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2005年5月 9日 (月)

俗流若者論ケースファイル24・小林節

 改憲派の弁護士として有名な慶応義塾大学教授の小林節氏は、憲法というものが本来は権力に歯止めをかけるために存在している、という立憲主義的な立場を熟知しており(小林節[2005a])、憲法に関してはかなり信頼できる言論人だと思う。しかし、小林氏が福井県の地方紙である日本海新聞に寄稿した文章「児童ポルノ処罰法の欠陥」(平成17年3月22日掲載)は、法律論と単純な道徳論が混在した、奇妙な文章であった(ちなみにこの文章は、我が国における表現規制の動きを監視するブログ「kitanoのアレ」経由で知った)。

 小林氏は、児童ポルノに対する処罰の正当性に関してこう述べる。曰く、《人類の種の存続が成人男女の性交により保たれているという厳然たる事実は否定できないが、同時に、未熟な青少年に対する性交等が青少年の健全な成長ひいては社会の存廃を害することも事実で、そういう意味で、児童ポルノを処罰することは正当である》(小林節[2005b]、以下、断りがないなら同様)と。このような論証立てが許されるようであれば、あらゆるもの(というよりも、特にマスコミによって「有害」と称されているもの)に対する規制が正当化されてしまう。特に、《未熟な青少年に対する性交等が青少年の健全な成長ひいては社会の存廃を害することも事実》というのが法律論から乖離した単純な道徳論であることに、なぜ小林氏は気づかないのだろうか。

 また、小林氏は、児童ポルノ処罰法に関してこのように感想を述べている。曰く、《しかし、不思議なことに、同法では、人が自分で鑑賞する目的で児童ポルノを所持することが処罰対象に入ってはいない。つまり、この法律の下では、児童ポルノは上述のように「禁制品」のようで実は禁制品ではない》と。小林氏は《人が自分で鑑賞する目的で児童ポルノを所持することが処罰対象に入ってはいない》と嘆くけれども、それをなぜ規制する必要があるのだろうか。児童ポルノの単純規制を処罰することに対して正統性を付けるためには、児童ポルノ「そのもの」が何らかの犯罪であることを立証しなければならないはずであるし、もし「児童ポルノに影響された人が犯罪に走る」ということを小林氏が考えているとすれば、そのような考え方は予防拘禁につかがる考え方であり、非常に危険である。また、数億歩譲っても、児童ポルノを所持している「だけ」の人が社会に及ぼす悪影響が、児童ポルノを所持していない人に比べて大きいことをまず証明しなければならないはずだが。

 また、児童ポルノ規制は「表現の自由」に違反するのではないか、という疑問に関して、小林氏はこう述べている。曰く、《成人を対象とするポルノ(で、わいせつの基準=限界に触れていないもの)を製造し、それを成人に流通させることは、憲法上、表現の自由として保障されており、その限りで成人のポルノは禁制品ではないし、それはそれで良い。しかし、児童ポルノは、その本質に照らして、そもそもこの世に存在してはならない、そういう意味において、紛れもなく「禁制品」ではなかろうか》と。《本質》とはなんなのだろうか。そして、《この世に存在してはならない》というのは、いかなる理由でそういっているのだろうか、さらには、誰がそう決めたのだろうか。マスコミか?小林氏か?それとも別の何かか?

 そして小林氏はこう締めくくる。曰く、《児童ポルノに関しては、自分で鑑賞する目的で私蔵することも禁止しなければ、それを密造・密売するビジネスはなくならないはずである。青少年の保護は他のすべてに優先する公益の一つである》と。しかし、《青少年の保護》といっても、児童ポルノに対する規制以前にやるべきことはたくさんある(例えば、「ひきこもり」の人々に対する社会的支援だとか、あるいは児童虐待の防止とか)はずであるし、児童ポルノに対する単純所持規制は、青少年問題の解決に対して寄与する効果は極めて少ないだろう。しかも、小林氏は《児童ポルノに関しては、自分で鑑賞する目的で私蔵することも禁止しなければ、それを密造・密売するビジネスはなくならないはずである》と述べているけれども、これは児童ポルノを所持している人に対する差別ではなかろうか。

 結局のところ、小林氏のこの文章は、児童ポルノに対する誤解や敵愾心により、法律論とは乖離した道徳論ばかりが開陳された文章になってしまっているのである。児童ポルノと犯罪に関する実証的なデータがないにもかかわらず、このように児童ポルノを最初から「敵」として規定してしまう文章は、特に慎重な議論が必要な児童ポルノに関わる問題では、あってはならないものではないか。

 また、我が国においては、児童買春と児童ポルノが法律によって同列に並べられているけれども、そもそもそのような状況にこそ疑念を呈するべきである。というのも、児童買春は「行為」であり、児童ポルノは「記録」であるため、それらの本質は根本的に異なるものである。さらに、児童ポルノが青少年に及ぼす影響というのもいまだに不明であるが、何のデータもないままに児童ポルノが青少年に「有害」であると規定するのは憲法の定める表現の自由に抵触する恐れもあるし、数万歩譲ってそのようなデータが出たとしても、さまざまな因果関係を考慮して多角的に調査を行うべきである。さらに、(私は断固としてあらゆる「有害」メディアに対する規制に反対する立場なのでこのような仮定は避けたいのだが)実際に規制するとしても、どのような内容の児童ポルノを規制するのか、というのも厳格に定めるべきであるし、その規制の範囲が浪花節だけで決められてしまうと、権力の暴走を食い止めることができなくなってしまう。また、児童ポルノ映像を作成する過程で何らかの暴力行為が認められた場合でも、それは特別立法などなくとも刑法で処罰できるはずだろう。

 我が国において、「青少年」はもはや一つのイデオロギーと化している。そして、その「青少年」を毒する、と考えられているものが、ゲームであり、インターネットであり、携帯電話であり、そして、ここで取り上げた児童ポルノなどの「有害」メディアである。そして、青少年「対策」は、それらの「闇」から子供たちを引きずり出せ、というものになる。しかし、何か一つを「敵」としてつるし上げる論理は、結局のところそれらの「敵」に立ち向かっている自分というものに浸ることしか生み出さないのではないか、と思えてならない。

 必要なのは、青少年の脱イデオロギー化である。

 参考文献・資料
 小林節[2005a]
 小林節「タカ派改憲論者はなぜ自説を変えたのか?」=「現代」2005年2月号、講談社
 小林節[2005b]
 小林節「児童ポルノ処罰法の欠陥」=2005年3月22日付日本海新聞

 プロジェクトタイムマシン『萌える法律読本 ディジタル時代の法律篇』毎日コミュニケーションズ、2004年7月
 斎藤環『「負けた」教の信者たち』中公新書ラクレ、2005年4月
 橋本健午『有害図書と青少年問題』明石書店、2002年12月

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コメント

うーん。
もう少し文章短くなりませんか。
拝見する限り、”氏はこうであるという、だがこれはこうではないのか”の繰り返しであまり面白くないです。所々おかしいところにケチつけにくいですし。
これだけ長いのなら、あなたの自論を一気に述べたほうが良いものになると思うのですが如何でしょう。

投稿: Sol.jp | 2005年5月 9日 (月) 06時15分

児童ポルノの話をする際には、最低限その人が「なにを児童ポルノとして考えるのか」の定義をしてほしいですよね。

1、実在の児童がセックスをしている写真・ビデオ
2、実在の子供の顔などをセックスしている写真・ビデオに合成したもの
3、親などが、子供が全裸で水浴びをしているのを撮影した写真・ビデオ
4、実在の子供をモデルにしたセックスシーンのあるマンガ・ゲーム
5、実在でない供をモデルにしたセックスシーンのあるマンガ・ゲーム

 最低限、児童ポルノを論じる当人が、これらのどれを児童ポルノとして考えるのかを提示してもらわないと、論として成立しないと考えます。
 ちなみに私は1、3、4が児童ポルノであると考えます。実在の被害者がいることが最低限の要件です。
ただし、3については、親や親しい間柄以外に流出した場合は、これを児童ポルノとして考えてもいいと思います。

投稿: 東天王ヨブ | 2005年5月 9日 (月) 17時36分

児童ポルノの話をする際には、最低限その人が「なにを児童ポルノとして考えるのか」の定義をしてほしいですよね。

1、実在の児童がセックスをしている写真・ビデオ
2、実在の子供の顔などをセックスしている写真・ビデオに合成したもの
3、親などが、子供が全裸で水浴びをしているのを撮影した写真・ビデオ
4、実在の子供をモデルにしたセックスシーンのあるマンガ・ゲーム
5、実在でない供をモデルにしたセックスシーンのあるマンガ・ゲーム

 最低限、児童ポルノを論じる当人が、これらのどれを児童ポルノとして考えるのかを提示してもらわないと、論として成立しないと考えます。
 ちなみに私は1、3、4が児童ポルノであると考えます。実在の被害者がいることが最低限の要件です。
ただし、3については、親や親しい間柄以外に流出した場合は、これを児童ポルノとして考えてもいいと思います。

投稿: 東天王ヨブ | 2005年5月 9日 (月) 17時36分

なんか、二重投稿になってしまいました。
すみません。

投稿: 東天王ヨブ | 2005年5月 9日 (月) 17時38分

はじめまして。田中と申します。
世の中に「オタク」や「若者」を悪者とする言説がはびこっているのはうすうす感じていましたが、これほどまでに論者が多いとは思いませんでした。
学者たちの便利なツールとしての「若者論」は、これからも拡大されていくのではないでしょうか?

投稿: 田中大也 | 2005年5月20日 (金) 03時42分

いまさらですが、日本海新聞など聞いたことありませんよ^^ああ、当方は福井県あわら市在住です。福井県内に流通している地方新聞としては福井新聞と日刊県民福井くらいしか知りません。日本海は富山だったような気がします。

投稿: 西大路 | 2010年1月17日 (日) 21時36分

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