俗流若者論ケースファイル20・小原信
文明論で虚飾した俗流若者論は、俗流若者論の中でも特に注意が必要な分野である。この類の俗流若者論は、自分の育ってきた社会環境・文化環境に関しては絶大なまでの支持を表明するのに対し、逆に現代の若年層におけるそれらに対しては度を越した批判をして、さらに現代の若年層を「人間的に」劣った人種とみなして切り捨てるのである。これは人種差別(レイシズム)の論理に他ならず、特に学者に対しては、そのような人を教授として担いでいることが私にとってすれば最大の疑点になる。
青山学院大教授の小原信氏の論理は、まさにこのレイシズム的な俗流若者論の特徴を先鋭的な形で表している。小原氏に関しては、かつて「俗流若者論ケースファイル02・小原信」において、「中央公論」2005年3月号に掲載された小原氏の文章「幻実に翻弄される若者の時間と空間」を検証したけれども、小原氏は、この文章の中において、「パソコンに対面すると人格が変わる」という「パソコナリティ」という珍概念を用いて現代の若年層の病理を「解明」しているけれども、論理飛躍どころか文章として成立していない文章さえもよく見られ、結局「パソコナリティ」というのは(何せ高速鉄道網でさえも「パソコナリティ」の産物として槍玉に上げられているほどだ)小原氏が浸っている「幻実」に他ならないのではないか、という疑念ばかりが生まれる(小原信[2005])。まあ、小原氏にとってはそれでいいのかもしれないが。
もとより小原氏には『iモード社会の「われとわれわれ」』(中公叢書)という著作があり、私は読んでいないのだけれども、少なくとも小原氏は、特に中央公論新社の編集者には、現代の若年層の、情報化社会における関係性の変容の専門家として認知されているようだけれども、小原氏がこの分野に関して「中央公論」に寄稿した文章(2本ある)は、もはや学者の文章ではないと言い切ってもいいほどの飛躍が目立ち、このような人を持ち上げる編集者の感覚も疑ってしまう。ちなみに『iモード社会の「われとわれわれ」』に関しては、ネット書店のamazon.co.jpにおいては至極評価が低い。
今回検証するのは、小原氏が「中央公論」2004年4月号に寄稿した「不安定なつながりが逆に孤独を深めている」である。とはいえ、「ケースファイル02・小原信」と同じような思想上の問題点が頻出しているので、今回はそれと重ならない部分を検証してみる。
167ページ3段目において、小原氏はこう言っている。
見ている画面が面白いと、たとえ幻実(virtual reality)でもそれに見とれてしまう。さまざまな情報がすばやく点滅し始めると、他のことに気がいかなくなる。ネット社会の利用者には、画面だけが世界で、画面のなかの相手だけが「他者」になり、あとはtheyと見なし、気にしなくなる。かくして、自分の好きなもの、わかるもの意外は見なくなる。NHKは紅白(筆者注:紅白歌合戦)のときしか見ない若者は多い。画面を見つめていると、ヒトとキカイは境界線が曖昧になり、両者が融解してしまう(両者はともに自立するほどはっきりしないから、私は「浸透」ではなく「融解」という語を使っている)。キカイもヒトに近づくが、ヒトもキカイに近づいている。(小原信[2004]、以下、断りがないなら同様)
この文章の中で、いくつもの事実誤認と論理飛躍と意味不明なアナロジーの使用がある。例えば《さまざまな情報がすばやく点滅し始めると、他のことに気がいかなくなる。ネット社会の利用者には、画面だけが世界で、画面のなかの相手だけが「他者」になり、あとはtheyと見なし、気にしなくなる》という文章に関しては、まず文の前後がつながっていない。小原氏が、学術論文においてもこのような悪文ばかり書いているのだとしたら問題である。まあ、小原氏にとっては悪文も気にならないのだろうが。また、《画面のなかの相手だけが「他者」になり、あとはtheyと見なし、気にしなくなる》と書いているけれども、小原氏は《他者》と《they》の論理的な区別を、読者にわかる形でしておくべきではないか?小原氏の文章には、このような曖昧なアナロジーの使用が頻出する。小原氏は気にならないのだろうが。そもそも、自分の脳内妄想を共有する者のみが《「他者」になり、あとはtheyと見なし、気にしなくなる》石原慎太郎の如きは情報化社会の産物なのか?小原氏はそう思っているらしいが。
《NHKは紅白のときしか見ない若者は多い》という記述には笑ってしまった。小原氏の脳内においては、NHKの視聴時間=社会性あるいは興味の広さ、という図式が成り立っているようだ。しかも《かくして、自分の好きなもの、わかるもの意外は見なくなる》と小原氏は罵っているけれども、これは小原氏に見事に当てはまるのではないか?小原氏もまた、自分が「悪」だと思うものに関しては徹底的に批判するけれども、それ以外の要因をちっとも見ようともしない。それは小原氏が《自分の好きなもの(筆者注:小原氏にとって「情報化社会」批判は手軽なメシのタネなのだろう。だからこの表現を用いた)、わかるもの意外は見なくなる》状態にあることの見事なる証左ではないか?まあ、小原氏はそれでもいいのだろうが。
168ページ2段目から3段目。
ケータイを使うと、公的空間が即私的空間になる。着信音は、公私の境界を突如として曖昧にし、いくら〈われ〉がわれになるために必要な道具だとしても、その後遺症がどういう結果になるかを考えないと、まわりは私的空間のせめぎあいになる。
遠慮なくわがままし放題の社会ではコミュニティは成り立たない。すべてを私化(privatization)することでわがもの顔にふるまう傾向は深刻である。なんでも平気で私物化する人は、裏方の苦労などわからず、自分一人のことしか考えられなくなる。そういう人の生き方は、ケータイの小型化により〈われ〉の私化を一段と加速していく。トークショーでも客席に着メロを鳴りひびかせるし、コンサートホールや結婚式の雰囲気をぶちこわしにし、厳粛な葬儀も一瞬にして様相を変える。
結局「私語り」ではないか。いい加減にしてくれないか。しかもここにもたくさん論理飛躍がある。例えば小原氏は《着信音は、公私の境界を突如として曖昧にし、いくら〈われ〉がわれになるために必要な道具だとしても、その後遺症がどういう結果になるかを考えないと、まわりは私的空間のせめぎあいになる》《遠慮なくわがままし放題の社会ではコミュニティは成り立たない》と語るけれども、それを裏付ける証拠立てがまったくなく、ただ読者に小原氏の問題意識を強要するものでしかないのではないか。小原氏はそれでもいいのだろうが。しかも《すべてを私化(privatization)することでわがもの顔にふるまう傾向は深刻である》と書いているけれども、これも単なる「愚痴」ではないのか?小原氏はそれでいいのだろうが。
《トークショーでも客席に着メロを鳴りひびかせるし、コンサートホールや結婚式の雰囲気をぶちこわしにし、厳粛な葬儀も一瞬にして様相を変える》とは笑わせる。多くの人は、それに気づいて、焦って携帯電話を探して、切る、あるいは極めて小声で自分が今出られないことを伝える、または後でメールを送信する、ということをするのではないか。このような文章は、小原氏が携帯電話使用者を「人間的に」劣っている、と身勝手に決め付けていることを意味する(レイシズム!)。最も、小原氏はレイシズムも平気なのだろうが。
168ページ3段目から169ページ1段目。上の文章の続き。
公的空間を日本人はふだん、weとみなさないでtheyとして突き放しがちである。だから、世界はふたり(自分たち)のためにある、と言わんばかりに身勝手にふるまうのは、核家族構成とか少子化にも原因がある。ひきこもりが激増したのは、核家族の親が成人した子を抱えたまま孤立し、わが子が成人した後も密着状態で養育をつづけるため、子が社会化できずにパラサイト状態をつづけるからである。ひきこもりもパラサイトも、先進国に多い現象だというのは興味深い。
興味深くなるのは私のほうである。それにしても小原氏が《公的空間を日本人はふだん、weとみなさないでtheyとして突き放しがちである》と述べているのなら、携帯電話以前の世代と携帯電話以後の世代を過激に線引きして、特に後者を「人間的に」劣ったものだと罵るレイシズム的思考をやめてくれないか。しかも、この後の文章、すなわち《だから、世界はふたり(自分たち)のためにある、と言わんばかりに身勝手にふるまうのは、各家族構成とか少子化にも原因がある》については、《だから》と書いているのに内容的に完全に断絶されているのはどういうわけだ。しかも少子化悪影響論、核家族化悪影響論を無理やり持ち出すのも納得いかない。小原氏なら許されるのだろうが。
《ひきこもりが激増したのは、核家族の親が成人した子を抱えたまま孤立し、わが子が成人した後も密着状態で養育をつづけるため、子が社会化できずにパラサイト状態をつづけるからである。ひきこもりもパラサイトも、先進国に多い現象だというのは興味深い》という記述にも笑ってしまった。いまだに「ひきこもり=母子密着」というマインドから抜け出せない小原氏こそ問題ではないか。小原氏が《ひきこもりもパラサイトも、先進国に多い現象だというのは興味深い》というのであれば、本当に先進国中で母子密着の子育てがメインになり、それがひきこもりその他を進行させているか、ということについて触れる必要があろう。小原氏はそれを無視してもまったく平気なのだろうが(これに関しては、「ひきこもり」に関して20年以上も向き合ってきた精神科医の斎藤環氏の研究が参考になる。斎藤環[2003][2005])。
もう一つ、これは小原氏が先進国、というよりも近代国家のシステムをまったく理解していないことも挙げられる。近代国家になって、業務が社会化すると、少年期はそれまで時間が就労に回されていたのを教育を受けることに回される。要するに、業務の社会化があまり行なわれていない社会においては、少年期から労働に従事させられるので、ひきこもっている余裕などない。小原氏は知らなくても大丈夫なのだろうが。
結局のところ、小原氏は単なる「世間知」によって物事を判断しているのでしかない。この程度の文章は、はっきり言うが投書欄の「憂国」エッセイレヴェルのものである。学者の文章ではない。小原氏にはそれでいいのだろうが。
170ページ3段目。
「父はもうこの世にいないと知りつつも つながる気がする携帯電話」という短歌があった。だれにでもメールができるのなら、亡き父に連絡したいという者がいてもおかしくない。
正気の沙汰か。正気なのだろうが。
いい加減「小原信の「私語り」劇場」と題して、小原氏の「中央公論」における2つの論文の「私語り」を全部引用したい気持ちに駆られるのだが、そういうことをしても原稿が無駄になるだけだろうからやらない。もっとも、小原氏は自らの文章に責任など負わなくともいいと考えているのだろうが。
話を戻そう。170ページ3段目から171ページ1段目。
ケータイがあれば、仲間との連絡が頻繁にできるが、さりげなく逃げることもできる。忘年会の予約をしておいて、都合が悪くなると、ケータイのスイッチをoffにする者がいる。メール一通、親指一本で謝ればすむ軽さが、事柄を真剣に受け取られなくさせる。ケータイがあるため、「遅れる」と断っておけば、申し訳ないと思わなくてもいいと思い込んでいる。
ここまでステレオタイプを恬然と語る小原氏は、本当に自らの責任というものを自覚しているのだろうか。いい加減、自らのイメージやマスコミで面白半分に報じられているような「事例」ばかりを自らの論拠にするのはやめ、信頼できる調査や学説やフィールドワークなどを参考にするべきではないか。小原氏は参考にしなくても、自分こそ全てをわかっていると思っているのだろうが。しかも《申し訳ないと思わなくてもいいと思いこんでいる》だと。《思い込んでいる》というだけで、それが本当であるかどうかの検証がないのはどういうことか。小原氏は、証拠や検証がなくてもいいのだろうが。
また、172ページにゲーム悪影響論があったが、《ゲームをする子どもたちが「死ね」と叫ぶように、いつ抹殺されるかわからない人間関係こそが、ケータイに支払うべき代償なのであろうか》という至極曖昧かつ意味不明なもので、検証する気もうせた。そもそも「死ね」という言葉は、かなり昔から相手を罵る表現として使われていたのではないか。小原氏は携帯電話・ゲーム以前の世代(正確に言えば自分ひとり)が聖人君子だと思いこみたいのだろうが。
この文章の最後、173ページの3段目。
ケータイが全盛をきわめるかぎり、情報を「知識」に高め、知識を「知恵」に収斂させる知性の陶治は、当分見込みがなさそうである。いま、現代人の知性のために必要なことは、「画面」の外に目を向けることである。画面上で気休めのことばだけを交わしあっているうちに、人生は過ぎる。費やした時間と涙は何だったのだろうかと後悔しても遅い。
小原氏の如き俗流若者論が《全盛をきわめるかぎり、情報を「知識」に高め、知識を「知恵」に収斂させる知性の陶治は、当分見込みがなさそうである。いま》、小原信の《知性のために必要なことは》、「ステレオタイプ」あるいは「敵愾心の共同体」としての「論壇」の《外に目を向けることである》。「中央公論」で《画面上で気休めのことばだけを交わしあっているうちに、人生は過ぎる。費やした時間と涙は何だったのだろうかと後悔しても遅い》。
もう、呆れてしまうほどである。あれだけ不安を煽っておいて、提示する解決策がこれか。結局のところ、小原氏は、思考が貧困だから、解決策も至極曖昧なものにしかなりえないのではないだろうか。小原氏の考え方はもはや陰謀論的である。すなわち、一つの「敵」や「悪」を決めつけ、それに影響された人間もまた「悪」となり、その「悪」を「追放する」(人間に対しては「粛正する」)ことこそが社会を「救う」こととなる、という思考に、小原氏は完全に染まっている。
陰謀論であるから、たとえ小原氏が本質にかなり迫っているようなことを言っても、結局のところ残酷な一般論で茶を濁してしまう。この文章を見る限り、小原氏は、携帯電話によって形成される人間関係がかえって孤独を深めている、ということはわかっているのだろうが(ここまでは正しいといえる側面もある)、小原氏は、現代の若年層における関係性がヴァーチャルな環境でしか形成されていない、という完全なる誤解をしているから、野暮な携帯電話批判しかできない。しかし、現実に起こっているのは、むしろ現実の「友達」関係と携帯電話による関係のフィードバック(悪循環のスパイラル)であり、より噛み砕いて言うと、明治学院大学専任講師の内藤朝雄氏の論理を援用するけれども、特に学校社会において形成される「友達」という絶対主義的な中間集団の圧力があり、さらに携帯電話による常時接続のネットワークの形成によってその圧力が強くなってしまう、という指摘のほうがむしろ現実的ではないか。この状況に関して、内藤氏は《閉鎖空間のもともと危険なべたべたした人間関係がネット上にまでもちこされ、ネットの現実感覚変調作用によってさらに危険なものになる可能性は否定できない》(内藤朝雄[2004])と書いているが、少なくとも現代の若年層というだけでネット上でしか関係を築けない、と判断するのは愚かである。
小原氏は《現代人の知性のために必要なことは、「画面」の外に目を向けることである》と述べる。しかし、これはかえって逆効果ではないか。なぜなら、結局のところ小原氏の認めている《「画面」の外》というのは、小原氏が存在する共同体、簡単にいえば「世間」だけであって、ここで検証した文章、そしてケースファイルの第2回で検証した文章を読んでいる限り、他の共同体は断固として認めようとしない態度が見えてくる。しかし本当に必要なものは、小原氏が唯一認める「世間」の残酷さからいったん身を引くためのコミュニティの形成であり、実際にそれを形成しているのがフリースクール、都市の単位だと秋葉原だったりする。ついでにこの考え方には、「ひきこもり」を解決するためのヒントも隠れているのだが、これに関しては斎藤環氏に譲ることにしよう(斎藤環[2003])。
小原氏の残酷さは、「世間」の残酷さに耐えかねている人たちを、再び、そして無理やり残酷な「世間」に戻そうとしているところにある(携帯電話によって「友達」という「世間」の暴力性が増幅されている関係性の中にいる人に対してはなおさらだ)。そして、インターネットの情報空間は、そのような「世間」の残酷さに耐えかねている人たちを「救済」する力もまた持っている。しかし、それもまた潰されつつあるのが現状である。オタクの都市としての秋葉原は再開発と警察の国策捜査によって脅かされ、インターネットも「青少年に有害」という理由でさまざまな理不尽な規制が掛けられつつある。そして、度重なる報道が若年層への敵愾心を煽り、「家庭」すらも最後の逃げ場でなくなってしまう。若年層が「居場所」としてくつろげる空間はどんどんなくなってしまう。そしてそれを加速しているのが、小原氏の如きハードランディング的な狼藉である。小原氏はそれをわかっているのか。
しかし――。
いつから我が国においては、印象論だけで若年層の「病理」を語ることが許されるようになったのだろうか。小原信だけでなく、森昭雄も、正高信男も、何のデータもなしにただステレオタイプだけで現代の若年層を「人間的に」劣った者であると断じている。オカルト全盛の時代には、レイシズムはユダヤ陰謀論として現れたが、オウム真理教以後、「酒鬼薔薇聖斗」以後の俗流若者論全盛の時代には、レイシズムは「今時の若者」への敵愾心として現れるのだろうか。
私はこの状況に絶望している。しかし、小原氏にとっては、絶望することは生きていないも同然のこととして見なされる。私は死者なのだろう。そしてこの文章は、死者からの叫びなのだろう。そして小原氏は、死者の言うことなどまったく聞く耳も持たないのだろう。
参考文献・資料
小原信[2004]
小原信「不安定なつながりが逆に孤独を深めている」=「中央公論」2004年4月号、中央公論新社
小原信[2005]
小原信「幻実に翻弄される若者の時間と空間」=「中央公論」2005年3月号、中央公論新社
斎藤環[2003]
斎藤環『ひきこもり文化論』紀伊國屋書店、2003年12月
斎藤環[2005]
斎藤環『「負けた」教の信者たち』中公新書ラクレ、2005年4月
内藤朝雄[2004]
内藤朝雄「「友だち」の地獄」=「世界」2004年12月号、岩波書店
笠原嘉『アパシー・シンドローム』岩波現代文庫、2002年12月
数土直紀『自由という服従』光文社新書、2005年1月
十川幸司『精神分析』岩波書店、2003年11月
内藤朝雄『いじめの社会理論』柏書房、2001年7月
中西新太郎『若者たちに何が起こっているのか』花伝社、2004年7月
石田衣良、森川嘉一郎「秋葉原は「萌え」ているか」=「Voice」2005年4月号、PHP研究所
齋藤純一「都市空間の再編と公共性」=植田和弘、神野直彦、西村幸夫、間宮陽介(編)『(岩波講座・都市の再生を考える・1)都市とは何か』岩波書店、2005年3月
田村ゆかり「琥珀の詩、ひとひら」=「hm3 SPECIAL」2005年4月号、音楽専科社
福井洋平「オタク狩り?警察の狙い」=「AERA」2005年3月7日号、朝日新聞社
本田由紀「「対人能力格差」がニートを生む」=「中央公論」2005年4月号、中央公論新社
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