俗流若者論ケースファイル14・大谷昭宏
ここ3回の「俗流若者論ケースファイル」は、検証した相手が東京都知事、神奈川県知事、そして国会議員、と続いたので、少々肩に力が入りすぎてしまった。なので、今回は、少々肩の力を抜いて検証したい。
今回採り上げるのは、このシリーズの第1回でも検証した、ジャーナリストの大谷昭宏氏である。大谷氏といったら、昨年暮れに起こった奈良県女子児童誘拐殺人事件において、犯人を「フィギュア萌え族」とプロファイリングをして、このような犯罪を犯す輩はたくさんいる、と不安をあおった。しかし、そのプロファイリングは間違いだった。それでも大谷氏はオタクの危険性をこれでもかこれでもかと煽りまくり、マスコミもまたオタク批判の論客として重用した。その結果、大谷氏の言動はますます暴走の度を増し、冷静な発言はついに見られなくなってしまったようだ。
また、この事件に関する大谷氏の一連の発言は、大谷氏が現代の若年層に対して以下に歪んだ認識を持っているか、ということを証明する形となった。今回検証する文章もまた、大谷氏の若年層に対する狭隘な認識と、論理矛盾が目立つ文章である。その文章とは、大谷氏が連載を持っている「日刊スポーツ」の大阪版平成17年4月12日号に掲載された、「野球は子どもにいろんなことを教えてくれる」である。私は野球は嫌いではない。しかし、野球だけを特別視するのはどうか、と思う。
ついでに言うと、ドイツの鉄血宰相ビスマルクの言葉をもじって言えば、大谷氏の文章は「巨人は国家なり」ということになろうか。この文章を読んでいる限りでは、どうも野球の魅力は巨人しか持っていない、と大谷氏は考えているのだろうか、と首をひねってしまう。
大谷氏は冒頭で、《先々週のサンデープロジェクト(テレビ朝日系)で「プロ野球を救う道とは…巨人代表に直撃」をやらせていただいたのだが、そのプロ野球改革元年のわりには、人気がどうもよくない》(大谷昭宏[2005]、以下、断りがないなら同様)と書くのだが、その証左として大谷氏が提示するのは、《今年から改革の一環として、いまさらながら各球場の観客数を実数か実数に近い数字で出すようになった。甲子園は相変わらず、すごいなと思うけど、例えば4月6日の巨人-横浜戦の横浜スタジアムは観客わずか1万3046人。この日のパリーグの日ハム-楽天、オリックス-ソフトバンクさえ下回っているのだ》ということなのだ。何だ、阪神戦やパ・リーグは結構人気があるではないか。どうやら大谷氏は、巨人の人気がプロ野球の人気だと思っているらしい。しかし、最近のプロ野球は、むしろ他球団が頑張っている感じがある。加えて、昨年の巨人は、前オーナーの渡邉恒雄氏に対する嫌悪感もつのったので、巨人戦の動員数や視聴率が落ちるのもある意味では当然であろう。しかし、この文章に対する批判は、これだけでいいだろう。本当に問題があるのは次の段落の文章だ。
大谷氏曰く、《巨人のことばかり言っているのではない。少年の暗い事件ばかり取材して、子どもたちをテレビゲームからスポーツに引っ張り出せと言っている私としては、この現実が悲しいのだ。中でもやっぱり野球というスポーツの魅力を子どもたちに知ってほしい》と。これには笑ってしまった。大谷氏は《少年の暗い事件ばかり取材して、子どもたちをテレビゲームからスポーツに引っ張り出せと言っている私としては》と言っているのだが、結局のところ一連の不安扇動はスポーツの振興のためだったらしい。しかし、後で述べるけれども、スポーツの振興は、むしろ地域一体型で行なわれるべきで、ゲームばかりやってると犯罪者になるがスポーツがそれを救ってくれる、という妄想の下子供たちを無理やり引っ張り出す、ということは、かえってスポーツの魅力を減衰させることになりはしまいか。必要なのは環境の整備である。
さて、先ほど環境の整備と言ったが、最近になってそれは急速に絶望的になりつつある。なぜなら、今年3月、宮城県(!)で、キャッチボールをしていた小学生が、誤って暴投をして関係ない別の小学生に当たってしまい、しかも不幸にも息絶えてしまった、ということに関して、仙台地裁が小学生は自分のボールが他の人に当たってその人が息絶えることは十分予測できたはずだ、という判決を下し、さらには親に子供の監視責任を強調した。これでは、子供がキャッチボールすらできなくなる判決だ、と言っても仕方ないではないか。そうでなくとも、最近の公園には、多くの禁止事項が設定されており、子供たちが自由に遊べる自由を「安全」の大義の下に奪っているのである。しかも、例えば横浜市長の中田宏氏や、それに追従した神奈川県知事の松沢成文氏のように、子供の行為に関する全責任を親に負わせる、という倒錯した青少年政策が注目を集める昨今において、子供の真に健全なる育成を願うのが無理だというものだろう。
それにしても、大谷氏はどうしてゲームを無条件に「悪」と仕立て上げるのだろうか。結局のところ、現在のように《少年の暗い事件》ばかり起こるのはゲームのせいだ、と一足飛びに考えているからだろう。ちなみに、ゲームの登場以前に起こった、現在の少年犯罪に比べて極度に残酷な事件は枚挙に暇がない。
大谷氏は、《当然、この夜(筆者注:4月2日、中日が5対4で広島を逆転で破った試合)のヒーローは高橋(筆者注:中日の高橋光信選手。高橋氏はこの日の試合に大だとして出場して、逆転のホームランを打った)だ。だけど、代走に英智を送った監督、その期待に応えて、大魔神をゆさぶってまっすぐしか放れないように追い込んだ英智。そんな陰の力があってこその高橋のホームランなのだ。こんな裏方ががんばるチームプレーを子どもたちに知ってほしい》と言っているけれども、他のスポーツ、例えばサッカーではどうして駄目なのだろうか。同様のドラマティックな状況は、サッカー他のスポーツでもでも十分に考えられる。余談になるが、《こんな裏方ががんばるチームプレー》に関しては、昨年のアテネ五輪の際には、かなり報じられた記憶がある(例えばレスリングの浜口京子選手とか)。結局のところ、大谷氏が野球に強い思い入れがあるからこそ、野球を選んだのであろう。
私は、ここで大谷氏が野球を特別視していることを問題視したいわけではない。むしろ大谷氏の、保守反動的でハードランディング的な青少年観を問いたいのである。この文章などまだ可愛いほうで、このシリーズの第1回でも採り上げたオタクに対する強硬論は言わずもがな、例えば「ネット心中」に関しても、それに手を貸した者も厳罰に処せ、と、青少年問題「だけ」に関しては大谷氏は過激な発言が目立つのである(ちなみに、大谷氏の青少年問題に関する発言は、大谷氏のジャーナリズム観に真っ向から相反するものもある)。
筑紫哲也氏を批判したときにも触れたが、大谷氏のように反骨で腕を鳴らしてきたジャーナリストでさえも、俗流若者論によって「右」と「左」が糾合されてしまう、という倒錯した言論状況が、我が国にはある。彼らは共通して、ゲームだとか携帯電話だとかインターネットだとか、あるいは「今風の」子育てだとかいったものが子供たちの「内面」を破壊し、それによって少年犯罪や「問題行動」が発生する、と主張する。しかし、青少年の「内面」を敵視する言説は、結局のところその「内面」を「正す」ための施策、例えば「正しい」子育てを行政が規定して、それに合わないものを「危険だ」と喧伝することなどを正当化する。これらの俗流若者論に対抗する言説は、青少年問題を「内面」だとか「心」の問題としてとらえることの危うさを指摘することであろう。
このような「酒場の愚痴」レヴェルの記事を書いて、何になるのであろう。大谷氏に求められているのは、この程度の言論ではないはずだ。
ちなみにスポーツの振興策についても言っておく。スポーツ、特にプロ野球の振興策として最も適切なのは、地域との関係を強めることだろう。私がその手段の一つとして考えていることは、北海道日本ハムファイターズ、千葉ロッテマリーンズ、福岡ソフトバンクホークス、そして東北楽天ゴールデンイーグルスに関しては、通常なら「日本ハム」「ロッテ」「ソフトバンク」「楽天」と表記するところを、「北海道」「千葉」「福岡」「東北」と表記することである。というのも、これらの4チームに関しては、1つの都市に1つしか球団がないからである(ちなみに広島東洋カープと中日ドラゴンズも同様だが、これらの球団に関しては「広島」「中日」という表記が定着しているのでこのままでいい)。スポーツジャーナリストの二宮清純氏は、エコノミストの木村剛氏との対談で、《横浜大洋ホエールズが買収された当初、マルハベイスターズで行こうという案もありました。ところがマルハのオーナーが偉かったのは「マルハと言っても通じないが、横浜というブランドは世界の人がみんな知っている」と言って、横浜ベイスターズにしたのです。……横浜ベイスターズだから、みんなが盛り上がれた。西武ライオンズだって、もし「埼玉ライオンズ」にしたら観客は倍入りますよ》(この段落に関しては全て、木村剛、二宮清純[2004])と話しているが、それとやり方は違うが同じ考え方である。二宮氏は《お客さんが入りやすい環境を整えることは経営者の仕事のはずです》と述べているけれども、私はそれと同時にマスコミの仕事でもあると思う。
いずれにせよ、スポーツを「市民の祭り」にすることこそ、スポーツ振興策の最大の手段であろう。ここで「市民の祭り」と表記したのは、そのスポーツチームの存在意義を企業の資金よりも市民の信頼に重点を置かせるべきだ、と考えているからである。市民の信頼が高まれば、企業、特に地元企業も出資しやすいだろう。子供たちにスポーツの魅力を感じさせるのも、市民の信頼があればこそである。必要なのは環境の整備だ。青少年「対策」としてのスポーツは、その「内面」への働きかけを強調するあまり、技能の鍛錬とは別のところで大きな問題が起こる可能性がある(例えば、学校生活を息苦しいものにさせてしまったりとか)。
スポーツを青少年「対策」から自由にさせるべき。そこから、スポーツの魅力を子供たちに感じさせることは始まる。
参考文献・資料
大谷昭宏[2005]
大谷昭宏「野球は子どもたちにいろんなことを教えてくれる」=「日刊スポーツ」大阪版2005年4月12日号、日刊スポーツ新聞社
木村剛、二宮清純[2004]
木村剛、二宮清純「プロ野球は面白くて、儲かるビジネスだ」=木村剛『月刊!木村剛Vol.3』Kfi、2004年12月
日垣隆『世間のウソ』新潮新書、2005年1月
広田照幸『日本人のしつけは衰退したか』講談社現代新書、1999年4月
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コメント
今、自分のブログにエントリ書くヒマと気力がない克森です。
大谷チェンチェイ、明治時代の「野球害毒論争」知らんのか…?呆れカエルが500匹、ひっくり返ってヘソ出すわ。
そういや明治時代は読書も悪徳とされていた…と書籍版「反社会学講座」(イースト・プレス)に書いていたようですが、その項のタイトルは「それでも『本』を読みますか?」。すごくイヤなベクトルで矛盾を感じるなぁ…。
投稿: 克森淳 | 2005年4月21日 (木) 21時25分
「仙台地裁が親に子供の監視責任を強調した」というのは違うのではないでしょうか。
私は、原告らがお金欲しさに親の指導監督義務を追求したのに対し、被告らが十分な指導監督義務を果たしていたことを主張しなかった為、地裁が客観的に原告らの主張を認めた(認めざるを得なかった)のであって、裁判所が監視責任を強調したとは思いません。
投稿: hal* | 2005年9月21日 (水) 18時32分