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2005年3月 4日 (金)

トラックバック雑記文・05年03月04日

 署名で書く記者の「ニュース日記」:小学校(相馬芳勝氏:共同通信記者)
 MIYADAI.com:何が監視社会化をもたらすのか?(宮台真司氏:社会学者)
 寝屋川の教師刺殺事件に関して、またぞろ「学校の閉鎖化」を主張する人が出てきているようです。しかし、相馬氏の記事にもあるとおり、小学校は地域から隔離したところにおいておくのではなく、それこそ地域に密着した形で建てておくべきでしょう。そのために必要なのが建築家と社会学者の知恵なのかもしれません。
 いかなる建築も、単なる「箱モノ」ではありえません。住宅にしても然りなのですが、特に小学校の場合は、子供たちの教育という重大な責務を負っています。小学校における教育に関して言うならば、もちろん読み・書き・計算の教育も重要なのですが、自らの住んでいる地域について知っておく必要もあります。そのためには教育カリキュラムの設計も含めて、小学校の社会的責務をいったん明らかにしておく必要もあるでしょう。ここで言う「社会的責務」とは、簡単に言えば小学校が社会に果たすべき役割ですが、小学校と地域住民というつながりが基本に据えられる必要があります。ただ閉鎖するだけ、というので正しいのでしょうか。
 最近になって地域社会の「空洞化」が指摘されていますけれども、宮台氏などはその最大の原因として流動性から収益を上げるグローバル資本をあげています(金子勝、他『不安の正体!』筑摩書房)。さらに宮台氏は、そのようなグローバル資本が地域性を破壊し、その空洞化によって「動機」が不明な犯罪が増えた、と指摘しています。これが正しいかどうかは分かりませんが、しかし「地域」の力が弱まっている、というのは確かかもしれません。
 私がなぜこのような主張をするのか。その理由こそ私が最近になって喧伝している「生活保守主義的プチナショナリズム」の横行です。宮台氏は《尊厳を失った人々が相互不信で右往左往し……問題を自分たちで解決する自信を失って何かというと国家を呼び出すヘタレが溢れる》と表現していますが、特に《何かというと国家を呼び出すヘタレ》というのは重要でしょう。最近になって噴出している議論を見てみると、それが広まりつつあるのは然りです。昨年に起こった、関西学院大の登山者が冬山に遭難したときにさまざまなメディアが登山者に救出費を請求したり、犯罪を減らすという名目で「有害」メディアの規制を求めたりと、「国家」を過大視したがる動向が表面に出始めています。
 このような「国家依存」が、ここ最近では往々にして若年層、いうなれば「今時の若者」をなんとかしてくれ、という方向で噴出しています。しかし、「国家」に頼らなければ「今時の若者」を「正常化」できないのでしょうか。これは「国家」に限りません。「今時の若者」の「問題行動」を「ゲーム脳」だとか「サル化」だとかいった、安易な疑似科学決定論に多くの「善良な」人々が「癒されて」しまう、というところにも現れていると思います。「俗流若者論ケースファイル02・小原信」でも書いたのですが、「今時の若者」が自分と同じ社会に生きていることが気に食わない人々がまだ大勢我が国にはいるようです。そのような人たちにとって、「今時の若者」を「排除」してくれるのが「国家」であり、疑似科学なのでしょう。そのような態度こそ、他者依存というのですけれどもね。
 もっとも、このブログは、巷の「今時の若者」という言説は幻想だ、ということを主張しているのですが。

 *☆.Rina Diary.☆*:ゆき(佐藤利奈氏:声優)
 仙台は大雪です。いくら雪かきをしてもすぐに積もってしまい、その処理に困っております。私は今日、今年度付けで東北大学を退官される伊藤邦明教授の最終講義を聴きに行ったのですが、そのために午後1時15分ごろに雪かきをして、45分ごろに終えて、原付で東北大に向かいました。で、帰ってきたのが午後4時半ごろだったのですが、帰ってくるともう15センチ弱ほど積もっていました。結局2度目の雪かきをしました。
 ちなみにこの時間帯には、この通りの多くの人が留守でした。一方、同じ団地のほかの通りでは、多くの人が精力的に雪かきをしており、原付も走らせやすかった。思わず「ありがとうございます」の気持ちを込めて、道端で雪かきをしていた人に会釈してしまいました。これも地域性の差なのかもしれません。同じ団地の中でも。

 週刊!木村剛:[ゴーログ]不器用なアメリカ人ですら税金は申告している!(木村剛氏:エコノミスト)
 保坂展人のどこどこ日記:予算国会の民主党完敗はなぜ(保坂展人氏:元衆議院議員・社民党)
 木村氏は、最後のほうで《現在の日本は、「政治的・経済的に不満の無い時代」になっているのでしょうか》と書かれておりますが、私が思うに、マスコミの問題も大きいのではないかと思います。現在のマスコミは、たとえば政治面の場合は、どこかの評論家だかジャーナリストだかが「現在の日本の政治報道は「政局報道」である」と言っていた記憶がありますが、現在の新聞を見る限り、それを認めざるを得ません。私の家では読売新聞をとっているのですが、読売の政治面を見る限りでは、昨日の国会の審議に関して民主党は悔しがっているとか、小泉首相と敵対議員の確執とか、そういうことばっかりです。なまじ新聞が自民党寄りだから、民主党に対しては少々冷笑的です。他の新聞に関しても、たいてい政治報道は「政局報道」になっています。それよりも、議論の対立をもっと明確に浮かび上がらせてほしいと思います。また、野党を奮起させようとするような報道も、ほとんどの新聞において皆無です。読売の社説において民主党を批判する場合は、たいてい自民党の代弁者と化しているような気がしてなりません。もっとも、読売は自民党寄りだから仕方ないですが、特に朝日新聞や毎日新聞には、野党を育てるようなオピニオンを期待するばかりです。
 もう一つ。選挙があるたびにマスコミは投票率、特に若年層のそれを問題視したがります。しかし、政治が変わらないことを投票率のせいにしていいのでしょうか。そもそも我が国の政治は若年層の方向を向いていません。票田になるのは青少年よりも「青少年問題」、簡単に言えば「今時の若者」です。マスコミと同様政治家も投票率を問題したがりますけれども、あなたは本当に若年層のことを考えているのですか、と言いたくなります。いたずらに若年層の投票率の低さを嘆くのは、本当に必要なことから目をそらすことしか意味しません。
 必要なのは政治参加の多様化です。そのためには、地域に根ざした市民団体の育成が必要でしょう。「私の体験的成人式論」でも触れましたけれども、多様な政治参加を若年層に提示するための手段として私が重要視しているのは成人式です。もっとも、このような成人式をやるためには市民団体が充実している必要があります。幸い仙台市は市民団体がそれなりに充実しているので実現できそうですが、市民団体が充実していないところでは、何よりも市民団体を育成させる必要があります。そのために必要なのは市民の自発的な取り組みです。現在の票田は、市民団体ではなく政党(地域ではない)に密着した利権団体ですが、このような状況で投票率の向上を願うほうが無理というものではありませんか。

 千人印の歩行器:[悩内編]事実/真実/現実(栗山光司氏)
 明確な誤りは存在しますが、明確な正しさは存在しえません。肝心なのは、どれだけ「正しさ」に近づけるか、ということだと思います。「公正中立」というのは、必ずそのような立場が存在するという前提に立った上での議論かもしれませんが、それでも「個人」というものが入り込んでしまうという余地は存在するので、「公正中立」はその人にとっての「公正中立」に過ぎないのかもしれません。
 私がこのブログで問題視している俗流若者論の問題点は、それを振りまく人は自分に完全な「正しさ」があると思い込んでいることです。しかし彼らの言う「正しさ」は、彼らが勝手に信じ込んでいる「正しさ」の押し付けに過ぎないのです。私はそれを批判するのですが、そのときに重点を置いているのはその「正しさ」の化けの皮をはぐことです。大言壮語を振りまきつつも、その根拠をまったく示さない、という典型的な俗流若者論よりも、少しくらい傷ついてもいいから明確なデータを提示して、反証にも耐えられるように論理を組み立てた議論のほうが、たとえその支持者が少数でも私は支持するつもりですし、私もできるだけ抽象性よりも具体性を重視します。マスコミが好んで取り上げるような「今時の若者」は、実証的なデータではありえないのです。

 お知らせ。bk1で私の新作書評が掲載されています。一番上はトンデモ本ですが、下の二つはお勧めです。
 矢幡洋『自分で決められない人たち』中公新書ラクレ、2004年9月
 title:「俗流若者論スタディーズVol.2 ~精神分析の権力性を自覚せよ~
 坪内祐三、福田和也『暴論・これでいいのだ!』扶桑社、2004年11月
 title:「これでいいのだ!
 橋本健午『有害図書と青少年問題』明石書店、2002年12月
 title:「「若者論」の不毛なる歴史

 最近私が書いた文章もこのブログで掲載されておりますので、ぜひ見てください。
 「俗流若者論ケースファイル02・小原信」(2月28日)
 「俗流若者論ケースファイル03・福島章」(3月4日)

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コメント

トラバありがとう、ぼくが不思議に思うのは、監視社会を促進すると、小学校でも、郊外住宅でも、その土地を分離して自分たちを檻の中に閉じ込めてしまう結果と同じことになるのではないか?そんな疑問です。共同体を崩壊させた付けが余りにも高くついたわけです。結局、安全コストもかかるし、セキュリティ完備の高層ビルと刑務所とどう違うのかと、ふとそんなことを思います。行き着く先が国家の保護ですと、一番安全な場所は監獄ってことになってしまう。宮台さんも言っているようにアメリカのグローバリゼーションは少なくとも宗教的な背景がある。でも、日本には共同体も崩壊、共通な倫理(原理主義)もない。だから安全工学だけで、システムとして問題解決をしようとしている傾向がみられますね。

投稿: 葉っぱ64 | 2005年3月 4日 (金) 23時49分

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団地団地(だんち)とは都市計画上工業地域・住宅地などを新たに計画して建設されたものを指す。一般的には集合住宅の集合体を指す場合が多いが、工業団地というように、工場の集合体を指す場合もある。住宅団地の場合、日本住宅公団(現:都市再生機構)、地方公共団体... [続きを読む]

受信: 2005年5月 9日 (月) 18時10分

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