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2005年4月28日 (木)

俗流若者論ケースファイル17・藤原智美

 今回も俗流脳科学で申し訳ない。しかし、我が国においては、一見たわいのないような青少年問題をすぐさま「脳」の問題と結び付けてしまうような議論が後を絶たない。しかも、そのような「議論」は、大抵はただ不安を煽るだけの議論であり、論理的に穴ばかりの文章だらけであることが多い。しかし、そのような「議論」が、多くの新聞や雑誌で好意的に取り上げられ、多くの「読者」が納得してしまうのはなぜだろう。そのような倒錯の存在を野放しにしておいていいのか。

 今回検証するのは、作家の藤原智美氏による「目をつむれない子どもたち」である。この文章は「文藝春秋」平成17年5月号の教育特集に掲載された文章であるが、この文章もまた、ただ「実例」ら敷物を出して読者を不安に陥れるだけの文章で、さらに、この手の文章では往々にしてよくあることではあるが、その原因をすぐさまゲームだとかインターネットだとかに結びつけたり、このような「異常な脳」を持った子供たちが成長したときを想像してもらいたい、と煽っている。この書き手に、書き手としての良心はないのか。蛇足であるが、そういえば東京都の石原慎太郎氏が「衝撃の現代若者論」と題し、本当に(別の意味で)衝撃的だった論文「仮想と虚妄の時代」が掲載されたのも「文藝春秋」5月号だった(石原慎太郎[2005])。これは偶然の一致だろうか。

 藤原氏は冒頭で、《目をつむれない子と奇妙な絵》(藤原智美[2005]、以下、断りがないなら同様)など、「実例」らしきものを提示する。例えば、310ページにおいて、藤原氏は《レッスンは昼下がりに始まった。子どもたちが神妙な顔つきで席についていた。小学校の受験にそなえて、母親と教室へやってきた三人の幼児たちだった》と書き始めるけれども、これがどこの幼稚園、あるいはどこの保育園で行われたものであるかどうかはわからない。小学校(おそらく私立であろう)の受験を受けるというのだから、おそらくその親は経済的に恵まれた層であり、また親も(歪んだ意味で、ということもあるが)「教育熱心」な親である可能性も高い。これはあくまでも私の推測なのであるが、このような環境であるから、「早期教育」と題してかなり無理な詰め込み教育をやらされている場合もあるかもしれない。少なくとも、藤原氏が提示するこのような「事例」は、そのようなことを頭に入れて読む必要がある。

 また、藤原氏は311ページにおいて、《今、幼児のなかにひどく奇妙な絵を書く子がいる。自分や母親を描写したのだが、腕を描き忘れるのだ。そればかりか首もない。なかには足さえも忘れる子がいる。三角形の胴体に顔だけの自画像である。まるで積み木を重ねたような人間だ》といった「事例」を提示する。藤原氏は《今、幼児のなかにひどく奇妙な絵を書く子がいる》と書いているのだから、《ひどく奇妙な絵を書く子》が昔と比べていかように増えたのか、ということを提示する必要があるのではないか。それにしても《まるで積み木を重ねたような人間だ》と藤原氏は表現しているけれども、このような絵は(さすがに手や足がない、というのは少なかったけれども)結構多く見た経験がある。子供(幼稚園児あたりを考えていただきたい)が胴体を三角形に描いて、その上に顔を書くような絵は、結構あるのではないだろうか。

 311ページ、藤原氏は《西宮(筆者注:西宮レクタス教育研究所。藤原氏は、この研究所がどういう性格を持った研究所であるか提示していない)でも、福岡(筆者注:この引用文の直前にある《福岡県のある小学校》。都市部なのか郊外なのか山間部なのかわからない)でも起こっていることは、全国で起こっていると考えるべきです。いま子どもたちがおかしくなっている。社会が早く気づかないと、大変なことになります》という、誰が言ったのかわからない(ひょっとしたら藤原氏の捏造かもしれない)コメントを引く。仮にこれが藤原氏の捏造ではないとして(もう少し突っ込んで言うと、藤原氏の提示する「事例」もまた捏造の可能性があるのではないか)、藤原氏が実際に取材の過程でこのようなことを聞いたのなら、アカデミズムの立場であっても、ジャーナリズムの立場であっても、まず疑うのが筋ではないか。実証的な検証もなく、《全国で起こっていると考えるべきです》《いま子どもたちがおかしくなっている。社会が早く気づかないと、大変なことになります》という言葉を垂れ流してしまう、ということは、藤原氏の文章は、この点で明らかに「大本営発表」に堕している。

 藤原氏は、文章も始まったばかりの311ページにおいて、大きなヘマをやらかす。同じページの2段目の終わりから3段目にかけて、藤原氏は《小中高の教育については、いたるところで声があがり議論が沸騰している。校内暴力とイジメ、そして不登校が問題になったのは80年代だった。現在はもっぱら学力「低下」と安全がテーマとなっている》と述べるけれども、これは正しい。しかし、藤原氏は《筆算で使う円周率が3.14から3でも良いとなったのは、子どもの計算力が落ちたからだといわれている》《なぜ幼児の有様が問題とされなかったのか。OECDが世界の五歳児の「学力」調査を実施しないからか、幼稚園児が園内暴力で注目されたり、「不登園児」が社会問題にならないからだろうか》などと書いてしまう。嗤うべし。まず、前者に関しては、《子どもの計算力が落ちたからだといわれている》と言うけれども、藤原氏はその根拠を示すべきだ。後者に至っては、藤原氏は幼稚園は、我が国においては義務教育ではないということを忘れているようだ。それにしても《園内暴力》《不登園児》なんてものが存在するのだろうか。もし存在するのであれば、幼稚園すらかくも息苦しい空間になっているのか、ということを衝かなければならないはずだが。始まってまだ1ページなのに、ここまで誤認と偏見と疑惑の頻出する文章を、文春の編集部は放置しておいていいのか。

 これ以降も藤原氏は「実例」らしきものを続々と提示するけれども、結局のところこれらの「実例」はただただ不安を煽るだけの叙述である、それが全国的な傾向なのか、ということは結局わからずじまいだ。そして藤原氏は、313ページにおいて、《原因はどこにあるのか?すぐに思い浮かぶのがテレビ、ビデオ、ゲームといった映像機器である》とぶち上げてしまうのである。やはりそうきたか!しかもこの直後、藤原氏は《「ゲーム脳」という言葉を耳にすることも多い》と著述してしまう。《ゲーム脳》!この疑似科学が、専門家からは総スカンを食らい、良心的な臨床家や評論家からは冷笑の的にしかなっていない、いうなれば「曰くつき」の疑似科学であることを、藤原氏は知っているのだろうか。例えば、「ゲーム脳」理論の批判者の一人である精神科医の香山リカ氏は、この「ゲーム脳」理論について述べた、この「ゲーム脳」理論の伝道者である日本大学教授の森昭雄氏の著書『ITに殺される子どもたち』(講談社)の文章における、《本文中、例えばケータイのメールでは「ゲーム脳と同じか、よりひどい状態」になっている、といわれる》(香山リカ、森健[2004])という記述に関して、香山氏は《ところが、ネットに関してはデータがないのか、著者の見解もまとまっていないのか、「ゲーム脳」状態になっているとは言われていない。ただ「人と人との社会的な結びつきとは、直接、ひんぱんに連絡を取り合う結びつきのことなので、ネットのバーチャル・コミュニティではかえって社会性が欠落する」といった感想が述べられているだけにとどまる》(香山・森前掲書)と記述した上で、《しかし、こういった著者の個人的な感想や印象と、誤っているにはせよ、とりあえず科学的には見える「ゲーム脳」の議論とが、それこそ「現実とバーチャルの混同」のように入り混じりながら展開されている》(香山・森前掲書)と反駁している。このような香山氏の批判は、他の多くの「ゲーム脳」ないしそれに酷似した疑似科学の伝道者に当てはまる。藤原氏も然りである。

 事実、藤原氏は《けれどこのゲーム、そしてテレビ、ビデオが、子どもの認知力にどのような影響をおよぼしているのか、はっきりしたことはわかっていない》というけれども、その後に続く言葉は《けれど確かに、幼児の背丈を凌駕するほどの大画面化したテレビを目の当たりにすると、やはり子どもの視覚に何らかの影響があるのではないか、という心配も分からないではない》だとか(《幼児の背丈を凌駕するほどの》テレビなど、買える家庭がどれくらいあるのだろうか、ということは、近くの電気屋に行けば簡単に思いつく疑問ではないか)、あるいは幼児の発達に関する一般論を述べるのだが、藤原氏は、最後まで現実の子供の脳の状態に関して、一言も述べないまま、ただ「今時の子供は脳が異常だ」という前提で話を進めてしまうのである。正気の沙汰だろうか。藤原氏は、そのような論理の運び方もまったく使わずに、ただただ一般論を述べるだけで、結局のところ解決策を示すことはない。この文章が6ページの論文であるとはいえ、この論理はあまりにも暴力的ではないか。

 しかも藤原氏は316ページにおいて、《もう一つ気になることがある》として、以下のように叙述する。曰く、

 ぼくは1955年に生まれた、一人遊びも群れ遊びも存分に経験した。幼稚園は半年しか行かなかった。病欠したまま中退してしまった。それでも南野不自由も孤独感も感じなかったのは、群れ遊びがあふれていたからだ。一日の多くを屋外ですごした。

 現代日本の子供には、この群れ遊びが見事なまでになくなっている。ことに埼玉・東京の連続幼女殺人事件を発端に、神戸の酒鬼薔薇事件以降は、子どもを被害者とする事件の連続的な発生で、子どもの姿が町から消えている。群れ遊びの場がない。

 それは子供の発育にきわめて大きな歪みを与えている気がする。他者とのコミュニケーションと言葉の発達は、この群れ遊びを通じてもっとも培われる。

 いい加減にしてくれ。このような議論は、結局のところ藤原氏の個人的な体験を何の抵抗もないまま一般論として拡大解釈しているだけであって、それがどこまで一般性を持つか、ということはわからない。そもそも藤原氏は過去との比較をまったくせずに、現在の「衝撃的な」事例を提示するだけで、現在の子供たちが過去と比べて劣っている、と述べてしまうのだから、藤原氏の言論に対する倫理観が問われよう、というものだろう。

 ちなみに藤原氏は、後のほうで《ここでいう群れ遊びとは、大人がまったく介在しない「遊び」の時間のことだ》と述べた上で、《保育園や幼稚園の教室でのお遊びは、群れ遊びとは本質的に異なる。子どもは大人の存在に、大人以上に敏感である。なぜなら自分が大人の保護がなければ最終的に生きていかない存在であるということを、「本能的に」知っているからだ。であるからこそ、その大きな存在からはなれたところで……独自の世界をつくる、群れ遊びの役割が大きくなるのだ。それは保護からいったんはなれる「冒険」であり、擬似的に自立を訓練する時間である》と、倒錯した議論をしてしまう。どのように倒錯しているかというと、藤原氏はここまで断定的に語っていながらも、ここで述べられている《群れ遊び》が子供に対していかに心理的な影響を及ぼしているか、そしてそれは《保育園や幼稚園の教室でのお遊び》とどう違うのか、ということをまったく述べることもなく、ただただ《群れ遊び》を絶対善として、《保育園や幼稚園の教室でのお遊び》が自立を促さないものである、と断定しているのである。藤原氏の目に学校教育(義務教育)というものは存在しないのか。

 藤原氏は最後のほうで、《ぼくはレクタス教育研究所の正司さんが最後にいった言葉が忘れられない》として、その言葉を引用する。曰く、《10年まえの子どもたちが、いまここにいたら全員天才児です。それくらい今の子はかつてできていたことが、まったくできなくなっている》と。私は1984年生まれで、執筆時は20歳であるから、私は《10年まえの子ども》の範疇に入るのだろうが、その立場からしても、この言葉は私にとって忘れられない言葉であった。ただし、藤原氏とは別の意味で。なぜなら、このような物言いを過去の事例との提示もないまま言ってしまう、ということが(藤原氏が問い質さなかった、ということも原因なのだが)、このレクタス教育研究所の立場というものを如実に表しているような気がしてならないのだ。

 最後に藤原氏は、このような恐ろしいことを述べる。曰く、《あと20年もすると、そんな幼児たちが成長し、あなたのオフィスの隣の席でパソコンにむかっているかもしれない。そのとき、あなたはどんな話ができるだろうか》と。私は藤原氏に《どんな話ができるだろうか》と苦笑してしまった。なぜなら、藤原氏は、今の子供たちが少しも成長しないまま(あるいは彼らの脳が改善されないまま)大人になって、社会を脅かす、と本気で考えているからだ。藤原氏はここで残酷な認識を易々と披露していることになる。すなわち、今の子供たちは「異常」だから大人になっても「異常」だ、と。

 藤原氏は316ページから317ページにかけて、《幼児の脳が市場化したのだ》として、早期教育を批判する。しかし、ほかならぬ藤原氏の如き言説が、幼児の脳の市場化を促したのである。つまり、子供たちの「凶悪化」だとか「劣化」を嘆くような言説の横行が、世の中の親たち(特に高学歴の親たち、さらに言えばいわゆる「教育ママ」)の不安を増大させ、我が子だけはそういう風にさせまいぞ、という「世論」が増大し、それによって子育てのマニュアルが増大した。そして、子育ての「失敗」が残酷な少年犯罪をもたらす、と国家のレヴェルで平然と語られるようになり、子育ての「失敗」は許されざる愚行となった。東京大学助教授の広田照幸氏は、そのような言説を《多くのマニュアル本やきじは、微妙なやり方で、親たちの不安をつのらせる。「こうしなさい、そうすればきっとうまくいく」という、断定的な口調の裏側にあるのは、「もしこうやらないと、子育てに失敗して、とりかえしのつかないことになりますよ」という、隠れた恫喝を含んでいたりするからである》(広田照幸[2003])と分析しているけれども、結局のところこのような言説の横行は、「今時の「異常な」子供たち」というステレオタイプが背景にないと成り立たないだろう。

 藤原氏の言説は、極めて断定的であり、しかも残酷だ。このような「不安」の扇動が、結局のところ藤原氏が批判する早期教育の横行を許すような言説と同様の文脈で受容されてしまうのは避けられないところであろう。この文章で最も藤原氏が示すべきことは、その解決策だった。しかし藤原氏は、結局のところ自分の「想い出話」を語るだけで、現在の子供たちを「敵」あるいは「エイリアン」「モンスター」として切り捨てて、あいつらは俺たちとは違うんだ、という感情を増幅しているとはいえまいか。もし、現在の子供たちが数年後に、早々問題も起こさずにそれなりに個性的に成長したら、藤原氏は大人としてどのように身を処するのか。

 ちなみにこの文章の中ごろを書いているとき、私の傍らのCDラジカセから声優の皆川純子氏が歌う「TRUTH」という曲(皆川氏のアルバム「アイコトバ」(キングレコード)に収録)が流れていた。この曲は皆川氏の作詞であるのだが、その中に《大人になればなるほど 大切な感情(もの)が零れてく》というフレーズがある。藤原氏は、「世間」に迎合して現在の子供たちに対する敵愾心を垂れ流す「大人」になることで、大切なこと、すなわち自分の体験を過度に一般化しないことや、巷で流れている「危機」言説を鵜呑みにしないことを忘れてしまっている。藤原氏は、社会的に責任のある大人として、自らの言説の危険性をもう一度見直していただきたい。

 参考文献・資料
 石原慎太郎[2005]
 石原慎太郎「仮想と虚妄の時代」=「文藝春秋」2005年5月号、文藝春秋
 香山リカ、森健[2004]
 香山リカ、森健『ネット王子とケータイ姫』中公新書ラクレ、2004年11月
 広田照幸[2003]
 広田照幸『教育には何ができないか』春秋社、2003年2月
 藤原智美[2005]
 藤原智美「目をつむれない子どもたち」=「文藝春秋」2005年5月号、文藝春秋

 市川伸一『考えることの科学』中公新書、1997年2月
 笠原嘉『アパシー・シンドローム』岩波現代文庫、2002年12月
 苅谷剛彦、西研『考えあう技術』ちくま新書、2005年3月
 斎藤環『心理学化する社会』PHP研究所、2003年10月
 佐々木正人『知性はどこに生まれるか』講談社現代新書、1996年12月
 日垣隆『現代日本の問題集』講談社現代新書、2004年6月
 パオロ・マッツァリーノ『反社会学講座』イースト・プレス、2004年5月

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コメント

「目をつむれない子どもたち」ですか。
だったら、「目をつむれないトッチャン坊や」石破茂とか、
「目をつむりまくる老人」石原晋太郎にも言及すればいいのにね(笑)

投稿: ン・ジュンマ(呉準磨) | 2005年5月 6日 (金) 15時57分

私は「藤原」という人の文章を拝読していないので、以下は想像でですので、お気に召さなければ無視して下さい。

大変申し訳ないと思いますが、この文章に対してひどく感じた事があったので、書かせていただきました。この記事を見ると「藤原」さんとという方は、単なる学者で、あまり現場をしらない人だと言っているように感じました。本当はどうでしょうか?学者の「警鐘」という行為もあるのではないでしょうか?また実際にこの記事を書かれた方が「群れ遊び」・「一人遊び」・「早期教育」の意味するものがわかっているかどうか疑問に思いました。ただ文章の断片的な部分を取り上げて、言葉を批判しているように感じました。もし違っていれば無責任発言をお許しください。

私は実際に、現場で0歳から20歳の何万人という子供たちの発育の変化を感じて、「遊びそのもの」「群れ遊び」、「早期教育」、「運動する事の大切さ」を提唱しているので、私も言葉に敏感になって「言葉遊び」になっているかも知れませんが、お許し下さい。ただ、「藤原氏」の社会の表面上のことだけで論じている部分は、わたしも少し違うのではないかと思います。
私は子供たちの変化はもっと根源的なところにあると思っています。「遊びについて」「禁止ばかりの社会」「現在の親の行動」について心理学的にも理解できる部分が多々あります。子供たちの変化は成長過程で起きていることだから、もし原因がわかっても、これを正す事は大変困難だと思います。方法論、結論のない発言は、タダの情報でしかありません。
大変変えらそうな事を書いてしまいました。重ねてお詫びします。

投稿: fany | 2005年12月10日 (土) 12時49分

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