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2005年5月31日 (火)

トラックバック雑記文・05年05月31日

 ブログ移転後の最初の記事がこれですみません。ブログを移転してから、私は建築設計の授業の模型や図面製作、及びそれ以外の授業の提出物の執筆に追われていて、こちらのほうにかける時間があまりなかったのです。そういうわけで、まずはこの記事から。

 *☆.Rina Diary.☆*追われて(佐藤利奈氏:声優)
 私も大量の締め切りに追われていて、次々とやらなければならない課題をこなしていったので、佐藤氏の気持ちは分からぬでもない、むしろ大いに理解できます。

 ところで、課題というと、自分で課題と期日を設定して自分でやる、という課題を設けて、そうするとやる気が出る、という人も多いと思われますが、私もその一人です。このブログにおいて文章を執筆するにあたって、何らかの文章に対して期日を決め、その日までに完成させる、ということをよくやるのですが、自分で決めたわけだからとにかくやらなければならない、という場合と(「俗流若者論ケースファイル」が多い)、自分で決めたにもかかわらず執筆を先延ばしにしてしまっているもの、あるいは長い間放置しているもの(「ケースファイル」以外が多い)という場合と、どうも両極端になってしまっているのが目立ちます。自分で決めたことなのだし、もう少しやる気を出さないと、このままでは「ケースファイル」ばかり先走って(来月中には確実に第30回を迎えるでしょうね)、他のコンテンツがおろそかになってしまうのではないか…。事実、前回の雑記文から今回の雑記文の間に書いた12本の文章の中で、11本が「ケースファイル」だったりするわけですから(第15~25回)、当初このブログの見所として掲げていた正高信男批判も頑張らないと…。

 弁護士山口貴士大いに語る:「暴力」ゲームソフト、神奈川県が全国初の販売規制へ(山口貴士氏:弁護士)
 走れ小心者 in Disguise!: ある『子供に見せたい番組』をめぐって(克森淳氏)

 「子供に見せたい番組」第1位は当然「プロジェクトX」、「見せたくない番組」は「ロンドンハーツ」「クレヨンしんちゃん」…。なんか、このようなアンケート自体が壮大な茶番劇に見えてきたなあ…。

 「子供に見せたい/見せたくない」番組というものを規定することに、何の意味があるのでしょうか。「見せたい」のは子供に「いい影響」を与えるもので、「見せたくない」ものは子供に「悪い影響」を与えるものだ、ということなのでしょうが、そこで与えられた「いい/悪い影響」が子供の人格や人間性を直接規定するわけでもないのだし、そもそもこのような議論を振りかざす人たちは現代の青少年を「政治利用」している、ということに無自覚なのでしょうか。それとも、自覚した上でやっているのか。

 彼らにとって、青少年は自分のイデオロギーの主張、そして「自己実現」(笑)の道具でしかありません。当然の如く、彼らはなんらか(といっても、ほとんどが漫画とアニメとゲームとインターネットに収束されますがね)の規制を求めているわけですが、彼らはマスコミで面白半分に報じられる「今時の若者」については至極敏感だけれども、現代の若年層を取り巻く現実に関しては果てしなく無関心です。無関心であるからこそ、漫画・アニメ・ゲーム・インターネット・携帯電話といった、自分が「理解できない」ものを容易に標的にしてしまえるのでしょう。しかも、ただ敵愾心を煽れば人を連れることができる、と高をくくっている様子で(しかも、本当についてくるから驚きですが)、それが彼らの生命を繋いでいると思うと、恐ろしい気持ちになります。

 ただ「わかりやすい」図式を大々的に掲げた者だけが生き残り、たとえ地味でも真面目に研究を積み重ねる人は、それがいくら優れたものであっても世間の喧騒においていかれる。真面目な人ばかり馬鹿を見る、というのは、まさに若年層に関する言論をめぐる状況そのものです。

 目に映る21世紀:変わる若者のシゴトと生活:5【記事】各界の知恵集めニート対策 国民会議が初開催

 著者は《すみません、この会に意見を届けるにはどうすればいいのでしょうか? ここへ参加している人々自身にも言いたいことがたくさんあるのですが・・・。オブザーバー参加ってできないのかな(笑)》と愚痴っているわけですが、現在の青少年の就労に関する問題で、いまだに精神主義的な物言いがまかり通っているのが気がかりです。この状況を見るだけで、我が国は大東亜戦争時代の精神主義をいまだに脱却できていないのか、と心配してしまいます。

 犯罪を起こす、あるいは定職につかない青少年の「心」を問題化する言説は、いくつもの問題を抱えております。まず、「心」の問題として「発見」することによって、「異常な心」を生み出した「原因」に対する弾圧が正当化されること。次に、精神主義・道徳主義的な言説に埋没することによって、社会構造の問題が置き去りにされてしまうこと。さらに、青少年全般に対して「心」の劣った存在という規定をすることによるレイシズム(人種差別)。最後に、「心」を勝手に規定することによって、青少年問題に対する本当の心理的側面に触れることができないこと。

 「心の教育」などと多くの人は叫んでおりますけれども、それが何をさしているのかはわかりませんし、そもそも、そのようなことを振りかざす人たちが「心」をどのように考えているか、ということは問い詰められて然るべきでしょう。たいていの場合、自分を正当化するだけの議論に過ぎないのではないか。

 「心の教育」といえば…。

 kitanoのアレ:反性教育の動向(3):報道2001:「つくる会」八木秀次氏が立ち往生(1)

 平成17年5月1日付フジテレビ系列「報道2001」における、反性教育の旗手、高崎経済大学助教授の八木秀次氏の必死ぶりがうかがえます。八木氏など、反性教育の立場に立つ人たちは、ジェンダーフリーについて「男らしさ」「女らしさ」を否定し、さらにこれが日本の文化を否定し、ひいては韓国や中国や北朝鮮を利する(そんな妄想を語るな、と思われる方もおられるかもしれませんが、「正論」なんか読んでいるとこのような妄想に出くわすのはざらです)などと(妄想を)語っているわけですが、八木氏や、八木氏を支援しているフジテレビのキャスター(得に黒岩祐治キャスター)が、ジェンダーフリー推進派の人たちに自らの議論の矛盾を指摘されると、何も答えられずにほとんど立ち往生状態、というのが笑えます。

 ジェンダーフリーはマルクスの陰謀だとか、日本を滅ぼすだとか大言壮語を振りかざしながらも、結局のところ中身を伴った議論をしていないとこうなるのかもしれません。私がこのレポートを読んで、ジェンダーフリー推進派の人たちにも脇の甘い部分がある、と思いましたが、それでも八木氏や山谷えり子氏(参議院議員、自民党)の脇の甘さに比べたら相当マシです。

 少なくとも、反論されたとき、一歩引いて自分の考えを相対化して考え直す、ということの大切さを、八木氏を他山の石として学びたいと思います。

 保坂展人のどこどこ日記:靖国神社参拝中止で小泉総理退陣へ(保坂展人氏:元衆議院議員・社民党)
 カマヤンの虚業日記:[雑記][政治][呪的闘争]首相の靖国参拝なんか支持しないよ。

 保坂氏は、小泉純一郎首相の公約の中で達成しえたのは「靖国神社参拝」だけだ、と指摘しております。

 この指摘は重要です。保坂氏も述べている通り、特殊法人改革も国債発行30兆円枠も現在まで達成されないまま、このままいけば小泉首相の公約で達成したものは靖国神社の参拝だけ、ということになります。郵政民営化も、このままでは怪しい(そもそもそれが必要かどうかもわからない)。もしかしたら、靖国神社は、小泉首相の政権の正当性をつないでいる唯一のものになっているのではないか、と思います。

 首相の靖国神社参拝には、当初から利権が絡んでいますから、結局のところ小泉首相もまた極めて「自民党的」な首相だった、といわざるを得ないのかもしれません。

 それにしても、最近の中国や北朝鮮に対する強硬派的な発言が俗流若者論と重なって見えるのは気のせいだろうか…。

 千人印の歩行器:[歩行編]一万歩の日常(栗山光司氏)

 街中や大学のキャンパスを歩いていると、さまざまな発見があります。例えば、私の通っている東北大学青葉山キャンパスは、現在メインストリートが爽やかな緑の木々に包まれていて、晴れの日に歩くと気持ちよくなります。これ以外にも、道端を歩いていると、自転車や原付に乗っているときは感じられなかった楽しみや喜びを見つけることができます。特に青葉通や定禅寺通といった、落葉樹の並木道を通っていると、その通りの木々の移り変わりで季節を感じることが一つの楽しみになっています。

 私は、時々都市計画について思索することがあるのですが、都市計画に関する思索の原点になっているのが、定禅寺通のような、自分が好きな場所です。新しい場所を歩く際は、この場所は自分が好きな場所に比べてどのような長所があり、またどのような短所があるのか、ということに関して考えながら歩いてみると、結構面白いかもしれません。

 前回の雑記文から、たくさんの文章を公開しました。こちらも読んでいただけると幸いです(ただし、ここにリンクを貼ってある記事が、全てブログ移転前に書いたもの。リンクは新ブログに貼ってありますが)。

 「俗流若者論ケースファイル15・読売新聞社説」(4月24日)
 「俗流若者論ケースファイル16・浜田敬子&森昭雄」(同上)
 「俗流若者論ケースファイル17・藤原智美」(4月28日)
 「俗流若者論ケースファイル18・陰山英男」(4月28日)
 「俗流若者論ケースファイル19・荷宮和子」(4月29日)
 「俗流若者論ケースファイル20・小原信」(4月30日)
 「俗流若者論ケースファイル21・樽谷賢二」(5月5日)
 「俗流若者論ケースファイル22・粟野仁雄」(5月7日)
 「俗流若者論ケースファイル23・西村幸祐」(5月9日)
 「俗流若者論ケースファイル24・小林節」(同上)
 「俗流若者論ケースファイル25・八木秀次」(5月15日)
 「反スピリチュアリズム ~江原啓之『子どもが危ない!』の虚妄を衝く~」(5月17日)

 最近、図書館に行く機会が多いのですが、そのたびに新聞や雑誌の俗流若者論を見つけてはコピーして私のコレクションにします。そのため、私の書庫には大量に検証待ちの文章があります。とりあえず今後確実に取り上げる予定のものは次のとおり。

 ・三砂ちづる「「負け犬」に警告!あなたはもう「オニババ」かもしれない」=「新潮45」2004年12月号、新潮社
 ・平成17年2月17日付毎日新聞社説
 ・石堂淑朗「褌を締めなおそう!」=「正論」2005年3月号、産経新聞社
 ・石堂淑朗「豆炭心中」=「正論」2005年4月号、産経新聞社
 ・吉田司「女と平和と経済の時代は終わった」=「AERA」2004年8月30日号
 ・「論座」編集部「自民党議員はこんなことを言っている!」=「論座」2005年6月号(憲法改正に関する自民党議員の問題発言を抜き出して構成したものですが、ここで紹介されている問題発言にやたらと俗流若者論が目立つので)
 ・樋口裕一「「困ったチャン」に対抗するための言葉の力」=「文藝春秋」2005年3月増刊号
 ・斎藤滋「人間らしさを育てる」=2003年10月31日付東京新聞
 ・宮内健「妻の携帯、子どものTV・ゲーム」=「プレジデント」2004年8月30日号、プレジデント社

 あと、第1回以来1ヶ月以上やっていなかった「この「反若者論」がすごい!」の第2回も近いうちにやります。採り上げるのは、平成17年4月23日付河北新報の社説です。

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2005年5月17日 (火)

反スピリチュアリズム ~江原啓之『子どもが危ない!』の虚妄を衝く~

 私自身、高校時代にカウンセリングを受けてきた経験から言うが、カウンセラーを自称している者が安直に社会について、精神分析的なことを論じるのはどうか、と思う。本来カウンセリングというのは、個人と個人の間で行われるものであり、そこには、カウンセラーとクライアントの、いわば権力関係のようなものであっても、1対1の関係があるように思われる(インターネットを用いたカウンセリングでも然りである)。

 ところが、我々の目に見えないものとしての社会を俯瞰するとき、そこにおいては個人が個人に対するカウンセリングを行なうときのような安直な「処方箋」は処方できないように思える。確かに、一般的なカウンセリングの場合においては、簡単な「処方箋」がその個人の問題の解決になることはあるにしても、人々の営みとしての社会に対して「処方箋」を処方する場合は、単なる安直な社会批判――俗流若者論の場合もある――に終始してしまう可能性が高いし、そのような言説に対する政治性、権力性にも自覚的でなくてはならないだろう。故に、カウンセラーであれ、精神科医であれ、学者であれ、社会を俯瞰し、何らかの言説を発する場合に求められるのは、言論人としての倫理や良心のはずである。
 しかし、我が国において、自称カウンセラーが社会について擬似「カウンセリング」を施し、社会の病理(その大抵はマスコミで喧伝されている「病理」であるが)を論じた「つもり」になっている、という事態が後を絶たない。特に、若年層の「病理」に関するものが多いが、彼らにとってすれば、現代の若年層というものは、彼らの「自己実現」のための道具にしか過ぎないのだろう。このような人たちに現代の若年層を生贄に捧げることに、私は強い抵抗を覚える。

 今回検証するのは、スピリチュアル・カウンセラーの江原啓之氏による俗流若者論、『子どもが危ない!』(集英社)である。本書において、江原氏は、現代の青少年問題について述べているものの、その認識は安易な懐古主義や狼藉に溢れ、結局のところ江原氏は自分だけが青少年問題の「本質」を知っている、という幻想に浸って自分に対する責任を回避したいだけではないか、と思えてならない。

 江原氏は、本書の冒頭で、このように記述している(6ページ)。曰く、

 傲慢ながら申し上げます。

 現代の大人たちは、これらの闇を光に変える術を持ち合わせてはいません。 なぜならば、子どもに起きている問題の全ては、大人たち、または社会の問題の投影だからです。

 生まれてくる子供たちは、今も昔も何ひとつ変わってはいません。その子供たちを、今のように育てた大人たちや社会に責任があるのです。
 (江原啓之[2004]、以下、断りがないなら同様)

 しかし、江原氏の記述を読んでみる限り、江原氏は《子どもに起きている問題の全ては、大人たち、または社会の問題の投影だからです。/生まれてくる子供たちは、今も昔も何ひとつ変わってはいません》とはさらさら思っているのではなく、《今のように育てた大人たちや社会に責任があるのです》という問題にすり替えることによって、結局のところ現代の青少年をモンスター化し、さらに自らのみがその処方箋を知っていると傲慢になっているのである。

 蛇足ながら、本書4ページで、《子どもたちが心にトラウマを抱えたまま成人すると、今度は自分の子どもに虐待を繰り返してしまうなど、さまざまな問題を抱えることになります。そのため最近は、若い親たちによる児童虐待の事件が後を絶たないのです》と述べているが、江原氏がこのような俗説を真に受けているのがいただけない。

 本書は、全体で一つの問題を扱っているので、江原氏の問題意識ごとに章が分けられている。簡単に言えば、第1章が江原氏の社会認識、第2章が子育てに関する一般論、第3章が江原氏の現代の青少年に対する認識、第4章が教育に関する一般論、第5章がメディアに対する議論(正確に言えばメディア悪影響論)、そして第6章が家族に関する議論である。拙稿では、その中でも特に問題の多い第1・2・3・5章を検証することによって、江原氏の認識の残酷さを明らかにしていくことにしよう。

 ついでに言わせてもらうけれども、本書各章のはじめに掲載されている、まさに(江原氏が妄想するところの)「今時の社会」を表しているかのごとき写真は、その選定があまりにも恣意的すぎるとはいえまいか。

 第1章のタイトルは「子供の未来を憂えるすべての大人たちへ」である。本章では、一番最初の章ということで、冒頭でも述べたとおり、江原氏の社会認識が述べられている。

 江原氏は、本書の基本姿勢について、《スピリチュアル・カウンセラーである私が本書を著す理由は、人間の本質は「たましい」であるという視点を、ぜひみなさまに持っていただきたいと願うからなのです》(16ページ)と記している。しかし、このような態度、すなわち《たましい》という概念の乱用することによって、本書が壮大な無責任体系と化していることに、私は警鐘を鳴らしておこう。

 ちなみに江原氏言うところの《たましい》は、我々が普段「精神」だとか「心」だとかいう意味で使われている「魂」とは違うものであり、江原氏の《たましい》とは、人間の行動を規定する霊的な要素とされている(「霊魂」という表現に近いかもしれない)。もちろん、このような考え方を否定することは出来ないし、このような親交は昔からあったし、今でも理解を示す人も多いと思われる。

 しかし、江原氏の最大の問題点は、現代を《たましい》の過度に劣化した時代と勝手に規定して罵っていることであろう。例えば、23ページにおいて、江原氏は《今の世の中に浸透している価値観とは、一言で言って「物質主義的価値観」です》と表記し、さらに25ページにおいては《残念ながら、今の日本はまさに物質主義的価値観の王国です》と表記している。しかし、最近においては、そのような「成長」一辺倒でやってきて、バブル期以降その破綻が明らかになってきてからは、「成長」から「成熟」に多くの人が価値観をシフトしている時代に入りつつある。少子化に対する楽観論が出てき始めているのもこの影響があるだろう。

 しかし、江原氏は、このような硬直した思考に陥っているから、このような妄言を吐いてしまう。曰く、《初詣などでの願い事を言えば、物質面で豊かになることや、誰の目にも見えるような成功。高価なもの、贅沢な暮らし目をきらきらさせて憧れるその姿は、偏った宗教を妄信する人と何ら違いはありません》(25ページ)と。なるほど、江原氏にとって、初詣で願い事をする人はみな《物質面で豊かになることや、誰の目にも見えるような成功》を願っているのであって、家内安全、夫婦円満などを願っている人は皆無なわけか。このような態度こそ、江原氏の傲慢な態度、カウンセラーとして決してあってはならない態度が端的に表されている。しかも《偏った宗教を妄信する人と何ら違いはありません》とは…。

 それでは、このような考え方をもった現代の日本人(このような安直な規定をすることもそれなりの留保が必要だろう。私がこう指摘したら、江原氏は私のことを「物質主義的価値観」に毒された奴だと思うのだろうが)、特に青少年が、なぜ問題を起こすようになったのか(このような図式を疑いなく受け入れることこそ問題だろうが)、ということに対して、江原氏は《未浄化な低級自然霊たちが、今という時代、日本じゅう、いや世界じゅうに、はびこっています》と書いている。だったらなぜ江原氏は外国の事例(ブッシュや金正日がいい例だろう)を採り上げないのだろうか。このような問題を採り上げると、求心力がなくなったり、記述が散漫になったりするという弊害が出るかもしれないが、少なくとも人間の本質を、江原氏は《たましい》に求めているのだから、過去や外国の事例をタブー化してはならない。

 《自然霊》なるものに関して、江原氏は、人間の霊(江原氏は《人霊》と述べている)との最大の違いを、《その増え方》にあると言っている。曰く、自然霊は分裂することによって増えるという。なので、《人霊のような理屈抜きの情愛がありません。血肉を分けての絆がないので、人間の親子にあるようなウェットな感性とはもともと無縁なのです。/ですから、いいものはいい、悪いものは悪いという、白か黒かのきわめてデジタルな判断をくだすのが特徴》だというのである。論理が破綻しているのは、言うまでもないだろう。

 しかも江原氏は、現代の《人霊》に関して、《人霊の低級自然霊化》が起こっているというのである。当然、《自然霊》というものが《人間の親子にあるようなウェットな感性とはもともと無縁》だとか《白か黒かのきわめてデジタルな判断をくだす》とかいう特徴を持っているから(しかも《自然霊》は疎かにされると低級化するという。ちなみに、最近の人類が自然に対して傲慢な態度を取っているから、《高級自然霊》はこの世から離れていったらしい。では、《高級自然霊》は、どこに行ったのだろうか?消えたのか?)、現在の青少年問題(マスコミが面白がって採り上げる類のものだけれども)が起こるのも必然であるという。

 その証拠に、江原氏は、31ページにおいて、少年犯罪の「動機」について述べる。しかし、このような「動機」が、警察から発表されたものに、さらにマスコミがその中でも過激なものを選定して報じているのではないか、という常識的な疑念は江原氏の中にはないようだ。江原氏は31ページで《ひと昔前の殺人事件は、憎しみや葛藤という人間くさい感情がきわまって起きるものでした。……/ところが最近の殺人犯の言い分はどうでしょう。……理由らしい理由のないものばかりです》と述べているけれども、あまりにも杜撰すぎる図式化とはいえまいか。もっとも、このような図式化をすることに、江原氏のスピリチュアリズムの(残酷な)「本質」があるのだろうけれども。

 第2章は、子育てについて述べた箇所で、タイトルは「打算の愛、無償の愛」である。本書のような不安扇動本を「無償の愛」で買っている人などいないだろう、と突っ込みを入れて、この章の特に問題のある箇所を指摘したい。

 江原氏は58ページにおいて、《この答えの核心を探るには、ここ百年ほどの日本の歴史を振り返る作業が必要です》と言っておきながら、戦前についてはまったく触れられていない。特に昭和史をめぐる上で最も重要なファクターになる柳条湖事件から日華事変を経て大東亜戦争までの15年戦争、特にその敗因についてまったく触れられていないのはどういうわけか。おそらく、それらについて触れると、話がややこしくなるばかりでなく、江原氏の論理(というよりも妄想)が破綻してしまう可能性があるからではないか(柳条湖事件と満州国については山室信一[2004]を、大東亜戦争に関する分析については山本七平[2004]を参照されたし)。

 閑話休題、江原氏は65ページにおいて世代論的な図式を持ち出す。曰く、昭和1桁~10年代(江原氏の記述を参照すれば、それ以降の段階の世代もこの範疇に入るだろう)が《物質信仰世代》、昭和30年代生まれが《主体性欠如世代》、そして昭和50年代以降(私だ!)は《無垢世代》だという。特に《無垢世代》は、親になった《主体性欠如世代》、すなわち《みずからのたましいも未成熟なまま、親だのみで育ってきている》(69ページ)世代によって育てられてきたから、《そこに「真善美」の軸が据えられていないので、繁華街の地べたに座るのも平気、ということにもなってしまいます。自然の中で、広い芝生に座ることと、渋谷駅の構内に座り込むことの間にあるはずの、美醜の区別ができないのです》。ついに来た、渋谷が。江原氏は、「今時の若者」について、結局のところそこらじゅうの「憂国」言説と同じ印象しか持っていないのである。江原氏はそこらじゅうで「憂国」されているものの表層だけをなぞっているのに過ぎない。このような人にカウンセリングをされることに、元クライアント(江原氏のクライアントではないけれども)の私は強い抵抗を覚える。

 あと、71ページにおいて、江原氏は《「真」とは正しいこと、「善」とは善いこと、「日」は美しいこと。これらはみな、神のエネルギーの側面です》と書いているけれども、文化が違えば「真・善・美」もまた違ってくる、ということを、江原氏は知っておいたほうがいい。このような図式は、ブッシュのイラク戦争を正当化する論理にもつながる残酷さがある。

 第3章、「子どもたちのSOS」。第5章と並んで、本書で一番醜悪な部分である。

 この章においては、江原氏がしきりに「憂国」してみせる、という章である。しかも、ここで「憂国」されている事例が、何度も指摘したけれども、マスコミが好んで採り上げているような「今時の若者」であるというのが悲しい。江原氏にとって、彼らは自己実現の道具でしかないのである。

 例えば江原氏や78ページにおいて、《ところが物質信仰の世の中になると、「愛」と「真善美」に代わる新しい神が現れたのです。/「力」です》と述べている。カウンセラーという立場の「力」に陶酔している江原氏にそんなことをいわれる筋合いはない、そう反論したくなるけれども、ここは少し落ち着き、江原氏の記述をもう少したどってみることにしよう。

 江原氏は「力」が至上の価値である世の中について、79ページでこう述べる。ちなみに私はこの部分を読んで、思わず「ついに来たか!」と叫んでしまったことを書いておきたい。

 そんな世相を見るにつけ、人間界も「野生の王国」さながらの世界になってきてしまったように思えます。人間がアニマル化しつつあるのです。人霊としての「品性」の欠落という点でも、アニマル化は進行しています。

 一時期、渋谷あたりにあふれていた「ガングロ」、「ヤマンバ」。

 地べたに座っても平気な「ジベタリアン」。

 お風呂にも入らず、路上で眠る「プチ家出」。

 お腹がすけば、電車の中だろうと、人目を気にせずむしゃむしゃ食事。

 最近の若者たちの生態は、まさにアニマルを思わせます。それもこれも、「愛」と「真善美」にふれて育っていないからなのです。

 なんという既視感。江原氏が現在の青少年について、「今時の若者」という単純な図式しか持っていないからこそ、このような安易で残酷なことが言えるのであろう。

 このような「今時の若者」の「記号的」な事例ばかり取り出して、現代社会を論じた気になっている人たちは、自らの言論の政治性というものを理解しているのだろうか、と思えてならない。結局のところ、このような扇動言説が、現代の若年層に対する敵愾心を煽り、本当の問題の解決を遅らせる羽目になる。しかも《アニマルを思わせます》、だからあいつらは《アニマル》だ!という決め付けは、壮大なレイシズムであり、狼藉であろう。江原氏が、このような狼藉を平気でできるようになるのは、江原氏が「力」を信仰しているからであり、「愛」も「真善美」も知らないからである(と、言っておく。江原氏は困るだろうが、こう判断するほかないのである)。

 また、この章の中でも、全体的に問題のある部分が、102ページから109ページにかけて「ひきこもり」について論じた部分である。この部分は、当事者の救済になんら役に立たないばかりでなく、「ひきこもり」や不登校、さらにはフリーターに対する差別に溢れている。江原氏こそ自らの中心に「力」を据えていることの証左になろうか。

 江原氏によると、「ひきこもり」には二種類あるという。その一つ目として、《前世を含むこれまでのたましいの歴史の中で、既にかなりの浄化向上を進めてきたたましい》(102~103ページ)を持った人による「ひきこもり」を江原氏は上げている。そのタイプの「ひきこもり」は問題が低いようだ。曰く、《彼らにとってひきこもりの期間は、いわば「たましいの整理」の期間。そこを通過すれば、霊的価値観を大事にしながら、一方で物質主義的価値観の社会と折り合うための知恵もそなえた、たのもしい大人に育っていくことが多いのです》(103ページ)と。

 しかし、このタイプの「ひきこもり」は少数である。大多数は《心の弱さ、たましいの幼さからくる》(104ページ)という。これについて述べた箇所で《心が幼稚なまま大人になるとどうなるかは、今どきの若者たちを見ればわかります》と述べているのが痛かったが、これについてはあまり深く述べることはよそう。

 しかし、江原氏の、このタイプの「ひきこもり」に対する認識の残酷さは目を覆いたいほどだ。何しろ、105ページにおいて、《つらいことだらけの外の世界に出るより、自分の部屋でゲームやインターネットをしていたほうがいいと、ひきこもり始めた子供たちは思うのでしょう。そのほうが楽だし傷つきません。あとは親さえ許せば、いとも簡単にひきこもりの成立です》と書いているのだから。「ひきこもり」に真摯に向かい合ってきた多くの人が指摘している通り、「ひきこもり」が《楽だし傷つきません》ということはまったく事実に反する。精神科医の斎藤環氏が監修した、NHKの「ひきこもりサポートキャンペーン」に寄せられた事例を眺めていれば、彼らは決してゲームやインターネットに逃げているのではない(斎藤環[2004])、そればかりでなくインターネットが「ひきこもり」の救済になったという事例すらあるほどである(斎藤環[2003])。

 そして107ページにおいて江原氏曰く、

 これだけは確かに言えます。

 本当の愛で親と結ばれ、たましいをしっかり成熟させながら育った子どもは、決してひきこもりにはなりません。たとえ一時的になったとしても、立ち直っていけます。

 こうして、江原氏のこのような甘言によって「癒される」、「ひきこもり」にはまったく関係のない人たちが増えていくのである。

 もう一つ、108ページにおいて、江原氏は《遅いと考えるのも物質主義的価値観です》と述べている。しかし、江原氏のこれまでの態度、すなわち現在の青少年問題に関して、現代の青少年に対して《たましい》の劣化した存在と決めつけ、その「問題行動」なるものを「起こるべくして起こった」と規定することによって、モンスターとしての「今時の若者」という「階級」を捏造してしまうこともまた、物質主義的価値観であろう。

 最後に、江原氏は、冒頭に掲げている二つのタイプの「ひきこもり」に関して、その二つのタイプを分かつ分水嶺をまったく示していない。それにもかかわらず、江原氏は、108ページの最後の段落において《子どもがひきこもりの兆候を見せ始めたら、親は決してあわてず、二種類あるうちのどちらのひきこもりなのかを冷静に見きわめてください》などと平気でのたまっている。江原氏は、ここまで現代に生きる人々を《たましい》の劣化した存在と決め付けてきたのだから、そのような人たちにこのようなことを押し付けること自体、江原氏の考え方に即して考えるのであればかなわぬ夢ではないか?

 第5章、「メディアから受ける影響」。ここでは、江原氏の《たましい》理論をベースに、メディア悪影響論のみがただただ繰り返されるだけである。

 曰く、《コンピュータゲームは基本的に、いっしょに遊ぶ友だちを必要としません。一人で部屋にこもりきりでもできます。/子どもたちの成長にゲームがいいものでないことは、そこからだけでも推察できます》(142ページ)と。そのような「推察」だけで断定していただきたいものだ。そもそも、このような論証立て自体、ゲームというものの一面しか見ておらず、その一面的な判断だけで全てを断定してしまうことに対する留保がないのが気にかかる。ゲームを用いたコミュニケーションというのも十分可能なはずであるのだが、そのようなことに関しては江原氏にとっては存在しないことのようだ。

 151ページ、《心は機械と連動しない》と書かれた小項において、江原氏は《そもそも、コンピュータによる文章には、「言霊」、すなわち言葉のたましいがこもりません。心と機械は連動しないからです》だとか《Eメールにも「言霊」は宿りません。ですからEメールによるけんかほどたちの悪いものはないのです。佐世保の女子小学生による同級生殺害事件も、自作のホームページにいやなことを書き込まれたことがもとだったようです》と意味不明なことを言っている。コンピュータによる文章に《言霊》が宿らないというなら、活字印刷された書籍はどうなるのだろうか。もちろん、活字印刷とは言いながらも、現代の印刷技術では文章をデータ化してそれを印字するのだから、江原氏のこの本に関しても《言霊》が宿っていない、ということになるのだが、そのことについて江原氏はどう考えているのだろうか。さらに、佐世保の事件に関しても、外見に関わる罵詈雑言が時として暴力衝動を蓄積させることになりうる、ということを忘れてはならない、と思う。

 また、江原氏は153ページから157ページに賭けて、インターネットにおける匿名の書き込みを問題視している。ちなみに私のブログでは、ブログの機能を用いて、匿名でのコメントを掲載できないようにしている。それは、単に匿名での書き込みが気に入らない、という生理的理由による。そして、そのような問題意識は、ウェブ上でも持っている人が少なくないし、江原氏もまたそのような意識を持っている。

 ところが江原氏と着たら、ウェブ上における匿名での書き込みを強引に犯罪と結び付けてしまうのである。特に、155ページにおけるこのような記述には、正気の沙汰か、と天を見上げてしまうほどだ。

 「インターネットが普及してから、匿名で本音が言えたり、愚痴を吐き出せたり、内部リークができるようになった。おかげで世の中の風通しが良くなった。だから、インターネットの掲示板は必要悪である」と考える人は多いようです。
 ネガティブな言霊だと自覚した上で、無責任にそれを垂れ流している、姿なき確信犯たちが、それだけ暗躍しているということなのでしょう。

 そこにすでに「自然霊」化するこの世の闇の深さを見ます。「愛」と「真善美」の光を見失い、さまよう人霊たちの姿を見ます。

 「表向き誰だかわからなければ、何を発言してもいい」という身勝手な理屈を許せば、嘘を言ってもいいことになります。「表向きいい子の体裁を保てたら、陰でいじめをしてもいい」と考える子どもたちと同じです。

 そうなれば、この世はまったく歯止めが利かない無法地帯と化します。一人ひとりがてんでんばらばらに不平不満、罵詈雑言、ねたみ、そねみを垂れ流すだけ。

 当然、殺人も増えるでしょう。「匿名なら悪口を言っていい」なら、「覆面なら殺人をしてもいい」と流れていくのはたやすいことです。

 いい加減にしてくれ。

 このような態度は、江原氏が自分だけが全ての心理真理を知っていて、他の人たちは知らない、という傲慢な態度なくしては成り立たない。もう一つ、《匿名なら悪口を言っていい》というのが《覆面なら殺人をしてもいい》に結びつくのは、到底考えられない、というよりも溝が深すぎる。事実、我が国における殺人事件の大半は、顔見知りの間で起こっているのであり、通り魔や無差別殺人は(交通死亡事故を除いては)少数派である。このような論証立てをするなら、むしろ無理心中を問題化すべきではないか?

 いかがであろうか。本書における江原氏の立場、というものが少しでも皆様に理解いただければ幸いである。

 本書における江原氏は、決して人間愛や真善美に満ちた存在ではない。むしろ、力を信仰し、自分の考え方に合わない者を全て《たましい》の劣化した存在として線引きを行い、レイシズム的な思考によって罵詈雑言を繰り返し、自分だけは全てを知っているという傲慢な立場に立つことによって、他の考え方を全て無能なものと決め付ける。また、そのような態度をとることによって、現代の青少年に対しては記号的な視点でもってしか語ることができず、彼らはただ江原氏のヒロイズムの生贄にされるのみである。そして、江原氏言うところの「愛」や「真善美」は、結局のところは江原氏の自意識及びそれのよりどころになっているものに過ぎない。いわば、江原氏こそ、「物質信仰主義」の最大の体現者といえるだろう。

 また、本書においては、例えば凶悪犯罪などについて、自らの論拠を示すデータ的なものをまったく提示しない。新聞記事すら引用していないのだ。単に思い込みだけで書かれた文章であり、巷で(興味本位で)嘆かれているような「今時の若者」という記号に対する疑念を挟んでいる余地はまったくない。

 このような文章になってしまったのは、間違いなく江原氏が現代社会を「スピリチュアル・カウンセリング」したつもりになっているからだろう。しかし、冒頭でも触れたとおり、社会というものに対してカウンセリングを行なう場合には、その政治性、権力性に対して自覚的でなければならない。江原氏は、その政治性を自覚していないのか、それとも自覚した上でこのような言説を垂れ流しているのかは知らないが、江原氏は自らが言論という権力主体として振る舞うことになんら抵抗を感じていない、それどころかそれに陶酔しているのである。

 ただでさえ、青少年に関する「問題」が山のように取りざたされる状況下において、それらの根源を《たましい》に求めてしまう江原氏の態度は、合意形成だとか秩序だとか社会政策だとかを無視して、「心」あるいは「内面」を律することによって「問題」を撲滅しようとするものに他ならない。そして、このような態度は、昨今台頭しつつある憲法や教育基本法の改正論、ならびに「新しい歴史教科書をつくる会」などに見られるような、短絡した国粋主義と容易に結びついてしまう危険性が高い。

 江原氏のこのような暴論が受け入れられる背景には、間違いなく俗流若者論による「線引き」の横行があるだろう。江原氏を含め、この手の俗流若者論は、青少年「問題」を、さらには青少年を「私たち」とは「本質的」に違う者としてゲットー化し、「彼ら」に対する敵愾心によるアジテーションを行い、最終的にはそのようなアジテーションを行なっている自分に陶酔する。自分が社会に対して何かをしている、という幻想に浸ってくる。そのような幻想は、そのアジテーターの論理に共感して、敵愾心の共同体に加わる者が多くなるほど強くなる。

 また、敵愾心の共同体に加わる者たちは、ゲットー化された「彼ら」を怖れると共に、自分、あるいは共同体の所有物としての子供たちが「彼ら」に加わってしまうことを怖れる。社会学者の渋谷望氏の表現を借りれば、《「ちゃんとした」ミドルクラスの親が、自分たちの子どもが「フリーター」や「ひきこもり」、要するに「汚物(アブジェクション)」になるかもしれないと怯えるときに取りうる、唯一のリアクション》(渋谷望[2005])である。江原氏の暴論に「納得」してしまう人たちの真理、いや、江原氏に限らず、正高信男然り、森昭雄然り、大谷昭宏然り、小原信然り、荷宮和子然り、俗流若者論を支えるマインドの全てが、若年層を「異物」としてゲットー化しようとする論理に裏付けられている。私はこの状況を、「自分で作った張り子のリヴァイアサンに怯えている自分の姿に感激する」状況であるととらえる。

 ならば、そのリヴァイアサンが張り子であることを証明することこそ、反・俗流若者論の立場に立つ者に与えられた使命といえよう。江原氏の用いている《たましい》は、その原理を江原氏しか知りえないからこそ、このような暴論が可能になる。もし、江原氏の《たましい》が、学問的に体系化されたものになったら、早晩崩壊してしまうだろう(もっとも、江原氏の《たましい》はそれ自体が体系化を拒む。なぜなら、体系化することは「物質主義的価値観」によるものでしかないからである)。

 参考文献・資料
 江原啓之[2004]
 江原啓之『子どもが危ない!』集英社、2004年9月
 斎藤環[2003]
 斎藤環『ひきこもり文化論』紀伊國屋書店、2003年12月
 斎藤環[2004]
 斎藤環(監修)『ひきこもり』NHK出版、2004年1月
 渋谷望[2005]
 渋谷望「万国のミドルクラス諸君、団結せよ!?」=「現代思想」2005年1月号、青土社
 山室信一[2004]
 山室信一『キメラ――満洲国の肖像(増補版)』中公新書、2004年7月、1993年4月初版発行
 山本七平[2004]
 山本七平『日本はなぜ敗れるのか』角川Oneテーマ21、2004年3月

 笠原嘉『アパシー・シンドローム』岩波現代文庫、2002年12月
 姜尚中『ナショナリズム』岩波書店、2001年10月
 芹沢一也『狂気と犯罪』講談社+α新書、2005年1月
 十川幸司『精神分析』岩波書店、2003年11月
 日垣隆『世間のウソ』新潮新書、2005年1月
 広田照幸『教育言説の歴史社会学』名古屋大学出版会、2001年1月
 パオロ・マッツァリーノ『反社会学講座』イースト・プレス、2004年5月
 宮台真司『宮台真司interviews』世界書院、2005年2月
 ウォルター・リップマン、掛川トミ子:訳『世論』岩波文庫、上下巻、1987年2月

 植木不等式「タラコにまで取り憑かれた直木賞作家の聖戦――佐藤愛子『私の遺言』」=と学会(編)『トンデモ本の世界T』太田出版、2004年5月
 齋藤純一「都市空間の再編と公共性」=植田和弘、神野直彦、西村幸夫、間宮陽介(編)『(岩波講座・都市の再生を考える・1)都市とは何か』
 斎藤美奈子「江原啓之『スピリチュアル夢百科』」=「AERA」2004年6月28日号・「斎藤美奈子ほんのご挨拶」、朝日新聞社
 杉田敦「「彼ら」とは違う「私たち」――統一地方選の民意を考える」=「世界」2003年6月号、岩波書店
 内藤朝雄「「友だち」の地獄」=「世界」2004年12月号、岩波書店
 内藤朝雄「お前もニートだ」=「図書新聞」2005年3月18日号、図書新聞

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2005年5月15日 (日)

俗流若者論ケースファイル25・八木秀次

 平成17年3月14日に、総務省統計局から平成16年10月1日の推計人口が発表された。それによると、総人口は増加数・増加率が共に戦後最低を記録し(0.05%)、特に男性に関しては前年に比べて約9000人減少している。

 我が国は、いよいよ人口減少社会という歴史的に重大なターニングポイントを迎えている。これに関して、人口減少が起こる最大のファクターが、ほとんどの場合で少子化とされている。数少ない例外が、政策研究大学院大学教授の松谷明彦氏の議論で、松谷氏は、人口減少が起こるファクターは少子化よりもむしろ、戦後における2回のベビーブームにおいて生まれた世代の死亡のほうが大きいと述べている。松谷氏によると、我が国の死亡者数は、1990年代に入って増加に転じ、松谷氏との共著もある政策研究大学院大学教授の藤正巖氏の推計によると、死亡者数は2030年までには約180万人弱にまで急増する。松谷氏は、このような死亡者数の増加が、人口減少を引き起こすのであり、出生率の向上を図るべきだという見方に対しては《どうしても出生者数が死亡者数に追い付こうということにはなりそうにもない》と述べている(以上、松谷明彦[2004])。

 しかし、我が国においては少子化も同時に進んでいるのもまた事実である。戦後の我が国において、出生率は第2次ベビーブーム以降は一貫して減少し、最新の特殊出生率のデータが1.29という極めて低水準にあるということは各種報道や解説において読者諸賢も知っていることだろう。

 我が国においては、少子化に関しては悲観論が今のところは根強いけれども、例えば松谷氏や藤正氏、あるいは堺屋太一氏(作家、元経済企画庁長官)や原田泰氏(大和総研チーフエコノミスト)などのように、少子化に関して楽観論を唱えている専門家も多い。また、環境問題の解決という視点を盛り込んでも、人口減少はむしろ好ましいものと言えるだろう。

 少子化に対する言説に関して言うと、これをめぐる言説に関しては2重の「無責任の構造」が横たわっている。一つは、少子化及び人口減少社会というものが我々がまだ実際に直面したことのない社会なので、いくらでも解釈が可能だということ。そしてもう一つは、なまじ実際に子供を生む世代が比較的若い世代(20・30代)であるから、そこに俗流若者論をはさむのが可能であるということだ。

 特に少子化がらみの俗流若者論といえば、少年犯罪と結び付けられることが多い。このような議論を振りかざす人たち曰く、少子化が進むと子供の社会性が失われ、少年による凶悪な犯罪が繰り返されるようになる、と。あるいは、少子化が進むと、子供の数が減って、親が子供に対して何でも与えているようになり、我慢する精神が足りなくなって、「問題行動」が多発するようになる、と。我慢が必要なのはあなたたちだ、と皮肉の一つも言いたくなる。大体、このような言説を用いることによって世間の不安を煽ることの政治性を自覚していないこと事態に問題があるのではないか。

 そして、少子化をめぐる俗流若者論は、先に提示した2つの「無責任の構造」のミクスチュアとして生まれる。さらにそのような議論は、過度に「善良な」大人たちの感情に訴えようとする。どうせこのような言説の聞き手の大半は50年後には死んでいるだろうから(暴言で失礼!)、責任など負わなくてもいい、と考えているのだろう。このような人たちは、環境問題の解決にとっては最大の敵である。

 ちなみに、社会学者の柄本三代子氏は、出生率統計の政治性について、このように述べている。興味深いので引用しておく。

 新たな象徴支配として機能する遠い未来二〇五〇年の一・三九。つまりつねに重要なリスクとしての意味を担わされて語られる数字(でもただの数字)は、そんな数字はおかまいなしの「いま・ここ」でがむしゃらに産み育てようとする者たちの、間接的脅威として機能する。

 ……がむしゃらに現実と格闘する日々の向こうに透けて見えるのが、「必然化された不平等」、あるいは自己責任を終えない「能力なき者は去れ」ただそれだけだとしたら、どうだろう。「一・三九」(筆者注:平成12年の出生率)という数字の、これをリスク視する者たちの意図は、「一・三三人しか産まない者」(筆者注:平成13年の出生率)としか説明されない者たちの意思の終結である。健康に留意し細心の注意を払って育てているのは「国の明日を担う次世代」でもなんでもない。「一・三九」をリスク視する言説は、「いま・ここ」の私の問題を先送りすることは大得意だけれども、「いま・ここ」の私の現状をどうすることも出来ない。(柄本三代子[2002])

 以上のような視点で、高崎経済大学助教授の八木秀次氏の筆による「日本人が消滅する日」(「正論」平成16年8月号に掲載)を検証しよう。八木秀次、といっても、今ではどこの家庭にもあるテレビアンテナ、すなわち「八木アンテナ」を開発した人ではない。

 八木氏の問題意識は、《これで日本人がゼロになる日が一段と近づいたということになる》(八木秀次[2004]、以下、断りがないなら同様)というものであるらしい。なんと、日本人がゼロになる!このような扇動の問題点に関しては後で述べることにしよう。

 八木氏は、42ページ1段目と2段目において、政府の行なってきた少子化「対策」に関して、《結局、男女共同参画の発想に基づいた政策のオンパレードなのだ》と批判する。事実、男女共同参画的な政策が、少子化の「解決」に結びついたという事実はない(そもそも、信州大学助教授の赤川学氏のように、男女共同参画社会の実現が少子化を解決する、というのも誤りだ、という議論もある。赤川学[2004]を参照されたし)。

 八木氏は、42頁の1段目で、《大体、政府は少子化の原因を根本的に見誤っている》といっている。八木氏はその《原因》について、このように述べている。曰く、

 一・二九(筆者注・出生率)のニュースが報じられた六月十日の夜、テレビで待ちいく女性たちの声が紹介されていた。その中の一人、三十段前半と思われる独身女性が「今は女性も社会で活躍できる世の中だ。子供を持つとキャリアにはどうしてもマイナス。だから今は子供を持つ気はない」と述べていた。

 そう、若い女性たちが仕事で「自己実現」することや人生を楽しむことばかりを考え、結婚や子供を生む気がさらさらないことが少子化の最大の原因なのだ。現に一・二九の要因として二十代の女性が今まで以上に子供を産まなくなっていることが大きいと指摘されている。政府が男女共同参画や女性の「自己実現」を奨励するなどというこれまでの方針を転換して、結婚や出産・育児そのものが女性にとってどれだけ意義深いものであるか説くとともに、家庭育児を経済的にも支えて推進していくようにしなければ決して子供は増えないのである。

 この期に及んで俗流若者論とは。このような八木氏の論証立てが、若年層に対する蔑視で満ちていることを明らかにしていこう。

 八木氏は、《若い女性たちが仕事で「自己実現」することや人生を楽しむことばかりを考え、結婚や子供を生む気がさらさらないことが少子化の最大の原因なのだ》と書くことによって、少子化の原因を全面的に若い女性に押し付け、彼女らの「自己実現」なるわがままによって国家の危機としての少子化が生じているのだ、と述べているのである。もちろん、このような論証立ては、八木氏の「自己実現」であり、わがままなのだけれども。それはさておき、現代の社会において、子供を生むことが女性の地位向上(出世すること?)の障害になっているからといって、当の女性に出世することをやめろ、と八木氏は言っているのだが、出世を目指して働いている女性に対してそれを自分勝手であると決めつけ、子供を産めと命令することが、いかに倒錯した論理であるか、ということを、八木氏はわかっているのか。

 八木氏は江戸川区の出生率が、東京都の平均0.97を大きく上回る1.34であることに関して、その理由を《子育て支援をさまざまな面からサポートしている結果である》と述べた上で、次の段落で《政府の少子化対策もこれに倣えばいいのだ。……家庭育児を推奨し、それに沿った経済支援や教育・啓蒙活動をしていけばいいのだ》と述べているのだが、その直後で《その際、結婚・出産・育児の意義や母性を否定的に記述する家庭科や社会科の教科書を改めることは言うまでもない》と書いている。《結婚・出産・育児の意義や母性を否定的に記述する家庭科や社会科の教科書》がどういうものを指しているかどうかについては私は知らないのだが、教科書の記述を正すよりも講演会や課外授業などを通じて積極的に《結婚・出産・育児の意義や母性》を啓発したほうがいいのではないか、という気がする。

 43ページ1段目において、八木氏は《皇太子妃雅子様のご病気》について触れるのだが、私にとってすれば、これについて八木氏が述べた文章は、皇太子殿下と皇太子妃殿下に対する侮辱にしか私には読めなかった。八木氏は、43ページ1行目から2行目にかけて、このように述べている。

 失礼ながら皇太子殿下と妃殿下の一連のご発言からは先に紹介した三十代前半の独身女性と同じ発想が窺える。皇太子殿下は秘伝かが外交官の職を「断念」して皇室に入ったと述べられた。また妃殿下の「キャリア」を盛んに強調される。つまるところ妃殿下が海外訪問なさりたいということだが、それがお出来にならず、お世継ぎのご出産を求められるからご病気になられたということのようだ。

 皇太子殿下は六月八日のコメントでは「伝統やしきたり、皇室の環境に適応する過程でも大きな努力が必要でした」と、秘伝かが皇室の伝統やしきたりを踏まえたお務めよりも「その経歴を十分に活かし、新しい時代を反映した活動を行ってほしい」と述べられている。しかし伝統やしきたりこそが皇族を皇族たらしめているものではないのか。一体、殿下はどうなさったのだろう。

 《一体》、八木氏は《どうなさったのだろう》。この文章を読んでみる限り、八木氏は本来は伝統やしきたりを遵守すべき皇族の一人である妃殿下すら、《先に紹介した三十代前半の独身女性》のような歪んだ思想に毒されている、と考えているのは明らかであろう。八木氏が、皇太子殿下の政治利用をもくろんでいるのが見て取れる。しかし、八木氏のこのような論証立てには、天皇制に対する無理解も含め、さまざまな倒錯(殿下と妃殿下に対する侮辱も含めて!)が潜んでいる。

 第一に、社会学者の宮台真司氏が指摘するとおり(木村恵子[2004])、皇太子妃の外遊は私的な自由に属している行為であり、そのような行為に対して宮内庁の官僚が制限するのはまったくお門違いというほかない。妃殿下の諸行為や考え方に対して、《先に紹介した三十代前半の独身女性と同じ発想が窺える》と嘆くのは八木氏の自由だけれども、それを我が国の「衰退」と強引に結び付けて殿下や秘伝かを罵るのは、それこそ皇室に対する侮辱に他ならない。第二に、八木氏は《伝統やしきたりこそが皇族を皇族たらしめているものではないのか》と述べているけれども、《皇族を皇族たらしめているもの》はむしろ憲法である。

 それにしても、八木氏がこの文章の結びにおいて、《皇太子殿下、雅子妃殿下には今一度、天皇・皇后両陛下と、皇族としての本来のお務めとは何なのかについてお話し合いになっては如何だろうか。日本人とその中核たる皇室が消滅しないために民草の一人は不敬を承知でそう考えている》と書いているのはどうか。八木氏は、天皇や皇室という存在がどのような位置にあるか、あるいはその歴史性を恣意的に理解して、皇室を政治的に利用していると考えているのが一層明らかになってくる。そもそも八木氏は《日本人とその中核たる皇室》と述べているけれども、そのような図式が成立したのは明治維新の過程である。無論、その時代には、そのような図式を持ち出す必然性があったのだけれども、それに今でも固執し続けるのは、単なる反動にしかなりえないのではないか。

 現在検証している八木氏の文章のタイトルは「日本人が消滅する日」であり、冒頭でも述べたとおり、八木氏はこの文章の冒頭で《日本人がゼロになる日が一段と近づいた》と述べている。しかし、いくら少子化と人口減少が進んでいるといっても、毎年100万人程度の子供が生まれているのだから、日本人が本当にゼロになるのは数千年先であろう。この文章を読んでいる限り、八木氏が本当に恐れているのは、日本人がゼロになることではなく、八木氏の自意識のよりどころとなっているものがゼロとなることだろう。八木氏は、皇室の存在意義について《伝統やしきたり》をしきりに強調しているけれども、八木氏のほかの文章を読んでみる限りでは、八木氏は(「伝統」とは何か、を真に問うことはしないまま)「伝統」を自意識のよりどころにしていることが認められる。八木氏が皇室の存在意義の本質が憲法や皇室典範にあることを認めようとしないのも、そのような論理に基づくのだろう。

 この文章のみならず、八木氏の最近書いた文章を読んでいく限りでは、八木氏の歴史や伝統に対する安易な考え方が容易に見て取れる。八木氏はしきりに「伝統」の復権を唱えるけれども、結局のところそのような論理は、国民を八木氏の妄想に回収させることしか産まないのではないか。ここで検証した文章においては、少子化という国家の(正確に言えば八木氏の自意識の)危機を、皇室まで持ち出して安易に嘆いてみせる、というスタイルであり、このような態度こそ、少子化について一番邪魔な態度である。

 参考文献・資料
 赤川学[2004]
 赤川学『子どもが減って何が悪いか!』ちくま新書、2004年12月
 柄本三代子[2002]
 柄本三代子「科学のワイドショー化を笑えない時代」=「中央公論」2002年11月号、中央公論新社
 木村恵子[2004]
 木村恵子「雅子さまの「人間宣言」」=「AERA」2004年7月19日号、朝日新聞社
 松谷明彦[2004]
 松谷明彦『「人口減少経済」の新しい公式』日本経済新聞社、2004年5月
 八木秀次[2004]
 八木秀次「日本人が消滅する日」=「正論」2004年8月号、産経新聞社

 奥平康弘、宮台真司『憲法対論』平凡社新書、2002年12月
 長谷部恭男『憲法と平和を問いなおす』ちくま新書、2004年4月
 宮台真司『宮台真司interviews』世界書院、2005年2月

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2005年5月 9日 (月)

俗流若者論ケースファイル24・小林節

 改憲派の弁護士として有名な慶応義塾大学教授の小林節氏は、憲法というものが本来は権力に歯止めをかけるために存在している、という立憲主義的な立場を熟知しており(小林節[2005a])、憲法に関してはかなり信頼できる言論人だと思う。しかし、小林氏が福井県の地方紙である日本海新聞に寄稿した文章「児童ポルノ処罰法の欠陥」(平成17年3月22日掲載)は、法律論と単純な道徳論が混在した、奇妙な文章であった(ちなみにこの文章は、我が国における表現規制の動きを監視するブログ「kitanoのアレ」経由で知った)。

 小林氏は、児童ポルノに対する処罰の正当性に関してこう述べる。曰く、《人類の種の存続が成人男女の性交により保たれているという厳然たる事実は否定できないが、同時に、未熟な青少年に対する性交等が青少年の健全な成長ひいては社会の存廃を害することも事実で、そういう意味で、児童ポルノを処罰することは正当である》(小林節[2005b]、以下、断りがないなら同様)と。このような論証立てが許されるようであれば、あらゆるもの(というよりも、特にマスコミによって「有害」と称されているもの)に対する規制が正当化されてしまう。特に、《未熟な青少年に対する性交等が青少年の健全な成長ひいては社会の存廃を害することも事実》というのが法律論から乖離した単純な道徳論であることに、なぜ小林氏は気づかないのだろうか。

 また、小林氏は、児童ポルノ処罰法に関してこのように感想を述べている。曰く、《しかし、不思議なことに、同法では、人が自分で鑑賞する目的で児童ポルノを所持することが処罰対象に入ってはいない。つまり、この法律の下では、児童ポルノは上述のように「禁制品」のようで実は禁制品ではない》と。小林氏は《人が自分で鑑賞する目的で児童ポルノを所持することが処罰対象に入ってはいない》と嘆くけれども、それをなぜ規制する必要があるのだろうか。児童ポルノの単純規制を処罰することに対して正統性を付けるためには、児童ポルノ「そのもの」が何らかの犯罪であることを立証しなければならないはずであるし、もし「児童ポルノに影響された人が犯罪に走る」ということを小林氏が考えているとすれば、そのような考え方は予防拘禁につかがる考え方であり、非常に危険である。また、数億歩譲っても、児童ポルノを所持している「だけ」の人が社会に及ぼす悪影響が、児童ポルノを所持していない人に比べて大きいことをまず証明しなければならないはずだが。

 また、児童ポルノ規制は「表現の自由」に違反するのではないか、という疑問に関して、小林氏はこう述べている。曰く、《成人を対象とするポルノ(で、わいせつの基準=限界に触れていないもの)を製造し、それを成人に流通させることは、憲法上、表現の自由として保障されており、その限りで成人のポルノは禁制品ではないし、それはそれで良い。しかし、児童ポルノは、その本質に照らして、そもそもこの世に存在してはならない、そういう意味において、紛れもなく「禁制品」ではなかろうか》と。《本質》とはなんなのだろうか。そして、《この世に存在してはならない》というのは、いかなる理由でそういっているのだろうか、さらには、誰がそう決めたのだろうか。マスコミか?小林氏か?それとも別の何かか?

 そして小林氏はこう締めくくる。曰く、《児童ポルノに関しては、自分で鑑賞する目的で私蔵することも禁止しなければ、それを密造・密売するビジネスはなくならないはずである。青少年の保護は他のすべてに優先する公益の一つである》と。しかし、《青少年の保護》といっても、児童ポルノに対する規制以前にやるべきことはたくさんある(例えば、「ひきこもり」の人々に対する社会的支援だとか、あるいは児童虐待の防止とか)はずであるし、児童ポルノに対する単純所持規制は、青少年問題の解決に対して寄与する効果は極めて少ないだろう。しかも、小林氏は《児童ポルノに関しては、自分で鑑賞する目的で私蔵することも禁止しなければ、それを密造・密売するビジネスはなくならないはずである》と述べているけれども、これは児童ポルノを所持している人に対する差別ではなかろうか。

 結局のところ、小林氏のこの文章は、児童ポルノに対する誤解や敵愾心により、法律論とは乖離した道徳論ばかりが開陳された文章になってしまっているのである。児童ポルノと犯罪に関する実証的なデータがないにもかかわらず、このように児童ポルノを最初から「敵」として規定してしまう文章は、特に慎重な議論が必要な児童ポルノに関わる問題では、あってはならないものではないか。

 また、我が国においては、児童買春と児童ポルノが法律によって同列に並べられているけれども、そもそもそのような状況にこそ疑念を呈するべきである。というのも、児童買春は「行為」であり、児童ポルノは「記録」であるため、それらの本質は根本的に異なるものである。さらに、児童ポルノが青少年に及ぼす影響というのもいまだに不明であるが、何のデータもないままに児童ポルノが青少年に「有害」であると規定するのは憲法の定める表現の自由に抵触する恐れもあるし、数万歩譲ってそのようなデータが出たとしても、さまざまな因果関係を考慮して多角的に調査を行うべきである。さらに、(私は断固としてあらゆる「有害」メディアに対する規制に反対する立場なのでこのような仮定は避けたいのだが)実際に規制するとしても、どのような内容の児童ポルノを規制するのか、というのも厳格に定めるべきであるし、その規制の範囲が浪花節だけで決められてしまうと、権力の暴走を食い止めることができなくなってしまう。また、児童ポルノ映像を作成する過程で何らかの暴力行為が認められた場合でも、それは特別立法などなくとも刑法で処罰できるはずだろう。

 我が国において、「青少年」はもはや一つのイデオロギーと化している。そして、その「青少年」を毒する、と考えられているものが、ゲームであり、インターネットであり、携帯電話であり、そして、ここで取り上げた児童ポルノなどの「有害」メディアである。そして、青少年「対策」は、それらの「闇」から子供たちを引きずり出せ、というものになる。しかし、何か一つを「敵」としてつるし上げる論理は、結局のところそれらの「敵」に立ち向かっている自分というものに浸ることしか生み出さないのではないか、と思えてならない。

 必要なのは、青少年の脱イデオロギー化である。

 参考文献・資料
 小林節[2005a]
 小林節「タカ派改憲論者はなぜ自説を変えたのか?」=「現代」2005年2月号、講談社
 小林節[2005b]
 小林節「児童ポルノ処罰法の欠陥」=2005年3月22日付日本海新聞

 プロジェクトタイムマシン『萌える法律読本 ディジタル時代の法律篇』毎日コミュニケーションズ、2004年7月
 斎藤環『「負けた」教の信者たち』中公新書ラクレ、2005年4月
 橋本健午『有害図書と青少年問題』明石書店、2002年12月

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俗流若者論ケースファイル23・西村幸祐

 最近2回の「俗流若者論ケースファイル」は、昨年の佐世保における同級生刺殺事件を取り扱ったので、インターネットたたきの文章(俗流若者論)ばかりを取り扱ってきた。なので、今回は、その真逆である安易なインターネット礼賛を批判したい。ただし、佐世保の事件とは本質的には関係ない。

 検証するのは、産経新聞の月刊誌「正論」平成16年8月号に掲載された、ジャーナリストの西村幸祐氏の文章「「2ちゃんねる」を目の敵にし始めた朝日、岩波の焦燥」である。まあ、この記事は、講談社の「月刊現代」平成16年8月号におけるライターの荷宮和子氏の文章とはまったく対照を成すものであるのだが、結局のところ西村氏も、荷宮氏同様、スタンスはまったく対照的だけれども、安易に「敵」と「見方」を線引きしてしまうという姿勢はまったく変わっていない。また、西村氏によるこの文章は、様な産経が得意とする左派系メディア批判で、そのロジックの非論理性、イデオロギー性もまた目に付く、荷宮氏(ただし荷宮氏は右派系のメディア批判であるが)と同様に。

 西村氏は、300ページにおいて少しだけ佐世保の事件に触れているけれども、ここに関しては別段異論はない。しかし同じページにおいて、西村氏は《〈ネット社会〉が必要以上に負のイメージで報じられるのは、じつは四月に起きたイラク人質事件が大きく関わっている》(西村幸祐[2004]、以下、断りがないなら同様)と事実に反する記述をしている。西村氏が言うような《〈ネット社会〉が必要以上に負のイメージで報じられる》という事態は、例えば平成12年に発生した佐賀県のバスジャック事件でも同様であった。それ以外にも、インターネットに関する(感情論的な)敵対的言説は、イラク人質事件以前にも多くあった。
 このような論証立てを西村氏がする背景には、実を言うと西村氏が後のほうで「2ちゃんねる」(以下、2ch)を我々の言論の見方にせよ、ということを主張していることに起因するのだが、これに関しては後のほうで述べよう。

 西村氏は301ページにおいて、平成16年4月22日付朝日新聞の社説を批判するけれども、この批判がまたお粗末である。西村氏は《「テロに屈してはならない、というのは当たり前のこと」だと言いながら「世界を見渡すと、それですべてがひもとけるわけではない」とテロを肯定し》(西村幸祐[2004]、以下、断りがないなら同様)と言っているけれども、このような文章のどこがテロを肯定している文章なのだろうか。この後で西村氏が引用している朝日社説を読んでも、むしろ西村氏の言うような《テロ肯定論》としてこの社説をとらえるほうこそ滑稽だと思う。

 しかし、西村氏のこの文章の本当の問題は、このような認識にあるのではない。例えば西村氏は302ページにおいて、朝日新聞論説委員の高成田亨氏のコラムを引用して《ここで高成田氏は「2ちゃんねる」批判に人質家族と支援者に対する国民の感じた違和感と嫌悪感を置き換えることで、正面から自らの世論誘導が失敗した〈自己責任〉を回避し、失敗の分析を怠った》と書いているけれども、このような批判こそ責任や分析の回避ではないか?さらに西村氏は303ページにおいて、《これは、かつて筑紫哲也に便所の落書きと揶揄されたネットの言葉を〈ネット言論〉という仮想的として意識し始めた証左ではないだろうか?》そして《〈自己責任論〉はじつは政府やメディアという権力から出されたものでなく、国民から自然発生的に産み出されたものだ。それを証明するのが「2ちゃんねる」の「カキコ(書き込み)」なのだ。現実から目を逸らせて世論と自らの解離を客観視できなければ、戦後民主主義と牽引して来たと誤解したまま、彼らはますます状況から取り残される。今以上に〈ネット世界〉の嘲笑の対象になるだけではないだろうか》と書いてしまう。このように「2ちゃんねる」を肯定してしまう西村氏の背景には、明らかに高成田氏や筑紫氏他、左派系メディアや言論人に対する勝利の感情がある。

 西村氏はこの後で社会学者の北田暁大氏も批判するのだけれども、北田氏に対する西村氏の批判については、高成田氏への批判とほとんど同じなので深くは触れないことにしよう。しかし、西村氏の文章について、一貫している「物語」がある。それは、「左翼的なマスコミや言論人によって思考停止に陥ってしまった社会を、2chが打破してくれる!」という幻想である。そして、なぜ西村氏がこのような幻想を抱くに至ったかといえば、結局のところ自らの意見と同じような意見が「2ちゃんねる」には多く見られた、という理由に過ぎないのである。

 この文章のタイトルは「「2ちゃんねる」を目の敵にし始めた朝日、岩波の焦燥」であるけれども、私はこの文章に、「「2ちゃんねる」を「同志」にし始めた西村幸祐の焦燥」を感じ取る。この文章において西村氏が2chを過大視してさらに過剰に持ち上げているのも、本当は西村氏が自分の意見が認められているかどうか、という不安を抱いているからではないだろうか。たとえ「正論」が総合月刊誌としては最も売れていても、実社会においてはきわめて狭い世界であるし、2chにしても西村氏が味方につけたがるような文章が見られるのはごく一部に過ぎず、ネット上には信頼できる左派系のサイトも多くある。2chの一部の書き込みだけを見て、それに左派系のメディアや言論に毒された我が国の「解放」を幻想する、というのがむしろ私には焦燥に映る。

 西村氏が2chにこれだけ過剰な「期待」を寄せているのも、西村氏の自意識というものが単なる勢いだけの右派系の言説に裏付けられているからなのかもしれない。少なくとも、勢いだけの言説によって自らを居食するしか能力のない人に、保守主義者を名乗ってほしくない。西村氏のこの文章は、単なる脆弱なヒロイズムの発露に過ぎない。

 参考文献・資料
 西村幸祐[2004]
 西村幸祐「「2ちゃんねる」を目の敵にし始めた朝日、岩波の焦燥」=「正論」2004年8月号、産経新聞社

 北田暁大『嗤う日本の「ナショナリズム」』NHKブックス、2005年2月
 斎藤環『「負けた」教の信者たち』中公新書ラクレ、2005年4月

 内山洋紀、佐藤秀男「さらば、2ちゃんねる」=「AERA」2004年7月12日号、朝日新聞社
 内藤朝雄「お前もニートだ」=「図書新聞」2005年3月18日号、図書新聞

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2005年5月 7日 (土)

俗流若者論ケースファイル22・粟野仁雄

 前回の続きで、昨年6月に起こった佐世保の同級生刺殺事件を採り上げよう。ここで急いで付け加えておくが、社会学者の北田暁大氏がウェブ上で指摘している通り、この事件に関する各種総合月刊誌の反応は、比較的冷静であった。この事件に関して古典的(というか、道徳的)なメディア・リテラシー論や教育論を前面に押し出していたのは少なく、北田氏によれば「潮」と「月刊現代」くらいであった(「諸君!」ですら結構興味深い文章を書いていた。「麹町電網観測所」なる醜悪な連載はいつもどおりだったが。ちなみにこれらは北田氏は採り上げていない)。ただし、前回採り上げた「新潮45」の、小学校教諭の樽谷賢二氏の文章は、北田氏はノーマークであったが、間違いなくこの類に入る。

 また、私がこの事件に関する論評でもっとも評価したいのは、これも北田氏が見落としていた(というより、この事件に関する論評として見なしていなかった?)ものであるが、精神科医のなだいなだ氏が「論座」平成16年8月号に寄せた「役人の子ども観」であった。この文章において、なだ氏はこう述べている。

 子どもの事件だと、すぐにこういう談話(筆者注:この文章の直前の段落にある《「学校では人を傷つけてはならないとか、命を大切にする教育を進めている。学校関係者は教育の原点に立ち返って考えてほしい」という文部科学相の談話》)を発表する。だが、大人の殺人事件の時はどうなのだ。何もいわない。ここに文部科学省官僚の官僚の子ども観が表れている。もちろん自分でそれが偏見とは思っていないだろう。だが、かれらは、子どもを、大人と同じ人間だとは見ていない。(なだいなだ[2004])

 特に《かれらは、子どもを、大人と同じ人間だとは見ていない》(前掲)というのは言い得て妙であるが、このような考え方をしているのは、官僚だけでなく、一部の自称「識者」もそうであろう。そして、このような「線引き」を可能にしたのが、間違いなくインターネットだとかゲームだとか映画だとかいった「「有害」社会環境」であった。彼らは、このような凄惨な事件が起こったら、現実には少年による凶悪犯罪が減少しているのを無視して「自分たちの世代はこのような事件など起こさなかった」と飛躍して考え、青少年に特有の「病理」を追求するという名目で「「有害」社会環境」の悪影響と、それに対する規制論を堂々と唱え、それらを撲滅すればこのような犯罪は防げる、と妄想を語る。

 このような考えは、何も考えていないのと同様であり、さらにはレイシズムの論理によって裏付けられているのは明白であろう。

 このような考えを念頭において、今回検証するのは、ジャーナリストの粟野仁雄氏による「「ネット」の闇」である。この文章は「潮」平成16年8月号に掲載されていて、北田氏も《こういう論が少なかったのがけっこう意外だった》(北田氏のブログより)と言っている通り、この事件においては意外と「少数派」であった道徳論に終始している。それにしても、この立場に立つ人というものは、「闇」という言葉が好きであることよ。

 閑話休題、粟野氏の文章の検証に入る。粟野氏は146ページにおいて、この事件における犯人の弁護人の談話を引く。弁護人曰く、《『バトル・ロワイヤル』……について聞いたが答えない。そういうところは口が堅くなる》(粟野仁雄[2004]、以下、断りがないなら同様)と。この『バトル・ロワイヤル』は、この犯人が事件の前に見ていたとされるものだけれども、どうしてこの弁護人はわざわざこれを引き合いに出し、さらに粟野氏もその不自然さを問い詰めないのだろうか。しかも、この弁護人は《答えない。そういうところは口が堅くなる》と言っているけれども、本当にそうであれば、この『バトル・ロワイヤル』に関してこの犯人が特に執着心を抱いてはいない、ということの証左にもなるのではないか?

 案の定、粟野氏もインターネット有害論に走る。私が笑ってしまったのは、147ページ、長崎大学の宮崎正明教授(ところで、粟野氏はこの教授が何を専攻しているか、ということを明記していないのだが、それでいいのだろうか)の言葉を引いたくだりである。宮崎氏の指摘は、はじめのほうはいいものの、後半、すなわち147ページ2段目の中ごろから事実誤認と牽強付会が目立つ。例えば、147ページの3段目において、《犬や猫を攻撃するような少年も、そうした場面をフィルムとか、漫画とかで模倣学習していた子のほうが、そうでない子よりも残虐になれることが証明されている。『バトル・ロワイヤル』などのリアルな部分をバーチュアルに、混沌と取り込み、仮想現実で残虐性が増した。先天的でなく、獲得的な異常性格では》と恬然と述べている。嗤うべし。宮崎氏の引き合いに出している研究では、その逆因果が証明されているのだろうか。すなわち、「元々残酷な性格を持っている→残酷な作品にはまる」というものである。また、この研究においては、どのような事柄でもって《残酷になれる》ということの基準になっているかもわからないし、いかなる条件で実験されたものであるかどうかもわからない。

 同じ段において宮崎氏曰く、《文科省も、コンピュータを小、中学校にとりいれたが、道徳心とか、健康な心を子供の頃から育むことをしないと大変です》と。道徳心が大切なのは宮崎氏のほうだろう。そもそも《道徳心》だとか《健康な心》だとかいった美辞麗句は、至極曖昧なものであるし、しかもそれらのような物言いは、自意識と深く結びついており、結局のところ今の「善良な」自分を肯定する者にしかなりえない。要するに、結局のところ宮崎氏のような考え方を持った人にとっての「癒し」にしかなり得ないのである。それにしても、宮崎氏は《道徳心》だとか《健康な心》を涵養するために、何をするのだろう。今流行りの「心の教育」か?

 しかも宮崎氏は、148ページ1段目においてさらに飛躍してしまう。曰く、《文章もほとんど模倣。こうしたものは、服装などと同様、ティーンの間ではファッションでしかない。これらに染まるうち、観念的で現実感のない人間になる。深く考える必要のないアニメやゲームが影響しているのは、昨年の長崎の男児の事件と同様です》と。そこまでくるか!もし、宮崎氏の物言いが正しいのであれば、渋谷だろうが秋葉原だろうが、特定の属性の人が集まる場所における若年はおしなべて《観念的で現実感のない人間》になり、《昨年の長崎の男児の事件》と同様、殺人事件をしでかしてしまうだろう。大谷昭宏氏の「フィギュア萌え族」概念も、この意味において肯定されてしまうし、俗流若者論が得意とする渋谷への疎外言説も、もちろん裏付けられる。しかも、《昨年の長崎の男児の事件》の犯人が、どれほど《深く考える必要のないアニメやゲームが影響している》のか、宮崎氏は判断したのだろうか。深く考えていないのは宮崎氏であり、それを追及しない粟野氏もジャーナリストとして失格ではないか。

 しかし、粟野氏が宮崎氏の暴論を批判しないのは、もちろん理由がある。それは、粟野氏が、宮崎氏と同じ考えを持っているからである。事実、粟野氏は、最後の3段落(149ページ2段目から3段目)において、このような空論を堂々と述べている。曰く、

 事件が、一つの要因では説明できないが、メールやCHATなどの「新型コミュニケーション」が大きく影響している。文科省は小学生にホームページの作り方などを導入するという。そんな必要はない。コンピューターメーカーの思惑の代弁にしか見えない。

 そんな暇があったら、もっともっと体当たり教育をすべきだ。週休二日で、教師と生徒の接触時間は激減しているのだ。メールやCHATなどは、裸の人間付き合いを十分体験した上で「道具」として使うならいいが、子供の場合、画面が人間関係のすべて、と思い込むことが怖い。筆者の愚息は、パソコンはおろか、ゲーム、ファミコン、携帯も持っていないし、ほとんど扱えない稀少なる中学三年だ。「そんな暇あったら外で友達と遊べ」と言い続けた。

 日本中の教育者や親は今こそ、ビデオやテレビ、パソコンなどに依存せずに子供と裸の付き合い、体当たり教育を本当にしているのか、問い直してほしい。

 呆れてものも言えない。勝手にほざいているがいい。このような根拠なき空論、そして「私語り」が、いかに現実の家庭を囲い込むものであるか、粟野氏にはそのような想像力はないのか。

 この粟野氏の暴論は、《一つの要因では説明できないが、メールやCHATなどの「新型コミュニケーション」》に対する敵愾心が《大きく影響している》。粟野氏はテレビやゲームを排した《裸の人間付き合い》を導入せよという。《そんな必要はない》。俗流若者論を垂れ流す「大本営発表」マスコミの《思惑の代弁にしか見えない》。

 《そんな暇があったら、もっともっと》子供たちの現実を見据えるべきだ。俗流若者論的な認識で、粟野氏の思考の活性度は《激減しているのだ》。《メールやCHATなど》に対する敵対的言説は、それに関する実証的な言説を《十分》踏まえた上で《使うならいいが》、俗流若者論の場合、報道が若年層の《すべて、と思い込むことが怖い》。私は、「ゲーム脳」は《おろか》、「ケータイを持ったサル」、「フィギュア萌え族」も真に受けないし、それらをほとんど知り尽くした《稀少なる》大学三年だ(そうかな?)。これらの議論を振りかざす人たちには、「《そんな暇あったら》少年による凶悪犯罪が減っていることぐらい知っておけ」と《言い続けてきた》。

 《日本中の》マスコミやマスコミに頻繁に露出する自称「識者」は《今こそ》、安易なアナロジーや悪影響論に《依存せずに》子供を《裸の付き合い》の精神でもって彼らの現実を直視しているのか、《問い直してほしい》。

 参考文献・資料
 粟野仁雄[2004]
 粟野仁雄「「ネット」の闇」=「潮」2004年8月号、潮出版社
 なだいなだ[2004]
 なだいなだ「役人の子ども観」=「論座」2004年8月号、朝日新聞社

 斎藤環『ひきこもり文化論』紀伊國屋書店、2003年12月
 広田照幸『教育言説の歴史社会学』名古屋大学出版会、2001年1月

 内藤朝雄「「友だち」の地獄」=「世界」2004年12月号、岩波書店

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2005年5月 5日 (木)

俗流若者論ケースファイル21・樽谷賢二

 ちょっと時期はずれな気もするが、今回は平成16年6月に起こった長崎県佐世保市の女子児童殺傷事件を採り上げる。どうもこの事件に関する「分析」の大半が、この事件における犯人がインターネット上のチャットでの書き込みが癪に障ったので犯行に及んだ、という経緯があるせいなのか、「今時の若者」はインターネットなどといったヴァーチャルな空間でばかり存在できず、それで想像力が失われてこのような残忍な事件を起こした、というものであった。

 そうだろうか。現実には、この事件における犯人と被害者は、事件前からかなり仲のいい関係だった、ということが事実として報じられている。しかし、やはりこのような情報の主たる受け手である「善良な」人たちにとって「理解できない」ものであるインターネットを「原因」として祭り上げたいという動機があってか、このような背景を無視した単なる「分析」ばかりが横行していた。しかし、このように、例えば「インターネット」などを槍玉に上げる理論は、単なる責任の押し付けの理論に過ぎず、単に偏見を生み出すだけに過ぎない。想像力が足りないのはどちらのほうだろうか。ちなみに、良心的な人ほど、この事件の犯人と被害者における「関係性」の苦しさを問題にしていた。

 今回採り上げるのは、大阪府堺市立深井小学校教諭の樽谷賢二氏が新潮社の発行する月刊誌「新潮45」平成16年8月号に掲載した文章「文科省推進「小学生パソコン教育」の惨状」である。樽谷氏のこの事件に対するスタンスは、《コンピュータだけが少女を殺人に駆り立てたと思っているわけではない。小学校高学年の児童の交友関係は把握しにくいものだ》(樽谷賢二[2004]、以下、断りがないなら同様)としながらも、《しかしコンピュータがなかったらあれほどの惨劇は起こらなかったことは断言できる》というものであった。確かにこのような分析は外れてはいないのだけれども、この事件に対して深く触れるようになる文章の最後のほうで、なぜか前者のほうは完全に忘れ去ってしまうのである。

 樽谷氏は、235ページにおいて《今改めて小学校の〈情報教育〉が問い直されている》と書いている。しかしながら、このような問題提起は、問題の本質から逆に遠ざけてしまう者に過ぎない。これについては、最後のほうで詳しく述べることにして、今は樽谷氏の言説の分析に集中しよう。

 樽谷氏の文章における問題点が本格的に表出するのは237ページからである。例えば樽谷氏は237ページの最後から238ページにかけて、

 私は今小学4年生を担任しているが、授業に退屈していると、女子児童は小さなメモの紙に遊ぶ約束の話や、時には自分たちの共通の趣味に関する話を書いてこっそりまわしていることがある。発見すると「こらっ、授業中にメール(メモのこと)を送るな!!」と注意をして取り上げるのだが、少々きつく注意してもあまり悪びれる様子のないのが今の子供達である。休み時間にでも話せばすむことなのに、メールにするのは教師の目を盗むスリルと同時に、直接顔が見えない世界だけに表現しやすいのだろう。Eメールの予備軍である。

 と書いているが、腐臭が漂っている。第一に、樽谷氏は《授業に退屈していると、女子児童は小さなメモの紙に遊ぶ約束の話や、時には自分たちの共通の趣味に関する話を書いてこっそりまわしていることがある》という事態に対して《「こらっ、授業中にメールを送るな!!」》と注意しているようだけど、どうしてメモを《メール》として表現する必要があるのだろうか。「メモ」でいいのではないか。もっとも、この点に関して検証するのは枝葉末節を突くようなものであり、ただ私が気になったのでちょっと採り上げた。

 それでも問題のある記述は、この段落だけを見ても多々ある。例えば樽谷氏は《少々きつく注意してもあまり悪びれる様子のないのが今の子供達である》などと断定しているけれども、それなら過去との比較を行なっていただきたい。そもそも、授業中に児童(特に女子児童)が教師に隠れてメモを渡す、ということは過去にもあった。樽谷氏は《少々きつく注意してもあまり悪びれる様子のない》というところを問題視しているのだろうが、そのような児童が最近になって表れたということを少しは証拠立てしていただけないものか。しかも《直接顔が見えない世界だけに表現しやすいのだろう》などと樽谷氏は書いているけれども、樽谷氏のクラスの児童は首すら回せないのだろうか。というのは冗談であるが、少なくとも《直接顔が見えない世界》が構成されるのは極めて短い時間で、これは樽谷氏が結局のところ《Eメールの予備軍である》と強引にメールの「闇」に結び付けたいがための論理立てではないか、と疑わざるを得ない。

 樽谷氏の論理はさらに混乱を極める。樽谷氏は、237ページにおいて《私の友人で、大阪府でもコンピュータ指導の第一人者の教師が、彼の学校の6年生児童全員を対象にインターネットに関する調査を行った》ことの結果を274ページで公開し、同じページで再び触れているけれども、ここではサンプル数が明示されていない。統計調査を引用するのであれば、まずその調査が信頼に足るものであるかどうかを検証するために、サンプル数ぐらいは公開しておいたほうがいいだろう。しかし樽谷氏は、この統計データからさらに恣意的に《彼(筆者注:件の大阪府の教師のことだろう)も言っていたことであるが、顔を見せずにすむし、氏素性も隠せるのだから、無責任なことの書き放題である》と「分析」してしまう。《無責任なことの書き放題》というのは、むしろ樽谷氏ではないか?ついでに、この調査において、掲示板に書き込みをしているか否か、という質問に対してイエスと答えたのはたったの3%だった。

 そして239ページ。この文章の最後にあたるのだが、このページは、もう全部が論理飛躍や暴走といってもいいくらいである。例えば樽谷氏はこのページの冒頭において、《本来人と人とのコミュニケーションとは……》と語っているのだが、結局のところ単なる感情的なインターネット批判に終始しているのはどういうことか。特に1段目から2段目にかけてのこの段落に関しては笑ってしまった。曰く、

 仮定のことをいっても仕方のないことであるが、佐世保の同級生殺害事件の加害児童が、メールではなく直接顔を見て表情や息吹を伴った会話をしていれば、いくら喧嘩になったとしても、殺人という最悪の結果にはならなかっただろう。

 と。嗤うべし。《メールではなく直接顔を見て表情や息吹を伴った会話をしていれば》などと樽谷氏は言っているけれども、この事件における加害者と被害者はしょっちゅう《直接顔を見て表情や息吹を伴った会話》をしていたのだが、樽谷氏はそれを忘れているようだ。しかも、このような論証立て自体、本当に人間関係に苦しんでいる人を囲い込むことにしかならない。第一、《直接顔を見て表情や息吹を伴った会話》でこのような事件が防げると考えるのは、あまりにも甘い考え方としか言いようがない。

 しかも、樽谷氏はその点に気づいていないらしく、239ページ2段目から3段目にかけて、このような妄想をぶちまけてしまう。

 10年くらい前から、公立小中学校が〈学校開放〉の名のもとに、すっかり市民社会化してしまった。世間で起きている凶悪事件が、そのまま学校へ持ち込まれてしまった。大きな事件としては、黒磯市での中学生による教師の視察、大阪教育大池田小での青年による児童殺傷、長崎での中学生によるビルからの小児突き落とし殺人、ごく最近では新潟の学校への包丁を持ち込んだ小学生による傷害事件。ここまでセンセーショナルにはならなくても、学校現場での凶悪事件と紙一重の事例を私もいくつか見てきたし、教師仲間が集まれば物騒な話題には事欠かない。  パソコンや、携帯電話がここまで普及し、事件に一役かうようになってしまった現代社会では、佐世保のような事件を防止できないことを肝に銘じるべきである。文部科学省の推進する〈情報教育〉=コンピュータ遊びなどは屁のツッパリにもならない。

 大いに嗤うべし。事実誤認、論理飛躍、論理の混乱、とにかくたくさんの問題点がここから検出できる。第一に、《世間で起きている凶悪事件が、そのまま学校へ持ち込まれてしまった》と樽谷氏は言っているけれども、少なくとも《長崎での中学生によるビルからの小児突き落とし殺人》は学校の中で起こったものではない。また、《大阪教育大池田小での青年による児童殺傷》と書いているが、この事件の犯人は当時37歳だった。どこが《青年》だろうか。しかも、このように過去との比較もなく、簡単に現在の事件を嘆いてしまうというのは、教師としてあるまじき行為ではないか。このような論証立てには、過去の事例に関する「想い出の美化」のような現象が関わっているとも言えるだろう。

 しかも《パソコンや、携帯電話がここまで普及し、事件に一役かうようになってしまった》と言っているのだが、本当にそうなのか、検証立てが必要であろう。確かに、佐世保の事件に関してはそういいきることもできなくもない(というより、できる)のだけれども、他の事件に関しても、無理やりそのような図式に当てはめるのは酷であろう。しかも、このような不安言説の垂れ流しが、さらに人々を不安に陥れる、ということに、樽谷氏は終始無頓着であった。もう一つ言うけれども、前の段落においては《学校開放》が凶悪事件の増加の「原因」としていたのに対し、後ろの段落においてはパソコンや携帯電話の普及がその「原因」と子弟いるのは、矛盾ではないか。

 インターネット叩きで佐世保の殺人事件のような事件が減らせるのであれば、どんどんやるがいい。しかし、現実には、そのような行為で減らせるというのは単なる幻想に過ぎないだろう。

 また、このような論証立てには、事件を起こした犯人どころか、現在の子供世代が自分とは違う「人種」であるという(森昭雄や正高信男や大谷昭宏などの過剰なる線引きに代表されるような)考え方に即しているのではないか。

 なんだか、インターネットに対する批判が自己目的化し、「インターネットに毒された「今時の若者」」を批判することによって社会に警鐘を鳴らしている自分を表出することによって満足感を得ているような文章に、樽谷氏のこの文章がなっているような気がしてならない。

 今回の事件では、明らかに直接顔の見える関係性の中で起こった事件である。その点を見過ごしてはいけないのではないか。この事件の直後に行なわれた、評論家の宮崎哲弥氏と、ライターの藤井誠二氏、そしてライターの渋井哲也氏の座談会において、藤井氏が《あるシンクタンクが15歳以下の男女を対象に》(宮崎哲弥、藤井誠二、渋井哲也[2004]、この段落に関しては断りがないなら全てここからの引用)行なった《ネットについての意識調査》を引いて(とはいえ、ここでもサンプル数が明示されていないので、その信憑性に関しては疑う必要があるが)《われわれが普通考えるネット利用時の怒りというと、相手の顔が見えない関係を思い浮かべますが、この調査結果を見ると碇を感じているのは、佐世保の事件同様、顔の見える関係のある人に対してなんです》と述べて、それを受けて渋井氏が《小学校では、ネット利用時に知らない人には気をつけようと教えるので、どうしても知っている人同士のコミュニケーションばかりになる。知らない相手なら、嫌なら無視したり、受信拒否したりすればいいけど、知っている人だったら簡単に切るわけにもいかないですから》と述べたことに関して、宮崎氏は《ヴァーチャルな経験が増えて生の体験が不足したのが問題だ》という言説を《戯言》と退けて、藤井氏と渋井氏の意見をまとめる形で《問題の本質は、生の体験とヴァーチャルな経験の境界がなくなり、両者が本質的に等価であるという認識が定着しつつあるということです》と指摘している。

 宮崎氏はこの座談会において「学校世間」という語句を使っているけれども、そこからの逸脱を許さないような不文律がこのような事件を引き起こした、という背景も無視できないだろう。しかし、もう一つ付け加えておく必要がある。この事件に関して、私も何度も引用している作家の重松清氏による報告に書いてある通り、この犯人が公立の中高一貫校の受験に際して、本人の意思に反してクラブ活動をやめさせられた、ということが事件へのトリガーになっている、という側面もある(重松清[2004])。この2つのキーワードを重ね合わせると、見えてくる一つの言葉は「管理化」である。

 要するに、「友達」関係による横の管理と、「親」による縦の管理が犯人を精神的に追いつめた、ということである。とりわけ「友達」による横の管理は、携帯電話によってさらに加速されるのは否めないだろう。それだけでなく、例えば中部大学助教授(当時。現在は東北大学助教授)の五十嵐太郎氏が指摘するとおり、GPS携帯電話(人工衛星による位置情報確認システムを搭載した携帯電話)が「防犯」のためと称して親が子供たちに持たせることにより、《物理的な拘束のメカニズムではなく、絶えず接続されたコミュニケーションによって、われわれは管理される》(五十嵐太郎[2004])事態が生じる。それだけでなく、例えば神奈川県の松沢成文知事や横浜市の中田宏市長が主張するように、少年の「問題行動」に関して「親の責任」を問うような条例の横行など、現在の青少年を「監視されるべき存在」として扱うべき、という言説が横行している。

 これと歩調を合わせているのが「心の闇」騒動である、といってもいいだろう。重松氏がこの騒動に関して《子どもの心は本来おとながすべて見通せるはずのものだ、という「見ること」の傲慢さ》(重松清[2004])を嫌っているが、結局のところこのような言説の横行は、青少年の「心」が統制されるべき、という考えの延長上にある。そして、日本大学教授の森昭雄氏が盛んに唱えている「ゲーム脳」理論や、京都大学霊長類研究所教授の正高信男氏の擬似「ワーキングメモリー」仮説など、まさに「ポスト「心の闇」」というべき言説に関しては、もはや青少年はそれだけで「異常」を抱えている存在として見なされるという、監視化のさらに先鋭化した形のものと言わざるを得ない。

 このような状況を冷静につかめぬまま、樽谷氏の如き恐ろしく牧歌的(そして自分の「理解できない」ものばかりを凶悪犯罪の「原因」と祭り上げてしまうように陰謀論的)な言説ばかりが横行する状況を危惧する(ただし、社会学者の北田暁大氏がウェブ上で指摘するとおり、少なくとも月刊誌の世界では冷静な意見が目立った)。しかし、このような暴論に類似した議論は、この種の事件が起こるたびに絶えず噴出する。次回も、この問題に付き合うことにしよう。

 参考文献・資料
 五十嵐太郎[2004]
 五十嵐太郎『過防備都市』中公新書ラクレ、2004年7月
 重松清[2004]
 重松清「少女と親が直面した「見えない受験」という闇」=「AERA」2004年7月19日号、朝日新聞社
 樽谷賢二[2004]
 樽谷賢二「文科省推進「小学生パソコン教育」の惨状」=「新潮45」2004年8月号、新潮社
 宮崎哲弥、藤井誠二、渋井哲也[2004]
 宮崎哲弥、藤井誠二、渋井哲也「大人の想像を超えた「戦争状態」」=「中央公論」2004年8月号、中央公論新社

 斎藤環『「負けた」教の信者たち』中公新書ラクレ、2005年4月
 数土直紀『自由という服従』光文社新書、2005年1月
 中西新太郎『若者たちに何が起こっているか』花伝社、2004年7月
 山本七平『日本はなぜ敗れるのか』角川Oneテーマ21、2004年3月

 齋藤純一「都市空間の再編と公共性」=植田和弘、神野直彦、西村幸夫、間宮陽介(編)『(岩波講座・都市の再生を考える・1)都市とは何か』岩波書店、2005年3月
 内藤朝雄「「友だち」の地獄」=「世界」2004年12月号、岩波書店

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