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2005年4月 4日 (月)

俗流若者論ケースファイル09・各務滋

 ここ最近の「俗流若者論ケースファイル」は、若狭毅森昭雄瀧井宏臣&森昭雄、と、3回連続で擬似脳科学を採り上げてきたので、今回も擬似脳科学を採り上げたい。とはいえ、今回は、週刊誌の「ネタ」的記事で、「ゲーム脳」みたいに差別性が濃厚なわけでもないので、あまり仰々しく糾弾しない。少し楽しむ程度にしたい。
 今回採り上げる文章は、朝日新聞社から出ている週刊誌「AERA」の編集部の各務滋氏の筆による記事「男が勝てない会話力格差」(「AERA」2005年3月21日号掲載)である。この記事を検証する前に、少し寄り道をしたい。
 「AERA」2003年1月13日号に、同誌編集部の大和久将志氏の筆による「欲望する脳 心を造りだす」という記事が掲載されている。この記事は、脳科学の最先端を追った記事なのであるが、後半では、ベストセラーとなった『話を聞かない男、地図が読めない女』を批判的テキストに、擬似脳科学が流行する背景を論じ、それらに反証を行なっている。大和久氏は、件の本に掲載されたエピソードを引いて、《なんだそれ?これが副題の「男脳・女脳が『謎』を解く」を象徴する話だろうか》(大和久将志[2003]、この3段落に関しては全てここからの引用)と疑問を投げかけ、さらに同書に掲載されているほかのエピソードを採り上げて《言っては悪いが、これだけ聞けば「酒場の与太話」である。……脳科学の成果は「与太話」に結実したということか》と書いている。
 さらに大和久氏の記事では、確かに認知心理学の分野では結果に男女差があり、脳の形態にも男女で違いがある、というものの、それを脳機能の違いに結びつけることはできない、としている。それどころか、《女性は男性より、左脳と右脳をつなぐ脳梁や前交連と呼ばれる部分が太いため、左右の脳で活発に情報交換している》という通説を否定するような学説もある、というのである。
 この記事には、俗流脳科学に対する痛烈な批判が添えられている。特に、《厳密に考えれば、脳の状態が、問題になっている行動の結果なのか原因なのかわからない。……そういう「科学的」な言説に対しては、人文系の立場から常に相対化していかなきゃならないと思います》という評論家の宮崎哲弥氏と、《「脳科学ではこうなる」というのを集めると、ものすごく陳腐な人間像ができるわけです》というソニーコンピュータサイエンス研究所リサーチャーの茂木健一郎氏の分析は、今回採り上げる記事を読んでいく上で覚えておきたい。
 さて、本題に移ろう。各務氏の記事では、最初に、東京都足立区立東島根中学校のここ最近10年間の生徒会長が《女女女男女男女男女男》(各務滋[2005]、以下、断りがないなら同様)となっていることを採り上げて、《最近何だか男子の元気がなく見えるのはなぜだろう》と各務氏は疑問を呈する。さらに、その疑問を裏付けるようなデータを採り上げる。引用が長くなるが、曰く、《携帯電話を外出時に持ち歩く率は、女子が男子の約2倍。インターネットやメールをする割合も、6対4で女子が高かった。ITコミュニケーションだけでなく、ローテクな「長電話」も7対2、「家族と話す」も9対7で女子のほうが「良くする」と答えた率が高い。一方で、「テレビゲーム」は3対1で男子が圧勝した》と。この調査は、ベネッセ教育総研のレポートの平成15年2月号に掲載された、松蔭大学専任講師の深谷野亜氏らの調査なのだが、まず、いつ、どこで、何人を対象に、どのような形式で調査を行ったのか、というのが明示されていない。従って、この調査をどこまで信用していいかわからない。深谷氏は、《女子はコミュニケーションそのものが「遊び」になる一方、男子はコミュニケーションをとらずにひとりでできる遊びをする傾向が強い》と指摘しているけれども、テレビゲームがコミュニケーションをまったく生み出さない、というのはないだろう。少なくとも、ゲームを仲介したコミュニケーション、というものもあるはずで、そのようなことに関しても考えておくべきだった。
 各務氏は35ページにおいて、《関西の塾の先生が半年前、中学生の男女生徒を対象にとったアンケート》の結果を引き合いに出す。テーマは「佐世保事件」で、これに関する女子の答えは《自力で事件の本質を的確に表現してしまった》のに対し、男子は《学級会の発言みたいに、模範的だが抽象的。全体に、男子は女子よりも次数も少なかった》というのである。そのような結果に関してその塾講師はこう指摘する。曰く、《父親を「あの人」と呼ぶ男の子が多くて驚きます。父親の存在感が薄いうえ、男の子は大きくなると母親からも遠ざかる。大人とまじめに向き合って話をしていないことが原因ではないでしょうか》と。このような分析ははっきり言って危ないのではないか。第一に、女子の父子関係・母子関係について触れられていない。また、男子において父親の存在感の大きさ(そんなものをいかにして測るかどうかはわからないが)と文字数の多さや記述の具体性に関して有意な正の相関関係が認められる、ということを提示しなければならないはずである。
 ちなみにこの結果に関して、ちょっと教条主義的なジェンダー概念を通じて説明してみると、男子に関しては社会からの期待が大きいため、模範的な回答を求められがちなのに対し、女子はそのような圧力が小さいので、自分の意見に即したことを言うことができる。また、題材が題材なので、男子よりも女子のほうが答えやすい、ということもあるだろう。
 これ以降、36ページの終わりのほうまで、女性のコミュニケーション能力が男性のそれよりも優位であることを示すデータや事例を挙げていくのだが、これらに関してはこれ以上深入りしない。脳の話が出てくるのは、節が移る36ページの終わりから37ページの中ごろにかけてである。曰く、《女性の脳は脳梁の後端(脳梁膨大)が男性に比べて、太い傾向がある。……これが太いということは、神経線維が太いか、本数が多い可能性を示しているという。つまり、ハードウエアとして優れているのではないかということだ》と。しかしこのようなことに関しては、冒頭で採り上げた大和久氏の記事で否定されている。また、このような分析に関しては、ジェンダーの視点からの分析がまったくない。しかし、人間の社会性を分析するに当たって、やはりジェンダーは無視できない存在ではないか。セクシュアリティだけに注目していたらいずれは壁に当たる(ジェンダーのみならず、家庭環境、経済状況などにも注目すべき)。
 それにしてもこの記事の問題意識が、冒頭における《最近何だか男子の元気がなく見えるのはなぜだろう》ということなのであったが、女性が強くなったのか(それに関して男性が相対的に弱く見える)、それとも男性が弱くなったのか、その疑問を解決するための(そもそもその疑問が正しいものであるかを証明するための)データが少しも提示されていない。途中に出てくる脳科学の話にも余り脈略がない。
 もっとも、この程度の記事に目くじらを立てていても仕方がないだろう。また、この記事の検証において、一つだけ私の中で思いついた仮説がある。それは、昨今流行している俗流若者論、なかんずくインターネットやメールに関するものは、論じる(正確に言えば罵る、か)人におけるジェンダーバイアス(具体的に言えば男性的なジェンダーバイアス)がかなりかかっているのではないか、ということだ。これに関しては、まず俗流若者論の作り手の大半が教条主義的な「道徳」概念に基づいていること、さらにこれら俗流若者論が真っ先に目をつけるのが女子高生(その多くは「渋谷の女子高生」)であることで確信に変わる。俗流若者論におけるジェンダーバイアスに関しても、今後は検証してみる必要がありそうだ。
 今回は、あまり記事には深入りしないで、安易なデータや実例を用いた俗流若者論の手法に関してそれを検証するためのヒントを提示したつもりである。しかし次回は記念すべき10回目である。実を言うと私は、10回目に検証・批判するにふさわしい、とっておきの文章を用意している。その書き手は、我が国を代表するジャーナリストのあの人だ。誰が出てくるかは、次回をお楽しみに…。

 参考文献・資料
 大和久将志[2003]
 大和久将志「欲望する脳 心を造りだす」=「AERA」2003年1月13日号、朝日新聞社
 各務滋[2005]
 各務滋「男が勝てない会話力格差」=「AERA」2005年3月21日号、朝日新聞社

 笠原嘉『アパシー・シンドローム』岩波現代文庫、2002年12月
 茂木健一郎『意識とはなにか』ちくま新書、2003年10月

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