正高信男は破綻した! ~正高信男という堕落みたび~
科学者に限らず、評論や分析のプロというのは本来、時流や世間体に流されず、学問や経験によって蓄積された深い見識を持って物事の本質を見抜く論評が求められている。そしてそれを求めるマスコミも、本来であれば、そこで得られた識見が公に発表するに足るものか、ということを見極めなければならないはずである。
ところが、いつの時代にも、そのような原理原則をかなぐり捨て、一見俗耳には聞こえがいいが、そこで大変な過ちを犯していたりとか、あるいは特定の人種に対する偏見、誹謗中傷が紛れ込んでいたりしようがまったく気にしないでステレオタイプを恬然と垂れ流してしまう「識者」が現れるのもまた事実である。マスコミもまた、その人がもてはやされているからといい、安易にその分野の第一人者として持ち上げてしまう。そうして、本来であれば優秀な学者でさえ、華やかな頽廃の道を歩んでいってしまう。気がついたときには、すでにその人の言動は思い込みと差別に溢れ、大衆に不要な恐怖と偏見を植え付けてしまうような暴論を垂れ流し続けるようになってしまう。
曲学阿世の徒、京都大学霊長類研究所教授の正高信男氏も、このパターンに見事に当てはまる。正高氏は平成12年周辺から青少年問題について語り始め、読売新聞などに社会時評を連載してからは少しずつその言説に論理飛躍が表れ始め、その第一の帰結が『ケータイを持ったサル』(中公新書)として表れた。当然、マスコミは大絶賛したが、真面目な学者・評論家からは警戒され始めた。その本が飛ぶように売れてから、正高氏は飛躍的にマスコミに登場するようになり、読売新聞なんかはその本の書評を2度も掲載したり、記事中のコメントに積極的に登場させているばかりではなく、平成16年1月からは教育面の交代執筆のコラムで連載を始めた(このコラムの書き手は、正高氏と、藤原正彦、堀田力、市川伸一、平野啓子の各氏)。正高氏の文章は回を追うごとに論理飛躍と差別を増し、ついに当たり障りのない(しかし細かく検証すれば問題が大有りの)若年層批判を垂れ流し続ける、お手軽な「憂国」の人に成り下がった。そうして生まれたのが「NHK人間講座」のテキスト、『人間性の進化史』である。
平成17年4月4日付読売新聞に掲載された正高氏の文章、「「ごくせん」に共感、元ヤンキー」を見て、嗚呼、ついに正高氏はここまで来てしまったのか、と嘆息せざるを得なかった。いや、そうなるのは必然か。
最初に断っておくが、正高氏がここで採り上げている「ごくせん」に関しては、漫画もドラマもアニメも見たことがないので、その内容について論評することはできない。しかし、この文章に表れている正高氏の若年層に対する差別意識は、批判しておかねばなるまい。
正高氏は1段目で、ドラマの内容を紹介した後、1行目から2行目にかけて、このドラマに共感する30~40代の人たちの深層心理を書く。曰く、《もっとも実際には「ごくせん」のような教師はいるはずもないのでで、みんな早く一人前と認められることを願った。それゆえ彼らの代表格の暴走族は、おおむね早婚だし、子どもを持つし、しかも子だくさんだったりする。次世代の気持ちの分かる人間を目指していた》(正高信男[2005]、以下、断りがないなら同様)と。どのような理由でもって《みんな早く一人前と認められることを願った》というのか、具体的な論証立てをすべきである。また、暴走族を《彼らの代表格》とするのは、簡単に言えば「暴走族的な」人がその世代全体に分布していて、真に《代表格》といえるかどうかを検証しなければならない。さらに、《それゆえ彼らの代表格の暴走族は、おおむね早婚だし、子どもを持つし、しかも子だくさんだったりする》というけれども、その統計的なデータもないし、その世代は上の世代に関して出生率が少ない(というより、我が国の出生率は戦後一貫して減少している)。私は出生率を無理に上げることは徒労だと考えているし、少子化に対しても楽観的なので、この点では正高氏とは明らかに立場を分かつのだが、正高氏が現代の人口に対して間違った認識を述べていること、さらにその認識が余りにも図式化しすぎた世代認識から来ていることは指摘しておきたい。
本番はここからだ。正高氏は、その下の世代に当たる現代の若年層に関して、こういった暴言を吐いてしまう。曰く、《けれども願ったことが、そのまま現実にかなうとは限らない。ビデオ、CD、DVDのレンタルとテレビゲームに浸って育った連中は、そもそも自分のことの理解を周囲に求めようとすら思わない》だと。これは単なる正高氏のステレオタイプでしかない。自らの思い込みを、それがさも事実であるかのように語る正高氏は、下の世代というものに差別的な感情しか抱いていない、といわれても、仕方ないであろう。はっきり言っておくが、正高氏のこの文章中における《ビデオ、CD、DVDのレンタルとテレビゲーム》は、はっきり言ってシンボルでしかないのであり、本質の一部ではあるかもしれないが決して全部ではない。正高氏が本気で《ビデオ、CD、DVDのレンタルとテレビゲーム》が世代間断絶、親子間断絶の原因になっている、と考えているとしたら、それは他の要因を無視した架空の論証立て、と判断せざるを得ない。また、《そもそも自分のことの理解を周囲に求めようとす思わない》というものが、いかなる状態を指しているのかも分からない。まあ、考えられるとしたら、マスコミ的な若年層へのパブリック・イメージを過度に簡素化して述べているのだろう。それにしても《連中》とは…。
正高氏は《改めて顧みた時、日本では子どもに対しまわりが幼少期より……気持ちを察してやる傾向が途方もなく強いことに気づく。結果として、分かってもらうことには慣れ親しんでいても、自分から相手に分からせるための労力を払うという訓練を受けずに成長していく》と一般論を述べた後、《時代の流れが速くない頃には、それでも支障はなかった。だが高度成長期以降、状況は変わってくる。それがまず、今となっては古典化したヤンキーの反乱を生んだ。そして今日、子を持つ年代に達した彼らは、次世代からなんらきたい(筆者注:おそらく誤植。正しくは「期待」だろう)をかけられないことに当惑し、「ごくせん」にただただ共感する》と書く。《次世代からなんらきたいをかけられない》というのはあるにしても、それはむしろ経済的な原因によるものが大きいのではないか。また、一般論の正しさや暴力性についても正高氏は考慮した形跡はない。自らの思い込みだけが全てになってしまっている。
正高氏の図式は極めて明快だ。曰く、今日のような青少年による「理解できない」犯罪や「問題行動」を生み出したのは、携帯電話、インターネット、及びテレビゲームなどといったデジタル機器であり、それがかつてない世代間の断絶を引き起こし、社会を危機にさらしている。正高氏の最近の言動をまとめるとこのような図式になろう。正高氏がこのような思考に凝り固まっているため、最初から何かを「敵」と決め付ける、という学者としてはあるまじき行為、いうなれば陰謀論に走っている。そのため、若年層に対してそれをテレビやゲームや携帯電話などに侵食されて人間性が退化したそうであるという烙印を押すことも、そしてそれを過剰に敵視することもまったくいとわない。自らの言論に責任を負わないので、当然社会構築、制度構築という視座はことごとく欠落し、目先の事象を捕まえて「憂国」してみせる、というスタイルで自己完結する。
世代論それ自体が問題なのではない。真に問題なのは、世代論を自らの優位性を誇示するために乱暴に振りかざすことである。正高氏はその隘路に見事にはまっている。信頼とか共生とか安心ではなく、若年層などの「理解できない」シンボルを持った人種に対して敵愾心をあおることにより、閉鎖的共同体的な「安全」ばかりを増幅させる売国奴を、正高氏は明らかに利している。
正高氏は完全にアジテーターである。我々はそこに気付くべきだ。
そしてこう言うべきだろう。
「正高信男は破綻した!」と。
引用・参考文献
正高信男[2005]
正高信男「「ごくせん」に共感、元ヤンキー」=2005年4月4日付読売新聞
斎藤環『ひきこもり文化論』紀伊國屋書店、2003年12月
広田照幸『教育不信と教育依存の時代』紀伊國屋書店、2005年3月
パオロ・マッツァリーノ『反社会学講座』イースト・プレス、2004年5月
松谷明彦『「人口減少経済」の新しい公式』日本経済新聞社、2004年5月
山本七平『日本はなぜ敗れるのか』角川Oneテーマ21、2004年3月
内藤朝雄「「友だち」の地獄」=「世界」2004年12月号、岩波書店
内藤朝雄「お前もニートだ」=「図書新聞」2005年3月19日号、図書新聞
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