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2005年4月30日 (土)

俗流若者論ケースファイル20・小原信

 文明論で虚飾した俗流若者論は、俗流若者論の中でも特に注意が必要な分野である。この類の俗流若者論は、自分の育ってきた社会環境・文化環境に関しては絶大なまでの支持を表明するのに対し、逆に現代の若年層におけるそれらに対しては度を越した批判をして、さらに現代の若年層を「人間的に」劣った人種とみなして切り捨てるのである。これは人種差別(レイシズム)の論理に他ならず、特に学者に対しては、そのような人を教授として担いでいることが私にとってすれば最大の疑点になる。

 青山学院大教授の小原信氏の論理は、まさにこのレイシズム的な俗流若者論の特徴を先鋭的な形で表している。小原氏に関しては、かつて「俗流若者論ケースファイル02・小原信」において、「中央公論」2005年3月号に掲載された小原氏の文章「幻実に翻弄される若者の時間と空間」を検証したけれども、小原氏は、この文章の中において、「パソコンに対面すると人格が変わる」という「パソコナリティ」という珍概念を用いて現代の若年層の病理を「解明」しているけれども、論理飛躍どころか文章として成立していない文章さえもよく見られ、結局「パソコナリティ」というのは(何せ高速鉄道網でさえも「パソコナリティ」の産物として槍玉に上げられているほどだ)小原氏が浸っている「幻実」に他ならないのではないか、という疑念ばかりが生まれる(小原信[2005])。まあ、小原氏にとってはそれでいいのかもしれないが。

 もとより小原氏には『iモード社会の「われとわれわれ」』(中公叢書)という著作があり、私は読んでいないのだけれども、少なくとも小原氏は、特に中央公論新社の編集者には、現代の若年層の、情報化社会における関係性の変容の専門家として認知されているようだけれども、小原氏がこの分野に関して「中央公論」に寄稿した文章(2本ある)は、もはや学者の文章ではないと言い切ってもいいほどの飛躍が目立ち、このような人を持ち上げる編集者の感覚も疑ってしまう。ちなみに『iモード社会の「われとわれわれ」』に関しては、ネット書店のamazon.co.jpにおいては至極評価が低い。

 今回検証するのは、小原氏が「中央公論」2004年4月号に寄稿した「不安定なつながりが逆に孤独を深めている」である。とはいえ、「ケースファイル02・小原信」と同じような思想上の問題点が頻出しているので、今回はそれと重ならない部分を検証してみる。

 167ページ3段目において、小原氏はこう言っている。

 見ている画面が面白いと、たとえ幻実(virtual reality)でもそれに見とれてしまう。さまざまな情報がすばやく点滅し始めると、他のことに気がいかなくなる。ネット社会の利用者には、画面だけが世界で、画面のなかの相手だけが「他者」になり、あとはtheyと見なし、気にしなくなる。かくして、自分の好きなもの、わかるもの意外は見なくなる。NHKは紅白(筆者注:紅白歌合戦)のときしか見ない若者は多い。画面を見つめていると、ヒトとキカイは境界線が曖昧になり、両者が融解してしまう(両者はともに自立するほどはっきりしないから、私は「浸透」ではなく「融解」という語を使っている)。キカイもヒトに近づくが、ヒトもキカイに近づいている。(小原信[2004]、以下、断りがないなら同様)

 この文章の中で、いくつもの事実誤認と論理飛躍と意味不明なアナロジーの使用がある。例えば《さまざまな情報がすばやく点滅し始めると、他のことに気がいかなくなる。ネット社会の利用者には、画面だけが世界で、画面のなかの相手だけが「他者」になり、あとはtheyと見なし、気にしなくなる》という文章に関しては、まず文の前後がつながっていない。小原氏が、学術論文においてもこのような悪文ばかり書いているのだとしたら問題である。まあ、小原氏にとっては悪文も気にならないのだろうが。また、《画面のなかの相手だけが「他者」になり、あとはtheyと見なし、気にしなくなる》と書いているけれども、小原氏は《他者》と《they》の論理的な区別を、読者にわかる形でしておくべきではないか?小原氏の文章には、このような曖昧なアナロジーの使用が頻出する。小原氏は気にならないのだろうが。そもそも、自分の脳内妄想を共有する者のみが《「他者」になり、あとはtheyと見なし、気にしなくなる》石原慎太郎の如きは情報化社会の産物なのか?小原氏はそう思っているらしいが。

 《NHKは紅白のときしか見ない若者は多い》という記述には笑ってしまった。小原氏の脳内においては、NHKの視聴時間=社会性あるいは興味の広さ、という図式が成り立っているようだ。しかも《かくして、自分の好きなもの、わかるもの意外は見なくなる》と小原氏は罵っているけれども、これは小原氏に見事に当てはまるのではないか?小原氏もまた、自分が「悪」だと思うものに関しては徹底的に批判するけれども、それ以外の要因をちっとも見ようともしない。それは小原氏が《自分の好きなもの(筆者注:小原氏にとって「情報化社会」批判は手軽なメシのタネなのだろう。だからこの表現を用いた)、わかるもの意外は見なくなる》状態にあることの見事なる証左ではないか?まあ、小原氏はそれでもいいのだろうが。

 168ページ2段目から3段目。

 ケータイを使うと、公的空間が即私的空間になる。着信音は、公私の境界を突如として曖昧にし、いくら〈われ〉がわれになるために必要な道具だとしても、その後遺症がどういう結果になるかを考えないと、まわりは私的空間のせめぎあいになる。

 遠慮なくわがままし放題の社会ではコミュニティは成り立たない。すべてを私化(privatization)することでわがもの顔にふるまう傾向は深刻である。なんでも平気で私物化する人は、裏方の苦労などわからず、自分一人のことしか考えられなくなる。そういう人の生き方は、ケータイの小型化により〈われ〉の私化を一段と加速していく。トークショーでも客席に着メロを鳴りひびかせるし、コンサートホールや結婚式の雰囲気をぶちこわしにし、厳粛な葬儀も一瞬にして様相を変える。

 結局「私語り」ではないか。いい加減にしてくれないか。しかもここにもたくさん論理飛躍がある。例えば小原氏は《着信音は、公私の境界を突如として曖昧にし、いくら〈われ〉がわれになるために必要な道具だとしても、その後遺症がどういう結果になるかを考えないと、まわりは私的空間のせめぎあいになる》《遠慮なくわがままし放題の社会ではコミュニティは成り立たない》と語るけれども、それを裏付ける証拠立てがまったくなく、ただ読者に小原氏の問題意識を強要するものでしかないのではないか。小原氏はそれでもいいのだろうが。しかも《すべてを私化(privatization)することでわがもの顔にふるまう傾向は深刻である》と書いているけれども、これも単なる「愚痴」ではないのか?小原氏はそれでいいのだろうが。

 《トークショーでも客席に着メロを鳴りひびかせるし、コンサートホールや結婚式の雰囲気をぶちこわしにし、厳粛な葬儀も一瞬にして様相を変える》とは笑わせる。多くの人は、それに気づいて、焦って携帯電話を探して、切る、あるいは極めて小声で自分が今出られないことを伝える、または後でメールを送信する、ということをするのではないか。このような文章は、小原氏が携帯電話使用者を「人間的に」劣っている、と身勝手に決め付けていることを意味する(レイシズム!)。最も、小原氏はレイシズムも平気なのだろうが。

 168ページ3段目から169ページ1段目。上の文章の続き。

 公的空間を日本人はふだん、weとみなさないでtheyとして突き放しがちである。だから、世界はふたり(自分たち)のためにある、と言わんばかりに身勝手にふるまうのは、核家族構成とか少子化にも原因がある。ひきこもりが激増したのは、核家族の親が成人した子を抱えたまま孤立し、わが子が成人した後も密着状態で養育をつづけるため、子が社会化できずにパラサイト状態をつづけるからである。ひきこもりもパラサイトも、先進国に多い現象だというのは興味深い。

 興味深くなるのは私のほうである。それにしても小原氏が《公的空間を日本人はふだん、weとみなさないでtheyとして突き放しがちである》と述べているのなら、携帯電話以前の世代と携帯電話以後の世代を過激に線引きして、特に後者を「人間的に」劣ったものだと罵るレイシズム的思考をやめてくれないか。しかも、この後の文章、すなわち《だから、世界はふたり(自分たち)のためにある、と言わんばかりに身勝手にふるまうのは、各家族構成とか少子化にも原因がある》については、《だから》と書いているのに内容的に完全に断絶されているのはどういうわけだ。しかも少子化悪影響論、核家族化悪影響論を無理やり持ち出すのも納得いかない。小原氏なら許されるのだろうが。

 《ひきこもりが激増したのは、核家族の親が成人した子を抱えたまま孤立し、わが子が成人した後も密着状態で養育をつづけるため、子が社会化できずにパラサイト状態をつづけるからである。ひきこもりもパラサイトも、先進国に多い現象だというのは興味深い》という記述にも笑ってしまった。いまだに「ひきこもり=母子密着」というマインドから抜け出せない小原氏こそ問題ではないか。小原氏が《ひきこもりもパラサイトも、先進国に多い現象だというのは興味深い》というのであれば、本当に先進国中で母子密着の子育てがメインになり、それがひきこもりその他を進行させているか、ということについて触れる必要があろう。小原氏はそれを無視してもまったく平気なのだろうが(これに関しては、「ひきこもり」に関して20年以上も向き合ってきた精神科医の斎藤環氏の研究が参考になる。斎藤環[2003][2005])。

 もう一つ、これは小原氏が先進国、というよりも近代国家のシステムをまったく理解していないことも挙げられる。近代国家になって、業務が社会化すると、少年期はそれまで時間が就労に回されていたのを教育を受けることに回される。要するに、業務の社会化があまり行なわれていない社会においては、少年期から労働に従事させられるので、ひきこもっている余裕などない。小原氏は知らなくても大丈夫なのだろうが。

 結局のところ、小原氏は単なる「世間知」によって物事を判断しているのでしかない。この程度の文章は、はっきり言うが投書欄の「憂国」エッセイレヴェルのものである。学者の文章ではない。小原氏にはそれでいいのだろうが。

 170ページ3段目。

 「父はもうこの世にいないと知りつつも つながる気がする携帯電話」という短歌があった。だれにでもメールができるのなら、亡き父に連絡したいという者がいてもおかしくない。

 正気の沙汰か。正気なのだろうが。

 いい加減「小原信の「私語り」劇場」と題して、小原氏の「中央公論」における2つの論文の「私語り」を全部引用したい気持ちに駆られるのだが、そういうことをしても原稿が無駄になるだけだろうからやらない。もっとも、小原氏は自らの文章に責任など負わなくともいいと考えているのだろうが。

 話を戻そう。170ページ3段目から171ページ1段目。

 ケータイがあれば、仲間との連絡が頻繁にできるが、さりげなく逃げることもできる。忘年会の予約をしておいて、都合が悪くなると、ケータイのスイッチをoffにする者がいる。メール一通、親指一本で謝ればすむ軽さが、事柄を真剣に受け取られなくさせる。ケータイがあるため、「遅れる」と断っておけば、申し訳ないと思わなくてもいいと思い込んでいる。

 ここまでステレオタイプを恬然と語る小原氏は、本当に自らの責任というものを自覚しているのだろうか。いい加減、自らのイメージやマスコミで面白半分に報じられているような「事例」ばかりを自らの論拠にするのはやめ、信頼できる調査や学説やフィールドワークなどを参考にするべきではないか。小原氏は参考にしなくても、自分こそ全てをわかっていると思っているのだろうが。しかも《申し訳ないと思わなくてもいいと思いこんでいる》だと。《思い込んでいる》というだけで、それが本当であるかどうかの検証がないのはどういうことか。小原氏は、証拠や検証がなくてもいいのだろうが。

 また、172ページにゲーム悪影響論があったが、《ゲームをする子どもたちが「死ね」と叫ぶように、いつ抹殺されるかわからない人間関係こそが、ケータイに支払うべき代償なのであろうか》という至極曖昧かつ意味不明なもので、検証する気もうせた。そもそも「死ね」という言葉は、かなり昔から相手を罵る表現として使われていたのではないか。小原氏は携帯電話・ゲーム以前の世代(正確に言えば自分ひとり)が聖人君子だと思いこみたいのだろうが。

 この文章の最後、173ページの3段目。

 ケータイが全盛をきわめるかぎり、情報を「知識」に高め、知識を「知恵」に収斂させる知性の陶治は、当分見込みがなさそうである。いま、現代人の知性のために必要なことは、「画面」の外に目を向けることである。画面上で気休めのことばだけを交わしあっているうちに、人生は過ぎる。費やした時間と涙は何だったのだろうかと後悔しても遅い。

 小原氏の如き俗流若者論が《全盛をきわめるかぎり、情報を「知識」に高め、知識を「知恵」に収斂させる知性の陶治は、当分見込みがなさそうである。いま》、小原信の《知性のために必要なことは》、「ステレオタイプ」あるいは「敵愾心の共同体」としての「論壇」の《外に目を向けることである》。「中央公論」で《画面上で気休めのことばだけを交わしあっているうちに、人生は過ぎる。費やした時間と涙は何だったのだろうかと後悔しても遅い》。
 もう、呆れてしまうほどである。あれだけ不安を煽っておいて、提示する解決策がこれか。結局のところ、小原氏は、思考が貧困だから、解決策も至極曖昧なものにしかなりえないのではないだろうか。小原氏の考え方はもはや陰謀論的である。すなわち、一つの「敵」や「悪」を決めつけ、それに影響された人間もまた「悪」となり、その「悪」を「追放する」(人間に対しては「粛正する」)ことこそが社会を「救う」こととなる、という思考に、小原氏は完全に染まっている。

 陰謀論であるから、たとえ小原氏が本質にかなり迫っているようなことを言っても、結局のところ残酷な一般論で茶を濁してしまう。この文章を見る限り、小原氏は、携帯電話によって形成される人間関係がかえって孤独を深めている、ということはわかっているのだろうが(ここまでは正しいといえる側面もある)、小原氏は、現代の若年層における関係性がヴァーチャルな環境でしか形成されていない、という完全なる誤解をしているから、野暮な携帯電話批判しかできない。しかし、現実に起こっているのは、むしろ現実の「友達」関係と携帯電話による関係のフィードバック(悪循環のスパイラル)であり、より噛み砕いて言うと、明治学院大学専任講師の内藤朝雄氏の論理を援用するけれども、特に学校社会において形成される「友達」という絶対主義的な中間集団の圧力があり、さらに携帯電話による常時接続のネットワークの形成によってその圧力が強くなってしまう、という指摘のほうがむしろ現実的ではないか。この状況に関して、内藤氏は《閉鎖空間のもともと危険なべたべたした人間関係がネット上にまでもちこされ、ネットの現実感覚変調作用によってさらに危険なものになる可能性は否定できない》(内藤朝雄[2004])と書いているが、少なくとも現代の若年層というだけでネット上でしか関係を築けない、と判断するのは愚かである。

 小原氏は《現代人の知性のために必要なことは、「画面」の外に目を向けることである》と述べる。しかし、これはかえって逆効果ではないか。なぜなら、結局のところ小原氏の認めている《「画面」の外》というのは、小原氏が存在する共同体、簡単にいえば「世間」だけであって、ここで検証した文章、そしてケースファイルの第2回で検証した文章を読んでいる限り、他の共同体は断固として認めようとしない態度が見えてくる。しかし本当に必要なものは、小原氏が唯一認める「世間」の残酷さからいったん身を引くためのコミュニティの形成であり、実際にそれを形成しているのがフリースクール、都市の単位だと秋葉原だったりする。ついでにこの考え方には、「ひきこもり」を解決するためのヒントも隠れているのだが、これに関しては斎藤環氏に譲ることにしよう(斎藤環[2003])。

 小原氏の残酷さは、「世間」の残酷さに耐えかねている人たちを、再び、そして無理やり残酷な「世間」に戻そうとしているところにある(携帯電話によって「友達」という「世間」の暴力性が増幅されている関係性の中にいる人に対してはなおさらだ)。そして、インターネットの情報空間は、そのような「世間」の残酷さに耐えかねている人たちを「救済」する力もまた持っている。しかし、それもまた潰されつつあるのが現状である。オタクの都市としての秋葉原は再開発と警察の国策捜査によって脅かされ、インターネットも「青少年に有害」という理由でさまざまな理不尽な規制が掛けられつつある。そして、度重なる報道が若年層への敵愾心を煽り、「家庭」すらも最後の逃げ場でなくなってしまう。若年層が「居場所」としてくつろげる空間はどんどんなくなってしまう。そしてそれを加速しているのが、小原氏の如きハードランディング的な狼藉である。小原氏はそれをわかっているのか。

 しかし――。

 いつから我が国においては、印象論だけで若年層の「病理」を語ることが許されるようになったのだろうか。小原信だけでなく、森昭雄も、正高信男も、何のデータもなしにただステレオタイプだけで現代の若年層を「人間的に」劣った者であると断じている。オカルト全盛の時代には、レイシズムはユダヤ陰謀論として現れたが、オウム真理教以後、「酒鬼薔薇聖斗」以後の俗流若者論全盛の時代には、レイシズムは「今時の若者」への敵愾心として現れるのだろうか。

 私はこの状況に絶望している。しかし、小原氏にとっては、絶望することは生きていないも同然のこととして見なされる。私は死者なのだろう。そしてこの文章は、死者からの叫びなのだろう。そして小原氏は、死者の言うことなどまったく聞く耳も持たないのだろう。

 参考文献・資料
 小原信[2004]
 小原信「不安定なつながりが逆に孤独を深めている」=「中央公論」2004年4月号、中央公論新社
 小原信[2005]
 小原信「幻実に翻弄される若者の時間と空間」=「中央公論」2005年3月号、中央公論新社
 斎藤環[2003]
 斎藤環『ひきこもり文化論』紀伊國屋書店、2003年12月
 斎藤環[2005]
 斎藤環『「負けた」教の信者たち』中公新書ラクレ、2005年4月
 内藤朝雄[2004]
 内藤朝雄「「友だち」の地獄」=「世界」2004年12月号、岩波書店

 笠原嘉『アパシー・シンドローム』岩波現代文庫、2002年12月
 数土直紀『自由という服従』光文社新書、2005年1月
 十川幸司『精神分析』岩波書店、2003年11月
 内藤朝雄『いじめの社会理論』柏書房、2001年7月
 中西新太郎『若者たちに何が起こっているのか』花伝社、2004年7月

 石田衣良、森川嘉一郎「秋葉原は「萌え」ているか」=「Voice」2005年4月号、PHP研究所
 齋藤純一「都市空間の再編と公共性」=植田和弘、神野直彦、西村幸夫、間宮陽介(編)『(岩波講座・都市の再生を考える・1)都市とは何か』岩波書店、2005年3月
 田村ゆかり「琥珀の詩、ひとひら」=「hm3 SPECIAL」2005年4月号、音楽専科社
 福井洋平「オタク狩り?警察の狙い」=「AERA」2005年3月7日号、朝日新聞社
 本田由紀「「対人能力格差」がニートを生む」=「中央公論」2005年4月号、中央公論新社

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2005年4月29日 (金)

俗流若者論ケースファイル19・荷宮和子

 これは私が最近考えついた仮説なのだが、俗流若者論というのは、自らのステイタスを手軽に上げることができる道具なのではないか。簡単に言えば、マスコミなどで採り上げられているような「今時の若者」における「病理」を「解説」して、私は(「今時の若者」に対する敵愾心の共同体としての)社会に貢献している、という幻想を持たせて、そこから自らの「使命感」というものを満たしてくれる者こそ、俗流若者論なのではないか、ということである。

 そしてそれの度が過ぎるようになると、自分のことを正義とみなすようになって、自分の言っていることはすべて正しいと信じるようになり、自分の気に食わない者は全て敵とみなすようになる。文章はその時々の「気分」だけでかかれるようになり、そこには一切の分析というものが存在しなくなる。この典型が、フリーライターの荷宮和子氏なのかもしれない。

 というわけで、今回検証するのは、評論家の大塚英志氏が主宰する雑誌「新現実」の第2号に掲載された荷宮氏の論文「私が団塊ジュニアを苦手だと思ういくつかの理由」である。蛇足だが、私が荷宮和子というライターの存在を知ったのはこの論文が初めてであり(もっとも、大塚氏の著書『人身御供論』(角川文庫)に大塚氏と荷宮氏の共著の一部分が収録されていたが、これも大塚氏の筆によるものであり、荷宮氏との共著から収録したものであるということは最後の最後にふれてあっただけなので、荷宮和子という名前をまったく気にすることはなかった)、初めて読んだときはほとんど気にかけなかったのだが、後で読み返してみると、何でこんなに乱雑な文章を書くことができるのか、とため息をつくほどだった。

 荷宮氏は冒頭、《私は昭和38年生まれである。つまり、団塊の世代と団塊ジュニアにはさまれた世代なわけである》(荷宮和子[2003]、以下、断りがないなら同様)と書く。要するに、荷宮氏はこの直後に述べているような《くびれの世代》(130ページ1段目)として語っていることになる。そして、荷宮氏が「大航海」という雑誌に寄稿した文章を自ら引用し(蛇足だが、荷宮氏のこの文章が掲載された「大航海」の特集はジェンダーに関するもので、荷宮氏の文章はジェンダー関連の論文の中に一つだけ世代論としてあった)、荷宮氏は《私がついついこんな一文を書いてしまった理由の一つに、「私は均等法以前世代の女だから」という点がある。たとえて言うならば、つまりこういうことである》と書く。なぜ荷宮氏が《均等法》、すなわち男女雇用機会均等法によって世代間の断絶が生まれてしまったのか、ということに関しては、荷宮氏はまったく述べておらず、結局のところ《団塊ジュニア》が「ひ弱に」なったのは《均等法》のせいである、と荷宮氏は語りたいらしいのだが、証拠が薄弱すぎる。

 ところが荷宮氏は、131ページ1段目において、軽々しく認めてしまうのである。曰く、《「俺達はこんなに苦労してたのに、俺達はこんなに苦労してたのに……!」要は、こういうことである。ひがみですね》と。私は思わず拍子抜けしてしまった。だったら、それで済ませておけばいいものを、荷宮氏は《ではなぜ私は団塊ジュニアを、いや、より正確に述べれば、団塊ジュニアおよびそれ以降の世代のことを、「苦手」だと感じてしまうのだろうか》と、「私語り」を始めてしまい、しかもその「私語り」でもってそのまま社会問題に結び付けてしまうのである。

 蛇足だが、すでにここで《くびれの世代》対《団塊ジュニア》という荷宮氏の架空の図式は、荷宮氏自身によって解体させられているとみなすべきだろう。というのも、荷宮氏は131ページの1段目から2段目にかけて《自分よりも下の世代に対して……「団塊ジュニアだから」すなわち「団塊の世代の子供たちだから……」そう感じてしまうのか、あるいは「団塊ジュニアおよび団塊ジュニア以降の世代だから」すなわち「私が生まれ育った時代以降に成立した社会で生まれ育った世代だから(均等法施行後に働き始めたから)」、そうかんじてしまうのか》、と書く。この点において、荷宮氏の認識は混乱している。結局のところ、荷宮氏は自分の育った社会環境からは「真っ当な」人間が育ち、そうでない社会環境からは「異常な」人間が育つ、と考えていることになる。蛇足だが、この論文が書かれたのはおそらく2002年の据えごろから2003年の始まりごろだろうが、その時代の若年層の親の大半は《団塊の世代》ではないと思う。大半が1955~1960年生まれではないだろうか(ちなみに荷宮氏は1963年生まれである)。それに、《団塊ジュニア以降の世代》のなかで、実際に働いている人が何割ほどいるのだろうか(これで《均等法》というものがもたらす断絶に対しても疑問が投げかけられることになる)。

 しかし、この点を衝いてしまったら荷宮氏の論文に対する検証がここで終わってしまうので、もう少し荷宮氏の議論に付き合うとしよう。荷宮氏は、131ページ2段目から3段目にかけて《「団塊ジュニアだから」すなわち「団塊の世代の子供たちだから(あの親にしてこの子あり、だから)抱いてしまう違和感」》と《「団塊ジュニアおよび団塊ジュニア以降の世代だから」すなわち「私が生まれ育った時代以降に成立した社会で生まれ育った世代だから(均等法施行後に働き始めた世代だから)」抱いてしまう違和感》を列記する。その後、131ページの3段目から4段目にかけて、延々と言い訳を語った後に、132ページからやっとその「検証」が始まる。ここでは、荷宮氏が掲げる全17項目に関して、論理的に検証してみよう。具体的に言うと、《「団塊ジュニアだから」すなわち「団塊の世代の子供たちだから(あの親にしてこの子あり、だから)抱いてしまう違和感」》が3項目で、《「団塊ジュニアおよび団塊ジュニア以降の世代だから」すなわち「私が生まれ育った時代以降に成立した社会で生まれ育った世代だから(均等法施行後に働き始めた世代だから)」抱いてしまう違和感》が14項目である。後者のほうが圧倒的に多い、というのはご愛嬌か。

 まず《「団塊ジュニアだから」すなわち「団塊の世代の子供たちだから(あの親にしてこの子あり、だから)抱いてしまう違和感」》の3項目に関して検証しよう。

 1・脊髄反射をする
 2・傍若無人である
 まず、荷宮氏がこれらの証左として掲げるのが、いくつかの「実例」らしきものであるが、なんとこれらの「事例」には具体的なものはまったくなく、ただ特徴的なことをつらつらと並び立てるだけなのである。これでは、荷宮氏が現在の若年層を罵るためにでっち上げた捏造と読み取られてもおかしくはないだろう。少なくとも、荷宮氏は、「善良な」大人たちが安易に納得してしまうような「実例」ではなく、本当に実例を示してほしい。そして荷宮氏は、自分の持つステレオタイプを正義と安易に思わないでほしい。

 しかし荷宮氏にとっては、そのようなことはどうでもいいようだ。例えば荷宮氏は132ページの2段目から3段目にかけて、このような妄言を発してしまう。

 ……「笑える出来事」が目の前で起きたから、その瞬間に笑い出してしまう。それが、団塊ジュニア以降の世代の行動パターンなのである。礼儀だのTPOだのだけを問題にして論じるわけにはいかない、そもそもそういう次元に問題があるのでない、そんな世代が台頭してきてしまったのである。

 「君らはカエルか!?」

 この事実に気づいたとき、こう思ってしまったが、しかし、「団塊ジュニアは脊髄反射をしている」、層思えば、近頃の客席の空気の変化が納得できる答えではあった。

 安易に《納得》するな、と言いたい。しかも《カエル》とは…。自らのステレオタイプに対して脊髄反射をしているのはあなたのほうではないか、と思ってしまう。

 結局のところ、荷宮氏は、この項目に関しては、単なる「憂国」だけに終始してしまうのである。しかし、このようなスタイルは、この項目に限らず、この論文全体を通じたスタイルになってしまうのである。荷宮氏は「女子供文化評論家」を自称しているようだけれども、せめて「評論家」と名乗るにふさわしい思考力を持ち合わせていただきたいものだ。

 3・前例をやたらと気にする
 我が国の官僚社会のことではない。あくまでも荷宮氏は《団塊ジュニア》の気質として語っている。しかしまた、荷宮氏はその実例を提示しようとせずに、一般論だけで語っているのが口惜しい。しかもその原因を一概に《親のメンタリティ》(132ページ4段目)に求めてしまうのも問題がある。また、この文章もまた、前項と同様、単なる「憂国」を語っているに過ぎないのである。

 笑ってしまったのは133ページ2段目である。荷宮氏は、《思えば、私の世代は、さまざまな場面で「女の方が来られるのは初めてですので…」といった言葉で迎えられることが当たり前だった。必ずしも、敵意に満ちた言い方ばかりではなかったが、とにかく相手は戸惑っているのが普通だった》と書いていることである。《前例をやたらと気にする》のは、《団塊ジュニア》(およびそれ以降)だけではなかったのか?しかし荷宮氏はそんなことは気にも留めず、《そういった状況のせいもあり、前例を破ることに快感を覚え、必要以上に好戦的な面がなきにしもあらずだった。そのため私は、「前例を破りたい」という気持ち事態を持たない団塊ジュニアに対して、「つまんない奴…」と思ってしまうのである》と語ってしまうのである。結局「私語り」ではないか。「私語り」による俗流若者論ほど不毛で《つまんない》ものはない。

 というわけで、荷宮氏が《「団塊ジュニアだから」すなわち「団塊の世代の子供たちだから(あの親にしてこの子あり、だから)抱いてしまう違和感」》として提示する項目に関しては、これで終わりである。しかし、荷宮氏が後に認めている通り、《「団塊ジュニアだから」すなわち「団塊の世代の子供たちだから(あの親にしてこの子あり、だから)抱いてしまう違和感」》として特化する必要はどこにもないのではないか。結局のところ、荷宮氏は自分の「憂国」を正義と信じ、自分こそが最も「正しい」人間である、と思いこんで下の世代を罵倒しているだけではないか。しかし、このような狼藉の度合いは、これ以降さらに強くなる。というより、文章も散漫になり、結局のところ「私語り」ばかりに終始してしまう。それでは、荷宮氏が《「団塊ジュニアおよび団塊ジュニア以降の世代だから」すなわち「私が生まれ育った時代以降に成立した社会で生まれ育った世代だから(均等法施行後に働き始めた世代だから)」抱いてしまう違和感》として提示する14項目の検証に移る。

 1・読み取り能力が低い
 ここではある演劇に関して出てくるのだが、ここでは世代に関する演劇の受容文脈の違いすら出てこない。荷宮氏がいかに世代論というものに対して軽い気持ちで臨んでいるか、ということがよく表れている項目といえよう。

 2・語彙が貧しい
 荷宮氏の語彙もかなり怪しいと思うのだけれども。それはさておき、荷宮氏がその証左として掲げるのが、結局のところ《よくのぞくサイト》での出来事を語るだけで、荷宮氏がそこから《「そうか、「世間一般の常識として、知っていることが妥当か否か」よりも、「自分自身が知っているか否か」こそが、他者を攻撃する際の基準なんだ…」、ということに気付いた》と「分析」してしまう。この批判は見事に荷宮氏に当てはまるのだが、それはさておき、自らの体験だけで一つの世代を「分析」してしまうということの暴力性に関してだけは自覚的であったほうがいいと思う。

 3・伝える力がない
 また「私語り」である。検証する必要はない。いい加減にしてくれ。

 4・根拠のない自信を持っている
 荷宮氏は冒頭で、《私が子供だった頃に比べ、宝塚音楽学校の倍率が激増した。ヅカファン(筆者注:宝塚歌劇団のファン)の中に、急に美人が増えたとは思えない。「身のほど知らず」が増えたのだ》と書いている。嗤うべし。どうして荷宮氏は現代の若年層の中で宝塚音楽学校に志願する人を《身のほど知らず》と断定してしまえるのだろうか。結局のところ、このような認識は、荷宮氏が現代の若年層に関して蔑視的な認識しかもっていないことの証左になろう。

 134ページ1段目においても、《ネットの普及によって、私の世代までならば、本で調べたり誰かに尋ねたりしなければ知ることのできなかった知識を、個人の力だけで手に入れられるようになった結果、キャリア等にかかわらず、自身が自負するジャンルで自信満々にふるまう者達が多くなったのも特徴だ》と言っているけれども、それならなぜ「ひきこもり」が増えているのだろうか。もう一つ、同じ段において《あるいはまた活字の世界であっても、例えば次のような言説、「ぼくは、心理分析を入れることで批評家の胸像になっちゃうような批評ではなく、構造分析がしたい、人間のいない人文科学を目指したい」/すなわち、/「神の視点で他者(の作品)を眺めたい」/こういった夢をてらいなく語っている、そんな文章に接した時、「あんたには無理だよ…」といった気分を覚えてしまう》と荷宮氏は書く。誰が言ったのだろうか?東浩紀氏(評論家、1971年生まれ。荷宮氏言うところの《団塊ジュニア》に見事に当てはまる)か?もちろんこの語り口だけで東氏の文章と断定することはできないけれども、「新現実」の編集者のクレジットから東氏がいなくなった、ということをかんがみると、ちょっとそういうことを疑ってみたくもなる。もう一つ言っておくが、《すなわち》の前後がまったくつながっていない。

 ここで荷宮氏の「検証」は一旦停止し、これらの「特徴」(これらが眉唾物であることはすでに検証した通り)に関して、《ネットの隆盛によって、目に余る状況が表面化してきたと言える》と書いている。しかし、それを示すための証拠をまったく示していないのはどういうわけだ。しかも、ここでも単なる「私語り」だけが「正しい」とされ、他の思考を参照する余地をまったく持たない、というのも「評論家」を自称する者であれば避けるべきであろう。

 さて、荷宮氏の「検証」は再開する。

 5・彼らに人気のある作品では「主たる登場人物=イヤなやつ」である
 これに関しては、次の項目と参照して述べることにしよう。

 6・彼らに人気のある作品の根本的な設定が「設定のための設定」である
 実を言うと、この項目に関して述べた文章は、一つ前の項目と矛盾しているのである。荷宮氏は、この項目を述べた箇所(135ページ3段目の終わり)で、「仮面ライダー龍騎」を採り上げている。荷宮氏は「龍騎」のシナリオに関して、《「龍騎」のビデオを、HPを、「大全集」を、諄々と見聞きしていくことで、「なぜ彼らは戦っているのか」を、私も理解することは出来た。/が、理解することができた、にもかかわらず、「なぜ彼らは戦わねばならないのか」を受け入れることが、私には出来なかったのである》と感想を述べる。これは、《彼らに人気のある作品では「主たる登場人物=イヤなやつ」である》ということと矛盾してはいまいか。

 しかも、この矛盾を解消するために136ページの1段目ででっち上げた言い訳が次のようなものだ。曰く、《けれども、「龍騎」の作り手、そして「龍騎」を支持している受け手のメンタリティは、今述べた思いとはちょっと違うところにある、そんな風に私には思えるのである。/「13人のライダーが殺し合いをする」=「たくさんオモチャを売るための方便」》と。いい加減にしてくれ。このような「図式」に強引に当てはめることによって、現代の作品と製作者に言われなき誹謗中傷を浴びせかけようとしているのはもはや明らかであろう。

 7・彼らに人気のある作品では「人物」よりも「構造」が優先されている
 荷宮氏は「機動戦士ガンダム」を支持しているけれども、それが「人物」を優先させた作品であったという荷宮氏の議論はひとまず受け入れるとして、荷宮氏が《「人物」よりも「構造」が優先されている》と批判する現代の作品を一つも取り上げないのはどういうわけか。このような比較をするのであれば、まず作品分析に取り組むべきであろうが、荷宮氏はそのようなことをせず、単なる一般論だけで茶を濁している。

 蛇足だが、この項の最後に作家の池波正太郎氏の、これまた「憂国」的なエッセイが引かれている。この次の甲を見てもわかるのだが、荷宮氏と池波氏は結構共鳴する部分があるらしい。しかし、これは荷宮氏の狼藉の検証とは別問題であろう。

 8・「グロい死体」が好き
 またぞろステレオタイプのお出ましである。冒頭、すなわち136ページ4段目から137ページ1段目にかけて、殺人映画に関する世代的な受容文脈を述べるのだが、荷宮氏はぬけぬけと《池波(筆者注:池波正太郎氏)のこの文章を読めば、「この人、何言ってるの?映画の観客や漫画の読者が『人殺しの現場』を見たがるのは当たり前じゃん?『人殺しの現場』が見たいからこそ、お金を払ってるんでしょう?」おそらく彼らはこういった返事を返すであろう、という意味での「変化」が起きている、ということである。いや、より実感に即して言えば、彼らがすきなのは、「人殺し」ではなく「グロい死体」なのだと思う。で、出来ればその死体は、「殺人」によって製造されて欲しい、それが彼らの素直な気持ちなのである》と語ってしまう。ここまでステレオタイプを既成事実として語ることが出来る荷宮氏とは一体なんなのであろうか。このような認識は、何度でも言うが、荷宮氏が現代の若年層に対していかにステレオタイプでしかものを見ていないか、ということを如実に表している。荷宮氏は本当に「評論家」を名乗る資格があるのか(私は荷宮氏のことを「ライター」と言っているけれども、それもこのような理由による。もっとも、このような人物が「ライター」として規定されることに関しても、真面目なライターたちは御免被るだろうが)。

 しかも、137ページの2段目の終わりにおいて、《いや、実を言うと、ほとんどのメディアはずっとそうだったのだ。「男=被害者の側から物事を見る、ということができない人種」によって、日本のメディアは仕切られてきたことを思えば、より下の世代が(男女にかかわらず)「趣味嗜好がグロい」人間になっても仕方がないのかな、とも思ってしまう》と書いてしまっている。呆れるほかない。ここまで読まれてきた読者諸賢には、どこがステレオタイプであるか、どの記述に問題があるか、ということはもうわかるだろうから、この文章に関する検証は控えさせていただく。

 さらに荷宮氏は暴走の度合いを増す。荷宮氏は138ページ2段目において「ひきこもり」について語り始めるのだが、それもまた狭隘な認識が目立つ。曰く、《なにしろ、私より下の世代には、「ひきこもり=学校にいるよりも家にいる方が幸せ」、そんな人たちでさえいるぐらいなのだから。/「よろしいなあ、実家ではくつろげて…」/くびれの世代の女の一人としては、こんな感想しか出てこないため、ますます、自分よりも下の世代に対する違和感が増してしまうのである》と。嗤うべし。精神科医の斎藤環氏などの著作を見ればわかるとおり、《ひきこもり=学校にいるよりも家にいる方が幸せ》というのは断じてない。このような、いうなれば「世間的な」認識こそ、「ひきこもり」の人たちをさらに囲い込んでしまうのである。荷宮氏は、結局のところ下の世代に対して冷笑的、蔑視的な認識しか抱いていないから、こういった暴力的な文章が生まれてしまうのである。《「よろしいなあ、実家ではくつろげて…」》という言辞に、それが凝縮されている。

 「ひきこもり」の苦しみに関しては、斎藤氏の良質な著書や論文に譲るが、いい加減、荷宮氏や荷宮氏と同じようなマインドをもつ人たちは、「ひきこもり=甘え」という認識から脱却すべきであろう。

 10・「深い意味」を考えずに泣く
 荷宮氏の文章を検証して、私も泣きたくなる衝動に駆られている。この項目も、単なる「私語り」に過ぎない。

 11・オチが弱くても気にしない(パターンさえおさえてくれていれば満足する)
 これも「私語り」。いい加減にしてくれ。

 12・人気作品の作り手が「悪気がなければ何をしてもいい」という価値観の持ち主である
 またしても「私語り」。言っておくけれども、自らのステレオタイプだけを頼りに物事を語らないで頂きたい。

 13・人気作品の登場人物の言葉づかいの「気持ち悪さ」に無頓着である
 これも「私語り」…ということで終わらせたかったが、看過できない文章を見つけた。

 たとえば本気で殺すつもりがなくとも、思わず「殺してやる!」と叫んでしまう、そんなボキャブラリーを持った日本人は、今では珍しくないからである。なぜこうなってしまったのか。推測するならば、今の日本では、とりたてて「過激」「暴力的」な作品でなくとも、テレビドラマや漫画やアニメに登場するキャラクターの多くが、こういったボキャブラリーを披露しているからだと思われる。こういった面での語彙の拡大は、「ごっこ遊び」という経験を経ずとも、耳で覚えただけでも、十分に可能なのである。

 「ごっこ遊び」を介すことなく、受け手のボキャブラリーを拡大する役目を担うメディアとして、今ならゲームの存在を無視することは出来ないだろう。

 メディア悪影響論である。しかし、この文章には突っ込みどころが満載である。まず、《たとえば本気で殺すつもりがなくとも、思わず「殺してやる!」と叫んでしまう、そんなボキャブラリーを持った日本人は、今では珍しくないからである》ということがどこまで本当であるかわからない。しかもその「原因」として《今の日本では、とりたてて「過激」「暴力的」な作品でなくとも、テレビドラマや漫画やアニメに登場するキャラクターの多くが、こういったボキャブラリーを披露しているからだと思われる》を槍玉に上げていることも不可解である。結局のところ、荷宮氏は自らの不快だと思うことに社会問題をなすりつけているとしかいえないのである。いうなれば、荷宮氏は脊髄反射をしている。

 14・頭の体力がない
 このこうには笑ってしまった。というのも、この証左として荷宮氏が採り上げているのが《エレベーターで一緒になった女子高校生》の会話だけなのだから。しかも《そういうタイプに受けたのが「ゴーマニズム宣言」「わしズム」(筆者注:いずれも、漫画家の小林よしのり氏の作品。タカ派的な認識と主張で有名である)だったのだと思う》とこれまた断定してしまう。

 荷宮氏こそ頭の体力が少ないのではないか。

 これで荷宮氏の挙げた項目に関する検証は終了であるが(ここまで140ページの3段目である)、この全部に共通するのは、いずれも「私語り」であること、そして荷宮氏のよって立つ論拠が全てステレオタイプにしか過ぎないことであろう。

 そして、この文章は144ページまで続くのだが、これもまた全て「私語り」である。その中でも、特に問題のある箇所を抜き出して検証することにしよう。

 141ページにおいて、荷宮氏曰く、《そう、たとえば、私たちの世代は、均等法施行前から、「キーッ!」となって働いてきたというのに、下の世代の女の子たちは、「均等法なんかいらない」「せっかく女に生まれたのに働くなんてバカみたい!」、そんなメンタリティの持ち主だったということに気付いた時のむなしさというかなんというか…》と。荷宮氏が言うとおり、《下の世代の女の子たちは、「均等法なんかいらない」「せっかく女に生まれたのに働くなんてバカみたい!」》と現代の若い女性が本当に考えているとしたら、なぜ女性労働者率が年々上昇しているのか。しかも、荷宮氏の提示する「考え」をあらわすデータがどこにあるのか。データも提示せず、具体的な人や作品の名前も提示せずに、一般論で粉飾するのは荷宮氏の常套手段である。

 荷宮氏は141ページの最後から142ページの1段目にかけて、東京都知事の石原慎太郎氏について述べる。しかし、142ページの1段目にある《ああいう生き物(自身と異なる属性を持った他者の尊厳を認める能力を持たない生き物は人間ではない)の価値観は、たとえ心でも変わるわけがないのだから》という文章には笑ってしまった。私見によれば、石原慎太郎と荷宮和子は同一の属性を持った《生き物》である。詳しくは「俗流若者論ケースファイル11・石原慎太郎」を参照していただきたいが、石原氏は、「文藝春秋」平成17年5月号に寄稿した文章「仮想と虚妄の時代」において、散々若年層を罵ったけれども、結局のところ石原氏は「本質」だとか「国家」だとかいった美辞麗句を振りかざすだけで、石原氏の文章もまた大半が「私語り」であり、ステレオタイプの発露に過ぎない(石原慎太郎[2005])。荷宮氏も同じだった、ということは、ここまで読んでくださった読者諸賢にはわかりきっているだろう。

 さらに荷宮氏は、142ページから143ページにかけて、深作欣二氏の「バトル・ロワイヤル」について延々と語っている。荷宮氏は、この作品に関して、《「決まっちゃったことはしょうがない、なんとかその枠の中で生き残れるようにがんばろう!」》というメッセージを汲み取ってしまったらしい。まあ、一つの作品からいかなるメッセージを汲み取ろうが自由ではあるが、荷宮氏は《きっと私なら、「まずは北野武の演じる教師キタノを殺してやりたい」、こう考えるに違いないからだ》と誇らしげに妄想を語り、さらに現代の若年層の「病理」にかこつけてしまうのは、やはりいただけない。

 さて、私はかつて、荷宮氏が、この文章が発表された1年と約3ヵ月後に発表された文章「「2ちゃんねる」に集まる負の本能」を検証する過程で、荷宮氏はさも戦後民主主義者であるかのように振舞っているけれども、実際には低所得者差別に満ちた都市型新保守主義者である、と述べた(荷宮和子[2004]。これに関する検証は「俗流若者論ケースファイル04・荷宮和子」で)。そのような荷宮氏の社会認識は、この文章ですでに表れていた。143ページ2段目から3段目にかけて、荷宮氏は、《それとは別に、「社会の上層に属する者達」とは決していえない種類の人間の中にも、「どうせ死ぬんだったら戦争でこそ死にたい」と考えるタイプの人間が確実に存在している、という問題がある》だとか《ぶっちゃけて言えば、「ある種の人間」=「戦争で死ぬ以外に『生きてきた甲斐』を手に入れる術を持たない能無し」、ということである。つまりは、社会的な場面でも、個人的な場面でも、何の成果も挙げられなかった、あるいは、挙げる当てがない、そんな類の人間だからこそ、「どうせ死ぬんだったら戦争で死にたい」などとぬかせるのである》と言ってしまっている。これでは差別ではないか。荷宮氏は、結局のところ、自分の「正義」に浸りたいだけであって、そこに属しない者たちを罵ることによって、自己を保っているのだろう。

 さて、ここで荷宮氏の文章の検証は終わるが、我々は荷宮氏の文章から何を学び取るべきだろうか。

 私は、この文章を、ある種の寓話と考えている。すなわち、自分を絶対善、絶対正義として万物をとらえ、自らの「正義」に合わないものは全て社会を脅かす元凶として次々と罵詈雑言の嵐が浴びせられる。そして、特に若年層を罵ることによって自分の世代の(正確に言えば、自分の)優位性を示すことで自慰にふけり、自己の空虚を埋め合わせる、そのようなことしかできなくなった一人の自称権力者の寓話として。荷宮氏は自らを「少数派」だとか「弱者」だとか自称しているけれども、荷宮氏の振る舞いはまさに強者そのものであり、ブッシュ、金正日、小泉純一郎、石原慎太郎につながる危険さを持っている。

 このような倒錯は、荷宮氏が自らの権力性に自覚していないことに起因していると思われる。少なくとも自らがあるテーマに関して自由に雑誌や新聞、あるいはウェブなどに書けるのであれば、本来求められるのはそこに書くことに対する倫理の自覚である。すなわち、過度な暴言は慎む、自らの論証の証拠を開示する、安易なアナロジーに逃げ込まない、などの、言論人としての「真・善・美」を自覚することである。

 しかし、荷宮氏はそのようなことをまったく考えていない。逆に、言論を自らの狼藉を正当化するものとしてとらえている節がある。これこそ、私が冒頭で述べた仮説、すなわち俗流若者論が自らが「社会正義」であることを幻想させてくれる構造である。荷宮氏の提示する「証拠」が全て「私か足り」であることが、この疑念を確信に変える。

 そして、荷宮氏が他者を批判している際に用いられるレトリックは、その全てが荷宮氏自身にも当てはまるものばかりだ。いうなれば、荷宮氏こそ、脊髄反射で行動し、傍若無人であり、根拠のない自信を持っており、荷宮氏の文章における登場人物は「イヤなやつ」で、深い意味を考えずに泣き(「憂国」言説にふけり)、自らの言葉づかいの「気持ち悪さ」に無頓着で、オチが弱くても気にせず、頭の体力がない。荷宮氏が、「評論家」として持ち合わせるべきではない要素を、残念ながらこの文章は全て含んでいる。

 「反差別」を叫ぶ者が、最大の差別者になってしまうという逆接。いや、この文章における荷宮氏に関しては、最初から荷宮氏自身が差別者としての自らを開示しており、しかも自らが差別者であることに対して少しも反省の気持ちを持っていない。

 こういう人を、平然とのさばらせておく編集者も、問題があるのではないか。

 参考文献・資料
 石原慎太郎[2005]
 石原慎太郎「仮想と虚妄の時代」=「文藝春秋」2005年5月号、文藝春秋
 荷宮和子[2003]
 荷宮和子「私が団塊ジュニアを苦手だと思ういくつかの理由」=大塚英志(編)『新現実Vol.2』角川書店、2003年3月
 荷宮和子[2004]
 荷宮和子「「2ちゃんねる」に集まる負の本能」=「現代」2004年8月号、講談社

 五十嵐太郎『過防備都市』中公新書ラクレ、2004年7月
 姜尚中『ナショナリズム』岩波書店、2001年10月
 斎藤環『ひきこもり文化論』紀伊國屋書店、2003年12月
 斎藤環『「負けた」教の信者たち』中公新書ラクレ、2005年4月
 数土直紀『自由という服従』光文社新書、2005年1月
 芹沢一也『狂気と犯罪』講談社+α新書、2005年1月
 広田照幸『教育言説の歴史社会学』名古屋大学出版会、2001年1月
 パオロ・マッツァリーノ『反社会学講座』イースト・プレス、2004年5月
 山本七平『日本はなぜ敗れるのか』角川Oneテーマ21、2004年3月
 ウォルター・リップマン、掛川トミ子:訳『世論』上下巻、岩波文庫、1987年2月

 渋谷望「万国のミドルクラス諸君、団結せよ!?」=「現代思想」2005年1月号、青土社
 寺島実郎「経済人はイラク戦争に責任を自覚するか」=「現代」2004年6月号、講談社
 内藤朝雄「お前もニートだ」=「図書新聞」2005年3月18日号、図書新聞
 藤生明「ナショナリズム高揚地を歩く」=「AERA」2005年2月14日号、朝日新聞社

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2005年4月28日 (木)

俗流若者論ケースファイル18・陰山英男

 最初に言っておくけれども、尾道市立土堂小学校校長の陰山英男氏が「文藝春秋」平成17年5月号に書いた「「学力低下」世代が教師になる日」は、タイトルだけは極めて扇動的だけれども、論旨の大部分に関しては特に異論はない。しかし、看過できない箇所があったのでそこを批判したい。

 陰山氏は294ページにおいて、《学力低下問題の本質があり、処方箋が存在する》(陰山英男[2005]、以下、断りがないなら同様)とした上で、こう述べる。曰く、《結論から言おう。テレビ漬けと塾漬けで崩れた生活習慣が子供の元気を奪い、学力低下を招いているのだ》と。このような論旨の問題点に関しては後述する。陰山氏は294ページ2段目から次のページ、すなわち295ページの2段目中ごろにかけて、陰山氏が校長を勤める土堂小学校の事例を提示した上で、《こうした基礎学習の反復や音読は、知識の習得もさることながら、脳にある前頭葉の働きを活性化させる効果があることが、大脳生理学の専門家である東北大学の川島隆太教授の研究で明らかになっている》と書いている。どうもこの文章の文脈から考えると、前頭葉云々の記述は余計なものではないか、と思われる。
 陰山氏は295ページの3行目において、《昨年3月に発表された東京都民研学校保健部会と東京総合教育センターの子供の終身時間に関する調査は、1979年と2002年で大きな様変わりをしている。小学四年生では22時以降に就寝する子は10パーセント台から40パーセント台に、小学6年生では60パーセント大と大幅に増えている。すると、どういうことが起こるのか。広島県の基礎基本調査では睡眠時間と学力の相関関係が明らかになっている》と書いているのだが、これに関しては統計学的な検証が必要だろう。例えば、陰山氏が提示している睡眠時間の統計は東京のものであるのに対し、睡眠時間とテストの点数(=学力)の相関関係を示したものは広島県のものである。種類の違うデータを無理やり結びつけたところで、そこから優位な結論が生まれることはまずありえないだろう。陰山氏は、この文章の中で、子供たちの睡眠時間が少なくなったから学力低下が起こったのだ、といいたいのかもしれないが、すくなこともこのような問題点を克服しない限り、そのような論証立てをするのはむしろ危険といわざるを得ない。蛇足だが、相関関係は因果関係にあらず、ということは、統計学の常識として頭に入れていただきたい。

 陰山氏はこの後、さらに暴走してしまう。296ページの2段目はじめのほうから、3段目の中ごろまでを全文引用しよう。

 では、子供の睡眠時間を奪ったものはなんだろうか。それが受験競争の低年齢化と、テレビ、ゲーム、インターネット、携帯電話である。こうしたディスプレーが一日中手放せない。子供たちに人気の「3年B組金八先生」は、昔は午後9時からの放送だったが、今では10時から。それくらい子供たちの夜更かしが進んでいる。一言でいえば、ディスプレー依存症にかかっているのだ。

 一日に二時間を越えるテレビの視聴は、学校教育にとって致命的な意味があることを、ぜひわかっていただきたい。一年365日で730時間い達し、小学校の全学習時間706時間を軽く越えてしまうのだ。テレビ視聴についてはいろいろ議論があるが、音読なみに脳を活性化させる親子の対話や言語能力の獲得に必要な読書の時間を食ってしまっていることは間違いない。最近起きた佐世保や寝屋川の事件の背景にはビデオやゲーム、インターネットなどへの接触が中毒といってもいい段階に達することが一つの引き金になっていたことを考えると、ことは学力にとどまらない深刻な問題である。道徳の授業を週一時間くらいやったところで、心の教育に勝ち目はない。

 しかし、世の批判は学校に向かい、ただこうしたディスプレー依存の問題は真剣に取り組まれていない。土堂小学校では私の呼びかけにこたえ、ほとんどの子供のテレビ視聴は二時間以内である。土堂小学校の観察者が誰でも口にする「子供が元気」の秘密はここにある。

 正気の沙汰で書いているのだとしたら、陰山氏は本当に教師として相応しいマインドを持っているのか、と疑いたくなってしまう文章である。まず、引用文の一段落目において、《子供の睡眠時間を奪ったものはなんだろうか。それが受験競争の低年齢化と、テレビ、ゲーム、インターネット、携帯電話である》と陰山氏は断定的に語ってしまうけれども、それが本当に影響を及ぼしているか、ということに関して陰山氏は具体的なデータを示すべきだろう。また、陰山氏は《子供たちの夜更かしが進んでいる》証拠として、《子供たちに人気の「3年B組金八先生」は、昔は午後9時からの放送だったが、今では10時から》ということを示しているのだが、これは子供たちの睡眠時間が遅くなった、ということよりも番組の編成の問題だろう。また、何割の子供が「金八先生」を視聴しているか、ということに関しても、陰山氏は答える必要があろう。しかも陰山氏は《一言でいえば、ディスプレー依存症にかかっているのだ》といっている。安易に「依存症」という言葉を使わないほうがいい、と言っておく。

 二段落目、陰山氏は《音読なみに脳を活性化させる親子の対話や言語能力の獲得に必要な読書の時間を食ってしまっていることは間違いない》と、これまた断定的に語っているのであるが、影山氏の文章から見えてくるのは、学力低下は「脳」の異常から起こっている、と陰山氏が考えていることだろう。しかし、例えば音読や対話や読書が「どのように」脳を活性化するのか、またテレビの視聴やゲームなどが「どのように」脳を活性化しないのか、ということを、陰山氏はそのデータを提示した上で説明する必要があるのではないか。

 しかも陰山氏は、自らの思い込みに固執するあまり、事実誤認をやらかす。それが、《最近起きた佐世保や寝屋川の事件》に関する認識である。例えば佐世保の事件に関しては、この事件の犯人と被害者が、学校の中でも常に顔を合わせている関係であり、しかもチャットでも頻繁に言葉を交し合っていた、ということは報道などから明らかになっているのだが、陰山氏など、この事件を「ゲームの悪影響」なるものと絡めて語りたがる人たちは、前者をさも「なかったもの」として、後者をセンセーショナルに取り上げることが多い。寝屋川の事件に関しても、多くの報道は「ゲーム」だとか「ひきこもり」だとかをセンセーショナルに採り上げたけれども、それらはマスコミがパブロフの犬の如く反応する「しるし」に過ぎなく、例えば精神科医の斎藤環氏はこの事件に関して「ゲームの悪影響」を語ることは問題だ、としている(「週刊朝日」平成17年3月4日号)。いずれにせよ、これらの象徴的事件だけを引いて、ゲームやテレビが子供に悪影響を及ぼす、と断定してしまうのは、危険といわなければならないが、陰山氏はそこをわかっているのだろうか。そもそも、我が国において、少年による凶悪犯罪は、ゲームがなかった頃に比べて著しく減少しているのだが、そのことに関しても陰山氏は考慮する必要があろう。

 陰山氏の文章は、他の部分はおおむね理解できるのに、なまじこの部分によって俗流若者論に堕してしまっているのが気がかりだ。陰山氏は、徒にゲームを敵視するのではなく、それを子供を巡る環境の多層的なファクターとして正確にとらえて、その上で議論をしていただきたい。さもないと、森昭雄や正高信男の如き疑似科学に足をすくわれることになろう(既にすくわれているのかもしれないが)。

 参考文献・資料
 陰山英男[2005]
 陰山英男「「学力低下」世代が教師になる日」=「文藝春秋」2005年5月号

 苅谷剛彦、志水宏吉(編)『学力の社会学』岩波書店、2004年12月
 斎藤環『ひきこもり文化論』紀伊國屋書店、2003年12月
 谷岡一郎『「社会調査」のウソ』文春新書、2000年5月
 広田照幸『教育言説の歴史社会学』名古屋大学出版会、2001年1月
 パオロ・マッツァリーノ『反社会学講座』イースト・プレス、2004年5月

 岩川直樹「誤読/誤用されるPISA報告」=「世界」2005年5月号
 佐藤学「「改革」によって拡大する危機」=「論座」2005年2月号、朝日新聞社
 佐藤学「劣化する学校教育をどう改革するか」=「世界」2005年5月号、岩波書店

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俗流若者論ケースファイル17・藤原智美

 今回も俗流脳科学で申し訳ない。しかし、我が国においては、一見たわいのないような青少年問題をすぐさま「脳」の問題と結び付けてしまうような議論が後を絶たない。しかも、そのような「議論」は、大抵はただ不安を煽るだけの議論であり、論理的に穴ばかりの文章だらけであることが多い。しかし、そのような「議論」が、多くの新聞や雑誌で好意的に取り上げられ、多くの「読者」が納得してしまうのはなぜだろう。そのような倒錯の存在を野放しにしておいていいのか。

 今回検証するのは、作家の藤原智美氏による「目をつむれない子どもたち」である。この文章は「文藝春秋」平成17年5月号の教育特集に掲載された文章であるが、この文章もまた、ただ「実例」ら敷物を出して読者を不安に陥れるだけの文章で、さらに、この手の文章では往々にしてよくあることではあるが、その原因をすぐさまゲームだとかインターネットだとかに結びつけたり、このような「異常な脳」を持った子供たちが成長したときを想像してもらいたい、と煽っている。この書き手に、書き手としての良心はないのか。蛇足であるが、そういえば東京都の石原慎太郎氏が「衝撃の現代若者論」と題し、本当に(別の意味で)衝撃的だった論文「仮想と虚妄の時代」が掲載されたのも「文藝春秋」5月号だった(石原慎太郎[2005])。これは偶然の一致だろうか。

 藤原氏は冒頭で、《目をつむれない子と奇妙な絵》(藤原智美[2005]、以下、断りがないなら同様)など、「実例」らしきものを提示する。例えば、310ページにおいて、藤原氏は《レッスンは昼下がりに始まった。子どもたちが神妙な顔つきで席についていた。小学校の受験にそなえて、母親と教室へやってきた三人の幼児たちだった》と書き始めるけれども、これがどこの幼稚園、あるいはどこの保育園で行われたものであるかどうかはわからない。小学校(おそらく私立であろう)の受験を受けるというのだから、おそらくその親は経済的に恵まれた層であり、また親も(歪んだ意味で、ということもあるが)「教育熱心」な親である可能性も高い。これはあくまでも私の推測なのであるが、このような環境であるから、「早期教育」と題してかなり無理な詰め込み教育をやらされている場合もあるかもしれない。少なくとも、藤原氏が提示するこのような「事例」は、そのようなことを頭に入れて読む必要がある。

 また、藤原氏は311ページにおいて、《今、幼児のなかにひどく奇妙な絵を書く子がいる。自分や母親を描写したのだが、腕を描き忘れるのだ。そればかりか首もない。なかには足さえも忘れる子がいる。三角形の胴体に顔だけの自画像である。まるで積み木を重ねたような人間だ》といった「事例」を提示する。藤原氏は《今、幼児のなかにひどく奇妙な絵を書く子がいる》と書いているのだから、《ひどく奇妙な絵を書く子》が昔と比べていかように増えたのか、ということを提示する必要があるのではないか。それにしても《まるで積み木を重ねたような人間だ》と藤原氏は表現しているけれども、このような絵は(さすがに手や足がない、というのは少なかったけれども)結構多く見た経験がある。子供(幼稚園児あたりを考えていただきたい)が胴体を三角形に描いて、その上に顔を書くような絵は、結構あるのではないだろうか。

 311ページ、藤原氏は《西宮(筆者注:西宮レクタス教育研究所。藤原氏は、この研究所がどういう性格を持った研究所であるか提示していない)でも、福岡(筆者注:この引用文の直前にある《福岡県のある小学校》。都市部なのか郊外なのか山間部なのかわからない)でも起こっていることは、全国で起こっていると考えるべきです。いま子どもたちがおかしくなっている。社会が早く気づかないと、大変なことになります》という、誰が言ったのかわからない(ひょっとしたら藤原氏の捏造かもしれない)コメントを引く。仮にこれが藤原氏の捏造ではないとして(もう少し突っ込んで言うと、藤原氏の提示する「事例」もまた捏造の可能性があるのではないか)、藤原氏が実際に取材の過程でこのようなことを聞いたのなら、アカデミズムの立場であっても、ジャーナリズムの立場であっても、まず疑うのが筋ではないか。実証的な検証もなく、《全国で起こっていると考えるべきです》《いま子どもたちがおかしくなっている。社会が早く気づかないと、大変なことになります》という言葉を垂れ流してしまう、ということは、藤原氏の文章は、この点で明らかに「大本営発表」に堕している。

 藤原氏は、文章も始まったばかりの311ページにおいて、大きなヘマをやらかす。同じページの2段目の終わりから3段目にかけて、藤原氏は《小中高の教育については、いたるところで声があがり議論が沸騰している。校内暴力とイジメ、そして不登校が問題になったのは80年代だった。現在はもっぱら学力「低下」と安全がテーマとなっている》と述べるけれども、これは正しい。しかし、藤原氏は《筆算で使う円周率が3.14から3でも良いとなったのは、子どもの計算力が落ちたからだといわれている》《なぜ幼児の有様が問題とされなかったのか。OECDが世界の五歳児の「学力」調査を実施しないからか、幼稚園児が園内暴力で注目されたり、「不登園児」が社会問題にならないからだろうか》などと書いてしまう。嗤うべし。まず、前者に関しては、《子どもの計算力が落ちたからだといわれている》と言うけれども、藤原氏はその根拠を示すべきだ。後者に至っては、藤原氏は幼稚園は、我が国においては義務教育ではないということを忘れているようだ。それにしても《園内暴力》《不登園児》なんてものが存在するのだろうか。もし存在するのであれば、幼稚園すらかくも息苦しい空間になっているのか、ということを衝かなければならないはずだが。始まってまだ1ページなのに、ここまで誤認と偏見と疑惑の頻出する文章を、文春の編集部は放置しておいていいのか。

 これ以降も藤原氏は「実例」らしきものを続々と提示するけれども、結局のところこれらの「実例」はただただ不安を煽るだけの叙述である、それが全国的な傾向なのか、ということは結局わからずじまいだ。そして藤原氏は、313ページにおいて、《原因はどこにあるのか?すぐに思い浮かぶのがテレビ、ビデオ、ゲームといった映像機器である》とぶち上げてしまうのである。やはりそうきたか!しかもこの直後、藤原氏は《「ゲーム脳」という言葉を耳にすることも多い》と著述してしまう。《ゲーム脳》!この疑似科学が、専門家からは総スカンを食らい、良心的な臨床家や評論家からは冷笑の的にしかなっていない、いうなれば「曰くつき」の疑似科学であることを、藤原氏は知っているのだろうか。例えば、「ゲーム脳」理論の批判者の一人である精神科医の香山リカ氏は、この「ゲーム脳」理論について述べた、この「ゲーム脳」理論の伝道者である日本大学教授の森昭雄氏の著書『ITに殺される子どもたち』(講談社)の文章における、《本文中、例えばケータイのメールでは「ゲーム脳と同じか、よりひどい状態」になっている、といわれる》(香山リカ、森健[2004])という記述に関して、香山氏は《ところが、ネットに関してはデータがないのか、著者の見解もまとまっていないのか、「ゲーム脳」状態になっているとは言われていない。ただ「人と人との社会的な結びつきとは、直接、ひんぱんに連絡を取り合う結びつきのことなので、ネットのバーチャル・コミュニティではかえって社会性が欠落する」といった感想が述べられているだけにとどまる》(香山・森前掲書)と記述した上で、《しかし、こういった著者の個人的な感想や印象と、誤っているにはせよ、とりあえず科学的には見える「ゲーム脳」の議論とが、それこそ「現実とバーチャルの混同」のように入り混じりながら展開されている》(香山・森前掲書)と反駁している。このような香山氏の批判は、他の多くの「ゲーム脳」ないしそれに酷似した疑似科学の伝道者に当てはまる。藤原氏も然りである。

 事実、藤原氏は《けれどこのゲーム、そしてテレビ、ビデオが、子どもの認知力にどのような影響をおよぼしているのか、はっきりしたことはわかっていない》というけれども、その後に続く言葉は《けれど確かに、幼児の背丈を凌駕するほどの大画面化したテレビを目の当たりにすると、やはり子どもの視覚に何らかの影響があるのではないか、という心配も分からないではない》だとか(《幼児の背丈を凌駕するほどの》テレビなど、買える家庭がどれくらいあるのだろうか、ということは、近くの電気屋に行けば簡単に思いつく疑問ではないか)、あるいは幼児の発達に関する一般論を述べるのだが、藤原氏は、最後まで現実の子供の脳の状態に関して、一言も述べないまま、ただ「今時の子供は脳が異常だ」という前提で話を進めてしまうのである。正気の沙汰だろうか。藤原氏は、そのような論理の運び方もまったく使わずに、ただただ一般論を述べるだけで、結局のところ解決策を示すことはない。この文章が6ページの論文であるとはいえ、この論理はあまりにも暴力的ではないか。

 しかも藤原氏は316ページにおいて、《もう一つ気になることがある》として、以下のように叙述する。曰く、

 ぼくは1955年に生まれた、一人遊びも群れ遊びも存分に経験した。幼稚園は半年しか行かなかった。病欠したまま中退してしまった。それでも南野不自由も孤独感も感じなかったのは、群れ遊びがあふれていたからだ。一日の多くを屋外ですごした。

 現代日本の子供には、この群れ遊びが見事なまでになくなっている。ことに埼玉・東京の連続幼女殺人事件を発端に、神戸の酒鬼薔薇事件以降は、子どもを被害者とする事件の連続的な発生で、子どもの姿が町から消えている。群れ遊びの場がない。

 それは子供の発育にきわめて大きな歪みを与えている気がする。他者とのコミュニケーションと言葉の発達は、この群れ遊びを通じてもっとも培われる。

 いい加減にしてくれ。このような議論は、結局のところ藤原氏の個人的な体験を何の抵抗もないまま一般論として拡大解釈しているだけであって、それがどこまで一般性を持つか、ということはわからない。そもそも藤原氏は過去との比較をまったくせずに、現在の「衝撃的な」事例を提示するだけで、現在の子供たちが過去と比べて劣っている、と述べてしまうのだから、藤原氏の言論に対する倫理観が問われよう、というものだろう。

 ちなみに藤原氏は、後のほうで《ここでいう群れ遊びとは、大人がまったく介在しない「遊び」の時間のことだ》と述べた上で、《保育園や幼稚園の教室でのお遊びは、群れ遊びとは本質的に異なる。子どもは大人の存在に、大人以上に敏感である。なぜなら自分が大人の保護がなければ最終的に生きていかない存在であるということを、「本能的に」知っているからだ。であるからこそ、その大きな存在からはなれたところで……独自の世界をつくる、群れ遊びの役割が大きくなるのだ。それは保護からいったんはなれる「冒険」であり、擬似的に自立を訓練する時間である》と、倒錯した議論をしてしまう。どのように倒錯しているかというと、藤原氏はここまで断定的に語っていながらも、ここで述べられている《群れ遊び》が子供に対していかに心理的な影響を及ぼしているか、そしてそれは《保育園や幼稚園の教室でのお遊び》とどう違うのか、ということをまったく述べることもなく、ただただ《群れ遊び》を絶対善として、《保育園や幼稚園の教室でのお遊び》が自立を促さないものである、と断定しているのである。藤原氏の目に学校教育(義務教育)というものは存在しないのか。

 藤原氏は最後のほうで、《ぼくはレクタス教育研究所の正司さんが最後にいった言葉が忘れられない》として、その言葉を引用する。曰く、《10年まえの子どもたちが、いまここにいたら全員天才児です。それくらい今の子はかつてできていたことが、まったくできなくなっている》と。私は1984年生まれで、執筆時は20歳であるから、私は《10年まえの子ども》の範疇に入るのだろうが、その立場からしても、この言葉は私にとって忘れられない言葉であった。ただし、藤原氏とは別の意味で。なぜなら、このような物言いを過去の事例との提示もないまま言ってしまう、ということが(藤原氏が問い質さなかった、ということも原因なのだが)、このレクタス教育研究所の立場というものを如実に表しているような気がしてならないのだ。

 最後に藤原氏は、このような恐ろしいことを述べる。曰く、《あと20年もすると、そんな幼児たちが成長し、あなたのオフィスの隣の席でパソコンにむかっているかもしれない。そのとき、あなたはどんな話ができるだろうか》と。私は藤原氏に《どんな話ができるだろうか》と苦笑してしまった。なぜなら、藤原氏は、今の子供たちが少しも成長しないまま(あるいは彼らの脳が改善されないまま)大人になって、社会を脅かす、と本気で考えているからだ。藤原氏はここで残酷な認識を易々と披露していることになる。すなわち、今の子供たちは「異常」だから大人になっても「異常」だ、と。

 藤原氏は316ページから317ページにかけて、《幼児の脳が市場化したのだ》として、早期教育を批判する。しかし、ほかならぬ藤原氏の如き言説が、幼児の脳の市場化を促したのである。つまり、子供たちの「凶悪化」だとか「劣化」を嘆くような言説の横行が、世の中の親たち(特に高学歴の親たち、さらに言えばいわゆる「教育ママ」)の不安を増大させ、我が子だけはそういう風にさせまいぞ、という「世論」が増大し、それによって子育てのマニュアルが増大した。そして、子育ての「失敗」が残酷な少年犯罪をもたらす、と国家のレヴェルで平然と語られるようになり、子育ての「失敗」は許されざる愚行となった。東京大学助教授の広田照幸氏は、そのような言説を《多くのマニュアル本やきじは、微妙なやり方で、親たちの不安をつのらせる。「こうしなさい、そうすればきっとうまくいく」という、断定的な口調の裏側にあるのは、「もしこうやらないと、子育てに失敗して、とりかえしのつかないことになりますよ」という、隠れた恫喝を含んでいたりするからである》(広田照幸[2003])と分析しているけれども、結局のところこのような言説の横行は、「今時の「異常な」子供たち」というステレオタイプが背景にないと成り立たないだろう。

 藤原氏の言説は、極めて断定的であり、しかも残酷だ。このような「不安」の扇動が、結局のところ藤原氏が批判する早期教育の横行を許すような言説と同様の文脈で受容されてしまうのは避けられないところであろう。この文章で最も藤原氏が示すべきことは、その解決策だった。しかし藤原氏は、結局のところ自分の「想い出話」を語るだけで、現在の子供たちを「敵」あるいは「エイリアン」「モンスター」として切り捨てて、あいつらは俺たちとは違うんだ、という感情を増幅しているとはいえまいか。もし、現在の子供たちが数年後に、早々問題も起こさずにそれなりに個性的に成長したら、藤原氏は大人としてどのように身を処するのか。

 ちなみにこの文章の中ごろを書いているとき、私の傍らのCDラジカセから声優の皆川純子氏が歌う「TRUTH」という曲(皆川氏のアルバム「アイコトバ」(キングレコード)に収録)が流れていた。この曲は皆川氏の作詞であるのだが、その中に《大人になればなるほど 大切な感情(もの)が零れてく》というフレーズがある。藤原氏は、「世間」に迎合して現在の子供たちに対する敵愾心を垂れ流す「大人」になることで、大切なこと、すなわち自分の体験を過度に一般化しないことや、巷で流れている「危機」言説を鵜呑みにしないことを忘れてしまっている。藤原氏は、社会的に責任のある大人として、自らの言説の危険性をもう一度見直していただきたい。

 参考文献・資料
 石原慎太郎[2005]
 石原慎太郎「仮想と虚妄の時代」=「文藝春秋」2005年5月号、文藝春秋
 香山リカ、森健[2004]
 香山リカ、森健『ネット王子とケータイ姫』中公新書ラクレ、2004年11月
 広田照幸[2003]
 広田照幸『教育には何ができないか』春秋社、2003年2月
 藤原智美[2005]
 藤原智美「目をつむれない子どもたち」=「文藝春秋」2005年5月号、文藝春秋

 市川伸一『考えることの科学』中公新書、1997年2月
 笠原嘉『アパシー・シンドローム』岩波現代文庫、2002年12月
 苅谷剛彦、西研『考えあう技術』ちくま新書、2005年3月
 斎藤環『心理学化する社会』PHP研究所、2003年10月
 佐々木正人『知性はどこに生まれるか』講談社現代新書、1996年12月
 日垣隆『現代日本の問題集』講談社現代新書、2004年6月
 パオロ・マッツァリーノ『反社会学講座』イースト・プレス、2004年5月

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2005年4月24日 (日)

俗流若者論ケースファイル16・浜田敬子&森昭雄

 どうも最近の傾向として、青少年問題を「脳」と結び付けて考えるのが流行っているらしい。特にその「脳」に対して悪影響を及ぼすのが、一様にテレビだとかゲームだとか携帯電話だとかに傾いているのもまた不思議である。このような短絡した考え方が広まったのは、過去にも何度かあるのだろうが、特に最近のものとしては、例えば北海道大学教授の澤口俊之氏が「今時の若者」の「問題行動」を前頭葉の異常と強引に結びつけたりとか、あるいは上智大学名誉教授の福島章氏が事件を起こした少年犯罪者に脳の異常が見られた、ということを喧伝してから起こったと思う。これらの議論に関しては、例えば評論家の宮崎哲弥氏や精神科医の斎藤環氏などが集中的に批判しているけれども、これらの議論が受け入れられる基盤はどうやら磐石であるようだ。また、彼らは「今時の若者」の「脳」については易々と語るのに、それ以上に問題のある人物、例えばブッシュや金正日や小泉純一郎の「脳」にはまったく触れない。そのあたりの「政治的配慮」は得意なのだろう。

 そのムーヴメントの中心にいるのが、曲学阿世の徒、日本大学教授の森昭雄氏であることには疑いはないだろう。過去に森氏を批判したときにも述べたが、森氏は平成14年に『ゲーム脳の恐怖』なる本を出版し、大々的なゲーム批判を呼び起こした。滑稽なのは、その出版にあたって一部の新聞や雑誌がそれの宣伝と見られても仕方がない記事を書いたことだ。私の記憶している限りでは、そのような行為を行なったのは毎日新聞と、朝日新聞の週刊誌「AERA」であるが、今回はその「AERA」の宣伝記事を検証してみよう。この記事の執筆者は、同誌編集部の浜田敬子氏である。記事のタイトルは「TVが子供の脳を壊す」(平成14年7月15日号掲載)。衝撃的だ。記事の内容はそれにも増して衝撃的だが。

 冒頭、浜田氏は、兵庫県朝来町立山口小学校教諭(当時)の陰山英男氏が、《授業中に視線が宙を浮遊するようにボーッとしたままの子がクラスに3、4人は残る。そういう子は、テストでたまに90点をとっても、次はガタッと落ちるし、忘れ物も多い》(浜田敬子[2002a]、以下、断りがないなら同様)ことに関して、《陰山英男さんが、彼らの共通点に気付いたのは、ある生徒を家庭訪問したときのこと。昼夜問わず、いつ訪れても大音量でテレビがつけっぱなし。効果が上がらない生徒たちは、例外なく1日2時間以上テレビを見ていた》ということを紹介し、浜田氏もそれに同調しているようだ。しかし、陰山氏及び浜田氏に問い質したいのは、効果が上がっている生徒に関してもテレビの視聴時間を計測したのだろうか、ということである。そのようなデータもなしに、陰山氏の「実感」(事実、浜田氏は、後に《「死長時間が1時間半を超えると、基礎学習のプラス効果が相殺される気がする」と影山さんは「実感」している》と書く)がさも正しいものであるかのように論ずるのは、科学的なことを記事化する者としての資質を書いている、といわれても仕方がないだろう。

 もう一つ、浜田氏は、陰山氏がらみに関して言うと、《影山さんの、「これではテレビ学校に通っている状態(筆者注:ベネッセ教育総研によると、小学5年生の平日のテレビの平均視聴時間は162分であるという。休日などの影響を考えて計算すると1年で約730時間になり――浜田氏の試算。1日2時間として計算している――学習指導要領で定められている授業時間=700時間を上回る)。その影響力に授業が勝つには時間制限しかない。テレビを見ないようにできたら、学力向上の半分は達成できたと同然」と言う言葉には説得力がある》と書く。残念ながら、説得力はない。というのも、もしそれが正しいのであれば、陰山氏が事例として出している《3、4人》どころでは済まないからだ。しかも、どこまでもテレビ視聴時間以外の実例がなく、ただ不安だけ絵を煽る文章になっている。また、これが正しいなら、子供たちは休日や長期休暇を境に一気に学力が低下してしまうはずだ。しかし陰山氏は強気ならしく、最近「ディスプレー症候群」なる珍概念を発明してしまった。そして、公明党の国会議員である池坊保子氏が平成17年3月15日の「青少年問題に関する特別委員会」でこの珍概念を使っている(ちなみに池坊氏は、同委員会の理事である)。

 閑話休題、浜田氏の記事の検証に戻ろう。浜田氏は9ページの(ちなみにこの記事は巻頭記事である)4段目から5段目にかけて、東北大学教授の川島隆太氏の《テレビが子供の能に及ぼす影響についての科学的なデータはまだ世界的にもない。子供の脳がどう発達していくかの研究もこれから》というコメントを引くけれども、そのような事実はお構いなしで、しかし科学的な実証に裏付けられたわけではなく、ただ「実感」だけで話を進めてしまっているのである。ちなみにこの記事において採り上げられている学者である、清川輝基(NHK放送文化研究所専門委員)、片岡直樹(川崎医科大学教授)、澤口俊之(北海道大学教授)、そして森昭雄(日本大学教授)の各氏は、特に「ゲーム脳」の批判者から極めて問題の多い学者であると指弾されている。

 さて、浜田氏は9ページの5段目から10ページの2段目にかけて、片岡氏が診断した子供について触れている。これらに関して、浜田氏は、《テレビ・ビデオ漬けの生活で、「新しいタイプの言葉遅れ」が増えていると感じる》という片岡氏の言葉を引くけれども、これも結局は片岡氏の「実感」に過ぎず、《新しいタイプの言葉遅れ》と《テレビ・ビデオ漬けの生活》が有意に相関関係にあるのか、ということに関する実証的な研究の有無を浜田氏は問い質すべきだろう。しかし、浜田氏はそのようなことをせず、ただただ片岡氏などに同調してしまう。

 さて、ここからが本番である。浜田氏はついに『ゲーム脳の恐怖』について語りだす。しかし面白いのは、浜田氏が「ゲーム脳」に関して語り始めたはじめのほう、10ページの最後から11ページの最初にかけて、《実験のきっかけにもなった、脳は測定器の開発担当者は全員、脳の前頭前野が活発に活動している際に出るβ波がほとんど出ていなかった。1日じゅう画面に向かって座り、だれとも口をきかず、指先だけ動かす状況はゲーム時と酷似している。相手がパソコンでも、「劣化」は起きていたのだ》と語ってしまうことである。だったら、そのような人が作った人が作った計測器自体、信用できないではないか。また、浜田氏は《ゲーム時と酷似している》状況を《1日じゅう画面に向かって座り、だれとも口をきかず、指先だけ動かす状況》と書いているけれども、よほどジャンキーなゲーマーでない限り、そのようなことは絶対無いだろう。

 この記事においては、なんと浜田氏も森氏の「診断」を受けてしまう。その結果、浜田氏の脳は、《典型的なビジュアル脳(筆者注:森氏は「ノーマル脳」「ビジュアル脳」「半ゲーム脳」「ゲーム脳」の4つの分類を用いている)》だったという。浜田氏は《テレビは見るが、ゲームはしないのに…》と嘆くけれども、《1日数時間パソコンに向かっていれば同じ》と言われて納得してしまう。ここで浜田氏は疑問を挟まなかったのだろうか。どうしてテレビやゲームよりも、パソコンの影響のほうが「弱い」のか、と。おそらく浜田氏は1日数時間パソコンに向かっているのだろうが、それによる脳の「劣化」の度合いが《ビジュアル脳》止まりだというのは、どう考えても不可解ではないか。浜田氏は、10ページの上のほうで、パソコンに関して《ゲーム時と酷似している》と述べているのに。これでは「大本営発表」ではないか。

 しかし浜田氏は止まらない。浜田氏は、「AERA」の平成14年10月7日号において、さらに「携帯メールが脳を壊す」なる記事を書いてしまい、しかもここにも森氏が登場しているのだ。

 浜田氏は、《ゲームもせず、テレビもほとんど見ないのに、なぜか「ゲーム脳」という男子大学生がいた。聞けば、1日に携帯メールを2時間以上。友達との会話のほとんどがメール、という生活だった》(これ以降は浜田敬子[2002b]、以下、断りがないなら同様)と書いている。この1例だけで、携帯電話の使いすぎが「ゲーム脳」を招く、というのは至極短絡的だろう。しかもこの後、浜田氏は《携帯メールは、文章を作るので一軒頭で考えているようですが、実際は挨拶程度や単語の羅列に近く、文章とはいえないものも多い。文字を画像として認識し、反射的にボタンを押しているから、テレビゲームに近いんです》という森氏の言葉を引いているけれども、結局のところこれは単なるステレオタイプに過ぎないのではないか。蛇足だが、森氏は同じステレオタイプを、2年半年後に「潮」の平成17年4月号で性懲りもなく書いている(森昭雄[2005])。

 しかも面白いことに、浜田氏はその直後に《1日10時間メールをするという女子高生は、ゲーム経験がないのに「半ゲーム脳」》と書いてしまう。しかし、この直前の男子大学生に関する記述と照合すれば、《2時間以上》では《ゲーム脳》になるが、《1日10時間》だと《半ゲーム脳》に過ぎない、という結果が導き出されてしまう。24時間なら《ノーマル脳》なのだろうか。しかし、浜田氏は、そのようなことに関してまったく考えていないようだ。さすが「大本営発表」、浜田氏はほとんど森氏の広告塔と化している。

 さらに浜田氏は《中には1日にテレビを1、2時間、ゲームも1時間、携帯メール1時間という電子メディア大好きの女子高生もいたのだが、以外にも「ノーマル脳」。ゲーム脳や半ゲーム脳だった子との違いは、メール以外にも友達と直接しゃべる時間が長いという点だった》という記述も持ってくる。「ゲーム脳」に関して、浜田氏は混乱しなかったのだろうか。ここまで結果に違いが見られると、むしろ浜田氏がよって立つ「ゲーム脳」理論は崩壊してしまうと考えるのが自然ではないか。浜田氏は《逆にメールやゲームをやっていても、それ以上に他人と直接会話をしていれば、その間前頭前野も働くから、影響が小さい》という森氏の言葉を引くけれども、私はそのように自信満々に語る森氏に対して気色の悪さを覚える。

 もう一つ、浜田氏は平成14年10月7日号の記事、すなわち「携帯メールが脳を壊す」の17ページ3段目において、《記憶力のテストもした。6桁の数字を1秒表示して、何人が覚えているか。100人中ほとんどの生徒が覚えられなかった》というけれども、《100人》なんてどこから出てきた数字なのだろうか。それを示す記述がまったく見当たらないのが不思議である。

 これほどまでに矛盾と誤認の多い「ゲーム脳」理論なのに、浜田氏はそれをまったく疑おうとしない。それが理由なのだろうか、浜田氏の記述には、かなりの論理的な混乱が見られる。結局のところ、このような駄文が生まれてしまう最大の背景には、浜田氏が青少年問題の「原因」を「脳」に過剰に求めている、ということが挙げられよう。しかし、「今時の若者」の「問題行動」を大々的に採り上げ、それらを「脳」の問題として処理してしまうことは、本当に脳に障害の持った人に対する差別につながらないか。

 この点においては、「TVが子供の脳を壊す」に寄せた、宮崎哲弥氏の批判的コメントが最も浜田氏の2本の記事の問題点を言い当てている。

 あのね、テレビ有害論っていうのは、私がガキの頃からあったの。いま猖獗を極めている「学力低下」不安に乗じて、ちょっとばかし有名になりたい、小金を稼ぎたい学者どもが、大昔のテレビ有害論をヴァージョンアップして持ち出しているんやろ。

 テレビを長時間視聴すると言語能力が発達しない?私は母子家庭で一人っ子だったため、物心がつく頃からテレビ漬けの幼少期を過ごした。で、いま言葉で商売しておりますが何か?

 「AERA」ってのは不安煽り産業なのかね?(宮崎哲弥[2002])

 我が国においては、もはや「脳」は人体の器官ではなくイデオロギーである。「脳」が人間性を規定し、人間の社会性を規定し、そして社会を規定する。「脳」の「健康」を脅かすもの、例えばゲームや携帯電話などは「敵」として排除され、その影響を受けた者は「ゲーム脳」などの大義名分において「廃人」扱いされる。そのような状況に、まったく異議を挟まないマスコミが百鬼夜行し、「善良な」人たちの排外的共同体の下で大々的なゲーム狩り、携帯電話狩りが行なわれる(現実にはゲーム、携帯電話そのものではなく、むしろその影響を受けた者が狩られる)。こうして、人々が「正しい」脳という幻想に駆り立てられる一方で(ダイエット幻想と同じであろう)、差別思想もまたはびこる。このような状況が収まるのを座して待つか、それとも科学と市民の良心で各個撃破していくか。

 参考文献・資料
 浜田敬子[2002a]
 浜田敬子「TVが子供の脳を壊す」=「AERA」2002年7月15日号、朝日新聞社
 浜田敬子[2002b]
 浜田敬子「携帯メールが脳を壊す」=「AERA」2002年10月7日号、朝日新聞社
 宮崎哲弥[2002]
 宮崎哲弥「網だな倶楽部 宮崎哲弥の週刊誌時評」第29回「そんなウブなガキがいるかぁ」=「論座」2002年9月号、朝日新聞社
 森昭雄[2005]
 森昭雄「“ゲーム脳”に冒される現代人」=「潮」2005年4月号、潮出版社

 笠原嘉『アパシー・シンドローム』岩波現代文庫、2002年12月
 斎藤環『心理学化する社会』PHP研究所、2003年10月
 ロルフ・デーゲン、赤根洋子:訳『フロイト先生のウソ』2003年1月、文春文庫
 広田照幸『日本人のしつけは衰退したか』講談社現代新書、1999年4月
 パオロ・マッツァリーノ『反社会学講座』イースト・プレス、2004年5月

 大和久将志「欲望する脳 心を造りだす」=「AERA」2003年1月13日号、朝日新聞社
 佐藤修史「バカへの恐怖 脳磨きに励む」=「AERA」2004年9月27日号、朝日新聞社
 瀬川茂子、野村昌二、宮嶋美紀「B型をいじめるな」=「AERA」2005年1月24日号、朝日新聞社
 田岡俊次「痩せ願望は現代の纏足だ」=「AERA」2002年9月9日号、朝日新聞社
 鷲田清一「「正しい声」「正しい体」の危うさ」=「中央公論」2002年11月号、中央公論新社

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俗流若者論ケースファイル15・読売新聞社説

 千石保氏が所長を勤める「日本青少年研究所」の調査結果が発表されるたびに、特に読売新聞はそのネガティヴな結果を大々的に取り上げる。しかしその調査を仔細に読んでみると(同研究所のウェブサイトには、詳細な結果が一部公開されている)、問題設定はその時々のカレントな問題を中心に採り上げていることが多く、中には意図的に我が国の青少年に対する不安・不信を煽ろうとしているのではないか、というものも目立つ。ただ、我が国において、青少年に関するゴミ社会調査が多い中で、少なくともサンプリングと経験だけは、その中でも数少ない、信頼できる部類にあると思う。まあ、他がゴミばかりなのであるが。これ以上まともなものといったら総務省の世界青少年意識調査ぐらいか(ちなみに「日本青少年研究所」の調査が最大でも日・米・中・韓の4カ国だけなのに対し、総務省のものはそれを大いに上回る数の国で比較している)。

 さて、今年もその結果が公表され、3月15日から16日にかけて新聞やテレビなどさまざまなメディアで話題になったが、私の見聞した多くの報道が、その結果をただ鵜呑みにして垂れ流すだけで、それに対して疑うようなことはまったくしていなかったのが気がかりだった。

 その中でも特に問題の多いものを紹介したい。平成17年3月16日付読売新聞の社説、「元気がないぞ日本の高校生」である。この社説は、《勉強が嫌い。消極的で自信がない。将来に悲観的で自分の国に誇りが持てない――。これが現代の日本の高校生気質だとすれば、あまりにも寂しい》(平成17年3月16日付読売新聞社説、以下、断りがないなら同様)という書き出しで始まるのだが、この社説を読んでみる限りでは、結局この社説子は悲しみに浸りたいだけではないのか、と疑いたくなった。

 というのも、調査の結果をそのまま嘆き、それを打開するための具体的な案は何も示していないからである。例えば読売社説子は、《日本の生徒が勉強しないことに驚かされる》《調査結果を見ると、授業態度も問題だ》などと、結局のところ単なる「憂国」だけで終わっているのである。まあ、これが新聞のまったく読み応えのない投書欄や辛口コラムだったら済まされるだろうが、これは社説である。このような「嘆き」だけで終わらせてしまう、というのは、あまりにも悲しすぎはしまいか。それしかできないようであれば、最初から採り上げるのをやめたほうがいい。記事の社会面の解説で済ませておくべきであろう。事実、読売のこの社説には、これが掲載された前日の社会面の報道以上のものがまったく掲載されていない。

 他の国との数値比較(まあ、我が国と米国、中国だけで比較するというのも問題であるが。これに関しては後で述べる)も出さないで「問題だ」と嘆いている部分もある。例えば読売社説子は《「今の生活で何でもできるとしたら、何がしたいか」の問いに、「遊んで暮らす」の答えが3か国のうち日本が一番多く、38%もいた。自分の将来を「だめだろう」「あまりよくない」と悲観的にみる生徒も16%と飛びぬけて多かった》と書くけれども、他の国との比較がないと、このような比較はまったく意味を持たない。最も勉強が必要なのは、この社説子ではないか。特に《「今の生活で何でもできるとしたら、何がしたいか」の問いに、「遊んで暮らす」の答えが3か国のうち日本が一番多く、38%もいた》という部分には笑ってしまった。どうしてそこまで問題視する必要があるのだろうか。この社説子には子供が大いに遊ぶことが「悪」であるととらえられているのだろうか。

 この中でも特に問題があるのは、《がく然とさせられるのは、「国」に対する意識のありようだ》と述べた直後の文章である。これ以降の文章を全文引用しよう。

 自国に誇りを持っているか、の質問に「持っていない」と答えた日本の高校生は半数以上に上った。国旗・国歌を誇らしく感じるという生徒は米、中ともに5割前後いるが、日本では1割強だ。

 誇りも何も感じない、という日本の生徒が国旗で57%、国家で65%もいる。1989年の調査より増えた。学校式典での国旗・国歌に「起立して礼儀を正す」ことをしない生徒は7割に上る。イデオロギー的な嫌悪感を示す教師の存在が、背景にある一つの要因ではないか。

 「愛国心」を盛り込むことに与党内からも異論が出た教育基本法改正案は、今国会への提出が見送られた。自分の国を誇りに思い、素直に愛せないのは不幸なことだ。

 調査から浮かび上がった問題点を、日本社会全体が重く受け止めるべきだ。

 嗤うべし。私が《がく然とさせられるのは》、読売新聞のあまりにも短絡的、しかも現在の状況をまったく踏まえていない認識である。そして読売のそのような認識のありようは、《日本社会全体が重く受け止めるべき》ものであると私は考えている。

 例えば《国旗・国歌を誇らしく感じるという生徒は米、中ともに5割前後いるが、日本では1割強だ》と社説子は書くけれども、この社説子は米国や中国の国歌がやけに闘争的であることを知っていて書いているのであろうか。しかも米中だけでなく、広く知られている通り、他のさまざまな国の国歌は極めて闘争的であるのに対し、我が国の国歌はそのようなことはまったく感じられない。また、例えば中国の国歌は、現在の中国共産党政権の存在意義にもなっている抗日闘争を歌っているものであるなど、その国歌は国家の成立や存立と密接に関わっているのに対し、我が国の国歌は明治時代に万葉集の一首にメロディをつけて、なし崩し的に成立させたものであるから、その歴史性を云々するのは難しい。このような基本的な認識も欠いているとは。もちろん「日の丸」に関しては、諸説あれど、その歴史性は確認できる。それでも、国旗や国歌に「跪かない」だけで「問題だ」としてしまうのは、国旗や国歌の重要性を認知しておらず、ただそれらをイデオロギー闘争の道具としてしか使用していないことの証左ではないか。もう一つ、《1989年の調査より増えた》と言っているけれども、どれくらい増えたのか見せてくれ。それにしても私が意外に思ったのは、米国や中国の国旗や国歌に対する意識の低さである。《5割前後》というのは、私の予想に比べてやや低かった感がある。

 《学校式典での国旗・国歌に「起立して礼儀を正す」ことをしない生徒は7割に上る》というのも、やや疑問を感じる。というのも、《規律して礼儀を正す》というのが、2重の質問になっているからだ。例えば、起立はするけれども、別に礼儀を正すようなことはしない、というのであれば、それはこの範疇には入らない。そんなことも考えずに、《イデオロギー的な嫌悪感を示す教師の存在が、背景にある一つの要因ではないか》とあっさりと述べてしまうとは…。

 この文章の後、唐突に《「愛国心」を盛り込むことに与党内からも異論が出た教育基本法改正案は、今国会への提出が見送られた。自分の国を誇りに思い、素直に愛せないのは不幸なことだ》と切り出してしまう。しかし、この文章が出てくる文脈も、またこの文章の内容にも、論理飛躍がある。例えば、教育基本法の操作だけで、青少年に「国家」に対する誇りを持たせられるか、といえば私の答えは即刻「否」である。なぜか。それは、読売の社説子他、教育基本法に「愛国心」を盛り込むことに賛成する人たちの考える「国家」とは、結局のところ彼らの幻想の中にしかない「国家」に過ぎないからである。その最大の証左として、彼らは「今時の若者」の「問題行動」の「原因」を「国家」の不在、乱暴に言えば彼らの共同幻想としての「国家」に「今時の若者」が幻想を抱かないことに転嫁していることが挙げられよう。実態としての国家は歴史と現在の上に存在する。自らに都合の悪い歴史を排除した「歴史」のみの上に成り立つ「国家」など幻想でしかない。

 このような記述は、はっきり言って単なるイデオロギー闘争の視点からしか書かれていない。すなわち、自らの信奉するものは何でも「善」であり、それに少しでも従わないようであればすぐさま「問題」のレッテルを貼り付けてしまっているのである。しかし、このような結果が生まれた背景をろくに考えもせず、ただ単に「問題」と騒ぎ立てているようでは、社説としての責任を果たしているのか、と疑問を投げかけられても当然であろう。

 もう一つ、我が国の国歌に関して、もう「政治的な」文脈で語るのはやめよう、とする興味深い主張がある。明治学院大学非常勤講師の増田聡氏は、例えば精神科医の香山リカ氏に代表されるような、現代の若年層が君が代を「屈託なく」歌うことに関して排外的ナショナリズムの対等を危惧するような言説に関しては、そのような論理は《旧世代の政治的な枠組みからのものでしかない》(この段落に関しては、全て増田聡[2005])と批判した上で、《むしろ君が代の「現在」が示すのは、そのような「二者択一的な政治意識」そのものを批判する、若い世代の社会意識なのではないだろうか》と言い、《君が代が明治期の対外儀礼で必要とされ……生まれたのとまったく同じように、……「グローバルな他者との出会い」の経験が、若者にとりあえず君が代を歌わせている。その歌唱に過剰な政治的意味を読み込んではなるまい》と論じている。面白いのは、増田氏が《今日の君が代とは、若い世代にとっては、単に「ニッポン」を指し示す音楽的記号に過ぎない》と語っているところだ。増田氏はここで引用した論文の冒頭で、君が代の歴史に関しても触れているのだが、君が代が明治期の「天皇礼賛」の意味も、戦後の教育イデオロギー闘争としての意味もまったくなくなった現在において、そのような文脈において君が代が歌われるのは、むしろ歴史的必然ではないか。このような正確な歴史認識・現状認識が、良心的な音楽社会学者と、イデオロギー闘争に明け暮れる新聞人を分かつ。

 閑話休題、結局のところ読売の社説は、現在の青少年を嘆いてみせるだけで、なんら具体的な対策を示していないばかりか、青少年に対する認識も誤解の多いものであることを自ら証明してしまっている。しかし、もう一度述べるけれども、社説とは重要なオピニオン形成の役割を持っており、それゆえ執筆にも責任が必要である。「憂国」しかできないようであれば、最初から採り上げないほうが、よほど有益ではあるまいか。論じるべき問題は他にたくさんあるのに。

 この社説は、《調査から浮かび上がった問題点を、日本社会全体が重く受け止めるべきだ》という文章で締めくくられている。しかし、《日本社会全体》なんて、どこまでを指すのだろうか?

 参考文献・資料
 増田聡[2005]
 増田聡「軽やかに歌われる君が代ポップ」=「論座」2005年5月号、朝日新聞社

 笠原嘉『青年期』中公新書、1977年2月
 谷岡一郎『「社会調査」のウソ』文春新書、2000年5月
 パオロ・マッツァリーノ『反社会学講座』イースト・プレス、2004年5月
 山本七平『日本はなぜ敗れるのか』角川Oneテーマ21、2004年3月

 内藤朝雄「お前もニートだ」=「図書新聞」2005年3月18日号、図書新聞

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2005年4月21日 (木)

トラックバック雑記文・05年04月21日

 ン・ジュンマ(呉準磨)の備忘録:私も社説批評にトライ!!アルゼンチン「借金踏み倒し=造反有理」かもよ!?
 カマヤンの虚業日記: [政治]「東アジア」的統治
 読売新聞の社説に挑戦しています。私の家でも読売新聞をとっているのですが、私の目が肥えてきたせいなのかもしれませんが、最近の読売の社説はどうもつまらない。最近では、中国の反日暴動を何度も採り上げていますけれども、どうも過去に我が国が中国に対してひどいことをした、という認識を忘れているのではないか、という気がしてなりません。もちろん、過去の侵略戦争と現在の中国の反日デモは割り切って考えなければなりませんけれども、我が国がアジア諸国に対して行った加害の事実を忘れてはならないと思います。

 読売は中国の反日愛国主義教育を批判します。そのことに関しては大賛成です。しかし、他方で読売は、現代の青少年が国旗と国歌に対して愛着をさほど持っていないことについて盛んに嘆いています。どこか矛盾していないでしょうか。私が教育基本法に「愛国心」を盛り込むことに対して最も懸念していることが、現在の中国の反日デモのようなことが起こることです。現在の我が国はある種のアノミー状態にあるので、なし崩し的に「愛国心」を教えるようになったら、かえって有害ではないか、と思うからです。

 いや、「愛国心」教育推進論者の語る「愛国心」は、むしろ「国粋主義」でしかありません。そのことをまず衝くべきではないか、と思います。

 ところで、「ン・ジュンマ(呉準磨)の備忘録」の著者から、次のようなコメントをいただきました。

 後藤さん、「オニババ化する女性たち」とかいうのにツッコミは入れましたか? 期待してるんですが(若者論とは見てない?)

 三砂ちづる『オニババ化する女たち』(光文社新書)ですか。ごめんなさい、《若者論とは見てない?》以前に、読んですらいません。このテーマに関してはまったく興味がないので、手にとることすらしていなく、「論座」平成17年2月号における、鍼灸師の田中美津氏による批判で、その内容を軽く知っているくらいです。でも、いろいろなところで話題になっているらしいので、読んでみましょうか。

 minorhythm:インスタントカメラ(茅原実里氏:声優)
 今日、仙台市の隠れた桜の名所として知られる遠見塚小学校に行ってきました。そのときの光景を、しっかりとカメラに収めてきました。

 ところで私が使っているカメラは、デジタルカメラです。しかしこのカメラは、今年の初売りで買ったものなので、それ以前は、写真を撮るときはもっぱらインスタントカメラを用いていました。しかしインスタントカメラは、フラッシュの融通が利かなかったりとか、ズーム機能がなかったりとか(当然か)、安いだけに使いづらい面もあります。そのような想い出もあり、私はほとんどデジカメを使っているのですが、茅原氏は、《でもなんか両方を比べてみると、私はもしかしたらインスタント派かも!》として、こう書いています。

 極上の笑顔でバッチリ成功した写真も、ピントがズレてたり、知らぬまにシャッター押しちゃったりして失敗した写真も、全部現像されちゃうわけです!

 だけど、その1枚1枚に写されてる一瞬がなんだかとっても愛しいんですよね☆

 「何この写真~!!最悪なんだけど~!?」

 なんて笑い合える仲間に乾杯っ♪

 こういうのもいいかな、と。

 弁護士山口貴士大いに語る:一連の美少女アニメ・ゲームバッシングについて(山口貴士氏:弁護士)
 週刊!木村剛:[BLOG of the Week]プロの書き手の正念場が来る!(木村剛氏:エコノミスト)
 木村氏のブログで、「BLOG of the Week」として採り上げられているのは、実は私の文章です。木村氏は私の文章に対して《言論の自由に関する一考》と評価してくださっています。

 ここ最近の「トラックバック雑記文」「俗流若者論ケースファイル」において、私は何回か「有害環境」「有害メディア」規制を批判してきました。しかし、このような歪んだ施策がポピュリズムとなりうるのは、要はそれを求める人がたくさんいるからに他なりません。

 そして、そんなものが受け入れられるようになる背景には、特にマスコミの影響が大きい。例えば、マスコミは「現実の女性ではなく、ゲームの中の女性にしか恋愛感情を持たない「今時の若者」」を攻撃します。しかし、だからといってそれが精神病理だとか、さらには犯罪だとか(大谷某の「フィギュア萌え族」なんてまさにこれですよね)に結びつける必要があるのでしょうか。あるいはこんな「今時の若者」ばかりだから少子化が進むのだ、という向きもあるのでしょうが、少子化の何がいけないのか。まあ、少子化のことについて言及するのは少ないですけれども。

 彼らは精神病理だとか犯罪的だとか虚飾していますけれども、結局、それらの批判は、彼らが「そう思いたいだけ」だからでしょう。精神病理云々、犯罪云々は単なる虚飾の言葉に過ぎない。底流にあるのは「気持ち悪い」という感情だけです。でも、彼らはそのような感情と同時に、多くの人とそのような感情を共有することによって、自分の気に食わない人(例えばオタク)にマイナスのイメージを与えたい、だから犯罪とか精神病理だとかいった言葉を用いているのでしょう。少々うがちすぎかもしれませんが。

 最近、ライターの本田透氏が『電波男』という本を書いたそうです。聞くところによると、なんでもこの本は「現実の恋愛は2次元の恋愛より勝っているか」ということに関して書かれた本らしいです。機会があったら手にとってみたいのですが、あいにく近くにおいている書店がないので。アニメ専門店だったら置いているだろうか?

 お知らせ。まずbk1で新しい書評が掲載されています。
 ジュディス・レヴァイン、藤田真利子:訳『青少年に有害!』河出書房新社、2004年6月
 title:「有害」排除の先に見えてくるもの
 菊池昭典『ヒトを呼ぶ市民の祭運営術』学陽書房、2004年11月
 title:真価が問われるのはこれから
 どちらもお勧めです。上は、東京都の石原慎太郎知事他「有害」規制を推し進めている人に、下は楽天の三木谷浩史社長にはぜひ読んでほしい本です。あと、三木谷氏には、来月の半ばごろに開催される「仙台青葉まつり」もぜひ見てほしい。

 また、「俗流若者論ケースファイル13・南野知恵子&佐藤錬&水島広子」「俗流若者論ケースファイル14・大谷昭宏」を公開しました。前者は本気ですが、後者は少し力を抜いています。

 また、過去の文章に以下の加筆を施しました。
 「俗流若者論ケースファイル02・小原信」について:

 《幻実が現実になると、ミッキーマウスをネズミだとは思わない》なぜ?《アキバ系の若者は現実の女性よりキャラクターグッズに「いやし」を見出すという》だと、《という》で片付けないでいただきたいものだ。しかし、小原氏はそれで片付けても構わないのだろう。

 この箇所を、以下の文章に置き換えました。

 小原氏は、《幻実が現実になると、ミッキーマウスをネズミだとは思わない》などと意味不明なことを言い出す。これには正直言って、数回ほどへそで茶を沸かした。《ミッキーマウスをネズミだとは思わない》というのは、決してそのような人が《幻実》に翻弄されているわけではなく、むしろ《幻実》を受け入れることによって、ミッキーマウスというキャラクターの背後にある「大きな物語」に同一化しているからである。小原氏にとって、このような物言いは、自分の生活圏内だけが「現実」であると言っているのに等しいのだが、小原氏にとってはそれでいいのだろう。同じ段落にある、《アキバ系の若者は現実の女性よりキャラクターグッズに「いやし」を見出すという》などという物言いも然り。このような物言いは、ジャーナリストの大谷昭宏氏の「フィギュア萌え族」概念にも共通する危険性をはらんでいるのだが、現実と戯れることができない奴は病気である、という思考は、かえって現実との関わりを放棄した、ある層に対する弾圧につながりかねないし、多様な感受性を否定するものでもある。現実の女性に残酷な性犯罪をやらかす輩よりも、《幻実》と戯れて萌える人のほうが、社会にとっては無害だろう。《幻実》を最初から「悪」と決め付ける小原氏は、ここでとんでもない勘違いと倒錯をしているのである。もう一つ、このような物言いは、小原氏の想像力が極めて狭いことも意味するのだが、小原氏はそれで構わないのだろう。

 「俗流若者論ケースファイル11・石原慎太郎」について:

 

…赤枝氏が自分にとって衝撃的だったことを知らず知らずのうちに誇張して石原氏に言っている可能性もある。それに、そのような状況にある家族に対する支援は、それこそ政治の役割ではないか、という気もするのだが。石原氏が《真顔でいうそうな》と書いているのは、そのような家族に対する社会保障や性教育の不備を正当化するように見えてならない。

 この文章の直後に、以下の文章を加筆しました。

 ついでに性教育に関しても触れておこう。20世紀の終わりごろ、米国では、子供の「性」をタブー視し、学校では性教育よりも「純潔」さらには「禁欲」を高く掲げた教育が正義とされ、適切な性教育でさえも保守系の団体に糾弾された。また、宗教保守からフェミニストまで、性表現の規制に躍起になり、マスコミは青少年の「性」に関する過剰な報道で溢れかえった。それを告発した米国の作家のジュディス・レヴァインによると、しかしそれでも青少年の「性」を巡る問題はまったく解決しないどころか、むしろ問題を深刻化させた(ジュディス・レヴァイン[2004])。レヴァインは、青少年を「性」に関する情報から遠ざけてしまったあまり、「性」に関する知識は希薄化し、無防備な性行為が蔓延してしまったことを指摘している。我が国でも一部の自称「保守」が性教育攻撃に奔走しているのであるが(石原氏もその典型であろう)、性教育を禁止してしまったら米国と同じ事態を招きかねないのではないか。また、特に赤枝氏は、中学生までの性行為を法律で禁止しろ、といっているけれども、自由な行動が保障されている我が国において、それが実を結ぶためには、我が国が北朝鮮並みの言論統制国家及び監視国家にならなければならない。

 それにしても、「俗流若者論ケースファイル」ばかり回を重ねて、本来の目玉だった正高信男批判はどうも尻すぼみ気味です。もっとも、最近になってさまざまなところから俗流若者論が顔を出したり、あるいは過去の俗流若者論を引っ張り出してきたりと、この勢いはとどまるところを知りません。このシリーズで今後採り上げる予定の文章はこれだけあります。

 ・近いうちに採り上げる予定のもの
 平成17年3月16日付読売新聞社説「元気がないぞ日本の高校生」
 荷宮和子「私が団塊ジュニア世代を苦手だと思う理由」=大塚英志・編『新現実Vol.2』角川書店、2003年3月
 藤原智美「目をつむれない子どもたち」=「文藝春秋」2005年5月号、文藝春秋
 浜田敬子「テレビが子供の脳を壊す」=「AERA」2002年7月15日号、朝日新聞社

 ・判断を留保しているもの
 和田秀樹「日本はメランコの中流社会に回帰せよ」=「中央公論」2003年6月号、中央公論新社
 小原信「不安定なつながりが逆に孤独を深めている」=「中央公論」2004年4月号、中央公論新社
 陰山英男「「学力低下」世代が教師になる日」=「文藝春秋」2005年5月号、文藝春秋
 役重真喜子「「一億総評論家」」=「論座」2004年9月号、朝日新聞社
 吉田裕「台頭・噴出する若者の反中国感情」=「論座」2005年3月号、朝日新聞社
 林道義「家庭が子供の脳を育てる」=「諸君!」2003年8月号、文藝春秋
 中村和彦、瀧井宏臣「育ちを奪われた子どもたち」=「世界」2003年11月号、岩波書店
 下嶋哲朗「再び「後悔の土壌」とならないために」=「世界」2004年10月号、岩波書店

 しかし、「ケースファイル」ばかりでは面子が立たないので、本流の正高信男批判も充実させるつもりです。来月7日でこのブログは開設半周年を迎えるのですが、その記念論文は「正高信男という堕落ZERO(仮題)」で企画しています。「正高信男という堕落」で採り上げた文章(平成16年11月22日付読売新聞の「学びの時評」欄に掲載されたもの)以前の文章を検証するつもりです。

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俗流若者論ケースファイル14・大谷昭宏

 ここ3回の「俗流若者論ケースファイル」は、検証した相手が東京都知事神奈川県知事、そして国会議員、と続いたので、少々肩に力が入りすぎてしまった。なので、今回は、少々肩の力を抜いて検証したい。

 今回採り上げるのは、このシリーズの第1回でも検証した、ジャーナリストの大谷昭宏氏である。大谷氏といったら、昨年暮れに起こった奈良県女子児童誘拐殺人事件において、犯人を「フィギュア萌え族」とプロファイリングをして、このような犯罪を犯す輩はたくさんいる、と不安をあおった。しかし、そのプロファイリングは間違いだった。それでも大谷氏はオタクの危険性をこれでもかこれでもかと煽りまくり、マスコミもまたオタク批判の論客として重用した。その結果、大谷氏の言動はますます暴走の度を増し、冷静な発言はついに見られなくなってしまったようだ。

 また、この事件に関する大谷氏の一連の発言は、大谷氏が現代の若年層に対して以下に歪んだ認識を持っているか、ということを証明する形となった。今回検証する文章もまた、大谷氏の若年層に対する狭隘な認識と、論理矛盾が目立つ文章である。その文章とは、大谷氏が連載を持っている「日刊スポーツ」の大阪版平成17年4月12日号に掲載された、「野球は子どもにいろんなことを教えてくれる」である。私は野球は嫌いではない。しかし、野球だけを特別視するのはどうか、と思う。

 ついでに言うと、ドイツの鉄血宰相ビスマルクの言葉をもじって言えば、大谷氏の文章は「巨人は国家なり」ということになろうか。この文章を読んでいる限りでは、どうも野球の魅力は巨人しか持っていない、と大谷氏は考えているのだろうか、と首をひねってしまう。
 大谷氏は冒頭で、《先々週のサンデープロジェクト(テレビ朝日系)で「プロ野球を救う道とは…巨人代表に直撃」をやらせていただいたのだが、そのプロ野球改革元年のわりには、人気がどうもよくない》(大谷昭宏[2005]、以下、断りがないなら同様)と書くのだが、その証左として大谷氏が提示するのは、《今年から改革の一環として、いまさらながら各球場の観客数を実数か実数に近い数字で出すようになった。甲子園は相変わらず、すごいなと思うけど、例えば4月6日の巨人-横浜戦の横浜スタジアムは観客わずか1万3046人。この日のパリーグの日ハム-楽天、オリックス-ソフトバンクさえ下回っているのだ》ということなのだ。何だ、阪神戦やパ・リーグは結構人気があるではないか。どうやら大谷氏は、巨人の人気がプロ野球の人気だと思っているらしい。しかし、最近のプロ野球は、むしろ他球団が頑張っている感じがある。加えて、昨年の巨人は、前オーナーの渡邉恒雄氏に対する嫌悪感もつのったので、巨人戦の動員数や視聴率が落ちるのもある意味では当然であろう。しかし、この文章に対する批判は、これだけでいいだろう。本当に問題があるのは次の段落の文章だ。

 大谷氏曰く、《巨人のことばかり言っているのではない。少年の暗い事件ばかり取材して、子どもたちをテレビゲームからスポーツに引っ張り出せと言っている私としては、この現実が悲しいのだ。中でもやっぱり野球というスポーツの魅力を子どもたちに知ってほしい》と。これには笑ってしまった。大谷氏は《少年の暗い事件ばかり取材して、子どもたちをテレビゲームからスポーツに引っ張り出せと言っている私としては》と言っているのだが、結局のところ一連の不安扇動はスポーツの振興のためだったらしい。しかし、後で述べるけれども、スポーツの振興は、むしろ地域一体型で行なわれるべきで、ゲームばかりやってると犯罪者になるがスポーツがそれを救ってくれる、という妄想の下子供たちを無理やり引っ張り出す、ということは、かえってスポーツの魅力を減衰させることになりはしまいか。必要なのは環境の整備である。

 さて、先ほど環境の整備と言ったが、最近になってそれは急速に絶望的になりつつある。なぜなら、今年3月、宮城県(!)で、キャッチボールをしていた小学生が、誤って暴投をして関係ない別の小学生に当たってしまい、しかも不幸にも息絶えてしまった、ということに関して、仙台地裁が小学生は自分のボールが他の人に当たってその人が息絶えることは十分予測できたはずだ、という判決を下し、さらには親に子供の監視責任を強調した。これでは、子供がキャッチボールすらできなくなる判決だ、と言っても仕方ないではないか。そうでなくとも、最近の公園には、多くの禁止事項が設定されており、子供たちが自由に遊べる自由を「安全」の大義の下に奪っているのである。しかも、例えば横浜市長の中田宏氏や、それに追従した神奈川県知事の松沢成文氏のように、子供の行為に関する全責任を親に負わせる、という倒錯した青少年政策が注目を集める昨今において、子供の真に健全なる育成を願うのが無理だというものだろう。

 それにしても、大谷氏はどうしてゲームを無条件に「悪」と仕立て上げるのだろうか。結局のところ、現在のように《少年の暗い事件》ばかり起こるのはゲームのせいだ、と一足飛びに考えているからだろう。ちなみに、ゲームの登場以前に起こった、現在の少年犯罪に比べて極度に残酷な事件は枚挙に暇がない。

 大谷氏は、《当然、この夜(筆者注:4月2日、中日が5対4で広島を逆転で破った試合)のヒーローは高橋(筆者注:中日の高橋光信選手。高橋氏はこの日の試合に大だとして出場して、逆転のホームランを打った)だ。だけど、代走に英智を送った監督、その期待に応えて、大魔神をゆさぶってまっすぐしか放れないように追い込んだ英智。そんな陰の力があってこその高橋のホームランなのだ。こんな裏方ががんばるチームプレーを子どもたちに知ってほしい》と言っているけれども、他のスポーツ、例えばサッカーではどうして駄目なのだろうか。同様のドラマティックな状況は、サッカー他のスポーツでもでも十分に考えられる。余談になるが、《こんな裏方ががんばるチームプレー》に関しては、昨年のアテネ五輪の際には、かなり報じられた記憶がある(例えばレスリングの浜口京子選手とか)。結局のところ、大谷氏が野球に強い思い入れがあるからこそ、野球を選んだのであろう。

 私は、ここで大谷氏が野球を特別視していることを問題視したいわけではない。むしろ大谷氏の、保守反動的でハードランディング的な青少年観を問いたいのである。この文章などまだ可愛いほうで、このシリーズの第1回でも採り上げたオタクに対する強硬論は言わずもがな、例えば「ネット心中」に関しても、それに手を貸した者も厳罰に処せ、と、青少年問題「だけ」に関しては大谷氏は過激な発言が目立つのである(ちなみに、大谷氏の青少年問題に関する発言は、大谷氏のジャーナリズム観に真っ向から相反するものもある)。

 筑紫哲也氏を批判したときにも触れたが、大谷氏のように反骨で腕を鳴らしてきたジャーナリストでさえも、俗流若者論によって「右」と「左」が糾合されてしまう、という倒錯した言論状況が、我が国にはある。彼らは共通して、ゲームだとか携帯電話だとかインターネットだとか、あるいは「今風の」子育てだとかいったものが子供たちの「内面」を破壊し、それによって少年犯罪や「問題行動」が発生する、と主張する。しかし、青少年の「内面」を敵視する言説は、結局のところその「内面」を「正す」ための施策、例えば「正しい」子育てを行政が規定して、それに合わないものを「危険だ」と喧伝することなどを正当化する。これらの俗流若者論に対抗する言説は、青少年問題を「内面」だとか「心」の問題としてとらえることの危うさを指摘することであろう。

 このような「酒場の愚痴」レヴェルの記事を書いて、何になるのであろう。大谷氏に求められているのは、この程度の言論ではないはずだ。

 ちなみにスポーツの振興策についても言っておく。スポーツ、特にプロ野球の振興策として最も適切なのは、地域との関係を強めることだろう。私がその手段の一つとして考えていることは、北海道日本ハムファイターズ、千葉ロッテマリーンズ、福岡ソフトバンクホークス、そして東北楽天ゴールデンイーグルスに関しては、通常なら「日本ハム」「ロッテ」「ソフトバンク」「楽天」と表記するところを、「北海道」「千葉」「福岡」「東北」と表記することである。というのも、これらの4チームに関しては、1つの都市に1つしか球団がないからである(ちなみに広島東洋カープと中日ドラゴンズも同様だが、これらの球団に関しては「広島」「中日」という表記が定着しているのでこのままでいい)。スポーツジャーナリストの二宮清純氏は、エコノミストの木村剛氏との対談で、《横浜大洋ホエールズが買収された当初、マルハベイスターズで行こうという案もありました。ところがマルハのオーナーが偉かったのは「マルハと言っても通じないが、横浜というブランドは世界の人がみんな知っている」と言って、横浜ベイスターズにしたのです。……横浜ベイスターズだから、みんなが盛り上がれた。西武ライオンズだって、もし「埼玉ライオンズ」にしたら観客は倍入りますよ》(この段落に関しては全て、木村剛、二宮清純[2004])と話しているが、それとやり方は違うが同じ考え方である。二宮氏は《お客さんが入りやすい環境を整えることは経営者の仕事のはずです》と述べているけれども、私はそれと同時にマスコミの仕事でもあると思う。

 いずれにせよ、スポーツを「市民の祭り」にすることこそ、スポーツ振興策の最大の手段であろう。ここで「市民の祭り」と表記したのは、そのスポーツチームの存在意義を企業の資金よりも市民の信頼に重点を置かせるべきだ、と考えているからである。市民の信頼が高まれば、企業、特に地元企業も出資しやすいだろう。子供たちにスポーツの魅力を感じさせるのも、市民の信頼があればこそである。必要なのは環境の整備だ。青少年「対策」としてのスポーツは、その「内面」への働きかけを強調するあまり、技能の鍛錬とは別のところで大きな問題が起こる可能性がある(例えば、学校生活を息苦しいものにさせてしまったりとか)。

 スポーツを青少年「対策」から自由にさせるべき。そこから、スポーツの魅力を子供たちに感じさせることは始まる。

 参考文献・資料
 大谷昭宏[2005]
 大谷昭宏「野球は子どもたちにいろんなことを教えてくれる」=「日刊スポーツ」大阪版2005年4月12日号、日刊スポーツ新聞社
 木村剛、二宮清純[2004]
 木村剛、二宮清純「プロ野球は面白くて、儲かるビジネスだ」=木村剛『月刊!木村剛Vol.3』Kfi、2004年12月

 日垣隆『世間のウソ』新潮新書、2005年1月
 広田照幸『日本人のしつけは衰退したか』講談社現代新書、1999年4月

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2005年4月19日 (火)

俗流若者論ケースファイル13・南野知恵子&佐藤錬&水島広子

 それにしても、最近活躍している、特に保守系の人々による青少年問題に関する言論とか、あるいは現在進められている青少年政策に関する議事録や記者会見の文章を読んでいると面白い。例えば、この2回前で採り上げた、東京都知事の石原慎太郎氏が「文藝春秋」平成17年5月号に書いた「衝撃の現代若者論」は、社会を覆う現実にはまったく触れず、それを「本質が崩壊した状態」と易々と語ってしまい(そもそも「本質」というのが何なのかわからない。結局は自意識の問題ではないのか)、挙句の果てには北朝鮮拉致事件の被害者家族に極めて失礼な暴言を吐いたり(北朝鮮に拉致された同胞はもはや生きていない、と考えるのが常識なのだそうな)とか、あるいは擬似脳科学に走ってしまったりと(この人にとって脳幹は国家である)、もうそこらじゅうに突っ込みどころが満載であった。無論、読んでいる内は笑ったのだが、読んで検証したあとは薄ら寒い気持ちが私の中を走った。この人に青少年政策をさせておいて、本当にいいのだろうか、国益には反しないのだろうか、と。前回採り上げた、神奈川県の松沢成文知事に関しても、まあ石原氏よりは問題は小さいものの、それでも現在の少年犯罪の実情やゲームに関する無理解、そしてゲームの規制に強引に結び付けてしまう、という姿勢には、やはり疑問を感じ得なかった。

 今回はそれらを追及するシリーズ(だったのか)の第3回である。今回検証するのは、平成17年3月15日に行なわれた、「青少年問題に関する特別委員会」における、法務大臣にして青少年育成及び少子化担当大臣の南野知恵子氏と、自民党の佐藤錬議員のやり取り、そして南野氏と民主党の水島広子議員のやり取りである。この2つのやり取りに関しては、この委員会における全てのやり取りの冒頭の2つである。南野氏と佐藤氏のやり取りは、一部ではメディア規制に関して触れているものの、メインとなるのは佐藤氏の現在の青少年や教育に関する、もはや笑うしかない認識である。ここでは、主に佐藤氏の発言がメインであるが、南野氏もまた佐藤氏の論理矛盾を指摘しない。後者の南野氏と水島氏のやり取りは南野氏はこれに関しては特に問題のある発言をしていないが、水島氏が問題のある節をさも当たり前であるかのように語っている。なので、後半に関しては、水島氏の発言の検証を行なう。

 まず、佐藤氏と南野氏のやり取りから見ていこう。

 佐藤氏は、冒頭いきなり、《我が国はことし、さきの大戦、すなわち大東亜戦争、太平洋戦争に敗れてから六十年。まさに戦後還暦。重要な時代の節目であり、原点に返る年であります》と発言する。これに関しては異存はない。我が国は今年戦後60年を迎え、改めて大東亜戦争や戦後に関して振り返ってみる必要があろう。それ自体は否定しない。

 しかし、佐藤氏は、東京大空襲の惨状や米国の戦争責任に関して述べた後、こう言ってしまう。曰く、《今日に至るも、あの東京裁判史観の呪縛が、靖国神社参拝問題や歴史教科書問題を初め、いかに強く日本社会の歴史認識をゆがめているか。日本の未来を担う青少年に余りにも過度な自虐史観を教えてきた戦後、日本民族の歴史、伝統、文化に自信と誇りを持たせないように教えてきた戦後、先祖、先達に感謝と敬意を持たせないように教えてきた戦後、もうそろそろ、ことしこそ、戦後の終わり、そして日本再生のきっかけをつかみたいものだ、本当にそう思っております》と。このような認識を持つ人は、青少年問題を本気で考えているのではなく、むしろイデオロギー闘争の道具としてしか考えていない、ということを、もう我々は広く知っておいたほうが良いのではないか。佐藤氏、そして佐藤氏と同じような考えを持つ人たちにとって、現実に起こっている青少年問題は、《過度な自虐史観を教えてきた戦後、日本民族の歴史、伝統、文化に自信と誇りを持たせないように教えてきた戦後、先祖、先達に感謝と敬意を持たせないように教えてきた戦後》に責任を押し付けるための責任転換の論理であり、それを取り除くことは、《あの東京裁判史観の呪縛》からの克服を意味し、そして《戦後の終わり、そして日本再生のきっかけ》をもたらしてくれる、というヒロイックな幻想をもたらしてくれる単なる舞台装置に過ぎない。

 ちなみに私見によれば、「新しい歴史教科書をつくる会」をめぐる騒擾や、教育基本法の改正論の最大の功績は、歴史教育を巡る問題のほとんど全てが、それを論じる側の自意識の問題として還元しうる、という明確な事実を白日の下に晒したことである。これは「つくる会」や教育基本法の改正案に賛同する側にしろ反対する側にしろ、変わらないことである。彼らは自分の持つ「正義」を信じて疑わず、彼らの持つ共同幻想に子供たちを従わせることによって、自分の信奉するイデオロギーの「勝利」を確信することを目的としていることに疑いはない、多分。歴史認識(あるいは歴史教育論)と自意識の問題に関しては、東北大学助教授の小田中直樹氏が、いわゆる従軍慰安婦問題に引き寄せて詳しく語っているのでそちらを参照していただきたいのだが(小田中直樹[2004])、歴史教育が国民の自意識やアイデンティティの問題と切り離すことができない以上、それを語る言説もまた自意識の問題からのアプローチが必要なのではないか、と私は思っている。

 閑話休題、佐藤氏の言説の検証を続けよう。佐藤氏曰く、《我が国民は、多くの戦没者の犠牲の上に、平和で豊かな繁栄を築き上げました。復興から高度成長へと経済至上主義、モノ・カネ文明の開化、そして経済大国からバブルへと続いた時代に、何か大切なものを、すなわち私たちの祖先がはぐくんできた大切な伝統や価値観、これを失ってきたのではないでしょうか。それは、武士道などの日本精神の崩壊であり、損得そろばん勘定を超える価値や生きざまの軽視なのだろうと思います。さらに、家族のきずなや地域社会の触れ合い、祖先を敬う心や郷土と国を愛する気持ち、そして、その愛するものを守るために自分は戦うという気概と覚悟などであります》と。このような発言の欺瞞性に関しては、都市計画や国土計画に関して、耳学問程度でも知っていれば簡単に論駁できる。なぜなら、佐藤氏言うところの《経済至上主義、モノ・カネ文明の開化、そして経済大国からバブルへと続いた時代》を主導してきたのは、ほかならぬ自民党、例えば池田勇人「所得倍増計画」や、田中角栄「日本列島改造論」、そして中曾根康弘首相の規制緩和策であるからだ。その主導の下で、地域を破壊し、郊外に均質的な空間ばかりもたらし、誤った食料政策によって農村から仕事を奪ってきた自民党政権が、その反省をせずに易々とこんなことを言えるようになってしまっていることにこそ、私は歴史を学ぶことの重要性を痛烈に感じる。また、《武士道などの日本精神の崩壊》だとか、《損得そろばん勘定を超える価値や生きざまの軽視》だとか言われても、佐藤氏がその実例を出さないから、何を言っているのかわからない、極めて「論壇的」な言説になっている。このような言説によって、現実の青少年の行動が規定されることのほうが、私にとってはよほど恐ろしいことに思えてならない。

 青少年問題を「伝統精神の崩壊」みたいな文脈で語ることは、二つの問題をはらんでいる。第一に、社会構造の問題から目をそらさせてしまうことである。これに関しては、戦後自民党が利権の下に推し進めてきた都市政策と不可分の関係にあるので、これに関して深入りするのはやめたい。第二に、彼らの夢想する「伝統」が本当に存在したか、ということである。確かに伝統は存在するけれども、それは各々の地域の伝統であり、「日本の伝統」は明治時代以降、近代化と中央集権化の過程で捏造されたものである。ちなみに、東京大学助教授の広田照幸氏によると、佐藤氏などは、戦前までは親がしっかりと子育てをしていた、と考えているけれども、実際に子育てが家庭のものであると広く認識されたのは高度経済成長期以降であり(広田照幸[1999][2003])、戦前においては、そのような認識は特に上流階級に限定されていた。

 文芸評論家の斎藤美奈子氏によると、女性の労働力の増加を目指すフェミニズムの言説は、大東亜戦争の動因にむしろ有利に働いた(斎藤美奈子[2003])。佐藤氏は、この事実をどのように見るのだろうか。

 このように、誤解と倒錯と無反省が続く佐藤氏の発言なのだが、南野氏はこれらの発言の危うさを指摘しない。南野氏は、先ほどの佐藤氏の一連の発言を受けて、《先生が戦火にまみれておられるころ》と発言してしまう。しかしその直後に佐藤氏が指摘したように、佐藤氏は戦後の生まれだった。このことから、南野氏は戦後の生まれに「健全な」思考が育つはずはない、と考えているのではないか、という疑念が生まれる。直後に南野氏が《戦後生まれにしては、御両親から代々とその心を伝えられたということであろうかというふうに思いまして、先生の大和魂がそこに育っているのかな、そのようにも思っております》と取り繕ったのが見苦しい。

 南野氏は、佐藤氏に同調して、《戦後の我が国は、経済のお話が出ましたが、経済的価値観を追求する余りに家庭や地域を顧みないことがあったように思われるというお話でございました。また、経済的豊かさが達成される中で、画一的な形で都市が形成され、また、同じようなものを消費する大衆消費社会が展開するという変化も見られたと思います》と言ってしまう。戦後の都市計画に関する不勉強が表れている。ここで南野氏が問題視していることこそ、まさしく戦後の自民党が推し進めてきたことなのだが。もっとも、最近はそのような考え方にもかげりが生じている。

 南野氏が佐藤氏に発言に関して、ただ感想を述べた後に、佐藤氏は南野氏に児童虐待に関して質問する。それに対して、南野氏は、《児童虐待の問題に関連してでございますが、おっしゃるとおり、本当に深刻な虐待が今頻発いたしております。児童相談所における相談処理件数が急増しているということも事実でございまして、極めて深刻な状態にあることは、社会全体で早急にこれを改善していかなければならない重要な課題であると認識いたしております》と言うけれども、実際のところ、相談処理件数の急増は、児童虐待に対する意識の高まりの表れではないか、と私は見ている。また、ここ数年で、児童虐待に関する報道量の急増も、人々の危機意識をかき立てている、と言っても過言ではないだろう。

 南野氏が、現在の児童虐待防止の政策について簡潔に述べた後、発言の主は佐藤氏に移る。ここで佐藤氏は、極めて問題の大きい発言を連発してしまうのである。

 まず、《虐待を受けた経験を持つ子供は非行に走りやすいと言われます、青少年の犯罪で、裁かれるのは子供だけというのはおかしいのではないでしょうか、どうしてそんな罪を犯す子供になってしまったのか、その子供の両親はどんな子育てをしてきたのか、子育ての中に何か大きな問題があったから子供は罪を犯してしまったのではないでしょうか、なのに裁かれるのは子供だけで、その子供を育てた両親の再教育の場がないのはおかしいと思います》と。これは佐藤氏に寄せられた手紙を引き合いに出しての発言なのだが、例えば《虐待を受けた経験を持つ子供は非行に走りやすいと言われます》ということに関しては、どこまで一般性を見ることができるかわからない。ちなみに最近メディアを(ワイドショー的に)沸かせる少年犯罪に関しては、むしろ専業主婦の母親に大切に育てられた、という背景のものもまた目立っている。例えば昨年6月の頭に起こった佐世保市の女子児童殺人事件に関しては、作家の重松清氏によると、この犯人は遊び場に極めて恵まれていない環境に住んでおり、小学校のバスケットボールクラブが唯一の遊び場であったけれども、親が中高一貫校に犯人を受験させる、ということを理由にクラブを強引にやめさせてしまった、という(重松清[2004]、重松清、河合幹雄、土井隆義、宮崎哲弥[2004])。重松氏の報告からは、虐待や体罰の形跡はどこにも見られず、むしろ居住環境と、重松氏言うところの「見えない受験」による精神的なストレスが犯行の引き金になった、ということである。無論、反抗のきっかけに親の関与もあったのは確実であるが、この犯人にとって「ガス抜き」ができる遊び場やサブカルチュアの不在もまた問題にされるべきだろう。

 従って、少年犯罪の責任を一元的に「親」あるいは「家族」に帰一させてしまうのは、物事の複雑性から目をそらすばかりではなく、親は子供を常日頃「監視」する義務があり、また「正しい」子育てをしなければ子供が犯罪者になってしまうぞ、というメタ・メッセージを発してしまう。結局のところ、修復不可能な凶悪犯罪に関しては、成人と同じように応報刑で、それも犯人だけを裁くのがふさわしい、ということになる。現に佐藤氏は、《犯罪を犯した子供の家庭環境がどんなものであったのか、法務省や内閣府の広報などで多くの人に知らせることで犯罪も減少するのではないでしょうか、例えば、あなたの家庭は大丈夫ですか、こんな子育てをしていませんかなど、犯罪を犯した子供の家庭環境を一般国民へ周知することによって対応することが大事だと思います》と言っている。これも政府広報に寄せられた意見なのであるが、これを肯定的にとらえているあたり、佐藤氏が、少年による凶悪犯罪は「誤った」家庭環境から生まれており、それを正すためには「正しい」子育てをさせる必要がある、と認識しているのは明らかであろう。

 佐藤氏の発言の中で、問題の大きい発言はもう一つある。曰く、《ついでにもう一つ追加しますが、テレビ、パソコンなどの情報メディアの影響が大きいのではないかという気がします。ドラマを見ても、殺人を題材にしたドラマが大変多い。それから、お色気番組も深夜放送しておるようですし、これに類するような、有名人、タレントや芸能人がコメンテーターと称して政治、社会評論をしていますね。こんなことをされると政治が軽くなっちゃう。真剣に政治に取り組んでいる我々から見ても聞きづらくてならないんですよ、これは余談ですが。それから、出会い系サイトの事件も多い。携帯電話を含めて、これら情報メディアの規制はできないんでしょうか。御意見を承りたいと思います》と。またしてもメディア悪影響論であるけれども、いい加減警察白書や犯罪白書を読んで、少年犯罪は件数としては決して増加していない、ということをまず認識したらどうか。また、少年犯罪者のうち《殺人を題材にしたドラマ》だとか《お色気番組》を見ている割合がいくらいるのだろうか。また、《類するような、有名人、タレントや芸能人がコメンテーターと称して政治、社会評論をしていますね。こんなことをされると政治が軽くなっちゃう。真剣に政治に取り組んでいる我々から見ても聞きづらくてならないんですよ》という発言には本当に呆れてしまった。いくら佐藤氏が《これは余談ですが》と取り繕っても、佐藤氏が政治家以外の人に政治を語るな、といっているのは明らかであろう。それにしてもそれさえも青少年問題を誘発するものとして糾弾されるとは。むしろ最近問題なのは、政治化の度し難きタレント化や、その発言の度し難き軽佻浮薄ではないか。それを象徴するのが、小泉純一郎であり、石原慎太郎であろう。これらの政治家よりも、在野の有名人のほうが物事の本質を衝いているようなことを言うことは多い。

 南野氏もまた、佐藤氏を疑うこともせず、《今、テレビ、パソコン、そういうメディアのことに関連しては、青少年を取り巻く社会環境は発展途上にある青少年の人格形成に影響を及ぼしている、先生のおっしゃっているとおりだと思っております。とりわけ、青少年の健全な育成に有害な影響を与える情報があふれていることは極めて憂慮すべきものである、これも同感だと思っております》と同調してしまう。ここでの「健全な育成」という甘言の持つイデオロギー性を、いい加減我々は汲み取っておく必要があるだろう。

 これ以降の佐藤氏の発言に問題のある箇所は見られないけれども、佐藤氏が現代の青少年に向けている視線は、極めてイデオロギー性に満ちた者である、といわざるを得ないだろう。このような認識を持った人が、青少年委員会と言う立場に存在していることに、私は疑問を感じ得ない。これは、佐藤氏のみならず、佐藤氏と意見を共有する議員にも言えることだが、青少年問題を奇貨として国家の再建を図る、ということは、現在ある種のアノミー状態に陥っている我が国において、むしろ悪影響しか及ぼさないのではないか。その証拠としてあるのが、現在反日暴動に沸き還る中国である(ちなみに、デモ自体には罪はない。しかし、それが暴行や器物損壊に発展してしまうと、罪が生じる。それを峻別できていない人が、自称「保守」には多すぎる)。結局のところ、佐藤氏の議論は、戦時中的な「国粋主義」の復活を訴えているに過ぎず、「国家の誇り」みたいなものが全てを(現実には佐藤氏の自意識の問題を)解決してくれる、と佐藤氏が夢想しているに過ぎない。日本文化論の論客として有名な故・山本七平氏が、戦時中の日本人捕虜の日記を通じて批判したのは、まさにこの「国粋主義」であった(山本七平[2004])。

 さて、佐藤氏と南野氏のやり取りはここで終了する。ここからは、南野氏と水島広子氏のやり取りを検証することにしよう。とはいえ、水島氏の発言の中でも特に問題のあるのは1箇所だけなのだが、そこに極めて間違いの多い認識が潜んでいることを、指摘しないわけにはいかないだろう。

 また、一部でも有名な通り、水島氏は、フェミニストの側の表現規制推進論者として有名であり、海外の表現規制推進団体と強い繋がりを持っていることでも知られている。まあ、これは問題の本質ではないので、軽く触れておくにとどめておこう。

 水島氏は、南野氏との答弁において、このような発言をしてしまう。曰く、《今の社会は、もう皆さんも御承知のように、地域の子育て力というのが落ちておりまして、私はこれは、家庭の子育て力が落ちているんじゃなくて、地域の子育て力が落ちているから、その地域の中における家庭の子育ても難しくなっているんだと思っております。例えば、そんな中では、テレビを長時間見ると暴力的になるという、これはかなり信頼できるデータもございますけれども、密室育児で、あるいは近くに頼れる大人がいなくて、親が忙し過ぎて、そして地域に家庭が開かれていなくて、そしてテレビの前に子供が放置されているというのは、これは一種のネグレクトと言ってよい状況だと思います。そのような状況に置かれている子供が、現実には大変多くなっていると思います》と。まず、《今の社会は、もう皆さんも御承知のように、地域の子育て力というのが落ちておりまして、私はこれは、家庭の子育て力が落ちているんじゃなくて、地域の子育て力が落ちているから、その地域の中における家庭の子育ても難しくなっているんだと思っております》という言説に関しては、これもまた責任のすり替えの論理でしかない。なぜ責任のすり替えか、というと、結局は佐藤氏の議論を「家族」から「地域」に置き換えただけに過ぎないので、深入りは避ける。もう一つ、《テレビを長時間見ると暴力的になる》というのが《かなり信頼できるデータ》と、水島氏は言うけれども、そのデータの出所が明らかになっていないし、社会学者の宮台真司氏によると、そもそもメディアと暴力性に間に直接的な影響は実証されたことがなく、《元々暴力的な性質を持っている人が暴力を振るう際の「引き金」にはなる》(宮台真司[2005])といい、さらに《あくまでも引き金要因であって、本体の原因をメディアが作るということはない》(宮台・前掲書)という。また、1万歩ほど譲って水島氏の引き合いに出している説が正しいとしても、水島氏の議論において欠落しているのは、テレビに多く接している子供たちが一様に暴力的になったのか、それとも他の要因が関わっているのか、ということが提示されていないことである。もし他の要因があるとすれば、それに関しても検討すべきである。また、水島氏は、《密室育児で、あるいは近くに頼れる大人がいなくて、親が忙し過ぎて、そして地域に家庭が開かれていなくて、そしてテレビの前に子供が放置されている》ことに関して《そのような状況に置かれている子供が、現実には大変多くなっていると思います》と言うけれども、それは本当なのだろうか。

 まあ、南野氏に関しては質問者の意見を受けて現在の政策を説明する立場にあるから仕方ないとしても、佐藤氏と水島氏の議論の背景に共通してあるのは、やはり「異常な」子育てが少年犯罪を生む、という認識に他ならない。また、そこから「異常な」子育てを「正す」施策を正当化する、ということに関して、水島氏は言及してはいないけれども、佐藤氏は恬然として容認している。しかし、ひとり家庭環境から、その子供が犯罪者になることを特定できるか否か、というのはまったくのデタラメであり、政治が少年犯罪者にできることといえば自らが犯した罪に対してそれに応じた償いを徹底させることしかない。家庭環境、あるいはメディア環境によって犯罪者になる「しるし」を特定してしまうことは、結局のところ予防拘禁の論理となる。

 また、政策構築に必要なのは実証的なデータである、ということを水島氏も佐藤氏も、さらには責任者である南野氏さえも、忘れているのではないか。また、本来政治に求められているのは、実証的なデータのみならず、巷で喧伝されている「危機」を常に相対化した上で、政策を構築することに他ならない。また、それに関して知識人の果たす役割も大きいだろうが、現実には、メディアの寵児と化している自称「識者」は「危機」を相対化するどころか自らが扇情的な「危機」言説の生産者となっている。無論、「危機」に関して常に疑いを持ち、強力な事実に基づいた良心的な知識人も我が国には多数存在するが、やはりそれらの仕事はどうしても地味に見えてしまい、扇情的な「危機」言説に比べて、メディア受け、大衆受けする確率は低い。しかし、多様な意見を提示することこそ、ほかならぬマスコミの仕事であり、特に青少年問題に関する言説に関して、マスコミはそれを怠っている。
 マスコミさえもこの体たらくであれば、今必要なのは、市民に「危機」を相対化することへの動機付けを与えてくれるような「芸人」の存在であろう。現に我が国では、出版からネット上まで、多くの「芸人」が存在する。有益なことだ。また、最近では、新書のレヴェルで、現在の政治がことごとく見落としてきた、例えば憲法や教育などの基礎的な理論を説いている本も多い。まず、それらの言説に触れて、現在の政治を疑う目を養ったほうがいい。

 参考文献・資料
 小田中直樹[2004]
 小田中直樹『歴史学ってなんだ?』PHP新書、2004年2月
 斎藤美奈子[2003]
 斎藤美奈子『モダンガール論』文春文庫、2003年12月
 重松清[2004]
 重松清「少女と親が直面した「見えない受験」という闇」=「AERA」2004年7月18日号、朝日新聞社
 重松清、河合幹雄、土井隆義、宮崎哲弥[2004]
 重松清、河合幹雄、土井隆義、宮崎哲弥「日本社会はどこまで危険になったか」=「諸君!」2005年1月号、文藝春秋
 広田照幸[1999]
 広田照幸『日本人のしつけは衰退したか』講談社現代新書、1999年4月
 広田照幸[2003]
 広田照幸『教育には何ができないか』春秋社、2003年2月
 宮台真司[2005]
 宮台真司『宮台真司interviews』世界書院、2005年2月
 山本七平[2004]
 山本七平『日本はなぜ敗れるのか』角川Oneテーマ21、2004年3月

 姜尚中『ナショナリズム』岩波書店、2001年10月
 斎藤環『ひきこもり文化論』紀伊國屋書店、2003年12月
 パオロ・マッツァリーノ『反社会学講座』イースト・プレス、2004年5月
 松原隆一郎『長期不況論』NHKブックス、2003年5月

 内藤朝雄「「友だち」の地獄」=「世界」2004年12月号、岩波書店
 内藤朝雄「お前もニートだ」=「図書新聞」2005年3月18日号、図書新聞]

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2005年4月17日 (日)

トラックバック雑記文・05年04月17日

 走れ小心者 in Disguise!: ジョグリング仕掛けの明日(克森淳氏)
 この記事においては、『トンデモ本の世界R』(太田出版)における、作家の山本弘氏の言葉が引かれています。

 そう、彼ら(克森注:「買ってはいけない」執筆陣)が言っていることは、科学的な装いをこらしてはいるが、結局は「好き嫌い」に過ぎないのだ。

 上の文言をしっかりと踏まえた上で、下の記事をお読みください。
 変見:危機管理
 「トラックバック雑記文・05年04月09日」に、なぜかトラックバックされていた文章です。この文章において、《ため池の近くで遊ぶな・鉛筆は鉛筆削りで・木に登るなという教育で事故が減っただろうか。むしろ凶悪な事件が増えている。私たちが小さい頃は木の枝が折れて落ちたり、ナイフで手を切ったりしながら危機管理を体で覚えてきた》みたいな文章があって、本当にいい加減にしてほしいよな、と思った(事実誤認ですからね)のですが、私のこの文章に対する疑問の本質はこれではありません。

 …《セラミックチップ》?

 そこにあるウェブサイトへのリンクが貼ってありました。

 それがこちら

 …疑似科学ですね。

 これを販売しているのが、なんでも柳井魚市場で、これを使用した、という証言がもうすごいのなんの。

 アルファ波が増えるため、付けた瞬間から体がリラックスして、 頭が冴え、すばらしい発想が生まれ、反応も早くなります。集中力が増したり、意欲的になるので勉強の能率も上がります。 不登校・切れやすい子にも是非お試しを、別人のように変わる子もいます。

  風邪を引いても昼寝から目が覚めたら治ってたというような例が
たくさんありますが、使ってはじめて納得できると思います。
風呂に入れると温泉水のようになり、湯冷めしぬくいし、
石鹸やリンスもいりません。チップを入れた水で拭き掃除をすると大変きれいになります。

 愛用者の殆どが入試や資格試験に合格しています。その効果は信じ難い物があります。使えば分かります。

 チップを利用している子供達は運動能力が上がり、体も大きくなっています。

成績のことを聞き出すのは難しいのですが、確認の取れた子の殆どは成績が上がっています。

チップを手離さなくなる子が大勢います。本能的に良い物が分かるのだと思います。

オーリングテストと同じ作用でしょう。頭の働きが良くなり、集中力が増す・
精神的にも強くなります。体に吊して胃薬がいらなくなった人が大勢おられますが、

体を丈夫にする効果だけでなく、精神面の強化による影響

もかなりあるのではないかと思われます。

 すごすぎますよ。ここまで事例らしきものを提示しておきながら、実例やデータの提示がない、というのはどういうわけなのでしょうか。このような「うまい話」には必ず裏があるものです。もしかしたらこの団体の裏で、誰かが操っているとか…と言ってしまうと陰謀論になりますが、この《セラミックチップ》一つで複雑な教育問題も精神の疾患も身体的な問題も、それどころ環境問題さえも何でも解決できる、というのは、はっきり言って疑うほかありません。

 「変見」の「危機管理」という記事の中においても、《セラミックチップは冷静な判断や機敏な行動の為にも役立つ優れものだ。穴をふさぐよりこちらが普及した方が事故や事件は確実に減るが、残念ながら、殆どの人に理解してもらえない》などという妄想が書かれております。《殆どの人に理解してもらえない》というなら、まず実証に足るデータを提示するべきでしょう。もしデータもなく《セラミックチップ》のために莫大な予算を投入して、何の効果も得られなかったら、無駄なものに予算をつぎ込まれた、として納税者の怒りを買っても仕方がないでしょう。政策構築とはそういうものです(ちなみに「変見」のバックナンバーを読み通してみると、もう《セラミックチップ》は万能だと言わんばかり)。

 また、このような文章には、権力のにおいがします。現在起こっている複雑な問題を、《セラミックチップ》を用いることによって、さまざまな問題が解決できるという妄想を広めて、人々の思考力を奪う、というもの。本当に、この手の疑似科学は、市民の良識で解決しなければなりません。

 いいですか。複雑な問題もこれ一つで簡単に解決できる!という謳い文句は、まず疑うべきです。そして実証的なデータがないか探し、必要とあればその(実証的、あるいは理論的)提示を求めること。

 情報流通促進計画:吉岡忍さんらも出席~憲法改正国民投票法案を考える院内集会
 私は、基本的には憲法改正国民投票法には賛成です。しかし、現在自民党が進めている「憲法改正国民投票法」には、《何人も、国民投票の結果に影響を及ぼす目的をもって新聞紙又は雑誌に対する編集その他経営上の特殊の地位を利用して、当該新聞紙又は雑誌に国民投票に関する報道及び評論を掲載し、又は掲載させることができない》というのがあるそうです。

 これでいいのでしょうか。

 憲法改正の国民投票という、国家の命運を決める一大事こそ、多様な言論を世に広げさせて、真剣に国民に考えるチャンスを与えるべきです。そもそも《国民投票の結果に影響を及ぼす目的》というのがとても曖昧です。例えば護憲派の人々は、今まで何度も憲法改正の危うさや疑問を指摘してきたわけですけれども、それらも含めて、憲法改正に関する評論は図書館とか企業とか個人とかのデータベースに存在しますので、それらを参照してから投票に臨むことも可能なわけです。ですから、これを一字一句素直に実施するならば、国民からすべての情報を遮断しなければならないはずです。また、規制の文言が曖昧な分、国家が恣意的に情報統制を行ってしまい、政権党に有利な情報ばかり流通してしまう、という懸念も拭い去れない。

 もう一度言います。憲法改正の国民投票こそ、情報を広く流通させた上での、幅広い議論が必要なのです。

 ヤースのへんしん:年収1億で維持費21億
 《年収1億で維持費21億》というのは、京都の「私のしごと館」のことですが、これの存在をはじめて知ったとき(確か、TBS系列の「噂の!東京マガジン」の「噂の現場」だったと思います)、こんなのに本当に意味があるのかよ、と思いました。確かこれの設立意思は、高校生のうちに様々な仕事に触れさせて、将来におけるフリーターの撲滅だった気がしますけれども、結局それは失敗に終わっただけです。

 蛇足ですが、特に自民党の皆さん、フリーター問題を安易に若年層の就職意識の低さに求めないでください。若年雇用の問題は、あなたたちが思っているよりも相当深刻なのですよ。つい最近の日経新聞に、経済学者の玄田有史氏や小杉礼子氏が、学歴や親の年収が、フリーターや若年無業者の出現に大きくかかわっている、というデータを提示しておりました。なし崩し的な「都市再生」だとか公共事業とかよりも、まず地域の魅力を高める都市計画と、社会福祉の拡充をやるべきです。

 お知らせ。「俗流若者論ケースファイル12・松沢成文」を公開しました。それにしても、「kitanoのアレ」とか見ていると分かるのですが、青少年問題に関して相当おかしなことを言っている政治家が多すぎます。今度は青少年育成担当大臣の南野知恵子氏ですか。いい加減にしてほしいものです。

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俗流若者論ケースファイル12・松沢成文

 前回の石原慎太郎批判においても触れたが、現在、東京都を中心に、周辺の自治体の首長が中心となって青少年対策を推し進めるプランが進行している。この「対策」は、平成17年2月の千葉県知事選で堂本暁子氏が当選したことで一旦は鳴りを潜めたが、しかしそのときの対抗馬として出馬した森田健作氏の集会に東京都知事である石原氏や横浜市長の中田宏氏などが出席した、ということから、この地域における「対策」への腰の入れ具合がわかろうというものだろう。というわけで、今回はその「対策」のキーパーソンの一人である、神奈川県の松沢成文知事の発言に注目したい。

 松沢氏といったら、地方政治の場で改革派の知事として有名ではあり、それに関しては私も注目してきたけれども、平成17年3月2日の定例記者会見において松沢氏が口走ったテレビゲーム規制に関しては、やはり疑問を感じ得ない。

 松沢氏は同日の記者会見の場において、《付け加えるならば、やはり今の少年たち、ゲームなんかの影響でですね、バーチャルとリアリティーの区別がつかなくなってしまって、バーチャルなものに影響され過ぎて、それで犯罪に走ってしまうということが多々あるんですね》と言ったという(松沢氏の発言に関しては神奈川県のウェブサイトから、以下、同様)。しかし、もうこのブログにおいて何度も言っていることなのであまり深く言及するのは避けたいけれども、少年による凶悪犯罪は増えていない。確かに強盗に関しては最近になって急増したけれども、これは単に増加したのではなく、これまでは「窃盗」などとして処理されていたものを、「最近の少年は凶悪だから厳罰に処せ」という大号令が発せられたので、凶悪犯罪に分類される「強盗」として処理されるようになったのが最大の理由である(土井隆義[2003])。また、検挙率が低下したというけれども、これも最近になって警察が素直に被害届けを受理するようになったから、ということに過ぎない(浜井浩一[2005])。松沢氏の文言に従えば、現在の青少年は《ゲームなんかの影響》で凶悪な少年犯罪が増加しているはずなのだが、実際には減少しているのはどうしてだろうか。松沢氏はそれに答える必要があろう。

 また、松沢氏は平然と《今の少年たち、ゲームなんかの影響でですね、バーチャルとリアリティーの区別がつかなくなってしまって》ということを言うけれども、このような言説に関しては、平成9年に、いわゆる「酒鬼薔薇聖斗」事件が起こった際、ワイドショーにおいて喧伝された文句であるのだが、最近になってこれはもはや「定説」として定着してしまった感がある。しかし、このようなことを推し量ることが果たして可能なのだろうか。そもそも《バーチャルとリアリティーの区別がつかなくなってしまって》なっているというのはいかなる状態なのだろうか。またそれは本当に問題なのだろうか。見方によれば、目に映るもの全てが「虚構」だと言い切ることもできる。このような論理を振りかざす人における最大の欺瞞が「現実」と「虚構」の線引きを容易にしてしまうことである。それにしてもなぜ《ゲームなんかの影響》ということを易々と言ってしまえるのだろうか。他のメディアの影響はないのだろうか。ゲームばかり槍玉に挙げるのはそもそも思考停止であるのだが、これに関してはもう問うまい。

 松沢氏は《ゲームなんかの影響》をさも「実証」するように、《例えば、これは、暴力関係じゃないですけれども、レインボーブリッジの下をジャンボジェットがくぐるゲームソフトがあってですね、それに影響されて、もう3年ぐらい前ですけれども、コックピットに入った少年はですね、そのゲームを自分も一度やってみたかったということを証言しているわけですね》ということを語るのだが、これは極めて例外のケースであろう。そもそもこのようなフライト・シミュレーターを使用している人は何万人もいるはずだが、それならなぜそのような人たちは同様の犯罪に走らないのか。そもそもこのような事件に関しては、背後に精神分裂病(統合失調症)の影響が見られるケースが多く、この事件も然りだった。ジャーナリストの日垣隆氏によると、この事件に関して、例えば産経新聞はこの犯人の精神障害を巡って実名報道か匿名報道か揺れ動いたことがある(日垣隆[2002])。蛇足だが、この事件の犯人は《少年》ではない。

 そもそも現代の青少年、特に男子においては、その多くが少なからずゲームに接したことがあるから、彼らのうち一人でも犯罪を起こせば「ゲームの悪影響」を捏造することは極めて容易である。しかし、マスコミがそのような虚構ばかりを報じるばかりに、本来であれば憲法を遵守すべき(国民の人権=国家から不当に処罰を受けない権利を尊重すべき)立場にある松沢氏が、ゲームの規制などといった反憲法的な挙動をしでかしてしまう。もっとも最近は、カードゲームなどに主役の座を奪われて、テレビゲームも危機の淵に立っているらしいが。

 さて、先ほど、ゲームの規制に関して「反憲法的な挙動」といったが、なぜ「反憲法的」なのだろうか。これに関しては、まず憲法21条における「表現の自由」に抵触する恐れがある。また、これに関して「規制」を認めてしまうと、他の「規制」もなし崩し的に認められてしまいかねない。さらに、このような「規制」の根拠が「青少年に有害」という理由から、ということだが、このような「規制」の論理には多分に恣意性が入ってしまう恐れが高い。しかし最大の問題点は、ゲームによって青少年が凶悪犯罪を起こしやすくなっている、ということがまったく証明されていないことであり、それをいいことに単なる「感想」程度の問題意識で「規制」が誘発されてしまうことであろう。現に松沢氏も、《ゲームソフトの度合いをどう計るかというのは客観的にはなかなか計りにくい部分があります》と認めている。要するに、この「規制」を支えている基盤は敵愾心だけなのである。

 松沢氏は、神奈川県のみならず首都圏全体に規制の網をかける理由として、《例えば、多摩川を越えて向こうへ行けば、そのソフトが買えるというのでは、今、例えば新宿や渋谷に買い物に行く子も多いわけでそれは機能しなくなりますので、最低限、首都圏全体で同じような規制ができるように、私はまた首都圏連携の一環として、この問題も提起していきたいと考えております》と言うのだが、この論理に従えば日本全国に規制を敷かなければならないだろう。さらに、通販やインターネットも問題視すべきだろう。松沢氏は、このような発言をすることで、結局自分で自分の規制論の無効性を示している。

 この改憲の全文を通じた松沢氏のゲームに対する、あるいはゲームが青少年に及ぼす影響に対する認識は、はっきり言うが「感想」の域を超えていない。もちろん、松沢氏自身が《うちは二人とも女の子なんで、あまりそういうゲームソフトは家にないんですよね》と語っているように、ゲームに対してあまり明るくない、ということもあるだろうが、結局はメディアで喧伝されるような影響論を語っているだけ。なんの新味も無いのである。ゲームに明るくない向きであっても(ちなみに私は高校の中ごろまではゲームに熱中していたが、次第に離れていった。なので、最近のゲームにはほとんど詳しくない)、せめて少年犯罪の現状についてはある程度知っておくべきであろうが。

 とりわけそんな松沢氏の認識を象徴するのが次のような発言だろう。曰く、《どういうふうに調査、分析をするかというのは難しいんですが、もう国の方でもある意味で全体規制を考える時期だと私は思ってます。そういうふうに言った方が正確かもしれません》と。青少年問題の解決のために最も最初にやるべきことは、果たしてゲームの規制なのだろうか。前にも述べたとおり、ゲームが青少年問題の深刻化に寄与しているのか、ということは到底言いにくい。確かに、映像技術の向上によって、ヴァーチャルな暴力表現をリアルに再現できるようにはなっただろう。しかし、それなら、なぜもともとリアルな状況を切り取った、例えばテレビの格闘技中継などを糾弾しないのだろうか。結局、「今時の若者」に脅える「世論」にとって、ゲームが若年層にとってのみの遊戯として捉えられている以上、「世論」的にコンセンサスを得ている娯楽よりも、それを得ていない娯楽を槍玉に挙げたほうがいいだろう。しかし、そのような体たらくを続けて恥じない姿勢が、物事の多層的な本質から目を遠ざけ、安易に「敵」を捏造して糾弾してしまうようなスタイルを生み出し、「世論」の不安に乗じて根拠薄弱な規制論を持ち出す政治家や首長をそこらじゅうに生み出してしまった、という現実を、マスコミはどのように考えているのだろうか。

 また、この記者会見において、松沢氏は支離滅裂の発現をしている箇所もある。《ジェット機で橋の下をくぐるゲームというのは規制の対象になり得るんでしょうか》というインタヴュアーの発言に対して、松沢氏は《県が作っている基準を見ると、それはなかなかならないですね。例えば暴力シーンだとか過激な性描写だとか、そういうのではないですからね。まあ、だから、その辺もちょっと審議会の方でも少し相談してみたいと思ってます》と答えている。松沢氏は、《暴力シーンだとか過激な性描写》を規制しても犯罪を防ぐことはできない、と言っているわけだが、結局は「規制」が抑止力になりえない、ということを自ら示しているだろう。松沢氏はその直後において《要するにバーチャルとリアリティーの区別がつかなくなって、ゲームに感化されて、「ああいうこと、自分もできるんだな」と思って犯罪に走ってしまうと、誘発していると、そういう一つの例で出しただけであって、別にほかの例でもいいわけですけれども》と言っているけれども、いい加減こんなロジックの無効性を認めたらどうか?

 松沢氏は、ゲームの規制について訊かれた部分の最後のほうで、《公共の福祉に反するような表現の自由というのは当然そこは制限があるべきであって、それを民間に任せ、当事者に任せていたのでは進まないからということで法律を作るわけですよね》と言っている。しかし、《公共の福祉に反するような表現の自由》というのは一体何を指すのだろう。最も必要なのは実在する人に対する人権及び公共の福祉であり、その点から見れば最も規制されるべきは違法性を持った(実写の)暴力ポルノであろう(内容ではなく、撮影の過程で行なわれていること自体が刑法の暴行罪に抵触している可能性があるから)。「青少年に有害」という「感想」程度のものを《公共の福祉に反する》とすりかえるのは、かえって本来守られるべき公共の福祉(社会秩序の構成)を侵害することになりかねない。

 松沢氏のこのような認識を支えているのは、青少年問題の根本的な原因はゲームであり、それを根絶することこそ青少年対策になる、ということだろう。しかし、何度も述べたとおり、ゲームが青少年問題の深刻化に寄与している、ということは実証できない。「世論」にとってゲームとは、それを槍玉に上げれば「癒される」ものに過ぎず、松沢氏の理論はそれにただ乗りするだけのポピュリズムに他ならない。

 余談だけれども、平成13年9月11日に起こった米国のテロのとき、マスコミは飛行機が貿易センタービルに突っ込む映像を繰り返し流したけれども、それに対して松沢氏はどう思ったのだろうか。また、平成15年のイラク戦争のときも、米英がイラクを爆撃する映像を流した後、例えば小泉純一郎首相の、イラク戦争を指示する発言が流されたけれども、松沢氏はそれらの報道が青少年に及ぼす影響を勘案したことがあるのだろうか。松沢氏はゲームに関して《今、こういうものは儲(もう)けられればいいということで、さまざま規制の網をくぐり抜けて、いろんな知恵を働かせて商売する方もかなり多いので》と述べているけれども、スペクタクルな映像を流しまくって《儲けられればいい》と考えているのはほかならぬマスコミであり、そのあたりへの想像力が欠如している。現在のマスコミにおける、特に戦争報道と少年犯罪報道における想像力の欠如は深刻だ。そのマスコミの現状と比べれば、ゲームなど取るに足らないものであろう。

 松沢氏に限らず、例えば日本大学教授の森昭雄氏(蛇足だが、この人が実は脳の専門家ではないことが最近になって明らかになっている)の「ゲーム脳」理論もそうだけれども、ゲームを最初から「悪」と決めつけ、それが青少年から思考力・社会性その他を奪っていると思い込み、それらを排した「健全育成」が子供を救う、という理論が怪物の如く横行している。しかし、結局のところ、彼等の振りかざす「健全育成」は自分の「気に入らない」物を排除した上での「健全育成」に過ぎず、真の健全育成とは子供がもっと多様なメディアや社会環境に触れることのできることをいうのではないか。無論その中にはゲームも含まれる。

 松沢氏などが振りかざす「現実と仮想の区別がつかない」というのはすり替えの論理である。なぜか。それは多くの保守系の政治化が「現実と仮想の区別がつかない」事態に陥り、彼らの脳内幻想、そしてその複数形の共同幻想としての「国家」の復活を切望し、そのための憲法や教育基本法の改正が行なわれているからである。松沢氏とも親睦の深い、石原慎太郎氏などはその典型であろう。それに関する詳しいことは「俗流若者論ケースファイル11・石原慎太郎」で。

 参考文献・資料
 土井隆義[2003]
 土井隆義『〈非行少年〉の消滅』信山社、2003年12月
 浜井浩一[2005]
 浜井浩一「「治安悪化」と政治政策の転換」=「世界」2005年3月号、岩波書店
 日垣隆[2002]
 日垣隆『エースを出せ!』文藝春秋、2002年9月

 橋本健午『有害図書と青少年問題』明石書店、2002年12月
 長谷部恭男『憲法と平和を問いなおす』ちくま新書、2004年4月
 宮台真司『宮台真司interviews』世界書院、2005年2月
 ジュディス・レヴァイン、藤田真利子:訳『青少年に有害!』河出書房新社、2004年6月

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2005年4月13日 (水)

トラックバック雑記文・05年04月13日

 週刊!木村剛:[ゴーログ]『Google八分』や『Yahoo八分』は本当に起こるのか?(木村剛氏:エコノミスト)
 このブログの横に「参考サイト」として登録されています「奈良女児誘拐殺人事件における、マスコミのオタクバッシングまとめサイト」の姉妹サイトにあたる、「「フィギュア萌え族(仮)犯行説」問題」(管理人は古鳥羽護氏)というサイトがあるのですが、このサイトが一時期Yahoo!から「利用規約違反」との理由で強制的に閉鎖されてしまいました。現在でこそ復活しておりますけれども、なぜこのサイトが閉鎖されたか、というのは私にはどうもその理由が分かりません。おそらく、件のサイトで大谷昭宏氏(この人をジャーナリストと呼ぶことは、大先輩の黒田清氏に失礼ではないかと思う)をテレビの映像つきで批判して、それが著作権法違反にあたる、という見方もできるでしょうが(これはあくまでも推測であって、古鳥羽氏のサイトが著作権法に抵触しているか、ということについては議論されるべきでしょう)、このサイトよりもテレビの映像を晒しているサイトはほかにたくさんあるような気がします(同日午後9時35分追記:サイトの閉鎖に関しては、広告が表示されていなかったのではないか、という指摘がありましたので、可能性としてはこちらのほうが高いのではないかと思いますので、訂正いたします/同月16日午後7時42分修正:実際、件のサイトが閉鎖された原因は大谷氏サイドからの苦情だった、という指摘がありましたので、再修正します)。

 木村氏のブログでは、インターネットの検索サイトから外されることに対して「表現の自由」に対する侵害だ、という主張が引用されていますけれども、インターネット時代だからこそ「言論」というものを深化させなければならないのではないか、と私は思います。現在発売中の経済週刊誌「エコノミスト」で、ジャーナリストの日垣隆氏が、ブログが普及することによって「書き手」になるための敷居が低くなったことを指摘しています。日垣氏はこのことに関して「有益なこと」と言っており、ここで正念場になるのはプロの書き手だ、と述べております。私も、ブログを開くことによってさまざまな賛同や批判を目にしてきました。中には至極まっとうな批判もあり、考えさせられる文章もあったのですが、とりわけ痛感するのは、私も「言論」の担い手になってしまっている、ということです。これはもう不可逆なことです。

 ブログが普及することによって「書き手」が増えると、既存の書き手市場も含めて言論は大淘汰の時代になるのではないか、と思います。これにより、既存の「論壇誌」はますます危機に晒されることになるでしょう。でも、この危機の炎を乗り越えてこそ、言論のプロが活躍する洗練された「論壇誌」になると、私は確信しております。

 木村氏のブログにおいては、読売新聞が発行する週刊誌「Yomiuri Weekly」に掲載された記事にリンクが張られておりますが、この記事を読んだ私の感想は、とにかく問題をブログの責任になすり付けているな、ということ。「Yomiee」の記事においては、ブログは所詮「2ちゃんねる」と変わらないのだ、と言いたいのでしょうが、ブログの可能性を狭めているのは、むしろこの「Yomiee」の記事ではないか、と思われます。私はこのブログの機能を用いて、匿名での投稿ができないようにしておりますが、悪質な「煽り」に対して、技術的な面でそれを排除できるようにするシステムも必要なのではないか、と思います。あと、注意しなければならないのは、このようなネット上の反道徳的行為を奇貨として、政治家がネット規制に走ることでしょうか。

 千人印の歩行器:[読書編]bk1投稿書評(栗山光司氏)
 オンライン書店の「bk1」がリニューアルオープンしました。栗山氏の書評において、最も多く投票されたのは『アホでマヌケなアメリカ白人』の書評だそうです。ちなみに私のもので一番多かったのは、正高信男『ケータイを持ったサル』で、次が荷宮和子『声に出して読めないネット掲示板』でした。いずれも批判書評なのですが、私の書評を読んでみると、どうも批判書評が多く読まれる傾向にあるようです。しかも私が批判するのは、たいていベストセラーとなっている俗流若者論ですから、多くの人の目に映るのでしょう。あと、斎藤美奈子氏の本に書いた書評も多くの人が投票していました。

 半分お知らせになるのですが…

 「若者論」で国家論!
 ハイ!ハイ!ハイ、ハイ、ハイ!
 あるある探検隊!あるある探検隊!あるある探検隊!!
 (「レギュラー」のお二方、ごめんなさい)

 というわけで、現東京都知事の石原慎太郎氏が、「仮想と虚妄の時代」と称して、「今時の若者」から国家の衰退を嘆いた85枚にも及ぶ文章が「文藝春秋」05年5月号に掲載されたのですが、これがまた問題ばかりで、思わずその検証として「俗流若者論ケースファイル11・石原慎太郎」という文章を書いてしまいました。ついでに、これの長さを測ってみるとなんと原稿用紙30枚分だとか。ちなみにこの文章は昨日4時間かけて書いた文章なのですが、まさかそんなに書いているとは思ってもいませんでした。

 走れ小心者 in Disguise!:「エール送っとくわ」(克森淳氏)
 目に映る21世紀:これから行くイベント:⑰「トーク・イベント『僕たちの下北沢を救え!!』」

 この文章を公開するとき、多くの人に読んでほしかったので、私がよく見るブログの中でも、石原都政や自民党政治を批判的に見ているブログ(ここにリンクを貼った「走れ小心者 in Disguise!」「目に映る21世紀」にも送りました。ちなみにこのサイトの横の「おすすめブログ」に「目に映る21世紀」を追加しました)にトラックバックを送ってみたわけですが、反響は上々でした。

 それにしても、現在の石原都政を宮城県民の目から見ていると、この人はこれから先の人口減少社会に適合した政策を構築できるのか、と思ってしまいます。たとえば、五十嵐敬喜、小川明雄『「都市再生」を問う』(岩波新書)という本があり、この本では主に東京都で推し進められている「都市再生」がいかに地域を圧迫しているか、ということが告発されています。そしてこれを推し進めているのが、小泉純一郎首相、日本経団連、そして石原知事であるわけです。しかし、人口は確実に減少するのですから、いずれビルは過剰供給の事態に陥ってしまうのは見え見えです。小泉首相、石原知事、経団連は、このような「都市再生」を起こすことによって土地の値段を高騰させて、バブルの夢再び、といきたいようですが、この低成長時代において、経済的な成長が全てを叶えてくれる、という幻想はとっくに潰えているはずなのですが。

 「有害環境」規制だってそう。結局このような政策が起こる背景には、「今時の若者」をそのまま「悪」だとか「エイリアン」「モンスター」だとか決め付けており、その「原因」を「有害メディア」「有害環境」に求めたがる、という思惑があるからでしょう。しかし、このような規制は、青少年が多様なメディアに触れる自由と、親がそれを判断させる自由を奪うものに間違いありません。こういう人たちは、自分が「気に入らない」ものなら国家権力を使って排除してもいい、と思っているのかもしれませんが(「人権擁護法案」への質の低い反論もこの類でしょう。ちなみに私は、現在の「人権擁護法案」は真の人権擁護たりえない、という立場から反対です)、あんたらの身勝手な発想を国政に反映させないでいただきたい。
 しかも「有害メディア」「有害環境」規制には、なにも石原知事だけではなく、神奈川県の松沢成文知事や横浜市の中田宏市長も賛成しているのです。今年の初めのほうで、千葉県知事選がありましたけれども、ここで堂本暁子氏が当選したのが唯一の救いだった。対抗馬として立候補していた森田健作氏が当選したら、「有害メディア」「有害環境」規制の首都圏連合が完成するところだったのですよ。千葉県民に私は最大の敬意を示したい。もし東京・神奈川・千葉が「有害」対策の首都圏連合を実施したら、そのようなことをしてもいい、という「空気」が生まれてしまい、全国の保守的な首長が一斉に規制に乗り出すことも考えられなくもない。今、「言論の自由」は正念場を迎えているのではないかと思います。東京都民・神奈川県民の皆様にも、それを理解して、石原・松沢の両知事に憲法理念を守らせていただきたいです。東京・神奈川・千葉の人たちを、私は応援します。

 私が最近書いた文章はもう一つあり、赤子にかこつけ国家論を書いたジャーナリストの筑紫哲也氏の文章を批判した「俗流若者論ケースファイル10・筑紫哲也」も公開しております。それにしても、筑紫氏にもこんな保守反動的な側面があったとは。
 いいですか。少子化の時代においてもっとも大切なことの一つに、「子供」をイデオロギー化しない、ということが挙げられます。「子供」やその「親」を過度に敵視するのではなく、それらに「寛容」であること。もし「寛容」でいられないならば、せめて「子供」に歪んだ「関心」を持つことをやめてくれませんか。

 それにしても、
 minorhythm:★HappyなNews★(茅原実里氏:声優)
 このような文章を読んでいると、「子供」をイデオロギー化することがなんと愚かなことか、と思ってしまいますよね。

 あと、「この「反若者論」がすごい!01・内藤朝雄」もよろしくお願いします。これからは「若者論」に限らず、それに抗うための「反若者論」も随時紹介していく予定です。

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2005年4月12日 (火)

俗流若者論ケースファイル11・石原慎太郎

 私は宮城県民ではあるが、現在の東京都、及びその周辺の青少年政策の現状が気になっており、それを検証するサイト(例えば「「有害」規制監視隊」や「kitanoのアレ」など)をしょっちゅう見ているのだが、そのようなサイトを見るたびに、このままでいいのか、と思ってしまう。

 例えば問題の多い「青少年保護育成条例」の強化について、その内容の一つとして、出版物への規制が挙げられている。しかし、我が国において出版物規制の動きは過去何度も発生しており、しかもそれがその時々の青少年問題の解決にはなんら進展を及ぼさなかった(橋本健午[2002])。さらに、これは東京都に限らず、神奈川県の松沢成文知事も主張していることだが、ゲームに対する規制という話も出てしまっている。しかし、ゲームが青少年に及ぼす影響について実証的な研究は乏しく、多くの人が支持している「ゲーム脳」理論などは特に、最初からゲームを「悪」と決め付けている傾向が強い。そもそも我が国においては少年による凶悪犯罪は少なくとも増加傾向にはないのだから(浜井浩一[2005])、そのような論理を支持する前提さえも疑われて然るべきだろう。

 横浜市の中田宏市長に至っては、深夜に外出した少年の保護者に罰金を課す、ということを主張した。これは社会学者の宮台真司氏や評論家の宮崎哲弥氏が指摘する通り(宮台真司、宮崎哲弥[2004])、「法と道徳の未分化」という近代法以前の弊害をはらんでいる。このような条例群が施行されると、地方の多くの保守的な議員や首長がこれに同調してしまい、我が国は子供や子供を持つ家族にとって極めて息苦しい社会に転落してしまいかねない。

 そのようなことを推し進める人の心のうちを探ってみたい、と思っていると、「文藝春秋」の平成17年5月号の表紙に、「衝撃の現代若者論」という小さな文字があり、その執筆者はなんと東京都知事の石原慎太郎氏だというのである。タイトルは「仮想と虚妄の時代」。早速「文藝春秋」を購入して読んでみたのだが、これがまた内容が空疎なばかりではなく、我が国の青少年に対する無知や無理解、そしてステレオタイプな石原氏の認識が過度に強調されているのである。少なくとも私は、このような認識を持つ人が青少年行政に関わっているばかりではなく、その影響も計り知れない、ということに戦慄する。それと同時に、このような文章に対して「衝撃」というコピーをつけてしまう編集者の存在にも、無念の情を禁じえない。

 以下、石原氏の文章の内容について、特に問題の大きい部分を検証していくことにしよう。

 例えば石原氏は266ページから268ページに掛けて、自分の経験を綴りつつ現代の若年層を批判する。しかし、石原氏のことや昔の事に関しては過度に美化されているに過ぎず、当然その帰結として現代の若年層は極めて醜悪に描かれる。石原氏は自らと同時代の人に関して、《新しい時代の新しい価値観をということではなしに、新しい文明に依る情念の発露結晶の定着を願っての、未整理のままの実感的な反発であり自己主張だった》(石原慎太郎[2005]268ページ、以下、特に断りがなければ同様)。そのような立場に立って、石原氏には現代の若年層はいかように見えるか。曰く、《しかし今の若い世代には、傾聴とまでいかずとも聞いて気になるようななんらの主張も伺えないし、新しい情操情念も感じられはしない。みんな当てがいぶちの画一的で、総じて誰も無口で自らのメッセイジを声高にしゃべることもない》(268ページ)と。さらに石原氏は、269ページにおいても《日本の若い作家たちの誰も、相した風俗に追従するだけで現代におけるエイリアンを描いてくれはしない》と描いている。これがそこらの人の物言いではなく、ほかならぬ東京都知事の物言いであることに唖然とする。確かに、石原氏などの視点から見れば、現代の若年層は画一的に見えるかもしれない。しかし、その画一化を推し進めてきたのは誰か、ということを、石原氏は露でも考えたことがあるのだろうか。それは、市場のグローバル化を推し進める巨大資本であり、あるいは学習カリキュラム削減の裏で学校社会からの逸脱を許さないことを推し進めてきた教育ではないか、と思われる。残念ながら、現在の一部の(特に都市部の)若年層は、極端に消費社会化する社会の中で、さまざまな「記号」が溢れる社会をけなげに生きるしかないのである。石原氏の認識は、そのような箇所に届いているはずもなく、ただただ現代の若年層を軟弱だ、ひ弱だと罵っているだけである。さすが、「三国人」だとか「田中均は右翼に殺されて当たり前」だとか言った人である、といえようか。ついでに言わせてもらうと、石原氏が現在推し進めている青少年問題や都市の再開発は、現在の若年層から「居場所」を奪うものでしかない。

 石原氏は268ページにおいて、《どうも今日では言葉で綴られた資料なるものは最早情報として余りインパクトを持ち得ない》と書き、《いずれにせよ言語による表現や説明ではなしに、生に近く直截に視覚に訴えての現実を披瀝すれば、最早憤慨とか慨嘆とかいったことでは住まずに、彼らの価値の質感をそこまで変質せしめたものをどう修正し、価値を「真の価値」として取り戻すかを本気で考えざるを得ない》(268~269ページ)と書いてしまう。石原氏が、「今時の若者」を利用したポピュリズムを狙っているのは明らかであろう。確かにこのように《言語による表現や説明ではなしに、生に近く直截に視覚に訴えての現実を披瀝》すれば、確かに「今時の若者」の「異常な生態」を生で感じさせることはできるかもしれない。しかし、このような宣伝方法が有効になるのは、例えば暴走族だとか組織犯罪だとかいった、原因と因果関係が極めてはっきりしている場合に限るのであって、現代の青少年問題の大半を占める、時には「わからなさ」に耐えなければならない、というほかない複雑な問題を、ただ《彼らの価値の質感をそこまで変質せしめたものをどう修正し、価値を「真の価値」として取り戻すか》という単一の「解決法」に帰一させてしまうことは、かえって問題はますます深刻化するのではないか、と考えざるを得ない。ここに石原氏のポピュリズムの体質が表れているのではないか、と思われる。要するに、自らがエイリアンだとかモンスターだとか考えているものに対する「善良な」大衆の敵愾心を煽り立てることによって人気を得ようとすることである。ちなみに言うと、ナチス・ドイツの宣伝作戦においてもっとも効果を持ったものの一つとしてテレビが挙げられる(原克[2003])。

 石原氏は271ページから272ページにかけて、《ケイタイと出会い系サイト》と題して、携帯電話を用いた母子の関係性について批判を加えているのだが、これがどう見ても自らの不快に思う事例の誇張ではないか。石原氏は、《彼女たちにとってはたとえ嘘だろうと母親の携帯電話を通じて声で繋がることが子供としても義務、思いやりの孝養であり、母親にとってもケイタイでであろうと、娘と声で繋がり母親なりの念を押すことで娘の監督という責任を果たしたということなのだ。/これは所詮親子互いに馴れ合いの擬態で、まったく実質を書いた仮想の連帯でしかない》(271ページ)と書いてしまう。なるほど、確かにこの親子に限って言えば石原氏の推測も間違っていないのかもしれない。しかし、その事例だけを見て、現代の病理であると断定するのは、いささかの留保が必要ではないか。また、この事例は石原氏が《東京の実態を取材したある番組》(271ページ)で見聞きした事例なのであるが、このような番組は、編集などの要請によって内容が「今時の若者」をエイリアンやモンスターの如く描くものになっていないのだろうか。また、石原氏がこの部分において《彼女のケイタイに男どもからの申し出が登録され》《件のカモたるべき相手》《キャバクラなる風俗店に》《漫画喫茶なる店で》(271ページ)などと表現しているけれども、ここからも石原氏における現代の社会に対する蔑視が透けて見える。

 272ページにおいて《テレビ・ゲームと少年の殺人》という節に変わっているけれども、この部分はほとんど全部が事実誤認と歪曲といっていいほどである。石原氏は、《今日我々は視覚の領域でも、映画やテレビでCGが造りだすありえぬ光景を仮想として押しつけられている》というけれども、《押しつけられている》という事実があるのだろうか。もし本当に押し付けられているのだとしたら、それを推し進める人たち(巨大資本など)をなぜ糾弾しないのだろう。

 273ページの最後のほうにおいて、石原氏は《最近寝屋川小学校での見境なしに教師を殺傷した少年も、不登校生活の中での暴力的テレビ・ゲームへの耽溺によって培われた衝動のままに、殺傷という行為の本質的意味合いの理解を欠いたままあの行為に及んだようだ。その無分別さは、結局テレビ・ゲームのもたらすヴァーチャルな劇が、彼に殺傷行為に関する倒錯した情操を培った結果といえるだろう》と書いてしまう。石原氏に限らず、この手の少年犯罪報道の習い性になってしまうので困ってしまうが、どうして少年事件を報じるマスコミや、論じる「識者」は、すぐさまゲームを槍玉に上げてしまうのだろう。そもそも我が国においては、ある世代以下の人たちのほとんど、特に男性は少なからずゲームに触れているはずで、しかし近年の我が国において少年による凶悪犯罪の決して増加していないのである(浜井浩一[2005]、パオロ・マッツァリーノ[2004])。少年犯罪に「ゲームの悪影響」を見出す(原因としてでっち上げる)のは、極めて容易なことなのである。それにしても、これもまた習い性であるのだが、ゲームを徒に「仮想」とレッテルを貼り、それが全て敵である、という考え方もどうにかならないものか。

 後に石原氏が触れることになる、精神科医の斎藤環氏は、近年の少年犯罪報道に関して《これらの一切は、あきらかに「祭り」ではなかったか》(斎藤環[2005])と批判している。斎藤氏は、《多くのマスコミや専門家は、現実を無視して「少年犯罪の増加・低年齢化・凶悪化」を指摘した。しかし……これらの指摘は事実に反している。……メディアはなぜその事実を積極的に述べないのか。考えられる理由はただ一つ。誰もせっかくの「祭り」に水を差すような野暮はしたくないのだ》(斎藤・前掲書)と、現在の少年犯罪報道に対してみもふたもない批判をしている。寝屋川の事件に関しても、あるいはその前に起きた奈良県の女子児童誘拐殺人事件にしても、事件が起こってから、そして犯人が捕まってからは、情報のインフレスパイラルといってもいいほど、さまざまな推測・憶測・「分析」が激増した。しかし、その中で物事の本質を衝いているのはごく少数で、大抵は自らの「理解できない」属性を持つ者に対する敵愾心を煽るものでしかない。石原氏の「分析」も、この部類に明らかに入っている。このような「分析」が怖いのは、それに「納得」してしまう層が根強く存在することだ。

 そもそも石原氏は272ページにおいて、《端的に例えて言えば、現代では殺人という極限的な行為が、実はわが手で人を殺すという行為としての重みを欠いた浮薄な質をしか持たず、自殺もそれを行う者にとって人生の究極の選択たり得ていない》と書いているが、この文章は100パーセント誤りであるといっても過言ではないくらいだ。ここでは自殺に関する認識に絞って言うが、それならどうして世の中には自殺しようとしてもなかなか自殺できない人が大勢いるのだろうか。前掲の斎藤氏は、《実際には、死にたい思いを抱えながら死ねず似る若者が数十万人規模で存在するのが現実だ》(斎藤環[2005])と指摘している。この事実から見ても明らかな通り、石原氏は事実に即して書いているのではなく、自らのステレオタイプを思いつくままに書き続けているだけではないだろうか。編集は誰も指摘しなかったのか。

 石原氏は279ページから280ページにかけて、現代の家族の衰退について語る。しかし、ここにも実例やデータの提示がない、あるいは論理的な整合性を欠いている単なる「お話」に終始してしまっている。例えば石原氏は、279ページにおいて、《家庭に限っていえばその核化によって親子三代が共に住むという、全ての人間関係の素地を健全にはぐくむ場としての「家庭」の意味合いは淘汰されてしまった。アマゾンの原始的部落ではいまだに子供は部落の女たちが育て、ある年齢に達した子供たちの野外での仕事の責任は全ての男たちが教えるそうだが、もはや先進社会ではありえぬ構図でしかない》と書いているのであるが、石原氏に問いたい。現代の(あるいは《先進社会》の)家族は、原始的な家族に戻るべきなのだろうか。成熟社会化への流れはもはや不可逆であり、だからこそ現代の家族は成熟社会における「家族」のあり方を模索している。また、《親子三代が共に住むという、全ての人間関係の素地を健全にはぐくむ場としての「家庭」》とは言うけれども、それもまた科学的に証明されているわけではないし、そもそも《全ての人間関係の素地》が何を指すかわからない。

 なるほど、確かに石原氏の夢想する《本質》は消えた。しかし、まずそれを推し進めたのが、戦後の都市政策であることには疑いはないのではないだろうか。社会学者の宮台真司氏は、現代の若年層が下北沢を中心に展開されている「昭和30年ブーム」に惹かれる理由を、《ノスタルジーのリソース》(宮台真司[2005])ではなく《「匂い」》(宮台・前掲書)に求めている。宮台氏の言うところの「匂いがない」というのは、街が全て均質的になってしまい、入れ替え可能になることを示しているのだが、それを推し進めてきたのが戦後の「保守」勢力である。現在の「保守」勢力は、それにふたをして必死に「共同体の再建」を叫んでいるわけだが、そのような叫びは結局小共同体の中で虚しくとどろくだけだ。そして現実に生きる人たちは、そんな「説教」を待つまでもなく、成熟社会の新しい形を探し始めている。

 石原氏は280ページにおいて国家についても語り始めるのだが、ここでも石原氏は暴言を連発する。節は《幼稚化する国家》で、その書き出しは《ことの本質の欠落への認識を欠きながらの試みは所詮真の目的の達成にはなりえないし、逆に己の身を損なうことにもなりかねない》(280ページ)である。まず、北朝鮮の拉致被害者に関して《彼等の実態を眺めれば、常識で考えても拉致されていった同胞のほとんどはすでに存命していはしまい》(280ページ)と書いてしまう。拉致被害者家族に是非読ませたい文章である。また、北朝鮮の経済制裁に関して、《経済制裁という確たる有効な代案を持ちながらそれを提示もできず、耳障りのいい「話し合い」という理念にもならぬ手立てをしか口にだせぬこの国の外交なるものには、ことの本質の欠落についての認識がかけているとしかいいようない。誘拐された同胞たちがまだ生きているという設定での話し合いなるものも、実はヴァーチャルでしかないのではないか》と強硬論をぶち上げる。しかし、経済制裁に関しては、保守派からも疑問の声が上がっているほどである(森本敏[2005]、櫻田淳[2005])。経済制裁慎重論の論客の一人であるジャーナリストの日垣隆氏は、北朝鮮に対して《相手はテロ国家なのですから、その犯罪行為に対する責任を問うことも当然すぎるほど当然です》(日垣隆[2004])と前置きした上で、経済制裁については《経済制裁とは、貿易や援助を抑止する措置を言います。この犠牲になるのは常に民衆です》《北朝鮮に対しても、拉致問題で経済制裁を切り札として本当に出してしまったら、取り返しのつかないことになります。北朝鮮の為政者がクレイジーであればあるほど、人民の飢えが加速度的に進行してしまうからです》(日垣・前掲書)と疑問を呈している。石原氏は、経済制裁の地政学的な意義や、その効用を疑うことをせずに、我が国の外交を《この国は国家と呼べる代物でありはしまい》と難詰してしまうのである。石原氏はおそらく経済制裁、さらにそれが無効であるなら戦争をも辞さないのだろうが、朝日新聞記者の近藤康太郎氏が言うとおり、《戦場から遠くにいる人は、声が勇ましい》(近藤康太郎[2004])ということを我々は胸に刻み込んでおく必要がある。

 石原氏は282ページ下段の中ごろにおいて、《今日横溢する、安易に行なわれる凶悪犯罪も実はその根底に肥大化による人間の自己喪失がある。換言すればそれはただの自己中心主義であり、些細な想像力をすら欠いてしまった人間の抑制の効かぬ衝動がただ気にいらぬ、うるさい、わずらわしいというだけで他人の殺傷に及んでしまうのだ》と書いてしまうのだが、そんなに強く断定しないで頂きたい。そもそもこの文章は完全に破綻している。《人間の自己喪失》が犯罪の原因であるというのであれば、《気にいらぬ、うるさい、わずらわしいというだけで他人の殺傷に及んでしまう》というのはありえるはずもなく、むしろ「酒鬼薔薇聖斗」事件に代表されるような「自己確認型」の犯罪が主流になるのではないか。そもそも《気にいらぬ、うるさい、わずらわしいというだけで他人の殺傷に及んでしまう》というのが現代の典型的な青少年の凶悪犯罪だ、と石原氏は言っているのだが、このような理由で凶悪犯罪に及んでしまう、というのははっきり言って古典的である(宮崎哲弥、藤井誠二[2001])。

 283ページ、石原氏は《しかし彼等の多くにとっては、ケイタイ人気の誰かがその情報を裂いてだれそれの連絡先を教えてくれるということは、彼等の人間関係の枯渇を癒やす術たり得ているそうだ。そしてまたケイタイをもっていながらそれが一向にならない子供は周りから莫迦にもされ、それで阻害もされる》と書く。石原氏はこのような現象を、ただ人間関係の劣化としてしかとらえていないのだが、現実にはもっと複雑な事情がかかわっているのではないだろうか。明治大学専任講師の内藤朝雄氏によれば、現代の学校は《いつなんどき「友だち」に足をすくわれるかわからないコミュニケーションの過密共振状態》(内藤朝雄[2004])にあると指摘する。そのような空間においては、「私」と「友だち」の間の親密圏は絶対的になり、最も効果的な「いじめ」はコミュニケーションを操作する類の「いじめ」である(例えば無視=「シカト」)。石原氏言うところの《ケイタイ人気》の延長上にあるのではないか、と私は思えてならない。横浜市立大学教授の中西新太郎氏は、10代・20代の電話やメールによる通話相手の大半が友人であることを示しているけれども(中西新太郎[2004])、それもこのような学校文化の影響があるのではないかと思えてならない。ちなみに石原氏は《ケイタイ人気》が《人間関係の枯渇を癒やす術たり得ている》といっているけれども、現実はそう甘くはないようで、斎藤環氏は、若年層の中でも携帯電話を使いこなし、一見コミュニケーション上手に見える人たちは、実は誰かと「つながって」いなければならないというストレスにさいなまれているという(斎藤環[2003][2005])。

 石原氏は285ページにおいて、若年層の売春に関して語るけれども、ここでもこれまで石原氏が開陳してきた暴力的な認識が満載である。石原氏は、産婦人科医の赤枝恒雄氏の言葉を引いて(ちなみに赤枝氏は青少年の性に対する規制のキーパーソンと言われている)《そしてその取得への願望(筆者注:「援助交際」少女の願望)に抗しがたく、母親に更なる小遣いをねだる子供にある親は、家にはもうその余裕が無いからいっそ流行りの援助交際でもして奇特な年配者に貢がせたらと真顔でいうそうな》と言っているのだが、石原氏はこれが典型的な現代の家族だと思いこんでいるのだろう。しかし、本当にそうかははなはだ疑問であるし、赤枝氏が自分にとって衝撃的だったことを知らず知らずのうちに誇張して石原氏に言っている可能性もある。それに、そのような状況にある家族に対する支援は、それこそ政治の役割ではないか、という気もするのだが。石原氏が《真顔でいうそうな》と書いているのは、そのような家族に対する社会保障や性教育の不備を正当化するように見えてならない。

 ついでに性教育に関しても触れておこう。20世紀の終わりごろ、米国では、子供の「性」をタブー視し、学校では性教育よりも「純潔」さらには「禁欲」を高く掲げた教育が正義とされ、適切な性教育でさえも保守系の団体に糾弾された。また、宗教保守からフェミニストまで、性表現の規制に躍起になり、マスコミは青少年の「性」に関する過剰な報道で溢れかえった。それを告発した米国の作家のジュディス・レヴァインによると、しかしそれでも青少年の「性」を巡る問題はまったく解決しないどころか、むしろ問題を深刻化させた(ジュディス・レヴァイン[2004])。レヴァインは、青少年を「性」に関する情報から遠ざけてしまったあまり、「性」に関する知識は希薄化し、無防備な性行為が蔓延してしまったことを指摘している。我が国でも一部の自称「保守」が性教育攻撃に奔走しているのであるが(石原氏もその典型であろう)、性教育を禁止してしまったら米国と同じ事態を招きかねないのではないか。また、特に赤枝氏は、中学生までの性行為を法律で禁止しろ、といっているけれども、自由な行動が保障されている我が国において、それが実を結ぶためには、我が国が北朝鮮並みの言論統制国家及び監視国家にならなければならない。

 287ページ上段のはじめごろで、石原氏は擬似脳科学に触れてしまう。曰く、《人間のすべての基本的な感情、怒り、悲しみ、喜び、意欲といった肉体的、精神的に人間を支える内的な要因は全て脳幹によって培われる。そして脳幹は肉体的な試練、抑制によってのみ鍛えられ成長する》と。しかし、《肉体的、精神的に人間を支える内的な要因は全て脳幹によって培われる》というのは科学的に正しいのだろうか。あるいは、石原氏は脳幹を人間性のメタファーとして語っているのであろうが、そのような語り方は他の脳の部分(例えば大脳新皮質など)の働きを無視した議論になりかねないし、そもそも脳構造の欠陥が人間性・社会性の減衰を示す、というのは、脳障害者の差別につながりかねない。また、《脳幹は肉体的な試練、抑制によってのみ鍛えられ成長する》というのも、科学的に実証されているのか。石原氏は、それに応える責任がある(ちなみに同じページの下段でも、石原氏は脳幹に触れている。曰く、《国家としての本質である脳幹の成熟を欠き》だと。脳幹は偉大であることよ)。

 287ページに関しては、問題を大いに含んでいる記述はもう一つある。2つ後の段落において、石原氏は《現代の若い世代のこらえ性の無さはそのまま人間的な卑弱さであり、彼らを無個性化し、結局あてがいぶちへの傾倒にしかなり得ない。それは何よりも家庭においての親のしつけ、幼い子供たちに忍耐を強いる親の責任の不履行に起因している》と書いてしまうのだが、これもまた暴力的、というほかない。そもそも《彼らを無個性化》したのは、ひとり家庭だけなのか。東京大学助教授の広田照幸氏は、実証的なデータを用いて、昔の家庭が躾をしっかりしていた、というのは幻想で、子供の躾が家庭の責任とされたのは高度経済成長期以降だ、ということを示している(広田照幸[1999][2003])。そもそも責任を一方的に家庭に押し付けるのは、それが親の子育てリスクを増大させるばかりでなく、公教育の責任からも目をそらさせる。

 さて、278ページにおいて、石原氏のこの文章はいよいよクライマックスを迎える。この文章の最後になる288ページ、《仮想の虚妄からの解放》という節において、石原氏は斎藤環氏を引き合いに出し、《斎藤氏の報告だと氏が手がけている患者……のほとんどが、もしこの国に徴兵制度が敷かれたらどうするかという設問に、自分は喜んでと答えるそうな。それは極めて暗示的なデータだと思われる》と書く。石原氏はそれに関して、《仮想によりかかり、虚妄に囚われて身動きできぬ虚弱な人間も国家も、結局突然の外からの刺激を待たなくては正当な意思表示も行ない得ず、その存在を明かす行為も取り得ない》と書く。確かに斎藤氏は石原氏が言ったようなことを述べている。しかし斎藤氏の議論においては、「徴兵制」というのはたとえ話の一つに過ぎず、例えば地域通貨など、「ひきこもり」の人たちが社会との接点を持つことの動機付けが必要だと述べている(斎藤環[2003])。

 そして皮肉なことに、ここで明らかになったのは、石原氏こそが《仮想の虚妄》としての「国家」に呪縛されている、ということだ。それは、石原氏のこの文章を検証する中で、私がもっとも明らかにしたかったことである。

 そろそろ結論に入ろう。

 石原氏の文章全体を通じて私が受けた印象は、「空疎」の一言に尽きる。石原氏は「国家」だとか「本質」だとか、威勢のいい言葉は振り回すけれども、その全てが空疎に空回りしているとしか思えないのである。「国家」や「本質」は、結局のところ石原氏の幻想でしかなく、石原氏の思考は単なるユートピア願望に過ぎない。このような文章は、石原氏と同様の幻想を持つ人たちには快く響くかもしれないが、少なくとも石原氏と同様の幻想を持たない私には、単なる空疎な叫びにしか聞こえない。そもそも我が国は現在低成長の局面から成熟社会化への局面に移りつつあり、多くの人が経済的な成長を志すことから降りており、「国家」に対してもさして幻想を持っているわけではない。石原氏の言うとおりなし崩し的に「国家」を再建させても、結局は仏作って魂入れず、で終わるのが関の山だろう。
 また、石原氏は何ひとつ実例を示すことはしない。ただ、現代の若年層を「敵」あるいは「モンスター」「エイリアン」として祭り上げ、若年層への敵愾心を煽り、それと対北朝鮮の「弱腰外交」と結び付けて、「国家」の再生こそが急務である、と石原氏は幻想を振りまく。しかし、石原氏は「国家」を再建するための施策を何ひとつ示そうとはしない。これもまた、石原氏がただ若年層と「弱腰外交」政府に対する敵愾心のみを味方につけているからであり、論理でもって「説得」しようとする態度、そして安易に「病理」をでっち上げずに、社会変容のパラダイムを見据えて、射程が長く、現実的な処方箋を提示するという、言論人としての「真・善・美」はことごとく失われている。

 そうでなくとも、「非社会的な」若年層に「世間」の暴力性が集中している昨今である。暴走族やチーマーなどの「可視的な悪」から、ひきこもりや若年無業者などという「不可視的な悪(かどうかすらもわからない)」に遷移することによって、「世間」は若年層を一層怖れるようになった。そして、若年層の「不可視的な」病理に、さまざまな「物語化」を施し、「世間」は「不可視的な」病理を持った若年層を暴走族やチーマー以上に怖れるようになった。そして、社会の至るところに包囲網が張り巡らされ、冒頭で述べた横浜市のような、法と道徳が分離されない近代法以前の状況が出現することさえ正当化されてしまう。内藤朝雄氏は、これらのメディアに対して、《年配者たちは、わけのわからない不安や不気味な感覚を青少年に投影する。しかも投影しながら自と他が分離されず、思い通りになるはずの他者が思い通りにならないことに自己の内側からいいようのない不気味な不健全感を感じ、これが執拗な被害者感になる》(内藤朝雄[2005])と批判している。卑近な例でも、例えば昨年10月の終わりに起こったイラクにおける日本人殺害事件に対して、読売新聞などは「自分探し」という言葉を社会面で大々的に採り上げた。このように採り上げることによって、若年層には「自分探し」という幻想をやめろと、中高年層には「自分探し」に熱狂する呆れた連中なのだから殺されても当然だ、という幻想を振りまきたいのか。

 内藤氏も示唆している通り、現在巷にはびこっている俗流若者論は「魔女狩り」の体をなしつつある。ひきこもり、フリーター、若年無業者、オタク、渋谷に出入りする人々、あるいは秋葉原に出入りする人々、ネットジャンキー、電車内で床面に座って食する人、奇抜な格好をする人…、それらが犯罪に向かう「しるし」として認識され、それらを「正す」ために最も強力な手段として語られるのが「教育」と「愛国心」である。しかし、このような認識が霧のように我が国に蔓延することによって、ほかならぬ現代の我が国を生きる青少年が最も被害を被ってしまうのである。

 もう一度言う。ここで採り上げた石原慎太郎氏のような、青少年に対してステレオタイプで短絡的な思考しか持たぬ人が、青少年政策に手を出すなど、まずありえぬことである。さらに石原氏のような短絡的な思考が、多くの「保守的な」政治家や言論人によって語られており、憲法や教育基本法の改正にも影響を及ぼしつつある。

 私にとっては、ネットジャンキーよりも若者論ジャンキーによる憲法・教育基本法の改正のほうがよほど脅威である。

 参考文献・資料

 石原慎太郎[2005]
 石原慎太郎「仮想と虚妄の時代」=「文藝春秋」2005年5月号、文藝春秋
 近藤康太郎[2004]
 近藤康太郎『朝日新聞記者が書いたアメリカ人「アホ・マヌケ」論』講談社+α新書、2004年7月
 斎藤環[2003]
 斎藤環『ひきこもり文化論』紀伊國屋書店、2003年12月
 斎藤環[2005]
 斎藤環『「負けた」教の信者たち』中公新書ラクレ、2005年4月
 櫻田淳[2005]
 櫻田淳「「暴朝膺懲」の錯誤に陥らないために」=「論座」2005年5月号、朝日新聞社
 内藤朝雄[2004]
 内藤朝雄「「友だち」の地獄」=「世界」2004年12月号、岩波書店
 内藤朝雄[2005]
 内藤朝雄「お前もニートだ」=「図書新聞」2005年3月18日号、図書新聞
 中西新太郎[2004]
 中西新太郎『若者たちに何が起こっているのか』花伝社、2004年7月
 橋本健午[2002]
 橋本健午『有害図書と青少年問題』明石書店、2002年12月
 浜井浩一[2005]
 浜井浩一「「治安悪化」と刑事政策の転換」=「世界」2005年3月号、岩波書店
 原克[2003]
 原克『悪魔の発明と大衆操作』集英社新書、2003年6月
 日垣隆[2004]
 日垣隆『現代日本の問題集』講談社現代新書、2004年6月
 広田照幸[1999]
 広田照幸『日本人のしつけは衰退したか』講談社現代新書、1999年4月
 広田照幸[2003]
 広田照幸『教育には何ができないか』春秋社、2003年2月
 パオロ・マッツァリーノ[2004]
 パオロ・マッツァリーノ『反社会学講座』イースト・プレス、2004年5月
 宮崎哲弥、藤井誠二[2001]
 宮崎哲弥、藤井誠二『少年の「罪と罰」論』春秋社、2001年5月
 宮台真司、宮崎哲弥[2004]
 宮台真司、宮崎哲弥『エイリアンズ』インフォバーン、2004年11月
 宮台真司[2005]
 宮台真司『宮台真司interviews』世界書院、2005年2月
 森本敏[2005]
 森本敏「国際社会の外交圧力で体制変換をめざせ」=「論座」2005年5月号、朝日新聞社
 ジュディス・レヴァイン[2004]
 ジュディス・レヴァイン、藤田真利子:訳『青少年に有害!』河出書房新社、2004年6月

 笠原嘉『アパシー・シンドローム』岩波現代文庫、2002年12月
 姜尚中『ナショナリズム』岩波書店、2001年10月
 玄田有史『仕事のなかの曖昧な不安』中央公論新社、2001年10月
 歪、鵠『「非国民」手帖』情報センター出版局、2004年4月
 広田照幸『教育不信と教育依存の時代』紀伊國屋書店、2005年3月
 松原隆一郎『長期不況論』NHKブックス、2003年5月
 山本七平『日本はなぜ敗れるのか』角川Oneテーマ21、2004年3月
 ウォルター・リップマン、掛川トミ子:訳『世論』岩波文庫、上下巻、1987年2月

 姜尚中「「こころ主義」まん延した一年」=2000年12月19日付朝日新聞
 斎藤環「不登校児は「欠陥品」?」=「Voice」2005年1月号、PHP研究所
 内藤朝雄「“風通しいい”学校目指せ」=2003年7月3日付読売新聞
 西川伸一「若者に見る「優しい社会」」=2004年2月1日付朝日新聞

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2005年4月11日 (月)

この「反若者論」がすごい!01・内藤朝雄

 新シリーズ「この「反若者論」がすごい!」をスタートします。このシリーズは、俗流若者論に抗うための書籍や新聞・雑誌などの記事を紹介するシリーズです。

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 俗流若者論幸う我が国において、「理解できない」犯罪が起こると、すぐさまゲーム、インターネット、携帯電話といった「理解できない」ものに元凶を求めたり、あるいは自らの経験をノスタルジックに語ることによって現代に生きる親や子供を暗に叩いたりするような言論が、ほぼ日常的にはびこっている。そして、多くのメディアや言論人や政治家は犯罪者になる「兆候」が確認できると夢想し、その「兆候」を見逃さないことが現代の親に強要されている。
 しかし我が国には、このような言論状況に真っ向から異を唱える言論人が、少なからず存在することもまた事実である。このシリーズでは、そんな人たちの言論を紹介して、我が国の若者論、そして政策が真にとるべき方向性を提示していきたい。
 さて、明治大学専任講師の内藤朝雄氏は、そんな言論人の一人である。内藤氏は、現実の青少年問題に関わる議論が、どれも物事の本質を見誤るものであるとして俗流若者論を指弾している。岩波書店から発行されている「世界」平成16年12月号では、「「友だち」の地獄」という論文で、青少年を真に苦しめる現実の状況を論じている。
 この文章の冒頭では、平成16年6月に起こった佐世保野事件に関する自称「識者」の論評をテキストに、それがいかに錯誤と短絡に満ちたものであるかを批判する。例えば《「バトル・ロワイヤル」のような映像メディアが悪影響をもたらす》(内藤朝雄[2004]、以下、断りがないなら同様)という議論に対しては、《規制するにせよ放置するにせよ、政府は識者に会合を開かせて諮問するスタイルをやめて、きちんとデザインされた社会調査にもとづいて政策を遂行すべきである》と、そのデータの不備を放置しておくことを批判する。また、《少子化により社会性が失われた》というものに関しては、《殺人者の一人っ子率が突出しているなどということは聞いたことがない》、《インターネットや映像メディアのような「本物」でない仮想世界と現実との境があいまいになった》というものに関しては、《概念設定事態が混乱している》と容赦しない。佐世保の事件に関して内藤氏は、《今回の事件はきわめて珍しいケース》であると考えており、《「わからなさに耐えるしかない」と言う他ない》としている。ならば、本来問題にされるべき、構造的な問題を含んでいるような青少年問題とは何なのだろうか。また、それはどこから引き起こされるのだろうか。
 内藤氏はそれに関して、佐世保の事件の直後に起こった女子中学生の自殺を採り上げて、それの背景にあるものこそが現実の青少年を苦しめるものであると考える。
 内藤氏は、現在の学校制度が《閉鎖空間と中間集団全体主義》を生み出すものであるとして批判している。現行の学校制度は、《個人差を無視した全員一致のペースで、算数などの勉強を集団で行なう週刊をたたきこむ》ものであると内藤氏は指摘しているのだが、それがいかに現実の青少年に影響をもたらすかというと、そのような制度の下にあることによって《ありとあらゆることで「友だち」とかかわりあわずにいられず、各人の運命がいつも「友だち」の恣意的な気分や政治的思惑によって左右される状態》に青少年が置かれる、と論じている。そのような状態に置かれることによって、現実の青少年は多様な社会との接点を失い、それと同時に現実の小さな共同体の中で健気に生きることを強要される。この意味においては、現行の学校制度が青少年に求めているのは学力ではなく、閉鎖的共同体的な「世間」に適合するような「内面」を作ることに他ならない。そのような学校社会においては、《「いま・ここ」の主人は自己ではなく、受苦の共同体に沸き立つ場のノリである》。そして《ここで問題にしているローカルな秩序を規範的言明で表すとすれば、「ノリは神聖にして犯すべからず」となる》状況が発生し、《この秩序状態のもとでは、遊びであればすべてはゆるされる》という事態が発生する。このようなことに関しては、私も体験的に知っている。中学生の頃、私はトイレで用を足しているときにはしょっちゅう尻を蹴られたものだが、私がそれを指弾しても「遊び」として済ませられた。
 このような状況下において、もっとも効果的となる「いじめ」はコミュニケーション操作系の「いじめ」である。内藤氏は、現実の学校制度がつくる中間集団に関して、《このタイプの小社会には厳しい身分秩序がある。被害者が楽しそうに微笑んでいるのを見かけただけで、いじめグループは「ゆるせない!」と激昂し、そういう態度をとられた「不正」に対する正義感でいっぱいになる》と論じる。そして《いじめ被害者が楽しそうに微笑んだり、人並みの自尊感情を》持つことに関しては、《「いま・ここ・を・ともに・いきる」に対するひどい侵害》になる。我が国においては「いじめ」を見てもそれをしでかす者を注意しない、という小中学生の「意識」が発表されることに関して、多くの自称「識者」が小中学生の道徳意識の低下を嘆くけれども、実際には「いじめ」を「注意しない」ことこそが「道徳」となってしまっているのではないか、と私は考える(「チクる」という言葉はその典型であろう)。
 このような状況下から子供たちを「救済」するにはどうすればいいか。内藤氏は、当然のことながら教育システムの抜本的な見直しの必要性を唱える。曰く、《たとえば学級や学校への囲い込みを廃止、若い人たちが広い選択肢空間の元で自由に交友関係を試行錯誤できるような教育制度》を構築し、《なにやら自分を苦しめたいらしい邪悪な意志をただよわせた者には魅力を感じないので遠ざかり、より美しい別の交友関係に親密さの重点を》移していけるようにするべきである、と。そして、《少なくとも思春期以降は学級制度を廃止し、大学か単位制高校並みの個人カリキュラム制にし、生徒を学校の外を含めた広い交際圏で学ぶ若葉マークの市民として遇する制度を提案する。中長期には現行の学校制度ををチケット制による学習支援ユニットの淘汰システムにかえる抜本的な改革を提案する。すなわち、収入に対する強い逆比例で配分する教育チケット制のもとで、人々はさまざまな学習サポート団体や教材を自由に選択する》、と。
 このような制度改革に対しては、強く共感すると同時に、違和感も大きい。確かに思春期以降(おそらく義務教育終了以後のことを示しているのだろう)の青少年に対して、多様な社会に触れることによって、社会性を涵養する、ということは一理ある。
 しかし、このような議論によって、現在勢いを増している「学力低下」批判を説得できるのだろうか。内藤氏はかつて、平成15年7月4日付の読売新聞で、《「勉強は厳しく、人間関係は緩く」という第三の道》(この段落に関しては全て、内藤朝雄[2003])を主張した。読売に掲載されたこの小文の中で、内藤氏は、現行の教育改革が《「ゆとり」の意味をはきちがえ》たもの、すなわち《保守的批判派(筆者注:「学力低下」を主張する人)の「なんでも厳しく」に反発して、「勉強も人間関係も緩く」と》主張した者であると糾弾している。そして、《班活動などで集団主義を推進してきたのは、進歩的「ゆとり」派の日教組だった。かつての大会記録には、同調しない生徒に対する「仲間はずし実践」が奨励された例さえある》と、現行の教育改革路線が抜本的な解決には決してならないことを指摘する。内藤氏は、オーストリアでの実例を引き合いに出して、《ピアスや茶髪を犯罪であるかのように「摘発」する教員が、分数もできない中学生を卒業させてしまうような、日本のでたらめな「甘さ」とは好対照である》と、現行の教育体制を批判する。要するに内藤氏は、本来学校に求められている知識の習得には「厳しさ」を、そしてそれ以外の場には「緩さ」を求めているわけだ。「世界」における内藤氏の議論には、内藤氏のこのような主張が不足しているように思える。
 もう一つ。内藤氏の議論には、歴史性への視座が欠落している。簡単に言えば、そのような制度が延々と続きながらも、なぜ今になってその問題が噴出したのだろうか、という議論である。端的に言って、今になって現行の学校制度の問題点が噴出したのは、社会が変わったから(具体的にいえば、情報化や消費社会化などの「第二の近代」へのパラダイムシフト)ではないか。内藤氏は、おそらくそういうことをわかっているからこそ、現行の学校社会を「風通しのいい」ものに改革すべきだ、と主張しているのだろうが、この点にも触れない限り誤解は解けない。また、このような議論に関しては、実例が出されていない、ということも疑問の素になりうる。
 しかし、内藤氏の議論は、学問的・論理的に洗練されており、説得力がある。また、内藤氏の社会認識は現実の青少年に対して、徒に「敵」あるいは「エイリアン」「モンスター」として敵視するのではなく、社会の一員として考えていることだ。このような認識が、内藤氏(そして、俗流若者論よりもはるかに洗練された議論をする人たち)と俗流若者論の語り手を分かつ。例えば、俗流若者論を振りまいている一人である、青山学院大学教授の小原信氏は、情報化が人格の分化を促して「速さ=善」という価値観を生み出したとして、そこから青少年問題を論じたけれども(小原信[2005])、小原氏の議論では絶対に「ひきこもり」を説明することができない。現在の若年層の間に「速さ=善」という思想が蔓延しているのだとしたら、なぜ多くの青少年が現実への耐えられなさから「ひきこもり」に陥っているのだろう。そもそも小原氏は「ひきこもり」を知らない、あるいはそこらを歩いている「今時の若者」と同根だ、と無根拠に考えているからではないか。しかし、内藤氏の議論を用いれば、「ひきこもり」をある程度説明できるだけでなく、それを救済するためのフリースクールなどの存在も正当化しうる。
 今求められているのは、既存の社会変容のパラダイムをとらえた、射程の長い若者論である。内藤氏に限らず、この要請に応えている人は数多くいる。しかしこのような人が一般的な言論の場に出るのは稀で、特に、産経新聞の月刊誌である「正論」などといった保守系のメディアにはまったく出ないと言っても過言ではない(逆に多いのは、岩波書店の「世界」である)。保守系のメディアが好むような、中身のない「辛辣な議論」は、むしろ高度な社会構築にとって邪魔になる。評論家の櫻田淳氏は、現在の論壇の低迷を打破するために《言論家は、「強く辛辣な言辞」を排したうえで自らの論考を準備し、メディアは、そうした「論拠の弱さ」を免れた論考を迎え入れる》(櫻田淳[2005])ことを提案しているけれども、私は若者論にそれを求める。自らの責任を全うし、下手な扇動に走らないことこそ、言論人の「真・善・美」ではなかったか。
 もちろん、内藤氏のみならず、立場は違えど、「若者論」の解体を目指す人は多くいる。そんな人たちを、私は紹介していきたいし、皆様も是非探してほしい。

 参考文献・資料
 小原信[2005]
 小原信「幻実に翻弄される若者の時間と空間」=「中央公論」2005年3月号、中央公論新社
 櫻田淳[2005]
 櫻田淳「「強く辛辣な言辞」が質を下げる」=「論座」2005年4月号、朝日新聞社
 内藤朝雄[2003]
 内藤朝雄「“風通しいい”学校目指せ」=2003年7月3日付読売新聞
 内藤朝雄[2004]
 内藤朝雄「「友だち」の地獄」=「世界」2004年12月号、岩波書店

 斎藤環『ひきこもり文化論』紀伊國屋書店、2003年12月
 林原めぐみ『明日があるさ』角川スニーカー文庫、2002年12月
 宮台真司『宮台真司interviews』世界書院、2005年2月
 山本七平『日本はなぜ敗れるのか』角川Oneテーマ21、2004年3月

 内藤朝雄「お前もニートだ」=「図書新聞」2005年3月18日号、図書新聞

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2005年4月10日 (日)

俗流若者論ケースファイル10・筑紫哲也

 我が国において最も左翼的な週刊誌である「週刊金曜日」は、私の愛読誌の一つである。もちろん、この雑誌にはたまに極めて秀逸な論考が掲載されるので、それも楽しみなのだが、もう一つ楽しみなのがある。それは、この雑誌に時たま表れる俗流若者論である。この雑誌はもっとも左翼的であるくせに、こと「今時の若者」とか子育てとか生活習慣とか流行とかになると、極端に保守的になってしまうのである。それが私にとっては楽しみでならない。
 とりわけ、我が国を代表するジャーナリストの筑紫哲也氏の連載「自我作古」は、当たり外れの格差が極めて大きい連載である。政治や国際問題に関しては、鋭い問題提起も含まれるのだが、特に「今時の若者」に関する文章となると、極端に国家主義化することも多くあり、やはり「若者論」は左翼で鳴らしてきたジャーナリストでさえも「俗流右翼」にしてしまうのだ、と読むたびに感じてしまうのである。
 ドイツの鉄血宰相ビスマルクは、「鉄は国家なり」と言った。それに倣って言うと、今回採り上げる筑紫氏のコラムは「赤子は国家なり」、か。筑紫氏の連載の第359回目である「三つ子の魂百まで――ことばの新事典(3)」(平成17年2月18日号掲載)は、我が国の幼児や子供の姿から我が国を「憂国」して見せるという、なんとも論理飛躍の著しいコラムであった。
 筑紫氏は最初において、《日本の赤ちゃんの顔が悪くなっている――という話を、長年、小児科医をやって来た人から聞いてショックだった。ついにそこまできたか、と。》(筑紫哲也[2005]、以下、断りがないなら同様)と書く。残念ながら、《ついにそこまできたか》と感想を漏らしてしまったのは私のほうである。《日本の赤ちゃんの顔が悪くなっている》と言うけれども、筑紫氏は、なぜその小児科医がそう考えるようになったか、というところを追求しないどころか、筑紫氏はその「嘆き」に同調してしまうのだろうか。しかし筑紫氏の妄想はさらに進む。曰く、

 「赤子は泣き泣き育つ」「泣く子は育つ」などの格言は忘れ去られ、泣き止まないことが「子殺し」や虐待の原因になる世の中、“泣き防止”のために生まれて間もなく、テレビの前に赤ちゃんを置く親も多いが、二歳まではテレビを見せないほうがよいというのが、その小児科医の説である。

 残念ながら、この文章にはいくつもの事実誤認と偏見が含まれている。まず筑紫氏はさも当たり前のように《「赤子は泣き泣き育つ」「泣く子は育つ」などの格言は忘れ去られ》だとか《“泣き防止”のために生まれて間もなく、テレビの前に赤ちゃんを置く親も多い》というが、これはあくまでもステレオタイプの発露に過ぎないし、そのようなことを示すような裏づけがない。第二に、筑紫氏は《泣き止まないことが「子殺し」や虐待の原因になる世の中》というけれども、実を言うと子殺しは戦後のある時期に比べて減っているのが実情であるし、確かに児童虐待は近年になって急増したという錯覚を覚えるけれども、実際には警察やマスコミが急に注目するようになった、というのがその理由の一つである(日垣隆[2005])。さらに、児童虐待は過去に何度も「識者」によって嘆かれることが多かった(例えば、立花隆[1984])。筑紫氏の議論は、その蒸し返しに過ぎない。第三に、《二歳まではテレビを見せないほうがよいというのが、その小児科医の説である》と筑紫氏は書いているけれども、《二歳まではテレビを見せ》ることの害悪を実証したという資料はない。日本小児科学会と日本小児科医会は、《2004年には……2月に日本小児科医会、3月に日本小児科学会、とふたつの小児科医がつくる学会が、テレビ・ビデオが子どもの発達に与える影響を指摘し、「2歳になるまではテレビは控えて」と提言を行なった》(香山リカ、森健[2004])。この「提言」によると、テレビを長時間見ていると《自閉症に似た状態を呈する》(前掲書)というのである。しかし、東京女子医科大学教授の小西行郎氏がそれに関して次のように反論を行なっている。

 長時間視聴に警鐘を鳴らす小児科医会などの提言すべてに反対するわけではありません。だが、前後して自閉症とテレビを結びつける意思の発言があるなど自閉症の子と親を傷つけ、不要な混乱をもたらした。医師の発言の影響は大きい。科学的な検証をきちんとすべきです。(香山・森前掲書)

 この通り、テレビの長時間視聴とそれが幼児に及ぼす影響というのは、実際には科学的根拠はないのである。
 しかし、筑紫氏の妄想は止まらない。筑紫氏は《世界には先進国、発展途上国、中進国と色分けされた国々と地域があるが、そのどこに住んだ人たちも帰国して一致するのは「日本ほど子どもたちの目に光りがない国は他にはない」という感想である。それが生まれた時から始まっているのだとしたら…。》というのである。まあ、これも妄想の暴走であるのだが、《日本ほど子どもたちの目に光りがない国は他にはない》ということに関して、それは子育ての問題よりもむしろ経済的・社会的な問題として説明すべきではないだろうか。また、そのような「嘆き」がいつから聞かれるようになったのかも筑紫氏は示すべきである。それにしても、《それが生まれた時から始まっているのだとしたら…》と、筑紫氏のステレオタイプな現代の親たちへの見方を強引に国家の「衰退」と結び付けてしまうとは。
 筑紫氏はさらに続ける。曰く、《戦後、この国の育児法は大きく変わった。それまでの育て方が“過剰関与”であり、もっと“独立”させて育てたほうがいい、というのが大きな流れだった。『スポック博士の育児書』というベストセラーがこの面で果たした役割は甚大だと関係者は口をそろえる。その本場のアメリカと日本とが、赤ちゃんと親との関与度……で逆転したのはもう20年も前のことである》と。ここにも誤謬は多い。第一に、《その本場のアメリカと日本とが、赤ちゃんと親との関与度……で逆転したのはもう20年も前のことである》というけれども、だったら20年前から《赤ちゃんの顔が悪くなっている》(冒頭)ということが確認されうるはずだが。また、ここで筑紫氏は陰謀論(何か「悪」を決め付けて、それが国家や社会を蝕んでいる、という考え方)に足を踏み出してはいまいか。
 筑紫氏はコラムの3段目において、《ついにそこまできたか、というのは別の意味もある》として、次のように書く。最後の段落を、少々長くなるが、全文引用する。

 私の目の前に現れる大学生は、年々私との年齢差が開くせいもあって、みなかわいい。だが、大学で教える者が等しく抱くのは「高校で何を学んだのだろう」という不満と疑問である。それを高校教師にぶつけると、「私たちのところにやってきたときはもう手遅れ」と中学教育への批判が出、中学校では同様のことを小学校について言う。そして、小学校では入学してきた子たち達の劣化が語られ、この“ババ抜きゲーム”は親のところに収斂してしまう。たしかに、子どもの教育問題はいまや親をどう教育するかの段階に来てはいるが、核心は子どもが知る社会を私たち大人がどう作っているかである。

 いかがであろうか。全部が全部、根拠のない「お話」であり、徒に「今時の若者」を嘆いてみせる空疎極まりない「憂国」言説に他ならないではないか。第一に、《大学で教える者が等しく抱くのは「高校で何を学んだのだろう」という不満と疑問である》というけれども、それがどのようなレヴェルの大学で言われているのだろうか。「等しく」と言っているけれども、大学の教員が学生に求めるのは多様である。ちなみに、桜美林大学教授の潮木守一氏の《多くの青年層に学校・大学で学ぶ機会が与えられ、中等教育・大学が拡大した。しかし、その反面では、働くべき職場を見出すことができず、社会的な居場所を失った青年層も増加した。今や大学は、その彼らを吸収して、何らかの意味のある事柄を提供することが期待されている》(潮木守一[2004])という指摘にも見られるとおり、大学に入ることが社会的なステイタスに直接反映される、というのは近年になって陰りを見せ始めているのだが、そのようなことに筑紫氏が注目しないのは一体どうしてか。第二に、筑紫氏は《“ババ抜きゲーム”》に関して述べるけれども、これは責任のなすり付け合いではないか。責任を他に転嫁してならない学校関係者を、筑紫氏はどうして批判しないのであろうか。しかも《「私たちのところにやってきたときはもう手遅れ」と中学教育への批判》というのが、どのようなことを指しているのかわからないし、そもそもそれが高校教員を代表する答えであるかどうかもわからない。第三に、筑紫氏は《核心は子どもが知る社会を私たち大人がどう作っているかである》と書く。一般論としては確かにその通り。だが、哀しいのは、これが筑紫氏を免責するために使われている、という点である。具体的に言うと、このような問題設定をすることで、我が国を堕落させたのは「今時の」堕落した親だ、ということを決定付けてしまうのである。
 筑紫氏は、《それまでの》(つまり、戦前までの?)子育てと戦後の子育てをきわめて明確に線引きをして、校舎を我が国の「衰退」の元凶とすることによって、我が国の抱える複雑な問題を子育てに帰してしまうのである。そのような認識は、我が国の保守政治家などにおける「嘆き」と完全に同じであり、簡単に言えば戦後の子育てを過剰に問題視し、「家庭」を過剰に重視することによって、かえって家庭の閉鎖化を推進させ、親に過剰なまでのプレッシャーを強要する。子育ての社会化が一概にいいことだとはいえないが、少なくとも筑紫氏、そして我が国の一部の保守派の家庭に対する無理な要求は、現実の諸問題の複雑さから目を遠ざけると同時に、現実の親と子供に対する暴力的なステレオタイプ(そして、そこから派生する「対策」)を正当化する。
 そもそも筑紫氏、そして筑紫氏と同じ問題意識を共有する保守派の認識は、果たして正しいのだろうか。子育ての歴史に関して研究を行なっている、東京大学教授の広田照幸氏はこれに関しては批判的である。広田氏が《日本の伝統的な子供観では、あれこれ周囲が手を駆けなくても、子供は年頃になれば分別もつき、一人前になるものだと考えられていた。庶民層の親が、乳幼児の世話に、神経質なほど気を配るようになったのは、「三歳児神話」が広がり、生活にもゆとりが生まれた高度成長期以後のことである》(広田照幸[2003]、この段落に関しては断りがなければ全てここからの引用)と書いている通り、子育てが家庭のものと広く認識されるようになったのは戦後になってからである。筑紫氏などが理想化する戦前まで(あるいは戦後のある時期まで)の子育ては、《階層的に豊かな層への偏り》があったり、《想い出の中の美化・ロマン化》が含まれていたりする。平成16年6月に起きた佐世保の殺人事件に関する家庭裁判所の決定に関して、平成16年9月17日の朝日新聞の社説が《どこにでもいる子が、ふとしたきっかけで殺人を犯すことがありうることを認識し、子育てのあり方を改めて考えさせようとした。家裁の決定はそう読むべきなのだろう》(内藤朝雄[2005])と論評を加えるように、今や社会やメディアが家庭に負わせる責任は重い。明治大学講師の内藤朝雄氏は、朝日のこの社説に対して、《「……たえず子どものこころをのぞき込み、一挙手一投足に注意を集中して、『かたより』の『しるし』を探し出さなければならない。この作業を怠ると、あなたの子どもは殺人鬼になってもおかしくない」。現在このようなメッセージが、新聞雑誌やテレビからたれ流しになっている》(内藤朝雄[2005])と指摘しているけれども、今や「家族」が少年犯罪の元凶とされ、「家族の尊重」という、それ自体は誰も反対し得ない美名の下に国家が「理想の家族」を規定して、親・教師・社会には子供の「監視」を強要することが急務とされている。
 筑紫氏にとって「子供」とは自らの「憂国」の材料でしかないのではないか。これから少子化と人口減少がますます進行するにあたり、筑紫氏のような「嘆き」もますます加速するだろう。しかしこれからの人口減少社会にとって大事なのは、誰もが人間らしい社会生活を後れるような社会構築をすること。そして現実の諸問題に立ち向かっていくには、まずメディアで喧伝されている「危機」をそのまま受け入れるのではなく、それを常に相対化して、その解決に向けて地道な改善・改革を歩んでいくこと。筑紫氏のような「嘆き」は、成熟社会の設計にとってはむしろ邪魔なものである。
 最後に。確かに戦後の我が国は核家族化と郊外化が加速して、我が国における家族の社会性は希薄になりつつあるように見える。しかし近年はその社会性を取り戻そうとする試みが、集合住宅の建築の場に現れ始めている。例えば仙台市には、東北大学の菅野實教授が計画し、阿部仁史教授が設計した「仙台市営荒井住宅」があるが、この集合住宅は、従来の集合住宅のように全ての部屋を南向きに配置するのではなく、部屋と部屋を向かい合わせたり、あるいは廊下からベランダが見えるようにしたりと、住居の独立性と公共性を両立した新しいタイプの集合住宅になっている。それ以外にも、全国的に、多様なライフスタイルに適合し、住居を「閉じる」のではなく適度に「開く」スタイルの集合住宅が全国的に生まれつつある。筑紫氏には、そのような集合住宅のパラダイムシフトを知ってほしい。

 参考文献・資料
 潮木守一[2004]
 潮木守一『世界の大学危機』中公新書、2004年9月
 香山リカ、森健[2004]
 香山リカ、森健『ネット王子とケータイ姫』中公新書ラクレ、2004年11月
 立花隆[1984]
 立花隆『文明の逆説』講談社文庫、1984年6月
 筑紫哲也[2005]
 筑紫哲也「「三つ子の魂百まで――ことばの新事典(3)」=「週刊金曜日」2005年2月18日号、金曜日
 内藤朝雄[2005]
 内藤朝雄「お前もニートだ」=「図書新聞」2005年3月18日号、図書新聞
 日垣隆[2005]
 日垣隆『世間のウソ』新潮新書、2005年1月
 広田照幸[2003]
 広田照幸『教育には何ができないか』春秋社、2003年2月

 日本建築学会・編『コンパクト建築資料集成 第3版』丸善、2005年3月
 赤川学『子どもが減って何が悪いか!』ちくま新書、2004年12月
 笠原嘉『アパシー・シンドローム』岩波現代文庫、2002年12月
 斎藤環『ひきこもり文化論』紀伊國屋書店、2003年12月
 広田照幸『日本人のしつけは衰退したか』講談社現代新書、1999年4月
 広田照幸『教育言説の歴史社会学』名古屋大学出版会、2001年1月
 広田照幸『教育』岩波書店、2004年5月
 広田照幸『教育不信と教育依存の時代』紀伊國屋書店、2005年3月
 パオロ・マッツァリーノ『反社会学講座』イースト・プレス、2004年5月
 宮崎哲弥、藤井誠二『少年の「罪と罰」論』春秋社、2001年5月

 内藤朝雄「「友だち」の地獄」=「世界」2004年12月号、岩波書店
 水島朝穂「「読売改憲試案」の目指すもの」=「論座」2004年7月号、朝日新聞社

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2005年4月 9日 (土)

トラックバック雑記文・05年04月09日

 *☆.Rina Diary.☆*:満開☆(佐藤利奈氏:声優)
 この文章の内容とはあまり関係のないのですが、佐藤氏のミニアルバム「空色のリボン」を聴きました。私の感想としては、佐藤氏の「空」というものに対する想いが存分に込められている作品になっているな、と。タイトルが「空色のリボン」であるだけに、その歌詞には「空」という言葉、およびそれに順ずる表現が頻出します。
 一番私が心惹かれたのは、第3トラックに入っている佐藤氏のフリートーク「あの空で逢えたら Part1」です。ここでは、佐藤氏が「空」に対する想いを語っているのですが、その中で「立っていると、目の前に空が見える」みたいなことを語っていたと記憶しております。
 青い空、曇り空、雨の空。いずれにせよ、空が見える、というのはとても大事なことです。空というものは、おそらくもっとも身近にある「大自然」でしょう。上を見上げるとどこまでも続いていて、思わず吸い込まれそうな、あるいは正面を向いていても、地平線の果てまで続いているような空。空を見ることが、自然に対する興味と関心を高める第一のことだと思います。
 ここで都市計画論的な話に移ってしまいますが、今年2月5日付けの読売新聞において、読売新聞編集委員の芥川喜好氏が「編集委員が読む」というコラムで「空はだれのものか 高層ビルが消した生活のにおい」という文章を書いておられます。佐藤氏のアルバムに心惹かれた人も、ぜひとも読んでほしいコラムです。
 芥川氏は、1月の下旬に新宿で行われた「脈動する超高層都市、激変記録35年」という写真展に関して、《低い建物が並ぶだだっ広い空間に、あるとき黒い塊が現れ、次第に上へ伸びる。その近くにまた同じような塊が生じ、同じように天へ向かって伸びる。その過程が百カット近い映像の早送りで壁に映しだされる。黒い塊は瞬く間に成長し増殖し群れとなって空間を圧し、意思あるもののようにうごめいている》という感想を述べています。
 芥川氏は、《このドキュメントを見て初めてわかることがある。超高層化とは、広い空が侵食される歴史でもあったということだ》と書きます。高層ビルが立ち並ぶ場所では、上を見ても無機質な侵食された空を見ることしかできず、正面を見てもほとんど空を見ることができない、という現実。大都市において広い空を見ることができるのは、超高層ビルに登るという特権を持った人だけ、という現実。空は万人に開かれている大自然の絶景です。それが巨大資本の論理によって侵食されていく。都市化=超高層化を極端に推し進めてきた政権党や巨大資本の偉い人たちが、「今時の若者」の自然に対する意識の低下を嘆く。何なのでしょうか、この矛盾は。基本的に「若者論」を安易に振りかざす人は、政権党が以下に若年層から「生活」の場を奪ってきたか、ということをことごとく無視しますが、そこに目を向けないと現在の政権党の論理を突き崩すことはできないと思います。
 芥川氏のコラムでは、最後に《芸術系大学の学生》が書いた《「超高層ビルと人間」という社会研究のリポート》について触れられております。そこで、次のようなものが引用されています。

 東京は富士を望む街だった。高さの競争などやめて、行き来の道から富士の見える街づくりをしたら、人の心も落ち着いて平和な町になるだろう。

 自然を「征服」するのではなく、自然と「共生」することが現在のパラダイムになりつつあります。最近建築の間で流行している「環境共生住宅」「古民家再生」なども、そのパラダイムシフトに適合した形でしょう。我々は、このパラダイムシフトを理解して、誰もが人間らしい生活を送れるように社会を構築しなければならない。佐藤氏のアルバムと芥川氏のコラムから見えたのは、そのようなことでした。

 ン・ジュンマ(呉準磨)の備忘録:文教政策が大きな政府主義の最後の砦?という以上に・・・
 教科書検定が始まりました。それにしても、今年は4年前とは違い、歴史教科諸問題があまり話題に取り上げられなくなりました。それだけ沈静化したのか、それとも世間の耳目を集められなくなったのか。
 「新しい歴史教科書をつくる会」といえば産経新聞ですが、昨日、その産経新聞が発行する雑誌「正論」を久しぶりに読みました。「正論」からは、もうこの雑誌自体に見切りを付けた、ということで、1年以上書店で見かけてもてにとることすらしなかった(というのも、タイトルと執筆者からどのようなことが書かれているか、ということが見え見えだったから)のですが、今回久々に一通り目を通してみて、余計にひどくなっている、という認識を持ってしまいました。
 巻頭はライブドア問題特集。どれも本質を突いていない論文ばかりでした(岩波書店の「世界」に掲載された文章や、文藝春秋の「諸君!」の特集は読み応えがある)。しかしもっとひどいと思ったのは、日本女子大学教授の林道義氏などによる「ジェンダーフリー教育」批判の文章です。この文章は、もうバリバリの陰謀論です。なんでも「ジェンダーフリー教育」を推し進める左翼は日本の崩壊を狙っており、それを裏で操っているのはマルクスだ、と。私も「ジェンダーフリー教育」には賛成できない部分もあるのですが(性教育には賛成です。あしからず)、ここまで妄想できるのはすごい、というほかありません。しかも、このような認識が、一部の保守論壇人に広く共有されている、というのだからさらに驚きです。大体、「ジェンダーフリー教育」が「どのように」我が国を崩壊させ、「どのように」韓国・中国・北朝鮮を利するか、ということに関してはまったく触れられていない。このような雑誌はある種の「共通前提」を持っている人には大人気なのだろうが、こんなことしていると新たな読者は獲得できませんよ、と言っておく。

 走れ小心者 in Disguise!:  「ブログ版『えらいこっちゃ!』(12)」(克森淳氏)
 カマヤンの虚業日記/カルトvsオタクのハルマゲドン:[資料][呪的闘争][宗教右翼][日本会議]90-91年「有害コミック」問題の発信源・和歌山の「子供を守る会」は、極右新興宗教「念法真教」
 私は基本的には改憲は必要だと思います。しかし、現在自民党を中心に議論されている改憲論には、むしろ批判的です。
 政府・自民党は改憲案に「青少年健全育成に悪影響を与える有害情報、図書の出版・販売は法律で制限されうる」ということを入れようとしていますが、まずここに反対です。第一に、青少年がある情報に関して、そこで得る感想は多様です。第二に、国家が一律に「青少年に有害」な情報を決め付ける、ということは、表現の自由に抵触する危険性があります。第三に、自民党などの皆様が問題にしたがる「有害」な情報・環境は青少年による凶悪犯罪を増やしてはいない、ということは、すでに犯罪白書や警察白書で明らかです。第四に、立憲主義の立場に立てば、憲法とは本来国家に宛てた命令であるはずです。それを理解していない政治家が多すぎます。そして最後に、このような改憲案は、自民党の右派の利権の元となっている宗教右翼や右翼政治団体に対するパフォーマンスである可能性が高い。
 先月の読売新聞において、財団法人日本青少年研究所の調査において、我が国の高校生の半数以上が自国に誇りを持っていない、という結果を嘆いていました。しかし、これのどこが問題なのでしょうか。もし自国に誇りをもてない状況があるとするなら、それを形成した社会的な影響を分析しなければならないはずですが、読売をはじめとして保守的な政治家や論者は、我が国における「左翼」による教育を真っ先に槍玉に挙げます。結局のところ、彼らは、青少年をイデオロギー闘争の道具にしか考えていないのです。憲法の改正案も、教育基本法の改正案も、まさしくこれに当てはまるのではないか、と考えております。
 私は、「大日本若者論帝国憲法」が必要である、と考えております。もちろん、現実的な改憲案ではなく、現在推し進められている改憲案がいかに滑稽なものであるか、ということを示すネタとしての改憲案です。その意図は、「こんな憲法になるんだったら護憲派のほうがよっぽどマシだ」と気づかせることです。この改憲案の骨子は次の通りです。
 ・青少年による問題行動の抑制のため、国旗・国歌・天皇に対する忠誠心を高めて、国家に帰属するための意識を養う。
 ・青少年の愛国心と社会性の涵養のため、強制的徴兵制を男女関係なく実行する。
 ・青少年の健全なる育成のため、「伝統的な」(実際には明治以降の近代化システムの中で捏造されてきた)家族のみを尊重する。それと同様に、子供を多く出産した家族は独身者よりも優遇される。
 ・親は自らが親権を持っている子供の行動を常に監視していなければならない。
 ・青少年に有害な影響を及ぼす恐れのある情報は検閲でもって規制できるようにする。
 ・青少年による凶悪犯罪の抑制のため、「有害な」環境に出入りする青少年を警察が取り締まることができる。
 ・青少年による凶悪犯罪の抑制のため、20代の若年層にのみすべての犯罪の厳罰化を行う。
 ・ひきこもりやフリーターや若年無業者を抱える家族に関しては、青少年健全育成の視点から財産を奪って強制的に就業意識を植え付けることは正当化される。
 こんなに滑稽なことが憲法に書かれるのは皆目御免だ、と思われる方も多いでしょう。しかし、これらの議論は、すべて俗流若者論にオリジナリティを見出すことができるものばかりです。そして、それらの粟粒若者論の欲望を満たす憲法を作ろうとしたら、このような憲法が出来上がるのは必然でしょう。当然、憲法学や立憲主義の歴史も一切無視し、権力に非常に甘い憲法になります。
 愛国者たるものは、常に国賊に目を光らせていなければなりません。現在我が国にはびこる国賊は、保守政治家や論壇人が問題視したがるような「左翼」ではなく、巨大資本による都市の画一化を推し進め、青少年をイデオロギー化することによって不安をあおり、それによって利権をむさぼる自称「保守」政治家・言論人です。このような国賊こそが、まさしく我が国を壊死させる張本人です。そして、俗流若者論も、国賊として糾弾されるべきです。

 お知らせ。このブログの右側に表示されております「参考サイト」を、「参考サイト」と「おすすめブログ」に分割しました。
 「参考サイト」として追加したもの
 「グリーントライアングル
 「「有害」規制監視隊
 「少年犯罪データベース
 「「ゲーム脳」関連記事 - [ゲーム業界ニュース]All About
 「おすすめブログ」として追加したもの
 「kitanoのアレ
 「カマヤンの虚業日記/カルトvsオタクのハルマゲドン
 「読売新聞の社説はどうなの・・

 また、次の文章を公開しました。
 「俗流若者論ケースファイル09・各務滋」(4月4日)
 「2005年1~3月の1冊」(4月4日)
 「正高信男は破綻した! ~正高信男という堕落みたび~」(4月5日)

 今後の予定としましては、まず「俗流若者論ケースファイル10・○○○○」を近いうちに公開します。また、『ケータイを持ったサル』批判の「再論・正高信男という病」もできれば来月中には公開したい。正高信男批判では、「犬山をどり ~正高信男を語り継ぐ人たち~」と題して、『ケータイを持ったサル』の書評を検証する予定です。これの公開は「再論・正高信男という病」を公開したあとなので、おそらく8月頭ごろになるでしょう。また、仙台の都市計画と「東北楽天ゴールデンイーグルス」について論じた文章や、治安維持法制定80周年に関する文章、雑記文で触れた「大日本若者論憲法」の実体化など、いろいろ企画しておりますが、大学の授業も始まったので、予定は未定です。
 曲学阿世の徒・正高信男といったら、「正高信男という頽廃」において、このようなコメントをいただきました。

この人、統計のトの字も知りません。t検定もよくわかってなかった。ついでに実験してないので、なぜか論文書きます。内輪でもデータはどこから来ているのか疑問視している人は多いですよ。さらに、気に入らない研究者や学生を徹底的に攻撃(ある意味、いじめ)するので、敵は多いですね。挨拶そいても応えない、目を合わせなければ、口もきかないあたり、彼の社会性を疑ってしまいます。かれが世の中のいじめや引きこもりについての著書を書くたびに、その自分の行動はどううなんだ・・・と言いたくなります。

 休刊した「噂の眞相」みたいに「『ケータイを持ったサル』の京大教授は論文捏造の常習者」と「一行情報」を書きたくなってしまいますけれども、これが本当ならばすごいことですよ。こんな人を教授にしている京都大学とは、いったい何なのでしょうか。誰か止めてあげられる友人はいないのか。

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2005年4月 5日 (火)

正高信男は破綻した! ~正高信男という堕落みたび~

 科学者に限らず、評論や分析のプロというのは本来、時流や世間体に流されず、学問や経験によって蓄積された深い見識を持って物事の本質を見抜く論評が求められている。そしてそれを求めるマスコミも、本来であれば、そこで得られた識見が公に発表するに足るものか、ということを見極めなければならないはずである。
 ところが、いつの時代にも、そのような原理原則をかなぐり捨て、一見俗耳には聞こえがいいが、そこで大変な過ちを犯していたりとか、あるいは特定の人種に対する偏見、誹謗中傷が紛れ込んでいたりしようがまったく気にしないでステレオタイプを恬然と垂れ流してしまう「識者」が現れるのもまた事実である。マスコミもまた、その人がもてはやされているからといい、安易にその分野の第一人者として持ち上げてしまう。そうして、本来であれば優秀な学者でさえ、華やかな頽廃の道を歩んでいってしまう。気がついたときには、すでにその人の言動は思い込みと差別に溢れ、大衆に不要な恐怖と偏見を植え付けてしまうような暴論を垂れ流し続けるようになってしまう。
 曲学阿世の徒、京都大学霊長類研究所教授の正高信男氏も、このパターンに見事に当てはまる。正高氏は平成12年周辺から青少年問題について語り始め、読売新聞などに社会時評を連載してからは少しずつその言説に論理飛躍が表れ始め、その第一の帰結が『ケータイを持ったサル』(中公新書)として表れた。当然、マスコミは大絶賛したが、真面目な学者・評論家からは警戒され始めた。その本が飛ぶように売れてから、正高氏は飛躍的にマスコミに登場するようになり、読売新聞なんかはその本の書評を2度も掲載したり、記事中のコメントに積極的に登場させているばかりではなく、平成16年1月からは教育面の交代執筆のコラムで連載を始めた(このコラムの書き手は、正高氏と、藤原正彦、堀田力、市川伸一、平野啓子の各氏)。正高氏の文章は回を追うごとに論理飛躍と差別を増し、ついに当たり障りのない(しかし細かく検証すれば問題が大有りの)若年層批判を垂れ流し続ける、お手軽な「憂国」の人に成り下がった。そうして生まれたのが「NHK人間講座」のテキスト、『人間性の進化史』である。
 平成17年4月4日付読売新聞に掲載された正高氏の文章、「「ごくせん」に共感、元ヤンキー」を見て、嗚呼、ついに正高氏はここまで来てしまったのか、と嘆息せざるを得なかった。いや、そうなるのは必然か。
 最初に断っておくが、正高氏がここで採り上げている「ごくせん」に関しては、漫画もドラマもアニメも見たことがないので、その内容について論評することはできない。しかし、この文章に表れている正高氏の若年層に対する差別意識は、批判しておかねばなるまい。
 正高氏は1段目で、ドラマの内容を紹介した後、1行目から2行目にかけて、このドラマに共感する30~40代の人たちの深層心理を書く。曰く、《もっとも実際には「ごくせん」のような教師はいるはずもないのでで、みんな早く一人前と認められることを願った。それゆえ彼らの代表格の暴走族は、おおむね早婚だし、子どもを持つし、しかも子だくさんだったりする。次世代の気持ちの分かる人間を目指していた》(正高信男[2005]、以下、断りがないなら同様)と。どのような理由でもって《みんな早く一人前と認められることを願った》というのか、具体的な論証立てをすべきである。また、暴走族を《彼らの代表格》とするのは、簡単に言えば「暴走族的な」人がその世代全体に分布していて、真に《代表格》といえるかどうかを検証しなければならない。さらに、《それゆえ彼らの代表格の暴走族は、おおむね早婚だし、子どもを持つし、しかも子だくさんだったりする》というけれども、その統計的なデータもないし、その世代は上の世代に関して出生率が少ない(というより、我が国の出生率は戦後一貫して減少している)。私は出生率を無理に上げることは徒労だと考えているし、少子化に対しても楽観的なので、この点では正高氏とは明らかに立場を分かつのだが、正高氏が現代の人口に対して間違った認識を述べていること、さらにその認識が余りにも図式化しすぎた世代認識から来ていることは指摘しておきたい。
 本番はここからだ。正高氏は、その下の世代に当たる現代の若年層に関して、こういった暴言を吐いてしまう。曰く、《けれども願ったことが、そのまま現実にかなうとは限らない。ビデオ、CD、DVDのレンタルとテレビゲームに浸って育った連中は、そもそも自分のことの理解を周囲に求めようとすら思わない》だと。これは単なる正高氏のステレオタイプでしかない。自らの思い込みを、それがさも事実であるかのように語る正高氏は、下の世代というものに差別的な感情しか抱いていない、といわれても、仕方ないであろう。はっきり言っておくが、正高氏のこの文章中における《ビデオ、CD、DVDのレンタルとテレビゲーム》は、はっきり言ってシンボルでしかないのであり、本質の一部ではあるかもしれないが決して全部ではない。正高氏が本気で《ビデオ、CD、DVDのレンタルとテレビゲーム》が世代間断絶、親子間断絶の原因になっている、と考えているとしたら、それは他の要因を無視した架空の論証立て、と判断せざるを得ない。また、《そもそも自分のことの理解を周囲に求めようとす思わない》というものが、いかなる状態を指しているのかも分からない。まあ、考えられるとしたら、マスコミ的な若年層へのパブリック・イメージを過度に簡素化して述べているのだろう。それにしても《連中》とは…。
 正高氏は《改めて顧みた時、日本では子どもに対しまわりが幼少期より……気持ちを察してやる傾向が途方もなく強いことに気づく。結果として、分かってもらうことには慣れ親しんでいても、自分から相手に分からせるための労力を払うという訓練を受けずに成長していく》と一般論を述べた後、《時代の流れが速くない頃には、それでも支障はなかった。だが高度成長期以降、状況は変わってくる。それがまず、今となっては古典化したヤンキーの反乱を生んだ。そして今日、子を持つ年代に達した彼らは、次世代からなんらきたい(筆者注:おそらく誤植。正しくは「期待」だろう)をかけられないことに当惑し、「ごくせん」にただただ共感する》と書く。《次世代からなんらきたいをかけられない》というのはあるにしても、それはむしろ経済的な原因によるものが大きいのではないか。また、一般論の正しさや暴力性についても正高氏は考慮した形跡はない。自らの思い込みだけが全てになってしまっている。
 正高氏の図式は極めて明快だ。曰く、今日のような青少年による「理解できない」犯罪や「問題行動」を生み出したのは、携帯電話、インターネット、及びテレビゲームなどといったデジタル機器であり、それがかつてない世代間の断絶を引き起こし、社会を危機にさらしている。正高氏の最近の言動をまとめるとこのような図式になろう。正高氏がこのような思考に凝り固まっているため、最初から何かを「敵」と決め付ける、という学者としてはあるまじき行為、いうなれば陰謀論に走っている。そのため、若年層に対してそれをテレビやゲームや携帯電話などに侵食されて人間性が退化したそうであるという烙印を押すことも、そしてそれを過剰に敵視することもまったくいとわない。自らの言論に責任を負わないので、当然社会構築、制度構築という視座はことごとく欠落し、目先の事象を捕まえて「憂国」してみせる、というスタイルで自己完結する。
 世代論それ自体が問題なのではない。真に問題なのは、世代論を自らの優位性を誇示するために乱暴に振りかざすことである。正高氏はその隘路に見事にはまっている。信頼とか共生とか安心ではなく、若年層などの「理解できない」シンボルを持った人種に対して敵愾心をあおることにより、閉鎖的共同体的な「安全」ばかりを増幅させる売国奴を、正高氏は明らかに利している。
 正高氏は完全にアジテーターである。我々はそこに気付くべきだ。
 そしてこう言うべきだろう。
 「正高信男は破綻した!」と。

 引用・参考文献
 正高信男[2005]
 正高信男「「ごくせん」に共感、元ヤンキー」=2005年4月4日付読売新聞

 斎藤環『ひきこもり文化論』紀伊國屋書店、2003年12月
 広田照幸『教育不信と教育依存の時代』紀伊國屋書店、2005年3月
 パオロ・マッツァリーノ『反社会学講座』イースト・プレス、2004年5月
 松谷明彦『「人口減少経済」の新しい公式』日本経済新聞社、2004年5月
 山本七平『日本はなぜ敗れるのか』角川Oneテーマ21、2004年3月

 内藤朝雄「「友だち」の地獄」=「世界」2004年12月号、岩波書店
 内藤朝雄「お前もニートだ」=「図書新聞」2005年3月19日号、図書新聞

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2005年4月 4日 (月)

2005年1~3月の1冊

 私が2004年12月16日~2005年3月31日に読んだ本に関して、特に印象に残ったものを紹介します。

 1:B・R・アンベードカル、山際素男:訳『ブッダとそのダンマ』光文社新書、2004年8月
 書評:「仏教は〈私〉の中にある
 インドの不可触民に支持されているインド新仏教の火付け役となった仏教の解説書が光文社新書として刊行された。仏教の開祖であるブッダの人生と、そのブッダがいかなる教えを説いてきたか、ということが幅広く書かれており、私のように仏教に明るくない向きでも、ブッダの教えの奥の深さに感銘を受けるのは確実であろう。必読。

 2:芹沢一也『狂気と犯罪』講談社+α新書、2005年1月
 書評:「「狂気」を囲い込む社会
 なぜ我が国は精神病院列島となったか。そのルーツは明治維新以降の近代化にあった。戦前における「狂気」の捉えられ方や司法に介入しようとする精神医学の思惑を検証し、昭和25年の精神衛生法の制定から雪崩を打って精神病国家と化する戦後の我が国を描き出す。その上で本書が導き出す結論とは。大谷昭宏や福島章や森昭雄などの思想的ルーツもわかる優れものだ(笑)。

 3:カール・セーガン、青木薫:訳『人はなぜエセ科学に騙されるのか』新潮文庫、上下巻、2000年11月
 「科学の良心」、カール・セーガンによる遺言的名著。主に米国で蔓延している疑似科学を鋭く批判しつつ、いかにして科学の面白さと感動を後世に伝えているか、ということを全身全霊をかけて論じている。これを読まずして科学哲学と科学倫理を語るなかれ、と言ってもいいほど、科学を志す者にとっては必読の要素が満載である。

 4:潮木守一『世界の大学危機』中公新書、2004年9月
 米国、ドイツ、フランス、英国の大学の歴史を探り、21世紀における我が国の大学のあり方を考える野心的な本。それぞれの国における大学のあり方の変遷を詳しく述べており、大学生も含めて大学に関わっている人は必読の文献。「若者論」にまみれた俗流大学生論を完膚なきまでに打破してくれる底の深さを持っている。

 5:山室信一『キメラ――満洲国の肖像・増補版』中公新書、2004年7月
 書評:「建国のロマンと挫折
 再来年は満洲国建国75年である。満州国建国において当時の日本政府、特に石原莞爾と板垣征四郎の思惑や、建国に向けての世論の盛り上がり、そして建国後の挫折や崩壊までをさまざまな資料を用いて描く。増補版の発行にあたって、満州国の当時から現在に至る意義を架空問答形式で説明した章は特に読み応えがある。原書は吉野作造賞受賞。

 6:笠原嘉『アパシー・シンドローム』岩波現代文庫、2002年12月
 青年期、特に大学生の精神病理について1970年代前半に発表した論文をまとめたもので、特に「スチューデント・アパシー」や「退却神経症」概念に関しては現在の「ひきこもり」の研究にも応用できる部分が多い。研究者としての理念と善意が伝わってくる本である。著者に強い影響を受けた斎藤環氏による解説も必読。『青年期』(中公新書)、本書、そして『退却神経症』(講談社現代新書)は、青年期病理学の古典的名著としてぜひとも目を通しておきたい。

 7:宮台真司『宮台真司interviews』世界書院、2005年2月
 1995年から2004年まで、社会学者・宮台真司氏のインタヴューを時系列で掲載したもの。宮台氏の語り口は時流に合わせて変遷しながらも、その思想的立脚点は一貫して変わってないことに気付かされる。宮台氏の著書を多く読んできた人にも、1冊も読んでいない人にもお勧め。

 8:長谷部恭男『憲法と平和を問いなおす』ちくま新書、2004年4月
 憲法はいかなる理念の下で構築されるべきか。立憲主義という従来の憲法論が見逃してきた極めて重要な論理を概説。民主主義はなぜ必要か、あるいは、国家のために死ぬことが出来るか、など、憲法の倫理の中心となる理念を説明する。主張としては護憲であるが、改憲派も読むべき。憲法に対する見識を磨いてくれる最良の砥石になる。

 9:日垣隆『世間のウソ』新潮新書、2005年1月
 書評:「我々は何に脅えているのか
 巷に溢れる嘘や大げさを仔細に検証する。その確率が交通事故で死亡する確率よりもはるかに低いにもかかわらず「一攫千金」を謳う宝くじの宣伝や、警察が「民事不介入の原則」という虚構の下で児童虐待の検挙に踏み切らなかったことを無視して児童虐待の「急増」を喧伝するマスコミ、さらには「超大国」アメリカの失敗まで、常に疑ってかかった時評集。

 10:池内恵『現代アラブの社会思想』講談社現代新書、2002年1月
 社会が混迷を深めると、決まって人々の不安を煽り立てるものが登場する。本書は1990年代から2001年までにアラブで広まった陰謀論を紹介し、その歴史的、思想的背景を探る。第2回大佛次郎論壇賞受賞。

 11:宮台真司『亜細亜主義の顛末に学べ』実践社、2004年9月
 「力は強いが頭は弱い」、「帝国」アメリカにどう立ち向かうか。これに対抗する理念として、国連中心主義や亜細亜主義を持ち出す。近代的なプロセスを通じていかにアメリカニズムに抗っていくか、という命題を、わかりやすく緻密な論理で説く。

 12:矢田浩『鉄理論=地球と生命の奇跡』講談社現代新書、2005年3月
 鉄で読み解く生命と人類と文明の歴史。地球において高度な生命が発達した理由は鉄イオンによる酸素の固定にあった。鉄が生命に及ぼすさまざまな影響を生物の進化史と絡めて紹介し、さらに製鉄技術と文明の発展や停滞を論じる。地球温暖化の解決策まで議論は及んでおり、大風呂敷を広げているといわれればそれまでだが射程の長い1冊。環境学を志す人は必読。

 13:村田晃嗣『アメリカ外交』講談社現代新書、2005年2月
 米国のイラク占領政策の混迷はどこから来たのか、そしていかなる思想的背景を持っているのか。建国からのアメリカ外交の変遷を歴史的なダイナミズムの上で検証する。日米外交の指針を探る上では必読といえるが、著者のイラク戦争に対する評価は疑問が残る。

 14:橋本健午『有害図書と青少年問題』明石書店、2002年12月
 書評:「「若者論」の不毛なる歴史
 最近になって「有害メディア」規制がまたぞろ加熱したが、このような不毛な議論は戦後の我が国においても過去に何度もあり、そのたびに出版界は自主規制を行なってきた。しかし、それもそろそろ限界が近づいており、国家が本格的な「有害メディア」規制に乗り出すのは意外と近いかもしれない。俗流若者論の不毛なる戦後史を描いた本書は要チェック。

 15:江畑謙介『情報と国家』講談社現代新書、2004年10月
 国家戦略に関して情報は以下に関わるべきか。国家情報機関を持たない我が国が、いかにして国際社会・国際紛争を生き抜くか。情報と国家の関係を論じた本であるが、個人と情報を論じた本としても読むことができ、メディア・リテラシーを高めたい人にもお勧め。

 ワースト:矢幡洋『自分で決められない人たち』中公新書ラクレ、2004年9月
 書評:「俗流若者論スタディーズVol.2 ~精神分析の権力性を自覚せよ~
 著者が独自に編み出した「ネオ依存症」概念をひたすら自らの不快な事例に当てはめるばかりの本。この著者は臨床心理士であるのだが、精神分析の権力性を理解しているのだろうか(詳しくは2と十川幸司『精神分析』(岩波書店/思考のフロンティア)を読んでほしい)。自らの言論に対しても責任をとろうとする姿勢も見られない。なるほど、この著者も「ネオ依存症」だったのか。

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俗流若者論ケースファイル09・各務滋

 ここ最近の「俗流若者論ケースファイル」は、若狭毅森昭雄瀧井宏臣&森昭雄、と、3回連続で擬似脳科学を採り上げてきたので、今回も擬似脳科学を採り上げたい。とはいえ、今回は、週刊誌の「ネタ」的記事で、「ゲーム脳」みたいに差別性が濃厚なわけでもないので、あまり仰々しく糾弾しない。少し楽しむ程度にしたい。
 今回採り上げる文章は、朝日新聞社から出ている週刊誌「AERA」の編集部の各務滋氏の筆による記事「男が勝てない会話力格差」(「AERA」2005年3月21日号掲載)である。この記事を検証する前に、少し寄り道をしたい。
 「AERA」2003年1月13日号に、同誌編集部の大和久将志氏の筆による「欲望する脳 心を造りだす」という記事が掲載されている。この記事は、脳科学の最先端を追った記事なのであるが、後半では、ベストセラーとなった『話を聞かない男、地図が読めない女』を批判的テキストに、擬似脳科学が流行する背景を論じ、それらに反証を行なっている。大和久氏は、件の本に掲載されたエピソードを引いて、《なんだそれ?これが副題の「男脳・女脳が『謎』を解く」を象徴する話だろうか》(大和久将志[2003]、この3段落に関しては全てここからの引用)と疑問を投げかけ、さらに同書に掲載されているほかのエピソードを採り上げて《言っては悪いが、これだけ聞けば「酒場の与太話」である。……脳科学の成果は「与太話」に結実したということか》と書いている。
 さらに大和久氏の記事では、確かに認知心理学の分野では結果に男女差があり、脳の形態にも男女で違いがある、というものの、それを脳機能の違いに結びつけることはできない、としている。それどころか、《女性は男性より、左脳と右脳をつなぐ脳梁や前交連と呼ばれる部分が太いため、左右の脳で活発に情報交換している》という通説を否定するような学説もある、というのである。
 この記事には、俗流脳科学に対する痛烈な批判が添えられている。特に、《厳密に考えれば、脳の状態が、問題になっている行動の結果なのか原因なのかわからない。……そういう「科学的」な言説に対しては、人文系の立場から常に相対化していかなきゃならないと思います》という評論家の宮崎哲弥氏と、《「脳科学ではこうなる」というのを集めると、ものすごく陳腐な人間像ができるわけです》というソニーコンピュータサイエンス研究所リサーチャーの茂木健一郎氏の分析は、今回採り上げる記事を読んでいく上で覚えておきたい。
 さて、本題に移ろう。各務氏の記事では、最初に、東京都足立区立東島根中学校のここ最近10年間の生徒会長が《女女女男女男女男女男》(各務滋[2005]、以下、断りがないなら同様)となっていることを採り上げて、《最近何だか男子の元気がなく見えるのはなぜだろう》と各務氏は疑問を呈する。さらに、その疑問を裏付けるようなデータを採り上げる。引用が長くなるが、曰く、《携帯電話を外出時に持ち歩く率は、女子が男子の約2倍。インターネットやメールをする割合も、6対4で女子が高かった。ITコミュニケーションだけでなく、ローテクな「長電話」も7対2、「家族と話す」も9対7で女子のほうが「良くする」と答えた率が高い。一方で、「テレビゲーム」は3対1で男子が圧勝した》と。この調査は、ベネッセ教育総研のレポートの平成15年2月号に掲載された、松蔭大学専任講師の深谷野亜氏らの調査なのだが、まず、いつ、どこで、何人を対象に、どのような形式で調査を行ったのか、というのが明示されていない。従って、この調査をどこまで信用していいかわからない。深谷氏は、《女子はコミュニケーションそのものが「遊び」になる一方、男子はコミュニケーションをとらずにひとりでできる遊びをする傾向が強い》と指摘しているけれども、テレビゲームがコミュニケーションをまったく生み出さない、というのはないだろう。少なくとも、ゲームを仲介したコミュニケーション、というものもあるはずで、そのようなことに関しても考えておくべきだった。
 各務氏は35ページにおいて、《関西の塾の先生が半年前、中学生の男女生徒を対象にとったアンケート》の結果を引き合いに出す。テーマは「佐世保事件」で、これに関する女子の答えは《自力で事件の本質を的確に表現してしまった》のに対し、男子は《学級会の発言みたいに、模範的だが抽象的。全体に、男子は女子よりも次数も少なかった》というのである。そのような結果に関してその塾講師はこう指摘する。曰く、《父親を「あの人」と呼ぶ男の子が多くて驚きます。父親の存在感が薄いうえ、男の子は大きくなると母親からも遠ざかる。大人とまじめに向き合って話をしていないことが原因ではないでしょうか》と。このような分析ははっきり言って危ないのではないか。第一に、女子の父子関係・母子関係について触れられていない。また、男子において父親の存在感の大きさ(そんなものをいかにして測るかどうかはわからないが)と文字数の多さや記述の具体性に関して有意な正の相関関係が認められる、ということを提示しなければならないはずである。
 ちなみにこの結果に関して、ちょっと教条主義的なジェンダー概念を通じて説明してみると、男子に関しては社会からの期待が大きいため、模範的な回答を求められがちなのに対し、女子はそのような圧力が小さいので、自分の意見に即したことを言うことができる。また、題材が題材なので、男子よりも女子のほうが答えやすい、ということもあるだろう。
 これ以降、36ページの終わりのほうまで、女性のコミュニケーション能力が男性のそれよりも優位であることを示すデータや事例を挙げていくのだが、これらに関してはこれ以上深入りしない。脳の話が出てくるのは、節が移る36ページの終わりから37ページの中ごろにかけてである。曰く、《女性の脳は脳梁の後端(脳梁膨大)が男性に比べて、太い傾向がある。……これが太いということは、神経線維が太いか、本数が多い可能性を示しているという。つまり、ハードウエアとして優れているのではないかということだ》と。しかしこのようなことに関しては、冒頭で採り上げた大和久氏の記事で否定されている。また、このような分析に関しては、ジェンダーの視点からの分析がまったくない。しかし、人間の社会性を分析するに当たって、やはりジェンダーは無視できない存在ではないか。セクシュアリティだけに注目していたらいずれは壁に当たる(ジェンダーのみならず、家庭環境、経済状況などにも注目すべき)。
 それにしてもこの記事の問題意識が、冒頭における《最近何だか男子の元気がなく見えるのはなぜだろう》ということなのであったが、女性が強くなったのか(それに関して男性が相対的に弱く見える)、それとも男性が弱くなったのか、その疑問を解決するための(そもそもその疑問が正しいものであるかを証明するための)データが少しも提示されていない。途中に出てくる脳科学の話にも余り脈略がない。
 もっとも、この程度の記事に目くじらを立てていても仕方がないだろう。また、この記事の検証において、一つだけ私の中で思いついた仮説がある。それは、昨今流行している俗流若者論、なかんずくインターネットやメールに関するものは、論じる(正確に言えば罵る、か)人におけるジェンダーバイアス(具体的に言えば男性的なジェンダーバイアス)がかなりかかっているのではないか、ということだ。これに関しては、まず俗流若者論の作り手の大半が教条主義的な「道徳」概念に基づいていること、さらにこれら俗流若者論が真っ先に目をつけるのが女子高生(その多くは「渋谷の女子高生」)であることで確信に変わる。俗流若者論におけるジェンダーバイアスに関しても、今後は検証してみる必要がありそうだ。
 今回は、あまり記事には深入りしないで、安易なデータや実例を用いた俗流若者論の手法に関してそれを検証するためのヒントを提示したつもりである。しかし次回は記念すべき10回目である。実を言うと私は、10回目に検証・批判するにふさわしい、とっておきの文章を用意している。その書き手は、我が国を代表するジャーナリストのあの人だ。誰が出てくるかは、次回をお楽しみに…。

 参考文献・資料
 大和久将志[2003]
 大和久将志「欲望する脳 心を造りだす」=「AERA」2003年1月13日号、朝日新聞社
 各務滋[2005]
 各務滋「男が勝てない会話力格差」=「AERA」2005年3月21日号、朝日新聞社

 笠原嘉『アパシー・シンドローム』岩波現代文庫、2002年12月
 茂木健一郎『意識とはなにか』ちくま新書、2003年10月

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