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2005年5月 7日 (土)

俗流若者論ケースファイル22・粟野仁雄

 前回の続きで、昨年6月に起こった佐世保の同級生刺殺事件を採り上げよう。ここで急いで付け加えておくが、社会学者の北田暁大氏がウェブ上で指摘している通り、この事件に関する各種総合月刊誌の反応は、比較的冷静であった。この事件に関して古典的(というか、道徳的)なメディア・リテラシー論や教育論を前面に押し出していたのは少なく、北田氏によれば「潮」と「月刊現代」くらいであった(「諸君!」ですら結構興味深い文章を書いていた。「麹町電網観測所」なる醜悪な連載はいつもどおりだったが。ちなみにこれらは北田氏は採り上げていない)。ただし、前回採り上げた「新潮45」の、小学校教諭の樽谷賢二氏の文章は、北田氏はノーマークであったが、間違いなくこの類に入る。

 また、私がこの事件に関する論評でもっとも評価したいのは、これも北田氏が見落としていた(というより、この事件に関する論評として見なしていなかった?)ものであるが、精神科医のなだいなだ氏が「論座」平成16年8月号に寄せた「役人の子ども観」であった。この文章において、なだ氏はこう述べている。

 子どもの事件だと、すぐにこういう談話(筆者注:この文章の直前の段落にある《「学校では人を傷つけてはならないとか、命を大切にする教育を進めている。学校関係者は教育の原点に立ち返って考えてほしい」という文部科学相の談話》)を発表する。だが、大人の殺人事件の時はどうなのだ。何もいわない。ここに文部科学省官僚の官僚の子ども観が表れている。もちろん自分でそれが偏見とは思っていないだろう。だが、かれらは、子どもを、大人と同じ人間だとは見ていない。(なだいなだ[2004])

 特に《かれらは、子どもを、大人と同じ人間だとは見ていない》(前掲)というのは言い得て妙であるが、このような考え方をしているのは、官僚だけでなく、一部の自称「識者」もそうであろう。そして、このような「線引き」を可能にしたのが、間違いなくインターネットだとかゲームだとか映画だとかいった「「有害」社会環境」であった。彼らは、このような凄惨な事件が起こったら、現実には少年による凶悪犯罪が減少しているのを無視して「自分たちの世代はこのような事件など起こさなかった」と飛躍して考え、青少年に特有の「病理」を追求するという名目で「「有害」社会環境」の悪影響と、それに対する規制論を堂々と唱え、それらを撲滅すればこのような犯罪は防げる、と妄想を語る。

 このような考えは、何も考えていないのと同様であり、さらにはレイシズムの論理によって裏付けられているのは明白であろう。

 このような考えを念頭において、今回検証するのは、ジャーナリストの粟野仁雄氏による「「ネット」の闇」である。この文章は「潮」平成16年8月号に掲載されていて、北田氏も《こういう論が少なかったのがけっこう意外だった》(北田氏のブログより)と言っている通り、この事件においては意外と「少数派」であった道徳論に終始している。それにしても、この立場に立つ人というものは、「闇」という言葉が好きであることよ。

 閑話休題、粟野氏の文章の検証に入る。粟野氏は146ページにおいて、この事件における犯人の弁護人の談話を引く。弁護人曰く、《『バトル・ロワイヤル』……について聞いたが答えない。そういうところは口が堅くなる》(粟野仁雄[2004]、以下、断りがないなら同様)と。この『バトル・ロワイヤル』は、この犯人が事件の前に見ていたとされるものだけれども、どうしてこの弁護人はわざわざこれを引き合いに出し、さらに粟野氏もその不自然さを問い詰めないのだろうか。しかも、この弁護人は《答えない。そういうところは口が堅くなる》と言っているけれども、本当にそうであれば、この『バトル・ロワイヤル』に関してこの犯人が特に執着心を抱いてはいない、ということの証左にもなるのではないか?

 案の定、粟野氏もインターネット有害論に走る。私が笑ってしまったのは、147ページ、長崎大学の宮崎正明教授(ところで、粟野氏はこの教授が何を専攻しているか、ということを明記していないのだが、それでいいのだろうか)の言葉を引いたくだりである。宮崎氏の指摘は、はじめのほうはいいものの、後半、すなわち147ページ2段目の中ごろから事実誤認と牽強付会が目立つ。例えば、147ページの3段目において、《犬や猫を攻撃するような少年も、そうした場面をフィルムとか、漫画とかで模倣学習していた子のほうが、そうでない子よりも残虐になれることが証明されている。『バトル・ロワイヤル』などのリアルな部分をバーチュアルに、混沌と取り込み、仮想現実で残虐性が増した。先天的でなく、獲得的な異常性格では》と恬然と述べている。嗤うべし。宮崎氏の引き合いに出している研究では、その逆因果が証明されているのだろうか。すなわち、「元々残酷な性格を持っている→残酷な作品にはまる」というものである。また、この研究においては、どのような事柄でもって《残酷になれる》ということの基準になっているかもわからないし、いかなる条件で実験されたものであるかどうかもわからない。

 同じ段において宮崎氏曰く、《文科省も、コンピュータを小、中学校にとりいれたが、道徳心とか、健康な心を子供の頃から育むことをしないと大変です》と。道徳心が大切なのは宮崎氏のほうだろう。そもそも《道徳心》だとか《健康な心》だとかいった美辞麗句は、至極曖昧なものであるし、しかもそれらのような物言いは、自意識と深く結びついており、結局のところ今の「善良な」自分を肯定する者にしかなりえない。要するに、結局のところ宮崎氏のような考え方を持った人にとっての「癒し」にしかなり得ないのである。それにしても、宮崎氏は《道徳心》だとか《健康な心》を涵養するために、何をするのだろう。今流行りの「心の教育」か?

 しかも宮崎氏は、148ページ1段目においてさらに飛躍してしまう。曰く、《文章もほとんど模倣。こうしたものは、服装などと同様、ティーンの間ではファッションでしかない。これらに染まるうち、観念的で現実感のない人間になる。深く考える必要のないアニメやゲームが影響しているのは、昨年の長崎の男児の事件と同様です》と。そこまでくるか!もし、宮崎氏の物言いが正しいのであれば、渋谷だろうが秋葉原だろうが、特定の属性の人が集まる場所における若年はおしなべて《観念的で現実感のない人間》になり、《昨年の長崎の男児の事件》と同様、殺人事件をしでかしてしまうだろう。大谷昭宏氏の「フィギュア萌え族」概念も、この意味において肯定されてしまうし、俗流若者論が得意とする渋谷への疎外言説も、もちろん裏付けられる。しかも、《昨年の長崎の男児の事件》の犯人が、どれほど《深く考える必要のないアニメやゲームが影響している》のか、宮崎氏は判断したのだろうか。深く考えていないのは宮崎氏であり、それを追及しない粟野氏もジャーナリストとして失格ではないか。

 しかし、粟野氏が宮崎氏の暴論を批判しないのは、もちろん理由がある。それは、粟野氏が、宮崎氏と同じ考えを持っているからである。事実、粟野氏は、最後の3段落(149ページ2段目から3段目)において、このような空論を堂々と述べている。曰く、

 事件が、一つの要因では説明できないが、メールやCHATなどの「新型コミュニケーション」が大きく影響している。文科省は小学生にホームページの作り方などを導入するという。そんな必要はない。コンピューターメーカーの思惑の代弁にしか見えない。

 そんな暇があったら、もっともっと体当たり教育をすべきだ。週休二日で、教師と生徒の接触時間は激減しているのだ。メールやCHATなどは、裸の人間付き合いを十分体験した上で「道具」として使うならいいが、子供の場合、画面が人間関係のすべて、と思い込むことが怖い。筆者の愚息は、パソコンはおろか、ゲーム、ファミコン、携帯も持っていないし、ほとんど扱えない稀少なる中学三年だ。「そんな暇あったら外で友達と遊べ」と言い続けた。

 日本中の教育者や親は今こそ、ビデオやテレビ、パソコンなどに依存せずに子供と裸の付き合い、体当たり教育を本当にしているのか、問い直してほしい。

 呆れてものも言えない。勝手にほざいているがいい。このような根拠なき空論、そして「私語り」が、いかに現実の家庭を囲い込むものであるか、粟野氏にはそのような想像力はないのか。

 この粟野氏の暴論は、《一つの要因では説明できないが、メールやCHATなどの「新型コミュニケーション」》に対する敵愾心が《大きく影響している》。粟野氏はテレビやゲームを排した《裸の人間付き合い》を導入せよという。《そんな必要はない》。俗流若者論を垂れ流す「大本営発表」マスコミの《思惑の代弁にしか見えない》。

 《そんな暇があったら、もっともっと》子供たちの現実を見据えるべきだ。俗流若者論的な認識で、粟野氏の思考の活性度は《激減しているのだ》。《メールやCHATなど》に対する敵対的言説は、それに関する実証的な言説を《十分》踏まえた上で《使うならいいが》、俗流若者論の場合、報道が若年層の《すべて、と思い込むことが怖い》。私は、「ゲーム脳」は《おろか》、「ケータイを持ったサル」、「フィギュア萌え族」も真に受けないし、それらをほとんど知り尽くした《稀少なる》大学三年だ(そうかな?)。これらの議論を振りかざす人たちには、「《そんな暇あったら》少年による凶悪犯罪が減っていることぐらい知っておけ」と《言い続けてきた》。

 《日本中の》マスコミやマスコミに頻繁に露出する自称「識者」は《今こそ》、安易なアナロジーや悪影響論に《依存せずに》子供を《裸の付き合い》の精神でもって彼らの現実を直視しているのか、《問い直してほしい》。

 参考文献・資料
 粟野仁雄[2004]
 粟野仁雄「「ネット」の闇」=「潮」2004年8月号、潮出版社
 なだいなだ[2004]
 なだいなだ「役人の子ども観」=「論座」2004年8月号、朝日新聞社

 斎藤環『ひきこもり文化論』紀伊國屋書店、2003年12月
 広田照幸『教育言説の歴史社会学』名古屋大学出版会、2001年1月

 内藤朝雄「「友だち」の地獄」=「世界」2004年12月号、岩波書店

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