俗流若者論ケースファイル11・石原慎太郎
私は宮城県民ではあるが、現在の東京都、及びその周辺の青少年政策の現状が気になっており、それを検証するサイト(例えば「「有害」規制監視隊」や「kitanoのアレ」など)をしょっちゅう見ているのだが、そのようなサイトを見るたびに、このままでいいのか、と思ってしまう。
例えば問題の多い「青少年保護育成条例」の強化について、その内容の一つとして、出版物への規制が挙げられている。しかし、我が国において出版物規制の動きは過去何度も発生しており、しかもそれがその時々の青少年問題の解決にはなんら進展を及ぼさなかった(橋本健午[2002])。さらに、これは東京都に限らず、神奈川県の松沢成文知事も主張していることだが、ゲームに対する規制という話も出てしまっている。しかし、ゲームが青少年に及ぼす影響について実証的な研究は乏しく、多くの人が支持している「ゲーム脳」理論などは特に、最初からゲームを「悪」と決め付けている傾向が強い。そもそも我が国においては少年による凶悪犯罪は少なくとも増加傾向にはないのだから(浜井浩一[2005])、そのような論理を支持する前提さえも疑われて然るべきだろう。
横浜市の中田宏市長に至っては、深夜に外出した少年の保護者に罰金を課す、ということを主張した。これは社会学者の宮台真司氏や評論家の宮崎哲弥氏が指摘する通り(宮台真司、宮崎哲弥[2004])、「法と道徳の未分化」という近代法以前の弊害をはらんでいる。このような条例群が施行されると、地方の多くの保守的な議員や首長がこれに同調してしまい、我が国は子供や子供を持つ家族にとって極めて息苦しい社会に転落してしまいかねない。
そのようなことを推し進める人の心のうちを探ってみたい、と思っていると、「文藝春秋」の平成17年5月号の表紙に、「衝撃の現代若者論」という小さな文字があり、その執筆者はなんと東京都知事の石原慎太郎氏だというのである。タイトルは「仮想と虚妄の時代」。早速「文藝春秋」を購入して読んでみたのだが、これがまた内容が空疎なばかりではなく、我が国の青少年に対する無知や無理解、そしてステレオタイプな石原氏の認識が過度に強調されているのである。少なくとも私は、このような認識を持つ人が青少年行政に関わっているばかりではなく、その影響も計り知れない、ということに戦慄する。それと同時に、このような文章に対して「衝撃」というコピーをつけてしまう編集者の存在にも、無念の情を禁じえない。
以下、石原氏の文章の内容について、特に問題の大きい部分を検証していくことにしよう。
例えば石原氏は266ページから268ページに掛けて、自分の経験を綴りつつ現代の若年層を批判する。しかし、石原氏のことや昔の事に関しては過度に美化されているに過ぎず、当然その帰結として現代の若年層は極めて醜悪に描かれる。石原氏は自らと同時代の人に関して、《新しい時代の新しい価値観をということではなしに、新しい文明に依る情念の発露結晶の定着を願っての、未整理のままの実感的な反発であり自己主張だった》(石原慎太郎[2005]268ページ、以下、特に断りがなければ同様)。そのような立場に立って、石原氏には現代の若年層はいかように見えるか。曰く、《しかし今の若い世代には、傾聴とまでいかずとも聞いて気になるようななんらの主張も伺えないし、新しい情操情念も感じられはしない。みんな当てがいぶちの画一的で、総じて誰も無口で自らのメッセイジを声高にしゃべることもない》(268ページ)と。さらに石原氏は、269ページにおいても《日本の若い作家たちの誰も、相した風俗に追従するだけで現代におけるエイリアンを描いてくれはしない》と描いている。これがそこらの人の物言いではなく、ほかならぬ東京都知事の物言いであることに唖然とする。確かに、石原氏などの視点から見れば、現代の若年層は画一的に見えるかもしれない。しかし、その画一化を推し進めてきたのは誰か、ということを、石原氏は露でも考えたことがあるのだろうか。それは、市場のグローバル化を推し進める巨大資本であり、あるいは学習カリキュラム削減の裏で学校社会からの逸脱を許さないことを推し進めてきた教育ではないか、と思われる。残念ながら、現在の一部の(特に都市部の)若年層は、極端に消費社会化する社会の中で、さまざまな「記号」が溢れる社会をけなげに生きるしかないのである。石原氏の認識は、そのような箇所に届いているはずもなく、ただただ現代の若年層を軟弱だ、ひ弱だと罵っているだけである。さすが、「三国人」だとか「田中均は右翼に殺されて当たり前」だとか言った人である、といえようか。ついでに言わせてもらうと、石原氏が現在推し進めている青少年問題や都市の再開発は、現在の若年層から「居場所」を奪うものでしかない。
石原氏は268ページにおいて、《どうも今日では言葉で綴られた資料なるものは最早情報として余りインパクトを持ち得ない》と書き、《いずれにせよ言語による表現や説明ではなしに、生に近く直截に視覚に訴えての現実を披瀝すれば、最早憤慨とか慨嘆とかいったことでは住まずに、彼らの価値の質感をそこまで変質せしめたものをどう修正し、価値を「真の価値」として取り戻すかを本気で考えざるを得ない》(268~269ページ)と書いてしまう。石原氏が、「今時の若者」を利用したポピュリズムを狙っているのは明らかであろう。確かにこのように《言語による表現や説明ではなしに、生に近く直截に視覚に訴えての現実を披瀝》すれば、確かに「今時の若者」の「異常な生態」を生で感じさせることはできるかもしれない。しかし、このような宣伝方法が有効になるのは、例えば暴走族だとか組織犯罪だとかいった、原因と因果関係が極めてはっきりしている場合に限るのであって、現代の青少年問題の大半を占める、時には「わからなさ」に耐えなければならない、というほかない複雑な問題を、ただ《彼らの価値の質感をそこまで変質せしめたものをどう修正し、価値を「真の価値」として取り戻すか》という単一の「解決法」に帰一させてしまうことは、かえって問題はますます深刻化するのではないか、と考えざるを得ない。ここに石原氏のポピュリズムの体質が表れているのではないか、と思われる。要するに、自らがエイリアンだとかモンスターだとか考えているものに対する「善良な」大衆の敵愾心を煽り立てることによって人気を得ようとすることである。ちなみに言うと、ナチス・ドイツの宣伝作戦においてもっとも効果を持ったものの一つとしてテレビが挙げられる(原克[2003])。
石原氏は271ページから272ページにかけて、《ケイタイと出会い系サイト》と題して、携帯電話を用いた母子の関係性について批判を加えているのだが、これがどう見ても自らの不快に思う事例の誇張ではないか。石原氏は、《彼女たちにとってはたとえ嘘だろうと母親の携帯電話を通じて声で繋がることが子供としても義務、思いやりの孝養であり、母親にとってもケイタイでであろうと、娘と声で繋がり母親なりの念を押すことで娘の監督という責任を果たしたということなのだ。/これは所詮親子互いに馴れ合いの擬態で、まったく実質を書いた仮想の連帯でしかない》(271ページ)と書いてしまう。なるほど、確かにこの親子に限って言えば石原氏の推測も間違っていないのかもしれない。しかし、その事例だけを見て、現代の病理であると断定するのは、いささかの留保が必要ではないか。また、この事例は石原氏が《東京の実態を取材したある番組》(271ページ)で見聞きした事例なのであるが、このような番組は、編集などの要請によって内容が「今時の若者」をエイリアンやモンスターの如く描くものになっていないのだろうか。また、石原氏がこの部分において《彼女のケイタイに男どもからの申し出が登録され》《件のカモたるべき相手》《キャバクラなる風俗店に》《漫画喫茶なる店で》(271ページ)などと表現しているけれども、ここからも石原氏における現代の社会に対する蔑視が透けて見える。
272ページにおいて《テレビ・ゲームと少年の殺人》という節に変わっているけれども、この部分はほとんど全部が事実誤認と歪曲といっていいほどである。石原氏は、《今日我々は視覚の領域でも、映画やテレビでCGが造りだすありえぬ光景を仮想として押しつけられている》というけれども、《押しつけられている》という事実があるのだろうか。もし本当に押し付けられているのだとしたら、それを推し進める人たち(巨大資本など)をなぜ糾弾しないのだろう。
273ページの最後のほうにおいて、石原氏は《最近寝屋川小学校での見境なしに教師を殺傷した少年も、不登校生活の中での暴力的テレビ・ゲームへの耽溺によって培われた衝動のままに、殺傷という行為の本質的意味合いの理解を欠いたままあの行為に及んだようだ。その無分別さは、結局テレビ・ゲームのもたらすヴァーチャルな劇が、彼に殺傷行為に関する倒錯した情操を培った結果といえるだろう》と書いてしまう。石原氏に限らず、この手の少年犯罪報道の習い性になってしまうので困ってしまうが、どうして少年事件を報じるマスコミや、論じる「識者」は、すぐさまゲームを槍玉に上げてしまうのだろう。そもそも我が国においては、ある世代以下の人たちのほとんど、特に男性は少なからずゲームに触れているはずで、しかし近年の我が国において少年による凶悪犯罪の決して増加していないのである(浜井浩一[2005]、パオロ・マッツァリーノ[2004])。少年犯罪に「ゲームの悪影響」を見出す(原因としてでっち上げる)のは、極めて容易なことなのである。それにしても、これもまた習い性であるのだが、ゲームを徒に「仮想」とレッテルを貼り、それが全て敵である、という考え方もどうにかならないものか。
後に石原氏が触れることになる、精神科医の斎藤環氏は、近年の少年犯罪報道に関して《これらの一切は、あきらかに「祭り」ではなかったか》(斎藤環[2005])と批判している。斎藤氏は、《多くのマスコミや専門家は、現実を無視して「少年犯罪の増加・低年齢化・凶悪化」を指摘した。しかし……これらの指摘は事実に反している。……メディアはなぜその事実を積極的に述べないのか。考えられる理由はただ一つ。誰もせっかくの「祭り」に水を差すような野暮はしたくないのだ》(斎藤・前掲書)と、現在の少年犯罪報道に対してみもふたもない批判をしている。寝屋川の事件に関しても、あるいはその前に起きた奈良県の女子児童誘拐殺人事件にしても、事件が起こってから、そして犯人が捕まってからは、情報のインフレスパイラルといってもいいほど、さまざまな推測・憶測・「分析」が激増した。しかし、その中で物事の本質を衝いているのはごく少数で、大抵は自らの「理解できない」属性を持つ者に対する敵愾心を煽るものでしかない。石原氏の「分析」も、この部類に明らかに入っている。このような「分析」が怖いのは、それに「納得」してしまう層が根強く存在することだ。
そもそも石原氏は272ページにおいて、《端的に例えて言えば、現代では殺人という極限的な行為が、実はわが手で人を殺すという行為としての重みを欠いた浮薄な質をしか持たず、自殺もそれを行う者にとって人生の究極の選択たり得ていない》と書いているが、この文章は100パーセント誤りであるといっても過言ではないくらいだ。ここでは自殺に関する認識に絞って言うが、それならどうして世の中には自殺しようとしてもなかなか自殺できない人が大勢いるのだろうか。前掲の斎藤氏は、《実際には、死にたい思いを抱えながら死ねず似る若者が数十万人規模で存在するのが現実だ》(斎藤環[2005])と指摘している。この事実から見ても明らかな通り、石原氏は事実に即して書いているのではなく、自らのステレオタイプを思いつくままに書き続けているだけではないだろうか。編集は誰も指摘しなかったのか。
石原氏は279ページから280ページにかけて、現代の家族の衰退について語る。しかし、ここにも実例やデータの提示がない、あるいは論理的な整合性を欠いている単なる「お話」に終始してしまっている。例えば石原氏は、279ページにおいて、《家庭に限っていえばその核化によって親子三代が共に住むという、全ての人間関係の素地を健全にはぐくむ場としての「家庭」の意味合いは淘汰されてしまった。アマゾンの原始的部落ではいまだに子供は部落の女たちが育て、ある年齢に達した子供たちの野外での仕事の責任は全ての男たちが教えるそうだが、もはや先進社会ではありえぬ構図でしかない》と書いているのであるが、石原氏に問いたい。現代の(あるいは《先進社会》の)家族は、原始的な家族に戻るべきなのだろうか。成熟社会化への流れはもはや不可逆であり、だからこそ現代の家族は成熟社会における「家族」のあり方を模索している。また、《親子三代が共に住むという、全ての人間関係の素地を健全にはぐくむ場としての「家庭」》とは言うけれども、それもまた科学的に証明されているわけではないし、そもそも《全ての人間関係の素地》が何を指すかわからない。
なるほど、確かに石原氏の夢想する《本質》は消えた。しかし、まずそれを推し進めたのが、戦後の都市政策であることには疑いはないのではないだろうか。社会学者の宮台真司氏は、現代の若年層が下北沢を中心に展開されている「昭和30年ブーム」に惹かれる理由を、《ノスタルジーのリソース》(宮台真司[2005])ではなく《「匂い」》(宮台・前掲書)に求めている。宮台氏の言うところの「匂いがない」というのは、街が全て均質的になってしまい、入れ替え可能になることを示しているのだが、それを推し進めてきたのが戦後の「保守」勢力である。現在の「保守」勢力は、それにふたをして必死に「共同体の再建」を叫んでいるわけだが、そのような叫びは結局小共同体の中で虚しくとどろくだけだ。そして現実に生きる人たちは、そんな「説教」を待つまでもなく、成熟社会の新しい形を探し始めている。
石原氏は280ページにおいて国家についても語り始めるのだが、ここでも石原氏は暴言を連発する。節は《幼稚化する国家》で、その書き出しは《ことの本質の欠落への認識を欠きながらの試みは所詮真の目的の達成にはなりえないし、逆に己の身を損なうことにもなりかねない》(280ページ)である。まず、北朝鮮の拉致被害者に関して《彼等の実態を眺めれば、常識で考えても拉致されていった同胞のほとんどはすでに存命していはしまい》(280ページ)と書いてしまう。拉致被害者家族に是非読ませたい文章である。また、北朝鮮の経済制裁に関して、《経済制裁という確たる有効な代案を持ちながらそれを提示もできず、耳障りのいい「話し合い」という理念にもならぬ手立てをしか口にだせぬこの国の外交なるものには、ことの本質の欠落についての認識がかけているとしかいいようない。誘拐された同胞たちがまだ生きているという設定での話し合いなるものも、実はヴァーチャルでしかないのではないか》と強硬論をぶち上げる。しかし、経済制裁に関しては、保守派からも疑問の声が上がっているほどである(森本敏[2005]、櫻田淳[2005])。経済制裁慎重論の論客の一人であるジャーナリストの日垣隆氏は、北朝鮮に対して《相手はテロ国家なのですから、その犯罪行為に対する責任を問うことも当然すぎるほど当然です》(日垣隆[2004])と前置きした上で、経済制裁については《経済制裁とは、貿易や援助を抑止する措置を言います。この犠牲になるのは常に民衆です》《北朝鮮に対しても、拉致問題で経済制裁を切り札として本当に出してしまったら、取り返しのつかないことになります。北朝鮮の為政者がクレイジーであればあるほど、人民の飢えが加速度的に進行してしまうからです》(日垣・前掲書)と疑問を呈している。石原氏は、経済制裁の地政学的な意義や、その効用を疑うことをせずに、我が国の外交を《この国は国家と呼べる代物でありはしまい》と難詰してしまうのである。石原氏はおそらく経済制裁、さらにそれが無効であるなら戦争をも辞さないのだろうが、朝日新聞記者の近藤康太郎氏が言うとおり、《戦場から遠くにいる人は、声が勇ましい》(近藤康太郎[2004])ということを我々は胸に刻み込んでおく必要がある。
石原氏は282ページ下段の中ごろにおいて、《今日横溢する、安易に行なわれる凶悪犯罪も実はその根底に肥大化による人間の自己喪失がある。換言すればそれはただの自己中心主義であり、些細な想像力をすら欠いてしまった人間の抑制の効かぬ衝動がただ気にいらぬ、うるさい、わずらわしいというだけで他人の殺傷に及んでしまうのだ》と書いてしまうのだが、そんなに強く断定しないで頂きたい。そもそもこの文章は完全に破綻している。《人間の自己喪失》が犯罪の原因であるというのであれば、《気にいらぬ、うるさい、わずらわしいというだけで他人の殺傷に及んでしまう》というのはありえるはずもなく、むしろ「酒鬼薔薇聖斗」事件に代表されるような「自己確認型」の犯罪が主流になるのではないか。そもそも《気にいらぬ、うるさい、わずらわしいというだけで他人の殺傷に及んでしまう》というのが現代の典型的な青少年の凶悪犯罪だ、と石原氏は言っているのだが、このような理由で凶悪犯罪に及んでしまう、というのははっきり言って古典的である(宮崎哲弥、藤井誠二[2001])。
283ページ、石原氏は《しかし彼等の多くにとっては、ケイタイ人気の誰かがその情報を裂いてだれそれの連絡先を教えてくれるということは、彼等の人間関係の枯渇を癒やす術たり得ているそうだ。そしてまたケイタイをもっていながらそれが一向にならない子供は周りから莫迦にもされ、それで阻害もされる》と書く。石原氏はこのような現象を、ただ人間関係の劣化としてしかとらえていないのだが、現実にはもっと複雑な事情がかかわっているのではないだろうか。明治大学専任講師の内藤朝雄氏によれば、現代の学校は《いつなんどき「友だち」に足をすくわれるかわからないコミュニケーションの過密共振状態》(内藤朝雄[2004])にあると指摘する。そのような空間においては、「私」と「友だち」の間の親密圏は絶対的になり、最も効果的な「いじめ」はコミュニケーションを操作する類の「いじめ」である(例えば無視=「シカト」)。石原氏言うところの《ケイタイ人気》の延長上にあるのではないか、と私は思えてならない。横浜市立大学教授の中西新太郎氏は、10代・20代の電話やメールによる通話相手の大半が友人であることを示しているけれども(中西新太郎[2004])、それもこのような学校文化の影響があるのではないかと思えてならない。ちなみに石原氏は《ケイタイ人気》が《人間関係の枯渇を癒やす術たり得ている》といっているけれども、現実はそう甘くはないようで、斎藤環氏は、若年層の中でも携帯電話を使いこなし、一見コミュニケーション上手に見える人たちは、実は誰かと「つながって」いなければならないというストレスにさいなまれているという(斎藤環[2003][2005])。
石原氏は285ページにおいて、若年層の売春に関して語るけれども、ここでもこれまで石原氏が開陳してきた暴力的な認識が満載である。石原氏は、産婦人科医の赤枝恒雄氏の言葉を引いて(ちなみに赤枝氏は青少年の性に対する規制のキーパーソンと言われている)《そしてその取得への願望(筆者注:「援助交際」少女の願望)に抗しがたく、母親に更なる小遣いをねだる子供にある親は、家にはもうその余裕が無いからいっそ流行りの援助交際でもして奇特な年配者に貢がせたらと真顔でいうそうな》と言っているのだが、石原氏はこれが典型的な現代の家族だと思いこんでいるのだろう。しかし、本当にそうかははなはだ疑問であるし、赤枝氏が自分にとって衝撃的だったことを知らず知らずのうちに誇張して石原氏に言っている可能性もある。それに、そのような状況にある家族に対する支援は、それこそ政治の役割ではないか、という気もするのだが。石原氏が《真顔でいうそうな》と書いているのは、そのような家族に対する社会保障や性教育の不備を正当化するように見えてならない。
ついでに性教育に関しても触れておこう。20世紀の終わりごろ、米国では、子供の「性」をタブー視し、学校では性教育よりも「純潔」さらには「禁欲」を高く掲げた教育が正義とされ、適切な性教育でさえも保守系の団体に糾弾された。また、宗教保守からフェミニストまで、性表現の規制に躍起になり、マスコミは青少年の「性」に関する過剰な報道で溢れかえった。それを告発した米国の作家のジュディス・レヴァインによると、しかしそれでも青少年の「性」を巡る問題はまったく解決しないどころか、むしろ問題を深刻化させた(ジュディス・レヴァイン[2004])。レヴァインは、青少年を「性」に関する情報から遠ざけてしまったあまり、「性」に関する知識は希薄化し、無防備な性行為が蔓延してしまったことを指摘している。我が国でも一部の自称「保守」が性教育攻撃に奔走しているのであるが(石原氏もその典型であろう)、性教育を禁止してしまったら米国と同じ事態を招きかねないのではないか。また、特に赤枝氏は、中学生までの性行為を法律で禁止しろ、といっているけれども、自由な行動が保障されている我が国において、それが実を結ぶためには、我が国が北朝鮮並みの言論統制国家及び監視国家にならなければならない。
287ページ上段のはじめごろで、石原氏は擬似脳科学に触れてしまう。曰く、《人間のすべての基本的な感情、怒り、悲しみ、喜び、意欲といった肉体的、精神的に人間を支える内的な要因は全て脳幹によって培われる。そして脳幹は肉体的な試練、抑制によってのみ鍛えられ成長する》と。しかし、《肉体的、精神的に人間を支える内的な要因は全て脳幹によって培われる》というのは科学的に正しいのだろうか。あるいは、石原氏は脳幹を人間性のメタファーとして語っているのであろうが、そのような語り方は他の脳の部分(例えば大脳新皮質など)の働きを無視した議論になりかねないし、そもそも脳構造の欠陥が人間性・社会性の減衰を示す、というのは、脳障害者の差別につながりかねない。また、《脳幹は肉体的な試練、抑制によってのみ鍛えられ成長する》というのも、科学的に実証されているのか。石原氏は、それに応える責任がある(ちなみに同じページの下段でも、石原氏は脳幹に触れている。曰く、《国家としての本質である脳幹の成熟を欠き》だと。脳幹は偉大であることよ)。
287ページに関しては、問題を大いに含んでいる記述はもう一つある。2つ後の段落において、石原氏は《現代の若い世代のこらえ性の無さはそのまま人間的な卑弱さであり、彼らを無個性化し、結局あてがいぶちへの傾倒にしかなり得ない。それは何よりも家庭においての親のしつけ、幼い子供たちに忍耐を強いる親の責任の不履行に起因している》と書いてしまうのだが、これもまた暴力的、というほかない。そもそも《彼らを無個性化》したのは、ひとり家庭だけなのか。東京大学助教授の広田照幸氏は、実証的なデータを用いて、昔の家庭が躾をしっかりしていた、というのは幻想で、子供の躾が家庭の責任とされたのは高度経済成長期以降だ、ということを示している(広田照幸[1999][2003])。そもそも責任を一方的に家庭に押し付けるのは、それが親の子育てリスクを増大させるばかりでなく、公教育の責任からも目をそらさせる。
さて、278ページにおいて、石原氏のこの文章はいよいよクライマックスを迎える。この文章の最後になる288ページ、《仮想の虚妄からの解放》という節において、石原氏は斎藤環氏を引き合いに出し、《斎藤氏の報告だと氏が手がけている患者……のほとんどが、もしこの国に徴兵制度が敷かれたらどうするかという設問に、自分は喜んでと答えるそうな。それは極めて暗示的なデータだと思われる》と書く。石原氏はそれに関して、《仮想によりかかり、虚妄に囚われて身動きできぬ虚弱な人間も国家も、結局突然の外からの刺激を待たなくては正当な意思表示も行ない得ず、その存在を明かす行為も取り得ない》と書く。確かに斎藤氏は石原氏が言ったようなことを述べている。しかし斎藤氏の議論においては、「徴兵制」というのはたとえ話の一つに過ぎず、例えば地域通貨など、「ひきこもり」の人たちが社会との接点を持つことの動機付けが必要だと述べている(斎藤環[2003])。
そして皮肉なことに、ここで明らかになったのは、石原氏こそが《仮想の虚妄》としての「国家」に呪縛されている、ということだ。それは、石原氏のこの文章を検証する中で、私がもっとも明らかにしたかったことである。
そろそろ結論に入ろう。
石原氏の文章全体を通じて私が受けた印象は、「空疎」の一言に尽きる。石原氏は「国家」だとか「本質」だとか、威勢のいい言葉は振り回すけれども、その全てが空疎に空回りしているとしか思えないのである。「国家」や「本質」は、結局のところ石原氏の幻想でしかなく、石原氏の思考は単なるユートピア願望に過ぎない。このような文章は、石原氏と同様の幻想を持つ人たちには快く響くかもしれないが、少なくとも石原氏と同様の幻想を持たない私には、単なる空疎な叫びにしか聞こえない。そもそも我が国は現在低成長の局面から成熟社会化への局面に移りつつあり、多くの人が経済的な成長を志すことから降りており、「国家」に対してもさして幻想を持っているわけではない。石原氏の言うとおりなし崩し的に「国家」を再建させても、結局は仏作って魂入れず、で終わるのが関の山だろう。
また、石原氏は何ひとつ実例を示すことはしない。ただ、現代の若年層を「敵」あるいは「モンスター」「エイリアン」として祭り上げ、若年層への敵愾心を煽り、それと対北朝鮮の「弱腰外交」と結び付けて、「国家」の再生こそが急務である、と石原氏は幻想を振りまく。しかし、石原氏は「国家」を再建するための施策を何ひとつ示そうとはしない。これもまた、石原氏がただ若年層と「弱腰外交」政府に対する敵愾心のみを味方につけているからであり、論理でもって「説得」しようとする態度、そして安易に「病理」をでっち上げずに、社会変容のパラダイムを見据えて、射程が長く、現実的な処方箋を提示するという、言論人としての「真・善・美」はことごとく失われている。
そうでなくとも、「非社会的な」若年層に「世間」の暴力性が集中している昨今である。暴走族やチーマーなどの「可視的な悪」から、ひきこもりや若年無業者などという「不可視的な悪(かどうかすらもわからない)」に遷移することによって、「世間」は若年層を一層怖れるようになった。そして、若年層の「不可視的な」病理に、さまざまな「物語化」を施し、「世間」は「不可視的な」病理を持った若年層を暴走族やチーマー以上に怖れるようになった。そして、社会の至るところに包囲網が張り巡らされ、冒頭で述べた横浜市のような、法と道徳が分離されない近代法以前の状況が出現することさえ正当化されてしまう。内藤朝雄氏は、これらのメディアに対して、《年配者たちは、わけのわからない不安や不気味な感覚を青少年に投影する。しかも投影しながら自と他が分離されず、思い通りになるはずの他者が思い通りにならないことに自己の内側からいいようのない不気味な不健全感を感じ、これが執拗な被害者感になる》(内藤朝雄[2005])と批判している。卑近な例でも、例えば昨年10月の終わりに起こったイラクにおける日本人殺害事件に対して、読売新聞などは「自分探し」という言葉を社会面で大々的に採り上げた。このように採り上げることによって、若年層には「自分探し」という幻想をやめろと、中高年層には「自分探し」に熱狂する呆れた連中なのだから殺されても当然だ、という幻想を振りまきたいのか。
内藤氏も示唆している通り、現在巷にはびこっている俗流若者論は「魔女狩り」の体をなしつつある。ひきこもり、フリーター、若年無業者、オタク、渋谷に出入りする人々、あるいは秋葉原に出入りする人々、ネットジャンキー、電車内で床面に座って食する人、奇抜な格好をする人…、それらが犯罪に向かう「しるし」として認識され、それらを「正す」ために最も強力な手段として語られるのが「教育」と「愛国心」である。しかし、このような認識が霧のように我が国に蔓延することによって、ほかならぬ現代の我が国を生きる青少年が最も被害を被ってしまうのである。
もう一度言う。ここで採り上げた石原慎太郎氏のような、青少年に対してステレオタイプで短絡的な思考しか持たぬ人が、青少年政策に手を出すなど、まずありえぬことである。さらに石原氏のような短絡的な思考が、多くの「保守的な」政治家や言論人によって語られており、憲法や教育基本法の改正にも影響を及ぼしつつある。
私にとっては、ネットジャンキーよりも若者論ジャンキーによる憲法・教育基本法の改正のほうがよほど脅威である。
参考文献・資料
石原慎太郎[2005]
石原慎太郎「仮想と虚妄の時代」=「文藝春秋」2005年5月号、文藝春秋
近藤康太郎[2004]
近藤康太郎『朝日新聞記者が書いたアメリカ人「アホ・マヌケ」論』講談社+α新書、2004年7月
斎藤環[2003]
斎藤環『ひきこもり文化論』紀伊國屋書店、2003年12月
斎藤環[2005]
斎藤環『「負けた」教の信者たち』中公新書ラクレ、2005年4月
櫻田淳[2005]
櫻田淳「「暴朝膺懲」の錯誤に陥らないために」=「論座」2005年5月号、朝日新聞社
内藤朝雄[2004]
内藤朝雄「「友だち」の地獄」=「世界」2004年12月号、岩波書店
内藤朝雄[2005]
内藤朝雄「お前もニートだ」=「図書新聞」2005年3月18日号、図書新聞
中西新太郎[2004]
中西新太郎『若者たちに何が起こっているのか』花伝社、2004年7月
橋本健午[2002]
橋本健午『有害図書と青少年問題』明石書店、2002年12月
浜井浩一[2005]
浜井浩一「「治安悪化」と刑事政策の転換」=「世界」2005年3月号、岩波書店
原克[2003]
原克『悪魔の発明と大衆操作』集英社新書、2003年6月
日垣隆[2004]
日垣隆『現代日本の問題集』講談社現代新書、2004年6月
広田照幸[1999]
広田照幸『日本人のしつけは衰退したか』講談社現代新書、1999年4月
広田照幸[2003]
広田照幸『教育には何ができないか』春秋社、2003年2月
パオロ・マッツァリーノ[2004]
パオロ・マッツァリーノ『反社会学講座』イースト・プレス、2004年5月
宮崎哲弥、藤井誠二[2001]
宮崎哲弥、藤井誠二『少年の「罪と罰」論』春秋社、2001年5月
宮台真司、宮崎哲弥[2004]
宮台真司、宮崎哲弥『エイリアンズ』インフォバーン、2004年11月
宮台真司[2005]
宮台真司『宮台真司interviews』世界書院、2005年2月
森本敏[2005]
森本敏「国際社会の外交圧力で体制変換をめざせ」=「論座」2005年5月号、朝日新聞社
ジュディス・レヴァイン[2004]
ジュディス・レヴァイン、藤田真利子:訳『青少年に有害!』河出書房新社、2004年6月
笠原嘉『アパシー・シンドローム』岩波現代文庫、2002年12月
姜尚中『ナショナリズム』岩波書店、2001年10月
玄田有史『仕事のなかの曖昧な不安』中央公論新社、2001年10月
歪、鵠『「非国民」手帖』情報センター出版局、2004年4月
広田照幸『教育不信と教育依存の時代』紀伊國屋書店、2005年3月
松原隆一郎『長期不況論』NHKブックス、2003年5月
山本七平『日本はなぜ敗れるのか』角川Oneテーマ21、2004年3月
ウォルター・リップマン、掛川トミ子:訳『世論』岩波文庫、上下巻、1987年2月
姜尚中「「こころ主義」まん延した一年」=2000年12月19日付朝日新聞
斎藤環「不登校児は「欠陥品」?」=「Voice」2005年1月号、PHP研究所
内藤朝雄「“風通しいい”学校目指せ」=2003年7月3日付読売新聞
西川伸一「若者に見る「優しい社会」」=2004年2月1日付朝日新聞
この記事が面白いと思ったらクリックをお願いします。→人気blogランキング
| 固定リンク
この記事へのコメントは終了しました。
コメント
トラックバックありがとうございました。
僕もこの号の文春の表紙を見ただけで、石原がだいたい何を書いているのか想定し、「はいはい、勝手にやっていてね」と思ってしまっていました。
あなたのようにきちんと読んで批判するのは大事なことですね、お疲れ様でした。
投稿: ナイン | 2005年4月12日 (火) 19時51分
いつもながらの力作に感心致しました。
私もナインさん同様、「またか」で済ましていたようです。
ところで、作家としての石原慎太郎が批判を受けた当時
「サザエさん」でもネタにされていたのはご存知でしょうか?
投稿: 克森淳 | 2005年4月12日 (火) 21時02分
TBありがとうございました。
関東の子ども・若者政策は大荒れですね。
こちら関西でも、大阪府を先頭に、どこからどうみてもおかしい政策が進行中です。今はとりわけ不登校を3年間で「半減」する政策を骨抜きするために、親や市民があわただしく動いています。大変、切迫した状態です。
子ども・若者を突破口に、なし崩し的に人権弾圧がなされつつあるこの間違った流れを変えるために、みなさん、できるかぎりのことをやりましょう!
とりあえず、TBをしますので、大阪府の不登校政策に抗議のメ-ルを送ったり、賛同人・団体になってください! 子どもの命が危ないのです。
投稿: ぱれいしあ | 2005年4月19日 (火) 03時29分
はじめまして。フリ-タ-について本人のうちの一人の立場からいろいろと情報を書いているブログをやっています。
フリ-タ-にしろニ-トにしろ、取締りの異様な高ぶりには危機感を抱いています。
複数のTBをしました。ぜひ読んでやってください。
投稿: ワタリ | 2005年4月19日 (火) 05時41分
ただのエロサイトに突然このような重厚な論文からのトラックバックがやってきて、恐れおののいております(^^; このような読み応えのある論評は久しぶりにみました。お若いながらもそのエネルギーには敬服いたします。
たかだか数行のエントリでトラックバック返しするのも恐縮なのですが、氏の言動録をより深い?ものとするために、恥ずかしながらTBを返させていただきます。
このようなことを申し上げるのは釈迦に説法かもしれませんが、石原氏の過去の愉快な言動は『トンデモ本の世界R』(太田出版[2001])内の「シンタローのリスト」というコラムにも色々記されています。そこでは、他人には子供を殴って躾ろと言っておきながら自分の息子は1度しか殴ってなかったという衝撃の告白や、ウンコの付いたブラシを息子たちに突きつけた微笑ましいエピソードから、若き日の石原氏の「珍奇な」交友関係に至るまで、10頁ではありますが、なかなか興味深いことが記されております。未読でしたら、是非。
ちなみに、氏は「自分の好まないことは絶対に相手にもしないということ。その最低限の姿勢から初めて他人に対する思いやりが生まれてくる」(『いま 魂の教育』(光文社[2001]))という、非常にいい言葉を発せられております。ただ、氏にしてみれば若者への敵愾心を煽ることは、「自分の好まないこと」ではないのが残念なところです。
投稿: 町田まこるる | 2005年4月24日 (日) 11時40分
本日放送のNHK『スタジオパークからこんにちは』は、良純ウォッチャーとしては見逃せなかったのでしっかり見ておきました(笑)。
番組内容は良純氏ご本人に関する話題がほとんどだったのですが、中には「親父は怖かったが、殴られたことはない」「親父は自分と違って子供を抱けない」というコメントがありました。
中でも秀逸だったのが、「昭和49年12月1日に関東で大地震が起こる」と週刊誌等で噂が流れた際に、慎太郎氏が「12月1日は学校へ行くな」と息子たち4人を当日休ませたという微笑ましいエピソードでした。
49年といえばまだ国会議員在職中だと思いますが、来るべき危機に対し家族以外の人に氏が警告を発したかどうかまでは、残念ながら番組中では窺い知ることはできませんでした。
投稿: 町田まこるる | 2005年5月19日 (木) 15時12分
はじめまして。TBありがとうございました。
本来ならこちらからTBさせていただきたかったのですが、後手になって申し訳ありません。
このお話だけに限らず、面白そうな内容が書いてあるので、後でしっかりと読ませていただきます。
石原氏には、とりあえず「他を認められる人」になれとは言わないものの、最低限「他の文化の存在」に気づいてほしいものです。
自分の知る世界がすべてじゃないことを自覚していただきたいところです。
投稿: リウエン | 2005年7月23日 (土) 19時30分