俗流若者論ケースファイル04・荷宮和子
時として、自らを絶対の正義と僭称し、さらにその思い込みに自らが埋没してしまい、いかなる対話も避け、自らのステレオタイプのみによって物事を判断しようとする人が出てくる。ステレオタイプとは、いったん自らの身についてしまうと、後はそれを克服するにはかなりの苦労を要する。最も望ましいのは、ステレオタイプを排して曇りのない目で物事を判断することなのであるが、言うは易く行なうは難し、人は物事を考えるときに、ステレオタイプが入り込む余地が生まれてしまい、そして実際につけ込まれてしまう。だから、我々が他人や情報に接するときに必要なのは、できるだけ自らの内なるステレオタイプの暴走を抑えることである。
そしてそのためには、自らの抱えるステレオタイプに気付くことが不可欠である。しかし、自らの正義に陶酔し、自己を顧みることのできない人物は、自らのステレオタイプの暴走を抑えることができず、自らを棚に上げた差別的言辞ばかりを振りかざすようになる。評価の判断基準となるのは自らの思い込みと正義だけになる。
最近の、フリーライター・荷宮和子氏の言動を見ているとこう思う。
荷宮氏は最近になって、評論家の大塚英志氏の主宰する雑誌「新現実」の第2号に若者論を寄稿してから、その言動はいよいよステレオタイプと自らの「正義」の暴走が強くなり、自らを大上段に規定して罵詈雑言を浴びせかける、というスタイルがもはや荷宮氏のスタイルとして定着してしまった感がある。
そろそろ本題に入る。
平成16年6月頭に発生した、佐世保の女子児童殺害事件の衝撃も覚めやらぬ中、講談社の月刊誌「現代」の平成17年8月号に、荷宮氏の文章「「2ちゃんねる」に集まる負の本能」が掲載されている。この記事は、長崎の事件というよりは、かの有名なインターネット上の巨大掲示板「2ちゃんねる」(以下「2ch」)を扱ったものである。蛇足だが、同じ月に発売された、産経新聞の月刊誌「正論」で、ジャーナリストの西村幸祐氏が2chを白々しく持ち上げている文章が載っていたのであるが、それにも嫌な感じを受けた。このような文章を平然として載せる「正論」とは、一体何なのか、と。
しかし、敵の敵は味方ではない。荷宮氏の文章も、西村氏の文章と同じくらい、あるいはそれ以上の不快感を覚えたのである。
169ページにおいて荷宮氏は言う、《2ちゃんねるに書き込みをしているのは具体的にどんな人たちなのか。……私は「就職した時点でパソコンを使うことがすでに当たり前になっていた世代」が中心である、と言うことにしている》と(荷宮和子[2004]、以下、断りがないなら同様)。ところが同じページにおいて、荷宮氏は《「20代後半から30代の男性」以外の層がネットを楽しむようになった時点ではすでに、ネットならではの言い回しだの、ある種の「殺伐とした空気」だのは出来上がっていた、と考えられる》と書いている。すなわち、この文章においては《就職した時点でパソコンを使うことがすでに当たり前になっていた世代》と《20代後半から30代の男性》は同値なのだろうが、女性は最初から排除されている。また、荷宮氏は《20代後半から30代の男性》がなぜ《ある種の「殺伐とした空気」》を生み出すのか、その理由となっているのは何か、なぜ他の世代や女性は違うのか、ということも考えるべきであろう。このような規定は、荷宮氏の勝手な思い込みによる決め付けでしかない。
しかし、このような批判は、この文章の抱える最も大きな問題に比べては、枝葉末節を突くようなものでしかない。170ページにおいて、荷宮氏はいくつかの書き込みを例にとって、2chで差別的言辞を振りまく者について《おそらくは、「在日ではなく、女ではなく、低学歴ではない人間」》と推測しながらも、《なぜかネットの中ではそのことをバッシングする書き込みが見当たらない属性がある。すなわち、「低所得者のくせに」、だ》という理由から、《「在日ではなく、女ではなく、低学歴ではないものの、しかし、低所得な人間」なのではないか》と推測する。もっとも、このような論証立てには突っ込みどころが満載なのだが、ここではそのような仮定を受け入れるとしよう。荷宮氏は、そのような状況が生まれる社会的背景について、《この種のコメント(筆者注:荷宮氏が171ページ1段目において引用している竹中平蔵氏の「日経ビジネス」平成12年7月10日号のコメントで、《みんなで平等に貧しくなるか、頑張れる人に引っ張ってもらって少しでも底上げを狙うか、道は後者しかないのです》というもの)を見かけることは今では珍しくない。……しかも、少なからぬ人間が、その方向を目指している政治家や学者等を支持しているのである》と論じている。荷宮氏は、このような状況を生み出した政治家や学者を糾弾するのだろう、と思われる向きがあるかもしれない。
しかし、荷宮氏の批判の矛先は、政治家や学者ではなく、なんと荷宮氏が社会の最底辺に置かれているとしている人に向かうのである。
荷宮氏は171ページから172ページにかけて言う、《生まれや性別等によって人を差別するのは、「無教養な田舎者」の振る舞いであり、戦後民主主義の中で生きてきた日本人の多くは、「教養のある都会人」として見られるよう、つまり、「無教養な田舎者」とは見なされないよう、努力してきたはずである》と。さらに荷宮氏は、ネット上の人に関して《現実の社会に生きる「無教養な田舎者」ならば身につけているはずの、「愛すべき朴訥さ」や「人間としての実直さ」はそこにはない。ただただ、「無教養な田舎者」の悪しき要素のみが、ネットにはぶちまけられているのである》とまで暴言を浴びせかけている。これは明らかに荷宮氏が社会の最底辺にいると規定した人に対する差別ではないか。大体、《生まれや性別等によって人を差別するのは、「無教養な田舎者」の振る舞いであり……「無教養な田舎者」とは見なされないよう、努力してきたはずである》といった側面は確かにあるかもしれないが、《「愛すべき朴訥さ」や「人間としての実直さ」》があるならば《無教養な田舎者》でもいいはずだし、そもそも《現実の社会に生きる「無教養な田舎者」ならば身につけているはずの、「愛すべき朴訥さ」や「人間としての実直さ」》というのが何なのかはわからない。この文章を見るだけでも、荷宮氏のネットに関する認識どころか、現代社会に関する認識が透けて見えるではないか。荷宮氏は社会の最底辺に属する人に救いの手を差し伸べる、あるいは彼らを生み出した支配構造を批判する、ということは決してしない。ただただ、彼らを反社会的分子とみなし、ひたすら危険だと喧伝して、彼らをさらにゲットーに囲い込んでいるのである。なんだか、荷宮氏こそ2chの申し子ではないか、という気がしてきたが、ここではもう少し抑えなければなるまい。
荷宮氏の狼藉は止まらない。173ページにおいて荷宮氏は言う、《「強きを助け弱きをくじきたい」というのが彼らのメンタリティであり、さらに言えば、彼らは、「バレなければ何をしてもいい」とも思っているのである。……それが今どきの日本人の姿なのである。そして、損案現実についてを、もっともわかりやすくしめしてくれているのが、2ちゃんねるの書き込みなのである》と。よく知られている通り、2chにおいて差別的言辞が見られるのはニュース速報板が多く、また差別的言辞は「煽り」として即座に批判されることも多いのだが、荷宮氏は、2chの書き込みだけを見て《それが今どきの日本人の姿なのである》と言っているのである。荷宮氏の社会認識が、ここでも透けて見えるではないか。
荷宮氏の《在日ではなく、女ではなく、低学歴ではないものの、しかし、低所得な人間》への蔑視は、174ページにおいて暴発・暴走する。荷宮氏は、《では、そんな現実がこのまま続けば、果たしてどんな結果へとつながっていくのだろうか》と書くのだが、荷宮氏はスーパー・ペシミストの立場を採る。荷宮氏は、なんと《その種の意見を見かけるたびに、「戦争になったら強姦し放題だぜ!」という彼らの声なき声が私には聞こえてくる》と言ってしまうのである。ここまでひどい差別はあるまい!荷宮氏は170ページにおいて、インターネットに差別的言辞を書き込んでいる人たち(すなわち《在日ではなく、女ではなく、低学歴ではないものの、しかし、低所得な人間》)は小泉純一郎や竹中平蔵などに代表されるような新古典派経済政策の犠牲者である、といったことを述べていたはずなのだが、174ページにおいては、彼らを鬼畜以下の存在とみなしているのである。荷宮氏はさらに言う、《だからこそ、こんな状況の中で「月刊現代」をわざわざ読んでいる、といった人たちには、「無教養な田舎物」が戦場に送られたときに何をしでかすかについての自覚と覚悟を、抱いておいてほしいと思うのである》と。ちなみに、この文章が、荷宮氏の文章の結びである。
ここまで見たとおり、荷宮氏はあからさまな低所得者差別をしでかしているのだ。荷宮氏は、自らを「教養のある都会人」と規定し、「無教養な田舎者」に差別的なレッテルを貼って現代社会を論じた「つもり」になっているのである。明らかに荷宮氏は批判する対象が違っている。これこそが最近問題にされているような都市型新保守主義(例えば、ユージン・A・マシューズ[2003])、それも極右に位置するものではないか。「反差別」を声高に叫ぶ者こそ最大の差別者となる、という逆説を目の前で見ているようだ。
荷宮氏のメンタリティは、自らをセレブリティと規定し、自分の気に食わないものを「反社会的」として罵詈雑言を浴びせかけることであり、ともすれば表面上では国家権力に反抗しつつも実際には国家権力に擦り寄りかねない、危険なメンタリティだ。荷宮氏の目線は、(荷宮氏が批判しているはずの)権力の目線とまったく同じであり、その目線は社会の底辺に属している人への残酷で蔑視的な視線で満ちている。荷宮氏は170ページにおいて竹中平蔵氏を批判しているけれども、この文章における荷宮氏の態度は、竹中氏のそれと近い、あるいはもっとひどいものである。荷宮氏は言論の権力性をまったく自覚せず、自分が強者でありながら弱者を気取り、権力を批判するそぶりをして社会的弱者を囲い込む。このような行為は、現実に存在する差別問題の解決を遠ざけるだけでなく、想像力を枯渇させる。荷宮氏は「男」を過剰に敵視するけれども、それも結局自身の差別意識の表出に過ぎない。荷宮氏の論理は「男/女」という構造の解体に向かうのでは決してなく、荷宮氏の身勝手な論理によって「消費」されるだけだ(「日本人/在日」「高学歴/低学歴」「都会人/田舎者」も同様に)。簡単に言えば、荷宮氏は権力よりも権力的に(別の言い方をすれば、2chよりも2ch的に)振る舞っているのである。
現在主流になりつつある差別は、荷宮氏が問題にしたがるような「無教養な田舎者」的な差別よりも、むしろ「市民の安全」とか「社会の安定」だとかいった、「市民社会的な」レトリックを楯に取った「都市型新保守主義」的な差別であり、美辞麗句の裏に隠れた差別意識こそを我々は見通さなくてはならない。荷宮氏は、「反差別」を気取った都市型新保守主義(あるいは、都市型生活保守主義)の極右として認識されるべきである。
ここからは蛇足であるが、荷宮氏が問題視しているように、2chは巨大なのだろうか。確かに巨大なのであるが、最近はその地位にかげりが生じている。この最も強い理由として、私がこの文章を発表しているようなブログの台頭である。ブログにおいては匿名性という「護符」がなくなったり、あるいは参入に特殊なリテラシーを必要としなかったりと、評論家の東浩紀氏が指摘するとおり、掲示板とは違い《日常を志向している》(東浩紀[2005])といえるような特徴がいくつもある。社会学者の北田暁大氏がいうところの「99年体制」も、ブログなどのインタラクティヴなネット・コミュニケーションの台頭により、解体されつつある。
また、2chの利用者数も停滞傾向が見られている。ネットの視聴率を調査しているネットレイティング社によると、2chのアクセス数は平成15年1月に4億ページビューに達したのをピークに、減少傾向にある(内山洋紀、佐藤秀男[2004])。このような背景には、社会学者の宮台真司氏が言うところの、2ch的な「梯子外しに戯れる弱者共同体」的なコミュニケーションに人々が飽き始めた、ということも無視できないだろう。
参考文献・資料
東浩紀[2005]
東浩紀「ネットは真の言論の場になれるか」=「論座」2005年4月号、朝日新聞社
内山洋紀、佐藤秀男[2004]
内山洋紀、佐藤秀男「さらば、2ちゃんねる」=「AERA」2004年7月12日号、朝日新聞社
荷宮和子[2004]
荷宮和子「「2ちゃんねる」に集まる負の本能」=「現代」2004年8月号、講談社
ユージン・A・マシューズ[2003]
ユージン・A・マシューズ「アメリカは日本社会の質的変化に関心を向けよ」=「論座」2003年12月号/「FOREIGN AFFAIRS」提携論文、朝日新聞社
奥平康弘、宮台真司『憲法対論』平凡社新書、2002年12月
金子勝、児玉龍彦『逆システム学』岩波新書、2004年1月
金子勝、アンドリュー・デウィット、藤原帰一、宮台真司『不安の正体!』筑摩書房、2004年10月
姜尚中『ナショナリズム』岩波書店、2001年11月
北田暁大『嗤う日本の「ナショナリズム」』NHKブックス、2005年2月
斎藤美奈子『物は言いよう』平凡社、2004年11月
宮台真司『宮台真司interviews』世界書院、2005年2月
ウォルター・リップマン、掛川トミ子:訳『世論』岩波文庫、上下巻、1987年2月
牛村圭「「文明の裁き」はかくも不公平 BC級戦犯とイラク捕虜虐待事件」=「諸君!」2004年9月号、文藝春秋
内山洋紀、福井洋平「ブログの時代がやって来た」=「AERA」2004年7月12日号、朝日新聞社
北原みのり「気がつけば「女性憎悪」全開の時代」=「論座」2005年3月号、朝日新聞社
渋谷望「万国のミドルクラス諸君、団結せよ!? アブジェクションと階級無意識」=「現代思想」2005年1月号、青土社
杉田敦「「彼ら」とは違う「私たち」――統一地方選の民意を考える」=「世界」2003年6月号、岩波書店
瀬川茂子「東京都発「正しい性教育」」=「AERA」2004年10月25日号、朝日新聞社
スーザン・ソンタグ「他者の拷問への眼差し」=「論座」2004年8月号、朝日新聞社
武田徹「ブログとメディアの補完関係を急げ」=「論座」2005年4月号、朝日新聞社
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コメント
http://blog.drecom.jp/tactac/archive/54
で、転載/コメントさせていただきました。
投稿: タカマサ | 2005年4月10日 (日) 20時51分
荷宮 和子の著作「食べ鉄の女」を読んだ際に
不眠になりそうなくらいに凄まじい不快感に囚われてたんですが
理由がようやく分かりました。
やっと快眠できそうです。
投稿: すかたん | 2010年8月31日 (火) 04時02分