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2005年5月 5日 (木)

俗流若者論ケースファイル21・樽谷賢二

 ちょっと時期はずれな気もするが、今回は平成16年6月に起こった長崎県佐世保市の女子児童殺傷事件を採り上げる。どうもこの事件に関する「分析」の大半が、この事件における犯人がインターネット上のチャットでの書き込みが癪に障ったので犯行に及んだ、という経緯があるせいなのか、「今時の若者」はインターネットなどといったヴァーチャルな空間でばかり存在できず、それで想像力が失われてこのような残忍な事件を起こした、というものであった。

 そうだろうか。現実には、この事件における犯人と被害者は、事件前からかなり仲のいい関係だった、ということが事実として報じられている。しかし、やはりこのような情報の主たる受け手である「善良な」人たちにとって「理解できない」ものであるインターネットを「原因」として祭り上げたいという動機があってか、このような背景を無視した単なる「分析」ばかりが横行していた。しかし、このように、例えば「インターネット」などを槍玉に上げる理論は、単なる責任の押し付けの理論に過ぎず、単に偏見を生み出すだけに過ぎない。想像力が足りないのはどちらのほうだろうか。ちなみに、良心的な人ほど、この事件の犯人と被害者における「関係性」の苦しさを問題にしていた。

 今回採り上げるのは、大阪府堺市立深井小学校教諭の樽谷賢二氏が新潮社の発行する月刊誌「新潮45」平成16年8月号に掲載した文章「文科省推進「小学生パソコン教育」の惨状」である。樽谷氏のこの事件に対するスタンスは、《コンピュータだけが少女を殺人に駆り立てたと思っているわけではない。小学校高学年の児童の交友関係は把握しにくいものだ》(樽谷賢二[2004]、以下、断りがないなら同様)としながらも、《しかしコンピュータがなかったらあれほどの惨劇は起こらなかったことは断言できる》というものであった。確かにこのような分析は外れてはいないのだけれども、この事件に対して深く触れるようになる文章の最後のほうで、なぜか前者のほうは完全に忘れ去ってしまうのである。

 樽谷氏は、235ページにおいて《今改めて小学校の〈情報教育〉が問い直されている》と書いている。しかしながら、このような問題提起は、問題の本質から逆に遠ざけてしまう者に過ぎない。これについては、最後のほうで詳しく述べることにして、今は樽谷氏の言説の分析に集中しよう。

 樽谷氏の文章における問題点が本格的に表出するのは237ページからである。例えば樽谷氏は237ページの最後から238ページにかけて、

 私は今小学4年生を担任しているが、授業に退屈していると、女子児童は小さなメモの紙に遊ぶ約束の話や、時には自分たちの共通の趣味に関する話を書いてこっそりまわしていることがある。発見すると「こらっ、授業中にメール(メモのこと)を送るな!!」と注意をして取り上げるのだが、少々きつく注意してもあまり悪びれる様子のないのが今の子供達である。休み時間にでも話せばすむことなのに、メールにするのは教師の目を盗むスリルと同時に、直接顔が見えない世界だけに表現しやすいのだろう。Eメールの予備軍である。

 と書いているが、腐臭が漂っている。第一に、樽谷氏は《授業に退屈していると、女子児童は小さなメモの紙に遊ぶ約束の話や、時には自分たちの共通の趣味に関する話を書いてこっそりまわしていることがある》という事態に対して《「こらっ、授業中にメールを送るな!!」》と注意しているようだけど、どうしてメモを《メール》として表現する必要があるのだろうか。「メモ」でいいのではないか。もっとも、この点に関して検証するのは枝葉末節を突くようなものであり、ただ私が気になったのでちょっと採り上げた。

 それでも問題のある記述は、この段落だけを見ても多々ある。例えば樽谷氏は《少々きつく注意してもあまり悪びれる様子のないのが今の子供達である》などと断定しているけれども、それなら過去との比較を行なっていただきたい。そもそも、授業中に児童(特に女子児童)が教師に隠れてメモを渡す、ということは過去にもあった。樽谷氏は《少々きつく注意してもあまり悪びれる様子のない》というところを問題視しているのだろうが、そのような児童が最近になって表れたということを少しは証拠立てしていただけないものか。しかも《直接顔が見えない世界だけに表現しやすいのだろう》などと樽谷氏は書いているけれども、樽谷氏のクラスの児童は首すら回せないのだろうか。というのは冗談であるが、少なくとも《直接顔が見えない世界》が構成されるのは極めて短い時間で、これは樽谷氏が結局のところ《Eメールの予備軍である》と強引にメールの「闇」に結び付けたいがための論理立てではないか、と疑わざるを得ない。

 樽谷氏の論理はさらに混乱を極める。樽谷氏は、237ページにおいて《私の友人で、大阪府でもコンピュータ指導の第一人者の教師が、彼の学校の6年生児童全員を対象にインターネットに関する調査を行った》ことの結果を274ページで公開し、同じページで再び触れているけれども、ここではサンプル数が明示されていない。統計調査を引用するのであれば、まずその調査が信頼に足るものであるかどうかを検証するために、サンプル数ぐらいは公開しておいたほうがいいだろう。しかし樽谷氏は、この統計データからさらに恣意的に《彼(筆者注:件の大阪府の教師のことだろう)も言っていたことであるが、顔を見せずにすむし、氏素性も隠せるのだから、無責任なことの書き放題である》と「分析」してしまう。《無責任なことの書き放題》というのは、むしろ樽谷氏ではないか?ついでに、この調査において、掲示板に書き込みをしているか否か、という質問に対してイエスと答えたのはたったの3%だった。

 そして239ページ。この文章の最後にあたるのだが、このページは、もう全部が論理飛躍や暴走といってもいいくらいである。例えば樽谷氏はこのページの冒頭において、《本来人と人とのコミュニケーションとは……》と語っているのだが、結局のところ単なる感情的なインターネット批判に終始しているのはどういうことか。特に1段目から2段目にかけてのこの段落に関しては笑ってしまった。曰く、

 仮定のことをいっても仕方のないことであるが、佐世保の同級生殺害事件の加害児童が、メールではなく直接顔を見て表情や息吹を伴った会話をしていれば、いくら喧嘩になったとしても、殺人という最悪の結果にはならなかっただろう。

 と。嗤うべし。《メールではなく直接顔を見て表情や息吹を伴った会話をしていれば》などと樽谷氏は言っているけれども、この事件における加害者と被害者はしょっちゅう《直接顔を見て表情や息吹を伴った会話》をしていたのだが、樽谷氏はそれを忘れているようだ。しかも、このような論証立て自体、本当に人間関係に苦しんでいる人を囲い込むことにしかならない。第一、《直接顔を見て表情や息吹を伴った会話》でこのような事件が防げると考えるのは、あまりにも甘い考え方としか言いようがない。

 しかも、樽谷氏はその点に気づいていないらしく、239ページ2段目から3段目にかけて、このような妄想をぶちまけてしまう。

 10年くらい前から、公立小中学校が〈学校開放〉の名のもとに、すっかり市民社会化してしまった。世間で起きている凶悪事件が、そのまま学校へ持ち込まれてしまった。大きな事件としては、黒磯市での中学生による教師の視察、大阪教育大池田小での青年による児童殺傷、長崎での中学生によるビルからの小児突き落とし殺人、ごく最近では新潟の学校への包丁を持ち込んだ小学生による傷害事件。ここまでセンセーショナルにはならなくても、学校現場での凶悪事件と紙一重の事例を私もいくつか見てきたし、教師仲間が集まれば物騒な話題には事欠かない。  パソコンや、携帯電話がここまで普及し、事件に一役かうようになってしまった現代社会では、佐世保のような事件を防止できないことを肝に銘じるべきである。文部科学省の推進する〈情報教育〉=コンピュータ遊びなどは屁のツッパリにもならない。

 大いに嗤うべし。事実誤認、論理飛躍、論理の混乱、とにかくたくさんの問題点がここから検出できる。第一に、《世間で起きている凶悪事件が、そのまま学校へ持ち込まれてしまった》と樽谷氏は言っているけれども、少なくとも《長崎での中学生によるビルからの小児突き落とし殺人》は学校の中で起こったものではない。また、《大阪教育大池田小での青年による児童殺傷》と書いているが、この事件の犯人は当時37歳だった。どこが《青年》だろうか。しかも、このように過去との比較もなく、簡単に現在の事件を嘆いてしまうというのは、教師としてあるまじき行為ではないか。このような論証立てには、過去の事例に関する「想い出の美化」のような現象が関わっているとも言えるだろう。

 しかも《パソコンや、携帯電話がここまで普及し、事件に一役かうようになってしまった》と言っているのだが、本当にそうなのか、検証立てが必要であろう。確かに、佐世保の事件に関してはそういいきることもできなくもない(というより、できる)のだけれども、他の事件に関しても、無理やりそのような図式に当てはめるのは酷であろう。しかも、このような不安言説の垂れ流しが、さらに人々を不安に陥れる、ということに、樽谷氏は終始無頓着であった。もう一つ言うけれども、前の段落においては《学校開放》が凶悪事件の増加の「原因」としていたのに対し、後ろの段落においてはパソコンや携帯電話の普及がその「原因」と子弟いるのは、矛盾ではないか。

 インターネット叩きで佐世保の殺人事件のような事件が減らせるのであれば、どんどんやるがいい。しかし、現実には、そのような行為で減らせるというのは単なる幻想に過ぎないだろう。

 また、このような論証立てには、事件を起こした犯人どころか、現在の子供世代が自分とは違う「人種」であるという(森昭雄や正高信男や大谷昭宏などの過剰なる線引きに代表されるような)考え方に即しているのではないか。

 なんだか、インターネットに対する批判が自己目的化し、「インターネットに毒された「今時の若者」」を批判することによって社会に警鐘を鳴らしている自分を表出することによって満足感を得ているような文章に、樽谷氏のこの文章がなっているような気がしてならない。

 今回の事件では、明らかに直接顔の見える関係性の中で起こった事件である。その点を見過ごしてはいけないのではないか。この事件の直後に行なわれた、評論家の宮崎哲弥氏と、ライターの藤井誠二氏、そしてライターの渋井哲也氏の座談会において、藤井氏が《あるシンクタンクが15歳以下の男女を対象に》(宮崎哲弥、藤井誠二、渋井哲也[2004]、この段落に関しては断りがないなら全てここからの引用)行なった《ネットについての意識調査》を引いて(とはいえ、ここでもサンプル数が明示されていないので、その信憑性に関しては疑う必要があるが)《われわれが普通考えるネット利用時の怒りというと、相手の顔が見えない関係を思い浮かべますが、この調査結果を見ると碇を感じているのは、佐世保の事件同様、顔の見える関係のある人に対してなんです》と述べて、それを受けて渋井氏が《小学校では、ネット利用時に知らない人には気をつけようと教えるので、どうしても知っている人同士のコミュニケーションばかりになる。知らない相手なら、嫌なら無視したり、受信拒否したりすればいいけど、知っている人だったら簡単に切るわけにもいかないですから》と述べたことに関して、宮崎氏は《ヴァーチャルな経験が増えて生の体験が不足したのが問題だ》という言説を《戯言》と退けて、藤井氏と渋井氏の意見をまとめる形で《問題の本質は、生の体験とヴァーチャルな経験の境界がなくなり、両者が本質的に等価であるという認識が定着しつつあるということです》と指摘している。

 宮崎氏はこの座談会において「学校世間」という語句を使っているけれども、そこからの逸脱を許さないような不文律がこのような事件を引き起こした、という背景も無視できないだろう。しかし、もう一つ付け加えておく必要がある。この事件に関して、私も何度も引用している作家の重松清氏による報告に書いてある通り、この犯人が公立の中高一貫校の受験に際して、本人の意思に反してクラブ活動をやめさせられた、ということが事件へのトリガーになっている、という側面もある(重松清[2004])。この2つのキーワードを重ね合わせると、見えてくる一つの言葉は「管理化」である。

 要するに、「友達」関係による横の管理と、「親」による縦の管理が犯人を精神的に追いつめた、ということである。とりわけ「友達」による横の管理は、携帯電話によってさらに加速されるのは否めないだろう。それだけでなく、例えば中部大学助教授(当時。現在は東北大学助教授)の五十嵐太郎氏が指摘するとおり、GPS携帯電話(人工衛星による位置情報確認システムを搭載した携帯電話)が「防犯」のためと称して親が子供たちに持たせることにより、《物理的な拘束のメカニズムではなく、絶えず接続されたコミュニケーションによって、われわれは管理される》(五十嵐太郎[2004])事態が生じる。それだけでなく、例えば神奈川県の松沢成文知事や横浜市の中田宏市長が主張するように、少年の「問題行動」に関して「親の責任」を問うような条例の横行など、現在の青少年を「監視されるべき存在」として扱うべき、という言説が横行している。

 これと歩調を合わせているのが「心の闇」騒動である、といってもいいだろう。重松氏がこの騒動に関して《子どもの心は本来おとながすべて見通せるはずのものだ、という「見ること」の傲慢さ》(重松清[2004])を嫌っているが、結局のところこのような言説の横行は、青少年の「心」が統制されるべき、という考えの延長上にある。そして、日本大学教授の森昭雄氏が盛んに唱えている「ゲーム脳」理論や、京都大学霊長類研究所教授の正高信男氏の擬似「ワーキングメモリー」仮説など、まさに「ポスト「心の闇」」というべき言説に関しては、もはや青少年はそれだけで「異常」を抱えている存在として見なされるという、監視化のさらに先鋭化した形のものと言わざるを得ない。

 このような状況を冷静につかめぬまま、樽谷氏の如き恐ろしく牧歌的(そして自分の「理解できない」ものばかりを凶悪犯罪の「原因」と祭り上げてしまうように陰謀論的)な言説ばかりが横行する状況を危惧する(ただし、社会学者の北田暁大氏がウェブ上で指摘するとおり、少なくとも月刊誌の世界では冷静な意見が目立った)。しかし、このような暴論に類似した議論は、この種の事件が起こるたびに絶えず噴出する。次回も、この問題に付き合うことにしよう。

 参考文献・資料
 五十嵐太郎[2004]
 五十嵐太郎『過防備都市』中公新書ラクレ、2004年7月
 重松清[2004]
 重松清「少女と親が直面した「見えない受験」という闇」=「AERA」2004年7月19日号、朝日新聞社
 樽谷賢二[2004]
 樽谷賢二「文科省推進「小学生パソコン教育」の惨状」=「新潮45」2004年8月号、新潮社
 宮崎哲弥、藤井誠二、渋井哲也[2004]
 宮崎哲弥、藤井誠二、渋井哲也「大人の想像を超えた「戦争状態」」=「中央公論」2004年8月号、中央公論新社

 斎藤環『「負けた」教の信者たち』中公新書ラクレ、2005年4月
 数土直紀『自由という服従』光文社新書、2005年1月
 中西新太郎『若者たちに何が起こっているか』花伝社、2004年7月
 山本七平『日本はなぜ敗れるのか』角川Oneテーマ21、2004年3月

 齋藤純一「都市空間の再編と公共性」=植田和弘、神野直彦、西村幸夫、間宮陽介(編)『(岩波講座・都市の再生を考える・1)都市とは何か』岩波書店、2005年3月
 内藤朝雄「「友だち」の地獄」=「世界」2004年12月号、岩波書店

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コメント

TBありがとうございます。
あなたの熱心なデタラメ若者論批判には敬意を表します。
本当に次から次へと、若者(または子ども)をめぐる政策とそれを支える言論は、根拠がなく、強引で、不安増幅ゲ-ムのようになっていますね。
わたしはあなたほど詳しく批判する余裕がありませんが、根本となる哲学・思想の面から、若者を「害獣」扱いする議論と政策に反抗してゆきます。(この害獣という言葉も人間中心のものとの批判もあるのですが。)
お互いに、できることをやっていきましょう。

投稿: ぱれいしあ | 2005年5月 7日 (土) 20時22分

平成17年は今年っす。

投稿: SlowBird | 2005年5月14日 (土) 00時33分

>樽谷氏は《少々きつく注意してもあまり悪びれる様子のないのが今の子供達である》などと断定しているけれども、それなら過去との比較を行なっていただきたい。そもそも、授業中に児童(特に女子児童)が教師に隠れてメモを渡す、ということは過去にもあった。

過去にもあったが、悪びれることなく、厚かましい生徒が増えたのは実感としてある。教師の権威が、文部科学省のおかしな方針でなくなっている。柳美里著「仮面の国」(新潮社)をお読みいただくことを、お勧めする。
少なくとも樽谷賢二氏の文体には、過激なところも見受けられるが、現場教師の感じることが端的に表現されている。後藤氏が事実を正確に検証しようとすることについては、理解できる。しかし、後藤氏の意見には現場の感覚は抜け落ちている。
確かにメールだけが、凶悪事件の全ての原因ではない。しかし、様々な事件や問題行動の一つの起因になっていることは間違いなく事実であり、樽谷氏の視点こそ、現代の学校の病体を端的に示していると言って間違いがない。
確かに、児童の心の全てまでを管理することはできない。ただ、基本的に児童というのは、学校の管理下におかれることが正しいのであって、そうでなければ色々な弊害が出てくるのは現代の日本の学校や、1970年代の米国の学校が示している現実なのである。
管理=悪という考えこそ、現代の教育の崩壊の元凶であることは、既に米国において認められており、精神科医和田秀樹氏も、米国では行動科学によって生徒の指導を考えていく方向にあることを指摘している。
つまり、管理→欲求不満爆発 という考えではなくて、自分の行動の結果何があるかを予測することで、その行動を決めているという考え方である。したがって米国では、生徒の懲戒規定を設けて、規則の違反の後には何があるのかを知らせ、それによって管理することで学校を建て直し、問題行動を少なくすることに成功している。
児童を害獣のように見るのは、賛同できないが、子供はどの子も邪悪な心を持って生まれてくるので、人間らしくなるように正しく教育しないといけないというプロテスタントの考え方は、非常に的を射ている。
現代の凶悪事件を起こす児童生徒の問題を、ある特定の原因に安易に結びつけることの危険性を指摘される点については理解できるが、管理については肯定的に捉えていただきたいと現場の者として思うのである。
現代の教育評論家で、最も害をなしているのは、間違いなく尾木直樹氏ある。氏の言うとおりにすれば、間違いなく現在のような教育崩壊につながる。

投稿: 現場 | 2005年11月 5日 (土) 23時09分

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