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2005年4月24日 (日)

俗流若者論ケースファイル15・読売新聞社説

 千石保氏が所長を勤める「日本青少年研究所」の調査結果が発表されるたびに、特に読売新聞はそのネガティヴな結果を大々的に取り上げる。しかしその調査を仔細に読んでみると(同研究所のウェブサイトには、詳細な結果が一部公開されている)、問題設定はその時々のカレントな問題を中心に採り上げていることが多く、中には意図的に我が国の青少年に対する不安・不信を煽ろうとしているのではないか、というものも目立つ。ただ、我が国において、青少年に関するゴミ社会調査が多い中で、少なくともサンプリングと経験だけは、その中でも数少ない、信頼できる部類にあると思う。まあ、他がゴミばかりなのであるが。これ以上まともなものといったら総務省の世界青少年意識調査ぐらいか(ちなみに「日本青少年研究所」の調査が最大でも日・米・中・韓の4カ国だけなのに対し、総務省のものはそれを大いに上回る数の国で比較している)。

 さて、今年もその結果が公表され、3月15日から16日にかけて新聞やテレビなどさまざまなメディアで話題になったが、私の見聞した多くの報道が、その結果をただ鵜呑みにして垂れ流すだけで、それに対して疑うようなことはまったくしていなかったのが気がかりだった。

 その中でも特に問題の多いものを紹介したい。平成17年3月16日付読売新聞の社説、「元気がないぞ日本の高校生」である。この社説は、《勉強が嫌い。消極的で自信がない。将来に悲観的で自分の国に誇りが持てない――。これが現代の日本の高校生気質だとすれば、あまりにも寂しい》(平成17年3月16日付読売新聞社説、以下、断りがないなら同様)という書き出しで始まるのだが、この社説を読んでみる限りでは、結局この社説子は悲しみに浸りたいだけではないのか、と疑いたくなった。

 というのも、調査の結果をそのまま嘆き、それを打開するための具体的な案は何も示していないからである。例えば読売社説子は、《日本の生徒が勉強しないことに驚かされる》《調査結果を見ると、授業態度も問題だ》などと、結局のところ単なる「憂国」だけで終わっているのである。まあ、これが新聞のまったく読み応えのない投書欄や辛口コラムだったら済まされるだろうが、これは社説である。このような「嘆き」だけで終わらせてしまう、というのは、あまりにも悲しすぎはしまいか。それしかできないようであれば、最初から採り上げるのをやめたほうがいい。記事の社会面の解説で済ませておくべきであろう。事実、読売のこの社説には、これが掲載された前日の社会面の報道以上のものがまったく掲載されていない。

 他の国との数値比較(まあ、我が国と米国、中国だけで比較するというのも問題であるが。これに関しては後で述べる)も出さないで「問題だ」と嘆いている部分もある。例えば読売社説子は《「今の生活で何でもできるとしたら、何がしたいか」の問いに、「遊んで暮らす」の答えが3か国のうち日本が一番多く、38%もいた。自分の将来を「だめだろう」「あまりよくない」と悲観的にみる生徒も16%と飛びぬけて多かった》と書くけれども、他の国との比較がないと、このような比較はまったく意味を持たない。最も勉強が必要なのは、この社説子ではないか。特に《「今の生活で何でもできるとしたら、何がしたいか」の問いに、「遊んで暮らす」の答えが3か国のうち日本が一番多く、38%もいた》という部分には笑ってしまった。どうしてそこまで問題視する必要があるのだろうか。この社説子には子供が大いに遊ぶことが「悪」であるととらえられているのだろうか。

 この中でも特に問題があるのは、《がく然とさせられるのは、「国」に対する意識のありようだ》と述べた直後の文章である。これ以降の文章を全文引用しよう。

 自国に誇りを持っているか、の質問に「持っていない」と答えた日本の高校生は半数以上に上った。国旗・国歌を誇らしく感じるという生徒は米、中ともに5割前後いるが、日本では1割強だ。

 誇りも何も感じない、という日本の生徒が国旗で57%、国家で65%もいる。1989年の調査より増えた。学校式典での国旗・国歌に「起立して礼儀を正す」ことをしない生徒は7割に上る。イデオロギー的な嫌悪感を示す教師の存在が、背景にある一つの要因ではないか。

 「愛国心」を盛り込むことに与党内からも異論が出た教育基本法改正案は、今国会への提出が見送られた。自分の国を誇りに思い、素直に愛せないのは不幸なことだ。

 調査から浮かび上がった問題点を、日本社会全体が重く受け止めるべきだ。

 嗤うべし。私が《がく然とさせられるのは》、読売新聞のあまりにも短絡的、しかも現在の状況をまったく踏まえていない認識である。そして読売のそのような認識のありようは、《日本社会全体が重く受け止めるべき》ものであると私は考えている。

 例えば《国旗・国歌を誇らしく感じるという生徒は米、中ともに5割前後いるが、日本では1割強だ》と社説子は書くけれども、この社説子は米国や中国の国歌がやけに闘争的であることを知っていて書いているのであろうか。しかも米中だけでなく、広く知られている通り、他のさまざまな国の国歌は極めて闘争的であるのに対し、我が国の国歌はそのようなことはまったく感じられない。また、例えば中国の国歌は、現在の中国共産党政権の存在意義にもなっている抗日闘争を歌っているものであるなど、その国歌は国家の成立や存立と密接に関わっているのに対し、我が国の国歌は明治時代に万葉集の一首にメロディをつけて、なし崩し的に成立させたものであるから、その歴史性を云々するのは難しい。このような基本的な認識も欠いているとは。もちろん「日の丸」に関しては、諸説あれど、その歴史性は確認できる。それでも、国旗や国歌に「跪かない」だけで「問題だ」としてしまうのは、国旗や国歌の重要性を認知しておらず、ただそれらをイデオロギー闘争の道具としてしか使用していないことの証左ではないか。もう一つ、《1989年の調査より増えた》と言っているけれども、どれくらい増えたのか見せてくれ。それにしても私が意外に思ったのは、米国や中国の国旗や国歌に対する意識の低さである。《5割前後》というのは、私の予想に比べてやや低かった感がある。

 《学校式典での国旗・国歌に「起立して礼儀を正す」ことをしない生徒は7割に上る》というのも、やや疑問を感じる。というのも、《規律して礼儀を正す》というのが、2重の質問になっているからだ。例えば、起立はするけれども、別に礼儀を正すようなことはしない、というのであれば、それはこの範疇には入らない。そんなことも考えずに、《イデオロギー的な嫌悪感を示す教師の存在が、背景にある一つの要因ではないか》とあっさりと述べてしまうとは…。

 この文章の後、唐突に《「愛国心」を盛り込むことに与党内からも異論が出た教育基本法改正案は、今国会への提出が見送られた。自分の国を誇りに思い、素直に愛せないのは不幸なことだ》と切り出してしまう。しかし、この文章が出てくる文脈も、またこの文章の内容にも、論理飛躍がある。例えば、教育基本法の操作だけで、青少年に「国家」に対する誇りを持たせられるか、といえば私の答えは即刻「否」である。なぜか。それは、読売の社説子他、教育基本法に「愛国心」を盛り込むことに賛成する人たちの考える「国家」とは、結局のところ彼らの幻想の中にしかない「国家」に過ぎないからである。その最大の証左として、彼らは「今時の若者」の「問題行動」の「原因」を「国家」の不在、乱暴に言えば彼らの共同幻想としての「国家」に「今時の若者」が幻想を抱かないことに転嫁していることが挙げられよう。実態としての国家は歴史と現在の上に存在する。自らに都合の悪い歴史を排除した「歴史」のみの上に成り立つ「国家」など幻想でしかない。

 このような記述は、はっきり言って単なるイデオロギー闘争の視点からしか書かれていない。すなわち、自らの信奉するものは何でも「善」であり、それに少しでも従わないようであればすぐさま「問題」のレッテルを貼り付けてしまっているのである。しかし、このような結果が生まれた背景をろくに考えもせず、ただ単に「問題」と騒ぎ立てているようでは、社説としての責任を果たしているのか、と疑問を投げかけられても当然であろう。

 もう一つ、我が国の国歌に関して、もう「政治的な」文脈で語るのはやめよう、とする興味深い主張がある。明治学院大学非常勤講師の増田聡氏は、例えば精神科医の香山リカ氏に代表されるような、現代の若年層が君が代を「屈託なく」歌うことに関して排外的ナショナリズムの対等を危惧するような言説に関しては、そのような論理は《旧世代の政治的な枠組みからのものでしかない》(この段落に関しては、全て増田聡[2005])と批判した上で、《むしろ君が代の「現在」が示すのは、そのような「二者択一的な政治意識」そのものを批判する、若い世代の社会意識なのではないだろうか》と言い、《君が代が明治期の対外儀礼で必要とされ……生まれたのとまったく同じように、……「グローバルな他者との出会い」の経験が、若者にとりあえず君が代を歌わせている。その歌唱に過剰な政治的意味を読み込んではなるまい》と論じている。面白いのは、増田氏が《今日の君が代とは、若い世代にとっては、単に「ニッポン」を指し示す音楽的記号に過ぎない》と語っているところだ。増田氏はここで引用した論文の冒頭で、君が代の歴史に関しても触れているのだが、君が代が明治期の「天皇礼賛」の意味も、戦後の教育イデオロギー闘争としての意味もまったくなくなった現在において、そのような文脈において君が代が歌われるのは、むしろ歴史的必然ではないか。このような正確な歴史認識・現状認識が、良心的な音楽社会学者と、イデオロギー闘争に明け暮れる新聞人を分かつ。

 閑話休題、結局のところ読売の社説は、現在の青少年を嘆いてみせるだけで、なんら具体的な対策を示していないばかりか、青少年に対する認識も誤解の多いものであることを自ら証明してしまっている。しかし、もう一度述べるけれども、社説とは重要なオピニオン形成の役割を持っており、それゆえ執筆にも責任が必要である。「憂国」しかできないようであれば、最初から採り上げないほうが、よほど有益ではあるまいか。論じるべき問題は他にたくさんあるのに。

 この社説は、《調査から浮かび上がった問題点を、日本社会全体が重く受け止めるべきだ》という文章で締めくくられている。しかし、《日本社会全体》なんて、どこまでを指すのだろうか?

 参考文献・資料
 増田聡[2005]
 増田聡「軽やかに歌われる君が代ポップ」=「論座」2005年5月号、朝日新聞社

 笠原嘉『青年期』中公新書、1977年2月
 谷岡一郎『「社会調査」のウソ』文春新書、2000年5月
 パオロ・マッツァリーノ『反社会学講座』イースト・プレス、2004年5月
 山本七平『日本はなぜ敗れるのか』角川Oneテーマ21、2004年3月

 内藤朝雄「お前もニートだ」=「図書新聞」2005年3月18日号、図書新聞

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