なのか。瀧井氏のイメージの中にある「今時の若者」の服装なのだろうか、それとも?それにしても渋谷とは。何でこの手の記事・報道は渋谷にばかり向かうのだろうか。もっとも、私自身渋谷に行った経験から言ってみると、渋谷に行けば「今時の若者」という「記号」が見つかりやすいのだが。
 瀧井氏は、再び事例らしきものを出して(それがどこまで一般性を持ちうるか、というのは分からずじまいであるが)《返事を出さないと不安になり、いつの間にか依存症的になる。森教授は、このような携帯電話漬けのケースがよく見られると指摘する》と書く。しかし、これはむしろ脳科学ではなく心理学と社会学のほうが説明がつくのではないか、と思えるし、実際結構納得の行く解説がいくつか存在している(例えば、土井隆義[2003]など)。森氏は《メール脳の予防》について《携帯電話でメールをする場合、用件だけにすることです。続けても十五分以内。一日のトータルで十五分程度にするようアドバイスしています》と言っている。あまりにも安直過ぎる。さまざまなところで単純な悪影響論を語りまくってきた森氏のことだから、その「解決策」もまたあまりにも単純になってしまうのも当然といえるかもしれないが。
 はっきり言っておくが、脳波におけるβ波の低下は脳機能の低下を意味しない。また、脳機能の低下は、社会性の低下を意味しない。このことについては、私なんかよりも遥かに優れた森氏への批判があるので、そちらを参照していただきたいのだが、せめてこれだけは何度でも言っておきたい、森氏のように脳機能を人間性のメタファーと考えることは、脳に障害のある人たちへの差別を暗に容認している、ということを。
 もはや一国の宰相よりも権力が大きくなってしまった森氏と、それを疑わずに疑似科学を垂れ流す瀧井氏。「メール脳」概念は、権力とジャーナリズムの腐敗のミクスチュアによって生まれた暴力なのである。
 蛇足だが、瀧井氏は、この記事を《十月二日、東京都世田谷区の日本大文理学部で開催される「日本健康行動科学会」の公開特別講演で、森教授がメール脳について報告する》という文章で結んでいる。しかし、この「日本健康行動科学会」は、森氏が設立した学会で会長は森氏であり、森氏の学説の唯一の発表の場となっている。

 参考文献・資料
 斎藤環[2003]
 斎藤環『心理学化する社会』PHP研究所、2003年10月
 瀧井宏臣[2004]
 瀧井宏臣「痴呆のような「メール脳」」=2004年9月30日付東京新聞
 土井隆義[2003]
 土井隆義『〈非行少年〉の消滅』信山社、2003年12月

 笠原嘉『アパシー・シンドローム』岩波現代文庫、2002年12月
 カール・セーガン、青木薫:訳『人はなぜエセ科学に騙されるのか』新潮文庫、上下巻、2000年11月
 ウォルター・リップマン、掛川トミ子:訳『世論』岩波文庫、上下巻、1987年2月

 大和久将志「欲望する脳 心を造りだす」=「AERA」2003年1月13日号、朝日新聞社
 斎藤環「「知の巨人」にファック!もうやめようよ「なんでも前頭葉」」=別冊宝島編集部・編『立花隆「嘘八百」の研究』宝島社文庫、2002年7月

 参考リンク
 「All About Japan」内「ゲーム業界ニュース

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2005年3月24日 (木)

俗流若者論ケースファイル07・森昭雄

 長らくお待たせしました、今最もホットな曲学阿世の徒、日本大学文理学部体育学科教授・森昭雄氏の登場です。森教授といえば、2002年に著書『ゲーム脳の恐怖』(NHK出版生活人新書)を世に問い、「ゲームをやりすぎると前頭前野の機能が低下して、少年犯罪や青少年の問題行動が激増する!」という説を発表して、社会の、特に教育関係者とPTA関係者に絶大な支持を得た。しかし、この本に対する疑問の声もそこらじゅうで囁かれ、ネット上ではその言説がいかに間違っているか、というサイトが多数出現した。さらに最近では、ネット上ではなく出版でも「ゲーム脳」を疑問視する声が出始め、寝屋川の少年犯罪では「週刊ポスト」などが「ゲーム脳」を復活させたのに対し、「週刊朝日」は当初から「ゲーム脳」を批判していた精神科医の斎藤環氏のコメントを掲載して「寝屋川の事件を「ゲーム脳」と結びつけるのはおかしい」という内容の記事を書いた。週刊誌上で、「ゲーム脳」理論が否定された最初の記事であった。それ以外にも、宮崎哲弥(評論家:朝日新聞社の月刊誌「論座」で平成12年5月号から平成15年3月号まで連載されていた週刊誌時評の、平成14年9・12月号、平成15年1月号、及び文藝春秋の月刊誌「諸君!」で平成15年7月号から連載中の「今月の新書完全読破」の平成16年9月号、平成17年2月号)、風野春樹(精神科医)、川島隆太(東北大学教授)、山本弘(作家:山本弘[2004])、香山リカ(精神科医:香山リカ、森健[2004])、「切込隊長」こと山本一郎(経営コンサルタント)各氏などが出版やウェブ上で森氏を批判し、特に山本氏が会長を務める「と学会」は、『ゲーム脳の恐怖』を平成15年のトンデモ本大賞候補にノミネートした(結局、次点で終わったが)。平成16年8月には、『ゲーム脳の恐怖』の続編にあたる『ITに殺される子どもたち』(講談社)が出たが、このようなムーヴメントの影響か、それほど部数を伸ばすことはなかった(私はこの本を平成17年1月下旬に書店に取り寄せてもらって買ったが、1回も増刷されていなかった)。
 それでも森氏は絶好調である。創価学会系の出版社である潮出版社が出している月刊誌「潮」の平成17年4月号に、森氏が「“ゲーム脳”に冒される現代人」なる記事を書いている。この記事も、ほかの森氏の著書・論文と同様に、いたずらにゲームを敵視するような杜撰な論証立てが目立っている。
 森氏は82ページから83ページにかけて、「ゲーム脳」について、《テレビゲームをやりすぎることによって前頭前野の機能が低下し、脳波のうちリラックスしているときに出るα波より、計算をしたり、考えたり、精神活動をしているときに出るβ波が低下する状態》(森昭雄[2005]、以下、断りがないなら同様)としている。これが《高齢者の認知症(筆者注:痴呆症のこと。私はこのような言い方は単なる思考停止にしか思えないので、本文中では引用部分を除き「痴呆症」と表記する)の進行状態を数値化する実験をしていたときに、コンピュータに長時間向かっている人たちの脳波が認知症の人の脳波とよく似ていることに気付いた》というので、さらにテレビゲームを夢中にやっているときとか、あるいは携帯電話のメールを打っているときにもβ波が低下したというから、森氏は《このまま放置しておくと、キレやすく、注意力散漫で、創造性を養うことのないまま大人になっていく子どもがますます増えるのではないか》といってしまっている。これは間違いなく痴呆症のかたがたに対する差別であろう。森氏は84ページにおいても同様の論証立てをしているけれども、このような言い方では、痴呆症の人は社会性がない、といっているに等しい。また、ロルフ・デーゲン『フロイト先生のウソ』(文春文庫)の348ページでは、古典的なテレビゲームの一種である「テトリス」に関して、初心者は脳神経をフル活用していたけれども、熟練者になるにつれて脳の活動範囲が狭くなっていることが示されている。同書では、頭脳労働(ゲーム以外にも、ここでは複雑な計算が例として示されている)に関して熟練度に反比例して脳のエネルギー消費量が少なくなる、ということも示されている(ロルフ・デーゲン[2003])。なので、ゲームに熟練していればゲーム中に脳の活動が活発にならない、というのは必然なのであるが、そのことを理解しないで森氏はゲームが社会性を奪う、と断じてしまう。森氏は本当に脳科学の専門家なのだろうか。
 森氏は85ページから87ページにかけて、ゲームの悪影響をこれでもかこれでもかと論じている。しかし、ここにはいくつもの疑問がある。例えば森氏は《テレビゲームをやると「反射神経がよくなる」》と言われることに対して、《反射というのは基本的には脊髄レベルや納棺レベルで起こるもので、大脳皮質とは直接関係ない》と書いているが、ゲーム経験者として言うと、まったくのデタラメである。確かにある程度熟練すると、反射的にボタンを押すようになることもできるかもしれないが、それでも最初のほうはしっかりと目の前の情報を大脳でもって判断するほかないし、そもそもこのようなことが起こるのは一部のアクションゲームくらいであろう。ゲームにもいろいろ種類があり、ロールプレイングゲームやパズルゲームはかなり思考を要する。森氏は86ページにおいて《指を動かす機能はよくなっても、ある意味ではロボット的になってしまうのだ》と言っているけれども、これも根拠薄弱な「お話」に過ぎない。大体《ロボット的》という言い方が、森氏の感覚を表しているように思える。
 86ページ、森氏は《テレビゲームは「集中力を高める」というのも誤解である》と言っている。しかし、その根拠として出すのが、《これまでの実験でも「ゲーム脳」という結果が出た子どもの多くは忘れ物が多く、勉強にも5分か10分ぐらいしか集中できないと、本人たち自身が訴えている》というものである。このようなものを科学的な実証結果として提示できる森氏とは一体何なのか。これらの子供たちは、ただ勉強が嫌いなだけかもしれないのだが、森氏はそのように考えなかったのだろうか。それに、忘れ物が多い、というのも、それが脳機能の低下を表している、とは言えないし、そもそも「ゲーム脳」であるかどうか以外の要素をコントロールしていない(影響を排除していない)のはどういうわけか。
 しかし、これだけで止まる森氏ではない。86ページから87ページにかけて、ゲームが《空想と現実の境目があいまいになってくる》理由として、なんと《ある高校で公演したとき、生徒から「僕はゲームでは女の子とデートできるのに、実際には話すこともできません」といわれて愕然とした》自らの経験だけで済ませてしまうのである。《空想と現実の境目》に関しては後で述べるとするが、これだけではもはや根拠不明確どころの騒ぎではないし、そもそもいかなる状態を《空想と現実の境目があいまいになってくる》状態と指すのか森氏は開示する義務がある。しかしも利子はさらに暴走する。なんと《これでは近年多発している“女の子の連れ去り事件”のような犯罪が減るはずもない》と断言してしまうのである。愕然とするのは私のほうだ。第一、我が国ではペドファイルに殺される子供の数よりも児童虐待で殺される子供の数のほうが遥かに多く、児童虐待で殺される子供の数よりも自動車に殺される子供の数のほうが遥かに多いのだが。それにしても《減るはずもない》とは…。
 森氏は87ページから88ページかけて「ゲーム脳」の解決法を示している。曰く、ゲームは即刻やめるべし。なんて安直なのだろうか。それにしても、87ページと88ページにおける森氏の行動はすさまじい。87ページでは、《「この子は覚えることや考えることが苦手なんです。どうしたらいいでしょうか」と、小学生の子どもをつれて相談にきたお母さん》に関して、《検査してみると、やはり「ゲーム脳」だった》とし、さらに森氏はその子供に対して《このままゲームをやっていると脳が働かなくなっちゃうよ。お父さんやお母さんの顔がわからなくなってもいいの?》と言ってしまうのである。自分の子供の記憶力や思考力に問題があるように見える子供を脳科学の専門家(ということはかなり怪しいのだが)である森氏に相談する母親も母親だが、安直にゲームを悪玉視し、さらに《脳が働かなくなっちゃう》だとか《お父さんやお母さんの顔がわからなくな》る、と恫喝する森氏も森氏である。脳波がたとえ痴呆症の人と同じであっても、その人が痴呆症であると断じられる根拠はないのである。88ページでは《テレビゲーム歴10年の大学生》に関してもその学生に「ゲーム脳」とプロファイリングするのだが、その大学生は《結婚して子どもができたら、子供にはテレビゲームは絶対させません》と答えたのだという。
 森氏にとって「ゲーム脳」とは万能の言葉であり、その一言で人や世間を動かすことができる魔法である。
 斎藤環氏や山本弘氏が指摘している通り(斎藤環[2003]、山本弘[2004])、森氏の「ゲーム脳」理論は、子供がゲームに熱中することを快く思わない人が多いからこそ広まったという側面は無視できない。また、多くのマスメディアは、「脳科学の専門家が「ゲームをやると脳に悪影響が出る」と言っている」という一点張りでこの疑似科学を支持しているような気がしてならないのである。しかし、「ゲーム脳」といった安直なプロファイリングは、何かに悩んでいる人に対する根本的な解決策を提示せずに、悪しき甘えや諦めを蔓延させることにならないか。また、「ゲーム脳」という「人種」を捏造してしまうことによって、差別や迫害まがいののことが起こっているのも、また事実である。これは森氏だけでなく、森氏の珍説を懸命に広めている学者やジャーナリストも責任を追うべきである(この代表格は、北海道大学教授で大脳生理学者の澤口俊之氏と、ジャーナリストの草薙厚子氏と、朝日新聞記者の浜田敬子氏であろう。澤口氏は自身のホームページ上で「ゲーム脳」への支持を明確にしている。草薙氏は平成15年7月のの長崎の少年犯罪で「ゲーム脳」の危険性を「週刊文春」誌上で訴えていた(現在手元にないので確認できない)。浜田氏は平成14年に「AERA」で2回も「ゲーム脳」関連記事を書いていた:浜田敬子[2002a][2002b])。そうでなくとも、最近では、青少年問題を即刻脳の問題に摩り替えることが蔓延しているようで、斎藤氏は、その一種である「算数障害」(他の教科はできるのに、算数しかできないのは脳の異常だ、という珍概念)なる言葉に関して《なんとも言えない違和感は忘れないようにしたい》(斎藤環[2003])と言っている。
 脳の障害を社会性の喪失と規定することも問題である。最近は、福祉工学の発達により、身体のある部位に障害が生じても、社会生活を取り戻せるような技術が進んでいる(伊福部達[2004])。また、そのような規定は、即刻障害者差別につながる危険な論理ではないか。
 脳科学の俊英として注目されている、ソニーコンピュータサイエンス研究所シニアリサーチャーの茂木健一郎氏は、著書『脳と仮想』(新潮社)の第5章において、テレビゲームについて論じている。茂木氏は、廣松渉氏(哲学者・故人)や養老孟司氏(北里大学教授)がテレビゲームに熱中したことがある、ということを紹介しつつ、テレビゲームという新たな仮想の世界が人間の意識に及ぼす影響を考察し、《現実をこそ良く見ろ、というゲームに対する批判》(この段落は、全て茂木健一郎[2004]からの引用)に対して《人間というものが、必然的に仮想と現実の間を行ったり来たりする存在であるという本質を忘れてしまっている》と反論し、テレビゲームによる「仮想」の体験を《そこに立ち表れるのは私たちが現実と言い、仮想と言っている意識の中の脳内現象の二つの相の関係についての、なにやら不可思議なものの感触である》と論じている。
 テレビゲームはある意味では親子間や友達間のコミュニケーションのツールにもなりうる。確かに、そのやりすぎで実生活に悪影響が及んでしまったら問題だけれども、徒にゲームを敵視し、巷で(ワイドショー的に)報じられている青少年の凶悪犯罪や「問題行動」に関して即刻「ゲームの悪影響」と喧伝し、「ゲーム脳」なる疑似科学によって子供たちからゲームという貴重な体験を奪ってはならない。「ゲーム脳」理論を真に受けている人は、もう一度その言論の暴力性と差別性を考えてほしい。
 ちなみに、さまざまなサイトによると、森氏は各種の講演会で少年犯罪や「恥知らず」どころかひきこもりやフリーターさえも「ゲーム脳」だと断じているという。東京新聞では、ジャーナリストの瀧井宏臣氏が森氏の新たな珍説「メール脳」を好意的に紹介している(瀧井宏臣[2004])。森氏にとって脳は神である。脳が全てを決定するらしい。さらに、森氏はゲームをやると自閉症になるという説(当然、これも珍説である)までも発表し、日本自閉症協会東京都支部がこれに遺憾の意を示した、という事態も起こっている。私が密かに楽しみにしているのが、森氏はいつブッシュやフセインや金正日や小泉純一郎を「ゲーム脳」と断じるのだろうか、ということである。

 参考文献・資料
 伊福部達[2004]
 伊福部達『福祉工学の挑戦』中公新書、2004年12月
 香山リカ、森健[2004]
 香山リカ、森健『ネット王子とケータイ姫』中公新書ラクレ、2004年11月
 斎藤環[2003]
 斎藤環『心理学化する社会』PHP研究所、2003年10月
 瀧井宏臣[2004]
 瀧井宏臣「痴呆のような「メール脳」」=2004年9月30日付東京新聞
 ロルフ・デーゲン[2003]
 ロルフ・デーゲン、赤根洋子:訳『フロイト先生のウソ』文春文庫、2003年1月
 浜田敬子[2002a]
 浜田敬子「TVが子供の脳を壊す」=「AERA」2002年7月15日号、朝日新聞社
 浜田敬子[2002b]
 浜田敬子「携帯メールが脳を壊す」=「AERA」2002年10月7日号、朝日新聞社
 茂木健一郎[2004]
 茂木健一郎『脳と仮想』新潮社、2004年9月
 森昭雄[2005]
 森昭雄「“ゲーム脳”に冒される現代人」=「潮」2004年5月号、潮出版社
 山本弘[2004]
 山本弘「現代のナマハゲ――森昭雄『ゲーム脳の恐怖』」=と学会・編『トンデモ本の世界T』太田出版、2004年5月

 笠原嘉『アパシー・シンドローム』岩波現代文庫、2002年12月
 近藤康太郎『朝日新聞記者が書いたアメリカ人「アホ・マヌケ」論』講談社+α新書、2004年7月
 カール・セーガン、青木薫:訳『人はなぜエセ科学に騙されるのか』新潮文庫、上下巻、2000年11月
 芹沢一也『狂気と犯罪』講談社+α新書、2005年1月
 広田照幸『教育言説の歴史社会学』名古屋大学出版会、2001年1月
 廣中直行『やめたくてもやめられない脳』ちくま新書、2003年9月
 茂木健一郎『意識とはなにか』ちくま新書、2003年10月

 大和久将志「欲望する脳 心を造りだす」=「AERA」2003年1月13日号、朝日新聞社
 斎藤環「「知の巨人」にファック!もうやめようよ「なんでも前頭葉」」=別冊宝島編集部・編『立花隆「嘘八百」の研究』宝島社文庫、2002年7月
 品川裕香「「ADHD」にとまどう教育現場」=「論座」2002年11月号、朝日新聞社
 山内リカ「高次脳機能障害とは何か」=「論座」2005年2月、朝日新聞社

 参考リンク
 「All About Japan」内「ゲーム業界ニュース

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2005年3月23日 (水)

俗流若者論ケースファイル06・若狭毅

 それにしても、毎日新聞社が発行する週刊誌「サンデー毎日」における、奈良女子児童誘拐殺人事件に対する報道姿勢はすさまじかった。犯人の小林薫容疑者には一貫して「ロリコン殺人鬼」という「称号」を与えて、犯人が捕まった直後に発売された雑誌はその行為がいかに奇妙なものであったかを喧伝し、「週刊文春」「週刊新潮」どころか「週刊ポスト」「週刊現代」もびっくりのすさまじい見出しのレイアウトを施し、日本版メーガン法にはその問題点を少しも考慮せず一足飛びにどのメディアよりもその導入を主張し、編集部の中がさもヒステリーに陥っているかのごとき報道体制になっているのが私には気がかりでならなかった。このような事態が起こる背景には、この犯人が毎日新聞で販売員をしていたという経歴があった、ということが少なからず含まれていると推測する。
 さて、ここからが本題である。その「サンデー毎日」の異常なまでのヒステリーは、そのとき連載されていた「脳ルネッサンス」にも及んでいた。この連載は、同誌編集部の若狭毅氏が担当している。若狭氏はその第6回で、「犯罪に向かうセロトニン欠乏脳」(平成17年1月30日号掲載)と称し、この犯人の脳について論じているわけだが、はっきりいってこの文章はそこらの俗流若者論を(擬似)脳科学的なアナロジーに無理やり結び付けており、実証的なデータはどこにもなく、まさに疑似科学の典型であった。
 若狭氏は、126ページにおいて、脳神経科学の専門家である澤口俊之氏(北海道大学教授)の《同性愛になる脳が遺伝や環境要因によって作られること、あるいは脳の構造から潜在的な同性愛者が推定できることは、脳科学の世界ではほぼ確立した事実》(若狭毅[2005]、以下、断りがないなら同様)という指摘を引いて、《という。まあ、ロリコンも同じことなのである》と言っている。そんなに短絡的に考えていいのだろうか。澤口氏の所論についても疑問がある。同性愛になる脳がいかなる遺伝的条件や環境的条件によって作られるのだろうか。せめてどのような学説なのか、またどのようなデータに基づいているのかも証明していただきたいものだ。これは若狭氏の責任でもあるのだが。ちなみに澤口氏は、当初は脳科学の俊英として有名だったものの、平成12年に『平然と車内で化粧する脳』(現在は扶桑社文庫で読める)なる本を出して、マスコミと俗流若者論には評判がよかったが脳科学に少しでも理解のある専門家や評論家からは総スカンを食らった、という経歴がある。
 閑話休題、若狭氏は127ページにおいて《確かに、犯罪に向かう脳があるようなのだ》と書いているけれども、そこで提示されている事例が、それこそ「サンデー毎日」が犯人叩きとロリコン叩きに血道を上げているなら女子児童誘拐殺人事件だけ、というのは腰が甘すぎる、ということに若狭氏は気付いているのだろうか。
 若狭氏は同じページで、動物実験の事例を挙げる。この実験の内容は、脳内分泌物質であるセロトニンが欠乏したネズミ(ラット及びマウス。これらは実験用に買われているので、普段は攻撃的ではない)は、異種間の攻撃行動を起こす、というもの。これは獨協医科大学の上田秀一教授によって行なわれたことである。ちなみにセロトニンだけを欠乏させた場合は、異種間での殺し合いは起こったが同種での殺し合いは起こらなかったという。
 若狭氏は、上田氏の実験をさらに詳述する。曰く、上田氏はセロトニンのみならずノルアドレナリン及びドーパミンに関しても実験を行い(セロトニン、ノルアドレナリン、ドーパミンは感情的な行動に大きく関係している神経物質)、もっともネズミが凶暴になったのはノルアドレナリンを欠乏させ、ドーパミンを増加させたときだという。上田氏のこのような実験は、学者としての良心にかなったものであり、セロトニンだけを問題視することはできない、という事実を指摘している。我々は、この実験結果を頭に入れて、若狭氏の文章を読んでいく必要がある。
 若狭氏は127ページの終わりのほうで、ケージの中で数週間変われていたネズミ(つまり、このケージはこのネズミの縄張りである。このネズミを甲とする)と、セロトニン及びノルアドレナリンを欠乏させ、ドーパミンを増幅させたネズミ(このネズミを乙とする)を対峙させたところ、乙のネズミが甲のネズミを執拗に攻撃した、との結果が出たと書いている。つまり、乙のネズミの攻撃性はセロトニンの欠乏のみならずノルアドレナリンの欠乏、そしてドーパミンの増幅が重なったからこそ起こったのである。ところが若狭氏は、128ページの最初のほうで、乙のネズミを一貫して「セロトニン欠乏ネズミ」と表記しているのである。若狭氏の辞書にはノルアドレナリンとドーパミンはない、あるいは最初から排除されているらしい。つまり、若狭氏の記事の中では最初からセロトニンの欠乏が「悪玉」として採用されているのである。そして、そのことに正当性を与えてしまうような学説を、若狭氏は紹介する。東邦大学医学部の有田秀穂教授は、《普段おとなしい子が突発的にキレることが問題になっている》ことについて《うつ状態やパニック発作に似た症状が見られますから、セロトニン神経が弱っている可能性が考えられます》と指摘する。ここで有田氏に聞きたい。有田氏はノルアドレナリンやドーパミンについてコントロール(影響を排除すること)を行なったのか。しかし、そのようなことは有田氏にとってはどうでもいいことらしく、有田氏はぬけぬけと《セロトニン不足は現代の生活習慣病です》と言ってしまい、さらに若狭氏が《部屋に閉じこもって何時間もゲームを続ける生活を挙げる》事に関して、有田氏は《これは確実にセロトニンを低下させます》と指摘する。なぜゲームだけなのだろうか。他の行為に関してはコントロールを行なわなかったのだろうか。また、ゲームだけをやっている状態と、例えばゲームをやりながらガムを噛んでいる(この記事では、ガムを噛むことで血液中のセロトニンレヴェルが増加するというデータを挙げている。どこまで一般性があるかどうかはわからないが)場合はどうなのだろうか。
 若狭氏は、有田氏による「セロトニン欠乏脳セルフチェックシート」を129ページにて提示するのだが、これまた突っ込みどころが満載だ。

 1・朝の寝起きが悪く、なかなか頭がすっきりと目覚めない
 2・背中が丸まって姿勢が悪く、身体の芯に力がない
 3・起立姿勢が保てず、すぐにしゃがみこんでしまう
 4・顔つきがとろんとして、生気がない
 5・噛む力が弱い
 6・朝に不定愁訴(腹痛、頭痛、下痢などの自律神経失調の症状)を訴える
 7・ちょっとした痛みに大げさに騒ぎ立てる
 8・些細なことが気にかかって、なかなか受け流せない
 9・舞い上がると、すぐには平静に戻れない
 10・ゲーム漬けの生活をしている
 11・際限なく食べてしまう
 12・薬やアルコールなどに依存症的な傾向がある
 13・ちょっとしてストレスでキレてしまう
 14・動物を虐待してしまう
 15・突然、窒息感に襲われる
 16・閉じこもって生活をしている
 17・眠りが浅く、夜中に頻繁に目が覚める
 18・いびきをかき、ときどき呼吸が止まる

 有田氏曰く、1・2・4・6・8・10・15・16・17に当てはまると《うつ》、1・2・3・4・5・6・7・8・9・10・13・14・16に当てはまると《キレる》、1・2・4・6・9・11・12に当てはまると《摂食障害》、1・2・4・6・8・17・18に当てはまると《不眠》、1・2・3・4・5・6・11・12・16・17・18に当てはまると《肥満》、8・9・13・15に当てはまると《アガる》というのである。セロトニンは万能である。セロトニンが欠乏すると、こんなに問題行動が起こってしまうらしい。ノルアドレナリンやドーパミンの立場はない。それはさておき、これらのものは、全て別の因果関係が証明できるものばかりである。1の《朝の寝起きが悪く、なかなか頭がすっきりと目覚めない》というのは、なんと《アガる》を除く全ての症状が見られるというのだが、例えばうつ病や摂食障害から寝起きが悪くなるということ、すなわち有田氏の想定した因果関係とは逆のものが起こる可能性も否定できない。5の《噛む力が弱い》に関して言うと、これは《キレる》《肥満》につながるというけれども、例えば病気や老衰などで噛む力が弱い場合、それらの人が総じて《キレる》《肥満》の症状を示すとはいえるのだろうか。10においては、ゲームがすぐさまセロトニンの欠乏を促すというけれども、例えば「ビートマニア」だとか「ダンス・ダンス・レボリューション」みたいなリズム運動を促すようなゲームもあるし(有田氏は、リズム運動の実行がセロトニンの増加を促す、としている)、どのような種類のゲームがセロトニンの欠乏(あるいは増加)を促すか、ということはわからずじまいである。4・7・8・9・13に関しては、単に性格的なものである可能性も否定できないし、この中のいくつかを兼ね備えた人ならかねてから掃いて捨てるほどいたと思う。
 他にもいろいろ突っ込みたいところはあるのだけれども、最も大きい問題は、これらの因果関係を示す具体的なデータが一つも示されていないことである。これは有田氏のチェックテストのみならず、同じようなノリで行なわれている健康関係のテレビ番組にも言えることであるが、もっともらしい因果関係をでっち上げてその危険性をあおる、という行為は、ともすれば「科学的」に「正しい」生活をしているかどうか、という強迫観念を抱かせて、かえってストレスが増加してしまうことを引き起こしかねないし、大体この手のノリの言説や番組は話題をコロコロ変える。この手の言説や番組にとって「現代人の生活が乱れている」というのは呪文の如きイデオロギーである。このような姿勢の蔓延が、昨今の「健康」の法制化という事態を及ぼした、ということも無視できないだろう(柄本三代子[2002]、根本清樹[2005])。
 若狭氏は最後のほうで、《犯罪を考えるとき、生物生理学的な視点を無視することはできないのではないか。神経科学的な角度から犯罪に向かう脳をとらえる必要があるかもしれない。原因を知れば、対策も立てられようというものだ》と表記している。なるほど、確かに犯罪者の脳を調べることをタブー視してはならないかもしれないし、それが新しい学説につながる可能性も否定できない。しかし、そのためには「普通の」人の脳のデータが必要であり、そこからどのようにして「犯罪を起こす脳」になるのか検証する必要がある(我が国において擬似脳科学的な「お話」が蔓延している理由として、これらの因果関係を示す具体的なデータがないことがあるのかもしれない。澤口氏や有田氏は、期せずして我が国における犯罪者のプライバシーが厳重に守られていることの恩恵をこうむっていることになる)。また、若狭氏は、《原因を知れば、対策も立てられようというものだ》と結んでいるが、この《対策》が矯正プログラムを示しているのであれば理解できるけれども、もしそれが犯罪を犯す脳を特定して、それに当てはまる人たちを事前に隔離しておく、というのであれば、それこそ人権上の配慮が必要ではないのか。もしこのようなことが起こってしまったら、犯罪者がいないまま犯人ばかりが逮捕されていくという事態を招かざるを得ない。戦前においては、このような「悪性」の特定は俗流心理学によって支えられていたが(芹沢一也[2005])、現代はそのような「悪性」の特定は俗流脳科学によって支えられるのだろうか。
 本来は真っ当な科学がある種の欲望を持った似非学者によって疑似科学に変えられて、それが権力の横暴を許してしまったというケースは、ナチス・ドイツの事例を出すまでもなく、歴史上に無数にある。そのような科学と権力の暴走を抑えるのは倫理の確立である。平成7年のオウム真理教の事件以降、大学では科学倫理の授業が活発になったけれども、我が国の(良識があるはずの)大人たちによって、科学倫理のない疑似科学が、しかも青少年問題の場を中心に盛り上がっている状況下で、科学倫理教育の必要性を叫んでも、無駄なのかもしれない。しかし、倫理を持って疑似科学に立ち向かう良心的な人も我が国には少なくない。そのような倫理を確実に広めていくことこそ、マスコミの使命ではないのか。
 本稿において真に問いかけたいのは、以下のことに尽きる。
 若狭氏及び「サンデー毎日」編集部に、その倫理と覚悟があるか!

 参考文献・資料
 柄本三代子[2002]
 柄本三代子「科学のワイドショー化を笑えない時代」=「中央公論」2002年11月号、中央公論新社
 芹沢一也[2005]
 芹沢一也『狂気と犯罪』講談社+α新書、2005年1月
 根本清樹[2005]
 根本清樹「ごもっとも、ではありますが」=2005年2月9日付朝日新聞
 若狭毅[2005]
 若狭毅「犯罪に向かうセロトニン欠乏脳」=「サンデー毎日」2005年1月30日号、毎日新聞社

 と学会・編『トンデモ本の世界T』太田出版、2004年5月
 マーティン・ガードナー、市場泰男:訳『奇妙な論理』ハヤカワ文庫NF、全2巻、2003年1月
 金子勝、児玉龍彦『逆システム学』岩波新書、2004年1月
 斎藤環『心理学化する社会』PHP研究所、2003年10月
 カール・セーガン、青木薫:訳『人はなぜエセ科学に騙されるのか』新潮文庫、上下巻、2000年11月
 谷岡一郎『「社会調査」のウソ』文春新書、2000年5月
 十川幸司『精神分析』岩波書店、2003年11月
 日垣隆『現代日本の問題集』講談社現代新書、2004年6月
 廣中直行『やめたくてもやめられない脳』ちくま新書、2003年9月
 宮崎哲弥、藤井誠二『少年の「罪と罰」論』春秋社、2001年5月
 ウォルター・リップマン、掛川トミ子:訳『世論』岩波文庫、上下巻、1987年2月

 大和久将志「欲望する脳 心を造りだす」=「AERA」2003年1月13日号、朝日新聞社
 粥川準二「こうして疑似科学になった『環境ホルモン入門』」=別冊宝島編集部・編『立花隆「嘘八百」の研究』宝島社文庫、2002年7月
 斎藤環「「知の巨人」にファック!もうやめようよ「なんでも前頭葉」」=別冊宝島編集部・編『立花隆「嘘八百」の研究』宝島社文庫、2002年7月
 佐久間裕美子「ブッシュvs.同性愛カップル」=「AERA」2004年7月12日号、朝日新聞社
 瀬川茂子「東京都発「正しい性教育」」=「AERA」2004年10月25日号、朝日新聞社
 西村由貴「小児性愛とは何か」=「現代」2005年3月号、講談社

 参考リンク
 「斎藤環氏に聞くゲーム脳の恐怖」(斎藤環氏:精神科医)

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2005年3月22日 (火)

俗流若者論ケースファイル05・牧太郎

 ある象徴的事件が、ある特徴を持った人々や世代に対する(間違った認識としての)ステレオタイプを生み出す、というケースを、毎日新聞社会部の牧太郎氏が「サンデー毎日」に連載しているコラム「青い空 白い雲」の第8回、「「コスプレ男」は最弱国のシンボルにして…」(平成16年12月5日号掲載)を参考に見ていこう。
 牧氏は冒頭で、昨年から今年にかけてベストセラーとなった『電車男』(新潮社)を引き合いに出し、それについて《劇的であるかと言われると…?役に立ったかといえば…?ただ、こんな前近代の遺物のような「ウブな男」がこの世にいる。その「ウブ」を共有する(見ず知らずの)仲間たちがいる。これが新鮮で、買ってしまった》(牧太郎[2004a]、以下、断りがないなら同様)と書く。《前近代の遺物のような「ウブな男」がこの世にいる。その「ウブ」を共有する(見ず知らずの)仲間たちがいる》というのが、また牧氏の差別感覚が透けて見える文章なのであるが、これについては問題はまだ小さいし、そもそも私は『電車男』を読んでいない(というより、読んだが途中で投げ出した)ので、この本の内容についても言及することができないので、ここでは触れないでおこう。
 問題はこの文章の後半部分にある。牧氏は、『電車男』を構成する「ウブな男」を求めて、秋葉原を歩くことにした。牧氏はJRの秋葉原駅から降りてくる人に関してこのような特徴を記している。曰く、《JR秋葉原駅から「ウブな男」が後から後から降りてくる。地方からやってきたのか。バックパックにスニーカー。服装は粗末。気のせいかメガネが多い。気のせいか顔色も白い。オタク?》と。秋葉原に向う人々をそのまま《ウブな男》と規定してしまうのがこれまたすさまじいのではあるが、《バックパックにスニーカー。服装は粗末。気のせいかメガネが多い。気のせいか顔色も白い》というのは、一般的に言われている「オタク」のイメージにかなり重なるので、牧氏の特徴記述はあながち間違ったものではないのかもしれない。
 53ページ2段目において、《何人かは黙々と、しかし、一途に「お目当ての店」に向かった》とある。秋葉原においては、アニメ、美少女ゲーム、家電、パソコンなどの店がある通り沿いに集中しており、ある種の「棲み分け」が成立しているので(福井洋平[2004])、《一途に「お目当ての店」に向かった》というのは牧氏の偏見ということはできない。
 しかし牧氏はここから一気に暴走する。同じページの2段目から3段目にかけて、牧氏は《なにやら普通の店ではないカフェ》の中の様子を記述する。おそらくメイド喫茶であろう。牧氏はその店内の記述において、相当な矛盾をしでかす。曰く、《これをコスチュームプレー。略してコスプレと言うのだそうだ。誰とも話すこともなく、ノートパソコンで店内を映像中継する。どうして、こんなの流行るの?街の評論家は「セーラー服、女性警官、看護婦……規則正しい、道徳的なイメージ、エッチを否定する制服が犯される。その矛盾が堪らない」》と。この文章の後半における《街の評論家》(このような記述も牧氏の感覚が透けて見えると思うのだが)のコメントは、どうも明らかにメイド喫茶の様子を表したものではないような気がしてならない。また、このメイド喫茶に来ていた全ての人が《誰とも話すこともなく、ノートパソコンで店内を映像中継する》という行動をしているのか、また《「セーラー服、女性警官、看護婦……規則正しい、道徳的なイメージ、エッチを否定する制服が犯される。その矛盾が堪らない」》という「意見」が、メイド喫茶に来る人の意見を代表したものであるかもわからない。「萌え」を目的に来る人も多いはずではないか。
 にもかかわらず、牧氏はこう断罪してしまう。曰く、《恐ろしい。誰とも話さない(話せない)20~40代のオタクが、あの「手鏡の大学教授」と同じように「犯す行為」を夢想する》と。恐ろしくなるのは私のほうだ。明らかにメイド喫茶の客の代表とは思えないコメントを引き合いに出し、そこから秋葉原に来る人、さらにはオタク全体のイメージを構築してしまい、それらの人に《誰とも話さない(話せない)20~40代のオタク》とレッテルを貼り付け、さらには彼らをかの《手鏡の大学教授》(誰とは言わない)と強引に結びつけ、彼らを犯罪的だと罵るのである。牧氏は本当に新聞記者なのだろうか。自らの不快に思う事例を強引に自らの体験した、あるいは巷で(ワイドショー趣味的に)報じられている象徴的事例と結びつけ、それに反社会的という烙印を押し付けることによって、あいつらは自分とは違う、あいつらみたいな奴が犯罪を起こしたり社会に混乱をもたらす、と勝手に決め付けてしまう、という行為は、ジャーナリストにとってあるまじき行為、いうなれば「御用学者」的な行為ではないか(もっとも、このような行為こそ、新聞の社会部的な行為、と言うこともできるかもしれないが)。
 牧氏は、この直後(53ページ3~4段目)で、《嗚呼、ウブより怖いものはない。この「ウブ」の奇形。多分、哲学を失い、某国大統領のペットに成り下がった「最弱ウブ国家」のシンボル?気持ち悪~い!》とまで言ってしまう。正気の沙汰だろうか。《気持ち悪~い!》のは私のほうである。牧氏は3段目で《「ウブな男」もイロイロだ》と言っておきながらも、《嗚呼、ウブより怖いものはない》と断定し、さらに《某国大統領のペットに成り下がった「最弱ウブ国家」のシンボル》と断罪しているわけだ。どう考えても、牧氏は自らのステレオタイプを検証もせずに徒に膨らませ、さらに「憂国」してみせる、というスタイルに没頭してしまっている。こういった思考は、それこそ牧氏が《某国大統領》と表記している米帝ブッシュの、イラク戦争を正当化した論理に他ならないではないか。
 しかし、牧氏はここでは終わらない。同じ連載の、「サンデー毎日」平成16年12月19日号のコラムで、牧氏は「サン毎」平成16年12月12日号において毎日新聞特別顧問で牧氏の大先輩にあたる岩見隆夫氏が《ヨン様見たさに、日本女性が大挙して韓国になだれ込む現象だけは、理解を超える》(この段落に関しては、全て牧太郎[2004b]からの引用)と書いたことに関する反論として書いているのだが、同誌54ページ1段目の最後のほうで、《だが、待てよ。彼女たち(筆者注:「ヨン様」こと裵勇俊氏などの韓国のスターに熱中する熱狂的な女性ファンたち)は理解されえぬ存在なのだろうか。違うと思う。むしろ「おバカさん」は日本人男性の方ではないか》と書くのだが、牧氏は同じページの2段目でまたもや《そんな指導者(筆者注:小泉純一郎首相)を見ているからか、ある種の成年は東京・秋葉原の電気街で「かわいらしい制服姿の女の子が犯されるアダルトビデオ」を買いあさり、引きこもる。凶悪な犯罪に結びつく》と書き飛ばしている。いい加減にしてほしいものだ。大体、性犯罪者とアダルトビデオに関する有意な統計的な相関関係、さらにそれを裏付ける因果関係をまったく証明せずに、「「ひきこもり」のアダルトビデオオタクは犯罪者だ」みたいな「思い込み」を平然と書いてしまう牧氏は、本当にジャーナリストなのか。このような姿勢は、「サンデー毎日」における奈良県女子児童有害事件に対する異常なまでの(そして、その論理は本当に暴走していた)報道体制と歩調を合わせている気がしてならない。まあ、ここまで考えるのは少々考えすぎかもしれないが。
 閑話休題、牧氏の一連のオタクに関する偏見は、牧氏の実際に見聞きした、あるいは巷で報道されているような象徴的事件と、自らの違和感を強引にミクスチャーさせ、その犯罪性を喧伝することによって自らのステレオタイプを正当化するのみならず、そのような人々を反社会的だとして囲い込むという行動に疑いはない。そしてそれは、牧氏のみならず俗流若者論全体の欲望でもある。ジャーナリストの大谷昭宏氏を批判したときにも書いたが、自らの「理解できない」状況を即刻現代社会の病理と断じ、さらにそれを反社会的、犯罪的とレッテルを貼るのは、俗流若者論にとってはもはや当たり前のことである。だから、牧氏だけの問題ではない、ということもできるが、牧氏は新聞記者であり、さらに新聞社系の週刊誌に連載コラムを持っているのだから、本来なら、俗流若者論の暴走を抑える立場にあるはずである。しかし、牧氏がこの2本のコラムで行なったのは、明らかに火に油を注ぐ行為であり、俗流若者論の暴走を正当化するものでしかない。
 ちなみに秋葉原に関しても触れておこう。秋葉原は、1990年代、秋葉原においてパソコンの売上が急増する2000年ごろまで、電器店が次々と閉店する代わりに、パソコンショップが台頭して、さらにそれ以降はその後を継ぐようにオタクビジネスが発生した。このように秋葉原がオタクの都市として変貌し、建築学者の森川嘉一郎氏などが「趣都」と呼ぶような都市になった理由としては、森川氏は《パソコンを愛好する人は、ゲームやアニメなども好む》(森川嘉一郎[2003b])と指摘した上で、パソコンショップが台頭している秋葉原にオタク趣味の偏在が起こったことを論じている(森川嘉一郎[2003a][2003b]、福井洋平[2004])。このような秋葉原の変貌は、都市論の分野においても注目を集め、ベネチア・ビエンナーレ国際建築展に出展されるほどである(玉重佐知子[2004])。森川氏などが指摘するとおり、秋葉原の形成は明らかに渋谷とは異なり、従って秋葉原を渋谷と同列に「若者の街」になってしまったとして嘆いている読売新聞の某記者(いつぞやかの「編集委員が読む」欄だったと記憶している。「某記者」と表記しているのは、それが今手元にないからである)の如きは、自分の「理解できない」ものをそのまま「今時の若者」の病理とする若者論的思考から早く脱却していただきたい。
 しかし、最近は秋葉原にも翳りが見え始めている。というのも、東京都知事の石原慎太郎氏が秋葉原をITビジネスの拠点にするという政策を打ち出し、秋葉原の再開発が進められている。これに伴い、秋葉原のオタク系店舗が駅前から撤退したのみならず、最近ではオタクを狙った職務質問が急増しているのである。朝日新聞社の「AERA」編集部の福井洋平氏は、オタクの職務質問が急増しているにもかかわらず、秋葉原で違法ソフトを売りさばいている外国人は「言葉が通じないから」といって警察から無視されていると指摘している(福井洋平[2004][2005])。私は今年3月12日から13日にかけて、東京に旅行した。そのとき、秋葉原にも寄ったのだが、秋葉原駅前に秋葉原を見下ろす権力のように建っている高層ビルに、とてつもない違和感を覚えた。東京都庁も権力のようだったが、その建築的な目的が何となく見えていた。しかし、秋葉原の高層ビルは、その構想もないままただ建っているような気がしてならなかった。
 警察権力と巨大資本によって(あえてこういう言い方をさせてもらう)秋葉原が「浄化」され、どこにでもあるような単なる都市になってしまったら、牧氏をはじめオタクを嫌悪したがる人たちには朗報かもしれないが、オタクにとっては安住の地がなくなるだろう。牧氏の如く、オタクを最低国のシンボルとみなす人は、ある意味では、自らの理想の中にしか存在しない「強い国家」を取り戻したいという歪んだ男根主義、国粋主義的なイデオローグに加担しているのである(牧氏は「ウブな男」を《「最弱ウブ国家」のシンボル》としていたのだから、男根主義、という言い方もあながち間違いではなかろう)。

 参考文献・資料
 玉重佐知子[2004]
 玉重佐知子「「おたく」ベネチアへ」=「AERA」2004年11月8日号、朝日新聞社
 福井洋平[2004]
 福井洋平「アキハバラ萌えるバザール」=「AERA」2004年12月13日号、朝日新聞社
 福井洋平[2005]
 福井洋平「オタク狩り?警察の狙い」=「AERA」2005年3月7日号
 牧太郎[2004a]
 牧太郎「「コスプレ男」は最弱国のシンボルにして…」=「サンデー毎日」2004年12月5日号、毎日新聞社
 牧太郎[2004b]
 牧太郎「ヨンジュンシー サランヘヨ~!が、なぜ悪い」=「サンデー毎日」2004年12月19日号、毎日新聞社
 森川嘉一郎[2003a]
 森川嘉一郎『趣都の誕生』幻冬社、2003年2月
 森川嘉一郎[2003b]
 森川嘉一郎「趣都 人格の偏在が都市風景を変える」=「中央公論」2004年1月号、中央公論新社

 東浩紀『動物化するポストモダン』講談社現代新書、2001年11月
 五十嵐太郎『過防備都市』中公新書ラクレ、2004年7月
 植田和弘、神野直彦、西村幸夫、間宮陽介・編『(岩波講座・都市の再生を考える・4)都市経済と産業再生』岩波書店、2004年12月
 植田和弘、神野直彦、西村幸夫、間宮陽介・編『(岩波講座・都市の再生を考える・7)公共空間としての都市』岩波書店、2005年1月
 姜尚中『ナショナリズム』岩波書店、2001年10月
 斎藤環『ひきこもり文化論』紀伊國屋書店、2003年12月
 斎藤美奈子『物は言いよう』平凡社、2004年11月
 芹沢一也『狂気と犯罪』講談社+α新書、2005年1月
 橋本健午『有害図書と青少年問題』明石書店、2002年12月
 歪、鵠『「非国民」手帖』情報センター出版局、2004年4月
 宮台真司『宮台真司interviews』世界書院、2005年2月
 山本七平『日本はなぜ敗れるのか』角川Oneテーマ21、2004年3月
 ウォルター・リップマン、掛川トミ子:訳『世論』岩波文庫、上下巻、1987年2月

 小林道雄「警察腐敗の根源はどこにあるか」=「世界」2005年3月号、岩波書店
 杉田敦「「彼ら」とは違う「私たち」――統一地方選の民意を考える」=「世界」2003年6月号、岩波書店
 中原麻衣、千葉紗子、清水愛「Monthly People:中原麻衣&千葉紗子&清水愛」=「声優グランプリ」2004年8月号、主婦の友社
 浜井浩一「「治安悪化」と刑事政策の転換」=「世界」2005年3月号
 藤生明「第4次首都改造計画」=「AERA」2002年1月14日号、朝日新聞社
 宮崎羽衣「hm3 Interview FLASH:宮崎羽衣」=「hm3 SPECIAL」2005年3月号、音楽専科社

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2005年3月21日 (月)

俗流若者論ケースファイル04・荷宮和子

 時として、自らを絶対の正義と僭称し、さらにその思い込みに自らが埋没してしまい、いかなる対話も避け、自らのステレオタイプのみによって物事を判断しようとする人が出てくる。ステレオタイプとは、いったん自らの身についてしまうと、後はそれを克服するにはかなりの苦労を要する。最も望ましいのは、ステレオタイプを排して曇りのない目で物事を判断することなのであるが、言うは易く行なうは難し、人は物事を考えるときに、ステレオタイプが入り込む余地が生まれてしまい、そして実際につけ込まれてしまう。だから、我々が他人や情報に接するときに必要なのは、できるだけ自らの内なるステレオタイプの暴走を抑えることである。
 そしてそのためには、自らの抱えるステレオタイプに気付くことが不可欠である。しかし、自らの正義に陶酔し、自己を顧みることのできない人物は、自らのステレオタイプの暴走を抑えることができず、自らを棚に上げた差別的言辞ばかりを振りかざすようになる。評価の判断基準となるのは自らの思い込みと正義だけになる。
 最近の、フリーライター・荷宮和子氏の言動を見ているとこう思う。
 荷宮氏は最近になって、評論家の大塚英志氏の主宰する雑誌「新現実」の第2号に若者論を寄稿してから、その言動はいよいよステレオタイプと自らの「正義」の暴走が強くなり、自らを大上段に規定して罵詈雑言を浴びせかける、というスタイルがもはや荷宮氏のスタイルとして定着してしまった感がある。
 そろそろ本題に入る。
 平成16年6月頭に発生した、佐世保の女子児童殺害事件の衝撃も覚めやらぬ中、講談社の月刊誌「現代」の平成17年8月号に、荷宮氏の文章「「2ちゃんねる」に集まる負の本能」が掲載されている。この記事は、長崎の事件というよりは、かの有名なインターネット上の巨大掲示板「2ちゃんねる」(以下「2ch」)を扱ったものである。蛇足だが、同じ月に発売された、産経新聞の月刊誌「正論」で、ジャーナリストの西村幸祐氏が2chを白々しく持ち上げている文章が載っていたのであるが、それにも嫌な感じを受けた。このような文章を平然として載せる「正論」とは、一体何なのか、と。
 しかし、敵の敵は味方ではない。荷宮氏の文章も、西村氏の文章と同じくらい、あるいはそれ以上の不快感を覚えたのである。
 169ページにおいて荷宮氏は言う、《2ちゃんねるに書き込みをしているのは具体的にどんな人たちなのか。……私は「就職した時点でパソコンを使うことがすでに当たり前になっていた世代」が中心である、と言うことにしている》と(荷宮和子[2004]、以下、断りがないなら同様)。ところが同じページにおいて、荷宮氏は《「20代後半から30代の男性」以外の層がネットを楽しむようになった時点ではすでに、ネットならではの言い回しだの、ある種の「殺伐とした空気」だのは出来上がっていた、と考えられる》と書いている。すなわち、この文章においては《就職した時点でパソコンを使うことがすでに当たり前になっていた世代》と《20代後半から30代の男性》は同値なのだろうが、女性は最初から排除されている。また、荷宮氏は《20代後半から30代の男性》がなぜ《ある種の「殺伐とした空気」》を生み出すのか、その理由となっているのは何か、なぜ他の世代や女性は違うのか、ということも考えるべきであろう。このような規定は、荷宮氏の勝手な思い込みによる決め付けでしかない。
 しかし、このような批判は、この文章の抱える最も大きな問題に比べては、枝葉末節を突くようなものでしかない。170ページにおいて、荷宮氏はいくつかの書き込みを例にとって、2chで差別的言辞を振りまく者について《おそらくは、「在日ではなく、女ではなく、低学歴ではない人間」》と推測しながらも、《なぜかネットの中ではそのことをバッシングする書き込みが見当たらない属性がある。すなわち、「低所得者のくせに」、だ》という理由から、《「在日ではなく、女ではなく、低学歴ではないものの、しかし、低所得な人間」なのではないか》と推測する。もっとも、このような論証立てには突っ込みどころが満載なのだが、ここではそのような仮定を受け入れるとしよう。荷宮氏は、そのような状況が生まれる社会的背景について、《この種のコメント(筆者注:荷宮氏が171ページ1段目において引用している竹中平蔵氏の「日経ビジネス」平成12年7月10日号のコメントで、《みんなで平等に貧しくなるか、頑張れる人に引っ張ってもらって少しでも底上げを狙うか、道は後者しかないのです》というもの)を見かけることは今では珍しくない。……しかも、少なからぬ人間が、その方向を目指している政治家や学者等を支持しているのである》と論じている。荷宮氏は、このような状況を生み出した政治家や学者を糾弾するのだろう、と思われる向きがあるかもしれない。
 しかし、荷宮氏の批判の矛先は、政治家や学者ではなく、なんと荷宮氏が社会の最底辺に置かれているとしている人に向かうのである。
 荷宮氏は171ページから172ページにかけて言う、《生まれや性別等によって人を差別するのは、「無教養な田舎者」の振る舞いであり、戦後民主主義の中で生きてきた日本人の多くは、「教養のある都会人」として見られるよう、つまり、「無教養な田舎者」とは見なされないよう、努力してきたはずである》と。さらに荷宮氏は、ネット上の人に関して《現実の社会に生きる「無教養な田舎者」ならば身につけているはずの、「愛すべき朴訥さ」や「人間としての実直さ」はそこにはない。ただただ、「無教養な田舎者」の悪しき要素のみが、ネットにはぶちまけられているのである》とまで暴言を浴びせかけている。これは明らかに荷宮氏が社会の最底辺にいると規定した人に対する差別ではないか。大体、《生まれや性別等によって人を差別するのは、「無教養な田舎者」の振る舞いであり……「無教養な田舎者」とは見なされないよう、努力してきたはずである》といった側面は確かにあるかもしれないが、《「愛すべき朴訥さ」や「人間としての実直さ」》があるならば《無教養な田舎者》でもいいはずだし、そもそも《現実の社会に生きる「無教養な田舎者」ならば身につけているはずの、「愛すべき朴訥さ」や「人間としての実直さ」》というのが何なのかはわからない。この文章を見るだけでも、荷宮氏のネットに関する認識どころか、現代社会に関する認識が透けて見えるではないか。荷宮氏は社会の最底辺に属する人に救いの手を差し伸べる、あるいは彼らを生み出した支配構造を批判する、ということは決してしない。ただただ、彼らを反社会的分子とみなし、ひたすら危険だと喧伝して、彼らをさらにゲットーに囲い込んでいるのである。なんだか、荷宮氏こそ2chの申し子ではないか、という気がしてきたが、ここではもう少し抑えなければなるまい。
 荷宮氏の狼藉は止まらない。173ページにおいて荷宮氏は言う、《「強きを助け弱きをくじきたい」というのが彼らのメンタリティであり、さらに言えば、彼らは、「バレなければ何をしてもいい」とも思っているのである。……それが今どきの日本人の姿なのである。そして、損案現実についてを、もっともわかりやすくしめしてくれているのが、2ちゃんねるの書き込みなのである》と。よく知られている通り、2chにおいて差別的言辞が見られるのはニュース速報板が多く、また差別的言辞は「煽り」として即座に批判されることも多いのだが、荷宮氏は、2chの書き込みだけを見て《それが今どきの日本人の姿なのである》と言っているのである。荷宮氏の社会認識が、ここでも透けて見えるではないか。
 荷宮氏の《在日ではなく、女ではなく、低学歴ではないものの、しかし、低所得な人間》への蔑視は、174ページにおいて暴発・暴走する。荷宮氏は、《では、そんな現実がこのまま続けば、果たしてどんな結果へとつながっていくのだろうか》と書くのだが、荷宮氏はスーパー・ペシミストの立場を採る。荷宮氏は、なんと《その種の意見を見かけるたびに、「戦争になったら強姦し放題だぜ!」という彼らの声なき声が私には聞こえてくる》と言ってしまうのである。ここまでひどい差別はあるまい!荷宮氏は170ページにおいて、インターネットに差別的言辞を書き込んでいる人たち(すなわち《在日ではなく、女ではなく、低学歴ではないものの、しかし、低所得な人間》)は小泉純一郎や竹中平蔵などに代表されるような新古典派経済政策の犠牲者である、といったことを述べていたはずなのだが、174ページにおいては、彼らを鬼畜以下の存在とみなしているのである。荷宮氏はさらに言う、《だからこそ、こんな状況の中で「月刊現代」をわざわざ読んでいる、といった人たちには、「無教養な田舎物」が戦場に送られたときに何をしでかすかについての自覚と覚悟を、抱いておいてほしいと思うのである》と。ちなみに、この文章が、荷宮氏の文章の結びである。
 ここまで見たとおり、荷宮氏はあからさまな低所得者差別をしでかしているのだ。荷宮氏は、自らを「教養のある都会人」と規定し、「無教養な田舎者」に差別的なレッテルを貼って現代社会を論じた「つもり」になっているのである。明らかに荷宮氏は批判する対象が違っている。これこそが最近問題にされているような都市型新保守主義(例えば、ユージン・A・マシューズ[2003])、それも極右に位置するものではないか。「反差別」を声高に叫ぶ者こそ最大の差別者となる、という逆説を目の前で見ているようだ。
 荷宮氏のメンタリティは、自らをセレブリティと規定し、自分の気に食わないものを「反社会的」として罵詈雑言を浴びせかけることであり、ともすれば表面上では国家権力に反抗しつつも実際には国家権力に擦り寄りかねない、危険なメンタリティだ。荷宮氏の目線は、(荷宮氏が批判しているはずの)権力の目線とまったく同じであり、その目線は社会の底辺に属している人への残酷で蔑視的な視線で満ちている。荷宮氏は170ページにおいて竹中平蔵氏を批判しているけれども、この文章における荷宮氏の態度は、竹中氏のそれと近い、あるいはもっとひどいものである。荷宮氏は言論の権力性をまったく自覚せず、自分が強者でありながら弱者を気取り、権力を批判するそぶりをして社会的弱者を囲い込む。このような行為は、現実に存在する差別問題の解決を遠ざけるだけでなく、想像力を枯渇させる。荷宮氏は「男」を過剰に敵視するけれども、それも結局自身の差別意識の表出に過ぎない。荷宮氏の論理は「男/女」という構造の解体に向かうのでは決してなく、荷宮氏の身勝手な論理によって「消費」されるだけだ(「日本人/在日」「高学歴/低学歴」「都会人/田舎者」も同様に)。簡単に言えば、荷宮氏は権力よりも権力的に(別の言い方をすれば、2chよりも2ch的に)振る舞っているのである。
 現在主流になりつつある差別は、荷宮氏が問題にしたがるような「無教養な田舎者」的な差別よりも、むしろ「市民の安全」とか「社会の安定」だとかいった、「市民社会的な」レトリックを楯に取った「都市型新保守主義」的な差別であり、美辞麗句の裏に隠れた差別意識こそを我々は見通さなくてはならない。荷宮氏は、「反差別」を気取った都市型新保守主義(あるいは、都市型生活保守主義)の極右として認識されるべきである。
 ここからは蛇足であるが、荷宮氏が問題視しているように、2chは巨大なのだろうか。確かに巨大なのであるが、最近はその地位にかげりが生じている。この最も強い理由として、私がこの文章を発表しているようなブログの台頭である。ブログにおいては匿名性という「護符」がなくなったり、あるいは参入に特殊なリテラシーを必要としなかったりと、評論家の東浩紀氏が指摘するとおり、掲示板とは違い《日常を志向している》(東浩紀[2005])といえるような特徴がいくつもある。社会学者の北田暁大氏がいうところの「99年体制」も、ブログなどのインタラクティヴなネット・コミュニケーションの台頭により、解体されつつある。
 また、2chの利用者数も停滞傾向が見られている。ネットの視聴率を調査しているネットレイティング社によると、2chのアクセス数は平成15年1月に4億ページビューに達したのをピークに、減少傾向にある(内山洋紀、佐藤秀男[2004])。このような背景には、社会学者の宮台真司氏が言うところの、2ch的な「梯子外しに戯れる弱者共同体」的なコミュニケーションに人々が飽き始めた、ということも無視できないだろう。

 参考文献・資料
 東浩紀[2005]
 東浩紀「ネットは真の言論の場になれるか」=「論座」2005年4月号、朝日新聞社
 内山洋紀、佐藤秀男[2004]
 内山洋紀、佐藤秀男「さらば、2ちゃんねる」=「AERA」2004年7月12日号、朝日新聞社
 荷宮和子[2004]
 荷宮和子「「2ちゃんねる」に集まる負の本能」=「現代」2004年8月号、講談社
 ユージン・A・マシューズ[2003]
 ユージン・A・マシューズ「アメリカは日本社会の質的変化に関心を向けよ」=「論座」2003年12月号/「FOREIGN AFFAIRS」提携論文、朝日新聞社

 奥平康弘、宮台真司『憲法対論』平凡社新書、2002年12月
 金子勝、児玉龍彦『逆システム学』岩波新書、2004年1月
 金子勝、アンドリュー・デウィット、藤原帰一、宮台真司『不安の正体!』筑摩書房、2004年10月
 姜尚中『ナショナリズム』岩波書店、2001年11月
 北田暁大『嗤う日本の「ナショナリズム」』NHKブックス、2005年2月
 斎藤美奈子『物は言いよう』平凡社、2004年11月
 宮台真司『宮台真司interviews』世界書院、2005年2月
 ウォルター・リップマン、掛川トミ子:訳『世論』岩波文庫、上下巻、1987年2月

 牛村圭「「文明の裁き」はかくも不公平 BC級戦犯とイラク捕虜虐待事件」=「諸君!」2004年9月号、文藝春秋
 内山洋紀、福井洋平「ブログの時代がやって来た」=「AERA」2004年7月12日号、朝日新聞社
 北原みのり「気がつけば「女性憎悪」全開の時代」=「論座」2005年3月号、朝日新聞社
 渋谷望「万国のミドルクラス諸君、団結せよ!? アブジェクションと階級無意識」=「現代思想」2005年1月号、青土社
 杉田敦「「彼ら」とは違う「私たち」――統一地方選の民意を考える」=「世界」2003年6月号、岩波書店
 瀬川茂子「東京都発「正しい性教育」」=「AERA」2004年10月25日号、朝日新聞社
 スーザン・ソンタグ「他者の拷問への眼差し」=「論座」2004年8月号、朝日新聞社
 武田徹「ブログとメディアの補完関係を急げ」=「論座」2005年4月号、朝日新聞社

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2005年3月19日 (土)

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 週刊!木村剛:[ゴーログ]岡田民主党は年金改革を為し遂げられるか?(木村剛氏:エコノミスト)
 保坂展人のどこどこ日記:年金広報、1枚1万円のポスターの無駄(保坂展人氏:元衆議院議員・社民党)
 保坂氏のブログでは、すさまじい事実が指摘されています。

今日、午後1時30分からの『報道特捜ブロジェクト』(日本テレビ系)で、『ポスター1枚1万円、年金無駄遣い』と題して、年金広報で湯水のように使われていくパンフレットやポスターの類の謎に迫る番組が放映された。
自慢じゃないが、このカラクリに最初に気がついたのは私だ。2年11月17日の衆議院決算行政監視委員会で質問にたった私は、『明日があるから国民年金』(年友企画)を手にかざして、発行部数が168万部に及んでいることを追及した。
なぜなら、新成人は150万人台前半となっていることを過去の人口統計で知っていたからだ。社会保険庁運営部長はたじろき、答弁に窮した。質問後、大量発注で定価69円の冊子を49円で買い上げている。その金額は8800万円だと答えてきた。財源は年金保険料で94年以来、毎年大量に製作されていることもわかった。
議員だったこともあって、成人式にはこの8年間、毎回出席してきた。新成人は全員手ぶらである。以前にはあった「記念品」を配るということをやめて久しい。記念品に何かを配るのなら、そこにパンフレットを同封するということも出来るだろう。
私は直感的に理解した。このパンフは、ほんの一部しか配られていない。大量に印刷されて大量に廃棄されるか、また大量に印刷されたことにして少ししか作られていないか、どちらかだろう。

 昨今の年金未納の増加を受けてか、厚生労働省(旧厚生省)は広報に必死なようです。しかし、保坂氏は、これらのポスターの多くは無駄になっているか、あるいはポスターの印刷部数を水増しして、その結果、ポスター1枚あたり1万円、というものすごく法外な印刷料がたたき出されている、ということを指摘しております。
 保坂氏は社民党ですが、民主党は、このようなことはどんどん追及すべきだと思います。現在、事実上自民党(+公明党)と民主党の二大政党体制になっているのですが、民主党の岡田克也代表は「野党ではなく政権準備党」だといっています。これには少々困ってしまいます。
 第一に、岡田氏は政権に関する準備をあまり国民に開示していないような気がします。また、岡田氏の動向を見ると、「政権準備」が「与党(=自公連立内閣)に擦り寄ること」みたいになっている気もしないでならないからです。二大政党制がうまく機能するためには、その二つの政党の政策的な違いがよく見えるようにしないといけません。大事なのは、対案を出すときは、徹底的に理詰めで提案し、できるだけアウトサイダー(すなわち、組織の外部にいるような人間や、その問題にあまり関心を持っていない人)にも分かるようにすることだと思います。身内の論理でいつの間にか決まっていた、というのではなく、できるだけ「説得」することが不可欠なように思えます。そうしないと、民主党も自民党と同じような「野合政党」みたく思われてしまうでしょうし、読売新聞あたりに足をすくわれて党是が自民党と瓜二つになってしまいかねません。

 お知らせ。このような内容を扱っているブログには似つかわしいことではないかもしれませんが、春休み特別企画をやります。その名も「俗流若者論ケースファイル5連発」。このブログの連載企画である「俗流若者論ケースファイル」を1日1本、今月21日~25日の5日間、合計5本公開します。もういい加減にしてほしいほどメディアに露出している俗流若者論の大スターから、意表をつくようなあの人、さらに新聞記者まで、誰が出るかはお楽しみ。でもその前に、「俗流若者論ケースファイル」の過去のシリーズ、「大谷昭宏」「小原信」「福島章」もお楽しみください。
 「人権擁護法案」に関する個人的見解をまとめた「人権擁護法案反対の倫理を問う」もお読みください。「人権擁護法案」の本質的な欠陥がわかるように書いたつもりです。

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2005年3月17日 (木)

人権擁護法案反対の倫理を問う

 人権という概念こそ、我が国において最もその意図するところと違う形で国民に理解されているものである。現在国会で議論されている「人権擁護法案」は、その誤解・曲解の帰結として出ている、と私は見ている。
 その前に人権の本来の意味とは何か、ということを突き詰めて考えてみると、それは国家権力の横暴に対抗するための理念である。現在の日本国憲法を読んでみると、例えば国家による思想や言論の統制を許さないために21条が存在し、あるいは不当に理由をでっち上げられて不当に逮捕されることがないように33条が存在するのである。人権が(正当に)侵害されるのは、侵害される対象の者が他人の権利を侵害した場合のみであり(例えば刑法犯など)、もう一つ言えば人権を侵害する主体は、基本的に国家しかないのである。また、憲法とは国家に対する命令であり、人権を保障しなければならないものである。
 ところがある時期の我が国において、この「人権」概念が不当に拡大解釈される時期があった。私が中学時代をすごした90年代後半(平成8~12年ごろ)、私は「子供の人権」ということが大量に出回ったことを記憶している。平成9年に発生した神戸市の児童殺傷事件において、一部の雑誌がこの犯罪者の顔写真を掲載したことについて、一部の「左翼」的な人々が「人権侵害だ」と喧伝した。さらに、「左翼」的な人々は、親と子供の関係についても「人権」概念を超拡大解釈して半ば暴力的に「適用」していた。親が子供の暴力を振るうことどころか、親が自分の優位性を子供に示すことさえもが「人権侵害」だといわれていたのである。しかし前者に関しては明確な刑法犯であり、後者に関してはもはや法律的な概念を適用することさえいかがなものか、というレヴェルである。彼らは言葉の上では子供を尊重しているのかもしれないが、実のところ決して子供を尊重しているのではない、いわば「子供」を過度にイデオロギー化しているのである。
 また、少年法に関して言うと、この法律は決して少年犯罪者の人権を尊重したものではないどころか、むしろその人権を制限したものでしかない、というべきである。例えば、日本国憲法によると、《何人も、裁判所において裁判を受ける権利を奪はれない》(第32条)のであるが、少年法においては、少年を一人前ではないと規定する故に第32条をはじめとする憲法上のさまざまな諸権利に関して制限をつけているのである。「少年犯罪者の人権保護」として少年法を挙げるのであれば、むしろ少年法を批判しなければならないのであるが、「子供の人権」を過度に唱える人はなぜか少年法も絶賛していた。彼らにとって「子供」は飯の種でしかないのだろう。
 このような倒錯した議論が「左翼」の側に起こっていた。当然、このような暴論に対してバックラッシュが起こるのだが、このバックラッシュもまた暴論であった。しかもそのような暴論が噴出したのが、また青少年問題だったのである。
 「人権」を貶める「右翼」的な人は言う、戦後の教育が「権利」ばかりを教えてきて「義務」を教えてこなかったから、現在のような青少年問題が頻発するようになったのだ、と。しかし、そのような議論の帰結は決まってあの犯人を晒し首にしろ的な感情論であり、そうすることによって青少年問題を解消したいのであろうが、そのような「教育効果」に期待を持ってしまうことは、それこそ本当の意味での人権侵害を肯定する羽目になってしまうのではないか。彼らはマスメディアが好んで喧伝したがる「今時の若者」という虚像にただ乗りしたがっているだけで、「人権」はそれを盛り立ててくれる単なる道具でしかない。
 このように、我が国において「人権」概念は本来の意味とはかけ離れて受容されてきた。なので、今回「人権擁護法案」として提出されている法案は、まさに「人権擁護」の名の下に人権侵害を平然と行なうことができるようになる法案になってしまっているのである。
 「人権擁護法案」において、《人権侵害》とは、《この法律において「人権侵害」とは、不当な差別、虐待その他の人権を侵害する行為》と規定されている。しかし、その定義は依然曖昧なままだ。さらに、この法律を全文読んでみても、この起草者における「人権」概念に対する誤解・曲解は明らかであろう。冒頭でも説明したとおり、「人権」概念とは国家と国民の力関係のことを指すのであるが、この法案においては、何が「人権」であるかは曖昧なまま、左派論壇的で通俗的な「人権」概念がそのまま適用されている。さらに、この法案では、「人権擁護委員会」が政府から独立した組織ではなく法務省の管轄となっており、さらに同法案によると、委員会に申し出があったら調査をすることができるとあるが、それを判断するのは裁判所ではなく委員会であり、ここでは明確な人権侵害が正当化されている。さらに、同法案43条によると、差別を「助長」する行為でさえもこの法案の罰則の範疇になってしまうという。これではますますその規定があいまいであり、マスコミの調査報道や、(左右の自称「識者」が問題にしたがるような)漫画やアニメやゲームが処罰を受ける可能性もある。このような悪法を生み出した最大の原因は、「人権」概念を過度に拡大解釈、あるいは矮小化してきた論壇にある。論壇の皆様には、このような事実を深く受け止めていただきたいものである(そしてこの曲解をはびこらせたのが「若者論」だということも)。
 本来の意味での人権擁護法案とは、国家による不当な人権侵害に対する被害の回復を目的にしなければならず、当然、それを執行する委員会は国権、特に行政権からは独立しているものでなければならない(そしてそれこそが、本来国連人権委員会が求めていたものである)。このような形でないと、本来の人権保護は達成できるものではない。現在の法案は、むしろ差別利権を加速するものでしかないのではないか。
 無論、この法案の起草者が人権という概念の本来の意味に極めて無頓着なのも大問題なのだが、この法案におけるもう一つの大問題は、「何が差別か」ということに関して国民的なコンセンサスが得られないまま、国家が「これが差別である」と規定してしまうことである。しかし、「何が差別か」ということを決めるのは、まさしく国民、市民、共同体の総意であって、国家が一方的に決めることではないはずである。この法案の問題点は、まさしく「何が差別か」ということを国民の間で規定することを国家に丸投げしてしまうということにあって、自ら問題を解決することの放棄を意味しているのである。これはあまりにも重大な問題とはいえまいか。
 精神科医の斎藤環氏は、東京都の「有害図書指定」に関して、このような条例の制定は本来家族や社会が行うべきことを条例=行政が行なう事によって、共同体による問題解決機能の低下を危惧していた(斎藤環[2003])が、私が「人権擁護法案」に対して危惧しているのもまさしくそれで、自らが複雑だと思う問題を全て行政に任せてしまうことによって、国家の果てしない肥大化と同時に社会の思考停止が起こってしまうことを危惧している。
 このような動きは、何も「人権擁護法案」だとか「有害図書指定」だとかにとどまるものではない。例えば教育基本法の改正案において、「国を愛する心」を法律に入れろ、などといっている人がいるけれども、何が愛国心なのか、という厳密な定義がないまま、ただ国旗や国家にひざまずくことが愛国心だといわれている。しかし、それは厳密には愛国心とは言えず、むしろ国粋主義ではないのか(平成16年に起こったイラクでの人質への政府関係者の暴言が意味したところは、教育基本法の改正をもくろむ者にとって「愛国」とは「政府に従うこと」であることが明らかになったことである)。愛国心とは、昭和天皇陛下がおっしゃるところの《子々孫々の反映のために身を粉にすることを厭わない》(奥平康弘、宮台真司[2002])であるという社会学者の宮台真司氏の指摘が正統であろう。
 「人権擁護法案」に関して、確かにネット上では批判が渦巻いているし、多くの批判が実に正当な理由に裏付けられている。しかし、一部の、特に「2ちゃんねる」的な批判論者が、例えば「この法律が思考されると「人権擁護委員会」に外国人が入って北朝鮮に対する制裁論を言ったら即刻検挙される!」みたいな(ちょっと暴力的に要約しすぎか)、いわば「俺たちに好き勝手やらせろ」的な、あるいは2chにありがちな「反サヨ」的な「批判」をいっているのが残念でならない。彼らは、「売国的な言動を禁じる」といったないようの「愛国者法」みたいなものが審議されたら、反対するのだろうか。この法案の最大の問題点は、国家が「人権擁護」のもと人権侵害を公然と行なえることにあり、また、この法案は、日本国民の市民としての矜持を軽視する法案なのである。私は、市民としての矜持を守るために、この法案に反対する。それが愛国心というものだ。

 参考文献資料
 奥平康弘、宮台真司[2002]
 奥平康弘、宮台真司『憲法対論』平凡社新書、2002年12月18日
 斎藤環[2003]
 斎藤環「条例強化というお節介には断固反対する」=「中央公論」2004年1月号、中央公論新社

 岡留安則『『噂の眞相』25年戦記』集英社新書、2005年1月
 芹沢一也『狂気と犯罪』講談社+α新書、2005年1月
 長谷部恭男『憲法と平和を問いなおす』ちくま新書、2004年4月
 日垣隆『現代日本の問題集』講談社現代新書、2004年6月
 宮台真司『亜細亜主義の顛末に学べ』実践社、2004年9月
 宮台真司『宮台真司interviews』世界書房、2005年2月

 参考リンク
 「すべてを疑え!! MAMO's Site」(坂本衛氏:ジャーナリスト)
 「このまま通してはいけない! 「人権擁護法案」 -緊急記者会見とアピール-」(アジアプレス)
 「【主張】人権擁護法案 問題多く廃案にすべきだ」(産経新聞・05年03月10日付)
 「言論表現の規制が問題」(しんぶん赤旗・05年03月13日付)

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2005年3月16日 (水)

トラックバック雑記文・05年03月16日

 今月12日から13日にかけて、東京に行ってきました。JRの土日きっぷ(宮城県古川市より南の東北、関東全域、中部地方の東部におけるJRの電車賃が指定した土日はすべて無料になる。新幹線も含む)を使って、ひたすら山手線などに乗り続け、いろいろ歩いてきました。私が足を運んだのは池袋、渋谷、原宿、お台場、新宿、代々木、神保町、秋葉原、汐留(シオサイト)です。
 そこで私が思ったことをあげておくと、まず、渋谷(渋谷センター街)と原宿(表参道)ではぜんぜん違う、ということです。私がいいと思ったのは原宿(表参道)でした。表参道は、原宿駅から東向きに通っている大通りのことですが、大通りだけに風通しがよく、通りの両脇に大きなビルが建っていてもあまり圧迫感を覚えないし、植栽もあって、散歩にはちょうどいい場所かもしれない、と思いました。表参道では、現在同潤会代官山アパートの建て替え工事が安藤忠雄建築事務所などの主導で行われていますが、この新生代官山アパートが原宿の景観と社会環境にいかに影響を及ぼすか、楽しみになってきました。
 一方、渋谷はとても窮屈でした。通りにけばけばしい看板が目立ち、建物が高い上に路地も狭いので圧迫感がありすぎます。これはセンター街だけでなく、渋谷駅周辺の商店街全般に言えることです。唯一開放的なスペースは渋谷駅のハチ公口前の広場、およびその近くにあるスクランブル交差点くらいで、できればこの町には近寄りたくはないな、というのが正直な感想でした。で、渋谷を抜け出して松濤に出たのですが、ここは住宅地ということもあって静かな感じを受けました。
 期待はずれだったのが秋葉原です。私は思いっきり「萌え」の街をイメージしていたのですが、秋葉原駅前には巨大なガラス張りのビルが建ち、アニメショップなどの店は駅前から離れたところに位置しておりました(アニメイトの秋葉原店を探すのに30分かかった)。東京都は、秋葉原をIT産業の拠点にしたい、と目論んでいるのでしょうが、あのビルは秋葉原には絶対似合わない、と感じた次第であります。最近の秋葉原では、警察によるオタクを狙った職務質問が増えているという記事を「週刊SPA!」や「AERA」で見たことがありますが(現在、どちらも手元にないので詳しい内容の確認はできません)、これも東京都の思惑の表出なのでしょうか。
 追記しておくと、私が秋葉原で入った店はアニメイトの秋葉原店の1階だけです。

 週刊!木村剛:[ゴーログ]経営者が果たすべき3つの職責(木村剛氏:エコノミスト)
 木村氏は、「経営者が果たすべき3つの職責」として、次のように述べておられます。

 経営者の大きな仕事は3つ。
 そのうちの2つは、方向を決めることと、日々判断することです。
 それらが、組織のメカニズムとして、自動的に動くようになってくると、その会社は自ら浄化作用を働かせ、力強く復活していくようになります。その過程においては、方向性の違う人々と袂を分かたなければならないこともありますし、自浄のために凛として排除しなければならないケースもあります。
 それぞれの局面では厳しい決断を迫られる場合もあるわけですが、それが経営者の職責ですから逃げるわけにも行きません。事前にあらゆるケースを想定して思い悩みつつ、現実的にそのケースが発生したら、即時に判断を下す ――それが経営者の仕事です。
 おかげさまで、日々24時間悩み抜いていますので、これまでのところ、日本振興銀行において現実の課題が発生して判断を迫られた場合に5分以上悩んだことはありません。その場その場で結論を出すように心掛けてきましたし、今後もそうでありたいと思っています。
 そして、残ったもう1つ経営者の職責は、結果としての数字を残すこと、です。

 これは、木村氏が経営者として座右に置いている心掛けでしょうが、自らの社会的責務を自覚した上で行動する、というのはとても大切なことであると思います。私が主に研究している俗流若者論の分野では、自らの学者としての責務を自覚しない曲学阿世の徒が自らの暴論をさもそれが当然の公理であるように言い張っているのですが、学者としての責任は世にはびこる差別や都市伝説や短絡的思考をナチス的に「正当化」するのではなく、自らの深い教養と考察に基づいて、そこで生まれた結果を社会に広めていく、ということだと思います。あるいは、世の中の人々が自分の研究分野に関して興味や関心を抱くようにすることも、責務だと思います(ゆえに、最近になって「世界で一番受けたい授業」や「笑っていいとも!」などのテレビ番組で行われている科学実験企画は、私は絶賛に値するものだと考えています)。
 社会的責務、ということでもう2つほどしゃべらせてください。

 署名で書く記者の「ニュース日記」:霞む国会(相馬芳勝氏:共同通信記者)
 私は現時点では一応民主党を支持しているだけに、民主党代表・岡田克也氏の「野党ではなく政権準備党」という言葉には少し困っています。「政権準備党」ということは、民主党には具体的な政治ヴィジョンがある、ということを言いたいのかもしれませんが、少なくとも現在の民主党からは政権のヴィジョンが見えてこない気がします。本当に政権の準備をしているのであれば、そのヴィジョンを広く国民に示し、現在の小泉政権、自民党政権よりもいかにマシであるか、ということを主張してほしい。岡田氏は、「政権準備党」ということを、与党と闘うのではなく与党と調整する、という意味で用いているのであれば、岡田氏には民主党が野党である意味を考え直してもらいたい。

 弁護士山口貴士大いに語る:人権擁護法案に異議あり!(山口貴士氏:弁護士)
 さて、人権擁護法案が本格的に国会で審議され始めました。この法案を読んでみる限り、我が国の政府は「人権」という概念を本当に理解していない、と呆れ返ってしまいます。しかし、人権概念の度し難い無知は、その原因を求めると左右の「論壇」にこそあるのです。
 人権とは何か。それは国家権力の横暴から国民を守るための論理です。簡単に言えば、自らの発言を国家によって制限されない権利=表現の自由、国家によって不当に逮捕されて不当に裁判にかけられて不当に処刑されない権利などであり、それを定めたものが憲法なのです。すなわち、憲法とは基本的に人権を規定したものであり、また、憲法とは国家に宛てた命令と捉えられるべきです。
 その点から考えれば現在審議中の人権擁護法案なるものがいかに矛盾しているものなのか分かります。すなわち、人権擁護法案とは、「人権擁護」のもとに国家が平然と人権侵害ができるようになる法案なのです!!!ああ恐ろしい。
 人権擁護法案においては、個人や組織(国家ではない)が個人に対する差別的な言動や待遇を《人権侵害》と規定しているようですが、どこが人権侵害なのでしょうか。こういうのを法学的には私人間効力といい、人権侵害にはまったく当てはまりません(倫理的には大問題ですが)。また、個人による別の個人への暴力も《人権侵害》とみなされているのですが、すでに我が国には刑法があります。刑法で処罰してください。
 このような悪法が生まれる背景には、我が国のある時期の論壇における「人権」概念の超拡大解釈があります。ある時期、「左翼」的な人が、親が子供に振るう暴力はもとより、親が自分の優位性を示す言動さえも「人権侵害」と喧伝していたのですが、これは「人権」概念を極度に貶めると同時に、「人権」概念を単なる運動家の論理に格下げしてしまいます。で、「左翼」的な人がこのようなことばかりを主張しているのですから、低俗には低俗で対抗したがる一部の「右翼」が、「子供に人権はない!」などと変なことを主張したがる。このような低俗のスパイラルが、やがて人権という概念の国民的無知を生み出し、このような法案が現れる羽目になってしまったのです。このことについて、我が国の論壇はどのように思っているのでしょうか。「論壇」が社会的責務よりも身内の理論に埋没してしまったからこそ、このような悪法が現れたのです。
 憲法学の基礎から見て、この法案は度し難いまでの形容矛盾を含んでいるのです。だから、この法案は即刻破棄されるべきです。
 もう一つこの法案の問題点は、「何が差別か」という、社会的に重大な問題を、国家が決めてしまう、ということでもあります。これは複雑なことはすべて国家に任せてしまおうという、国民による市民としての役割の放棄以外の何物でもありません。「何が差別か」ということを決めるのは国民であり、市民です。この法案は、それを国家に決めてもらうことによって、下手をすれば国家による横暴と圧制を許しかねないものであるのです。これは国家による思想統制にほかなりません。この法案は「左翼」的なものと捉えられているようですが、たとえば教育基本法の改正案に見られるような、「何が愛国心か」ということに関して国民にその信を問うということを通り越して国家がそれを決めてしまうことや、「心のノート」などに見られるような「何が道徳か」ということを国家に決めてもらう、ということと本質的に同じものなので、この法案はかなり「右翼」的なものであると私は踏んでおります(人権擁護法案に反対する「右翼」の人たちは、もし「国辱・売国的な言動を処罰する」といった「愛国者法」みたいな法律が作られたら、反対するのでしょうか)。
 これらの法案の先にあるのは、「何が「善きもの」か」ということをすべて国家が決めてしまう、という思考停止社会です…と言ってしまうのは言いすぎかな。

 ン・ジュンマ(呉準磨)の備忘録:現在枕元に置かれている、「ネットに文章を書いてる人に推奨したい本たち」
 私は、ウォルター・リップマン、掛川トミ子:訳『世論』(岩波文庫、全2巻)をお勧めします。この本では、「ステレオタイプ」という概念を中心に、第1次世界大戦後の世論の混乱を説き明かしているのですが、現在にも通じる問題は非常に多く含まれております。ネットのみならず、文章を多く読む人には、自分の考えを整理するきっかけとしてぜひとも読んでほしいものです。

 伊藤剛のトカトントニズム:「おたく:人格=空間=都市」展に対する「嫌悪」の表明/「萌えフォビア」の実例(伊藤剛氏:漫画評論家)
 伊藤氏は、《「ヌード写真など実写のポルノグラフィは(条件つきでも)OK、売買春も同様。しかし、キャラを用いた性的な表現は気持ち悪いから絶対に認められない」という強い感情》という《萌えフォビア》の実例を、「「おたく:人格=空間=都市」展」のポスターに嫌悪感を示した人を例にとって挙げています。
 さて、この問題に関して私が最も最初に思い出すのは、ジャーナリストの大谷昭宏氏の例です。私は、「俗流若者論ケースファイル01・大谷昭宏」において、大谷氏にとって「萌え」概念は《「萌え」とは「今時の若者」の「病理」、ここでは《パソコンの中に出てくる美少女たちとだけ》の《架空の恋愛》しかできないという病理を照射するための概念》でしかない、と指摘しました。大谷氏は、「2次元の世界でしか恋愛できない「今時の若者」が、絶対現実の世界で恋愛なんてできるはずはない。だから「萌え」る「今時の若者」に社会性なんてあるはずはない、だからそこから犯罪者が生まれるはずだ」と考えているのではないか、と要約できます。「はてなダイアリー」のキーワードに「萌えフォビア」という概念が追加されていたのですが、そこには伊藤氏の定義、すなわち《「キャラ」という表現制度が「シンボル/イメージ」つまり「文字/絵」の分割と、「大人/子供」の分割という、近代の大きな枠組みを二つも侵犯していることに起因するもの》に加えて《さらに「2次元/現実」の分割という枠組みの侵犯も加えてもよいと思われる》ということが書かれていましたが、一般の人がオタクバッシングに用いる論理の中で一番大きいのはまさしく《「2次元/現実」の分割という枠組みの侵犯》だと思われます。
 蛇足ですが、伊藤氏のブログにこのような記述がありました。

 リンク先のブログ、タイトルに添えて「05年1月1日【少子高齢化と、「結婚」より気楽な「事実婚の子育て」】ブログタイトルを変更しました。いざ、少子を守らん! 」という記述がある。「少子」という言葉は、「現在、数が少なくなっている貴重な子ども」という意味にも使われるものだろうか。ぼくが知らないだけかもしれないが、少なくともきいたことはない。このような用い方が普通にされる業界や界隈があるということだろうか?

 《いざ、少子を守らん!》だと。この人は少子化肯定論者なのでしょうか。そう捉えられてもおかしくないでしょう。しかし、伊藤氏は《ぼくが知らないだけかもしれないが、少なくともきいたことはない。このような用い方が普通にされる業界や界隈があるということだろうか?》と疑問を呈しておられますが、私も聞いたことはない。それにしても伊藤氏のブログのリンク先のブログのタイトルが、「愛する子どもの守り方」というのは、どうもいただけない。伊藤氏も指摘しておりますが、「子供」をダシにして自分の気に食わないものを批判するのは、論点をずらすだけではないでしょうか。

 お知らせ。bk1で私の新作書評が掲載されています。今回採り上げた本はぜひ一度皆様に読んでほしいほどの名著です。
 芹沢一也『狂気と犯罪』(講談社+α新書・2005年1月)
 title:「狂気」を囲い込む社会

 「正高信男という頽廃」も公開中です。ここで採り上げた『人間性の進化史』(NHK人間講座テキスト)は、前後矛盾と論理飛躍にあふれ、文学作品のトンデモ解釈もあり、生粋のトンデモ本マニアの人々にも笑って楽しめるような内容でしょう。

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2005年3月 8日 (火)

正高信男という頽廃

 曲学阿世というのはいかにして生まれるか。「曲学阿世」とは、すなわち学を曲げて世に阿るということだが、この「世に阿る」というのが曲者である。曲学阿世は、阿る「世」がなければ存在しないのであろう。
 ならばその「世」とは何か。現在の我が国においては、それは若年層への敵愾心として表れているようだ。巷では若年層による凶悪犯罪や「問題行動」を採り上げる言説が横行し、「善良な」大人たちはそれらの「犯人」探しに没頭している。最近その「犯人」として採り上げられているのは、漫画、アニメ、ゲームなどのメディアと、そしてインターネットや携帯電話といった通信機器であろう。とりわけ後者に対しては、これらのメディアが例えば子供たちの脳を壊し、そこから凶悪犯罪や「問題行動」が生じる、といった、いわゆる「ゲーム脳」理論などに見られるように、そのようなメディアが人間性そのものを破壊している、という議論が噴出し始めた。しかしそのような珍説を唱える人たちにとって「人間性」が何を示すのか、ということが不明であることが多い。おそらく、その提唱者やそれに近い考え方をもった人たちにとっての「道徳的」価値観が「人間性」に置き換えられているのだろう。また、ここでは「脳」が「人間性」のメタファーとして語られているが、そのような問題設定をすることは暗黙のうちに脳機能に障害を持った人(山内リカ[2005]では高次脳機能障害の例が書かれている)を差別していることにならないか。
 現在の青少年の「人間性」が衰退している、という考えを持つ人たちは、彼らの問題にしたがる「今時の若者」が自分とは「本質的に」違う存在であると考えたいのだろう。しかし忘れてはいけないのは、そのような人も含めて我々は同じ社会に生きているということである。だが、彼らにとっては、そもそも「今時の若者」が「人間」であること自体が気に入らないことらしい。そのため、そのような人たちの「人間性」を意地でも否定したいという欲望が満ち満ちたような文章が頻出するのである。
 そろそろ本題に入ろう。
 曲学阿世の徒・京都大学霊長類研究所教授の正高信男氏が、NHKの「人間講座」に講師として出演した(平成16年12月~平成17年1月)。そのテキストのタイトルは『人間性の進化史』である。しかし本書を開いてみると、要は現代の日本人、特に若年層の「人間性」が退化し、我が国は急速にサル型の社会に移行しつつある、という内容である。これではタイトルを『人間性の退化』とでもしたほうがいいのではないかと思われるのだが、そんなことは枝葉末節であろう。
 かつてNHKの「人間講座」で、若年層のことを取り扱ったことはあった。精神科医の斎藤環氏による『若者の心のSOS』(平成15年8~9月)である。斎藤氏によるこの講座は、さすがに「ひきこもり」研究に長年付き合ってきた研究者だけあってか、過去や現在の学説や臨床事例をうまく引き合いに出しているし、その原因や解決策にも目を向けている。確かに違和感を感じる点も多いけれども、特に第7章と第8章に関しては、教えられるところも多い。少なくとも斎藤氏がどのような仕事をしてきたか、ということがよくまとまっているので、現在でも一読に値する文献であろう。
 ところが正高氏の講座は違う。斎藤氏の講座との比較に関して言うと、斎藤氏が《できるだけ多面的かつ共感的に理解することを目指していきたい》(斎藤環[2003a])と、安易な「理解」を排していたのに対し、正高氏の講座は《日本人の将来像はケータイ主義的人間という表現によって、集約できるのではないかと考えている》(正高信男[2004]、以下、断りがないなら同じ)と、いきなり一つのカテゴリを設けて、それにしたがって説明しようとしている。無論、このような論述法が間違いとはいえない。しかし正高氏の講座においては、長々と霊長類学の学説を紹介した後、唐突として若年層をサル的だと罵り、そして「憂国」する、というスタイルで一貫しており、具体的な事例はまったくなく、全てが俗流若者論が好んで採り上げるような「今時の若者」だけで成り立っている。まずこれだけで、正高氏の姿勢というものが明らかになっているだろう。
 本書の全体を通じた疑念に関して触れると、第一に、若年層以下(すなわち、物心ついたときから携帯電話やインターネットに親しんできた層)とそれ以外に関して強烈過ぎるほど線引きをしていること。第二に、いわゆる「情報化の進展」以外の要因が完全に除外されていること。メディアや若年層の心理に関する歴史に関しても触れられていない。第三に、全ての章において「憂国」してみせるというだけで終わっており、解決策には手がまわっておらず、一つの現象に「憂国」してみせたらまた別の現象を引き合いに出して「憂国」するだけである。そして最後に、正高氏の言うところの《ケータイ主義的人間》という安易なカテゴリに正高氏が意地でも当てはめようとしていること。科学者の態度ではない。むしろパオロ・マッツァリーノ言うところの「社会学者」の態度である(パオロ・マッツァリーノ[2004])。
 正高氏のこのような態度が本文中でいかに表れているか、本文の記述を追って見てみることにしよう。

 第1回・人間はいつ人間になったか――正高信男はいつ曲学阿世の徒になったか
 正高氏は携帯電話がもたらす生活の《本質的変化》について、《すべてのやっかいと感ずる知的作業を、肌身離さず持つ小さな電子機器に委ねるという点にあるのでは》と推測する。しかしこのような議論に関しては、《すべてのやっかいと感ずる知的作業》の定義がどこにあるかどうか分からない。その中には、例えば食事を作る作業とか、携帯電話端末では到底できそうにもないことが含まれているのだろうか。また、正高氏はその直後で人間を一台のコンピュータとみなし、そこから現在起こっている現象を論じているけれども、ここでは教育とか、あるいは知的事業の社会化ということに関してはまったく触れられていない。もっとも、このような設定をすると、コンピュータが別のコンピュータに内容を複写したりとか、あるいは別の単一で特大の外部メモリー(=社会)を設定しなければならなくなるので、議論が複雑になる、という点はある。しかし、人間の構造は少なくとも正高氏の用いたアナロジーよりははるかに複雑である、ということを正高氏には知ってほしい。また、正高氏はその後で《科学技術が発達し、身の回りが便利な人工物で埋め尽くされると共に、私たちの文化的な「まとい」をはぎ取ることにつながるのかもしれない》と表記しているけれども、これは読みようによっては文化の均一化を表しているととらえられてもおかしくない。
 もっとも、この部分は明らかに導入部分であり、正高氏の問題意識を表した章であるので、この章の記述に関して突っ込みを入れるのはここまでにしよう。しかし、これ以降の章は、正高氏の偏狭な認識や、論理飛躍、霊長類学の知見の暴力的な「適用」などが見られる。少なくともこの章を見ると、正高氏が現在の我が国に対していかなる感情を持っているかということがわかるので、読んでおいて損はないだろう。

 第2回・はじめに言語ありき――はじめに「コミュニケーションの劣化」ありき
 正高氏はこの章の初めのほうで、《言語を用いたコミュニケーションの仕方も、質が劣化しつつある》とぶち上げている。この章は、正高氏がなぜこのように考えるか、ということを示した章である。
 正高氏は37ページにおいて、ネット上のやり取りについて述べている。その中でメールの「顔文字」について、正高氏は地面だけでは発言者の感情的なニュアンスが伝わらないので、それを補助するために「顔文字」というアイコンを用いるという対抗策を発案した、と言っているのである。要するに正高氏は、「顔文字」を文字と併用して使われるコミュニケーション手段であり、決して文字そのものの代替物ではないことを示しているのである。ところが39ページの終わりのほう、節が変わった直後で、このようなコミュニケーション手段を《いかにも現代日本的な表現方法》と表現してしまう。勘違いしないでほしいのは、正高氏にとって《現代日本的》というのはすなわち「サル的」と言うことであり、本書において《現代日本的》という表現は「サル的」と置き換えて読んだほうがいいだろう。それはさておき、なぜ正高氏は「顔文字」が《現代日本的》であるというと、その理由として《私見であるが、欧米では同様のアイコン使用は、ほとんど見られない》と書くだけである。アジアはどうなのだろうか。しかもその証左としているのが、《周辺の知人》の証言だけである。しかしこのような間違いを指摘するのは些細なことかもしれない。
 もう一度書くけれども、正高氏は「顔文字」を文字と併用して使われるコミュニケーション手段として38ページで書いていたはずである。ところが40ページの中ごろにおいて、《顔マークがユニークなのは、もう言語という抽象的表記スタイルを捨て去ったという点にあるだろう》などと表現してしまっている。だったら何だ。我が国でメールを用いている人々はメールにおいて文字を使っていない、ということか。私はインターネット上でさまざまな日記サイトを見ているけれども、いわゆる「顔文字」が使われるのは全てのケースにおいて何らかの文章を書いた後に「(笑)」とかいった表現と同じようなニュアンスで使われているだけである。要するに我が国の人たちは《言語という抽象的表記スタイル》をまったく捨て去っていないのであり、「顔文字」はそれを補助するための手段に過ぎないのだが。現に正高氏は38ページでそう書いていたたはずだが。
 しかし正高氏は容赦しない。正高氏は《いったん従来の文字でなくてもよいのだと、いわば「タガ」がはずれると、非文字使用への勢いは怒涛のごとき流れとなってくるらしい》として、女子高生の間で流行っている「ギャル文字」(あるいは「へた文字」)を俎上に挙げる。蛇足だが、私はこのような「文字」がJRの広告に使われていたことに関して生理的嫌悪感を覚えたことがある。
 閑話休題、このような「文字」は正高氏にとっては《どう考えてももはや言語的コミュニケーションの範疇を逸脱していると、考えざるを得ない》ものであるらしい。このような論理への飛躍は明らかに異常である。正高氏は、これらの「文字」について、同じ表現でも感情のレヴェルによって違うということから、《ギャル文字・へた文字に慣れ親しんだ者は、それをもはや文字列としてほとんど把握していない》などと書いているけれども、《文字列としてほとんど把握していない》というのは本当にあるのだろうか。表記の仕方で感情のレヴェルが変わるというのであれば、むしろ文字列どころか、さらに高度な部分のところまで理解している、という見方もできるはずだが。さらに正高氏は言う、《これは言語的認知の枠をはみ出ている》と。しかし正高氏が42ページにおいて書いている通り、これらの「文字」も元の文字の形態的特徴をちゃんと残しているのであるのだが。このような物言いが許されるのであれば、人間の読む全ての言語に関して《文字列としてほとんど把握していない》ということもできる。
 正高氏は《畢竟、コミュニケーションを行なうに当たって、言語を使用する場合のように、心や脳を使わないようになってくると推測される》と書いているけれども、正高氏は43ページにおいて《こういう文字でメールすることのメリットとしては……「可愛」い印象を与える……「手作りのあったかい感じ」もする……「……がんばってくれたんだなー」という気持ちが相手に伝わる、という》と書いている。何だ、結構心や脳を使っているのではないか。それに入力に時間がかかるから、これを使ってメールを作成すると結構脳が活性化されるかもしれない。ちなみに正高氏が冒頭の暴論をでっち上げているのは46ページであるから、わずか3ページ前のことを忘れてこう書いてしまっているのである。驚くべき健忘とはいえないか。正高氏の脳が心配だ。
 しかし、ここまで前後矛盾が目立つのも珍しい。正高氏は、自分と同じ民族でありながら自分が使わない言葉を使うのはサルだ、とでも考えているのだろうか。要するに「女子高生」をバッシングするために、彼女らの間で流行っている表現方法を《現代日本的》すなわち「サル的」と罵っているのである。そう考えれば納得できる、というものだ。こう考えると、正高氏にとって「人間性」とは「自分が理解できること」に尽きるのかもしれない。このことはもちろんこれ以降の章にも言えることだが。

 第3回・家族って何――「出あるき人間」って何?
 正高氏は、この章において「出あるき人間」なる珍奇な概念をでっち上げる。正高氏によるとこの概念は、簡単に言えば「ひきこもり」と対を成す存在であり、《必ずしも自宅で家人と侵食を共にせず、しょっちゅう外を「ほっつき歩いて」生活する者の総称》であるという。正高氏は49ページにおいて、このようなタイプの人間を《実は同じ程度(筆者注:「ひきこもり」は100万人に及ぶという説があるが、それと同じ程度)、あるいはそれ以上に増加している》というけれども、残念ながら正高氏はそのようなことを示すデータをまったく提示しないのだから、このような論理が正当性を得るか、ということについてはない、というのが正直な答えではないか。
 正高氏は《渋谷センター街を歩いてみよう》という。どうやらこのような状況は渋谷においてよく観察できるらしい。正高氏は《仲間と共に行動し、単独でいることは少ない。グループ同士が出会うと、軽く立ち話をかわす》と表記する。その後が面白い。正高氏は《チンパンジーもパーティー同士が遭遇すると、「ホッホッホッ…」と音声を交換する》と言ってしまう。どうやら正高氏にとっては、「出あるき人間」の立ち話はチンパンジーの音声交換とまったく同じに聞こえてしまうのだ。正高氏の若年層に対する偏狭な認識がわかるというものではないか。このようなことを言っておきながら、正高氏は立ち話の内容には決して触れようとしない。正高氏にとっては、彼が「出あるき人間」の烙印を押したものたちの行動は、全てサル的に見えるのだろう。
 しかし正高氏のこの珍奇な概念に当てはまる事例は、正高氏の文章を見る限りでは渋谷にしか見られないのである。正高氏は他の場所(原宿にすら!)行っていないのであるから、このような事例が他の場所でも見られるかどうかは永久にわからずじまいだ。正高氏の辞書には地域差というものはないらしい。全ての都道府県に関して渋谷センター街のような光景が広がっている、と考えているようだ。私は石巻で家庭教師をしていたとき、帰りは常に終電一つ前の電車に乗っていたので、夜の街をよく見ていたが、そのような光景はまったく見当たらなかった。
 だが、正高氏はこのような疑問は少しも挟まない。正高氏はそのような現象が増加している、という前提で話を進めている。一億歩ほど譲って、増加しているということを受け入れるとしよう。正高氏はここでこうぶち上げる。曰く、《増加の引き金となったのは、疑いもなくケータイの普及である》と。その理由として、正高氏はこういう。曰く、《ケータイを持たせてあれば、いつでも連絡が可能である。だから夜に帰ってこなくたってかまわない、と「出あるき」を(筆者注:親は)容認するのだ》と。そんなに断定口調で語っていただきたいものだ。あなたも学者であれば実態調査ぐらいすべきであろうし、少なくとも新聞や雑誌の記事は引用すべきだろう。結局、正高氏はこのくだりに関しては、ただ不安だけを煽り、具体的な事例にはまったく触れずじまいなのである。俗流若者論の典型といえようか。
 これ以降の文章(62ページまで)を含めて言えることだが、正高氏にとって現在の如き「家族の崩壊」は現在に突如として起こった現象であり、それを言うためにはいかなる狼藉をもいとわない。簡単に言えば、自分の思いつき、あるいはマスコミで語られているようなことに関して擬似動物行動学的な視点から「解説」しているだけなのである。また、正高氏は決して具体的な事例を挙げようとしないが、一般論というものがいかに問題を持ちうるか、ということは議論されて然るべきではないのか。正高氏の中では最初から現在の家族の形や心理までもが決まっており、それがステレオタイプであるにもかかわらず「当たり前」だと信じ込んでしまっている。どう考えてもこれは学者の態度ではない。正高氏よ、あなたは京大の教授なのか、デマゴーグなのか。
 ちなみに社会学者の宮台真司氏がどこかで語っていたことなのだが、最近は渋谷の閉鎖性が強まって、地方出身者がまったく来なくなっているようだ。

 第4回・父親が求められる時――青年期病理学に関する勉強不足
 72ページまでの記述に関しては、まず明確な間違い、といえるような箇所はないので、ここでは触れない。もっとも、類人猿の行為を説明した後に唐突に人間の社会に話題をシフトしてしまうのは問題であるが、徒に暴力的なアナロジーを用いていない、というところは評価できよう。問題は73ページ以降である。73ページにおいて、現在の我が国に流布しているとされる「母性愛神話」を疑うのはいい。しかし《子育ては母親の役目だから、すべて母親にまかせておけばいい、という雰囲気が社会全体に根強く存在する》とあるが、各種の調査を見ている限り、そのような考え方はむしろ若い世代ほど希薄化している、というのが現実である(2003年2月20日付読売新聞など)。正高氏はこのような現実をどのように見るのだろうか。
 正高氏は74ページにおいて、《子供が母性ばかりを受け取って育ってきた結果は、不登校や引きこもりなどの発生と無関係ではない》と書いている。しかしそのような考え方、すなわち母性の過剰な敵視は、むしろ「母性愛神話」の単なる裏返しでしかないのではないか。また、正高氏は教育についても触れていない。さらに、正高氏は我が国の文化的背景にもまったく触れたがらないし、後に触れるが、我が国と同様に母子密着型の子育てが進展していたりとか、さらに言えば「ひきこもり」が深刻化している韓国についても触れたがらない。
 それにしてもこの後に正高氏が提示している解決策らしきものがなんといっても怪しい。というのも、甘言に満ちた美辞麗句しか言っていないのである。しかしここまで「ひきこもり」の危険性を煽ってきた正高氏にとって、そのようなことしか言わないのは、自らの言論人としての責任の放棄といえないか。また、76ページには、チンパンジーの母と子の写真があるけれども、なぜこのような写真を持ってきたのか。編集の側も、「母子密着型の子育てはチンパンジー方の子育てである」という正高氏の歪んだ考え方に同調してしまったからだろうか。
 ついでに韓国について触れておこう。斎藤環氏によると、韓国における不登校児には親が自分に独立性などを過剰に要求していると感じ、また学校のストレスについては対人関係のストレスのために不登校になった子供が多いという。これは我が国の「ひきこもり」事例と同じである。また、日刊で違うのは、韓国の場合はそのほとんど全てがインターネットゲームやチャットと関わっているという。これは我が国とは明確な違いである(斎藤環[2004])。また、韓国には徴兵制があるが、それも「ひきこもり」に対してはなんら影響を及ぼしていないという(斎藤環[2003b])。また、斎藤氏、及び韓国の翰林情報産業大学教授の尹載善氏によると、上流階級の間では兵役免除制度を利用して兵役を免れる子供が増えているという(斎藤環[2003b]、尹載善[2004])。
 もう一つ、我が国においては、現在名古屋大学名誉教授の笠原嘉氏が、1970年代から1980年代にかけて青少年の「アパシー・シンドローム」や「退却神経症」などに関して、論理的な研究を行なっており、これが現在、斎藤環氏など青少年の病理の研究者に強い影響を及ぼしている。笠原氏は、これらの背景にも「母子密着型の子育て」などを読み取っているが、笠原氏の研究は、正高氏の文章とは違い、さまざまな学説や臨床事例を引いて、論理的なアプローチをしており、現在の青少年問題を考えるうえでも参考になる記述が多い(笠原嘉[2002])。

 第5章・愛と性の分離――論理的混乱
 本格的に問題が表れるのは95ページからである。正高氏はこの章の最後3ページで、わけのわからないことを言っているのである。例えば95ページの最後の段落におけるくだり、

 「私的」であるべき他者との出会いの場で、「公的」なつき合いを展開しだした場合、メールでの後進にぷらいヴァシーを求めてしまう、いわば逃避的事態が発生してしまう。そして、そういう状態がもっとも先鋭的な形で表れるのが、究極的な「私的」つき合いの場面、つまり性的な交流においてであるのは、当然の帰結である。

 などという記述は、はっきりいって何を意味しているのかわからない。
 正高氏は「ネット恋愛」を引き合いに出して、《こうした事情を考慮せずには、およそ理解不可能なものではないだろうか》と言っている。しかし、このような「説明」は、前後の文脈からはほとんど切り離された形で唐突に引き合いに出されているので、流れを考慮して読むことができないのである。
 正高氏は「ネット恋愛」に関して、97ページにおいてその経験者の意見らしきものを出している。しかしそのような「意見」が、「ネット恋愛」の経験者を代表するものであるかはわからないし、もしかしたら正高氏の捏造、という可能性も否定できない。これらの「意見」が、正高氏の「理論」にとってとても都合よく組み立てられているからである。あまつさえこのページはイラストなのであるが、このイラストには具体的な人の顔が一つも出てきていないのである。全てが口だけ、あるいは顔が黒塗りなのである。正高氏とイラストを書いた人の思惑が透けて見えるというものだ。
 正高氏は最後のほうで、付き合いを求めてネットを利用する人と、性的関係のみを求めてネットを利用する人に関して、《いずれにも共通しているのは、性と愛の分離なのだ》などと言っているけれども、何をもってして《生と愛の分離》といっているのか不明である。結局のところ、正高氏は、現在の日本人、特に若年層が退化=「サル化」しているという強引な結論に導くために、論理的な検証を放棄し、結論を押し付けているような気がしてならない。それが、最後4ページの論理的混乱に表れている。

 第6回・なぜ「キレる」のか――文学作品のトンデモ珍解釈
 本書の中でもっとも劣悪な部分である。この章は少年犯罪に関して書かれているのだけれども、正高氏は明らかにマスコミの「嘆き」に同調し、それらを疑う、ということはしない。あまつさえ、最後には正高氏はとんでもない結論を打ち出してしまうのである。
 とはいっても、この章の内容は、平成16年11月22日付読売新聞に書いた内容と大方で重複しているので、その文章に関しては「正高信男という堕落」を読んでもらいたい。なので、今回は、「堕落」で触れられていなかった部分について論理的検証を行なっていきたい。
 正高氏は102・103ページおいて、言語の操作について語る。しかし正高氏は104ページで、《ことばをあやつる程度には個人差が存在するのだ。……著しく言語操作を行なわない例として、「キレ」やすい人間を位置づけることができるのである》と書いている。ならば訊こう。正高氏は《著しく言語操作を行なわない例》を《「キレ」やすい人間》として位置しているけれども、《ことばをあやつる程度》の個人差はいかにして計ることができるのだろうか。そして、《著しく言語操作を行なわない》という人間が《「キレ」やすい人間》であるということに関して、どのような論理的、あるいはデータ的な裏づけがあるのだろうか。
 それに関して、正高氏は104ページから110ページにかけて、正高氏は「ワーキングメモリー」という考え方を用いて説明している。しかし111ページになると、正高氏はいきなりその仮説とIT化の影響を結び付けてしまうのである。正高氏は111ページにおいて、《通常は双方(筆者注:視覚と聴覚)が程よくミックスされた状態になっている。けれど判断がメモからの者に一方的に偏ると、行動はとてつもなく瞬間的すなわち、あと先を顧みない側面を見せるようになることが往々に起こる。……昨今、そういうタイプの人間は確実にその数を増やしていると考えられる》と書く。そして正高氏は、《明らかに生活のIT化の影響と想像されるのだ》とぶち上げてしまう。正高氏は《ケータイによるコミュニケーションのサル化が、言語による情報処理に依存しない思考判断傾向を加速化させている》と書いている。しかしこれは正高氏の印象でしかないのではないか。正高氏は《ケータイでは、知人の番号はおそらく間違いなく、メモリーに登録されていることだろう》と表記し(112ページ)、《しかしこれが、今まで自分たちがワーキングメモリーの、とりわけ主としてループに負担させていた作業を、機械に代替させているものであることは明々白々である》とし、さらに《まして生まれた時、すでに社会がIT化していた今の年代の若年層となると、……廃用性どころか、生まれてこの方、ループをまっとうに使ったことのない人間が、大量に創出されつつある》(113ページ)といってしまうのである。正気の沙汰か。《生まれた時、すでに社会がIT化していた》といっても、人間が情報機器を身につけられるための知識を身につけるのは相当物心がついてからではないか。それまでは家族や教育機関などでさまざまな経験を用いてループを用いるはずなのに、正高氏はそのような常識的判断をも持ち合わせていないのだろうか。明らかにこれこそ思考停止ではないか。《今の年代の若年層》というのは、おそらく1980~1990年ごろに生まれた人のことを指すのかもしれないが、それらの人々が物心つく前、簡単に言えば思考回路が形成する前から情報機器を使っていた、と正高氏は考えているのだろうか。
 はっきり言う、これは明白な差別である。正高氏は現在の若年層、すなわち《生まれた時、すでに社会がIT化していた今の年代の若年層》と、それ以外の年代をきわめて明確に線引きをし、前者を社会性、人間性にかけた年代としてバッシングを行なっているのである。しかしこれには論理的な推察は皆無に等しく、全て印象論だけで語っているのである。結局正高氏は、《IT化》が人間性の衰退を促すものでないと納得できないのであろう。正高氏の文章においては最初から「敵」が決まっており、その「敵」を潰すためならいかなる狼藉も容赦しない。これを陰謀論というのである。
 正高氏は最後のほうでカミュの『異邦人』を引き合いに出し、そこにおける殺人犯ムルソーに関して、《ムルソーの場合、犯行に駆り立てたのはほとんどメモからの信号であると考えられる》といってしまう。《メモからの信号》といっているのだから、ムルソーは常に自らの近くにメモを置いていた、ということになるのではないか。それともムルソーの時代にはすでに携帯電話があったということか。すごい。超古代文明論もびっくりである。それにしても《犯行に駆り立てたのはほとんどメモからの信号であると考えられる》と考える理由がどこにも示されていないというのはどういうわけか。正高氏は文学作品にすらIT化の「闇」を見出してしまっているのである。この神経の図太さは一体なんだ。ついでに正高氏は《それを「どうして」とループに問い合わせたところで、答えようがないという者である。そこで、メモが送り込んだイメージをただ言語化して叙述するばかりという自体が出現するのだ》と書いている。これに関しても、根拠不明な「お話」である。どこまで事実なのかわからない。あなたは本当に学者なのか。
 しかし正高氏にとってはそんなことどうでもいいらしい。さすが陰謀論である。正高氏は《カミュの『異邦人』を読んで、「まっ白」という印象を抱くのは、私だけだろうか?》といい、《白い心に、「なぜ」と問うことはそれ自体、まったくの筋違いというものなのだ》さらに《生物は自己の生存のために、瞬間瞬間に判断を下す。その即時的判断を一時的に停止し、「私はこう思っている」と自らの心中を再認し始めたとき、人間は単なる生物から脱却したのだが、いまや出発点に、逆戻りしてきている。「一匹」の存在として暮らす者に、心の闇などありえるはずもないのである》とまで言ってしまっている。やはり正高氏にとって、現在の日本人、特に若年層の人間性は退化しているものでなければ気がすまないのだろう。もう一つ言っておくが、正高氏の議論は、かの曲学阿世の徒、日本大学教授・森昭雄氏の「ゲーム脳」理論に接近している。
 ちなみに「キレる」なる現象も含めて、このようなことに関しては精神分析の「解離」概念を用いたほうがわかりやすい。「解離」とは、《過去の記憶、同一性と直感的感覚の意識、そして身体運動のコントロールの間の正常な統合が一部ないし完全に失われた状態》(斎藤環[2003a])を指す。斎藤環氏は、前出の「人間講座」のテキストにおいて、「キレ」た少年犯罪者に関して《一種の解離状態》にあるといっているけれども、その犯罪者が動機を言うことができない、あるいはそれを把握するのが難しいというのであれば、「解離」が起こっていると考えたほうが、多少は誤りがあるかもしれないが、少なくとも正高氏の暴論よりは納得しやすいだろう。また、「解離」は健常者に関しても見られることがよくある、と斎藤氏は言っている。このように、最初から自らの行動が全て説明できる、ということは心理学によって否定されている。
 また、正高氏は「右脳人間」「左脳人間」なるカテゴリを持ち出し、現在の我が国においては「右脳人間」、すなわち視覚イメージに頼る人が増えているといっているが、ロルフ・デーゲン『フロイト先生のウソ』によると、最新の実験では、人間のさまざまな行動に関して脳のどの部位が活動しているか、ということを計測した結果、全てのケースにおいて右脳と左脳がほとんど等しく活動していた、という結果が出ている(ロルフ・デーゲン[2003])。
 もう一つ、東京大学助教授の広田照幸氏によると、青少年による凶悪犯罪や「問題行動」に関して、その言説が青少年の「心」に急激に関心を持つようになったのは1970年代ごろの話であり、それが顕著になったのは最近で、広田氏は《子供の「心の軌跡」から非行を理解する――その際、親の育て方や学校・教師の対応に間違いや問題がなかったかどうか、教育的に望ましくないメディアや空間が問題ではないか、といった枠組みで、現在の青少年問題は語られるようになっている》(広田照幸[2003])と分析している。

 第7回・文明が文化を滅ぼす――文明が正高信男の思考を滅ぼす
 この章においては、全般的に程度の低い狼藉が観察される。いうなれば、この章は単なる「感想語り」に終始しており、実例の提示はほとんど皆無に等しい。
 119ページにおいて、正高氏は幸島のサルにおける「イモ洗い」を取り上げ、日本人の食物の味わい方に関して、《人間の食物の味わい方は、多様である。舌で賞味するに加え、日本人は見た目を大切にする。型やインドやインドネシアの人は、口に入れる前に指で食感を楽しむようだ。その変異は、明らかに幸島のサルのイモ洗いの延長線上にあると、とらえられるだろう》(121ページ)と書いている。しかし、幸島のサルの例に関しても、人類の文化の形成と同じくらいの時間をかけて形成されたのではないか。幸島のサルの行動が、その進化形として日本人の行動になっている、と正高氏が考えているのであれば、それは完全にお門違いというものである。
 正高氏は《文化的な生活とは、共に生活するものが互いに何か「尊い」と敬うものを共有しつつ、日々を送るようなことを指すのだろう》(123ページ)とする。正高氏における《文化的な生活》の定義がここで示されているわけだ。で、正高氏は《それが非常に先鋭化された形で起こっているのが、日本なのだろう》と書くのだが、その証左として正高氏が引き合いに出すのが日本人の「ブランド指向」である。正高氏はこう書く。曰く、《ただつながっていることだけのために、つながりを保つという自己撞着が生じつつある。そのために中身のない空虚な象徴を作り上げ、それを「みんなが敬うから」というだけの理由で自分も敬うということが起きてきている》と。さらに正高氏は、126ページにおいて、《そして、こうした傾向はここ十年来、急速に傾斜を深めてきたように思えるのだが、それはケータイ(とりわけケータイメール)の普及とまったく軌を一にしている》と書く。しかし、それを証明するような証拠が、《私の研究所に勤務している同僚》の、携帯電話を肌身離さないようにしておかないと気が済まない、という話のみである。これでは証拠が不足している。簡単に言えば、《こうした傾向はここ十年来、急速に傾斜を深めてきた》ことと《ケータイ(とりわけケータイメール)の普及》の有意な因果関係が見出せないのである。
 正高氏は、《コミュニケーションにおける対面的状況の重要性を破壊したのが、ケータイの発明である。……しかし、双方(筆者注・ラジオ以前の状況と現在の状況)をまったく別な者に仕立て上げているのは、集団のまとまりを表示する境界というものが、ケータイの下では完全にとっぱらわれてしまったという点にある》といっているけれども、これは完璧に誤りである。正高氏は携帯電話の導入によって、コミュニティの所属に関わらず多くの人が関係をもてると考えているようだけれども、携帯電話を用いたコミュニケーションですら、基本的に違う所属、あるいは違う趣味を持った者と無関係に関わることはできない。疑う向きは想像してもらいたい。あなたが携帯電話を持っているからといって、無関係の「誰か」から勝手に電話がかかってきたり、メールが送られてくる、ということはまずありえないではないか(迷惑電話とスパムメールは除く)。正高氏の問題設定は誤りで、正確に言えば、東京大学教授の松原隆一郎氏が指摘するような《それまでとても出会えなかった偏った趣味の人間が集まることを可能にした》(松原隆一郎[2003])と考えたほうがよほど実感に近い。
 また、この章のタイトルは「文明が文化を滅ぼす」であるが、結局123ページにおける正高氏の《文化的な生活》の定義に従えば、「文明が文化を滅ぼす」ということはまったくありえないことになる。もう一度引用するけれども、正高氏は《文化的な生活》を《共に生活するものが互いに何か「尊い」と敬うものを共有しつつ、日々を送るようなこと》と定義していたはずだ。「文明が文化を滅ぼす」とは、《「尊い」と敬うもの》の喪失を意味するのだろうが、正高氏の結論からはそのようなことは見出すことができない。結局、正高氏は現在の若年層を口汚く言うためにそのことを隠蔽しているのである。
 それにしても、この章の最後、130ページにおける《群れるトリやサカナのように均一のファッション》というのは、正高氏の歪んだ考え方が表出しているような気がしてならない。正高氏はおそらく渋谷しか見ていないだろうから(この証拠として、正高信男[2003]のまえがきを挙げておく)、同じようなファッションの人が大量に現れる、というのは日常茶飯事なのかもしれないが、少なくとも私の住んでいる仙台においては、流行現象がそう速く広まっているわけではない。正高氏の辞書に地域性は存在しない。

 第8回・「自分探し」のはじまり――そして正高信男は考えなくなった
 本書のクライマックスである。この章は、本書の中で第6回に並ぶ劣悪さであり、正高氏の偏狭な思考がこの章には詰まっている。
 とりわけ145ページ以降がひどい。《個々人がケータイを所有することで、いつでも誰とでも情報交換できます、という。しかもなし崩し的に、今までの集団のまとまりは度外視して、そこでこれからやっていったらいいじゃないですかというムードで、日常が変わりだしたのだ》とあるが、これは前章の検証でも述べたとおり、《なし崩し的に、今までの集団のまとまりは度外視して》ということはまったくありえない。携帯電話で情報交換する関係も、結局は同じ所属、あるいは同じ趣味を持った者にとどまるのであり、れっきとした集団の境目が存在するのである。考えてみるがいい、仮にあなたがある趣味を持ったパソコン通信集団に所属しているが、他の趣味をもった集団に所属している人があなたの集団にメールなどを送ってきたら困るだろう。
 正高氏は149ページについてオウム真理教について触れて、《日本から文化的なまとまりというものが消え去ることに、いらだつ人間による最後の抵抗》としている。しかしその理由として、正高氏が挙げるのが《理系エリートとは、要するにIT化というもののハードウェアについて、他の人間よりも深い知識を持った人々と、とらえて差し支えないだろう》ということであるが、オウムの幹部となった「理系エリート」が大学に在籍していたのは、おそらくパソコン通信以前のことであろうから、このような考え方は、現在のコンテクストに即して過去を捉えていることに他ならない。正高氏が151ページで引用しているように、オウムの幹部となった「理系エリート」たちの絶望は、情報化ではなく、むしろそれ以外の科学文明への失望や、1980年ごろに流行したオカルティズムやニューサイエンスの隆盛などを挙げたほうが適切であろう(宮崎哲弥[2001])。
 152ページに挙げられている節のタイトルは「そして誰も考えなくなった」である。しかし本書を読んでみる限りでは、この節以降は「そして正高信男は考えなくなった」であろう。正高氏は153ページにおいて、オウムに入信した人について《コミュニケーションの手段ばかりが簡便で効率的になる技術を研究したところで、それが一体何になるというのだろう――こういう疑念をもなげだしたあげく、強烈なカリスマを核とするカルト集団に参加し、しかもそのなかで科学者として、自らの研究で駆るとの繁栄に貢献できるとわかったならば、むしろ入信して当然とも考えられなくないように私には、思える》と書いている。驚くことに正高氏は、1ページ前(!)でオウムの幹部たちがコミュニケーションの手段が効率的になることに抵抗したからこそオウムの事件が起こった、と書いたことを忘れているのだ。正高信男は考えていない。
 154ページ。この節のタイトルは「サル化する日本人」である。154ページから155ページにかけては、本書で正高氏が論じてきたことをまとめて一つの文章になっている。これらの正高氏の「推測」がいかに間違った者であるか、あるいはいかに不適切なアナロジーの利用によるものであるかは、ここまで私が検証してきたとおりである。正高氏は155ページの最後から156ページの最初にかけて《要するに人間は、言語遺伝子が進化した十万年余り前の姿に近い所へ、戻ってしまったことになる。これを、サル化と呼ぶことに私自身はあまり、ためらいを感じないのだ》と書いているが、このような考え方がいかに歪んでいることは、本稿の最後で論じたい。

 終わりである。私はここまで正高氏の狼藉に関してできるだけ論理的に検証を行なってきたつもりである。
 本書においては最初からストーリイが決まっている。すなわち、携帯電話に代表されるような高度な情報化は人間がこれまで培ってきた人間性というものを壊し、現代の日本人は10万年前の姿、すなわちサルになっている、というものである。しかし、このような考え方は、霊長類の研究という側面からしてみれば大変失礼極まりない。
 なぜか。それは、進化樹形図を見ればわかる。まずは進化の系統的な視点から正高氏の論理のおかしさを指摘しておくと、現在の人類(ホモ・サピエンス)はヒト上科に属し、性質としてはオランウータンやテナガザルに近いものである。他方、正高氏が「サル」と言っているのはおそらくニホンザルであろうが、ニホンザルはオナガザル上科に属し、性質としてはオナガザルに近い。要するに、ホモ・サピエンスとニホンザルの生物学的性質はまったく異なるのである(島泰三[2003])。
 もう一つ言うと、現在のサルの行動から10万年前の人類の行動を推し量ることはできない、ということも指摘しておきたい。なぜか。それはホモ・サピエンスであろうがニホンザルであろうがキツネザルであろうがテナガザルであろうがオナガザルであろうが、現在生きている生物は、全てが独自の進化過程を経て現在に至るのである。だからホモ・サピエンスを進化の最上位に位置づけ、それ以外の霊長類に「文化的に」ランクをつけるという行為は、霊長類研究の視点から見れば失笑を買うものである。現在のオランウータンやニホンザルだって、10万年前には現在と違った暮らしぶりをしている可能性も高いのである。
 正高氏の議論は、さまざまなサルの行動を人間の尺度に当てはめて「文化的な」優劣をつけ(当然人類は一番優れている)、ニホンザルの行動にさまざまな「文化的」な特徴を見出し、その上で日本人は「退化」している、とぶち上げているのである。このような態度がいかに科学の態度から外れたものであり、学を曲げて世に阿るものであるかということは、すでにお分かりいただけただろう。冒頭でも触れたとおり、正高氏は情報化以前の人類と情報化以後の人類に関して過激なまでに明確な線引きを行い、我が国において後者の人類の問題が多くのマスコミに採り上げられていることを利用して、後者を文化的に劣った者(「ケータイを持ったサル」!)である、と「科学的に」決め付けているのである。しかし、青少年問題というものは常に問題視されており、本来であれば「識者」にも止められているものは、巷の認識を疑い新たな分析を提示することか、あるいは巷の認識に添う形でもそれを深い教養を持ち、差別意識を配した態度でもって臨むことである。
 正高氏をはじめ、俗流若者論にとって「新しい」ものにはちっとも価値はない。「新しい」ということは、すなわち既存のステレオタイプを突き崩す可能性だってあるからである。ところが俗流若者論においては、既存のステレオタイプを「正当化」するばかりの言説ばかりがはびこる。
 そしてそれらの言説に最も求められる価値は「新しさ」ではなく「珍奇さ」である。要するに、一見聞こえのいい、しかし論理的に検証してみると穴だらけの概念で「善良な」人たちを煙に巻くことである。
 この考えを行なったのが、例えばナチス・ドイツである。ナチス・ドイツは、ユダヤ人を迫害するために、以下に生粋のドイツ民族がユダヤよりも優れているかということを「科学的」に証明し、圧政や虐殺の根拠とした。また、スターリニズムもそうだ。スターリニズムは、国家の押し付ける概念に従わない者を「反社会的」属性と規定し、それに対する迫害や圧政を行なってきた。
 正高氏の議論のほか、例えば日本大学教授・森昭雄氏の「ゲーム脳」理論など、現在の我が国においては特に若年層をそれ以外の人類より「劣った」人類である(正高氏の議論においては人類ですらない)と「科学的」に「証明」してしまう議論がはびこっている。これらの暴論を嬉々として受け入れるような「世」が我が国には強く存在し、それらの言説は青少年問題に関して真剣に向き合うことをせず、むしろ青少年を現代の「鬼胎」として「消費」することにのみ使われる。多くの良心的な人たちにとって、このような言説がうっとうしくなるのは当然だろう。多くの「善良な」人たちが疑似科学という基盤にすがりより、差別すら容認しかねない暴論が我が国において受け入れられる。日本社会の「右傾化」を嘆く人たちは、このような事態の存在をどう見ているのだろうか。

 参考文献・参考資料
 笠原嘉[2002]
 笠原嘉『アパシー・シンドローム』岩波現代文庫、2002年12月
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 斎藤環『若者の心のSOS』日本放送出版協会、2003年8月
 斎藤環[2003b]
 斎藤環『ひきこもり文化論』紀伊國屋書店、2003年12月
 斎藤環[2004]
 斎藤環「韓国の「隠匿型ひとりぼっち」と日本の「ひきこもり」」=「中央公論」2004年4月号、中央公論新社
 島泰三[2003]
 島泰三『親指はなぜ太いのか』中公新書、2003年8月
 ロルフ・デーゲン[2003]
 ロルフ・デーゲン、赤根洋子:訳『フロイト先生のウソ』文春文庫、2003年1月
 広田照幸[2003]
 広田照幸『教育には何ができないか』春秋社、2003年2月
 正高信男[2003]
 正高信男『ケータイを持ったサル』中公新書、2003年9月
 正高信男[2004]
 正高信男『人間性の進化史』日本放送出版協会、2004年12月
 松原隆一郎[2003]
 松原隆一郎『長期不況論』NHKブックス、2003年5月
 パオロ・マッツァリーノ[2004]
 パオロ・マッツァリーノ『反社会学講座』イースト・プレス、2004年5月
 宮崎哲弥[2001]
 宮崎哲弥『正義の見方』新潮OH!文庫、2001年3月
 山内リカ[2005]
 山内リカ「高次脳機能障害とは何か」=「論座」2005年2月号
 尹載善[2004]
 尹載善『韓国の軍隊』中公新書、2004年8月

 池内恵『現代アラブの社会思想』講談社現代新書、2002年1月
 市川伸一『考えることの科学』中公新書、1997年2月
 笠原嘉『青年期』中公新書、1977年2月
 北田暁大『嗤う日本のナショナリズム』NHKブックス、2005年2月
 近藤康太郎『朝日新聞記者が書いたアメリカ人「アホ・マヌケ」論』講談社+α新書、2004年7月
 斎藤環『心理学化する社会』PHP研究所、2003年10月
 斎藤美奈子『物は言いよう』平凡社、2004年11月
 坪内祐三、福田和也『暴論・これでいいのだ!』扶桑社、2004年11月
 十川幸司『精神分析』岩波書店、2003年11月
 橋本健午『有害図書と青少年問題』明石書店、2002年12月
 原克『悪魔の発明と大衆操作』集英社新書、2003年6月
 歪、鵠『「非国民」手帖』情報センター出版局、2004年4月
 間宮陽介『市場社会の思想史』中公新書、1999年3月
 宮崎哲弥、藤井誠二『少年の「罪と罰」論』春秋社、2001年5月
 宮台真司、宮崎哲弥『エイリアンズ』インフォバーン、2004年10月
 山本七平『日本はなぜ敗れるのか』角川Oneテーマ21、2004年3月
 ウォルター・リップマン、掛川トミ子:訳『世論』上下巻、岩波文庫、1987年2月

 青山瑠妙「インターネットが導く中国式民主化」=「論座」2005年3月号、朝日新聞社
 五百旗頭真「近ごろの若者考」=2004年10月7日付朝日新聞
 石川雅彦「女子高生はケータイで脱皮する」=「AERA」2004年5月31日号、朝日新聞社
 姜尚中「「こころ主義」まん延した一年」=2000年12月29日付朝日新聞
 玄田有史「自己実現疲れ、個性疲れの若者を支援せよ」=「論座」2004年8月号、朝日新聞社
 斎藤環「韓国のネット依存者たちに学ぶ」=「中央公論」2004年9月号、中央公論新社
 斎藤環「「ひきこもり」がもたらす構造的悲劇」=「中央公論」2004年12月号
 神保哲生「ニュースのラインナップはメディアの都合で勝手に決まる」=「サイゾー」2004年3月号、インフォバーン
 杉田敦「「彼ら」とは違う「私たち」――統一地方選の民意を考える」=「世界」2003年6月号、岩波書店
 田口亜紗「岩月教授は、女のどこを見ているか」=「諸君!」2003年11月号、文藝春秋
 武田徹「ケータイを敵視する“メディア一世”たちの傲慢」=「中央公論」2004年4月号、中央公論新社
 内藤朝雄「「友だち」の地獄」=「世界」2004年12月号、岩波書店

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2005年3月 7日 (月)

トラックバック雑記文・05年03月07日

 MIYADAI.com:つまらなさ一段と深刻~地下鉄サリン事件から十年~(宮台真司氏:社会学者)
 今月20日で、かの地下鉄サリン事件からちょうど10年になります。宮台氏とは懇意の評論家、宮崎哲弥氏の著書『正義の見方』(新潮OH!文庫)で、宮崎氏はサリン事件の背景に五島勉『ノストラダムスの大予言』がある、と指摘していました。そして当時の30代以下の人がなぜこのような「教示」に惹かれたか、ということについては、宮崎氏は「内なる近代の終焉」が「終末」のムードに傾倒するきっかけになっている、と論じています。
 宮台氏は《退屈ゆえにハルマゲドン幻想を持ち出して不安を消費する──それがオウムでした》と書いています。そしてその前には《この十年で気になるのは、監視と排除を求める気分の増大です。人々は客観的安全より主観的安心を過剰に求め、実効性の疑わしい施策に群がります》と書いていますが、私はこのような構造を、昨今噴出している「若者論」に見出します。すなわち、「今時の若者」を反社会的属性として過剰に敵視し、「あいつらは俺たちとは違うんだ」ということを身内(「善良な」人たち)の中で「納得」するためにさまざまな論理飛躍や疑似科学的決定論をふんだんに用いて自らのステレオタイプが「正しい」ことを「証明」することの横行です。しかし、必要なのはそのような「切り離し」ではなく、宮台氏などが主張している通りそのような人たちも含めて自分と同じ社会に生きている、という態度、簡単に言えば「信頼」とか「寛容」とかいった言葉に集約されるのかもしれません。
 このようなことに関して、多くの良心的な人たちはすでに気づいており、実行している人も少なからずいます。たとえば「ひきこもり」に関して積極的に発言や活動を続けている斎藤環氏はその一例です。斎藤氏は2003年末に『ひきこもり文化論』(紀伊國屋書店)という名著を書いており、その中で「ひきこもり」に対する支援策についてまとめております。斎藤氏も書かれていますが、やはり肝心なのは、宮台氏が示唆しているように、安直な共同体主義を持ってくるのではなく、まず「生き方」のモデルの提示なのではないか、と思います。「若者論」に没頭する人たちは、これをどこまで理解できるのでしょうか。

 千人印の歩行器:[本屋編]地球人の見た出版(栗山光司氏)
 週刊!木村剛:[ゴーログ]西武鉄道とニッポン放送の類似点:絶望感のゆくえ(木村剛氏:エコノミスト)
 署名で書く記者の「ニュース日記」:公共性(小池新氏:共同通信記者)
 栗山氏の文章では、栗山氏が現役の書店員だったころ、再販制度の撤廃を主張するレポートを取次ぎに提出したところ、まったく無視された、というエピソードが書かれております。栗山氏はそのエピソードを紹介したあと、さらにこう続けます。曰く、

何十年前に現役の書店員の頃、簡単なレポートを大取次ぎに提出したことがありますが、完全に無視されました。テーマは『再販維持制度の検討』です。原則は再販維持制度撤廃が正常なのです。あくまでこの法制度は特例にすぎない。面白いことに営業、書店の現場では、撤廃されることで仕入れの目を磨き仕事が面白くなるのではないかと言う期待があるのですが、既得権の旨味を知った管理職、何故か、再販制が撤廃されると、本のコンテンツの劣化を招き、ひいてはこの国の活字文化の劣化を招くと、憶測で編集権、言論の自由と再販制度を結びつけて撤廃に反対するのです。何やらフジテレビとライブドアの対立構図に似たものがある。

 単純に言えば、栗山氏の関わった取次ぎの場合は、再販制度という既得権益を手放したくないために《再販制が撤廃されると、本のコンテンツの劣化を招き、ひいてはこの国の活字文化の劣化を招くと、憶測で編集権、言論の自由と再販制度を結びつけて撤廃に反対する》ということになるのでしょう。しかし、そのような論理の反対基準があくまでも《憶測》であることに私は抵抗感を覚えるのです。政治家の論理かもしれませんが、もしある提言に対して対案を持ち出すのであれば、私は徹底的に理詰めで攻めるべきだと思います。このケースで言いますと、なぜ再販制度が撤廃されると《本のコンテンツの劣化を招き、ひいてはこの国の活字文化の劣化を招く》が生じるのか、さらに言えば《本のコンテンツの劣化》や《この国の活字文化の劣化》が何をさすのか、ということも明確にしておかなければならないはずです。そもそもこのような物言いは、本のコンテンツや活字文化の「劣化」を嘆く人たちには有効かもしれませんが、アウトサイダーには理解できません。理詰めで攻める、ということは、できるだけアウトサイダーにも分かるようにする、ということです。そうでないと、このような論理が、本当は活字文化や表現の自由ではなく、自分の既得権益を守るために過ぎない、どこを向いた議論なのか、という誤解がまかり通ってしまうことを許容する羽目になりかねません。
 それにしてもライブドアvs.ニッポン放送の買収劇には、ニッポン放送の社員よりも見放されている人がいるような気がしてなりません。それはニッポン放送の番組のリスナーです。
 ニッポン放送の社員が、「私たちニッポン放送社員一同」として声明文を出していますが、あまりにも滑稽です。
 なぜか。それは冒頭で真っ先に「リスナーの皆様」と書いているにもかかわらず、この文章にはリスナーのことが少しも触れられていないからです。触れられているとしたら、

 一方、ライブドア堀江貴文社長の発言には「リスナーに対する愛情」が全く感じられません。ラジオというメディアの経営に参画するというよりは、その資本構造を利用したいだけ、としか私たちの目には映りません。

 といったくだりくらいですが、《「リスナーに対する愛情」》とは、いったい何を指すのでしょうか。また、堀江氏の発言といっても、どのような発言を元にそう言っているのか分かりませんし、この声明文を読んでみる限り、これは完全にリスナー無視、しいて言えば自社の社員とスポンサーを守るためだけに声明文が発せられた、という気がしてなりません。
 これでいいのでしょうか。
 ニッポン放送の社員が「リスナーのためを」思って発したこの声明文も、結局はスポンサーに対する権益なくしてリスナーへの配慮は存在しない、といっているのに等しい。自らの既得権益の保護が「リスナーのため」という美辞麗句にすりかえられている、というのが正直な印象であります。本当に「リスナーのため」を思ってやっているというのであれば、その姿勢は自社の経営基盤(現在ならフジサンケイグループ)が変わっても変わらないものであるのか、ということを示すべきです。
 結局のところ、この論争にはリスナーは最後まで不在です。ラジオ局にとって最も重要なものが抜け落ちているのです。

 情報紙「ストレイ・ドッグ」(山岡俊介取材メモ):「NYから眺めたフジヤマ」byマイク・アキオステリス(日本通米ジャーナリスト)③「カリスマ経営者」(堤義明)逮捕で思う日本のマスコミの「幼稚さ」(山岡俊介氏:ジャーナリスト)
 マスコミの話です。山岡氏は、堤氏を紹介するときに「カリスマ経営者」という「枕詞」を付して報道することに関して憤っております。無責任な「レッテル貼り」は、私は特に俗流若者論においてたくさん見出しております。「心の闇」「キレる」「ゲーム脳」「サル化」「フィギュア萌え族」……。皆様も一度は目にしたものばかりでしょう。特に「○○症候群」みたいな物言いは、若年層の「病理」、さらには「時代の病理」を手軽に映し出してくれる言葉としてとりわけもてはやされております。これを列挙した『器用に生きられない人たち』(中公新書ラクレ)なる本が出ているのですが、今月の「諸君!」(文藝春秋)の「今月の新書完全読破」というコーナーにおいてこの本が宮崎哲弥氏によって「今月のワースト」に大抜擢されております。宮崎氏はこの本の著者に対して「なんでも症候群にしたい症候群」なる「病名」を下しております…。

 *☆.Rina Diary.☆*:ぽつり。(佐藤利奈氏:声優)
 独り言の話です。佐藤氏は一人暮らしを始めてから、独り言が多くなった、というそうです。ちなみに私は実家住まいなのですが、独り言は結構多いと自覚しております(ただし一人でいるときだけ。一人でいるなら、自室でも街中でも容赦なく言ってしまう)。その内容としては、主に私が本などを読んで面白いと思った表現や、自分で思いついて今後の論文に使おうと思う表現ばかりです。
 ある意味、独り言は退屈さを紛らわす上でも有効かもしれませんが、周囲には気をつけて。

 保坂展人のどこどこ日記:イタリア記者 人質解放直後のまさかの銃撃 そして日本の選択(保坂展人氏:元衆議院議員・社民党)
 保坂氏の文章では、拘束されたイタリア人が泣きながら「イタリア軍撤退」を訴える文章をインターネットで見て、多くのイタリア人がその無事を祈った、と書かれています。また、イタリア情報当局は人質解放に向けて水面下で努力をしたそうです。
 昨年、日本人がイラクの武装勢力に拘束されるという事件が何度かおきましたけれども、その時々のマスコミや政府(得に小泉首相)の対応ぶりとはまったく対照的です。保坂氏も指摘するとおり、自国民が武装市民に拘束されて人質に取られても《小泉総理は「テロリストには屈しない」と藪から棒に言うだけ》で、そのような言葉がいかに武装勢力を刺激するか、ということに関してはてんで無関心です。そのことは多くの人が指摘しているのですが、小泉首相、ないしそれに近い立場の人たちはそのような意見の戦略的意味を理解できているのでしょうか。
 マスコミも然りです。マスコミは人質になった人々の特徴について、彼らがイラクに行った動機を「自分探し」だと書き飛ばしていましたが、そんなことは枝葉末節なのです。肝心なのは、日本人がイラクで武装市民に人質にされた、というリアルな事実だけなのです。このような報道をすることで、「自分探し」に没頭している(と勝手に規定されている)「今時の若者」を戒めたい、と思ったのかもしれませんが、一番大事なことを忘れています。このような政府やマスコミの体たらくは、ネット上で斬首の映像が流布してしまうというこれまた痛い現実よりもさらに痛い現実のように思えてなりません。
 「理解できない」少年犯罪が起こると、すぐさま多くの「識者」たちは「「今時の若者」は他人の痛みが理解できないからすぐに殺人に走る」などといいます(実際は少年による凶悪犯罪は減っているのに)。しかし我が国においては、「他人の痛みが理解できない」ひとたちが政治を牛耳っているのが現実なのです。
 このことについて、ジャーナリストの江川紹子氏が書いた文章「「被害者叩き」の前に検証を」も一読に値します。

 お知らせ。長い間放置していた「正高信男という頽廃」ですが、現在急ピッチで執筆を進めております。今週中には絶対に発表できますので、もう少しお待ちください。

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2005年3月 4日 (金)

トラックバック雑記文・05年03月04日

 署名で書く記者の「ニュース日記」:小学校(相馬芳勝氏:共同通信記者)
 MIYADAI.com:何が監視社会化をもたらすのか?(宮台真司氏:社会学者)
 寝屋川の教師刺殺事件に関して、またぞろ「学校の閉鎖化」を主張する人が出てきているようです。しかし、相馬氏の記事にもあるとおり、小学校は地域から隔離したところにおいておくのではなく、それこそ地域に密着した形で建てておくべきでしょう。そのために必要なのが建築家と社会学者の知恵なのかもしれません。
 いかなる建築も、単なる「箱モノ」ではありえません。住宅にしても然りなのですが、特に小学校の場合は、子供たちの教育という重大な責務を負っています。小学校における教育に関して言うならば、もちろん読み・書き・計算の教育も重要なのですが、自らの住んでいる地域について知っておく必要もあります。そのためには教育カリキュラムの設計も含めて、小学校の社会的責務をいったん明らかにしておく必要もあるでしょう。ここで言う「社会的責務」とは、簡単に言えば小学校が社会に果たすべき役割ですが、小学校と地域住民というつながりが基本に据えられる必要があります。ただ閉鎖するだけ、というので正しいのでしょうか。
 最近になって地域社会の「空洞化」が指摘されていますけれども、宮台氏などはその最大の原因として流動性から収益を上げるグローバル資本をあげています(金子勝、他『不安の正体!』筑摩書房)。さらに宮台氏は、そのようなグローバル資本が地域性を破壊し、その空洞化によって「動機」が不明な犯罪が増えた、と指摘しています。これが正しいかどうかは分かりませんが、しかし「地域」の力が弱まっている、というのは確かかもしれません。
 私がなぜこのような主張をするのか。その理由こそ私が最近になって喧伝している「生活保守主義的プチナショナリズム」の横行です。宮台氏は《尊厳を失った人々が相互不信で右往左往し……問題を自分たちで解決する自信を失って何かというと国家を呼び出すヘタレが溢れる》と表現していますが、特に《何かというと国家を呼び出すヘタレ》というのは重要でしょう。最近になって噴出している議論を見てみると、それが広まりつつあるのは然りです。昨年に起こった、関西学院大の登山者が冬山に遭難したときにさまざまなメディアが登山者に救出費を請求したり、犯罪を減らすという名目で「有害」メディアの規制を求めたりと、「国家」を過大視したがる動向が表面に出始めています。
 このような「国家依存」が、ここ最近では往々にして若年層、いうなれば「今時の若者」をなんとかしてくれ、という方向で噴出しています。しかし、「国家」に頼らなければ「今時の若者」を「正常化」できないのでしょうか。これは「国家」に限りません。「今時の若者」の「問題行動」を「ゲーム脳」だとか「サル化」だとかいった、安易な疑似科学決定論に多くの「善良な」人々が「癒されて」しまう、というところにも現れていると思います。「俗流若者論ケースファイル02・小原信」でも書いたのですが、「今時の若者」が自分と同じ社会に生きていることが気に食わない人々がまだ大勢我が国にはいるようです。そのような人たちにとって、「今時の若者」を「排除」してくれるのが「国家」であり、疑似科学なのでしょう。そのような態度こそ、他者依存というのですけれどもね。
 もっとも、このブログは、巷の「今時の若者」という言説は幻想だ、ということを主張しているのですが。

 *☆.Rina Diary.☆*:ゆき(佐藤利奈氏:声優)
 仙台は大雪です。いくら雪かきをしてもすぐに積もってしまい、その処理に困っております。私は今日、今年度付けで東北大学を退官される伊藤邦明教授の最終講義を聴きに行ったのですが、そのために午後1時15分ごろに雪かきをして、45分ごろに終えて、原付で東北大に向かいました。で、帰ってきたのが午後4時半ごろだったのですが、帰ってくるともう15センチ弱ほど積もっていました。結局2度目の雪かきをしました。
 ちなみにこの時間帯には、この通りの多くの人が留守でした。一方、同じ団地のほかの通りでは、多くの人が精力的に雪かきをしており、原付も走らせやすかった。思わず「ありがとうございます」の気持ちを込めて、道端で雪かきをしていた人に会釈してしまいました。これも地域性の差なのかもしれません。同じ団地の中でも。

 週刊!木村剛:[ゴーログ]不器用なアメリカ人ですら税金は申告している!(木村剛氏:エコノミスト)
 保坂展人のどこどこ日記:予算国会の民主党完敗はなぜ(保坂展人氏:元衆議院議員・社民党)
 木村氏は、最後のほうで《現在の日本は、「政治的・経済的に不満の無い時代」になっているのでしょうか》と書かれておりますが、私が思うに、マスコミの問題も大きいのではないかと思います。現在のマスコミは、たとえば政治面の場合は、どこかの評論家だかジャーナリストだかが「現在の日本の政治報道は「政局報道」である」と言っていた記憶がありますが、現在の新聞を見る限り、それを認めざるを得ません。私の家では読売新聞をとっているのですが、読売の政治面を見る限りでは、昨日の国会の審議に関して民主党は悔しがっているとか、小泉首相と敵対議員の確執とか、そういうことばっかりです。なまじ新聞が自民党寄りだから、民主党に対しては少々冷笑的です。他の新聞に関しても、たいてい政治報道は「政局報道」になっています。それよりも、議論の対立をもっと明確に浮かび上がらせてほしいと思います。また、野党を奮起させようとするような報道も、ほとんどの新聞において皆無です。読売の社説において民主党を批判する場合は、たいてい自民党の代弁者と化しているような気がしてなりません。もっとも、読売は自民党寄りだから仕方ないですが、特に朝日新聞や毎日新聞には、野党を育てるようなオピニオンを期待するばかりです。
 もう一つ。選挙があるたびにマスコミは投票率、特に若年層のそれを問題視したがります。しかし、政治が変わらないことを投票率のせいにしていいのでしょうか。そもそも我が国の政治は若年層の方向を向いていません。票田になるのは青少年よりも「青少年問題」、簡単に言えば「今時の若者」です。マスコミと同様政治家も投票率を問題したがりますけれども、あなたは本当に若年層のことを考えているのですか、と言いたくなります。いたずらに若年層の投票率の低さを嘆くのは、本当に必要なことから目をそらすことしか意味しません。
 必要なのは政治参加の多様化です。そのためには、地域に根ざした市民団体の育成が必要でしょう。「私の体験的成人式論」でも触れましたけれども、多様な政治参加を若年層に提示するための手段として私が重要視しているのは成人式です。もっとも、このような成人式をやるためには市民団体が充実している必要があります。幸い仙台市は市民団体がそれなりに充実しているので実現できそうですが、市民団体が充実していないところでは、何よりも市民団体を育成させる必要があります。そのために必要なのは市民の自発的な取り組みです。現在の票田は、市民団体ではなく政党(地域ではない)に密着した利権団体ですが、このような状況で投票率の向上を願うほうが無理というものではありませんか。

 千人印の歩行器:[悩内編]事実/真実/現実(栗山光司氏)
 明確な誤りは存在しますが、明確な正しさは存在しえません。肝心なのは、どれだけ「正しさ」に近づけるか、ということだと思います。「公正中立」というのは、必ずそのような立場が存在するという前提に立った上での議論かもしれませんが、それでも「個人」というものが入り込んでしまうという余地は存在するので、「公正中立」はその人にとっての「公正中立」に過ぎないのかもしれません。
 私がこのブログで問題視している俗流若者論の問題点は、それを振りまく人は自分に完全な「正しさ」があると思い込んでいることです。しかし彼らの言う「正しさ」は、彼らが勝手に信じ込んでいる「正しさ」の押し付けに過ぎないのです。私はそれを批判するのですが、そのときに重点を置いているのはその「正しさ」の化けの皮をはぐことです。大言壮語を振りまきつつも、その根拠をまったく示さない、という典型的な俗流若者論よりも、少しくらい傷ついてもいいから明確なデータを提示して、反証にも耐えられるように論理を組み立てた議論のほうが、たとえその支持者が少数でも私は支持するつもりですし、私もできるだけ抽象性よりも具体性を重視します。マスコミが好んで取り上げるような「今時の若者」は、実証的なデータではありえないのです。

 お知らせ。bk1で私の新作書評が掲載されています。一番上はトンデモ本ですが、下の二つはお勧めです。
 矢幡洋『自分で決められない人たち』中公新書ラクレ、2004年9月
 title:「俗流若者論スタディーズVol.2 ~精神分析の権力性を自覚せよ~
 坪内祐三、福田和也『暴論・これでいいのだ!』扶桑社、2004年11月
 title:「これでいいのだ!
 橋本健午『有害図書と青少年問題』明石書店、2002年12月
 title:「「若者論」の不毛なる歴史

 最近私が書いた文章もこのブログで掲載されておりますので、ぜひ見てください。
 「俗流若者論ケースファイル02・小原信」(2月28日)
 「俗流若者論ケースファイル03・福島章」(3月4日)

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俗流若者論ケースファイル03・福島章

 上智大学名誉教授・福島章氏といえば、出版社である宝島社が出した雑誌が東京都に「不健全図書」指定を受けて、それを不服として宝島社が起こした行政訴訟において、性情報の氾濫が青少年による性犯罪を誘発するという証拠はない、という意見書を提出している。その意見書の中で、福島氏は、昭和55年から平成元年の間に、漫画雑誌が1.7倍、コミックス単行本の売り上げた2.9倍にも増加しているにもかかわらず(この中にどれだけ性表現が入っているかはわからないが、同じ傾向でそれも増加しているだろう)、この10年の間に青少年による強姦罪は2分の1、強制わいせつは約4分の1に減少していると述べている。また、同じ意見書によれば、韓国や米国の例を出して、性情報・性表現の増加が性犯罪の件数を増やすことはない、むしろ減らす方向に働く、と実証しているのである。また、福島氏には『青年期の心』(講談社現代新書)という名著があり、そこでも性表現・性情報の増加は性犯罪に結びつかない、また、他の犯罪に関しても、暴力的な表現はむしろ暴力衝動を満足させる、という記述をしている(福島章[1992])
 だから、福島氏は、巷のメディアが唱えるような「メディア有害論」とは距離を置いた存在のように思えるかもしれない。しかし、平成17年3月3日付読売新聞における福島氏のコラム「暴力的情報の氾濫 「殺人」日常的行動と錯覚」は、宝島社の訴訟における福島氏の学者としての真摯な態度を知っている者にとって、この転向ぶりは一体何なのか、と思わせるような杜撰さと論理飛躍に満ちていた。
 福島氏は、昨年末に我が国を震撼させた奈良女子児童誘拐殺人事件に関して、《残虐な死体損壊をはじめとする異常な行動の数々の動機は……歪んだ自己顕示欲にあった。》(福島章[2005]、以下、断りがないなら同様)と書いていた。確かにこの指摘は正しいかもしれないし、そういった分析をする人も少なくない。もっとも、このような事件が、例えば「切り裂きジャック」だとか「かい人21面相」など、過去にも存在したことを忘れてはいけないのだが。
 ただし、この事件に関して述べた終わりのほうには、少し事実誤認がある。曰く、《なぜなら、凶悪は反抗ほど社会の字耳目を集め、自分についての大量の「情報」を生み出すからである》。しかし、この事件における犯人が、自分の報道を常に気にかけては越に入っていた、という情報は寡聞にして聴かない。しかし、このような指摘は現在はあまり気にしなくていいだろう。
 福島氏の狼藉はその勅語が始まる。福島氏はこう言う、《この価値観のゆがみないし倒錯は、近年、一部の若い世代の間で確実に増加している》と。その理由として《映画、ビデオ、コミックス……ゲームなどの中には、猟奇的な殺人行動や痛快な暴力・破壊などの映像が氾濫している》とある。しかし、福島氏がかつて認めていた通り(!)、これらの暴力表現が実際の犯罪に結びついているという事実はなく、それは10年前でも現在でも変わらない。福島氏は宝島社の裁判の意見書で犯罪白書に触れていたが、犯罪白書では、少年による凶悪犯罪は昭和40年ごろから昭和55年ごろまで減少傾向にあり、それ以降は横ばいが続いている。福島氏は知っているのだろうか。また、福島氏は《近年、一部の若い世代の間で確実に増加している》というけれども、その証左として提示しているのがマスコミの耳目を集めるような猟奇犯罪だけ、というのは、証拠が足りなさすぎやしまいか。
 福島氏はここで大いなる妄言を発する。曰く、《2004年6月、11歳の女子小学生が級友を学校内で殺害した。しかし殺人はこの子にとって、異常でも……大事件でもなく、むしろ身近でありふれた行動の一パターンに過ぎなかった》だと。しかし報道によれば、この殺人事件における犯人が日常的に友人に暴力を振るっていた、ということはまったくなかった。福島氏ははそれをわかっているのだろうか。《身近でありふれた行動の一パターンに過ぎなかった》というのであれば、この犯人において殺人事件のみならず暴力衝動の発動が日常的になっていたという証拠を示すべきだろうが。この事件に関する記憶と関心が薄れる中で、このような事実誤認をさも事実と思わせてしまうことによって、自らの論理に従わせようとはしていまいか。
 しかし、福島氏はそれに関してこう片付けてしまう。曰く、《なぜなら、事件の1か月前、この子は、思春期の少年少女がお互い殺し合い、クラスの中の一人だけが生き残るという大量殺人映画に強い感銘を受けていた。無垢な子どもと殺人とは決して無縁でないことを学習していたのだ》と。しかし、《無垢な子どもと殺人とは決して無縁でないこと》ということを1カ月で《学習》してしまうのはありえることだろうか。そもそも、福島氏は《思春期の少年少女がお互い殺し合い、クラスの中の一人だけが生き残るという大量殺人映画に強い感銘を受けていた》と述べているけれども、この殺人犯が殺したのは1人だけだったはずだが。最初から自分だけ生き残るような大量殺戮など頭になかったことは、この事件に関する報道を軽く読んでおけばわかることだろう。また、思春期は決して「無垢」な年齢ではないことも付け足しておきたい。
 それにしても、この《大量殺人映画》が《無垢な子どもと殺人とは決して無縁でないこと》ということを《学習》させるような内容であるかについても、福島氏はまったく触れていないのはどういうわけだ。それにしても《大量殺人映画》という表現には福島氏の敵意が詰まっているように思える。
 そんな当たり前の事に触れずに《殺人という行動が日常的なものと錯覚され、時にはこの重大な犯行が、ゲーム感覚で演じられるような時代になった。猟奇的な殺人者は、ゲームの中では、貴重な情報を生み出すヒーローである》と恬然と語ってしまう福島氏は一体何なのだ。そもそも猟奇的な殺人事件を(主に「若者論」として)「消費」しているのはほかならぬマスコミ、そして福島氏の如き自称「識者」なのだが。
 福島氏はさらに暴走してしまう。《安城市における乳児刺殺事件は、おそらく、冬があまりに寒かったせいであろう。寝屋川市の教職員殺傷事件では、少年は少し前のバイク事故で、エネルギーを発散する手段を失っていた。その欲求不満のはけ口が、あの殺傷ゲームだったのだろう》だと。一体この著者は正気の沙汰か、と思ってしまう。第一、《安城市における乳児刺殺事件は、おそらく、冬があまりに寒かったせいであろう》というのは、もはやお笑いのネタでしかない。《冬があまりに寒かったせいであろう》というのであれば、気温の低さと殺人事件の発生数に関して有意な関係が見出せるか、ということを証明してからいっていただきたい(そんなものはないだろうが)。また、寝屋川市の事件に関しても、なぜ福島氏の言うような《殺傷ゲーム》(この貧しき言語感覚!)に走り、他の手段に走らなかったのか、ということを考えるべきだろう。
 福島氏は、この文章において、「動機の短絡的な凶悪犯罪が増加した。それは暴力表現によって暴力や殺人を日常として「学習」した者が増えたからである」と言いたかったのだろう。しかし、まず、「動機の短絡的な凶悪犯罪が増加した」というのであれば、まずその証拠、例えば過去の犯罪との比較を持ち出すべきだろう。また、福島氏の議論に関しては、暴力的な表現に触れてきた経験と暴力衝動の発露(暴行や殺人)に関して明確な関係が見られるか、ということに関しても克服しなければならないはずだ。
 これは福島氏に限らないのだが、このような短絡的な思考をしてしまう自称「識者」の背景にあるのは「世代」概念であると思える。要は、現代の青少年を暴力的な表現が多数含まれているテレビやゲームに接してきて育った世代と規定し、従って現代の青少年は暴力的だ、という前提で青少年問題を語ってしまうのである。しかし、例えば少年犯罪の件数の減少(人口比から見ても減少している)という観点から見れば、少なくとも青少年が暴力的になっている、ということは事実として存在しない、とも言えるだろう。
 福島氏をはじめ、「若者論」を振りまく多くの人は、「今時の若者」という色眼鏡でもって青少年を「観察」し、自らを「正常」、青少年を「異常」という二元論に当てはめて議論したがる。しかし、そのような姿勢は、まだ何もしていない青少年すら「危険」のレッテルを貼って遠ざけることにつながるのではないか。多くの「若者論」は、マスコミで報じられるような突飛な事例を世代的な傾向として論じたがるけれども、そこにおける飛躍と偏見にどこまでも無知でいられるという図太さは一体何なのであろう。
 このような疑念は、彼らが青少年の「凶悪化」の証拠として提示するものが、猟奇的な凶悪犯罪とマスコミが面白がって採り上げたがる類の「今時の若者」の「問題行動」だけ、ということで、確信に変わる。

 参考文献・資料
 福島章[1992]
 福島章『青年期の心』講談社現代新書、1992年1月
 福島章[2005]
 福島章「暴力的情報の氾濫 「殺人」日常的行動と錯覚」=2004年3月3日付読売新聞

 橋本健午『有害図書と青少年問題』明石書店、2002年12月
 パオロ・マッツァリーノ『反社会学講座』イースト・プレス、2004年5月
 宮崎哲弥、藤井誠二『少年の「罪と罰」論』春秋社、2001年5月

 重松清「少女と親が直面した「見えない受験」という闇」=「AERA」2004年7月19日号、朝日新聞社
 内藤朝雄「「友だち」の地獄」=「世界」2004年12月号、岩波書店

 参考リンク
 ※宝島社のサイトにおいて、「不健全図書」指定を糾弾するページ「NOといえる宝島社」は現在閉鎖中のため、閲覧することができません。
 「すべてを疑え!! MAMO's Site」の「メディア規制反対」記事一覧(坂本衛氏:ジャーナリスト)
 「少年犯罪データベース
 「All About Japan」内「ゲーム業界ニュース

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