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2005年4月10日 (日)

俗流若者論ケースファイル10・筑紫哲也

 我が国において最も左翼的な週刊誌である「週刊金曜日」は、私の愛読誌の一つである。もちろん、この雑誌にはたまに極めて秀逸な論考が掲載されるので、それも楽しみなのだが、もう一つ楽しみなのがある。それは、この雑誌に時たま表れる俗流若者論である。この雑誌はもっとも左翼的であるくせに、こと「今時の若者」とか子育てとか生活習慣とか流行とかになると、極端に保守的になってしまうのである。それが私にとっては楽しみでならない。
 とりわけ、我が国を代表するジャーナリストの筑紫哲也氏の連載「自我作古」は、当たり外れの格差が極めて大きい連載である。政治や国際問題に関しては、鋭い問題提起も含まれるのだが、特に「今時の若者」に関する文章となると、極端に国家主義化することも多くあり、やはり「若者論」は左翼で鳴らしてきたジャーナリストでさえも「俗流右翼」にしてしまうのだ、と読むたびに感じてしまうのである。
 ドイツの鉄血宰相ビスマルクは、「鉄は国家なり」と言った。それに倣って言うと、今回採り上げる筑紫氏のコラムは「赤子は国家なり」、か。筑紫氏の連載の第359回目である「三つ子の魂百まで――ことばの新事典(3)」(平成17年2月18日号掲載)は、我が国の幼児や子供の姿から我が国を「憂国」して見せるという、なんとも論理飛躍の著しいコラムであった。
 筑紫氏は最初において、《日本の赤ちゃんの顔が悪くなっている――という話を、長年、小児科医をやって来た人から聞いてショックだった。ついにそこまできたか、と。》(筑紫哲也[2005]、以下、断りがないなら同様)と書く。残念ながら、《ついにそこまできたか》と感想を漏らしてしまったのは私のほうである。《日本の赤ちゃんの顔が悪くなっている》と言うけれども、筑紫氏は、なぜその小児科医がそう考えるようになったか、というところを追求しないどころか、筑紫氏はその「嘆き」に同調してしまうのだろうか。しかし筑紫氏の妄想はさらに進む。曰く、

 「赤子は泣き泣き育つ」「泣く子は育つ」などの格言は忘れ去られ、泣き止まないことが「子殺し」や虐待の原因になる世の中、“泣き防止”のために生まれて間もなく、テレビの前に赤ちゃんを置く親も多いが、二歳まではテレビを見せないほうがよいというのが、その小児科医の説である。

 残念ながら、この文章にはいくつもの事実誤認と偏見が含まれている。まず筑紫氏はさも当たり前のように《「赤子は泣き泣き育つ」「泣く子は育つ」などの格言は忘れ去られ》だとか《“泣き防止”のために生まれて間もなく、テレビの前に赤ちゃんを置く親も多い》というが、これはあくまでもステレオタイプの発露に過ぎないし、そのようなことを示すような裏づけがない。第二に、筑紫氏は《泣き止まないことが「子殺し」や虐待の原因になる世の中》というけれども、実を言うと子殺しは戦後のある時期に比べて減っているのが実情であるし、確かに児童虐待は近年になって急増したという錯覚を覚えるけれども、実際には警察やマスコミが急に注目するようになった、というのがその理由の一つである(日垣隆[2005])。さらに、児童虐待は過去に何度も「識者」によって嘆かれることが多かった(例えば、立花隆[1984])。筑紫氏の議論は、その蒸し返しに過ぎない。第三に、《二歳まではテレビを見せないほうがよいというのが、その小児科医の説である》と筑紫氏は書いているけれども、《二歳まではテレビを見せ》ることの害悪を実証したという資料はない。日本小児科学会と日本小児科医会は、《2004年には……2月に日本小児科医会、3月に日本小児科学会、とふたつの小児科医がつくる学会が、テレビ・ビデオが子どもの発達に与える影響を指摘し、「2歳になるまではテレビは控えて」と提言を行なった》(香山リカ、森健[2004])。この「提言」によると、テレビを長時間見ていると《自閉症に似た状態を呈する》(前掲書)というのである。しかし、東京女子医科大学教授の小西行郎氏がそれに関して次のように反論を行なっている。

 長時間視聴に警鐘を鳴らす小児科医会などの提言すべてに反対するわけではありません。だが、前後して自閉症とテレビを結びつける意思の発言があるなど自閉症の子と親を傷つけ、不要な混乱をもたらした。医師の発言の影響は大きい。科学的な検証をきちんとすべきです。(香山・森前掲書)

 この通り、テレビの長時間視聴とそれが幼児に及ぼす影響というのは、実際には科学的根拠はないのである。
 しかし、筑紫氏の妄想は止まらない。筑紫氏は《世界には先進国、発展途上国、中進国と色分けされた国々と地域があるが、そのどこに住んだ人たちも帰国して一致するのは「日本ほど子どもたちの目に光りがない国は他にはない」という感想である。それが生まれた時から始まっているのだとしたら…。》というのである。まあ、これも妄想の暴走であるのだが、《日本ほど子どもたちの目に光りがない国は他にはない》ということに関して、それは子育ての問題よりもむしろ経済的・社会的な問題として説明すべきではないだろうか。また、そのような「嘆き」がいつから聞かれるようになったのかも筑紫氏は示すべきである。それにしても、《それが生まれた時から始まっているのだとしたら…》と、筑紫氏のステレオタイプな現代の親たちへの見方を強引に国家の「衰退」と結び付けてしまうとは。
 筑紫氏はさらに続ける。曰く、《戦後、この国の育児法は大きく変わった。それまでの育て方が“過剰関与”であり、もっと“独立”させて育てたほうがいい、というのが大きな流れだった。『スポック博士の育児書』というベストセラーがこの面で果たした役割は甚大だと関係者は口をそろえる。その本場のアメリカと日本とが、赤ちゃんと親との関与度……で逆転したのはもう20年も前のことである》と。ここにも誤謬は多い。第一に、《その本場のアメリカと日本とが、赤ちゃんと親との関与度……で逆転したのはもう20年も前のことである》というけれども、だったら20年前から《赤ちゃんの顔が悪くなっている》(冒頭)ということが確認されうるはずだが。また、ここで筑紫氏は陰謀論(何か「悪」を決め付けて、それが国家や社会を蝕んでいる、という考え方)に足を踏み出してはいまいか。
 筑紫氏はコラムの3段目において、《ついにそこまできたか、というのは別の意味もある》として、次のように書く。最後の段落を、少々長くなるが、全文引用する。

 私の目の前に現れる大学生は、年々私との年齢差が開くせいもあって、みなかわいい。だが、大学で教える者が等しく抱くのは「高校で何を学んだのだろう」という不満と疑問である。それを高校教師にぶつけると、「私たちのところにやってきたときはもう手遅れ」と中学教育への批判が出、中学校では同様のことを小学校について言う。そして、小学校では入学してきた子たち達の劣化が語られ、この“ババ抜きゲーム”は親のところに収斂してしまう。たしかに、子どもの教育問題はいまや親をどう教育するかの段階に来てはいるが、核心は子どもが知る社会を私たち大人がどう作っているかである。

 いかがであろうか。全部が全部、根拠のない「お話」であり、徒に「今時の若者」を嘆いてみせる空疎極まりない「憂国」言説に他ならないではないか。第一に、《大学で教える者が等しく抱くのは「高校で何を学んだのだろう」という不満と疑問である》というけれども、それがどのようなレヴェルの大学で言われているのだろうか。「等しく」と言っているけれども、大学の教員が学生に求めるのは多様である。ちなみに、桜美林大学教授の潮木守一氏の《多くの青年層に学校・大学で学ぶ機会が与えられ、中等教育・大学が拡大した。しかし、その反面では、働くべき職場を見出すことができず、社会的な居場所を失った青年層も増加した。今や大学は、その彼らを吸収して、何らかの意味のある事柄を提供することが期待されている》(潮木守一[2004])という指摘にも見られるとおり、大学に入ることが社会的なステイタスに直接反映される、というのは近年になって陰りを見せ始めているのだが、そのようなことに筑紫氏が注目しないのは一体どうしてか。第二に、筑紫氏は《“ババ抜きゲーム”》に関して述べるけれども、これは責任のなすり付け合いではないか。責任を他に転嫁してならない学校関係者を、筑紫氏はどうして批判しないのであろうか。しかも《「私たちのところにやってきたときはもう手遅れ」と中学教育への批判》というのが、どのようなことを指しているのかわからないし、そもそもそれが高校教員を代表する答えであるかどうかもわからない。第三に、筑紫氏は《核心は子どもが知る社会を私たち大人がどう作っているかである》と書く。一般論としては確かにその通り。だが、哀しいのは、これが筑紫氏を免責するために使われている、という点である。具体的に言うと、このような問題設定をすることで、我が国を堕落させたのは「今時の」堕落した親だ、ということを決定付けてしまうのである。
 筑紫氏は、《それまでの》(つまり、戦前までの?)子育てと戦後の子育てをきわめて明確に線引きをして、校舎を我が国の「衰退」の元凶とすることによって、我が国の抱える複雑な問題を子育てに帰してしまうのである。そのような認識は、我が国の保守政治家などにおける「嘆き」と完全に同じであり、簡単に言えば戦後の子育てを過剰に問題視し、「家庭」を過剰に重視することによって、かえって家庭の閉鎖化を推進させ、親に過剰なまでのプレッシャーを強要する。子育ての社会化が一概にいいことだとはいえないが、少なくとも筑紫氏、そして我が国の一部の保守派の家庭に対する無理な要求は、現実の諸問題の複雑さから目を遠ざけると同時に、現実の親と子供に対する暴力的なステレオタイプ(そして、そこから派生する「対策」)を正当化する。
 そもそも筑紫氏、そして筑紫氏と同じ問題意識を共有する保守派の認識は、果たして正しいのだろうか。子育ての歴史に関して研究を行なっている、東京大学教授の広田照幸氏はこれに関しては批判的である。広田氏が《日本の伝統的な子供観では、あれこれ周囲が手を駆けなくても、子供は年頃になれば分別もつき、一人前になるものだと考えられていた。庶民層の親が、乳幼児の世話に、神経質なほど気を配るようになったのは、「三歳児神話」が広がり、生活にもゆとりが生まれた高度成長期以後のことである》(広田照幸[2003]、この段落に関しては断りがなければ全てここからの引用)と書いている通り、子育てが家庭のものと広く認識されるようになったのは戦後になってからである。筑紫氏などが理想化する戦前まで(あるいは戦後のある時期まで)の子育ては、《階層的に豊かな層への偏り》があったり、《想い出の中の美化・ロマン化》が含まれていたりする。平成16年6月に起きた佐世保の殺人事件に関する家庭裁判所の決定に関して、平成16年9月17日の朝日新聞の社説が《どこにでもいる子が、ふとしたきっかけで殺人を犯すことがありうることを認識し、子育てのあり方を改めて考えさせようとした。家裁の決定はそう読むべきなのだろう》(内藤朝雄[2005])と論評を加えるように、今や社会やメディアが家庭に負わせる責任は重い。明治大学講師の内藤朝雄氏は、朝日のこの社説に対して、《「……たえず子どものこころをのぞき込み、一挙手一投足に注意を集中して、『かたより』の『しるし』を探し出さなければならない。この作業を怠ると、あなたの子どもは殺人鬼になってもおかしくない」。現在このようなメッセージが、新聞雑誌やテレビからたれ流しになっている》(内藤朝雄[2005])と指摘しているけれども、今や「家族」が少年犯罪の元凶とされ、「家族の尊重」という、それ自体は誰も反対し得ない美名の下に国家が「理想の家族」を規定して、親・教師・社会には子供の「監視」を強要することが急務とされている。
 筑紫氏にとって「子供」とは自らの「憂国」の材料でしかないのではないか。これから少子化と人口減少がますます進行するにあたり、筑紫氏のような「嘆き」もますます加速するだろう。しかしこれからの人口減少社会にとって大事なのは、誰もが人間らしい社会生活を後れるような社会構築をすること。そして現実の諸問題に立ち向かっていくには、まずメディアで喧伝されている「危機」をそのまま受け入れるのではなく、それを常に相対化して、その解決に向けて地道な改善・改革を歩んでいくこと。筑紫氏のような「嘆き」は、成熟社会の設計にとってはむしろ邪魔なものである。
 最後に。確かに戦後の我が国は核家族化と郊外化が加速して、我が国における家族の社会性は希薄になりつつあるように見える。しかし近年はその社会性を取り戻そうとする試みが、集合住宅の建築の場に現れ始めている。例えば仙台市には、東北大学の菅野實教授が計画し、阿部仁史教授が設計した「仙台市営荒井住宅」があるが、この集合住宅は、従来の集合住宅のように全ての部屋を南向きに配置するのではなく、部屋と部屋を向かい合わせたり、あるいは廊下からベランダが見えるようにしたりと、住居の独立性と公共性を両立した新しいタイプの集合住宅になっている。それ以外にも、全国的に、多様なライフスタイルに適合し、住居を「閉じる」のではなく適度に「開く」スタイルの集合住宅が全国的に生まれつつある。筑紫氏には、そのような集合住宅のパラダイムシフトを知ってほしい。

 参考文献・資料
 潮木守一[2004]
 潮木守一『世界の大学危機』中公新書、2004年9月
 香山リカ、森健[2004]
 香山リカ、森健『ネット王子とケータイ姫』中公新書ラクレ、2004年11月
 立花隆[1984]
 立花隆『文明の逆説』講談社文庫、1984年6月
 筑紫哲也[2005]
 筑紫哲也「「三つ子の魂百まで――ことばの新事典(3)」=「週刊金曜日」2005年2月18日号、金曜日
 内藤朝雄[2005]
 内藤朝雄「お前もニートだ」=「図書新聞」2005年3月18日号、図書新聞
 日垣隆[2005]
 日垣隆『世間のウソ』新潮新書、2005年1月
 広田照幸[2003]
 広田照幸『教育には何ができないか』春秋社、2003年2月

 日本建築学会・編『コンパクト建築資料集成 第3版』丸善、2005年3月
 赤川学『子どもが減って何が悪いか!』ちくま新書、2004年12月
 笠原嘉『アパシー・シンドローム』岩波現代文庫、2002年12月
 斎藤環『ひきこもり文化論』紀伊國屋書店、2003年12月
 広田照幸『日本人のしつけは衰退したか』講談社現代新書、1999年4月
 広田照幸『教育言説の歴史社会学』名古屋大学出版会、2001年1月
 広田照幸『教育』岩波書店、2004年5月
 広田照幸『教育不信と教育依存の時代』紀伊國屋書店、2005年3月
 パオロ・マッツァリーノ『反社会学講座』イースト・プレス、2004年5月
 宮崎哲弥、藤井誠二『少年の「罪と罰」論』春秋社、2001年5月

 内藤朝雄「「友だち」の地獄」=「世界」2004年12月号、岩波書店
 水島朝穂「「読売改憲試案」の目指すもの」=「論座」2004年7月号、朝日新聞社

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コメント

校舎を我が国の「衰退」の元凶
後者を我が国の「衰退」の元凶

投稿: Snus | 2012年7月21日 (土) 19時28分

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