俗流若者論ケースファイル19・荷宮和子
これは私が最近考えついた仮説なのだが、俗流若者論というのは、自らのステイタスを手軽に上げることができる道具なのではないか。簡単に言えば、マスコミなどで採り上げられているような「今時の若者」における「病理」を「解説」して、私は(「今時の若者」に対する敵愾心の共同体としての)社会に貢献している、という幻想を持たせて、そこから自らの「使命感」というものを満たしてくれる者こそ、俗流若者論なのではないか、ということである。
そしてそれの度が過ぎるようになると、自分のことを正義とみなすようになって、自分の言っていることはすべて正しいと信じるようになり、自分の気に食わない者は全て敵とみなすようになる。文章はその時々の「気分」だけでかかれるようになり、そこには一切の分析というものが存在しなくなる。この典型が、フリーライターの荷宮和子氏なのかもしれない。
というわけで、今回検証するのは、評論家の大塚英志氏が主宰する雑誌「新現実」の第2号に掲載された荷宮氏の論文「私が団塊ジュニアを苦手だと思ういくつかの理由」である。蛇足だが、私が荷宮和子というライターの存在を知ったのはこの論文が初めてであり(もっとも、大塚氏の著書『人身御供論』(角川文庫)に大塚氏と荷宮氏の共著の一部分が収録されていたが、これも大塚氏の筆によるものであり、荷宮氏との共著から収録したものであるということは最後の最後にふれてあっただけなので、荷宮和子という名前をまったく気にすることはなかった)、初めて読んだときはほとんど気にかけなかったのだが、後で読み返してみると、何でこんなに乱雑な文章を書くことができるのか、とため息をつくほどだった。
荷宮氏は冒頭、《私は昭和38年生まれである。つまり、団塊の世代と団塊ジュニアにはさまれた世代なわけである》(荷宮和子[2003]、以下、断りがないなら同様)と書く。要するに、荷宮氏はこの直後に述べているような《くびれの世代》(130ページ1段目)として語っていることになる。そして、荷宮氏が「大航海」という雑誌に寄稿した文章を自ら引用し(蛇足だが、荷宮氏のこの文章が掲載された「大航海」の特集はジェンダーに関するもので、荷宮氏の文章はジェンダー関連の論文の中に一つだけ世代論としてあった)、荷宮氏は《私がついついこんな一文を書いてしまった理由の一つに、「私は均等法以前世代の女だから」という点がある。たとえて言うならば、つまりこういうことである》と書く。なぜ荷宮氏が《均等法》、すなわち男女雇用機会均等法によって世代間の断絶が生まれてしまったのか、ということに関しては、荷宮氏はまったく述べておらず、結局のところ《団塊ジュニア》が「ひ弱に」なったのは《均等法》のせいである、と荷宮氏は語りたいらしいのだが、証拠が薄弱すぎる。
ところが荷宮氏は、131ページ1段目において、軽々しく認めてしまうのである。曰く、《「俺達はこんなに苦労してたのに、俺達はこんなに苦労してたのに……!」要は、こういうことである。ひがみですね》と。私は思わず拍子抜けしてしまった。だったら、それで済ませておけばいいものを、荷宮氏は《ではなぜ私は団塊ジュニアを、いや、より正確に述べれば、団塊ジュニアおよびそれ以降の世代のことを、「苦手」だと感じてしまうのだろうか》と、「私語り」を始めてしまい、しかもその「私語り」でもってそのまま社会問題に結び付けてしまうのである。
蛇足だが、すでにここで《くびれの世代》対《団塊ジュニア》という荷宮氏の架空の図式は、荷宮氏自身によって解体させられているとみなすべきだろう。というのも、荷宮氏は131ページの1段目から2段目にかけて《自分よりも下の世代に対して……「団塊ジュニアだから」すなわち「団塊の世代の子供たちだから……」そう感じてしまうのか、あるいは「団塊ジュニアおよび団塊ジュニア以降の世代だから」すなわち「私が生まれ育った時代以降に成立した社会で生まれ育った世代だから(均等法施行後に働き始めたから)」、そうかんじてしまうのか》、と書く。この点において、荷宮氏の認識は混乱している。結局のところ、荷宮氏は自分の育った社会環境からは「真っ当な」人間が育ち、そうでない社会環境からは「異常な」人間が育つ、と考えていることになる。蛇足だが、この論文が書かれたのはおそらく2002年の据えごろから2003年の始まりごろだろうが、その時代の若年層の親の大半は《団塊の世代》ではないと思う。大半が1955~1960年生まれではないだろうか(ちなみに荷宮氏は1963年生まれである)。それに、《団塊ジュニア以降の世代》のなかで、実際に働いている人が何割ほどいるのだろうか(これで《均等法》というものがもたらす断絶に対しても疑問が投げかけられることになる)。
しかし、この点を衝いてしまったら荷宮氏の論文に対する検証がここで終わってしまうので、もう少し荷宮氏の議論に付き合うとしよう。荷宮氏は、131ページ2段目から3段目にかけて《「団塊ジュニアだから」すなわち「団塊の世代の子供たちだから(あの親にしてこの子あり、だから)抱いてしまう違和感」》と《「団塊ジュニアおよび団塊ジュニア以降の世代だから」すなわち「私が生まれ育った時代以降に成立した社会で生まれ育った世代だから(均等法施行後に働き始めた世代だから)」抱いてしまう違和感》を列記する。その後、131ページの3段目から4段目にかけて、延々と言い訳を語った後に、132ページからやっとその「検証」が始まる。ここでは、荷宮氏が掲げる全17項目に関して、論理的に検証してみよう。具体的に言うと、《「団塊ジュニアだから」すなわち「団塊の世代の子供たちだから(あの親にしてこの子あり、だから)抱いてしまう違和感」》が3項目で、《「団塊ジュニアおよび団塊ジュニア以降の世代だから」すなわち「私が生まれ育った時代以降に成立した社会で生まれ育った世代だから(均等法施行後に働き始めた世代だから)」抱いてしまう違和感》が14項目である。後者のほうが圧倒的に多い、というのはご愛嬌か。
まず《「団塊ジュニアだから」すなわち「団塊の世代の子供たちだから(あの親にしてこの子あり、だから)抱いてしまう違和感」》の3項目に関して検証しよう。
1・脊髄反射をする
2・傍若無人である
まず、荷宮氏がこれらの証左として掲げるのが、いくつかの「実例」らしきものであるが、なんとこれらの「事例」には具体的なものはまったくなく、ただ特徴的なことをつらつらと並び立てるだけなのである。これでは、荷宮氏が現在の若年層を罵るためにでっち上げた捏造と読み取られてもおかしくはないだろう。少なくとも、荷宮氏は、「善良な」大人たちが安易に納得してしまうような「実例」ではなく、本当に実例を示してほしい。そして荷宮氏は、自分の持つステレオタイプを正義と安易に思わないでほしい。
しかし荷宮氏にとっては、そのようなことはどうでもいいようだ。例えば荷宮氏は132ページの2段目から3段目にかけて、このような妄言を発してしまう。
……「笑える出来事」が目の前で起きたから、その瞬間に笑い出してしまう。それが、団塊ジュニア以降の世代の行動パターンなのである。礼儀だのTPOだのだけを問題にして論じるわけにはいかない、そもそもそういう次元に問題があるのでない、そんな世代が台頭してきてしまったのである。
「君らはカエルか!?」この事実に気づいたとき、こう思ってしまったが、しかし、「団塊ジュニアは脊髄反射をしている」、層思えば、近頃の客席の空気の変化が納得できる答えではあった。
安易に《納得》するな、と言いたい。しかも《カエル》とは…。自らのステレオタイプに対して脊髄反射をしているのはあなたのほうではないか、と思ってしまう。
結局のところ、荷宮氏は、この項目に関しては、単なる「憂国」だけに終始してしまうのである。しかし、このようなスタイルは、この項目に限らず、この論文全体を通じたスタイルになってしまうのである。荷宮氏は「女子供文化評論家」を自称しているようだけれども、せめて「評論家」と名乗るにふさわしい思考力を持ち合わせていただきたいものだ。
3・前例をやたらと気にする
我が国の官僚社会のことではない。あくまでも荷宮氏は《団塊ジュニア》の気質として語っている。しかしまた、荷宮氏はその実例を提示しようとせずに、一般論だけで語っているのが口惜しい。しかもその原因を一概に《親のメンタリティ》(132ページ4段目)に求めてしまうのも問題がある。また、この文章もまた、前項と同様、単なる「憂国」を語っているに過ぎないのである。
笑ってしまったのは133ページ2段目である。荷宮氏は、《思えば、私の世代は、さまざまな場面で「女の方が来られるのは初めてですので…」といった言葉で迎えられることが当たり前だった。必ずしも、敵意に満ちた言い方ばかりではなかったが、とにかく相手は戸惑っているのが普通だった》と書いていることである。《前例をやたらと気にする》のは、《団塊ジュニア》(およびそれ以降)だけではなかったのか?しかし荷宮氏はそんなことは気にも留めず、《そういった状況のせいもあり、前例を破ることに快感を覚え、必要以上に好戦的な面がなきにしもあらずだった。そのため私は、「前例を破りたい」という気持ち事態を持たない団塊ジュニアに対して、「つまんない奴…」と思ってしまうのである》と語ってしまうのである。結局「私語り」ではないか。「私語り」による俗流若者論ほど不毛で《つまんない》ものはない。
というわけで、荷宮氏が《「団塊ジュニアだから」すなわち「団塊の世代の子供たちだから(あの親にしてこの子あり、だから)抱いてしまう違和感」》として提示する項目に関しては、これで終わりである。しかし、荷宮氏が後に認めている通り、《「団塊ジュニアだから」すなわち「団塊の世代の子供たちだから(あの親にしてこの子あり、だから)抱いてしまう違和感」》として特化する必要はどこにもないのではないか。結局のところ、荷宮氏は自分の「憂国」を正義と信じ、自分こそが最も「正しい」人間である、と思いこんで下の世代を罵倒しているだけではないか。しかし、このような狼藉の度合いは、これ以降さらに強くなる。というより、文章も散漫になり、結局のところ「私語り」ばかりに終始してしまう。それでは、荷宮氏が《「団塊ジュニアおよび団塊ジュニア以降の世代だから」すなわち「私が生まれ育った時代以降に成立した社会で生まれ育った世代だから(均等法施行後に働き始めた世代だから)」抱いてしまう違和感》として提示する14項目の検証に移る。
1・読み取り能力が低い
ここではある演劇に関して出てくるのだが、ここでは世代に関する演劇の受容文脈の違いすら出てこない。荷宮氏がいかに世代論というものに対して軽い気持ちで臨んでいるか、ということがよく表れている項目といえよう。
2・語彙が貧しい
荷宮氏の語彙もかなり怪しいと思うのだけれども。それはさておき、荷宮氏がその証左として掲げるのが、結局のところ《よくのぞくサイト》での出来事を語るだけで、荷宮氏がそこから《「そうか、「世間一般の常識として、知っていることが妥当か否か」よりも、「自分自身が知っているか否か」こそが、他者を攻撃する際の基準なんだ…」、ということに気付いた》と「分析」してしまう。この批判は見事に荷宮氏に当てはまるのだが、それはさておき、自らの体験だけで一つの世代を「分析」してしまうということの暴力性に関してだけは自覚的であったほうがいいと思う。
3・伝える力がない
また「私語り」である。検証する必要はない。いい加減にしてくれ。
4・根拠のない自信を持っている
荷宮氏は冒頭で、《私が子供だった頃に比べ、宝塚音楽学校の倍率が激増した。ヅカファン(筆者注:宝塚歌劇団のファン)の中に、急に美人が増えたとは思えない。「身のほど知らず」が増えたのだ》と書いている。嗤うべし。どうして荷宮氏は現代の若年層の中で宝塚音楽学校に志願する人を《身のほど知らず》と断定してしまえるのだろうか。結局のところ、このような認識は、荷宮氏が現代の若年層に関して蔑視的な認識しかもっていないことの証左になろう。
134ページ1段目においても、《ネットの普及によって、私の世代までならば、本で調べたり誰かに尋ねたりしなければ知ることのできなかった知識を、個人の力だけで手に入れられるようになった結果、キャリア等にかかわらず、自身が自負するジャンルで自信満々にふるまう者達が多くなったのも特徴だ》と言っているけれども、それならなぜ「ひきこもり」が増えているのだろうか。もう一つ、同じ段において《あるいはまた活字の世界であっても、例えば次のような言説、「ぼくは、心理分析を入れることで批評家の胸像になっちゃうような批評ではなく、構造分析がしたい、人間のいない人文科学を目指したい」/すなわち、/「神の視点で他者(の作品)を眺めたい」/こういった夢をてらいなく語っている、そんな文章に接した時、「あんたには無理だよ…」といった気分を覚えてしまう》と荷宮氏は書く。誰が言ったのだろうか?東浩紀氏(評論家、1971年生まれ。荷宮氏言うところの《団塊ジュニア》に見事に当てはまる)か?もちろんこの語り口だけで東氏の文章と断定することはできないけれども、「新現実」の編集者のクレジットから東氏がいなくなった、ということをかんがみると、ちょっとそういうことを疑ってみたくもなる。もう一つ言っておくが、《すなわち》の前後がまったくつながっていない。
ここで荷宮氏の「検証」は一旦停止し、これらの「特徴」(これらが眉唾物であることはすでに検証した通り)に関して、《ネットの隆盛によって、目に余る状況が表面化してきたと言える》と書いている。しかし、それを示すための証拠をまったく示していないのはどういうわけだ。しかも、ここでも単なる「私語り」だけが「正しい」とされ、他の思考を参照する余地をまったく持たない、というのも「評論家」を自称する者であれば避けるべきであろう。
さて、荷宮氏の「検証」は再開する。
5・彼らに人気のある作品では「主たる登場人物=イヤなやつ」である
これに関しては、次の項目と参照して述べることにしよう。
6・彼らに人気のある作品の根本的な設定が「設定のための設定」である
実を言うと、この項目に関して述べた文章は、一つ前の項目と矛盾しているのである。荷宮氏は、この項目を述べた箇所(135ページ3段目の終わり)で、「仮面ライダー龍騎」を採り上げている。荷宮氏は「龍騎」のシナリオに関して、《「龍騎」のビデオを、HPを、「大全集」を、諄々と見聞きしていくことで、「なぜ彼らは戦っているのか」を、私も理解することは出来た。/が、理解することができた、にもかかわらず、「なぜ彼らは戦わねばならないのか」を受け入れることが、私には出来なかったのである》と感想を述べる。これは、《彼らに人気のある作品では「主たる登場人物=イヤなやつ」である》ということと矛盾してはいまいか。
しかも、この矛盾を解消するために136ページの1段目ででっち上げた言い訳が次のようなものだ。曰く、《けれども、「龍騎」の作り手、そして「龍騎」を支持している受け手のメンタリティは、今述べた思いとはちょっと違うところにある、そんな風に私には思えるのである。/「13人のライダーが殺し合いをする」=「たくさんオモチャを売るための方便」》と。いい加減にしてくれ。このような「図式」に強引に当てはめることによって、現代の作品と製作者に言われなき誹謗中傷を浴びせかけようとしているのはもはや明らかであろう。
7・彼らに人気のある作品では「人物」よりも「構造」が優先されている
荷宮氏は「機動戦士ガンダム」を支持しているけれども、それが「人物」を優先させた作品であったという荷宮氏の議論はひとまず受け入れるとして、荷宮氏が《「人物」よりも「構造」が優先されている》と批判する現代の作品を一つも取り上げないのはどういうわけか。このような比較をするのであれば、まず作品分析に取り組むべきであろうが、荷宮氏はそのようなことをせず、単なる一般論だけで茶を濁している。
蛇足だが、この項の最後に作家の池波正太郎氏の、これまた「憂国」的なエッセイが引かれている。この次の甲を見てもわかるのだが、荷宮氏と池波氏は結構共鳴する部分があるらしい。しかし、これは荷宮氏の狼藉の検証とは別問題であろう。
8・「グロい死体」が好き
またぞろステレオタイプのお出ましである。冒頭、すなわち136ページ4段目から137ページ1段目にかけて、殺人映画に関する世代的な受容文脈を述べるのだが、荷宮氏はぬけぬけと《池波(筆者注:池波正太郎氏)のこの文章を読めば、「この人、何言ってるの?映画の観客や漫画の読者が『人殺しの現場』を見たがるのは当たり前じゃん?『人殺しの現場』が見たいからこそ、お金を払ってるんでしょう?」おそらく彼らはこういった返事を返すであろう、という意味での「変化」が起きている、ということである。いや、より実感に即して言えば、彼らがすきなのは、「人殺し」ではなく「グロい死体」なのだと思う。で、出来ればその死体は、「殺人」によって製造されて欲しい、それが彼らの素直な気持ちなのである》と語ってしまう。ここまでステレオタイプを既成事実として語ることが出来る荷宮氏とは一体なんなのであろうか。このような認識は、何度でも言うが、荷宮氏が現代の若年層に対していかにステレオタイプでしかものを見ていないか、ということを如実に表している。荷宮氏は本当に「評論家」を名乗る資格があるのか(私は荷宮氏のことを「ライター」と言っているけれども、それもこのような理由による。もっとも、このような人物が「ライター」として規定されることに関しても、真面目なライターたちは御免被るだろうが)。
しかも、137ページの2段目の終わりにおいて、《いや、実を言うと、ほとんどのメディアはずっとそうだったのだ。「男=被害者の側から物事を見る、ということができない人種」によって、日本のメディアは仕切られてきたことを思えば、より下の世代が(男女にかかわらず)「趣味嗜好がグロい」人間になっても仕方がないのかな、とも思ってしまう》と書いてしまっている。呆れるほかない。ここまで読まれてきた読者諸賢には、どこがステレオタイプであるか、どの記述に問題があるか、ということはもうわかるだろうから、この文章に関する検証は控えさせていただく。
さらに荷宮氏は暴走の度合いを増す。荷宮氏は138ページ2段目において「ひきこもり」について語り始めるのだが、それもまた狭隘な認識が目立つ。曰く、《なにしろ、私より下の世代には、「ひきこもり=学校にいるよりも家にいる方が幸せ」、そんな人たちでさえいるぐらいなのだから。/「よろしいなあ、実家ではくつろげて…」/くびれの世代の女の一人としては、こんな感想しか出てこないため、ますます、自分よりも下の世代に対する違和感が増してしまうのである》と。嗤うべし。精神科医の斎藤環氏などの著作を見ればわかるとおり、《ひきこもり=学校にいるよりも家にいる方が幸せ》というのは断じてない。このような、いうなれば「世間的な」認識こそ、「ひきこもり」の人たちをさらに囲い込んでしまうのである。荷宮氏は、結局のところ下の世代に対して冷笑的、蔑視的な認識しか抱いていないから、こういった暴力的な文章が生まれてしまうのである。《「よろしいなあ、実家ではくつろげて…」》という言辞に、それが凝縮されている。
「ひきこもり」の苦しみに関しては、斎藤氏の良質な著書や論文に譲るが、いい加減、荷宮氏や荷宮氏と同じようなマインドをもつ人たちは、「ひきこもり=甘え」という認識から脱却すべきであろう。
10・「深い意味」を考えずに泣く
荷宮氏の文章を検証して、私も泣きたくなる衝動に駆られている。この項目も、単なる「私語り」に過ぎない。
11・オチが弱くても気にしない(パターンさえおさえてくれていれば満足する)
これも「私語り」。いい加減にしてくれ。
12・人気作品の作り手が「悪気がなければ何をしてもいい」という価値観の持ち主である
またしても「私語り」。言っておくけれども、自らのステレオタイプだけを頼りに物事を語らないで頂きたい。
13・人気作品の登場人物の言葉づかいの「気持ち悪さ」に無頓着である
これも「私語り」…ということで終わらせたかったが、看過できない文章を見つけた。
たとえば本気で殺すつもりがなくとも、思わず「殺してやる!」と叫んでしまう、そんなボキャブラリーを持った日本人は、今では珍しくないからである。なぜこうなってしまったのか。推測するならば、今の日本では、とりたてて「過激」「暴力的」な作品でなくとも、テレビドラマや漫画やアニメに登場するキャラクターの多くが、こういったボキャブラリーを披露しているからだと思われる。こういった面での語彙の拡大は、「ごっこ遊び」という経験を経ずとも、耳で覚えただけでも、十分に可能なのである。
「ごっこ遊び」を介すことなく、受け手のボキャブラリーを拡大する役目を担うメディアとして、今ならゲームの存在を無視することは出来ないだろう。
メディア悪影響論である。しかし、この文章には突っ込みどころが満載である。まず、《たとえば本気で殺すつもりがなくとも、思わず「殺してやる!」と叫んでしまう、そんなボキャブラリーを持った日本人は、今では珍しくないからである》ということがどこまで本当であるかわからない。しかもその「原因」として《今の日本では、とりたてて「過激」「暴力的」な作品でなくとも、テレビドラマや漫画やアニメに登場するキャラクターの多くが、こういったボキャブラリーを披露しているからだと思われる》を槍玉に上げていることも不可解である。結局のところ、荷宮氏は自らの不快だと思うことに社会問題をなすりつけているとしかいえないのである。いうなれば、荷宮氏は脊髄反射をしている。
14・頭の体力がない
このこうには笑ってしまった。というのも、この証左として荷宮氏が採り上げているのが《エレベーターで一緒になった女子高校生》の会話だけなのだから。しかも《そういうタイプに受けたのが「ゴーマニズム宣言」「わしズム」(筆者注:いずれも、漫画家の小林よしのり氏の作品。タカ派的な認識と主張で有名である)だったのだと思う》とこれまた断定してしまう。
荷宮氏こそ頭の体力が少ないのではないか。
これで荷宮氏の挙げた項目に関する検証は終了であるが(ここまで140ページの3段目である)、この全部に共通するのは、いずれも「私語り」であること、そして荷宮氏のよって立つ論拠が全てステレオタイプにしか過ぎないことであろう。
そして、この文章は144ページまで続くのだが、これもまた全て「私語り」である。その中でも、特に問題のある箇所を抜き出して検証することにしよう。
141ページにおいて、荷宮氏曰く、《そう、たとえば、私たちの世代は、均等法施行前から、「キーッ!」となって働いてきたというのに、下の世代の女の子たちは、「均等法なんかいらない」「せっかく女に生まれたのに働くなんてバカみたい!」、そんなメンタリティの持ち主だったということに気付いた時のむなしさというかなんというか…》と。荷宮氏が言うとおり、《下の世代の女の子たちは、「均等法なんかいらない」「せっかく女に生まれたのに働くなんてバカみたい!」》と現代の若い女性が本当に考えているとしたら、なぜ女性労働者率が年々上昇しているのか。しかも、荷宮氏の提示する「考え」をあらわすデータがどこにあるのか。データも提示せず、具体的な人や作品の名前も提示せずに、一般論で粉飾するのは荷宮氏の常套手段である。
荷宮氏は141ページの最後から142ページの1段目にかけて、東京都知事の石原慎太郎氏について述べる。しかし、142ページの1段目にある《ああいう生き物(自身と異なる属性を持った他者の尊厳を認める能力を持たない生き物は人間ではない)の価値観は、たとえ心でも変わるわけがないのだから》という文章には笑ってしまった。私見によれば、石原慎太郎と荷宮和子は同一の属性を持った《生き物》である。詳しくは「俗流若者論ケースファイル11・石原慎太郎」を参照していただきたいが、石原氏は、「文藝春秋」平成17年5月号に寄稿した文章「仮想と虚妄の時代」において、散々若年層を罵ったけれども、結局のところ石原氏は「本質」だとか「国家」だとかいった美辞麗句を振りかざすだけで、石原氏の文章もまた大半が「私語り」であり、ステレオタイプの発露に過ぎない(石原慎太郎[2005])。荷宮氏も同じだった、ということは、ここまで読んでくださった読者諸賢にはわかりきっているだろう。
さらに荷宮氏は、142ページから143ページにかけて、深作欣二氏の「バトル・ロワイヤル」について延々と語っている。荷宮氏は、この作品に関して、《「決まっちゃったことはしょうがない、なんとかその枠の中で生き残れるようにがんばろう!」》というメッセージを汲み取ってしまったらしい。まあ、一つの作品からいかなるメッセージを汲み取ろうが自由ではあるが、荷宮氏は《きっと私なら、「まずは北野武の演じる教師キタノを殺してやりたい」、こう考えるに違いないからだ》と誇らしげに妄想を語り、さらに現代の若年層の「病理」にかこつけてしまうのは、やはりいただけない。
さて、私はかつて、荷宮氏が、この文章が発表された1年と約3ヵ月後に発表された文章「「2ちゃんねる」に集まる負の本能」を検証する過程で、荷宮氏はさも戦後民主主義者であるかのように振舞っているけれども、実際には低所得者差別に満ちた都市型新保守主義者である、と述べた(荷宮和子[2004]。これに関する検証は「俗流若者論ケースファイル04・荷宮和子」で)。そのような荷宮氏の社会認識は、この文章ですでに表れていた。143ページ2段目から3段目にかけて、荷宮氏は、《それとは別に、「社会の上層に属する者達」とは決していえない種類の人間の中にも、「どうせ死ぬんだったら戦争でこそ死にたい」と考えるタイプの人間が確実に存在している、という問題がある》だとか《ぶっちゃけて言えば、「ある種の人間」=「戦争で死ぬ以外に『生きてきた甲斐』を手に入れる術を持たない能無し」、ということである。つまりは、社会的な場面でも、個人的な場面でも、何の成果も挙げられなかった、あるいは、挙げる当てがない、そんな類の人間だからこそ、「どうせ死ぬんだったら戦争で死にたい」などとぬかせるのである》と言ってしまっている。これでは差別ではないか。荷宮氏は、結局のところ、自分の「正義」に浸りたいだけであって、そこに属しない者たちを罵ることによって、自己を保っているのだろう。
さて、ここで荷宮氏の文章の検証は終わるが、我々は荷宮氏の文章から何を学び取るべきだろうか。
私は、この文章を、ある種の寓話と考えている。すなわち、自分を絶対善、絶対正義として万物をとらえ、自らの「正義」に合わないものは全て社会を脅かす元凶として次々と罵詈雑言の嵐が浴びせられる。そして、特に若年層を罵ることによって自分の世代の(正確に言えば、自分の)優位性を示すことで自慰にふけり、自己の空虚を埋め合わせる、そのようなことしかできなくなった一人の自称権力者の寓話として。荷宮氏は自らを「少数派」だとか「弱者」だとか自称しているけれども、荷宮氏の振る舞いはまさに強者そのものであり、ブッシュ、金正日、小泉純一郎、石原慎太郎につながる危険さを持っている。
このような倒錯は、荷宮氏が自らの権力性に自覚していないことに起因していると思われる。少なくとも自らがあるテーマに関して自由に雑誌や新聞、あるいはウェブなどに書けるのであれば、本来求められるのはそこに書くことに対する倫理の自覚である。すなわち、過度な暴言は慎む、自らの論証の証拠を開示する、安易なアナロジーに逃げ込まない、などの、言論人としての「真・善・美」を自覚することである。
しかし、荷宮氏はそのようなことをまったく考えていない。逆に、言論を自らの狼藉を正当化するものとしてとらえている節がある。これこそ、私が冒頭で述べた仮説、すなわち俗流若者論が自らが「社会正義」であることを幻想させてくれる構造である。荷宮氏の提示する「証拠」が全て「私か足り」であることが、この疑念を確信に変える。
そして、荷宮氏が他者を批判している際に用いられるレトリックは、その全てが荷宮氏自身にも当てはまるものばかりだ。いうなれば、荷宮氏こそ、脊髄反射で行動し、傍若無人であり、根拠のない自信を持っており、荷宮氏の文章における登場人物は「イヤなやつ」で、深い意味を考えずに泣き(「憂国」言説にふけり)、自らの言葉づかいの「気持ち悪さ」に無頓着で、オチが弱くても気にせず、頭の体力がない。荷宮氏が、「評論家」として持ち合わせるべきではない要素を、残念ながらこの文章は全て含んでいる。
「反差別」を叫ぶ者が、最大の差別者になってしまうという逆接。いや、この文章における荷宮氏に関しては、最初から荷宮氏自身が差別者としての自らを開示しており、しかも自らが差別者であることに対して少しも反省の気持ちを持っていない。
こういう人を、平然とのさばらせておく編集者も、問題があるのではないか。
参考文献・資料
石原慎太郎[2005]
石原慎太郎「仮想と虚妄の時代」=「文藝春秋」2005年5月号、文藝春秋
荷宮和子[2003]
荷宮和子「私が団塊ジュニアを苦手だと思ういくつかの理由」=大塚英志(編)『新現実Vol.2』角川書店、2003年3月
荷宮和子[2004]
荷宮和子「「2ちゃんねる」に集まる負の本能」=「現代」2004年8月号、講談社
五十嵐太郎『過防備都市』中公新書ラクレ、2004年7月
姜尚中『ナショナリズム』岩波書店、2001年10月
斎藤環『ひきこもり文化論』紀伊國屋書店、2003年12月
斎藤環『「負けた」教の信者たち』中公新書ラクレ、2005年4月
数土直紀『自由という服従』光文社新書、2005年1月
芹沢一也『狂気と犯罪』講談社+α新書、2005年1月
広田照幸『教育言説の歴史社会学』名古屋大学出版会、2001年1月
パオロ・マッツァリーノ『反社会学講座』イースト・プレス、2004年5月
山本七平『日本はなぜ敗れるのか』角川Oneテーマ21、2004年3月
ウォルター・リップマン、掛川トミ子:訳『世論』上下巻、岩波文庫、1987年2月
渋谷望「万国のミドルクラス諸君、団結せよ!?」=「現代思想」2005年1月号、青土社
寺島実郎「経済人はイラク戦争に責任を自覚するか」=「現代」2004年6月号、講談社
内藤朝雄「お前もニートだ」=「図書新聞」2005年3月18日号、図書新聞
藤生明「ナショナリズム高揚地を歩く」=「AERA」2005年2月14日号、朝日新聞社
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