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2005年3月16日 (水)

トラックバック雑記文・05年03月16日

 今月12日から13日にかけて、東京に行ってきました。JRの土日きっぷ(宮城県古川市より南の東北、関東全域、中部地方の東部におけるJRの電車賃が指定した土日はすべて無料になる。新幹線も含む)を使って、ひたすら山手線などに乗り続け、いろいろ歩いてきました。私が足を運んだのは池袋、渋谷、原宿、お台場、新宿、代々木、神保町、秋葉原、汐留(シオサイト)です。
 そこで私が思ったことをあげておくと、まず、渋谷(渋谷センター街)と原宿(表参道)ではぜんぜん違う、ということです。私がいいと思ったのは原宿(表参道)でした。表参道は、原宿駅から東向きに通っている大通りのことですが、大通りだけに風通しがよく、通りの両脇に大きなビルが建っていてもあまり圧迫感を覚えないし、植栽もあって、散歩にはちょうどいい場所かもしれない、と思いました。表参道では、現在同潤会代官山アパートの建て替え工事が安藤忠雄建築事務所などの主導で行われていますが、この新生代官山アパートが原宿の景観と社会環境にいかに影響を及ぼすか、楽しみになってきました。
 一方、渋谷はとても窮屈でした。通りにけばけばしい看板が目立ち、建物が高い上に路地も狭いので圧迫感がありすぎます。これはセンター街だけでなく、渋谷駅周辺の商店街全般に言えることです。唯一開放的なスペースは渋谷駅のハチ公口前の広場、およびその近くにあるスクランブル交差点くらいで、できればこの町には近寄りたくはないな、というのが正直な感想でした。で、渋谷を抜け出して松濤に出たのですが、ここは住宅地ということもあって静かな感じを受けました。
 期待はずれだったのが秋葉原です。私は思いっきり「萌え」の街をイメージしていたのですが、秋葉原駅前には巨大なガラス張りのビルが建ち、アニメショップなどの店は駅前から離れたところに位置しておりました(アニメイトの秋葉原店を探すのに30分かかった)。東京都は、秋葉原をIT産業の拠点にしたい、と目論んでいるのでしょうが、あのビルは秋葉原には絶対似合わない、と感じた次第であります。最近の秋葉原では、警察によるオタクを狙った職務質問が増えているという記事を「週刊SPA!」や「AERA」で見たことがありますが(現在、どちらも手元にないので詳しい内容の確認はできません)、これも東京都の思惑の表出なのでしょうか。
 追記しておくと、私が秋葉原で入った店はアニメイトの秋葉原店の1階だけです。

 週刊!木村剛:[ゴーログ]経営者が果たすべき3つの職責(木村剛氏:エコノミスト)
 木村氏は、「経営者が果たすべき3つの職責」として、次のように述べておられます。

 経営者の大きな仕事は3つ。
 そのうちの2つは、方向を決めることと、日々判断することです。
 それらが、組織のメカニズムとして、自動的に動くようになってくると、その会社は自ら浄化作用を働かせ、力強く復活していくようになります。その過程においては、方向性の違う人々と袂を分かたなければならないこともありますし、自浄のために凛として排除しなければならないケースもあります。
 それぞれの局面では厳しい決断を迫られる場合もあるわけですが、それが経営者の職責ですから逃げるわけにも行きません。事前にあらゆるケースを想定して思い悩みつつ、現実的にそのケースが発生したら、即時に判断を下す ――それが経営者の仕事です。
 おかげさまで、日々24時間悩み抜いていますので、これまでのところ、日本振興銀行において現実の課題が発生して判断を迫られた場合に5分以上悩んだことはありません。その場その場で結論を出すように心掛けてきましたし、今後もそうでありたいと思っています。
 そして、残ったもう1つ経営者の職責は、結果としての数字を残すこと、です。

 これは、木村氏が経営者として座右に置いている心掛けでしょうが、自らの社会的責務を自覚した上で行動する、というのはとても大切なことであると思います。私が主に研究している俗流若者論の分野では、自らの学者としての責務を自覚しない曲学阿世の徒が自らの暴論をさもそれが当然の公理であるように言い張っているのですが、学者としての責任は世にはびこる差別や都市伝説や短絡的思考をナチス的に「正当化」するのではなく、自らの深い教養と考察に基づいて、そこで生まれた結果を社会に広めていく、ということだと思います。あるいは、世の中の人々が自分の研究分野に関して興味や関心を抱くようにすることも、責務だと思います(ゆえに、最近になって「世界で一番受けたい授業」や「笑っていいとも!」などのテレビ番組で行われている科学実験企画は、私は絶賛に値するものだと考えています)。
 社会的責務、ということでもう2つほどしゃべらせてください。

 署名で書く記者の「ニュース日記」:霞む国会(相馬芳勝氏:共同通信記者)
 私は現時点では一応民主党を支持しているだけに、民主党代表・岡田克也氏の「野党ではなく政権準備党」という言葉には少し困っています。「政権準備党」ということは、民主党には具体的な政治ヴィジョンがある、ということを言いたいのかもしれませんが、少なくとも現在の民主党からは政権のヴィジョンが見えてこない気がします。本当に政権の準備をしているのであれば、そのヴィジョンを広く国民に示し、現在の小泉政権、自民党政権よりもいかにマシであるか、ということを主張してほしい。岡田氏は、「政権準備党」ということを、与党と闘うのではなく与党と調整する、という意味で用いているのであれば、岡田氏には民主党が野党である意味を考え直してもらいたい。

 弁護士山口貴士大いに語る:人権擁護法案に異議あり!(山口貴士氏:弁護士)
 さて、人権擁護法案が本格的に国会で審議され始めました。この法案を読んでみる限り、我が国の政府は「人権」という概念を本当に理解していない、と呆れ返ってしまいます。しかし、人権概念の度し難い無知は、その原因を求めると左右の「論壇」にこそあるのです。
 人権とは何か。それは国家権力の横暴から国民を守るための論理です。簡単に言えば、自らの発言を国家によって制限されない権利=表現の自由、国家によって不当に逮捕されて不当に裁判にかけられて不当に処刑されない権利などであり、それを定めたものが憲法なのです。すなわち、憲法とは基本的に人権を規定したものであり、また、憲法とは国家に宛てた命令と捉えられるべきです。
 その点から考えれば現在審議中の人権擁護法案なるものがいかに矛盾しているものなのか分かります。すなわち、人権擁護法案とは、「人権擁護」のもとに国家が平然と人権侵害ができるようになる法案なのです!!!ああ恐ろしい。
 人権擁護法案においては、個人や組織(国家ではない)が個人に対する差別的な言動や待遇を《人権侵害》と規定しているようですが、どこが人権侵害なのでしょうか。こういうのを法学的には私人間効力といい、人権侵害にはまったく当てはまりません(倫理的には大問題ですが)。また、個人による別の個人への暴力も《人権侵害》とみなされているのですが、すでに我が国には刑法があります。刑法で処罰してください。
 このような悪法が生まれる背景には、我が国のある時期の論壇における「人権」概念の超拡大解釈があります。ある時期、「左翼」的な人が、親が子供に振るう暴力はもとより、親が自分の優位性を示す言動さえも「人権侵害」と喧伝していたのですが、これは「人権」概念を極度に貶めると同時に、「人権」概念を単なる運動家の論理に格下げしてしまいます。で、「左翼」的な人がこのようなことばかりを主張しているのですから、低俗には低俗で対抗したがる一部の「右翼」が、「子供に人権はない!」などと変なことを主張したがる。このような低俗のスパイラルが、やがて人権という概念の国民的無知を生み出し、このような法案が現れる羽目になってしまったのです。このことについて、我が国の論壇はどのように思っているのでしょうか。「論壇」が社会的責務よりも身内の理論に埋没してしまったからこそ、このような悪法が現れたのです。
 憲法学の基礎から見て、この法案は度し難いまでの形容矛盾を含んでいるのです。だから、この法案は即刻破棄されるべきです。
 もう一つこの法案の問題点は、「何が差別か」という、社会的に重大な問題を、国家が決めてしまう、ということでもあります。これは複雑なことはすべて国家に任せてしまおうという、国民による市民としての役割の放棄以外の何物でもありません。「何が差別か」ということを決めるのは国民であり、市民です。この法案は、それを国家に決めてもらうことによって、下手をすれば国家による横暴と圧制を許しかねないものであるのです。これは国家による思想統制にほかなりません。この法案は「左翼」的なものと捉えられているようですが、たとえば教育基本法の改正案に見られるような、「何が愛国心か」ということに関して国民にその信を問うということを通り越して国家がそれを決めてしまうことや、「心のノート」などに見られるような「何が道徳か」ということを国家に決めてもらう、ということと本質的に同じものなので、この法案はかなり「右翼」的なものであると私は踏んでおります(人権擁護法案に反対する「右翼」の人たちは、もし「国辱・売国的な言動を処罰する」といった「愛国者法」みたいな法律が作られたら、反対するのでしょうか)。
 これらの法案の先にあるのは、「何が「善きもの」か」ということをすべて国家が決めてしまう、という思考停止社会です…と言ってしまうのは言いすぎかな。

 ン・ジュンマ(呉準磨)の備忘録:現在枕元に置かれている、「ネットに文章を書いてる人に推奨したい本たち」
 私は、ウォルター・リップマン、掛川トミ子:訳『世論』(岩波文庫、全2巻)をお勧めします。この本では、「ステレオタイプ」という概念を中心に、第1次世界大戦後の世論の混乱を説き明かしているのですが、現在にも通じる問題は非常に多く含まれております。ネットのみならず、文章を多く読む人には、自分の考えを整理するきっかけとしてぜひとも読んでほしいものです。

 伊藤剛のトカトントニズム:「おたく:人格=空間=都市」展に対する「嫌悪」の表明/「萌えフォビア」の実例(伊藤剛氏:漫画評論家)
 伊藤氏は、《「ヌード写真など実写のポルノグラフィは(条件つきでも)OK、売買春も同様。しかし、キャラを用いた性的な表現は気持ち悪いから絶対に認められない」という強い感情》という《萌えフォビア》の実例を、「「おたく:人格=空間=都市」展」のポスターに嫌悪感を示した人を例にとって挙げています。
 さて、この問題に関して私が最も最初に思い出すのは、ジャーナリストの大谷昭宏氏の例です。私は、「俗流若者論ケースファイル01・大谷昭宏」において、大谷氏にとって「萌え」概念は《「萌え」とは「今時の若者」の「病理」、ここでは《パソコンの中に出てくる美少女たちとだけ》の《架空の恋愛》しかできないという病理を照射するための概念》でしかない、と指摘しました。大谷氏は、「2次元の世界でしか恋愛できない「今時の若者」が、絶対現実の世界で恋愛なんてできるはずはない。だから「萌え」る「今時の若者」に社会性なんてあるはずはない、だからそこから犯罪者が生まれるはずだ」と考えているのではないか、と要約できます。「はてなダイアリー」のキーワードに「萌えフォビア」という概念が追加されていたのですが、そこには伊藤氏の定義、すなわち《「キャラ」という表現制度が「シンボル/イメージ」つまり「文字/絵」の分割と、「大人/子供」の分割という、近代の大きな枠組みを二つも侵犯していることに起因するもの》に加えて《さらに「2次元/現実」の分割という枠組みの侵犯も加えてもよいと思われる》ということが書かれていましたが、一般の人がオタクバッシングに用いる論理の中で一番大きいのはまさしく《「2次元/現実」の分割という枠組みの侵犯》だと思われます。
 蛇足ですが、伊藤氏のブログにこのような記述がありました。

 リンク先のブログ、タイトルに添えて「05年1月1日【少子高齢化と、「結婚」より気楽な「事実婚の子育て」】ブログタイトルを変更しました。いざ、少子を守らん! 」という記述がある。「少子」という言葉は、「現在、数が少なくなっている貴重な子ども」という意味にも使われるものだろうか。ぼくが知らないだけかもしれないが、少なくともきいたことはない。このような用い方が普通にされる業界や界隈があるということだろうか?

 《いざ、少子を守らん!》だと。この人は少子化肯定論者なのでしょうか。そう捉えられてもおかしくないでしょう。しかし、伊藤氏は《ぼくが知らないだけかもしれないが、少なくともきいたことはない。このような用い方が普通にされる業界や界隈があるということだろうか?》と疑問を呈しておられますが、私も聞いたことはない。それにしても伊藤氏のブログのリンク先のブログのタイトルが、「愛する子どもの守り方」というのは、どうもいただけない。伊藤氏も指摘しておりますが、「子供」をダシにして自分の気に食わないものを批判するのは、論点をずらすだけではないでしょうか。

 お知らせ。bk1で私の新作書評が掲載されています。今回採り上げた本はぜひ一度皆様に読んでほしいほどの名著です。
 芹沢一也『狂気と犯罪』(講談社+α新書・2005年1月)
 title:「狂気」を囲い込む社会

 「正高信男という頽廃」も公開中です。ここで採り上げた『人間性の進化史』(NHK人間講座テキスト)は、前後矛盾と論理飛躍にあふれ、文学作品のトンデモ解釈もあり、生粋のトンデモ本マニアの人々にも笑って楽しめるような内容でしょう。

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コメント

随分古い記事なので、すでにご存じの内容かも、とも思ったのですが、ご文章にどうしても気になる個所があるので、コメントさせていただきます。不快に感じられましたら削除してください。
 後藤さんはうえのエントリで人権擁護法案を批判してらっしゃいます。そのこと自体には異論はないのですが、批判するために使った論理の筋道に疑問があります。

> 人権とは何か。それは国家権力の横暴から国民を守るための論理です。簡単に言えば、自らの発言を国家によって制限されない権利=表現の自由、国家によって不当に逮捕されて不当に裁判にかけられて不当に処刑されない権利などであり、それを定めたものが憲法なのです。

>人権擁護法案においては、個人や組織(国家ではない)が個人に対する差別的な言動や待遇を《人権侵害》と規定しているようですが、どこが人権侵害なのでしょうか。こういうのを法学的には私人間効力といい、人権侵害にはまったく当てはまりません

とありますが、「人権の私人間効力」という概念自体は、芦部信喜先生の『憲法』にも登場しており、必ずしも奇異なものではありません。同書には、
「人権は、戦後の憲法では(中略)、公法・私法を包括した全法秩序の基本原則であって、すべての法領域に妥当すべきものであるから、憲法の人権規定は私人による人権侵害に対しても何らかの形で適用されなければならない」とあり、また、戦後の人権研究によって、
「(前略)人権をもっぱら国家に対する防御権と解する伝統的な考え方は、自由主義の国家論と、法実証主義およびそれと結びあって説かれた国家法人説などの思想に由来する歴史的理由に基づくもので、人権の観念に当然にともなうものではないこと」が明らかになったとあります。
 さて、以下は下種の勘ぐりになりますが、後藤さんのエントリに見られる憲法観は、宮台真司の書物から得たものではないでしょうか。ぼくも、現在の後藤さんが宮台にたいして批判的な立場をとられるようになったことは知っていますので、こうした宮台流憲法観の誤りにもすでにお気づきかもとも思ったのですが、念のためコメントさせていただいております。
 ぼくは『憲法対論』は読んでいないのですが、『M2』『よのなか』を読む限りでは、宮台の法にかんする知識はかなり怪しいように思えます。たとえば『M2』の一冊目で彼は「憲法で男女平等を謳っていても、企業は男女差別をしたってかまわない。憲法じゃなくて、男女雇用機会均等法っていう法律ができてから初めて、企業の雇用差別が違法になる」と発言しています。しかし日産自動車事件(日産自動車の、男子60歳、女子55歳という定年の規定を女子職員が訴えた事件)のときは、男女雇用機会均等法は存在しませんでした(原型となる勤労婦人福祉法はあったものの、定年の差別を禁ずる条項はありませんでした)が、会社側が敗訴、就業規則の定年差別は無効となりました。この判決は、憲法の人権規定を民法90条を解することで間接的に私人間に適用したものです。では民法90条とはなにかというと、いわゆる公序良俗違反の規定です。つまり、憲法の人権規定に違反するような行為は公序良俗に反している、というのが裁判所の考えなわけです。他に民法709条も憲法を間接適用する際によくつかわれますが、こちらは「故意又は過失によって他人の権利又は法律上保護される利益を侵害した者は、これによって生じた損害を賠償する責任を負う」というもの、いわゆる不法行為責任です。
 どうも宮台の議論からは、民法の次元が抜け落ちているように思われます。たしかに憲法の人権規定に違反しても逮捕されたり刑事罰を受けたりすることはありませんが(罪刑法定主義からして当然)、民法90条や709条により民事上敗訴することは充分にありえます。
 ついでにいうと『M2』では、先の引用に続く部分で、宮崎哲弥も「いまもし俺が宮台さんを殺しても、それは刑法違反(法益侵害)であって、直接的には人権侵害ではない」といっていますが、これもおかしい。殺人は刑法で裁かれるだけではありません。上の場合でいえば、宮台の遺族は宮崎を民事的に訴えることができ、その場合は先にふれた民法709条が適用されます。つまり、殺人も「他人の権利又は法律上保護される利益を侵害」する行為なわけです。
 基本的には、権利の侵害は民法で争われる問題であり、刑法の問題ではありません。殺人犯が死刑になれば、被害者の遺族は、そりゃあ胸はスカッとするかもしれません。しかし、民事的な手続きによって加害者から被害者へなんらかの賠償がなされないかぎり、権利の侵害が埋め合わされたことにはならない、というのが法の考え方です。よって、人権問題を語りながら民法を無視する彼らの態度は、法にたいする根本的な無知を物語っているように思えてなりません。
 以上、ながながと失礼いたしました。
 

投稿: 匿名 | 2010年3月21日 (日) 05時46分

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