人権擁護法案反対の倫理を問う
人権という概念こそ、我が国において最もその意図するところと違う形で国民に理解されているものである。現在国会で議論されている「人権擁護法案」は、その誤解・曲解の帰結として出ている、と私は見ている。
その前に人権の本来の意味とは何か、ということを突き詰めて考えてみると、それは国家権力の横暴に対抗するための理念である。現在の日本国憲法を読んでみると、例えば国家による思想や言論の統制を許さないために21条が存在し、あるいは不当に理由をでっち上げられて不当に逮捕されることがないように33条が存在するのである。人権が(正当に)侵害されるのは、侵害される対象の者が他人の権利を侵害した場合のみであり(例えば刑法犯など)、もう一つ言えば人権を侵害する主体は、基本的に国家しかないのである。また、憲法とは国家に対する命令であり、人権を保障しなければならないものである。
ところがある時期の我が国において、この「人権」概念が不当に拡大解釈される時期があった。私が中学時代をすごした90年代後半(平成8~12年ごろ)、私は「子供の人権」ということが大量に出回ったことを記憶している。平成9年に発生した神戸市の児童殺傷事件において、一部の雑誌がこの犯罪者の顔写真を掲載したことについて、一部の「左翼」的な人々が「人権侵害だ」と喧伝した。さらに、「左翼」的な人々は、親と子供の関係についても「人権」概念を超拡大解釈して半ば暴力的に「適用」していた。親が子供の暴力を振るうことどころか、親が自分の優位性を子供に示すことさえもが「人権侵害」だといわれていたのである。しかし前者に関しては明確な刑法犯であり、後者に関してはもはや法律的な概念を適用することさえいかがなものか、というレヴェルである。彼らは言葉の上では子供を尊重しているのかもしれないが、実のところ決して子供を尊重しているのではない、いわば「子供」を過度にイデオロギー化しているのである。
また、少年法に関して言うと、この法律は決して少年犯罪者の人権を尊重したものではないどころか、むしろその人権を制限したものでしかない、というべきである。例えば、日本国憲法によると、《何人も、裁判所において裁判を受ける権利を奪はれない》(第32条)のであるが、少年法においては、少年を一人前ではないと規定する故に第32条をはじめとする憲法上のさまざまな諸権利に関して制限をつけているのである。「少年犯罪者の人権保護」として少年法を挙げるのであれば、むしろ少年法を批判しなければならないのであるが、「子供の人権」を過度に唱える人はなぜか少年法も絶賛していた。彼らにとって「子供」は飯の種でしかないのだろう。
このような倒錯した議論が「左翼」の側に起こっていた。当然、このような暴論に対してバックラッシュが起こるのだが、このバックラッシュもまた暴論であった。しかもそのような暴論が噴出したのが、また青少年問題だったのである。
「人権」を貶める「右翼」的な人は言う、戦後の教育が「権利」ばかりを教えてきて「義務」を教えてこなかったから、現在のような青少年問題が頻発するようになったのだ、と。しかし、そのような議論の帰結は決まってあの犯人を晒し首にしろ的な感情論であり、そうすることによって青少年問題を解消したいのであろうが、そのような「教育効果」に期待を持ってしまうことは、それこそ本当の意味での人権侵害を肯定する羽目になってしまうのではないか。彼らはマスメディアが好んで喧伝したがる「今時の若者」という虚像にただ乗りしたがっているだけで、「人権」はそれを盛り立ててくれる単なる道具でしかない。
このように、我が国において「人権」概念は本来の意味とはかけ離れて受容されてきた。なので、今回「人権擁護法案」として提出されている法案は、まさに「人権擁護」の名の下に人権侵害を平然と行なうことができるようになる法案になってしまっているのである。
「人権擁護法案」において、《人権侵害》とは、《この法律において「人権侵害」とは、不当な差別、虐待その他の人権を侵害する行為》と規定されている。しかし、その定義は依然曖昧なままだ。さらに、この法律を全文読んでみても、この起草者における「人権」概念に対する誤解・曲解は明らかであろう。冒頭でも説明したとおり、「人権」概念とは国家と国民の力関係のことを指すのであるが、この法案においては、何が「人権」であるかは曖昧なまま、左派論壇的で通俗的な「人権」概念がそのまま適用されている。さらに、この法案では、「人権擁護委員会」が政府から独立した組織ではなく法務省の管轄となっており、さらに同法案によると、委員会に申し出があったら調査をすることができるとあるが、それを判断するのは裁判所ではなく委員会であり、ここでは明確な人権侵害が正当化されている。さらに、同法案43条によると、差別を「助長」する行為でさえもこの法案の罰則の範疇になってしまうという。これではますますその規定があいまいであり、マスコミの調査報道や、(左右の自称「識者」が問題にしたがるような)漫画やアニメやゲームが処罰を受ける可能性もある。このような悪法を生み出した最大の原因は、「人権」概念を過度に拡大解釈、あるいは矮小化してきた論壇にある。論壇の皆様には、このような事実を深く受け止めていただきたいものである(そしてこの曲解をはびこらせたのが「若者論」だということも)。
本来の意味での人権擁護法案とは、国家による不当な人権侵害に対する被害の回復を目的にしなければならず、当然、それを執行する委員会は国権、特に行政権からは独立しているものでなければならない(そしてそれこそが、本来国連人権委員会が求めていたものである)。このような形でないと、本来の人権保護は達成できるものではない。現在の法案は、むしろ差別利権を加速するものでしかないのではないか。
無論、この法案の起草者が人権という概念の本来の意味に極めて無頓着なのも大問題なのだが、この法案におけるもう一つの大問題は、「何が差別か」ということに関して国民的なコンセンサスが得られないまま、国家が「これが差別である」と規定してしまうことである。しかし、「何が差別か」ということを決めるのは、まさしく国民、市民、共同体の総意であって、国家が一方的に決めることではないはずである。この法案の問題点は、まさしく「何が差別か」ということを国民の間で規定することを国家に丸投げしてしまうということにあって、自ら問題を解決することの放棄を意味しているのである。これはあまりにも重大な問題とはいえまいか。
精神科医の斎藤環氏は、東京都の「有害図書指定」に関して、このような条例の制定は本来家族や社会が行うべきことを条例=行政が行なう事によって、共同体による問題解決機能の低下を危惧していた(斎藤環[2003])が、私が「人権擁護法案」に対して危惧しているのもまさしくそれで、自らが複雑だと思う問題を全て行政に任せてしまうことによって、国家の果てしない肥大化と同時に社会の思考停止が起こってしまうことを危惧している。
このような動きは、何も「人権擁護法案」だとか「有害図書指定」だとかにとどまるものではない。例えば教育基本法の改正案において、「国を愛する心」を法律に入れろ、などといっている人がいるけれども、何が愛国心なのか、という厳密な定義がないまま、ただ国旗や国家にひざまずくことが愛国心だといわれている。しかし、それは厳密には愛国心とは言えず、むしろ国粋主義ではないのか(平成16年に起こったイラクでの人質への政府関係者の暴言が意味したところは、教育基本法の改正をもくろむ者にとって「愛国」とは「政府に従うこと」であることが明らかになったことである)。愛国心とは、昭和天皇陛下がおっしゃるところの《子々孫々の反映のために身を粉にすることを厭わない》(奥平康弘、宮台真司[2002])であるという社会学者の宮台真司氏の指摘が正統であろう。
「人権擁護法案」に関して、確かにネット上では批判が渦巻いているし、多くの批判が実に正当な理由に裏付けられている。しかし、一部の、特に「2ちゃんねる」的な批判論者が、例えば「この法律が思考されると「人権擁護委員会」に外国人が入って北朝鮮に対する制裁論を言ったら即刻検挙される!」みたいな(ちょっと暴力的に要約しすぎか)、いわば「俺たちに好き勝手やらせろ」的な、あるいは2chにありがちな「反サヨ」的な「批判」をいっているのが残念でならない。彼らは、「売国的な言動を禁じる」といったないようの「愛国者法」みたいなものが審議されたら、反対するのだろうか。この法案の最大の問題点は、国家が「人権擁護」のもと人権侵害を公然と行なえることにあり、また、この法案は、日本国民の市民としての矜持を軽視する法案なのである。私は、市民としての矜持を守るために、この法案に反対する。それが愛国心というものだ。
参考文献資料
奥平康弘、宮台真司[2002]
奥平康弘、宮台真司『憲法対論』平凡社新書、2002年12月18日
斎藤環[2003]
斎藤環「条例強化というお節介には断固反対する」=「中央公論」2004年1月号、中央公論新社
岡留安則『『噂の眞相』25年戦記』集英社新書、2005年1月
芹沢一也『狂気と犯罪』講談社+α新書、2005年1月
長谷部恭男『憲法と平和を問いなおす』ちくま新書、2004年4月
日垣隆『現代日本の問題集』講談社現代新書、2004年6月
宮台真司『亜細亜主義の顛末に学べ』実践社、2004年9月
宮台真司『宮台真司interviews』世界書房、2005年2月
参考リンク
「すべてを疑え!! MAMO's Site」(坂本衛氏:ジャーナリスト)
「このまま通してはいけない! 「人権擁護法案」 -緊急記者会見とアピール-」(アジアプレス)
「【主張】人権擁護法案 問題多く廃案にすべきだ」(産経新聞・05年03月10日付)
「言論表現の規制が問題」(しんぶん赤旗・05年03月13日付)
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