正高信男という頽廃
曲学阿世というのはいかにして生まれるか。「曲学阿世」とは、すなわち学を曲げて世に阿るということだが、この「世に阿る」というのが曲者である。曲学阿世は、阿る「世」がなければ存在しないのであろう。
ならばその「世」とは何か。現在の我が国においては、それは若年層への敵愾心として表れているようだ。巷では若年層による凶悪犯罪や「問題行動」を採り上げる言説が横行し、「善良な」大人たちはそれらの「犯人」探しに没頭している。最近その「犯人」として採り上げられているのは、漫画、アニメ、ゲームなどのメディアと、そしてインターネットや携帯電話といった通信機器であろう。とりわけ後者に対しては、これらのメディアが例えば子供たちの脳を壊し、そこから凶悪犯罪や「問題行動」が生じる、といった、いわゆる「ゲーム脳」理論などに見られるように、そのようなメディアが人間性そのものを破壊している、という議論が噴出し始めた。しかしそのような珍説を唱える人たちにとって「人間性」が何を示すのか、ということが不明であることが多い。おそらく、その提唱者やそれに近い考え方をもった人たちにとっての「道徳的」価値観が「人間性」に置き換えられているのだろう。また、ここでは「脳」が「人間性」のメタファーとして語られているが、そのような問題設定をすることは暗黙のうちに脳機能に障害を持った人(山内リカ[2005]では高次脳機能障害の例が書かれている)を差別していることにならないか。
現在の青少年の「人間性」が衰退している、という考えを持つ人たちは、彼らの問題にしたがる「今時の若者」が自分とは「本質的に」違う存在であると考えたいのだろう。しかし忘れてはいけないのは、そのような人も含めて我々は同じ社会に生きているということである。だが、彼らにとっては、そもそも「今時の若者」が「人間」であること自体が気に入らないことらしい。そのため、そのような人たちの「人間性」を意地でも否定したいという欲望が満ち満ちたような文章が頻出するのである。
そろそろ本題に入ろう。
曲学阿世の徒・京都大学霊長類研究所教授の正高信男氏が、NHKの「人間講座」に講師として出演した(平成16年12月~平成17年1月)。そのテキストのタイトルは『人間性の進化史』である。しかし本書を開いてみると、要は現代の日本人、特に若年層の「人間性」が退化し、我が国は急速にサル型の社会に移行しつつある、という内容である。これではタイトルを『人間性の退化』とでもしたほうがいいのではないかと思われるのだが、そんなことは枝葉末節であろう。
かつてNHKの「人間講座」で、若年層のことを取り扱ったことはあった。精神科医の斎藤環氏による『若者の心のSOS』(平成15年8~9月)である。斎藤氏によるこの講座は、さすがに「ひきこもり」研究に長年付き合ってきた研究者だけあってか、過去や現在の学説や臨床事例をうまく引き合いに出しているし、その原因や解決策にも目を向けている。確かに違和感を感じる点も多いけれども、特に第7章と第8章に関しては、教えられるところも多い。少なくとも斎藤氏がどのような仕事をしてきたか、ということがよくまとまっているので、現在でも一読に値する文献であろう。
ところが正高氏の講座は違う。斎藤氏の講座との比較に関して言うと、斎藤氏が《できるだけ多面的かつ共感的に理解することを目指していきたい》(斎藤環[2003a])と、安易な「理解」を排していたのに対し、正高氏の講座は《日本人の将来像はケータイ主義的人間という表現によって、集約できるのではないかと考えている》(正高信男[2004]、以下、断りがないなら同じ)と、いきなり一つのカテゴリを設けて、それにしたがって説明しようとしている。無論、このような論述法が間違いとはいえない。しかし正高氏の講座においては、長々と霊長類学の学説を紹介した後、唐突として若年層をサル的だと罵り、そして「憂国」する、というスタイルで一貫しており、具体的な事例はまったくなく、全てが俗流若者論が好んで採り上げるような「今時の若者」だけで成り立っている。まずこれだけで、正高氏の姿勢というものが明らかになっているだろう。
本書の全体を通じた疑念に関して触れると、第一に、若年層以下(すなわち、物心ついたときから携帯電話やインターネットに親しんできた層)とそれ以外に関して強烈過ぎるほど線引きをしていること。第二に、いわゆる「情報化の進展」以外の要因が完全に除外されていること。メディアや若年層の心理に関する歴史に関しても触れられていない。第三に、全ての章において「憂国」してみせるというだけで終わっており、解決策には手がまわっておらず、一つの現象に「憂国」してみせたらまた別の現象を引き合いに出して「憂国」するだけである。そして最後に、正高氏の言うところの《ケータイ主義的人間》という安易なカテゴリに正高氏が意地でも当てはめようとしていること。科学者の態度ではない。むしろパオロ・マッツァリーノ言うところの「社会学者」の態度である(パオロ・マッツァリーノ[2004])。
正高氏のこのような態度が本文中でいかに表れているか、本文の記述を追って見てみることにしよう。
第1回・人間はいつ人間になったか――正高信男はいつ曲学阿世の徒になったか
正高氏は携帯電話がもたらす生活の《本質的変化》について、《すべてのやっかいと感ずる知的作業を、肌身離さず持つ小さな電子機器に委ねるという点にあるのでは》と推測する。しかしこのような議論に関しては、《すべてのやっかいと感ずる知的作業》の定義がどこにあるかどうか分からない。その中には、例えば食事を作る作業とか、携帯電話端末では到底できそうにもないことが含まれているのだろうか。また、正高氏はその直後で人間を一台のコンピュータとみなし、そこから現在起こっている現象を論じているけれども、ここでは教育とか、あるいは知的事業の社会化ということに関してはまったく触れられていない。もっとも、このような設定をすると、コンピュータが別のコンピュータに内容を複写したりとか、あるいは別の単一で特大の外部メモリー(=社会)を設定しなければならなくなるので、議論が複雑になる、という点はある。しかし、人間の構造は少なくとも正高氏の用いたアナロジーよりははるかに複雑である、ということを正高氏には知ってほしい。また、正高氏はその後で《科学技術が発達し、身の回りが便利な人工物で埋め尽くされると共に、私たちの文化的な「まとい」をはぎ取ることにつながるのかもしれない》と表記しているけれども、これは読みようによっては文化の均一化を表しているととらえられてもおかしくない。
もっとも、この部分は明らかに導入部分であり、正高氏の問題意識を表した章であるので、この章の記述に関して突っ込みを入れるのはここまでにしよう。しかし、これ以降の章は、正高氏の偏狭な認識や、論理飛躍、霊長類学の知見の暴力的な「適用」などが見られる。少なくともこの章を見ると、正高氏が現在の我が国に対していかなる感情を持っているかということがわかるので、読んでおいて損はないだろう。
第2回・はじめに言語ありき――はじめに「コミュニケーションの劣化」ありき
正高氏はこの章の初めのほうで、《言語を用いたコミュニケーションの仕方も、質が劣化しつつある》とぶち上げている。この章は、正高氏がなぜこのように考えるか、ということを示した章である。
正高氏は37ページにおいて、ネット上のやり取りについて述べている。その中でメールの「顔文字」について、正高氏は地面だけでは発言者の感情的なニュアンスが伝わらないので、それを補助するために「顔文字」というアイコンを用いるという対抗策を発案した、と言っているのである。要するに正高氏は、「顔文字」を文字と併用して使われるコミュニケーション手段であり、決して文字そのものの代替物ではないことを示しているのである。ところが39ページの終わりのほう、節が変わった直後で、このようなコミュニケーション手段を《いかにも現代日本的な表現方法》と表現してしまう。勘違いしないでほしいのは、正高氏にとって《現代日本的》というのはすなわち「サル的」と言うことであり、本書において《現代日本的》という表現は「サル的」と置き換えて読んだほうがいいだろう。それはさておき、なぜ正高氏は「顔文字」が《現代日本的》であるというと、その理由として《私見であるが、欧米では同様のアイコン使用は、ほとんど見られない》と書くだけである。アジアはどうなのだろうか。しかもその証左としているのが、《周辺の知人》の証言だけである。しかしこのような間違いを指摘するのは些細なことかもしれない。
もう一度書くけれども、正高氏は「顔文字」を文字と併用して使われるコミュニケーション手段として38ページで書いていたはずである。ところが40ページの中ごろにおいて、《顔マークがユニークなのは、もう言語という抽象的表記スタイルを捨て去ったという点にあるだろう》などと表現してしまっている。だったら何だ。我が国でメールを用いている人々はメールにおいて文字を使っていない、ということか。私はインターネット上でさまざまな日記サイトを見ているけれども、いわゆる「顔文字」が使われるのは全てのケースにおいて何らかの文章を書いた後に「(笑)」とかいった表現と同じようなニュアンスで使われているだけである。要するに我が国の人たちは《言語という抽象的表記スタイル》をまったく捨て去っていないのであり、「顔文字」はそれを補助するための手段に過ぎないのだが。現に正高氏は38ページでそう書いていたたはずだが。
しかし正高氏は容赦しない。正高氏は《いったん従来の文字でなくてもよいのだと、いわば「タガ」がはずれると、非文字使用への勢いは怒涛のごとき流れとなってくるらしい》として、女子高生の間で流行っている「ギャル文字」(あるいは「へた文字」)を俎上に挙げる。蛇足だが、私はこのような「文字」がJRの広告に使われていたことに関して生理的嫌悪感を覚えたことがある。
閑話休題、このような「文字」は正高氏にとっては《どう考えてももはや言語的コミュニケーションの範疇を逸脱していると、考えざるを得ない》ものであるらしい。このような論理への飛躍は明らかに異常である。正高氏は、これらの「文字」について、同じ表現でも感情のレヴェルによって違うということから、《ギャル文字・へた文字に慣れ親しんだ者は、それをもはや文字列としてほとんど把握していない》などと書いているけれども、《文字列としてほとんど把握していない》というのは本当にあるのだろうか。表記の仕方で感情のレヴェルが変わるというのであれば、むしろ文字列どころか、さらに高度な部分のところまで理解している、という見方もできるはずだが。さらに正高氏は言う、《これは言語的認知の枠をはみ出ている》と。しかし正高氏が42ページにおいて書いている通り、これらの「文字」も元の文字の形態的特徴をちゃんと残しているのであるのだが。このような物言いが許されるのであれば、人間の読む全ての言語に関して《文字列としてほとんど把握していない》ということもできる。
正高氏は《畢竟、コミュニケーションを行なうに当たって、言語を使用する場合のように、心や脳を使わないようになってくると推測される》と書いているけれども、正高氏は43ページにおいて《こういう文字でメールすることのメリットとしては……「可愛」い印象を与える……「手作りのあったかい感じ」もする……「……がんばってくれたんだなー」という気持ちが相手に伝わる、という》と書いている。何だ、結構心や脳を使っているのではないか。それに入力に時間がかかるから、これを使ってメールを作成すると結構脳が活性化されるかもしれない。ちなみに正高氏が冒頭の暴論をでっち上げているのは46ページであるから、わずか3ページ前のことを忘れてこう書いてしまっているのである。驚くべき健忘とはいえないか。正高氏の脳が心配だ。
しかし、ここまで前後矛盾が目立つのも珍しい。正高氏は、自分と同じ民族でありながら自分が使わない言葉を使うのはサルだ、とでも考えているのだろうか。要するに「女子高生」をバッシングするために、彼女らの間で流行っている表現方法を《現代日本的》すなわち「サル的」と罵っているのである。そう考えれば納得できる、というものだ。こう考えると、正高氏にとって「人間性」とは「自分が理解できること」に尽きるのかもしれない。このことはもちろんこれ以降の章にも言えることだが。
第3回・家族って何――「出あるき人間」って何?
正高氏は、この章において「出あるき人間」なる珍奇な概念をでっち上げる。正高氏によるとこの概念は、簡単に言えば「ひきこもり」と対を成す存在であり、《必ずしも自宅で家人と侵食を共にせず、しょっちゅう外を「ほっつき歩いて」生活する者の総称》であるという。正高氏は49ページにおいて、このようなタイプの人間を《実は同じ程度(筆者注:「ひきこもり」は100万人に及ぶという説があるが、それと同じ程度)、あるいはそれ以上に増加している》というけれども、残念ながら正高氏はそのようなことを示すデータをまったく提示しないのだから、このような論理が正当性を得るか、ということについてはない、というのが正直な答えではないか。
正高氏は《渋谷センター街を歩いてみよう》という。どうやらこのような状況は渋谷においてよく観察できるらしい。正高氏は《仲間と共に行動し、単独でいることは少ない。グループ同士が出会うと、軽く立ち話をかわす》と表記する。その後が面白い。正高氏は《チンパンジーもパーティー同士が遭遇すると、「ホッホッホッ…」と音声を交換する》と言ってしまう。どうやら正高氏にとっては、「出あるき人間」の立ち話はチンパンジーの音声交換とまったく同じに聞こえてしまうのだ。正高氏の若年層に対する偏狭な認識がわかるというものではないか。このようなことを言っておきながら、正高氏は立ち話の内容には決して触れようとしない。正高氏にとっては、彼が「出あるき人間」の烙印を押したものたちの行動は、全てサル的に見えるのだろう。
しかし正高氏のこの珍奇な概念に当てはまる事例は、正高氏の文章を見る限りでは渋谷にしか見られないのである。正高氏は他の場所(原宿にすら!)行っていないのであるから、このような事例が他の場所でも見られるかどうかは永久にわからずじまいだ。正高氏の辞書には地域差というものはないらしい。全ての都道府県に関して渋谷センター街のような光景が広がっている、と考えているようだ。私は石巻で家庭教師をしていたとき、帰りは常に終電一つ前の電車に乗っていたので、夜の街をよく見ていたが、そのような光景はまったく見当たらなかった。
だが、正高氏はこのような疑問は少しも挟まない。正高氏はそのような現象が増加している、という前提で話を進めている。一億歩ほど譲って、増加しているということを受け入れるとしよう。正高氏はここでこうぶち上げる。曰く、《増加の引き金となったのは、疑いもなくケータイの普及である》と。その理由として、正高氏はこういう。曰く、《ケータイを持たせてあれば、いつでも連絡が可能である。だから夜に帰ってこなくたってかまわない、と「出あるき」を(筆者注:親は)容認するのだ》と。そんなに断定口調で語っていただきたいものだ。あなたも学者であれば実態調査ぐらいすべきであろうし、少なくとも新聞や雑誌の記事は引用すべきだろう。結局、正高氏はこのくだりに関しては、ただ不安だけを煽り、具体的な事例にはまったく触れずじまいなのである。俗流若者論の典型といえようか。
これ以降の文章(62ページまで)を含めて言えることだが、正高氏にとって現在の如き「家族の崩壊」は現在に突如として起こった現象であり、それを言うためにはいかなる狼藉をもいとわない。簡単に言えば、自分の思いつき、あるいはマスコミで語られているようなことに関して擬似動物行動学的な視点から「解説」しているだけなのである。また、正高氏は決して具体的な事例を挙げようとしないが、一般論というものがいかに問題を持ちうるか、ということは議論されて然るべきではないのか。正高氏の中では最初から現在の家族の形や心理までもが決まっており、それがステレオタイプであるにもかかわらず「当たり前」だと信じ込んでしまっている。どう考えてもこれは学者の態度ではない。正高氏よ、あなたは京大の教授なのか、デマゴーグなのか。
ちなみに社会学者の宮台真司氏がどこかで語っていたことなのだが、最近は渋谷の閉鎖性が強まって、地方出身者がまったく来なくなっているようだ。
第4回・父親が求められる時――青年期病理学に関する勉強不足
72ページまでの記述に関しては、まず明確な間違い、といえるような箇所はないので、ここでは触れない。もっとも、類人猿の行為を説明した後に唐突に人間の社会に話題をシフトしてしまうのは問題であるが、徒に暴力的なアナロジーを用いていない、というところは評価できよう。問題は73ページ以降である。73ページにおいて、現在の我が国に流布しているとされる「母性愛神話」を疑うのはいい。しかし《子育ては母親の役目だから、すべて母親にまかせておけばいい、という雰囲気が社会全体に根強く存在する》とあるが、各種の調査を見ている限り、そのような考え方はむしろ若い世代ほど希薄化している、というのが現実である(2003年2月20日付読売新聞など)。正高氏はこのような現実をどのように見るのだろうか。
正高氏は74ページにおいて、《子供が母性ばかりを受け取って育ってきた結果は、不登校や引きこもりなどの発生と無関係ではない》と書いている。しかしそのような考え方、すなわち母性の過剰な敵視は、むしろ「母性愛神話」の単なる裏返しでしかないのではないか。また、正高氏は教育についても触れていない。さらに、正高氏は我が国の文化的背景にもまったく触れたがらないし、後に触れるが、我が国と同様に母子密着型の子育てが進展していたりとか、さらに言えば「ひきこもり」が深刻化している韓国についても触れたがらない。
それにしてもこの後に正高氏が提示している解決策らしきものがなんといっても怪しい。というのも、甘言に満ちた美辞麗句しか言っていないのである。しかしここまで「ひきこもり」の危険性を煽ってきた正高氏にとって、そのようなことしか言わないのは、自らの言論人としての責任の放棄といえないか。また、76ページには、チンパンジーの母と子の写真があるけれども、なぜこのような写真を持ってきたのか。編集の側も、「母子密着型の子育てはチンパンジー方の子育てである」という正高氏の歪んだ考え方に同調してしまったからだろうか。
ついでに韓国について触れておこう。斎藤環氏によると、韓国における不登校児には親が自分に独立性などを過剰に要求していると感じ、また学校のストレスについては対人関係のストレスのために不登校になった子供が多いという。これは我が国の「ひきこもり」事例と同じである。また、日刊で違うのは、韓国の場合はそのほとんど全てがインターネットゲームやチャットと関わっているという。これは我が国とは明確な違いである(斎藤環[2004])。また、韓国には徴兵制があるが、それも「ひきこもり」に対してはなんら影響を及ぼしていないという(斎藤環[2003b])。また、斎藤氏、及び韓国の翰林情報産業大学教授の尹載善氏によると、上流階級の間では兵役免除制度を利用して兵役を免れる子供が増えているという(斎藤環[2003b]、尹載善[2004])。
もう一つ、我が国においては、現在名古屋大学名誉教授の笠原嘉氏が、1970年代から1980年代にかけて青少年の「アパシー・シンドローム」や「退却神経症」などに関して、論理的な研究を行なっており、これが現在、斎藤環氏など青少年の病理の研究者に強い影響を及ぼしている。笠原氏は、これらの背景にも「母子密着型の子育て」などを読み取っているが、笠原氏の研究は、正高氏の文章とは違い、さまざまな学説や臨床事例を引いて、論理的なアプローチをしており、現在の青少年問題を考えるうえでも参考になる記述が多い(笠原嘉[2002])。
第5章・愛と性の分離――論理的混乱
本格的に問題が表れるのは95ページからである。正高氏はこの章の最後3ページで、わけのわからないことを言っているのである。例えば95ページの最後の段落におけるくだり、
「私的」であるべき他者との出会いの場で、「公的」なつき合いを展開しだした場合、メールでの後進にぷらいヴァシーを求めてしまう、いわば逃避的事態が発生してしまう。そして、そういう状態がもっとも先鋭的な形で表れるのが、究極的な「私的」つき合いの場面、つまり性的な交流においてであるのは、当然の帰結である。
などという記述は、はっきりいって何を意味しているのかわからない。
正高氏は「ネット恋愛」を引き合いに出して、《こうした事情を考慮せずには、およそ理解不可能なものではないだろうか》と言っている。しかし、このような「説明」は、前後の文脈からはほとんど切り離された形で唐突に引き合いに出されているので、流れを考慮して読むことができないのである。
正高氏は「ネット恋愛」に関して、97ページにおいてその経験者の意見らしきものを出している。しかしそのような「意見」が、「ネット恋愛」の経験者を代表するものであるかはわからないし、もしかしたら正高氏の捏造、という可能性も否定できない。これらの「意見」が、正高氏の「理論」にとってとても都合よく組み立てられているからである。あまつさえこのページはイラストなのであるが、このイラストには具体的な人の顔が一つも出てきていないのである。全てが口だけ、あるいは顔が黒塗りなのである。正高氏とイラストを書いた人の思惑が透けて見えるというものだ。
正高氏は最後のほうで、付き合いを求めてネットを利用する人と、性的関係のみを求めてネットを利用する人に関して、《いずれにも共通しているのは、性と愛の分離なのだ》などと言っているけれども、何をもってして《生と愛の分離》といっているのか不明である。結局のところ、正高氏は、現在の日本人、特に若年層が退化=「サル化」しているという強引な結論に導くために、論理的な検証を放棄し、結論を押し付けているような気がしてならない。それが、最後4ページの論理的混乱に表れている。
第6回・なぜ「キレる」のか――文学作品のトンデモ珍解釈
本書の中でもっとも劣悪な部分である。この章は少年犯罪に関して書かれているのだけれども、正高氏は明らかにマスコミの「嘆き」に同調し、それらを疑う、ということはしない。あまつさえ、最後には正高氏はとんでもない結論を打ち出してしまうのである。
とはいっても、この章の内容は、平成16年11月22日付読売新聞に書いた内容と大方で重複しているので、その文章に関しては「正高信男という堕落」を読んでもらいたい。なので、今回は、「堕落」で触れられていなかった部分について論理的検証を行なっていきたい。
正高氏は102・103ページおいて、言語の操作について語る。しかし正高氏は104ページで、《ことばをあやつる程度には個人差が存在するのだ。……著しく言語操作を行なわない例として、「キレ」やすい人間を位置づけることができるのである》と書いている。ならば訊こう。正高氏は《著しく言語操作を行なわない例》を《「キレ」やすい人間》として位置しているけれども、《ことばをあやつる程度》の個人差はいかにして計ることができるのだろうか。そして、《著しく言語操作を行なわない》という人間が《「キレ」やすい人間》であるということに関して、どのような論理的、あるいはデータ的な裏づけがあるのだろうか。
それに関して、正高氏は104ページから110ページにかけて、正高氏は「ワーキングメモリー」という考え方を用いて説明している。しかし111ページになると、正高氏はいきなりその仮説とIT化の影響を結び付けてしまうのである。正高氏は111ページにおいて、《通常は双方(筆者注:視覚と聴覚)が程よくミックスされた状態になっている。けれど判断がメモからの者に一方的に偏ると、行動はとてつもなく瞬間的すなわち、あと先を顧みない側面を見せるようになることが往々に起こる。……昨今、そういうタイプの人間は確実にその数を増やしていると考えられる》と書く。そして正高氏は、《明らかに生活のIT化の影響と想像されるのだ》とぶち上げてしまう。正高氏は《ケータイによるコミュニケーションのサル化が、言語による情報処理に依存しない思考判断傾向を加速化させている》と書いている。しかしこれは正高氏の印象でしかないのではないか。正高氏は《ケータイでは、知人の番号はおそらく間違いなく、メモリーに登録されていることだろう》と表記し(112ページ)、《しかしこれが、今まで自分たちがワーキングメモリーの、とりわけ主としてループに負担させていた作業を、機械に代替させているものであることは明々白々である》とし、さらに《まして生まれた時、すでに社会がIT化していた今の年代の若年層となると、……廃用性どころか、生まれてこの方、ループをまっとうに使ったことのない人間が、大量に創出されつつある》(113ページ)といってしまうのである。正気の沙汰か。《生まれた時、すでに社会がIT化していた》といっても、人間が情報機器を身につけられるための知識を身につけるのは相当物心がついてからではないか。それまでは家族や教育機関などでさまざまな経験を用いてループを用いるはずなのに、正高氏はそのような常識的判断をも持ち合わせていないのだろうか。明らかにこれこそ思考停止ではないか。《今の年代の若年層》というのは、おそらく1980~1990年ごろに生まれた人のことを指すのかもしれないが、それらの人々が物心つく前、簡単に言えば思考回路が形成する前から情報機器を使っていた、と正高氏は考えているのだろうか。
はっきり言う、これは明白な差別である。正高氏は現在の若年層、すなわち《生まれた時、すでに社会がIT化していた今の年代の若年層》と、それ以外の年代をきわめて明確に線引きをし、前者を社会性、人間性にかけた年代としてバッシングを行なっているのである。しかしこれには論理的な推察は皆無に等しく、全て印象論だけで語っているのである。結局正高氏は、《IT化》が人間性の衰退を促すものでないと納得できないのであろう。正高氏の文章においては最初から「敵」が決まっており、その「敵」を潰すためならいかなる狼藉も容赦しない。これを陰謀論というのである。
正高氏は最後のほうでカミュの『異邦人』を引き合いに出し、そこにおける殺人犯ムルソーに関して、《ムルソーの場合、犯行に駆り立てたのはほとんどメモからの信号であると考えられる》といってしまう。《メモからの信号》といっているのだから、ムルソーは常に自らの近くにメモを置いていた、ということになるのではないか。それともムルソーの時代にはすでに携帯電話があったということか。すごい。超古代文明論もびっくりである。それにしても《犯行に駆り立てたのはほとんどメモからの信号であると考えられる》と考える理由がどこにも示されていないというのはどういうわけか。正高氏は文学作品にすらIT化の「闇」を見出してしまっているのである。この神経の図太さは一体なんだ。ついでに正高氏は《それを「どうして」とループに問い合わせたところで、答えようがないという者である。そこで、メモが送り込んだイメージをただ言語化して叙述するばかりという自体が出現するのだ》と書いている。これに関しても、根拠不明な「お話」である。どこまで事実なのかわからない。あなたは本当に学者なのか。
しかし正高氏にとってはそんなことどうでもいいらしい。さすが陰謀論である。正高氏は《カミュの『異邦人』を読んで、「まっ白」という印象を抱くのは、私だけだろうか?》といい、《白い心に、「なぜ」と問うことはそれ自体、まったくの筋違いというものなのだ》さらに《生物は自己の生存のために、瞬間瞬間に判断を下す。その即時的判断を一時的に停止し、「私はこう思っている」と自らの心中を再認し始めたとき、人間は単なる生物から脱却したのだが、いまや出発点に、逆戻りしてきている。「一匹」の存在として暮らす者に、心の闇などありえるはずもないのである》とまで言ってしまっている。やはり正高氏にとって、現在の日本人、特に若年層の人間性は退化しているものでなければ気がすまないのだろう。もう一つ言っておくが、正高氏の議論は、かの曲学阿世の徒、日本大学教授・森昭雄氏の「ゲーム脳」理論に接近している。
ちなみに「キレる」なる現象も含めて、このようなことに関しては精神分析の「解離」概念を用いたほうがわかりやすい。「解離」とは、《過去の記憶、同一性と直感的感覚の意識、そして身体運動のコントロールの間の正常な統合が一部ないし完全に失われた状態》(斎藤環[2003a])を指す。斎藤環氏は、前出の「人間講座」のテキストにおいて、「キレ」た少年犯罪者に関して《一種の解離状態》にあるといっているけれども、その犯罪者が動機を言うことができない、あるいはそれを把握するのが難しいというのであれば、「解離」が起こっていると考えたほうが、多少は誤りがあるかもしれないが、少なくとも正高氏の暴論よりは納得しやすいだろう。また、「解離」は健常者に関しても見られることがよくある、と斎藤氏は言っている。このように、最初から自らの行動が全て説明できる、ということは心理学によって否定されている。
また、正高氏は「右脳人間」「左脳人間」なるカテゴリを持ち出し、現在の我が国においては「右脳人間」、すなわち視覚イメージに頼る人が増えているといっているが、ロルフ・デーゲン『フロイト先生のウソ』によると、最新の実験では、人間のさまざまな行動に関して脳のどの部位が活動しているか、ということを計測した結果、全てのケースにおいて右脳と左脳がほとんど等しく活動していた、という結果が出ている(ロルフ・デーゲン[2003])。
もう一つ、東京大学助教授の広田照幸氏によると、青少年による凶悪犯罪や「問題行動」に関して、その言説が青少年の「心」に急激に関心を持つようになったのは1970年代ごろの話であり、それが顕著になったのは最近で、広田氏は《子供の「心の軌跡」から非行を理解する――その際、親の育て方や学校・教師の対応に間違いや問題がなかったかどうか、教育的に望ましくないメディアや空間が問題ではないか、といった枠組みで、現在の青少年問題は語られるようになっている》(広田照幸[2003])と分析している。
第7回・文明が文化を滅ぼす――文明が正高信男の思考を滅ぼす
この章においては、全般的に程度の低い狼藉が観察される。いうなれば、この章は単なる「感想語り」に終始しており、実例の提示はほとんど皆無に等しい。
119ページにおいて、正高氏は幸島のサルにおける「イモ洗い」を取り上げ、日本人の食物の味わい方に関して、《人間の食物の味わい方は、多様である。舌で賞味するに加え、日本人は見た目を大切にする。型やインドやインドネシアの人は、口に入れる前に指で食感を楽しむようだ。その変異は、明らかに幸島のサルのイモ洗いの延長線上にあると、とらえられるだろう》(121ページ)と書いている。しかし、幸島のサルの例に関しても、人類の文化の形成と同じくらいの時間をかけて形成されたのではないか。幸島のサルの行動が、その進化形として日本人の行動になっている、と正高氏が考えているのであれば、それは完全にお門違いというものである。
正高氏は《文化的な生活とは、共に生活するものが互いに何か「尊い」と敬うものを共有しつつ、日々を送るようなことを指すのだろう》(123ページ)とする。正高氏における《文化的な生活》の定義がここで示されているわけだ。で、正高氏は《それが非常に先鋭化された形で起こっているのが、日本なのだろう》と書くのだが、その証左として正高氏が引き合いに出すのが日本人の「ブランド指向」である。正高氏はこう書く。曰く、《ただつながっていることだけのために、つながりを保つという自己撞着が生じつつある。そのために中身のない空虚な象徴を作り上げ、それを「みんなが敬うから」というだけの理由で自分も敬うということが起きてきている》と。さらに正高氏は、126ページにおいて、《そして、こうした傾向はここ十年来、急速に傾斜を深めてきたように思えるのだが、それはケータイ(とりわけケータイメール)の普及とまったく軌を一にしている》と書く。しかし、それを証明するような証拠が、《私の研究所に勤務している同僚》の、携帯電話を肌身離さないようにしておかないと気が済まない、という話のみである。これでは証拠が不足している。簡単に言えば、《こうした傾向はここ十年来、急速に傾斜を深めてきた》ことと《ケータイ(とりわけケータイメール)の普及》の有意な因果関係が見出せないのである。
正高氏は、《コミュニケーションにおける対面的状況の重要性を破壊したのが、ケータイの発明である。……しかし、双方(筆者注・ラジオ以前の状況と現在の状況)をまったく別な者に仕立て上げているのは、集団のまとまりを表示する境界というものが、ケータイの下では完全にとっぱらわれてしまったという点にある》といっているけれども、これは完璧に誤りである。正高氏は携帯電話の導入によって、コミュニティの所属に関わらず多くの人が関係をもてると考えているようだけれども、携帯電話を用いたコミュニケーションですら、基本的に違う所属、あるいは違う趣味を持った者と無関係に関わることはできない。疑う向きは想像してもらいたい。あなたが携帯電話を持っているからといって、無関係の「誰か」から勝手に電話がかかってきたり、メールが送られてくる、ということはまずありえないではないか(迷惑電話とスパムメールは除く)。正高氏の問題設定は誤りで、正確に言えば、東京大学教授の松原隆一郎氏が指摘するような《それまでとても出会えなかった偏った趣味の人間が集まることを可能にした》(松原隆一郎[2003])と考えたほうがよほど実感に近い。
また、この章のタイトルは「文明が文化を滅ぼす」であるが、結局123ページにおける正高氏の《文化的な生活》の定義に従えば、「文明が文化を滅ぼす」ということはまったくありえないことになる。もう一度引用するけれども、正高氏は《文化的な生活》を《共に生活するものが互いに何か「尊い」と敬うものを共有しつつ、日々を送るようなこと》と定義していたはずだ。「文明が文化を滅ぼす」とは、《「尊い」と敬うもの》の喪失を意味するのだろうが、正高氏の結論からはそのようなことは見出すことができない。結局、正高氏は現在の若年層を口汚く言うためにそのことを隠蔽しているのである。
それにしても、この章の最後、130ページにおける《群れるトリやサカナのように均一のファッション》というのは、正高氏の歪んだ考え方が表出しているような気がしてならない。正高氏はおそらく渋谷しか見ていないだろうから(この証拠として、正高信男[2003]のまえがきを挙げておく)、同じようなファッションの人が大量に現れる、というのは日常茶飯事なのかもしれないが、少なくとも私の住んでいる仙台においては、流行現象がそう速く広まっているわけではない。正高氏の辞書に地域性は存在しない。
第8回・「自分探し」のはじまり――そして正高信男は考えなくなった
本書のクライマックスである。この章は、本書の中で第6回に並ぶ劣悪さであり、正高氏の偏狭な思考がこの章には詰まっている。
とりわけ145ページ以降がひどい。《個々人がケータイを所有することで、いつでも誰とでも情報交換できます、という。しかもなし崩し的に、今までの集団のまとまりは度外視して、そこでこれからやっていったらいいじゃないですかというムードで、日常が変わりだしたのだ》とあるが、これは前章の検証でも述べたとおり、《なし崩し的に、今までの集団のまとまりは度外視して》ということはまったくありえない。携帯電話で情報交換する関係も、結局は同じ所属、あるいは同じ趣味を持った者にとどまるのであり、れっきとした集団の境目が存在するのである。考えてみるがいい、仮にあなたがある趣味を持ったパソコン通信集団に所属しているが、他の趣味をもった集団に所属している人があなたの集団にメールなどを送ってきたら困るだろう。
正高氏は149ページについてオウム真理教について触れて、《日本から文化的なまとまりというものが消え去ることに、いらだつ人間による最後の抵抗》としている。しかしその理由として、正高氏が挙げるのが《理系エリートとは、要するにIT化というもののハードウェアについて、他の人間よりも深い知識を持った人々と、とらえて差し支えないだろう》ということであるが、オウムの幹部となった「理系エリート」が大学に在籍していたのは、おそらくパソコン通信以前のことであろうから、このような考え方は、現在のコンテクストに即して過去を捉えていることに他ならない。正高氏が151ページで引用しているように、オウムの幹部となった「理系エリート」たちの絶望は、情報化ではなく、むしろそれ以外の科学文明への失望や、1980年ごろに流行したオカルティズムやニューサイエンスの隆盛などを挙げたほうが適切であろう(宮崎哲弥[2001])。
152ページに挙げられている節のタイトルは「そして誰も考えなくなった」である。しかし本書を読んでみる限りでは、この節以降は「そして正高信男は考えなくなった」であろう。正高氏は153ページにおいて、オウムに入信した人について《コミュニケーションの手段ばかりが簡便で効率的になる技術を研究したところで、それが一体何になるというのだろう――こういう疑念をもなげだしたあげく、強烈なカリスマを核とするカルト集団に参加し、しかもそのなかで科学者として、自らの研究で駆るとの繁栄に貢献できるとわかったならば、むしろ入信して当然とも考えられなくないように私には、思える》と書いている。驚くことに正高氏は、1ページ前(!)でオウムの幹部たちがコミュニケーションの手段が効率的になることに抵抗したからこそオウムの事件が起こった、と書いたことを忘れているのだ。正高信男は考えていない。
154ページ。この節のタイトルは「サル化する日本人」である。154ページから155ページにかけては、本書で正高氏が論じてきたことをまとめて一つの文章になっている。これらの正高氏の「推測」がいかに間違った者であるか、あるいはいかに不適切なアナロジーの利用によるものであるかは、ここまで私が検証してきたとおりである。正高氏は155ページの最後から156ページの最初にかけて《要するに人間は、言語遺伝子が進化した十万年余り前の姿に近い所へ、戻ってしまったことになる。これを、サル化と呼ぶことに私自身はあまり、ためらいを感じないのだ》と書いているが、このような考え方がいかに歪んでいることは、本稿の最後で論じたい。
終わりである。私はここまで正高氏の狼藉に関してできるだけ論理的に検証を行なってきたつもりである。
本書においては最初からストーリイが決まっている。すなわち、携帯電話に代表されるような高度な情報化は人間がこれまで培ってきた人間性というものを壊し、現代の日本人は10万年前の姿、すなわちサルになっている、というものである。しかし、このような考え方は、霊長類の研究という側面からしてみれば大変失礼極まりない。
なぜか。それは、進化樹形図を見ればわかる。まずは進化の系統的な視点から正高氏の論理のおかしさを指摘しておくと、現在の人類(ホモ・サピエンス)はヒト上科に属し、性質としてはオランウータンやテナガザルに近いものである。他方、正高氏が「サル」と言っているのはおそらくニホンザルであろうが、ニホンザルはオナガザル上科に属し、性質としてはオナガザルに近い。要するに、ホモ・サピエンスとニホンザルの生物学的性質はまったく異なるのである(島泰三[2003])。
もう一つ言うと、現在のサルの行動から10万年前の人類の行動を推し量ることはできない、ということも指摘しておきたい。なぜか。それはホモ・サピエンスであろうがニホンザルであろうがキツネザルであろうがテナガザルであろうがオナガザルであろうが、現在生きている生物は、全てが独自の進化過程を経て現在に至るのである。だからホモ・サピエンスを進化の最上位に位置づけ、それ以外の霊長類に「文化的に」ランクをつけるという行為は、霊長類研究の視点から見れば失笑を買うものである。現在のオランウータンやニホンザルだって、10万年前には現在と違った暮らしぶりをしている可能性も高いのである。
正高氏の議論は、さまざまなサルの行動を人間の尺度に当てはめて「文化的な」優劣をつけ(当然人類は一番優れている)、ニホンザルの行動にさまざまな「文化的」な特徴を見出し、その上で日本人は「退化」している、とぶち上げているのである。このような態度がいかに科学の態度から外れたものであり、学を曲げて世に阿るものであるかということは、すでにお分かりいただけただろう。冒頭でも触れたとおり、正高氏は情報化以前の人類と情報化以後の人類に関して過激なまでに明確な線引きを行い、我が国において後者の人類の問題が多くのマスコミに採り上げられていることを利用して、後者を文化的に劣った者(「ケータイを持ったサル」!)である、と「科学的に」決め付けているのである。しかし、青少年問題というものは常に問題視されており、本来であれば「識者」にも止められているものは、巷の認識を疑い新たな分析を提示することか、あるいは巷の認識に添う形でもそれを深い教養を持ち、差別意識を配した態度でもって臨むことである。
正高氏をはじめ、俗流若者論にとって「新しい」ものにはちっとも価値はない。「新しい」ということは、すなわち既存のステレオタイプを突き崩す可能性だってあるからである。ところが俗流若者論においては、既存のステレオタイプを「正当化」するばかりの言説ばかりがはびこる。
そしてそれらの言説に最も求められる価値は「新しさ」ではなく「珍奇さ」である。要するに、一見聞こえのいい、しかし論理的に検証してみると穴だらけの概念で「善良な」人たちを煙に巻くことである。
この考えを行なったのが、例えばナチス・ドイツである。ナチス・ドイツは、ユダヤ人を迫害するために、以下に生粋のドイツ民族がユダヤよりも優れているかということを「科学的」に証明し、圧政や虐殺の根拠とした。また、スターリニズムもそうだ。スターリニズムは、国家の押し付ける概念に従わない者を「反社会的」属性と規定し、それに対する迫害や圧政を行なってきた。
正高氏の議論のほか、例えば日本大学教授・森昭雄氏の「ゲーム脳」理論など、現在の我が国においては特に若年層をそれ以外の人類より「劣った」人類である(正高氏の議論においては人類ですらない)と「科学的」に「証明」してしまう議論がはびこっている。これらの暴論を嬉々として受け入れるような「世」が我が国には強く存在し、それらの言説は青少年問題に関して真剣に向き合うことをせず、むしろ青少年を現代の「鬼胎」として「消費」することにのみ使われる。多くの良心的な人たちにとって、このような言説がうっとうしくなるのは当然だろう。多くの「善良な」人たちが疑似科学という基盤にすがりより、差別すら容認しかねない暴論が我が国において受け入れられる。日本社会の「右傾化」を嘆く人たちは、このような事態の存在をどう見ているのだろうか。
参考文献・参考資料
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正高信男[2004]
正高信男『人間性の進化史』日本放送出版協会、2004年12月
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松原隆一郎『長期不況論』NHKブックス、2003年5月
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パオロ・マッツァリーノ『反社会学講座』イースト・プレス、2004年5月
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宮崎哲弥『正義の見方』新潮OH!文庫、2001年3月
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山内リカ「高次脳機能障害とは何か」=「論座」2005年2月号
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尹載善『韓国の軍隊』中公新書、2004年8月
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笠原嘉『青年期』中公新書、1977年2月
北田暁大『嗤う日本のナショナリズム』NHKブックス、2005年2月
近藤康太郎『朝日新聞記者が書いたアメリカ人「アホ・マヌケ」論』講談社+α新書、2004年7月
斎藤環『心理学化する社会』PHP研究所、2003年10月
斎藤美奈子『物は言いよう』平凡社、2004年11月
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十川幸司『精神分析』岩波書店、2003年11月
橋本健午『有害図書と青少年問題』明石書店、2002年12月
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間宮陽介『市場社会の思想史』中公新書、1999年3月
宮崎哲弥、藤井誠二『少年の「罪と罰」論』春秋社、2001年5月
宮台真司、宮崎哲弥『エイリアンズ』インフォバーン、2004年10月
山本七平『日本はなぜ敗れるのか』角川Oneテーマ21、2004年3月
ウォルター・リップマン、掛川トミ子:訳『世論』上下巻、岩波文庫、1987年2月
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五百旗頭真「近ごろの若者考」=2004年10月7日付朝日新聞
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杉田敦「「彼ら」とは違う「私たち」――統一地方選の民意を考える」=「世界」2003年6月号、岩波書店
田口亜紗「岩月教授は、女のどこを見ているか」=「諸君!」2003年11月号、文藝春秋
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コメント
TBありがとうございます。
正高氏の専門は動物行動学なんですよね?それすらも怪しく感じてきました。わずか一世代で種の退化が起こるなんて発想は進化に対する侮辱そのものです。何十、百世代もかけて遺伝変異に基づく変化を蓄積したとき初めて進化と呼ばれる現象は起きます。
もう一点付け加えるならば進化は個体単位で起こります。「若者」という「種」単位では進化は起こりません。氏の考えは「ラマルク説」そのもので、ダーウィンが晩年まで戦ってきた進化論における「常識」だと思うのですが…。
それにしても今回の検証はいつにもまして力作ですね、このままどこかの雑誌に投稿できるものだと思います。
投稿: 遊鬱 | 2005年3月 8日 (火) 20時59分
いや~あ、長文ですね、遊鬱さんの言う通り、
印刷物で読みたいです。雑誌投稿してみたら…。
ところで、「笠原嘉[2002]・笠原嘉『アパシー・シンドローム』岩波現代文庫、2002年12月」は未読なのですが、読んでみたいですね。
投稿: 葉っぱ64 | 2005年3月14日 (月) 20時37分
この人、統計のトの字も知りません。t検定もよくわかってなかった。ついでに実験してないので、なぜか論文書きます。内輪でもデータはどこから来ているのか疑問視している人は多いですよ。さらに、気に入らない研究者や学生を徹底的に攻撃(ある意味、いじめ)するので、敵は多いですね。挨拶そいても応えない、目を合わせなければ、口もきかないあたり、彼の社会性を疑ってしまいます。かれが世の中のいじめや引きこもりについての著書を書くたびに、その自分の行動はどううなんだ・・・と言いたくなります。
投稿: 彼を知ってますが・・・ | 2005年4月 4日 (月) 20時14分
あいさつもするし、いいひとだと思いますよ
奇抜なことを言って注目を得ることで、ほんとうに言いたいことを言うという機会を得ているんですよ。だから、ほんとうに彼が言いたいことっていうのを読み取ることが必要ですよ
投稿: 僕も知ってますが | 2005年7月29日 (金) 19時29分