俗流若者論ケースファイル13・南野知恵子&佐藤錬&水島広子
それにしても、最近活躍している、特に保守系の人々による青少年問題に関する言論とか、あるいは現在進められている青少年政策に関する議事録や記者会見の文章を読んでいると面白い。例えば、この2回前で採り上げた、東京都知事の石原慎太郎氏が「文藝春秋」平成17年5月号に書いた「衝撃の現代若者論」は、社会を覆う現実にはまったく触れず、それを「本質が崩壊した状態」と易々と語ってしまい(そもそも「本質」というのが何なのかわからない。結局は自意識の問題ではないのか)、挙句の果てには北朝鮮拉致事件の被害者家族に極めて失礼な暴言を吐いたり(北朝鮮に拉致された同胞はもはや生きていない、と考えるのが常識なのだそうな)とか、あるいは擬似脳科学に走ってしまったりと(この人にとって脳幹は国家である)、もうそこらじゅうに突っ込みどころが満載であった。無論、読んでいる内は笑ったのだが、読んで検証したあとは薄ら寒い気持ちが私の中を走った。この人に青少年政策をさせておいて、本当にいいのだろうか、国益には反しないのだろうか、と。前回採り上げた、神奈川県の松沢成文知事に関しても、まあ石原氏よりは問題は小さいものの、それでも現在の少年犯罪の実情やゲームに関する無理解、そしてゲームの規制に強引に結び付けてしまう、という姿勢には、やはり疑問を感じ得なかった。
今回はそれらを追及するシリーズ(だったのか)の第3回である。今回検証するのは、平成17年3月15日に行なわれた、「青少年問題に関する特別委員会」における、法務大臣にして青少年育成及び少子化担当大臣の南野知恵子氏と、自民党の佐藤錬議員のやり取り、そして南野氏と民主党の水島広子議員のやり取りである。この2つのやり取りに関しては、この委員会における全てのやり取りの冒頭の2つである。南野氏と佐藤氏のやり取りは、一部ではメディア規制に関して触れているものの、メインとなるのは佐藤氏の現在の青少年や教育に関する、もはや笑うしかない認識である。ここでは、主に佐藤氏の発言がメインであるが、南野氏もまた佐藤氏の論理矛盾を指摘しない。後者の南野氏と水島氏のやり取りは南野氏はこれに関しては特に問題のある発言をしていないが、水島氏が問題のある節をさも当たり前であるかのように語っている。なので、後半に関しては、水島氏の発言の検証を行なう。
まず、佐藤氏と南野氏のやり取りから見ていこう。
佐藤氏は、冒頭いきなり、《我が国はことし、さきの大戦、すなわち大東亜戦争、太平洋戦争に敗れてから六十年。まさに戦後還暦。重要な時代の節目であり、原点に返る年であります》と発言する。これに関しては異存はない。我が国は今年戦後60年を迎え、改めて大東亜戦争や戦後に関して振り返ってみる必要があろう。それ自体は否定しない。
しかし、佐藤氏は、東京大空襲の惨状や米国の戦争責任に関して述べた後、こう言ってしまう。曰く、《今日に至るも、あの東京裁判史観の呪縛が、靖国神社参拝問題や歴史教科書問題を初め、いかに強く日本社会の歴史認識をゆがめているか。日本の未来を担う青少年に余りにも過度な自虐史観を教えてきた戦後、日本民族の歴史、伝統、文化に自信と誇りを持たせないように教えてきた戦後、先祖、先達に感謝と敬意を持たせないように教えてきた戦後、もうそろそろ、ことしこそ、戦後の終わり、そして日本再生のきっかけをつかみたいものだ、本当にそう思っております》と。このような認識を持つ人は、青少年問題を本気で考えているのではなく、むしろイデオロギー闘争の道具としてしか考えていない、ということを、もう我々は広く知っておいたほうが良いのではないか。佐藤氏、そして佐藤氏と同じような考えを持つ人たちにとって、現実に起こっている青少年問題は、《過度な自虐史観を教えてきた戦後、日本民族の歴史、伝統、文化に自信と誇りを持たせないように教えてきた戦後、先祖、先達に感謝と敬意を持たせないように教えてきた戦後》に責任を押し付けるための責任転換の論理であり、それを取り除くことは、《あの東京裁判史観の呪縛》からの克服を意味し、そして《戦後の終わり、そして日本再生のきっかけ》をもたらしてくれる、というヒロイックな幻想をもたらしてくれる単なる舞台装置に過ぎない。
ちなみに私見によれば、「新しい歴史教科書をつくる会」をめぐる騒擾や、教育基本法の改正論の最大の功績は、歴史教育を巡る問題のほとんど全てが、それを論じる側の自意識の問題として還元しうる、という明確な事実を白日の下に晒したことである。これは「つくる会」や教育基本法の改正案に賛同する側にしろ反対する側にしろ、変わらないことである。彼らは自分の持つ「正義」を信じて疑わず、彼らの持つ共同幻想に子供たちを従わせることによって、自分の信奉するイデオロギーの「勝利」を確信することを目的としていることに疑いはない、多分。歴史認識(あるいは歴史教育論)と自意識の問題に関しては、東北大学助教授の小田中直樹氏が、いわゆる従軍慰安婦問題に引き寄せて詳しく語っているのでそちらを参照していただきたいのだが(小田中直樹[2004])、歴史教育が国民の自意識やアイデンティティの問題と切り離すことができない以上、それを語る言説もまた自意識の問題からのアプローチが必要なのではないか、と私は思っている。
閑話休題、佐藤氏の言説の検証を続けよう。佐藤氏曰く、《我が国民は、多くの戦没者の犠牲の上に、平和で豊かな繁栄を築き上げました。復興から高度成長へと経済至上主義、モノ・カネ文明の開化、そして経済大国からバブルへと続いた時代に、何か大切なものを、すなわち私たちの祖先がはぐくんできた大切な伝統や価値観、これを失ってきたのではないでしょうか。それは、武士道などの日本精神の崩壊であり、損得そろばん勘定を超える価値や生きざまの軽視なのだろうと思います。さらに、家族のきずなや地域社会の触れ合い、祖先を敬う心や郷土と国を愛する気持ち、そして、その愛するものを守るために自分は戦うという気概と覚悟などであります》と。このような発言の欺瞞性に関しては、都市計画や国土計画に関して、耳学問程度でも知っていれば簡単に論駁できる。なぜなら、佐藤氏言うところの《経済至上主義、モノ・カネ文明の開化、そして経済大国からバブルへと続いた時代》を主導してきたのは、ほかならぬ自民党、例えば池田勇人「所得倍増計画」や、田中角栄「日本列島改造論」、そして中曾根康弘首相の規制緩和策であるからだ。その主導の下で、地域を破壊し、郊外に均質的な空間ばかりもたらし、誤った食料政策によって農村から仕事を奪ってきた自民党政権が、その反省をせずに易々とこんなことを言えるようになってしまっていることにこそ、私は歴史を学ぶことの重要性を痛烈に感じる。また、《武士道などの日本精神の崩壊》だとか、《損得そろばん勘定を超える価値や生きざまの軽視》だとか言われても、佐藤氏がその実例を出さないから、何を言っているのかわからない、極めて「論壇的」な言説になっている。このような言説によって、現実の青少年の行動が規定されることのほうが、私にとってはよほど恐ろしいことに思えてならない。
青少年問題を「伝統精神の崩壊」みたいな文脈で語ることは、二つの問題をはらんでいる。第一に、社会構造の問題から目をそらさせてしまうことである。これに関しては、戦後自民党が利権の下に推し進めてきた都市政策と不可分の関係にあるので、これに関して深入りするのはやめたい。第二に、彼らの夢想する「伝統」が本当に存在したか、ということである。確かに伝統は存在するけれども、それは各々の地域の伝統であり、「日本の伝統」は明治時代以降、近代化と中央集権化の過程で捏造されたものである。ちなみに、東京大学助教授の広田照幸氏によると、佐藤氏などは、戦前までは親がしっかりと子育てをしていた、と考えているけれども、実際に子育てが家庭のものであると広く認識されたのは高度経済成長期以降であり(広田照幸[1999][2003])、戦前においては、そのような認識は特に上流階級に限定されていた。
文芸評論家の斎藤美奈子氏によると、女性の労働力の増加を目指すフェミニズムの言説は、大東亜戦争の動因にむしろ有利に働いた(斎藤美奈子[2003])。佐藤氏は、この事実をどのように見るのだろうか。
このように、誤解と倒錯と無反省が続く佐藤氏の発言なのだが、南野氏はこれらの発言の危うさを指摘しない。南野氏は、先ほどの佐藤氏の一連の発言を受けて、《先生が戦火にまみれておられるころ》と発言してしまう。しかしその直後に佐藤氏が指摘したように、佐藤氏は戦後の生まれだった。このことから、南野氏は戦後の生まれに「健全な」思考が育つはずはない、と考えているのではないか、という疑念が生まれる。直後に南野氏が《戦後生まれにしては、御両親から代々とその心を伝えられたということであろうかというふうに思いまして、先生の大和魂がそこに育っているのかな、そのようにも思っております》と取り繕ったのが見苦しい。
南野氏は、佐藤氏に同調して、《戦後の我が国は、経済のお話が出ましたが、経済的価値観を追求する余りに家庭や地域を顧みないことがあったように思われるというお話でございました。また、経済的豊かさが達成される中で、画一的な形で都市が形成され、また、同じようなものを消費する大衆消費社会が展開するという変化も見られたと思います》と言ってしまう。戦後の都市計画に関する不勉強が表れている。ここで南野氏が問題視していることこそ、まさしく戦後の自民党が推し進めてきたことなのだが。もっとも、最近はそのような考え方にもかげりが生じている。
南野氏が佐藤氏に発言に関して、ただ感想を述べた後に、佐藤氏は南野氏に児童虐待に関して質問する。それに対して、南野氏は、《児童虐待の問題に関連してでございますが、おっしゃるとおり、本当に深刻な虐待が今頻発いたしております。児童相談所における相談処理件数が急増しているということも事実でございまして、極めて深刻な状態にあることは、社会全体で早急にこれを改善していかなければならない重要な課題であると認識いたしております》と言うけれども、実際のところ、相談処理件数の急増は、児童虐待に対する意識の高まりの表れではないか、と私は見ている。また、ここ数年で、児童虐待に関する報道量の急増も、人々の危機意識をかき立てている、と言っても過言ではないだろう。
南野氏が、現在の児童虐待防止の政策について簡潔に述べた後、発言の主は佐藤氏に移る。ここで佐藤氏は、極めて問題の大きい発言を連発してしまうのである。
まず、《虐待を受けた経験を持つ子供は非行に走りやすいと言われます、青少年の犯罪で、裁かれるのは子供だけというのはおかしいのではないでしょうか、どうしてそんな罪を犯す子供になってしまったのか、その子供の両親はどんな子育てをしてきたのか、子育ての中に何か大きな問題があったから子供は罪を犯してしまったのではないでしょうか、なのに裁かれるのは子供だけで、その子供を育てた両親の再教育の場がないのはおかしいと思います》と。これは佐藤氏に寄せられた手紙を引き合いに出しての発言なのだが、例えば《虐待を受けた経験を持つ子供は非行に走りやすいと言われます》ということに関しては、どこまで一般性を見ることができるかわからない。ちなみに最近メディアを(ワイドショー的に)沸かせる少年犯罪に関しては、むしろ専業主婦の母親に大切に育てられた、という背景のものもまた目立っている。例えば昨年6月の頭に起こった佐世保市の女子児童殺人事件に関しては、作家の重松清氏によると、この犯人は遊び場に極めて恵まれていない環境に住んでおり、小学校のバスケットボールクラブが唯一の遊び場であったけれども、親が中高一貫校に犯人を受験させる、ということを理由にクラブを強引にやめさせてしまった、という(重松清[2004]、重松清、河合幹雄、土井隆義、宮崎哲弥[2004])。重松氏の報告からは、虐待や体罰の形跡はどこにも見られず、むしろ居住環境と、重松氏言うところの「見えない受験」による精神的なストレスが犯行の引き金になった、ということである。無論、反抗のきっかけに親の関与もあったのは確実であるが、この犯人にとって「ガス抜き」ができる遊び場やサブカルチュアの不在もまた問題にされるべきだろう。
従って、少年犯罪の責任を一元的に「親」あるいは「家族」に帰一させてしまうのは、物事の複雑性から目をそらすばかりではなく、親は子供を常日頃「監視」する義務があり、また「正しい」子育てをしなければ子供が犯罪者になってしまうぞ、というメタ・メッセージを発してしまう。結局のところ、修復不可能な凶悪犯罪に関しては、成人と同じように応報刑で、それも犯人だけを裁くのがふさわしい、ということになる。現に佐藤氏は、《犯罪を犯した子供の家庭環境がどんなものであったのか、法務省や内閣府の広報などで多くの人に知らせることで犯罪も減少するのではないでしょうか、例えば、あなたの家庭は大丈夫ですか、こんな子育てをしていませんかなど、犯罪を犯した子供の家庭環境を一般国民へ周知することによって対応することが大事だと思います》と言っている。これも政府広報に寄せられた意見なのであるが、これを肯定的にとらえているあたり、佐藤氏が、少年による凶悪犯罪は「誤った」家庭環境から生まれており、それを正すためには「正しい」子育てをさせる必要がある、と認識しているのは明らかであろう。
佐藤氏の発言の中で、問題の大きい発言はもう一つある。曰く、《ついでにもう一つ追加しますが、テレビ、パソコンなどの情報メディアの影響が大きいのではないかという気がします。ドラマを見ても、殺人を題材にしたドラマが大変多い。それから、お色気番組も深夜放送しておるようですし、これに類するような、有名人、タレントや芸能人がコメンテーターと称して政治、社会評論をしていますね。こんなことをされると政治が軽くなっちゃう。真剣に政治に取り組んでいる我々から見ても聞きづらくてならないんですよ、これは余談ですが。それから、出会い系サイトの事件も多い。携帯電話を含めて、これら情報メディアの規制はできないんでしょうか。御意見を承りたいと思います》と。またしてもメディア悪影響論であるけれども、いい加減警察白書や犯罪白書を読んで、少年犯罪は件数としては決して増加していない、ということをまず認識したらどうか。また、少年犯罪者のうち《殺人を題材にしたドラマ》だとか《お色気番組》を見ている割合がいくらいるのだろうか。また、《類するような、有名人、タレントや芸能人がコメンテーターと称して政治、社会評論をしていますね。こんなことをされると政治が軽くなっちゃう。真剣に政治に取り組んでいる我々から見ても聞きづらくてならないんですよ》という発言には本当に呆れてしまった。いくら佐藤氏が《これは余談ですが》と取り繕っても、佐藤氏が政治家以外の人に政治を語るな、といっているのは明らかであろう。それにしてもそれさえも青少年問題を誘発するものとして糾弾されるとは。むしろ最近問題なのは、政治化の度し難きタレント化や、その発言の度し難き軽佻浮薄ではないか。それを象徴するのが、小泉純一郎であり、石原慎太郎であろう。これらの政治家よりも、在野の有名人のほうが物事の本質を衝いているようなことを言うことは多い。
南野氏もまた、佐藤氏を疑うこともせず、《今、テレビ、パソコン、そういうメディアのことに関連しては、青少年を取り巻く社会環境は発展途上にある青少年の人格形成に影響を及ぼしている、先生のおっしゃっているとおりだと思っております。とりわけ、青少年の健全な育成に有害な影響を与える情報があふれていることは極めて憂慮すべきものである、これも同感だと思っております》と同調してしまう。ここでの「健全な育成」という甘言の持つイデオロギー性を、いい加減我々は汲み取っておく必要があるだろう。
これ以降の佐藤氏の発言に問題のある箇所は見られないけれども、佐藤氏が現代の青少年に向けている視線は、極めてイデオロギー性に満ちた者である、といわざるを得ないだろう。このような認識を持った人が、青少年委員会と言う立場に存在していることに、私は疑問を感じ得ない。これは、佐藤氏のみならず、佐藤氏と意見を共有する議員にも言えることだが、青少年問題を奇貨として国家の再建を図る、ということは、現在ある種のアノミー状態に陥っている我が国において、むしろ悪影響しか及ぼさないのではないか。その証拠としてあるのが、現在反日暴動に沸き還る中国である(ちなみに、デモ自体には罪はない。しかし、それが暴行や器物損壊に発展してしまうと、罪が生じる。それを峻別できていない人が、自称「保守」には多すぎる)。結局のところ、佐藤氏の議論は、戦時中的な「国粋主義」の復活を訴えているに過ぎず、「国家の誇り」みたいなものが全てを(現実には佐藤氏の自意識の問題を)解決してくれる、と佐藤氏が夢想しているに過ぎない。日本文化論の論客として有名な故・山本七平氏が、戦時中の日本人捕虜の日記を通じて批判したのは、まさにこの「国粋主義」であった(山本七平[2004])。
さて、佐藤氏と南野氏のやり取りはここで終了する。ここからは、南野氏と水島広子氏のやり取りを検証することにしよう。とはいえ、水島氏の発言の中でも特に問題のあるのは1箇所だけなのだが、そこに極めて間違いの多い認識が潜んでいることを、指摘しないわけにはいかないだろう。
また、一部でも有名な通り、水島氏は、フェミニストの側の表現規制推進論者として有名であり、海外の表現規制推進団体と強い繋がりを持っていることでも知られている。まあ、これは問題の本質ではないので、軽く触れておくにとどめておこう。
水島氏は、南野氏との答弁において、このような発言をしてしまう。曰く、《今の社会は、もう皆さんも御承知のように、地域の子育て力というのが落ちておりまして、私はこれは、家庭の子育て力が落ちているんじゃなくて、地域の子育て力が落ちているから、その地域の中における家庭の子育ても難しくなっているんだと思っております。例えば、そんな中では、テレビを長時間見ると暴力的になるという、これはかなり信頼できるデータもございますけれども、密室育児で、あるいは近くに頼れる大人がいなくて、親が忙し過ぎて、そして地域に家庭が開かれていなくて、そしてテレビの前に子供が放置されているというのは、これは一種のネグレクトと言ってよい状況だと思います。そのような状況に置かれている子供が、現実には大変多くなっていると思います》と。まず、《今の社会は、もう皆さんも御承知のように、地域の子育て力というのが落ちておりまして、私はこれは、家庭の子育て力が落ちているんじゃなくて、地域の子育て力が落ちているから、その地域の中における家庭の子育ても難しくなっているんだと思っております》という言説に関しては、これもまた責任のすり替えの論理でしかない。なぜ責任のすり替えか、というと、結局は佐藤氏の議論を「家族」から「地域」に置き換えただけに過ぎないので、深入りは避ける。もう一つ、《テレビを長時間見ると暴力的になる》というのが《かなり信頼できるデータ》と、水島氏は言うけれども、そのデータの出所が明らかになっていないし、社会学者の宮台真司氏によると、そもそもメディアと暴力性に間に直接的な影響は実証されたことがなく、《元々暴力的な性質を持っている人が暴力を振るう際の「引き金」にはなる》(宮台真司[2005])といい、さらに《あくまでも引き金要因であって、本体の原因をメディアが作るということはない》(宮台・前掲書)という。また、1万歩ほど譲って水島氏の引き合いに出している説が正しいとしても、水島氏の議論において欠落しているのは、テレビに多く接している子供たちが一様に暴力的になったのか、それとも他の要因が関わっているのか、ということが提示されていないことである。もし他の要因があるとすれば、それに関しても検討すべきである。また、水島氏は、《密室育児で、あるいは近くに頼れる大人がいなくて、親が忙し過ぎて、そして地域に家庭が開かれていなくて、そしてテレビの前に子供が放置されている》ことに関して《そのような状況に置かれている子供が、現実には大変多くなっていると思います》と言うけれども、それは本当なのだろうか。
まあ、南野氏に関しては質問者の意見を受けて現在の政策を説明する立場にあるから仕方ないとしても、佐藤氏と水島氏の議論の背景に共通してあるのは、やはり「異常な」子育てが少年犯罪を生む、という認識に他ならない。また、そこから「異常な」子育てを「正す」施策を正当化する、ということに関して、水島氏は言及してはいないけれども、佐藤氏は恬然として容認している。しかし、ひとり家庭環境から、その子供が犯罪者になることを特定できるか否か、というのはまったくのデタラメであり、政治が少年犯罪者にできることといえば自らが犯した罪に対してそれに応じた償いを徹底させることしかない。家庭環境、あるいはメディア環境によって犯罪者になる「しるし」を特定してしまうことは、結局のところ予防拘禁の論理となる。
また、政策構築に必要なのは実証的なデータである、ということを水島氏も佐藤氏も、さらには責任者である南野氏さえも、忘れているのではないか。また、本来政治に求められているのは、実証的なデータのみならず、巷で喧伝されている「危機」を常に相対化した上で、政策を構築することに他ならない。また、それに関して知識人の果たす役割も大きいだろうが、現実には、メディアの寵児と化している自称「識者」は「危機」を相対化するどころか自らが扇情的な「危機」言説の生産者となっている。無論、「危機」に関して常に疑いを持ち、強力な事実に基づいた良心的な知識人も我が国には多数存在するが、やはりそれらの仕事はどうしても地味に見えてしまい、扇情的な「危機」言説に比べて、メディア受け、大衆受けする確率は低い。しかし、多様な意見を提示することこそ、ほかならぬマスコミの仕事であり、特に青少年問題に関する言説に関して、マスコミはそれを怠っている。
マスコミさえもこの体たらくであれば、今必要なのは、市民に「危機」を相対化することへの動機付けを与えてくれるような「芸人」の存在であろう。現に我が国では、出版からネット上まで、多くの「芸人」が存在する。有益なことだ。また、最近では、新書のレヴェルで、現在の政治がことごとく見落としてきた、例えば憲法や教育などの基礎的な理論を説いている本も多い。まず、それらの言説に触れて、現在の政治を疑う目を養ったほうがいい。
参考文献・資料
小田中直樹[2004]
小田中直樹『歴史学ってなんだ?』PHP新書、2004年2月
斎藤美奈子[2003]
斎藤美奈子『モダンガール論』文春文庫、2003年12月
重松清[2004]
重松清「少女と親が直面した「見えない受験」という闇」=「AERA」2004年7月18日号、朝日新聞社
重松清、河合幹雄、土井隆義、宮崎哲弥[2004]
重松清、河合幹雄、土井隆義、宮崎哲弥「日本社会はどこまで危険になったか」=「諸君!」2005年1月号、文藝春秋
広田照幸[1999]
広田照幸『日本人のしつけは衰退したか』講談社現代新書、1999年4月
広田照幸[2003]
広田照幸『教育には何ができないか』春秋社、2003年2月
宮台真司[2005]
宮台真司『宮台真司interviews』世界書院、2005年2月
山本七平[2004]
山本七平『日本はなぜ敗れるのか』角川Oneテーマ21、2004年3月
姜尚中『ナショナリズム』岩波書店、2001年10月
斎藤環『ひきこもり文化論』紀伊國屋書店、2003年12月
パオロ・マッツァリーノ『反社会学講座』イースト・プレス、2004年5月
松原隆一郎『長期不況論』NHKブックス、2003年5月
内藤朝雄「「友だち」の地獄」=「世界」2004年12月号、岩波書店
内藤朝雄「お前もニートだ」=「図書新聞」2005年3月18日号、図書新聞]
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コメント
後藤さん、「オニババ化する女性たち」とかいうのにツッコミは入れましたか?
期待してるんですが(若者論とは見てない?)
投稿: ン・ジュンマ(呉準磨) | 2005年4月21日 (木) 12時04分
細かいことですが...
疑問を感じ得ないー>疑問を禁じ得ない
ですね。
投稿: ひで | 2005年4月22日 (金) 05時07分
矮小姑息、吝嗇野卑、
無能病性、
こんなTOP一人だけを、
排除することで、
600人の従業員の
ささやかな人生が
得られるとしたら、
この正義は、行うべきだと思いますが、
さて、現日本社会の法制上は、
まったくがんじがらめで、
悪徳一人を野放しに横暴三昧させえるしかないという現実はどうやってだはしたらいいのでしょうか?
どなたか、ご伝授ください。
真剣な切実な死活問題の現実をお汲み取りください。
投稿: 慷慨居士 | 2005年7月25日 (月) 22時14分