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2005年3月 7日 (月)

トラックバック雑記文・05年03月07日

 MIYADAI.com:つまらなさ一段と深刻~地下鉄サリン事件から十年~(宮台真司氏:社会学者)
 今月20日で、かの地下鉄サリン事件からちょうど10年になります。宮台氏とは懇意の評論家、宮崎哲弥氏の著書『正義の見方』(新潮OH!文庫)で、宮崎氏はサリン事件の背景に五島勉『ノストラダムスの大予言』がある、と指摘していました。そして当時の30代以下の人がなぜこのような「教示」に惹かれたか、ということについては、宮崎氏は「内なる近代の終焉」が「終末」のムードに傾倒するきっかけになっている、と論じています。
 宮台氏は《退屈ゆえにハルマゲドン幻想を持ち出して不安を消費する──それがオウムでした》と書いています。そしてその前には《この十年で気になるのは、監視と排除を求める気分の増大です。人々は客観的安全より主観的安心を過剰に求め、実効性の疑わしい施策に群がります》と書いていますが、私はこのような構造を、昨今噴出している「若者論」に見出します。すなわち、「今時の若者」を反社会的属性として過剰に敵視し、「あいつらは俺たちとは違うんだ」ということを身内(「善良な」人たち)の中で「納得」するためにさまざまな論理飛躍や疑似科学的決定論をふんだんに用いて自らのステレオタイプが「正しい」ことを「証明」することの横行です。しかし、必要なのはそのような「切り離し」ではなく、宮台氏などが主張している通りそのような人たちも含めて自分と同じ社会に生きている、という態度、簡単に言えば「信頼」とか「寛容」とかいった言葉に集約されるのかもしれません。
 このようなことに関して、多くの良心的な人たちはすでに気づいており、実行している人も少なからずいます。たとえば「ひきこもり」に関して積極的に発言や活動を続けている斎藤環氏はその一例です。斎藤氏は2003年末に『ひきこもり文化論』(紀伊國屋書店)という名著を書いており、その中で「ひきこもり」に対する支援策についてまとめております。斎藤氏も書かれていますが、やはり肝心なのは、宮台氏が示唆しているように、安直な共同体主義を持ってくるのではなく、まず「生き方」のモデルの提示なのではないか、と思います。「若者論」に没頭する人たちは、これをどこまで理解できるのでしょうか。

 千人印の歩行器:[本屋編]地球人の見た出版(栗山光司氏)
 週刊!木村剛:[ゴーログ]西武鉄道とニッポン放送の類似点:絶望感のゆくえ(木村剛氏:エコノミスト)
 署名で書く記者の「ニュース日記」:公共性(小池新氏:共同通信記者)
 栗山氏の文章では、栗山氏が現役の書店員だったころ、再販制度の撤廃を主張するレポートを取次ぎに提出したところ、まったく無視された、というエピソードが書かれております。栗山氏はそのエピソードを紹介したあと、さらにこう続けます。曰く、

何十年前に現役の書店員の頃、簡単なレポートを大取次ぎに提出したことがありますが、完全に無視されました。テーマは『再販維持制度の検討』です。原則は再販維持制度撤廃が正常なのです。あくまでこの法制度は特例にすぎない。面白いことに営業、書店の現場では、撤廃されることで仕入れの目を磨き仕事が面白くなるのではないかと言う期待があるのですが、既得権の旨味を知った管理職、何故か、再販制が撤廃されると、本のコンテンツの劣化を招き、ひいてはこの国の活字文化の劣化を招くと、憶測で編集権、言論の自由と再販制度を結びつけて撤廃に反対するのです。何やらフジテレビとライブドアの対立構図に似たものがある。

 単純に言えば、栗山氏の関わった取次ぎの場合は、再販制度という既得権益を手放したくないために《再販制が撤廃されると、本のコンテンツの劣化を招き、ひいてはこの国の活字文化の劣化を招くと、憶測で編集権、言論の自由と再販制度を結びつけて撤廃に反対する》ということになるのでしょう。しかし、そのような論理の反対基準があくまでも《憶測》であることに私は抵抗感を覚えるのです。政治家の論理かもしれませんが、もしある提言に対して対案を持ち出すのであれば、私は徹底的に理詰めで攻めるべきだと思います。このケースで言いますと、なぜ再販制度が撤廃されると《本のコンテンツの劣化を招き、ひいてはこの国の活字文化の劣化を招く》が生じるのか、さらに言えば《本のコンテンツの劣化》や《この国の活字文化の劣化》が何をさすのか、ということも明確にしておかなければならないはずです。そもそもこのような物言いは、本のコンテンツや活字文化の「劣化」を嘆く人たちには有効かもしれませんが、アウトサイダーには理解できません。理詰めで攻める、ということは、できるだけアウトサイダーにも分かるようにする、ということです。そうでないと、このような論理が、本当は活字文化や表現の自由ではなく、自分の既得権益を守るために過ぎない、どこを向いた議論なのか、という誤解がまかり通ってしまうことを許容する羽目になりかねません。
 それにしてもライブドアvs.ニッポン放送の買収劇には、ニッポン放送の社員よりも見放されている人がいるような気がしてなりません。それはニッポン放送の番組のリスナーです。
 ニッポン放送の社員が、「私たちニッポン放送社員一同」として声明文を出していますが、あまりにも滑稽です。
 なぜか。それは冒頭で真っ先に「リスナーの皆様」と書いているにもかかわらず、この文章にはリスナーのことが少しも触れられていないからです。触れられているとしたら、

 一方、ライブドア堀江貴文社長の発言には「リスナーに対する愛情」が全く感じられません。ラジオというメディアの経営に参画するというよりは、その資本構造を利用したいだけ、としか私たちの目には映りません。

 といったくだりくらいですが、《「リスナーに対する愛情」》とは、いったい何を指すのでしょうか。また、堀江氏の発言といっても、どのような発言を元にそう言っているのか分かりませんし、この声明文を読んでみる限り、これは完全にリスナー無視、しいて言えば自社の社員とスポンサーを守るためだけに声明文が発せられた、という気がしてなりません。
 これでいいのでしょうか。
 ニッポン放送の社員が「リスナーのためを」思って発したこの声明文も、結局はスポンサーに対する権益なくしてリスナーへの配慮は存在しない、といっているのに等しい。自らの既得権益の保護が「リスナーのため」という美辞麗句にすりかえられている、というのが正直な印象であります。本当に「リスナーのため」を思ってやっているというのであれば、その姿勢は自社の経営基盤(現在ならフジサンケイグループ)が変わっても変わらないものであるのか、ということを示すべきです。
 結局のところ、この論争にはリスナーは最後まで不在です。ラジオ局にとって最も重要なものが抜け落ちているのです。

 情報紙「ストレイ・ドッグ」(山岡俊介取材メモ):「NYから眺めたフジヤマ」byマイク・アキオステリス(日本通米ジャーナリスト)③「カリスマ経営者」(堤義明)逮捕で思う日本のマスコミの「幼稚さ」(山岡俊介氏:ジャーナリスト)
 マスコミの話です。山岡氏は、堤氏を紹介するときに「カリスマ経営者」という「枕詞」を付して報道することに関して憤っております。無責任な「レッテル貼り」は、私は特に俗流若者論においてたくさん見出しております。「心の闇」「キレる」「ゲーム脳」「サル化」「フィギュア萌え族」……。皆様も一度は目にしたものばかりでしょう。特に「○○症候群」みたいな物言いは、若年層の「病理」、さらには「時代の病理」を手軽に映し出してくれる言葉としてとりわけもてはやされております。これを列挙した『器用に生きられない人たち』(中公新書ラクレ)なる本が出ているのですが、今月の「諸君!」(文藝春秋)の「今月の新書完全読破」というコーナーにおいてこの本が宮崎哲弥氏によって「今月のワースト」に大抜擢されております。宮崎氏はこの本の著者に対して「なんでも症候群にしたい症候群」なる「病名」を下しております…。

 *☆.Rina Diary.☆*:ぽつり。(佐藤利奈氏:声優)
 独り言の話です。佐藤氏は一人暮らしを始めてから、独り言が多くなった、というそうです。ちなみに私は実家住まいなのですが、独り言は結構多いと自覚しております(ただし一人でいるときだけ。一人でいるなら、自室でも街中でも容赦なく言ってしまう)。その内容としては、主に私が本などを読んで面白いと思った表現や、自分で思いついて今後の論文に使おうと思う表現ばかりです。
 ある意味、独り言は退屈さを紛らわす上でも有効かもしれませんが、周囲には気をつけて。

 保坂展人のどこどこ日記:イタリア記者 人質解放直後のまさかの銃撃 そして日本の選択(保坂展人氏:元衆議院議員・社民党)
 保坂氏の文章では、拘束されたイタリア人が泣きながら「イタリア軍撤退」を訴える文章をインターネットで見て、多くのイタリア人がその無事を祈った、と書かれています。また、イタリア情報当局は人質解放に向けて水面下で努力をしたそうです。
 昨年、日本人がイラクの武装勢力に拘束されるという事件が何度かおきましたけれども、その時々のマスコミや政府(得に小泉首相)の対応ぶりとはまったく対照的です。保坂氏も指摘するとおり、自国民が武装市民に拘束されて人質に取られても《小泉総理は「テロリストには屈しない」と藪から棒に言うだけ》で、そのような言葉がいかに武装勢力を刺激するか、ということに関してはてんで無関心です。そのことは多くの人が指摘しているのですが、小泉首相、ないしそれに近い立場の人たちはそのような意見の戦略的意味を理解できているのでしょうか。
 マスコミも然りです。マスコミは人質になった人々の特徴について、彼らがイラクに行った動機を「自分探し」だと書き飛ばしていましたが、そんなことは枝葉末節なのです。肝心なのは、日本人がイラクで武装市民に人質にされた、というリアルな事実だけなのです。このような報道をすることで、「自分探し」に没頭している(と勝手に規定されている)「今時の若者」を戒めたい、と思ったのかもしれませんが、一番大事なことを忘れています。このような政府やマスコミの体たらくは、ネット上で斬首の映像が流布してしまうというこれまた痛い現実よりもさらに痛い現実のように思えてなりません。
 「理解できない」少年犯罪が起こると、すぐさま多くの「識者」たちは「「今時の若者」は他人の痛みが理解できないからすぐに殺人に走る」などといいます(実際は少年による凶悪犯罪は減っているのに)。しかし我が国においては、「他人の痛みが理解できない」ひとたちが政治を牛耳っているのが現実なのです。
 このことについて、ジャーナリストの江川紹子氏が書いた文章「「被害者叩き」の前に検証を」も一読に値します。

 お知らせ。長い間放置していた「正高信男という頽廃」ですが、現在急ピッチで執筆を進めております。今週中には絶対に発表できますので、もう少しお待ちください。

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コメント

TBありがとうございます。実は結構お邪魔して拝見しています。報道を含めいろいろな(目立つ)発言の中で全く論理的に通らないものが多いですね。発信している方の人間はたぶん高学歴であるだろうに…。またそれを疑問にも思わず飲み込む方にも問題はあり双方のマスターベーション化してんじゃ?なんても思います。
僕も知りたがりの視点からいろいろ見て行こうと思っています。

投稿: grounder | 2005年3月 7日 (月) 16時50分

後藤さん、初めまして。
若い人が自発的に「他者に読まれていることを意識した文体」でブログをされていることを嬉しく思います。
今は2チャンネル的な自家撞着的文体が多いと思っていたので。

後藤さん:
“「今時の若者」を反社会的属性として過剰に敵視し、「あいつらは俺たちとは違うんだ」ということを身内(「善良な」人たち)の中で「納得」するためにさまざまな論理飛躍や疑似科学的決定論をふんだんに用いて自らのステレオタイプが「正しい」ことを「証明」することの横行です。”

「若者論」はいつの時代でも多かれ少なかれそのような傾向を含んでいるのではないかと思います。
「太陽族」も「団塊」も「シラケ」も「新人類」も「おたく」も「コギャル」も・・。

現代ならではの問題があるとしたら、年長者による排除の習慣を若者達が内面化し、同世代どうしでも排除を反復させている面が見られることではないかと思います。
みんながみんなそうではないけど、若者間のコミュニケーションも色々考える余地がありそう。

投稿: ナイン | 2005年3月 7日 (月) 20時22分

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