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2005年6月28日 (火)

俗流若者論ケースファイル30・森岡正宏&杉浦正健&葉梨康弘

 編集長の薬師寺克行氏をはじめ、「論座」編集部の皆様には、よくやったと言いたい。「論座」平成17年6月号の憲法特集の中で、「論座」編集部のクレジットがついている記事「自民党議員はこんなことを言っている!」というものがあるのだが、その内容は、平成16年の自民党憲法調査会議における自民党改憲派議員の「妄言録」である。

 この「妄言録」を読んでいると、自民党で「改憲派」と称されている人の一部が、いかに自らの思い込みと妄想だけで憲法改正という国家的な大プロジェクトに取り組もうとしているかがわかる。そして、「論座」編集部の人たちは気づいているかどうかはわからないが、その中でも目立つのが、俗流若者論との結託が強いものであり、今回はそれらの言説を検証することにしよう。

 例えば、森岡正宏氏(「無痛文明論」の森岡正博氏ではない)は、

 あまりにも個人が優先しすぎで、公というものがないがしろになってきている。……私は徴兵制というところまでは申し上げませんが、少なくとも国防の義務とか奉仕活動の義務というものは若い人たちに義務付けられるような国にしていかなければいけないのではないかと。(朝日新聞社[2005]、以下、断りがないなら同様)

 《国防の義務とか奉仕活動の義務》を設けることによって若年層を「正常化」せよ、という議論は簡単に論破できる。というのも、我が国は戦後一貫して徴兵制や奉仕義務を採用してこなかったからである。それなのに、現代の若年層の「問題行動」を是正するために徴兵制を導入せよ!という議論が最近になってまかり通ってきているけれども、これは明らかに若年層バッシングによるナショナリズムの高揚以外の何物でもないのではあるまいか。

 せめて徴兵制についてある程度調べてから言っていただきたいものである。また、徴兵制が起こす悪影響についても調べておく必要があるだろう。例えば韓国の事例を紹介している翰林情報産業大学教授の尹載善氏は、韓国での軍事文化が社会に及ぼす悪影響として、徴兵制を経験した男性が暴力的になったり、あるいは大酒飲みになることなどを挙げている。また、精神科医の斎藤環氏によれば、韓国においても「ひきこもり」は進行しており(斎藤環[2003][2005])、徴兵制を敷いて「ひきこもり」を解決せよ、という議論がまったく無意味なものであることを示唆している。

 もう一つ、これはマイケル・ムーアの「華氏911」でも語られていたことであり、尹氏や斎藤氏も触れていることであるが、徴兵制を敷くと、常にそれの犠牲になるのが経済的に地位の低い層である、ということも多い。それにしても森岡氏、そして森岡氏と同様の考えを持っている議員の人たちは、もし徴兵制が敷かれたら、自分の子孫に向かって同じ事を言って、軍隊に入隊させるのだろうか。「華氏911」における、ムーアが「自分の子供を自衛隊に入隊させよう!」というビラを議員に配るような事態にならないことを祈る。

 次は杉浦正健氏である。

 日本のいまの憲法はどちらかというと西洋に引きずられてワーッと権利のほうへ傾斜した。……フィリピンでは、子どもを5人以上つくる。保険制度ありませんから、子供を5人つくると子どもが親を養ってくれる。だから子供をしっかり育てて親孝行をしてもらうといういい循環である社会です。いまの日本の子どもに親孝行という気持ちはないわけではないだろうけれども、自然に親に孝養を尽くす、親が年とったら扶助するという気持ちになるかどうかが問題。

 杉浦氏よ、これは社会保障関係の委員会ではないのである。読者の皆様にも、これがあくまでも自民党の憲法調査会で発せられた発言であることを肝に銘じていただきたい。そもそも議論が倒錯してはいまいか。この文脈から考えるのであれば、杉浦氏が最も先に主張するべきは社会保障制度の撤廃であろう(ただしこれは憲法25条に明らかに違反する)。

 さて、発言の検証に移るけれども、明らかに国柄が違う2つの国を同列に並べて考えるというのが問題であるし、またこの文章を読んだら論点が二転三転しているのもよくわかるだろう。しかも杉浦氏、《いまの日本の子どもに親孝行という気持ちはないわけではないだろうけれども》と語っているけれども、これは偏見としか言いようがないだろう。《自然に親に孝養を尽くす、親が年とったら扶助するという気持ちになるかどうかが問題》というのも。

 それにしても杉浦氏、憲法改正して少子化を解決しろ!とでも言いたいのだろうか?せめて政策研究大学院大学教授・松谷明彦氏の章しか悲観論批判でも読んで出直していただきたい。また、杉浦氏は、フィリピンの憲法がいかなるものであるか、ということについても言及するべきであろう。

 極めつけは葉梨康弘氏の発言だ。頭に来たので全文引用する。

 たくさんの青年海外協力隊の方がインドネシアで真面目に働いている。ところが、彼らが日本に帰って、家の前を掃いているかといったら、道を掃かない。つまり、なんとなく世界市民主義的なことだけが格好いいという形の教育が今なされていて、足元の同じボランティアをやらない。日本の国内もそう。神戸の震災があれば行く。ナホトカ号があれば行く。マスコミが言うときだけ行って(筆者注:原文では《言って》になっているが、明らかに誤植であろう)、私たちの意識というのが極めて偽善の社会になっているのではないか。ですから、むしろ国家意識ということでボーンと頭から説得するのではなくて、今の戦後教育の中で育ってきた私たちは極めて偽善の中に生きている。この憲法だって、だから主権在民と言った。それから、国際協力しかうたわれていない。日本国内の協力が一切うたわれていないということが、非常に中途半端な若者を育ててしまった。

 まったく、ここまで露骨な俗流若者論を堂々と開陳して恬然としている葉梨氏の心理がが知れない。また、このような飛躍した暴論を簡単に受け入れてしまう他の議員たちも、このような動機から憲法改正に同調するということが、いかに危険なものであるということを、俗流若者論を党綱領および行動原理とする政党が与党にならないとわからないのだろうか。そもそも俗流若者論とは、若年層の問題を何か単一のものになすりつけたり、あるいは彼らの精神の問題に矮小化することによって、社会構造的な問題を隠蔽するという側面を持っている。そのような無責任な言論体系に政治を任せることがどうしてできようか。

 さて、本題に入ろう。まず、葉梨氏の提示している事例が極めて恣意的であるし、しかもそれを《なんとなく世界市民主義的なことだけが格好いいという形の教育が今なされていて、足元の同じボランティアをやらない》などと結論付けてしまうのは飛躍であろう。そもそも《なんとなく世界市民主義的なことだけが格好いいという形の教育》とは、いかなるものを指すのか教えてはくれまいか。

 また、《この憲法だって、だから主権在民と言った》と葉梨氏は語っているけれども、《だから》が何をさすかわからない。葉梨氏は《今の戦後教育の中で育ってきた私たちは極めて偽善の中に生きている》というのは(これも正しいかどうかは検証する必要があろう)戦後の状況であると語っているのだから、《主権在民と言った》というのは戦前から《極めて偽善の中に生きている》状況があり、だから《主権在民》が憲法に書かれたと葉梨氏は言わなければならないはずである。この発言から、いかに葉梨氏がその場その場の思い込みによって語っているかがわかるはずだ。また、葉梨氏の幻想としての「戦後」と「戦後以外」という図式が葉梨氏のこの暴論を支えているのは明らかであろう(ちなみに葉梨氏は昭和34年(1959年)生まれであるらしい)。あともう一つ、《非常に中途半端な若者》がどのような人を指すのか教えてくれ。

 それにしても、憲法改正の最前線に立っている人たちが、いかに幻想としての「戦前」や「戦後」を妄信していたり、あるいは「今時の若者」に対する敵愾心が改憲へのエンジンになっていたりとかいった現状が、自民党の改憲派議員集団の中で着々と進行しているというのが恐ろしいことに思えてならない。俗流若者論による政治とは、人々の「今時の若者」に対する敵愾心を回収し、それを政治に反映させることによって、「今時の若者」を「正常化」しているという幻想を持たせることはできるけれども、問題の本当の解決にはなんら影響を及ぼさない。そもそも俗流若者論は、自分を「正義」と規定し、さらに自らの過去をタブー化するという性質を持っており、若年層をバッシングするためならいかなる書き飛ばしも厭わない。俗流若者論は、「今時の若者」をバッシングすることには長けているけれども、それ以外にはまったく無能である。

 かつて、ジャーナリストの西村幸祐氏を批判したとき、西村氏が「2ちゃんねる」に対して「2chが左翼勢力によって毒された言論状況を打破してくれる!」という「物語」に陶酔している、ということを私は指摘したけれども、ここで取り上げた森岡氏、杉浦氏、そして葉梨氏に共通しているのは、「憲法改正が左翼勢力によって毒された状況を打破してくれる!」という空疎な「物語」に他ならない。このような「物語」に心酔することは、憲法をめぐる冷たい現実から目を逸らすばかりでなく、改憲が及ぼす善悪両面のファクターを無視することになる。

 私は改憲それ自体は否定しない。しかし、このように、「改憲」とか「戦後」とか「戦前」なんかに過度の幻想を抱いている人たちによる改憲は、結局のところはこれらの人たちの「自己実現」しか実現し得ないのである。そのような改憲が、どうして許せようか。
 ちなみに、「改憲」とか「戦後」「戦前」に対して過度な幻想を抱いている言論人は、政治家よりも過激な幻想を抱いていることが多い。次回は、そのような人を検証しよう。

 参考文献・資料
 朝日新聞社[2005]
 「論座」編集部「自民党議員はこんなことを言っている!」=「論座」2005年6月号、朝日新聞社
 斎藤環[2003]
 斎藤環『ひきこもり文化論』紀伊國屋書店、2003年12月
 斎藤環[2005]
 斎藤環『「負けた」教の信者たち』中公新書ラクレ、2005年4月
 尹載善[2004]
 尹載善『韓国の軍隊』中公新書、2004年8月

 長谷部恭男『憲法と平和を問いなおす』ちくま新書、2004年4月
 山本七平『日本はなぜ敗れるのか』角川Oneテーマ21、2004年3月

 小熊英二「改憲という「自分探し」」=「論座」2005年6月号、朝日新聞社

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2005年6月22日 (水)

トラックバック雑記文・05年06月22日

 冬枯れの街:「無駄な星なんてあるわけがないだろ?」
 先日の「トラックバック雑記文・05年06月18日」で「河北情けないよ河北」と私がもらした記事(河北新報:落書き、知力低下反映? 単純な絵などばかり 仙台)について、ココログで「落書き」と検索をかけてみたら、かなりの数のブログがこれに言及していたので、先日のものでは書ききれなかった論点についてもう一度書いておきます(ちなみに私は仙台在住の東北大学工学部建築学科の3年生であり、仙台に溢れる落書きには心を痛めている者であります)。

 ちなみにこれに言及していたブログを挙げておきます。

 c572 blog:落書きに知的水準が低下?
 Sleeping Sheep:知力の低下。
 トウグウタクミの書道でGO!:「国語力」って何でしょう?
 ++ zakkan ++:このニュース・・・
 週刊?コヰズ::実況中継:落書き・ミネラルウォーター・熊本深夜便
 ひとこと:落書き
 Books and Cafe:グラフィティアートのレベル低下?
 諸般の事情亭・地域面:人類の退化と・・・
 パンダの戯れ言:レベル低下
 日々是決算、親身の集金:イタズラも知的センスが必要

 この記事に関する問題点は次のとおりです。

 1、仙台に書かれていた落書きの傾向について、そこから「今時の若者」を語ることができるのでしょうか。

 2、そもそも、落書きというものは「器物損壊罪」なのではないでしょうか。たといそれが「器物損壊罪」であったとしても、それにたいして何らかの美や主張が許されるのなら、それは社会的に許されるものなのでしょうか。

 3、そもそもこのような記事に、ジャーナリズムとしての存在意義がどれほどあるのでしょうか。

 以上の3つの論点について、私が持った違和感を書いておきます。

 「1」。そもそもこのような落書きに関しては、そのほとんどが社会的に恵まれない層、あるいは社会から逸脱している層によって書かれている、ということは、本来であればその人たちに起こっている質的変容を問題視するべきではないでしょうか。また、そもそもこれらの落書きを書く人が、若年層全体から見てどれほどの割合いるのでしょうか。そして、安易に彼らが現代の若年層の知性を代表している、という考え方にも、疑問を感じずにはいられません。さらに、仙台以外の地域との比較もないのも、これまた疑問の種でありましょう。

 「2」。そもそも、落書きの美醜は誰によって決められるものなのでしょうか。これは、先日の「松文館裁判」の冤罪判決にもつながるものですけれども、ある「刑法犯のおそれのある行為」に対して、それが「美しければ」よし、「醜ければ」駄目、というのであれば、その線引きを誰が決めるのでしょうか。落書きという行為は、それ自体が「器物損壊罪」という犯罪行為なのですから、もしここで問題にされている落書きが規制されるべき、というのであれば、その美醜に関わらず、落書きという行為は全て規制されるべき、といわないと、プリンシプルというものがありません(以上の観点から、私は、明確な被害者が存在している落書きは規制すべきで、明確な被害者の存在しないアダルト漫画は規制されるべきではない、と考えます)。

 「3」。正直言って、このような記事が平然と流通してしまうことに、わたしは心を痛めております。リンク先のブログにも、「愚民化政策の結実」だとか「教育の失敗」だとか安易に語っているところが目立ちますけれども、そもそもこのような記事は、所詮は「酒場の愚痴」程度のものにしかなりえないのではないでしょうか。これらの「憂国」言説は、はっきり言って極めて政治性の強いロールシャッハ・テストでしかありません。

 結局は、みんな、「今時の若者」をバッシングすることによって、「自分は「正義」である」という幻想に浸りたいだけなのです。この記事は、そのような俗流若者論の「願望」を、見事に表している、というほかありません。

 かように志の低い記事が乱造されて、若年層全体がいわれなきバッシングに晒されてしまう、という現在の状況を、私は悲観しています。思えば、「理解できない」少年凶悪犯罪がひとたび起これば、最近はワイドショーのみならず「まともな」報道機関でさえも、安易に「原因」なるものを求める方向に走って、お決まりの如く渋谷や原宿や秋葉原に出向いて、ありもしない不安ばかり煽るようになってしまっています。要するに、目の前の「象徴的」事件と、巷で(ワイドショー趣味的に)語られている「問題」を強引に結びつけることによって、若年層に対する不信ばかりを煽る。この記事は、そんな悪しき流れに掉さしたものに過ぎないのです。

 私は河北新報に、過去4度ほど文章を掲載させてもらった恩義があり、原稿料も頂いたことがあります。しかし、そんな河北新報が、これほどの志の低い記事を書いていることに、私は怒りを隠しきれません。この記事の問題点も咀嚼せず、安易に受け入れている人たちも、これでいいのですか?

 それにしても、いつから、過去の落書きが「アート」として許容されるようになったんだ?昔も、それらに対して、多くの市民が怒ってたのにねえ。っていうか、なんだよ、「グラフィティアート」って。

 皆様。仙台市民として、この程度の落書きよりも憂うべき事件があるのではないですか?

 kitanoのアレ:議場飲酒議員問題:「明らかに数人が酔っていた」
 日課として、「kitanoのアレ」を何気なく読んでいたら、聞き覚えのある名前が私の目に飛び込んでしまい、一気に眠気が覚めました。

 秋葉賢也!?

 そう、先日、平成15年の衆院選に関する運動員のスキャンダルによって、引責辞任した民主党の鎌田さゆり議員の補選で今年当選した、自民党の秋葉賢也氏(宮城2区:仙台市宮城野区、太白区、若林区)です。「kitanoのアレ」で引かれている日経新聞の記事によると、その内容は以下のものだそうです。

 17日夜の衆院本会議に、数人の自民党議員が「酒気帯び」で出席したことに野党が反発、会期延長の議決が予定よりも30分ほど遅れた。

 本会議は午後5時に休憩に入り、午後9時前に再開。議決反対の討論に立った社民党の阿部知子氏が赤ら顔の議員を見とがめ、「即刻、退場すべきだ。『酒気帯び国会』を延長する必要はない」と声を張り上げた。

 これを聞いた自民党の秋葉賢也氏は議場閉鎖中にもかかわらず退場。場内はさらに騒然とした。

 河野洋平議長が投票を呼びかけたが、野党はしばらく応じず、一時は徹夜かとの憶測も飛び交った。

 民主党の岡田克也代表は本会議後の党代議士会で「小泉純一郎首相と森喜朗前首相も赤い顔をして投票していた。いかにいいかげんな国会か分かる」と批判した。

 なんと、酒を飲んでいたから議事に遅れた!

 しかも、秋葉氏は、そんな行為に対する当然の批判を民主党や社民党の議員に注意されたら、議場閉鎖中にもかかわらず退場してしまった!しかも、この議会は、国会の会期延長を議論し、さらにその議決を行なう日だった!

 これでいいのでしょうか。

 そして、このような議員や、このような議員を支持した人に対して、なぜ「知力低下」のレッテルが貼られないのでしょうか。

 実に不可解です。

 以上のことからもお分かりですね。俗流若者論とは、所詮は権力に媚び、問題の論点を逸らし続け、より大きな問題や権力に対する疑問を隠蔽し、大衆の批判の方向を権力ではなく若年層に向けることによって、本当の問題を隠蔽してしまう。

 また、「醜悪な」落書きが「知力低下」の象徴としてバッシングされるのに、「醜悪な」都市計画が「知力低下」の象徴としてバッシングされないのはなぜなのでしょうか。

 目に映る21世紀:秋葉原と下北沢の再開発ってどうよ? ~キール&NINEでトークpart1
 週刊!木村剛:[週刊!尾花広報部長] ついに萌えのまち秋葉原に進出しました!(尾花典子氏:日本振興銀行広報部長)

 以前の雑記文でも何度か書きましたが、秋葉原に行ったとき、秋葉原駅前に建っている大きな再開発ビルに、とてつもない違和感を感じました。また、以前に「目に映る21世紀」や保坂展人氏のブログで、下北沢の再開発が批判されていることにも触れました。

 現在行なわれている「都市再生」によって、さまざまな箇所でその地域の地域性が破壊されている、という指摘がさまざまなところで行なわれていますが(五十嵐敬喜、小川明雄『「都市再生」を問う』岩波新書など)、私はその実態を、秋葉原に行って肌で感じ取りました。読者諸賢も御存知の通り、秋葉原はオタクの都市として有名ですが、秋葉原駅前にそびえ立つ再開発ビルは、オタク的なるものにたいする国家権力の規制の象徴として建っているように見えました。あのようなビルが秋葉原に建つことに、一体何の意義があるのか。秋葉原は雑然としたオタクの街でいいじゃないか、とここで叫んだとしても、所詮は流れを止めることができないのでしょうか。

 秋葉原におけるオタク規制と歩調を合わせてかどうかはわかりませんが、最近はさまざまなマスコミにおいてオタク・バッシングがよく見られます。この間の少女監禁事件にしても、犯人の性癖がオタク趣味に傾いていることから、いかにオタクが犯罪的であるか、ということを喧伝していたように思えます。

 しかし、この少女監禁事件の犯人・小林泰剛は、正確に言えば「オタクの皮をかぶった鬼畜」です。なぜか。それは、オタクの性的嗜好は「二次元の美少女に対して欲情する」というもので、二次元の美少女に対して欲情できず、凶悪な性犯罪に走ってしまう、というのは、オタクの性的嗜好を逸脱しているからです。

 あと、例えば「オタク」だとか「アダルトゲーム」だとかに対する印象論だけで、架空の「専門家」まで捏造していかにそれらが危険であるか、という記事を夕刊フジがウェブ上で書いていたそうですね。もちろん、その後は訂正されたようですが。それにしても、夕刊フジと言えば、JR福知山線の脱線事故に関しても、森昭雄を召還して犯人が「ゲーム脳」だと疑う記事を書いていましたね。夕刊紙だから何でも許される、ってわけじゃねえんだよ。

 皆様、お分かりになられたでしょうか。俗流若者論を容易に受け入れる人たちは、「「今時の若者」は政治にまったく関心がない」と愚痴りますけれども、政治に関心がないのは、むしろ俗流若者論のことではないですか。俗流若者論は、「今時の若者」を安易にバッシングして、若年層に対して敵愾心を煽ることには至極長けていますが、政治の動きを読み取り、その流れが正しいものであるかを判断する、ということに関しては、極めて疎い。そして、多くの人たちが、そのような俗流若者論に心酔している。そうなると、政治は「今時の若者」に対する敵愾心を回収するだけのものになってしまいます、というよりも、その萌芽が出始めています(メディア規制や教育基本法の改正など)。

 俗流若者論に心酔することは、昨今の政治の危険な流れに賛同する、ということに他なりません。それでもいいのであれば、どうぞ俗流若者論に賛同してくださいね。

 保坂展人のどこどこ日記:日韓首脳会談の不実と小泉政権(保坂展人氏:元衆議院議員・社民党)
 正々堂々blog:日韓首脳会談を憂う(川内博史氏:衆議院議員・民主党)

 日韓首脳会談が行なわれていますが、少なくとも保坂氏や川内氏の視点から見ると、どうもこの首脳会談はうまくいっていないようです。

 この首脳会談の内容にすいてはあまり存じ上げないのですが、昨今の日韓関係、あるいは日中関係について少し想うことを言わせてもらうと、私はお互いに対する「敵愾心」を排除して、真摯に向かい合わなければ解決し得ないと思います。

 中国や韓国の反日デモは言わずもがな、それに過剰に呼応する政府・自民党の人たちや俗流右派論壇人の人たちも、単なる「反・反日」に熱中しているだけで、「反日」に真摯に向かい合おうとしている人たちは、むしろ左派に多いと思います。

 日韓・日中関係に限らず、これは若年層に対する態度についても同様に言えます。マスコミの若年層に対する態度は、安易なイメージばかりが先行して、若年層の抱える問題について地味ながらも正面から向き合っている人は、むしろあまり読まれないような雑誌や書籍によく登場しています。しかし、マスコミがただ部数とかなんかの理由で派手な若年層バッシングばかりやっている状況では、社会や政治と若年層が歩み寄る、ということはまずありえないでしょうね。

 ひとみの日々:おらんうーたんとわたし(生天目仁美氏:声優)
 ここまで政治的な話をしすぎたので、ここで落ち着きましょう。

 生天目氏は動物園に行ったそうですが、たまには自分の生活空間(私の場合は、住宅地と、大学のキャンパスと、仙台の中心市街地)とは違う場所に行ってみるのもいいものです。自分の生活空間を抜け出し、環境の違う場所に行くと、心が洗われます(その場所の環境にもよりますが)。

 私は最近、1年ほど行っていなかった宮城県美術館に行ってきたのですが、東北大学写真部の展示会が行なわれておりました。また、宮城県美術館の空間的な雰囲気は、都市的な、あるいは住宅地の生活環境に慣れ親しんできた者にとっては、また違った感覚を味わうことができます。

 千人印の歩行器:[時事編]地下構造ダイビング(栗山光司氏)
 「俗流若者論ケースファイル29・吉田司」を公開しました。この文章で採り上げた吉田氏の文章に対して、私が朝鮮戦争というファクターを無視している、と書いたところ、栗山氏から朝鮮戦争時の栗山氏の生活に関する実体験が書かれている文章がトラックバックされたので、興味がある方は一読を。

 それにしても、栗山氏の次の文章は、我々が真摯に考えなければならない論点が含まれているような気がします。

 後藤氏の俗流若者論に対する批評はマットウですね。しかし、「今時の若者云々」はいつの時代にも言われてきた。床屋政談として挨拶代わりに喋るには構わないが、ちゃんと、若者達に向き合って、自分なりにデータ分析した深い思索の結果なら傾聴に値するが、そんな検証のない単に他罰の構造にのって勝手にスピークアウトする輩の言説は馬耳東風です。自虐史観がどうのこうのと言いますが、僕が一点、ぶれない定点と言えば、「自虐」です。別に歴史観だけの問題でなく、「自虐」を通さない針穴から「誇り」は生まれない。他罰を積み重ねてそれが誇りだと誤読している人がいますが、吼える犬ほど始末の悪いものはない。兎に角、何かに動員される前に自分の頭で考える癖をつけること、それは当然自己相対化の自虐に到る。痛い地帯で発言する。そこがスタートラインでしょう。安全地帯では、音楽を聴いてぼけ~とする。

 《「自虐」を通さない針穴から「誇り」は生まれない。他罰を積み重ねてそれが誇りだと誤読している人がいますが、吼える犬ほど始末の悪いものはない》とは実に的を得た指摘だと思います。俗流若者論とは、若年層に対するバッシングを繰り返すことによって、自分を正当付ける言論体系であり、「「今時の若者」は駄目だから駄目なのだ」というトートロジー(同語反復)の繰り返しでしかありません。冒頭の河北新報ではないですけれども、「批判のための批判」の繰り返しでは、何の解決にもならない。所詮は自慰。二次元の美少女で自慰するのは至って健全ですが、俗流若者論で自慰するのは極めて有害ですよ。

 最後に。このブログではおなじみの東京大学助教授の広田照幸氏の記述を紹介しましょう。ちなみに引用元は『教育には何ができないか』(春秋社、2003年2月)です。

 30年後ぐらいには、社会の中心を担うようになった今の子供たちの世代が、「俺も昔はワルで、万引きやカツあげをやってたけど、今はこんなにちゃんとやってるぜ」と誇らしげに語り、「今の非行少年は根性がない」とか「最近の子供はヘンな事件ばかり起こしやがる」と言ってたりするのではないだろうか。

 そういえば、70年代末から80年代初頭にかけて、校内暴力の嵐が全国で吹き荒れた場、つい最近、「あの校内暴力の時代にはワルにも連帯する根性があった。あいつらはそれなりにしっかりした奴らだった」といったことを書いた文章を目にした。20年前の非行少年たちのしでかしたことは、もはや免責される段階に至ったのかと、私には感慨深いものがあった。(188ページ)

 むしろ、「今の若い者は…」と大人たちが攻撃するのは、大人の側が未来社会のビジョンを見失っているからなのかもしれない。目指すべき未来がわからなくなって、漠然とした不安を感じる大人たちが、既存の秩序のゆらぎへのいらだちを、青年たちにぶつけている部分があるように思えてならない。「今よりももっとましな社会」とか、「新たな価値規範」とかのビジョンを、いずれ青年たちが嗅ぎ当てた後は、今の大人たちの世代は、「天保の老人」ならぬ「昭和の老人」といわれるようになるにちがいない。そうした、「新しい鉱脈」を嗅ぎ当てようとする、彼らの努力をもっと容認・鼓舞していく必要がある。青年の可能性を、もっとポジティヴにみていく必要があるのではないだろうか。(197ページ)

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2005年6月18日 (土)

俗流若者論ケースファイル29・吉田司

 私はこれまで、俗流若者論のために歴史修正を行なうのは、俗流右派論壇人の専売特許と思ってきた。しかし、その認識は、即刻改めなければならないようだ。もしこの文章の読者に、そう思っている人がいたら、この文章を読んで、即刻その認識を改めてほしい。

 今回検証するのは、ノンフィクション作家の吉田司氏による文章、「女と平和と経済の時代は終わった」(「AERA」平成16年8月30日号掲載)だ。吉田氏は、まあ最近では主要なオピニオン系の月刊誌にはほとんど顔を出していないが、基本的に左派、反権力の人と見なしていいジャーナリストである。しかし、この文章を読んで、吉田氏もまた俗流若者論限定で歴史修正主義ナショナリストになってしまうような人だったのか、と思った。ちなみに言っておくと、朝日新聞や、講談社の月刊誌「現代」にたびたび掲載される吉田氏の書評は、はっきり言って粗雑の極みだと思う(ちなみに私は、オンライン書店の「bk1」で評論家・斎藤美奈子氏の『男性誌探訪』(朝日新聞社)を書評したとき、吉田氏を批判したことがある)。

 吉田氏は、戦後の我が国の平和と発展が何によって支えられてきたか、ということについて、以下のように以下の視点に基づいて述べる。曰く、《《戦後》がどんなものであったか?そのはじまりを「過ちは繰返しませぬから」(原爆慰霊碑)という非戦・反戦平和の“誓いの言葉”に置くことは、たやすいことだ》《戦後の母たちは、芸能であれ教育であれ、自分の人生と財産を子どもに独占的に透視する=父親の手から子どもを奪い、己の人質にすることで、戦前家父長制(天皇「父性」国家からの離脱や「女の自立」を開始したのである》(吉田司[2004]、以下、断りがないなら同様)と。しかし、このような「物語」の裏には、一つの決定的な事実が欠落している。

 それは朝鮮戦争である。皆様もご存知の通り、戦後の我が国の爆発的な経済回復の起爆剤となったのは朝鮮戦争による特需だった(ちなみに最近の右派系の歴史修正主義者は、朝鮮戦争の特需さえも否定したがっているらしいが)。その結果がどうあれ、非戦・反戦主義の立場に立てば、我々が今立っている「戦後」が、他人の不幸に乗じたものを基盤とする、ということを考えると、それに対する検証もしなければならないだろうが、吉田氏にはそのような認識があるのだろうか。

 吉田氏に限らず、最近の左派論壇には、「戦前」を否定しながらも、「戦後」を美化することによって若年層をバッシングする、いわば左派系の歴史修正主義者が出始めている。その典型例がライターの荷宮和子氏であろうが、右派系であっても左派系であっても、我が国の歴史修正主義者の理論が、ここ十数年、特に「酒鬼薔薇聖斗」事件以降に喧伝された「今時の若者」というイメージに対する敵愾心によって成り立っているのだから、彼らの社会認識・歴史認識がいかに自分の自意識のために歪曲されたものであるか、ということは我々は認識して然るべきだろう。

 そして吉田氏もまた、「今時の若者」を、戦後の「崩壊」の象徴として提示するのだから、吉田氏が左派系の歴史修正主義者になってしまっているのは明らかであろう。問題のある箇所を引用する。

 もっともその“幸せな結合”は、また別の大きな国内的不幸と引き換えだった。子供たちの後輩と批判だ。少年少女は激化する受験「選別」戦争や教育ママゴン、いじめの連鎖の中で傷つき、脱落する「不登校」者が続出した。彼らは社会から引きこもり、親たちに「誰が(こんな世の中に)産んでくれと頼んだか!」と呪詛を浴びせかけ、多くが家庭内「暴力の王」や「女王」に姿を変えていった――それは80年代バブル天国ナショナリズムが生産し続けた、耐え難い“地獄”だった。
 (30ページ5段目~31ページ1段目)


 少年たちはどうしたか?2000年「われ革命を決行す」のHP宣言をした佐賀バス・ジャック事件を先頭に、いくつ物少年殺人・暴力事件が連発した。――こうして「失われた10年」のハチャメチャな《性と生》をめぐる秩序紊乱、それを育て、甘やかしてきた〈平和〉と〈女〉と〈経済〉の三位一体システム=いわゆる「母原病」社会の無力と退廃が誰の目にも明らかになり、やがてそれらを変革する希望のシステムとして、その反対物=《軍事》と《父性》をキーワードとする男権的な「国民保護」体制が呼び出されてきた。それがいまの小泉「軍事立国」主義=「改憲」ナショナリズムの正体なのである。
 (31ページ3段目)

 これらの文章の筆者が、例えば石原慎太郎だとか西村眞悟だとか言われても、それほど違和感を感じる人は少ないのではないか。特に、後者の記述の後に、「だから今流布しているナショナリズムは正常なのだ」という記述が続いたら、もはや完全に石原氏や西村氏の文章に見えてしまうだろう。要するに、吉田氏をはじめとする左派系の歴史修正主義者は、右派も敵視する「今時の若者」と同じイメージを共有しているのに過ぎないのである。違うのは結論だけで、アプローチは完全に同じなのだ。右派系の歴史修正主義者が「今時の若者」の「対策」のために「戦前」を持ち出すのに対し、左派系の歴史修正主義者は「今時の若者」の「対策」のために「戦後」を持ち出す。

 吉田氏の文章に戻る。これらの記述は、もはや私が批判し尽くした類の文章なので、今更検証する気も失せてしまうが、それでも看過できない記述がいくつもある。例えば前者で言うと、例えば《彼らは社会から引きこもり、親たちに「誰が(こんな世の中に)産んでくれと頼んだか!」と呪詛を浴びせかけ、多くが家庭内「暴力の王」や「女王」に姿を変えていった》と吉田氏は書くけれども、このようなケースになるのは至極稀だし(というよりも吉田氏が勝手に捏造した「物語」でしかない)、実際に「ひきこもり」が家庭内暴力に結びつくのは、その多くの場合が自分の体験による精神的な負担と、自分が親に対して迷惑をかけているという考えから来る負担、そして自分がいつまで生きられるかわからないという感覚から来る負担に圧迫された状態が長く続いたとき、暴発的に起こるものであるし、しかもこの場合においても家庭内暴力よりも自殺のほうが多い。しかも「ひきこもり」や不登校の人たちが《「誰が(こんな世の中に)産んでくれと頼んだか!」と呪詛を浴びせかけ》ていると吉田氏が記述している箇所にも、吉田氏が「ひきこもり」や不登校を単に自分の歴史修正主義を盛り上げるための道具としてしか考えていないことが表れている。

 後者に至っては、《こうして「失われた10年」のハチャメチャな《性と生》をめぐる秩序紊乱、それを育て、甘やかしてきた〈平和〉と〈女〉と〈経済〉の三位一体システム=いわゆる「母原病」社会の無力と退廃が誰の目にも明らかになり》という記述が、吉田氏の結論(これについては最後に引用することにする)を無効化するほどの矛盾をはらんでいる。もし吉田氏のこの記述が正しいのであれば、吉田氏がこの文章の結論としている《〈平和〉と〈女〉と〈経済〉》を取り戻せ、という首長が、青少年問題を激化させる、と言うことができるのである。本来であれば、これらが青少年問題を激化させてきた、と主張する右派に対抗するためなら、それらが青少年問題を激化させた、という彼らの主張がいかに空疎なものであるか、ということを衝くべきだろうが、吉田氏はそうするどころか、逆に右派系の歴史修正主義者のコンテクストの上で踊っているのである。

 要するに、吉田氏の「憂国」と歴史修正のよりどころが「今時の若者」、すなわち俗流若者論であるから、結論だけがいかに左派的なものであったとしても、結局はアプローチが右派系の歴史修正主義者と同じだから、彼らと同じ事を吉田氏は言ってしまっているのだ。彼らを突き崩すためには、彼らの共有する「今時の若者」のイメージをまず解体する(例えば、「少年犯罪の凶悪化」という言説が、いかにデータや過去の事例の検証に基づいていないかを提示する)ことこそが最良の方法である。

 それにしても、吉田氏のこの文章の最後の段落(31ページ5段目)が、また笑える。

 だからね、もう均等法世代の『負け犬の遠吠え』(30代以上、未婚、子なしは女の負け犬)宣言くらいでお茶を濁しているバヤイではないの。ハッキリ言う。台頭する「改憲」ナショナリズムは〈女性の敵〉だ。それと戦いぬかなければ、女たちに明日はない。なにっ、男は……?だって。男はダメだ。団塊の退職金「セカンド・ライフ」の消費ブームだナンテ、相変わらずの平和経済ボケで使い物にならない。女たちの《最後の聖戦》、それだけが21世紀ニッポンにおける新しい〈平和のかたち〉をリセットできる。女たちよ、負け犬よ、子供よりも、いまは平和を生み育てる刻だ。

 いや、この文章の筆者が、団塊の世代の男性であることを考えてみるだけでも、十分笑えるのだけれども。でも、吉田氏は、《団塊の退職金「セカンド・ライフ」の消費ブームだナンテ、相変わらずの平和経済ボケで使い物にならない》などと嘆いているけれども、ではこのような単なる「憂国」文章を書いている吉田氏はどうなのだろうか。結局のところ、《団塊の退職金「セカンド・ライフ」の消費ブーム》を送りたいのは、吉田氏のほうだろう。要するに、社会のための闘争は若い女性に丸投げしておいて、自分はそれを支援する不利をして高みの見物をしながら悠々自適の余生を過ごす、というのが吉田氏の本当の欲望なのではないか。《なにっ、男は……?だって。男はダメだ》という物言いは、結局は自分が休みたいだけということを正当化する伏線に思えてならない。なぜなら吉田氏は男性だから。吉田氏こそ《女性の敵》ではないか。

 いずれにせよ、ついに左派にまで出現し始めた俗流若者論的な歴史修正主義者の勢いを止める時が来た、と言うべきだろう。

 参考文献・資料
 吉田司[2004]
 吉田司「女と平和と経済の時代は終わった」=「AERA」2004年8月30日号、朝日新聞社

 姜尚中『ナショナリズム』岩波書店、2001年10月
 斎藤環『「負けた」教の信者たち』中公新書ラクレ、2005年4月
 広田照幸『教育言説の歴史社会学』名古屋大学出版会、2001年1月
 パオロ・マッツァリーノ『反社会学講座』イースト・プレス、2004年5月
 ウォルター・リップマン、掛川トミ子:訳『世論』岩波文庫、上下巻、1987年2月

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 放置プレイにしようと思っていたのですが、リクエストが入ったので斬らせてもらいます。

 ちなみにリクエストしたのは、
 冬枯れの街:「無駄な星なんてあるわけがないだろ?」

 私は仙台在住なのですが、あいにく我が家でとっている新聞が読売新聞なので、東北の地方紙である河北新報がこんなにひどい記事を書いていたとは知りませんでした。ちなみに河北に関しては、私は4回ほど文章を掲載させていただいたことがあるのですが、そのような恩義もこの際一切無視しましょう。

 河北新報:落書き、知力低下反映? 単純な絵などばかり 仙台(Yahoo!ニュース)

 感想はただ一言。

 …河北情けないよ河北。(なぜ私がこのような言い方をするか、と疑問に思われた向きはこちらを参照)

 私も仙台市民として、中心市街地を中心に氾濫する落書きには心を痛めているのでありますが、このような落書きにかこつけて俗流若者論を書き飛ばしてしまう河北にも、正直言って心を痛めてしまいます。最近「この「反若者論」がすごい!02・河北新報社説」で社説を絶賛したばかりなのに。

 あのねえ。犯罪白書読めばわかるけどよ、暴走族(最近は「珍走団」という名称も定着しつつあるよね)の組織人員は減ってるんだよ。しかも、これは作家の重松清氏などの指摘なんだけどよ(重松清、河合幹雄、土井隆義、宮崎哲弥「日本社会はどこまで危険になったか」=「諸君!」2005年1月号)、暴走族の人員はむしろ高齢化してんだよ。背景には暴力団が牛耳ってて足を洗いづらいことが大きな理由だがよ。しかもなんだよ、この記事に出てくる自称「識者」どもは。こんな馬鹿連中の戯言にかこつけて「今時の若者」全体を語った気になってんじゃねーよ!しかも、この手の記事にとってはもはやご定番なんだが、過去との具体的な比較、一切なし!他の地域との比較、一切なし!この記事を書いた記者よ、出てきやがれ!!絞め殺すぞ!!!冗談だがよ。

 いい加減にしてほしいものです。このようなものでさえ記事になってしまう、という現在の俗流若者論、若者報道の現状には、ほとほと呆れてしまいますよ。所詮「今時の若者」は貶められてナンボなのでしょうね。

 栄枯盛衰、満つれば欠ける、とはよく言いますけれども、俗流若者論は、「酒鬼薔薇聖斗」事件以降に一気に勢いを増してから、もうとどまるところを知りませんよね。それどころか、むしろ隆盛の一途ですね。でもこれらの俗流若者論は、所詮張子のリヴァイアサンです。いつか、良心的な学者や評論家によって、少しずつ解体されるのを期待するしかないのでしょうね。

 というか、俗流若者論を解体するための本も、たくさんあるはずなのですが。売れているのは『反社会学講座』くらいなのが哀しい。まあ、俗流若者論を解体するための本は、大抵は地味か、高いか、その両方かですからね。『反社会学講座』は、易くて派手だから売れたものなのでしょうが、この本で展開されている論理が実を結ぶのは、いつの頃になるのでしょうかね。

 もう、こんな記事を読んだ私の感情を、声優の茅原実里氏が代弁していましたよ。

 minorhythm:茅原実里、本日はご立腹です(茅原実里氏:声優)

 茅原氏は傘を盗まれたことに怒っていますが、私はこんなにひどい記事でさえも不通に流通してしまう現状に激怒しております。俗流若者論系のトンデモ本や新聞・雑誌の記事も延々と出されますし。

 もう一つ、我々が怒っていいものがあります。
 弁護士山口貴士大いに語る:松文館裁判判決速報(山口貴士氏:弁護士)
 kitanoのアレ:松文館裁判:高裁でも不当判決

 「松文館裁判」。我が国ではじめて、「絵」にわいせつ罪が適用された裁判です。東京地裁の判決では、裁判で取り上げられた漫画の作者と、版元の社長に懲役刑が下ったのですが、弁護側が不服として控訴しました(ちなみに山口貴士氏は、この裁判の被告側の主任弁護士です)。で、この裁判において、宮台真司氏(社会学者)、斎藤環氏(精神科医)、奥平康弘氏(憲法学者)などが被告の立場から逮捕・告訴の不当性を主張してきましたが、それでも無罪を勝ち取ることができなかったとは…。

 弁護側は、これを不服として上告するでしょう。もしこの裁判の判決が判例として確定してしまったら、警察は好きなように「有害」コミックを摘発できるようになり、わいせつ罪の恣意的な運用が裁判において続々と行なわれるようになるでしょう。

 いささか言いすぎじゃないかって?いや、私がこのように断言するのは、この松文館裁判のいきさつを最近買った本で読んだからです(長岡義幸『「わいせつコミック」裁判』道出版、2004年1月)。

 そもそもここで取り上げられている漫画家と版元の社長が摘発されたのは、ある警察官僚出身の国会議員に寄せられた一通の投書がきっかけでした。そして、その議員が警察にリークし、漫画家と版元の社長は不当に逮捕されてしまった…。

 その「警察官僚出身の国会議員」とは…。

 平沢勝栄。

 カマヤンの虚業日記:[選挙]都議会選挙
 走れ小心者 in Disguise!:ブログ版『えらいこっちゃ!!』(20)(克森淳氏)

 都議会議員選挙ですか。私は宮城県民なので、選挙権があっても直接は関係ないものですが、ただ言論統制に断固として抵抗する立場としては、この2つのブログで取り上げられている「石原三羽烏」、すなわち古賀俊昭、田代博嗣、土屋敬之の3氏の当選は阻止しなければなりませんね。特に古賀氏と土屋氏は、産経新聞の月刊誌「正論」に出現する回数が高く、そこでも威勢がいい「だけ」の論理を飛ばしまくっていますから。

 それにしても、最近俗流保守論壇の空疎な現代日本人論や若者論が、彼らにしか理解できない共同幻想に基づいているのは、それこそが現代の論壇の行き詰まりを表しているように思えます。その点において、下のブログは必読でしょう。

 ヤースのへんしん:『バーチャル男』萌え

 非常に的確な指摘があります。

 力仕事が中心だった時代を生きてきた「男」にとって、力のいらない時代になり、多くの女性が社会参加をし、能力を発揮しだすと、中途半端な能力ではもう付いていけない、でも、どこかで「男」としての生き方はしたい。そんな気持ちの現れなのかもしれないですね。

 しかし、これらの「男」と「大人」の中身って「孤独」「個人」に集約されてませんか?結局は一人でオタクのように時間を潰すのでしょうか?「萌え」てるわけですね。

 「萌え」の使用法が違うと思いますが、少なくとも、某石原都知事をはじめ(その某都知事に対する批判はこちらを参照してください)、安易にナショナリスト的な言説を振りかざす俗流若者論者の最大の問題点を、ここまで凝縮して言い当てて見せた文章は皆無です。

 週刊!木村剛:[ゴーログ] 「なんとか審議会」は「なんとか」をやっているのか?(木村剛氏:エコノミスト)
 保坂展人のどこどこ日記:小泉語の摩訶不思議、「お互いに反省しよう」(保坂展人氏:元衆議院議員・社民党)

 以前、「俗流若者論ケースファイル13・南野知恵子&佐藤錬&水島広子」で、国会の「青少年問題に関する特別委員会」の議事録を批判したことがありますけれども、この議事録から見えることは、青少年問題に関する言説は、結局のところそれを語る人の社会観、世界観の凝縮である、という気がしてなりません。例えば佐藤錬氏(自民党)は、この特別委員会で、堂々と自己陶酔的な歴史観を述べていたのですから。それ以外にも、例えば最近ベストセラーになっている『壊れる日本人』(新潮社)の著者、柳田邦男氏(ノンフィクション作家)は、現代の青少年の行動(当然、過度に醜悪化、図式化、単純化されたものです)に「ケータイ・ネット依存症」の影を見出し(柳田氏こそが「ケータイ・ネット批判依存症」だろうが、という突っ込みは置いておいて)、曲学阿世の徒・京都大学霊長類研究所の正高信男教授は同様の青少年の行動に「ケータイを持ったサル」というレイシズムを押し付けることによって「日本人の退化」を嘆いてみせた(知性が退化しているのは正高氏ですよね)、スピリチュアル・カウンセラーの江原啓之氏は(この人は、堀江貴文氏よりも格段に「虚業家」ではないかと私は思います)これまた同様の青少年の行動に関して「たましい」(我々が普段使っている「魂」とは違います、あしからず)の劣化した存在とまたレイシズムを押し付けました。結局のところ、俗流若者論を安易に振りかざす人たちは、その社会観の貧しさを如実に表している、いわば、馬脚を現しているのです。このような人たちは、即刻退場していただきたいですね。

 それにしても、「論座」平成17年6月号に掲載された、「自民党議員はこんなことを言っている!」なる、「論座」編集部による自民党改憲派議員の「妄言録」は、読んでいてうんざりします。なぜって、編集部の人たちは気付いているかはわかりませんが、ここに出てくる発言のほとんどが、憲法にかこつけた俗流若者論だからです。近く「俗流若者論ケースファイル30・自民党改憲派議員」として、憲法にかこつけた俗流若者論の問題点を抉り出そうと考えていますが(29回はノンフィクション作家の吉田司氏を採り上げる予定です)、改憲派の中には、「今時の若者」にかこつけた改憲論を自信満々に開陳する人たちがたくさんいます(この中の一人である、ジャーナリストの細川珠生氏に関しては、「俗流若者論ケースファイル31・細川珠生」で採り上げます。「諸君!」平成16年5月号を読んで予習しておいてください)。まあ、彼らにとっては、青少年それ自体よりも、青少年に対する不信感を煽る言説に扇動される人たちのほうが得票数や部数の上昇につながるのでしょうが、私はここで、青少年の不当な「政治利用」を許すな!と言いたい。

 あと、保坂展人氏は、《小泉内閣は「自民党」は壊さなかったが、日本語はブチ壊した》と述べておりますけれども、日本語を壊したのは、小泉内閣だけではありません。俗流若者論も、です。俗流若者論は、その場しのぎのただ過激なだけの言葉を吐いて、無責任に去っていく。そして、そのような過激なだけの言葉は、人々の不安を扇動させるだけさせて、結局現実の青少年を苦しめる。

 ン・ジュンマ(呉準磨)の備忘録:使える論壇誌(笑)
 オピニオン系の雑誌は、その多くが赤字経営であるそうです。しかし、私見によれば、このような雑誌は、たとえ読む人が少数であっても、そこで実りのある言論が展開されていれば、赤字覚悟でも出し続けるという志がなければいけないような気もしています。このような雑誌の存在は、一点突破的になりがちな「世論」を諌めるために一役買う役割を負わなければならないと思います。

 それにしても、この手の雑誌で一番売れている「正論」は、この手の雑誌の中では一番面白くない雑誌です。なぜって、毎号毎号同じような見出しと内容ばかりで、最近は陰謀論まで飛び出している始末ですからね(「俗流若者論ケースファイル25・八木秀次」「俗流若者論ケースファイル28・石堂淑朗」を参照されたし)。特に「世界」や「論座」といった左翼寄りの月刊誌は、既存の枠組みを反芻するのではなく、もっと問題の本質を切り込むような――これについては、「論座」の平成16年4月号の特集における、斎藤環氏と宮崎哲弥氏(評論家)と金子勝氏(経済学者、慶應義塾大学教授)の対談で触れられていましたが――特集をやって、若年層やビジネスマンを取り込むような試みをするべきでしょう。
 ちなみに私の現在のお勧めの月刊誌は、「論座」と「中央公論」です。また、「世界」今月号は、鈴木謙介氏(国際大学グローバル・コミュニケーションセンター研究員)による「若年層の右傾化」論に対する反論と、ジャーナリストの二村真由美氏による江本勝(「水は答えを知っている」などでおなじみの人です)批判につられて、思わず購入してしまいました。月刊誌編集部の皆様、俗流若者論批判と、疑似科学批判は「買い」ですよ。

 お知らせ。以下の文章を公開しました。
 「俗流若者論ケースファイル26・三砂ちづる」(6月3日)
 「この「反若者論」がすごい!02・河北新報社説」(同上)
 「俗流若者論ケースファイル27・毎日新聞社説」(6月4日)
 「壊れる日本人と差別する柳田邦男」(6月6日)
 「俗流若者論ケースファイル28・石堂淑朗」(6月14日)

 また、久しぶりに書評を書きました。トンデモ本の書評ですが。

 柳田邦男『壊れる日本人』新潮社、2005年3月
 title:俗流若者論スタディーズVol.3 ~壊れているのは一体誰だ?~

 初めて全編会話調で書評を書きました。

 もっとも、広田照幸『教育言説の歴史社会学』(名古屋大学出版会、2001年1月)、内藤朝雄『いじめの社会理論』(柏書房、2001年7月)などといった良質な本も多く読んでいるので、そちらの書評も充実させるつもりです。

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2005年6月14日 (火)

俗流若者論ケースファイル28・石堂淑朗

 私はこれまで、俗流若者論の、「今時の若者」の発生した「原因」に関して、その「原因」を何かに特定し、そしてそれに対する悪影響論をしきりに唱える、という態度に対して、まるで陰謀論のようだと指摘してきた(罵ってきた)。しかし、俗流若者論の研究において、まさか本物の陰謀論に出会えるとは思わなかった。

 その主張とは、昨今推し進められている「教育改革」は、なんと我が国を衰亡させるイスラームの陰謀だというのである!もっとも、正確に言えば、現在推し進められている「教育改革」の推進派とイスラームが手を組めば、我が国が滅びる、というものだが(これでも驚愕ものであろう)。提唱しているのは、産経新聞の月刊誌「正論」で「平成餓鬼草子」なる、俗流若者論の頻度がかなり高い連載を執筆している、脚本家で評論家の石堂淑朗氏だ。今回採り上げるのは、石堂氏のこの連載の第88回と89回(「正論」平成17年3月号、4月号)である。

 なにせ石堂氏、第88回の最初からいきなり《9・11の犯人の事を考えているうちに、イスラム人は本質的に全員過激派ではないかとの思いを強く持つようになった》(石堂淑郎[2005a]、以下、断りがないなら同様)と断定してしまっているのだから。まあ、この雑誌のスタンスが明らかに「親米保守」だから、キリスト教がいかなる状況であるか、ということを持ち出すと、キリスト教原理主義者に牛耳られている米国を批判することになりかねないから、キリスト教、あるいは他の宗教との比較をしないのだろう。ちなみに、キリスト教に関しては、最近、ドイツの哲学者、フリードリッヒ・ヴィルヘルム・ニーチェの著書『アンチクリスト』が会話調の現代日本語で講談社から出版されているから、そちらを参照していただきたい(フリードリッヒ・ヴィルヘルム・ニーチェ[2005])。

 さて、石堂氏の問題意識がどのようなものであるかを観察するには、86回の189ページの下段が参考になろう。曰く、《出稼ぎに繰る貧しいフィリピン人には、一日五回跪いてメッカを向いて祈るイスラムもいる。アラーアクバル(偉大なり)である。アラーのほかに神は無し!日本人の医療行為よりお祈りが優先するだろう。ラマダン(断食月)の日だと大変だ。彼らは朝から晩まで食わない。食うと言えばそもそも豚は食わない。民族のアイデンティティーが絡む故にこの種の課題は小直しが利かない》。《日本人の医療行為よりお祈りが優先するだろう》とは、単なる邪推でしかないのだが。ちなみに石堂氏は、190ページの上段で次のように記述する。曰く、《私はその国の基本を知るには先ず小中学校を知ることだろうとずっと思っている。……過激派が理系の勉学にストップを掛けるという話を知った今、……》と。石堂氏は、米国の小中学校でも、キリスト教原理主義に基づき進化論を教えることが禁止されている事例がある、ということをご存知なのだろうか(マーティン・ガードナー[2003])。それだけでなく、キリスト教原理主義による勢力は、進化論だけでなく性教育も禁じている(ジュディス・レヴァイン[2004])。

 そして192ページにおいて、石堂氏はついに本音を語ってしまう。何でも、イスラーム人は理系科目ができないから、過激派なのだそうな。曰く、《自然科学を拒否するとは粗雑で直ぐに切れる頭を作ろうという事に他ならない。思うにイスラム過激派が血の気が多く直ぐに人殺しをやるのは自然科学不勉強の結果なのだ》と。ここまでぶっ飛んだ論理を開陳できるのも、石堂氏がこのようなタコツボ化したオピニオン雑誌の典型とでも言うべきメディアで日々俗流若者論を開陳しているからに違いない…、と、少々口が滑ってしまったことをここで謝罪したいが、少なくとも、石堂氏は、《自然科学不勉強の結果》がいかに《粗雑で直ぐに切れる頭》を作るか、ということに関して論証的な研究を提示すべきであろう(理系科目の成績と犯罪率の相関関係とか)。さもないと、単なるカタルシスのためのレイシズムに過ぎない…、いや、この石堂氏の連載それ自体がカタルシスなのだから、しょうがないか。また口が滑ってしまった。

 それでも、石堂氏のこのような論証立てに対して、今の我が国の(!)マスコミがいかに自然科学や統計学に無知であるか、ということを立証すれば、石堂氏は立ち往生するのではないか。精神科医の斎藤環氏を始め、私を含めて多くの人が批判している、日本大学教授の森昭雄氏の「ゲーム脳」理論が、マスコミや俗流若者論において、その「理論」が科学的に穴だらけであるにもかかわらず、無批判に受け入れられている、という現象を見れば、今の俗流若者論がいかに《自然科学不勉強》であるかがわかるであろう。それ以外にも、マスコミには、初歩的な自然科学や統計学の間違いが数多く存在する。そもそも石堂氏は理系科目ができるのであろうか。一度、学力テストでも受けてみるがいい。そしてその成績を開示してほしい。

 ちなみにこの文章において、石堂氏は京都大学教授の小杉泰氏を批判するのだけれど、この小杉氏に対する批判もまた、石堂氏の妄想から来ているものである、ということを指摘しておきたい。曰く、《過激派が一過激派である所以は物の神を軽視し、神学という名の屁理屈ばかり捏ねている結果である、という風な私の疑問と言うか一般人の疑問に小杉教授は答えるように番組を進めて行くのがマトモナ学者の四つ相撲であろう。同教授もイスラムはプロダクト(物作り)に弱い面があると口走りはするのだが、一番肝心な教育問題には触れようとしないのだ。何か怖がっている、腰が引けている。過激派が怖いか》(192ページ)と。

 石堂氏が石堂氏である所以は論理と実証を軽視し、陰謀論という名の《屁理屈ばかり捏ねている結果である、と言う風な私の疑問と言うか一般人の疑問に》石堂氏は答えるように文章を進めて行くのが《マトモナ》評論家の《四つ相撲であろう》。石堂氏は《一番肝心な》その点には《触れようとしないのだ》。《何か怖がっている、腰が引けている》。産経新聞社や、編集長の大島信三氏が怖いか。

 閑話休題、石堂氏はついに本音を語ってしまう。192ページ下段において石堂氏曰く、《この悲惨な結果(筆者注:我が国において理系科目の成績の低下が進行していること)を齎しつつあるゆとり教育の推進者が自然科学の勉学中止を要求するイスラム過激派と結託したら日本はどうなるかというのが私の不吉な予感なのである》と。ここまで妄想によって自分で自分を盛り上げることのできる石堂氏に、ほとほと感服するほかないのであるが、何も《イスラム過激派》でなくとも、キリスト教の過激派だって自然科学を敵視している。というのは枝葉末節であるが、このような石堂氏の論理が、単なる妄想の産物でしかなく、しかもいわれなきレイシズムにも満ちている、ということについては指摘しなければなるまい。

 それはさておき、ついに石堂氏はこのような陰謀論に走ってしまった、というのは事実なのだから、この次の回を楽しみにすることにしよう。ここから、石堂氏の連載の第89回の検証に映るのだが、ここにおいて石堂氏は数多くの事実誤認をやらかしている。

 例えば、89回の184ページから185ページにかけて、

 そこへ持ってきて駄目押しさながらに大阪寝屋川の小学校で起きた教師刺殺事件の発生である。犯人の少年は中学を止めた後大検に合格、大学受験を狙いつつ、相当程度ゲームに嵌っていたようである。事は旧聞に属しつつあるが長崎で起きた少女による少女の頸部切傷が原因の殺人事件、これはメール交換がついに殺意の増幅を生んだとされており、インターネットによる集団自殺事件は言うに及ばず、飛躍するがライブドアのホリエモン(筆者注:ライブドア社長の堀江貴文氏)が起こした世にも世知辛い株買占め事件など薄ら寒い事件は全てコンピューター無くしては起き得ない種類の事ばかりである(石堂淑朗[2005b]、これ以降は断りがないなら同様)

 と言っている。もちろん、過去にあった《世にも世知辛い事件》を無視して、だ。ここまでマスコミが叫びまくった事例を提示しまくったら、「正論」の読者なら安易にインターネット有害論に引き込めるかもしれないが、皮肉屋の目は騙せない。原因をひとつのものに求めたがるのは、俗流若者論の基本である。ちなみに、いい加減うんざりしているのだが、文中の長崎の事件について、安易に《メール交換がついに殺意の増幅を生んだ》と書いているのだけれども、実際にはチャットである。しかも、このような暴論を振りかざす人たちは往々にして無視するのだが、この事件の犯人と被害者は以前から親密な繋がりがあり、それと思春期の心情に即して考えたほうがよほど説得力がある(ちなみに明治学院大学専任講師の内藤朝雄氏が、この二つの側面からアプローチを行なっている。内藤朝雄[2004])。

 しかも石堂氏は、185ページにおいて相当な事実誤認をやらかしている。曰く、

 パソコンすなわち個人専用コンピューターの本質が使用者の大脳無差別破壊につながる可能性ありということを、発明者はじめ科学者が誰も言わなかったのは不可解千万だと、今頃喚いてももう遅い。パソコン関連の諸活動は儲かるからだ。金が倫理より強いと言うことをライブドアの実践が日々示しつつある。

 拙者、ギター侍じゃ…。

 俺は石堂淑朗。

 このごろの、不可解な、事件はみんな、コンピュータが原因だ。

 コンピュータの使用が、大脳の、破壊を、もたらすのを、どうして誰も指摘しない!!

 …って、言うじゃな~い…。

 でも、そんなことは、とっくに日大の教授・森昭雄が喧伝してますから!!残念!!

 ついでに言うと『ゲーム脳の恐怖』は、第12回日本トンデモ本大賞次点、斬り!!!

 所詮、この世は、お金です。

 倫理は、この世にゃ、無用です。

 問題の多いインターネットを誰も批判しないのも、全ては金のため!

 …って、言うじゃな~い…。

 でも、「理解できない」若年犯罪が起こるたびに巷はインターネット批判で溢れかえり、しかもそのようなインターネット批判にこそまったく倫理が見当たりませんから!!残念!!

 インターネット批判こそ、自称「識者」にとっては最大のドル箱、斬り!!!

 まあ、所詮私の如きが「ギター侍」の真似事をやっても、本家の足下にも及ばないのだが、読者諸賢には、石堂氏の物言いがいかに間違いに満ちているかがお分かりになるだろう。それにしても、前回の冒頭でもそうだったけれども、石堂氏は安易に《本質》という言葉を使いすぎる。所詮この《本質》と言うことが、石堂氏の妄想の産物に過ぎない、ということは、我々は覚えておいて然るべきだろう。

 ついでに言うと石堂氏は188ページ下段において同様の記述を行なっている、ということもここで指摘しておく。

 この文章には、他にも事実誤認、論理飛躍がそこらじゅうに見られるのだが、この石堂氏の連載の89回目において言えることは、石堂氏が我が国をここまで堕落せしめた原因としてコンピュータを「発見」し、それを壊すことこそが我が国を救う近道だ、という安易な「憂国」に走っていること、また、石堂氏が自分の論じたいことに対してろくに取材や調査(新聞記事レヴェルの調査すらも)行なわず、ただ自分の思い込みだけで物事を語り、そこに事実誤認があっても気にしない、という、物書きとして犯してはならない過ちを抱えていることだろう。

 石堂氏は、自分こそが現代の問題の本質を知っている、と思っているだろうが、所詮は自らの妄想の産物でしかない「本質」なるものを無批判に信奉し、それに退治している自分を盛り上げることによってヒロイズムに浸っているしかないのである。しかも、先ほども指摘したとおり、石堂氏は、特定の民族に対する差別や、事実誤認を多く抱えており、もはや言論を生業とするものとしての倫理をかなぐり捨てているのではないか、と思えるほどだ。

 ついでに言っておくと、自分こそが現代の問題の本質を知っている、という叙述方法は、明らかに陰謀論のものである。また、陰謀論は、自分以外を問題の「本質」を知らない者として貶めることによって成り立つため、他者に対する自己の優位性を誇示するための最も簡単な、しかし最も問題の大きい方法でもある。また、陰謀論は、自分を「正義」に設定して、誰か「悪」を決めてしまえば、後はそれに従ってひたすらその「悪」を叩けばいいから、誰だって書けるものである。

 現代の抱える問題は、所詮、コンピュータを破壊しただけで解決できる代物ではないことぐらい、石堂氏には理解していただきたい。自分を「正義」と夢想する石堂氏は、自らの安易な歴史観と問題意識を一度捨て去ってみてはどうか。

 それにしても、石堂氏のこの連載には、俗流若者論がかなり頻繁に出没する。機会があったら、集中的に採り上げることにしよう。

 参考文献・資料
 石堂淑朗[2005a]
 石堂淑朗「褌を締め直そう!」=「正論」2005年3月号/石堂淑朗「平成餓鬼草子」第88回、産経新聞社
 石堂淑朗[2005b]
 石堂淑朗「豆炭心中」=「正論」2005年4月号/石堂淑朗「平成餓鬼草子」第89回、産経新聞社
 マーティン・ガードナー[2003]
 マーティン・ガードナー、市場泰男:訳『奇妙な論理』全2巻、ハヤカワ文庫、2003年1月
 内藤朝雄[2004]
 内藤朝雄「「友だち」の地獄」=「世界」2004年12月号、岩波書店
 フリードリッヒ・ヴィルヘルム・ニーチェ[2005]
 フリードリッヒ・ヴィルヘルム・ニーチェ、適菜収:訳『キリスト教は邪教です!』講談社+α新書、2005年4月
 ジュディス・レヴァイン[2004]
 ジュディス・レヴァイン、藤田真利子:訳『青少年に有害!』河出書房新社、2004年6月

 B・R・アンベードカル、山際素男:訳『ブッダとそのダンマ』光文社新書、2004年8月
 大川玲子『聖典「クルアーン」の思想』講談社現代新書、2004年5月
 酒井啓子『イラク 戦争と占領』岩波新書、2004年1月
 カール・セーガン、青木薫:訳『人はなぜエセ科学に騙されるのか』新潮文庫、2000年11月
 寺島実郎、小杉泰、藤原帰一(編著)『イラク戦争 検証と展望』岩波書店、2003年7月
 日垣隆『世間のウソ』新潮新書、2005年1月
 宮台真司『亜細亜主義の顛末に学べ』実践社、2004年9月

 石川雅彦「アメリカ帝国の神々」=「AERA」2005年4月4日号、朝日新聞社
 諸永裕司「日本人ムスリムの暮らしぶり」=「AERA」2001年7月2日号、朝日新聞社
 山本弘「君にもユダヤ陰謀論が書ける」=と学会(編)『トンデモ本の世界』宝島社文庫、1999年2月

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2005年6月 6日 (月)

壊れる日本人と差別する柳田邦男

 私が俗流若者論に対して違和感を持つようになったのは高校1年の頃だ。私が高校1年だった平成12年5月、マスコミで「17歳の殺人」が喧伝され、私が世間から殺人者として見られているのではないか、という恐怖心に駆られていた。そして、私が俗流若者論に対して本格的に批判的検証を行うようになったのは、高校2年のとき、17歳になる数ヶ月前であった。最初の頃は、感情論的な「反論」ばかりであったが、大学生になってからは疑似科学批判や俗流若者論が生み出すナショナリズムやレイシズム(人種差別)に対して批判を行なうようになった。

 俗流若者論を読んでいると、吐き気を催すほどの空疎な言葉ばかりが飛び交う。国家、愛国心、日本人、心、伝統、文化、道徳、本質、堕落、失敗、そして崩壊。これらの言葉は、単なる自らの自意識の発露でしかなく、そこから読み取れるのはただ自分だけを肯定した上で若年層をしきりにバッシングしようとする残酷な意識である。

 もちろん、彼らにとっては「正義」なのかもしれない。しかし、その「正義」が現実に生きる青少年にいわれなき誤解をかぶせられ、彼らが亡国の鬼胎として不当に「政治利用」されることを正当化しているのであるから、当の青少年にとっては迷惑千万であろう。

 彼らが「日本の崩壊」を好んで語るとき、限りなく10割に近い人たちが「今時の若者」をしきりに嘆く。しかし、彼らの「憂国」は、所詮はマスコミで興味本位に報じられているような表層的なものでしかなく、マスコミの報道に対して疑ったり、あるいはマスコミが報じないような青少年の「現実」を探り当てようとする人は、この分野においては皆無である。なぜか。そのような試みは地味であるから、たとえ実りのある結果が出たとしても、人々はマスコミの喧伝する「今時の若者」なるバーチャルリアリティーに踊らされている。なので、ほとんどの人が気づかない。

 作家の柳田邦男氏の最新刊、『壊れる日本人』(新潮社)も、所詮はマスコミの「憂国」にただ乗りしたものでしかないのである。なぜ私がそう考えるのかといえば、柳田氏の問題意識が同書のあとがき(217ページ)にこのように記されているからである。

 超一流企業のエリート経営者がなぜあのようなおろかな判断を下したのかと理解に苦しむような企業不祥事が続発する。若者たちが見ず知らずの相手とネットで交信して、ある日あるとき、集合して集団自殺をする。少年や少女による残忍な殺人事件が相次いで起こる。

 この国が変になっている。この国の人々がおかしくなっている。それは確かなことだ。だが、日本人のどこがどのようにおかしくなっているのか。なぜそうなったのか。そう問いかけても、根源にあるものは見えにくく、答を見出すのは難しい。(柳田邦男[2005]、以下、断りがないなら同様)

 極めてデ・ジャ・ヴュに満ちた文言である。この程度の「憂国」言説において、問題視されるのが《超一流企業のエリート経営者》と《若者たち》と《少年や少女》であることはもはや定番としか言いようがない。しかも《なぜあのようなおろかな判断を下したのかと理解に苦しむような企業不祥事》と《集合して集団自殺》にはかなりの飛躍があると思うのだが、柳田氏にとっては同列のものなのであろう。

 なぜか。それは、柳田氏が《この国が変になっている。この国の人々がおかしくなっている。それは確かなことだ。だが、日本人のどこがどのようにおかしくなっているのか。なぜそうなったのか》と語っている通り、これらの問題は柳田氏にとっては日本人の根源において精神構造が崩壊していることの証左だからである。個人や企業構造の問題を解決する前に、一足飛びに「日本人」全体の精神病理として批判してしまうことは、短絡的なナショナリストの常套手段である。

 そして、柳田氏は、このような日本人の精神構造の崩壊をもたらしたものが、《「人間を壊す見えない魔手」「二十一世紀の『負の遺産』は心と言葉にかかわる見えないもの」「IT時代がかかえこむ見えないジレンマ」》であると推測する。もちろん、他のファクターは無視されている。柳田氏は、218ページから219ページにかけてこのように書いている。曰く、

 IT革命による情報化は、言葉の世界に直接的に影響をおよぼす。同時にIT機器とりわけメディアへの長時間の接触と依存は、心の影響を与えないわけがない。とくに子どもの場合は、心の発達と人格形成に影響をおよぼす危険性が高い。いずれにせよ、IT革命という二十一世紀型の科学技術の担い手の「負の側面」は、情報処理やコミュニケーションという見えにくいものによってもたらされ、その結果も、心と見えない世界に生じる現象なのだ。

 極めて興味深い指摘である。特に、柳田氏が《言葉の世界に直接的に影響をおよぼす》だとか《心の影響を与えないわけがない》だとか《心と見えない世界に生じる現象なのだ》だとか、定量化が難しい事例に対してただ憶測だけを重ねて警鐘を乱打していることが(しかし空回りしてばかり)。これは現代における「非社会的な若者」への不安を扇動する言論に共通して言えるもので、「反社会的な若者」が既存の「世間」によって与えられた境界線の枠組みにのっとって反社会的行動をしているのに対し、「非社会的な若者」は既存の境界線の枠組みに関わる行動をしているので、「世間」の境界線を死守するだけの俗流若者論は、彼らを「世間」の枠組みの中に再び囲い込め、としか言うことができない。「非社会的な若者」は、「反社会的な若者」とは違い、不可視的であるから、好きなように不安を扇動することが可能だ。柳田氏は、まさに「不可視的なものに対する過剰な不安扇動」をやってのけている。

 そして、詳しくはこの後の議論に譲るが、柳田氏にとっての「言葉」だとか「心」だとかいった文言は、所詮は「想い出の美化」イデオロギーに満ちたものでしかなく、それが現実の青少年をいかに苦しめるものであるか、ということに対する柳田氏の想像力は、完全に放棄されている。これは、昨今の憲法や教育基本法の改正論にも共通するものでもある。柳田氏は、いつから御用ジャーナリストになったのか。

 以下、柳田氏の著書における、特に問題の多い箇所を検証していくことにしよう。

 ・7~22ページ「見えざる手が人間を壊す時代」…見えざる手が柳田邦男を壊す時代
 7ページにおいて、柳田氏はテレビで見た《東京の山の手の住宅街にある有名幼稚園の話題》について述べる。そのとき、柳田氏は、その幼稚園の多くの子供が高級車で一人一人送られる、という事実に驚愕した。確かに、柳田氏が驚いた理由もわからぬでもない。しかし、柳田氏は8ページにおいて、《子育てに関して、何か凄いことが、この国を覆いつつあるように思えた》と、一つの特殊な事情を持った(柳田氏は8ページにおいて《所得水準の高い過程であるのは確かだ》と言っていたはずだが)幼稚園における情景を元に、日本全体に関して論じてしまうのである。おかしくはないか。

 しかも11ページにおいて、柳田氏は、そのような状況にある現代の子供たちに関して(もちろん、柳田氏の誇大妄想だろうが)《今の子どもはそういう状況の中にあっても、なぜか気が変にならない。いや、実際には変になっているにちがいないのだが、みんなが同じように変になっているので、変であることに気づかないだけのことなのだろう。最近変な事件が頻発しているではないか》とさらに妄想を深化させてしまう。はっきりいって、この短い文章の中に《変》という言葉が繰り返し、しかもなんの躊躇もなく使われていることが、私にとっては恐ろしいことである。しかも《最近変な事件が頻発しているではないか》と書いて、読者の感情に訴える形をとっているけれども、柳田氏はいかなる事件を指してそういっているのか、開示を望む。

 また、柳田氏は、14ページにおいてある疑似科学について好意的に触れる。もちろん、ゲームをやると脳が異常になって、子供たちの社会性の発達を阻害する、という「ゲーム脳」理論だ。この理論に対する論理的検証、さらに思想的な検証は、精神科医の風野春樹氏が行なっているのでそちらを参照してもらうとして(風野春樹[2002])、柳田氏が、「最近の子供たちは異常だ」という一点張りでこの問題の多い「ゲーム脳」理論を信奉していることが恐ろしい。しかも、15ページから16ページにかけて、科学的検証など無用だ、と開き直っているのだからさらに戦慄する。

 その上17ページにおいて、柳田氏は、次のように述べている。

 そこで私は情報環境の変化に焦点をあてて考察しているのだが、テレビやゲームはバーチャルリアリティ(仮想現実)の世界だ。ところが、社会生活の経験が少なく、情報への批判力もない子どもが、毎日長時間テレビを見たりゲームにふけったりしていると、その子にとっては、仮想現実の世界と現実の世界の区別がつかなくなるばかりか、やがて仮想現実の世界のほうに現実味を感じるという逆転現象が起きてくる。そういう点で“先駆的”と言える世代が、すでに二十代になっている。

 で、柳田氏がその証左として17ページから18ページにかけて述べているのが、結局のところ《若い女の子》の行動。当然、私は腰が抜けた。柳田氏にとっては、その行動が《脳が仮想現実の世界から抜け出していない、つまり自宅のソファーでテレビを見ているのと同じ感覚で電車に乗っているからだととらえたほうが納得できる》のだそうだ。柳田氏は、ここまでわけわからずのアナロジーでも、相手が「今時の若者」ならば通用するとでも高を括っているのか。いい加減、マスコミが興味本位で採り上げたがる「今時の若者」の「問題行動」から、空疎な「時代の病理」を読み取って悦に入ることをやめてはくれないか。

 当然の如く、柳田氏は、20ページから21ページにかけて、平成12年の佐賀のバスジャック事件にかこつけて、《本来なら心の中だけの幻想で終わってしまうこういう想いを、仮想現実で終わらせないでそのまま現実世界に持ち込んでいく。「バーチャルな多重人格」においては、仮想現実が現実世界を圧倒してしまうのだ》と平気で論じてしまう。マスコミと俗流若者論によって意図的に捏造された仮想現実が、現実世界を圧倒しているのは、柳田氏のほうであろう。

 ・23~39ページ「広がるケータイ・ネット依存症」…「敵」はどこにいる?
 この章において、柳田氏は明確に携帯電話とインターネットを「敵」として「発見」する。柳田氏は、25ページにおいて、壮大な差別言説を開陳してしまっているのである。

 私などの目から見ると、今時の若者たちは気の毒だなと思う。ファミリー・レストランなどに入ると、あちこちの席に若い男女の二人連れが座っている。ところが、お互いに顔を見つめ合って話しにはずみをつけているカップルは、少ない。何をしているのかと思って見ると、二人がそれぞれに手許のケータイでピコピコとやっている。私はそういう若者たちを不思議な動物だなと思うのだが、若者たちはいまや総ケータイ依存症になっているから、自分たちを変だとは思わない。

 ここまでひどい差別はあるまい。何せ、柳田氏にとっては現代の若年層は《不思議な動物》、すなわち人間以外のものとして認識されているのだから。これは明白なレイシズムであろう。いつから柳田氏はレイシズムを許容するようになったのか。しかも《若者たちはいまや総ケータイ依存症になっているから、自分たちを変だとは思わない》と、検証もなしに自らの思い込みだけでものを語ってしまっているのだから、救いようがない。もう一つ、このようなことが、どこまで広がっているのか、ということについて、柳田氏は検証したのだろうか。

 このような態度だから、柳田氏は《ビジネス界の「人の砂漠」》(26ページ)だとか《患者の顔を見ない医師》(28ページ)も、全て携帯電話とインターネットのせいにしてしまえるのである。

 笑ってしまったのは32ページで紹介されている「事例」だ。曰く、聴診器と間違えてパソコンのマウスを患者の胸に当てようとしたという。このような事例は、患者にとっては「しっかりしてくださいよ」と言いたくなるような単純なミスであるし、単にこの医者がおっちょこちょいだった、という可能性もある。しかし柳田氏にとって、こんな些細なことですらも《コンピュータ化時代ならではの問題点が見えている》のだそうだ。では聞こう。もし、ここで間違って患者の胸に当ててしまったのがメモ帳とか文鎮だったら?柳田氏は口が裂けても《コンピュータ化時代ならではの問題点》などとは言うまい。結局、柳田氏の問題意識は、この程度のものでしかないのだ。それ以外にも、柳田氏は、36ページにおいて、《四国八十八ヶ所の霊場をクルマでいかに早く回ったかを自慢する人がいるほど、効率化の価値を重視する時代だ》と、一部の(柳田氏にとって)衝撃的な事例を「時代の病理」と短絡してしまっている。

 他にも、この章においては、医療を始め、さまざまなことが、コンピュータ化時代の「負の側面」として描かれているのだが、コンピュータ以前の時代の状況がどうであったか、ということについては一切触れずじまいだ。

 結局のところ、この章は、柳田氏が携帯電話とインターネットを「敵」と見なして、それを潰すために的はずれな「批判のための批判」を重ねているだけの下らない章であり、そのような態度でいいのか、という根本的な疑問は一切放棄されているのである。

 柳田氏は、これ以降において、「非効率主義」「あいまい文化」の重要性について論じる。それについて述べたところは、私も共鳴するところは少なくない。だが、しかし。柳田氏が本書で開陳している俗流若者論は、明らかに白と黒を明確に線引きし(当然自分は「白」である)、グレーゾーンはまったく存在しない。しかも、柳田氏の文章からは、ある事象に対して多面的に検証する、という態度がまったく欠けており、「非効率主義」「あいまい文化」とは明らかに相反する執筆姿勢であることには疑いはないだろう。

 ・58~74ページ「「ちょっとだけ非効率」の社会文化論」…単なる憂国的妄想の開陳
 この章は要するに、カーナビゲーションシステムに対する柳田氏の恨み節だけで終始しているのだが、ここにも《人間同士や人と環境(街や自然)とのコミュニケーションに電気機器が介入すると、深いところで本質的なコミュニケーションはむしろ阻害されてくるのではないか》(61ページ)と、《深いところ》や《本質》などといった空疎なアナロジーが安易に使用されている。

 また、《現実とバーチャルの倒錯》というアナロジーは、この章にも出現する(70~74ページ)。しかし、ここで採り上げられている事件に関しても、そのようなアナロジーを持ち出すのは、それこそ倒錯した論理ではないか。結局のところ、柳田氏は、コンピュータ化によって日本人の「本質」が壊されている、という妄想に浸りたいだけなのかもしれない。

 ・145~161ページ「人の傷みを思わない子の育て方」…人の傷みを思わない俗流若者論の育て方
 柳田氏は、145ページにおいて、《人が人を殺すのは、極めて人間的だ》と述べる。ここで言う《人間的》という言葉は、《他の動物には見られない人間特有》という意味である。柳田氏は、146ページにおいて《これほどまでに殺人が日常化し、システム化しているのは、この地球上にヒト科を措いて他にない》と述べているのだが、見方によっては、柳田氏が145ページにおいて述べているハヌマンラングール(サルの一種)の子殺しもシステム化されたもの、ということができるだろう。このような安易なアナロジーの使用は、論理を崩壊させる力を持つ。

 柳田氏は、147ページから、現代の少年や少女による殺人事件について述べる。しかし、《子どもが同じ子どもを殺すという事件が、しばしば起こるという状況はかつてなかった》だとか、《凶悪事件を起こす少年少女の低年齢化も不気味だ》と事実に反することを言う。実際問題、犯罪白書を見ればわかるとおり、少年による凶悪犯罪(殺人、強盗、強姦、放火)はすべてにおいて昭和35年ごろの数分の一に減少しており(強盗に関しては近年増加が認められるが、これは実数が増加したというよりも強盗罪の基準が低くなったことに起因する。土井隆義[2003]、浜井浩一[2005])、各事例に関しても、子供が子供を殺す、という事件は少なくなかった(宮崎哲弥、藤井誠二[2001])。このような事実が存在することを、柳田氏はどう考えているのか。柳田氏は、青少年の凶悪犯罪について、過去にさかのぼって調査したのか。

 しかし、柳田氏は、少年による凶悪犯罪の「増加」を前提として語っているので、しばらくはその前提を受け入れることにしよう。149ページからその原因論に入るのだけれども、そこにも(当然の如く、というべきか)過度な図式化や線引きが目立つのである。
 柳田氏は、151ページにおいて、「普通」の家庭について述べているのだが、これもまた柳田氏の妄想の産物に過ぎない。曰く、

 家計を受け持つ妻は、家賃の負担を感じながら、早く持ち家に住みたいと思い、その頭金作りの一助にと、パートに出ている。おしゃれのために、自分で自由になるお金もほしいという理由もある。時折娘に絵本を買い与えることはしても、自ら読んで聞かせることはしていない。読み気加瀬をすることが、母とこのスキンシップを深めることによる安定のためにも、幼い子の感性と物語の楽しさを味わう力を身につけるためにも、非常に重要だということを知らない。

 子どもはといえば、留守番の多い鍵っ子。ひとりでテレビを見たり、ゲームで遊んだりしている。ケータイも使える。母親が留守がちなので、連絡のためにケータイを買い与えたのだ。絵本を落ち着いて読む習慣がない。保育園では、協調性が乏しく、すぐに友達を手でぶつと、保育士から言われている。

 これは今の日本では、まさに「普通」の家庭だ。つまり「一般的」という意味で「普通」なのだ。しかし、このような状態を、子育ての条件として「正常」と言えるだろうか。「赤信号、みんなで渡れば怖くない」とよく言われるが、大部分の家庭や家族が「赤信号」の中で暮らしていると、それが「普通」となり、誰も危険を意識しなくなってしまう。

 このような図式化が今の俗流若者論では、《まさに「普通」の》若者論だ。《つまり「一般的」という意味での「普通」なのだ。しかし、このような》暴論を、青少年に関する言説として《「正常」と言えるだろうか。《「赤信号、みんなで渡れば怖くない」とよく言われるが、大部分の》自称「識者」が《「赤信号」の中で》馴れ合って暴論を開陳していると、《それが「普通」となり、誰も危険を意識しなくなってしまう》。

 結局のところ、これは、「批判のための批判」としか言いようがない。つまり、あらかじめ「犯罪を簡単に起こす子供達を育てる家庭」なるものを批判するために、このような図式をでっち上げているのである。柳田氏よ、貴方もジャーナリストであれば、現代の家庭に関しても綿密な取材・調査を行うべきではないか。

 当然、151ページの最後から152ページの最後においては、柳田氏の生まれ育った環境と現在の家庭環境の比較を行なうのだが、これを印象操作という。要するに、柳田氏の生まれ育った環境は過度に美化されているのに加え、現在の家庭環境は過度に醜悪化されているのである。

 そして、案の定、153ページから154ページにかけてこのようなことを述べてしまう。曰く、《どのようにすれば子供の心が真っ当に育つのかという問題に対し、国も地域も親たちも具体的で有効な対応策を見つけ出せないまま立ちすくんでいるという状況を、私は論じているのだ》と。「真っ当な心」など、イデオロギー的な妄想に過ぎないのに。

 また、柳田氏は、155ページから157ページにかけて、今規制が推し進められている「有害な」映画について述べているのだが、そこにもただ不安を煽るだけの論理だけが繰り返されるばかりだ。現在、柳田氏が問題視したがる「有害な」映画やゲームへの規制が東京都、神奈川県、埼玉県を中心にさまざまなところで行なわれているのだが、もしそのような規制が行なわれたら、柳田氏は喜ぶのだろう。「表現の自由」という、もの書きにとってもっとも大事なこともかなぐり捨てて。

 しかも柳田氏は、157ページにおいて《凶悪事件を起こした少年(少女)のほとんどが、他者の痛みを思っても見ない完璧なまでの自己中心の精神構造になっている》と言っているのだが、なぜそのような考えているのか、ということに関しては、平成16年6月の佐世保の事件における、犯人の日記、小説、ホームページでの書き込みしか触れられていない。さらに、柳田氏は、160ページにおいて、《幼少期のテレビゲームへの熱中による脳の発達のゆがみ》と書いている。幼少期からテレビゲームに熱中していた子供が、果たしてどれほどいるのだろうか。

 俗流若者論は、人の傷みを思わない。

 ・162~180ページ「ノーケータイ、ノーテレビデーを」…敵愾心の産物に期待が持てるか
 高校時代、私は教室掃除をしていたとき、友達と、「漢字を覚えてしまったら、漢字がない文章はとても読みづらくなる」ということを笑いながら話していたことがある。

 そして、そのような漢字を使わない文章が、まさか社会的に一定の地位を得た作家が、現代人に対する罵詈雑言に使うだろう事など、夢にも思わなかったのである。

 そう、柳田氏は、162ページから、165ページにかけての節で、《ケータイはカミサマ》と題して、柳田氏の携帯電話に対する敵愾心たっぷりの文章を、漢字をまったく使わないで書いているのである。読んでいて、激しい怒りが私の中に募った。これこそ俗流若者論の暴走だ、と私は確信した。このような漢字のない文章にすることで、《ケータイ》なるものに(私がこのような表現を使ったのは、《ケータイ》というのはもはやイデオロギーでしかないからであり、携帯電話及び携帯端末とは極めて乖離した存在であるからである)侵された者がいかに貧困な思考しか抱き得ないか、ということが極めて残酷に描かれているのである。柳田氏は、最初から「敵」を決めて、それに対する狼藉は、たとえ不当なものであってもいとわない、という考え方を暴走させ、ついにこのような暴挙に出てしまったのだ。本書のタイトルは《壊れる日本人》だが、壊れているのは確実に柳田氏だ。

 柳田氏は《ノーケータイデー》《「ノーゲームデー」「ノーテレビデー」「ノーインターネットデー」「ノー電子メディアデー」》が必要だ、と述べる。しかし、私はこれらには反対である。
 なぜか。柳田氏がこのような結論に至る過程には、さまざまな狼藉と誹謗中傷がある、ということは今まで述べたとおりであり、そのようなものから生まれた思索を、到底認めることなどできないのである。

 柳田氏は、当然の如く電子メディアの悪影響について自信満々で述べて、そしてそれらの「ノー○○○デー」がいかに子供たちにいい影響を及ぼすかを、実例を引いて述べている。しかし、柳田氏の視点に決定的に欠落しているものがある。それは、子供はどこまで親の監視監督下におかれるべきか、ということと、ある不安を抱えており、それに対する脱却にインターネットが大いに役立つこともある、ということの二つである。

 前者について言うと、柳田氏が述べている通り、現代の子供たちは昔以上に親の監視監督下におかれている。だからこそ、インターネットが、彼らの唯一の「居場所」になっていることがあるのだ。柳田氏は、そのような環境におかれた子供たちに対する想像力を、果たして持っているのか、問い詰めたい。柳田氏は、インターネット以外にも子供たちが「居場所」を探し出せるような環境作りという極めて大事なことを忘れて、電子メディアから子供を引き離せ、と主張しているのだから、柳田氏の論理が時代遅れだ、ということ以前に、柳田氏の論理は極めて暴力的なのである。

 また、精神科医の斎藤環氏によると、「ひきこもり」の解決にはむしろインターネットが有効だという(斎藤環[2003])。電子メディアの負の側面ばかりを強調して、それらを突き放すことによってよい面だけを生かすようにしよう、と柳田氏は述べているけれども、そんなことは単なる幻想に過ぎない。使用する過程で、いい側面も悪い側面も出てくるものだ、それは電子メディアに限ったものではないが。

 とにかく、敵愾心にまみれた汚れた「対策」に、何の期待が持てようか。

 ・181ページ~198ページ「異常が「普通」の時代」…そもそも「異常/普通」とは?
 182ページ、柳田氏は、前出の佐世保の事件について、《ケータイ・ネット時代ならではの側面に絞って詳しく分析した》と書いている。あれが《詳しく分析した》結果なのだ、と言われると、へそで茶を沸かしてしまう。これまで述べたとおり、柳田氏は、マスコミで報じられているあらゆる事件事象から、日常の些細な失敗まで、全てをコンピュータ化時代の病理に強引に結び付けて述べているのだから、本書は最初からアンフェアなスタンスで書かれている、ということを我々は自覚すべきだろう。

 183ページから184ページにかけて、柳田氏は、佐世保の事件の犯人の、長崎家庭裁判所佐世保支部による「審判決定要旨」を引用して、さらに185ページにおいて教育評論家の尾木直樹氏のある調査も引用して、この犯人の人格特性と絡めつつ、現代の子供たちがいかに危険であるかについて警鐘を鳴らす(書き飛ばす)。

 しかし、この尾木氏の調査に問題がある。尾木氏の調査は、平成10年に行われたもので、東京、京都、福島、長野の保育士456人に対して「子どもと親の最近の変化」についての調査をした、というものである。それによると、《1、夜型生活、2、自己中心的、3、パニックに陥りやすい、4、粗暴、5、基本的しつけの欠落、6、親の前ではよい子になる》という傾向が見られたらしいが、このような調査は、そのような答えを示した保育士が何を基準に語っているか、ということが問われるべきだろう。そもそもこのような回答には、「想い出の美化」というものが関わっている可能性もなくはないだろう。尾木氏、そして柳田氏は、そのことに関してコントロール(影響を排除すること)を行なったのか。しかし、柳田氏は、そのような疑問をはさむことはない。

 これ以外の内容は、柳田氏が以前に書いていた内容と大部分で重複するので、検証は控える。しかし、これだけは言いたい、柳田氏は、過去の自分を過剰に美化し、さらに現代の子供たちに過剰なまでの敵愾心を煽ることによって、差別や短絡的なナショナリズムの復活に貢献しているのだ、貴方はいつからそのような御用ジャーナリストになったのか、と。

 とりあえず、個々に関する検証はここで終わりにしよう。

 実を言うと、私は柳田氏のこの文章を、新潮社の月刊誌である「新潮45」に「日本人の教養」として連載していたときから愛読していた(もちろん、突っ込むことを楽しみにして。「日本人の教養」は、今も連載中)。柳田氏は、ノンフィクション界では相当の業績を残した人である、ということは知っていたし、また柳田氏の文章もいくつか読んだことがあるので、柳田氏がこのような文章を書いていることに、この連載の第1回を読んだ私は強い衝撃を覚えた。

 柳田氏のこの文章は、決して人間の視点で書かれたものではない。それでは、何の視点で書かれたものなのか。神の視点なのか。いや、違う。

 それは、政治の視点である。柳田氏は、過度に政治言説化された「今時の若者」のイメージを疑うことをせず、それどころかそれにただ乗りする形で、「今時の若者」の「政治利用」、要するに「今時の若者」を異物と見なして、それに対する「対策」をこそ至上の政策課題とする形で、本書は書かれている。そのようなスタンスで書かれた本書を、どうしてフェアーな書といえようか。本書は、限りなく政治に隷属された、人間味のない、罵詈雑言ばかりが繰り返された文章としかいえない。

 確かに、本書で問題のある部分として採り上げた以外の場所には、納得できる、あるいは共感できる部分もある。しかし、本書の中で「今時の若者」を敵視した文章に触れると、それ以外の部分で得た感動を一挙に裏切られてしまう。考えてみれば、本書で問題視しなかった部分でも、うわべだけの空疎な美辞麗句が頻出していた。

 このような、「今時の若者」を個々まで堕落せしめた「原因」を探し出し、それを排除する、あるいはそれに対する敵愾心を煽ることによって、子供たちを「今時の若者」にしないために、それらを過剰に敵視する。このような「残酷な温情主義」が、実在の子供たちを囲い込み、問題の解決を遅らせて、青少年から「居場所」を奪う。そして、このような残酷な温情主義と、子供たちを「国家」に従わせることによって自立心と社会性を育もうとする倒錯した論理が、戦略なき憲法と教育基本法の改正、あるいはメディア規制として析出している。

 そうでなくとも、今、手軽な社会批判として、多くの自称「識者」がインターネットを敵視し、自分の「理解できない」事件は何でもインターネットが原因と決め付ける。そして、インターネットを過剰に問題視し、「今の社会はここまで駄目になってしまった」とのコメントを流せば、マスコミは好意的にそれを紹介し、事件の真相を掘り起こすことを放棄して、そのような「憂国」に終始してしまう。

 なるほど、確かにインターネットや携帯電話といった存在、あるいはひきこもりや不登校といった存在は、強固な共同幻想によって結び付けられた「世間」にとっては「境界線の撹乱者」だ。そして今、その「境界線の撹乱者」に対して起こっている過剰なバッシングが、少年犯罪や「オタクの犯罪」にかこつけて行なわれている。しかし、我々にとって必要なのは、そのような「境界線の撹乱者」に対してどう向き合うか、ということではないか。

 俗流若者論は逃避の論理だ。俗流若者論は、自分の持っている幻想と、「世間」という幻想に逃げ込むことにより、自分を絶対化して、他者の痛みに気づくことを阻害させる。まさに、俗流若者論に感化した人こそ、他者の痛みを思わない存在である。柳田氏もそうだ。

 今、この文章を書いているときに、ラジオを聴いている。声優がパーソナリティを務めているラジオで、最近のものはメールでやり取りするものも多くなったが(小森まなみ氏の番組など、メールを使っていないものもある)、これらのラジオに共通するものは、あらゆる作業の手を止めて静かに、あるいは勉強や作業をしながら、リスナーはパーソナリティの発言を楽しみ、番組にあてられる手紙やメールをを媒介して、電波によって多くの人がその空間を共有できる。そこには確かに「人間」がいる。このように、一人一人のリスナーに即しつつ、しかし不特定多数のリスナーにも、電波の向こうの情景を楽しむことができる。俗流若者論が決して実現し得ない、メディアを通じた濃密な時間が、そこにはある。「人間」によってつむがれる言葉は、強く、深く、美しい。

 柳田氏のこの文章は、元々は手書きでかかれたものであろうが、その言葉が「政治」と強く結びついており、「人間」の入る余地がなくなっている。「政治」に隷属させられた言葉は、輝きを失い、魂を殺し、弱く、浅く、醜い。

 もう一度言おう。

 貴方は、いつから、このような物言いを許された、御用ジャーナリストになったのか、と。

 参考文献・資料
 風野春樹[2002]
 風野春樹「科学的検証はほぼゼロで疑問が残る「ゲーム脳の恐怖」の恐怖」=「ゲーム批評」2002年11月号、マイクロマガジン社
 斎藤環[2003]
 斎藤環『ひきこもり文化論』紀伊國屋書店、2003年12月
 土井隆義[2003]
 土井隆義『〈非行少年〉の消滅』信山社、2003年12月
 浜井浩一[2005]
 浜井浩一「「治安悪化」と刑事政策の転換」=「世界」2005年3月号、岩波書店
 宮崎哲弥、藤井誠二[2001]
 宮崎哲弥、藤井誠二『少年の「罪と罰」論』2001年5月、春秋社
 柳田邦男[2005]
 柳田邦男『壊れる日本人』新潮社、2005年3月

 五十嵐太郎『過防備都市』中公新書ラクレ、2004年7月
 笠原嘉『アパシー・シンドローム』岩波現代文庫、2002年12月
 姜尚中『ナショナリズム』岩波書店、2001年10月
 斎藤環『「負けた」教の信者たち』中公新書ラクレ、2005年4月
 芹沢一也『狂気と犯罪』講談社+α新書、2005年1月
 谷岡一郎『「社会調査」のウソ』文春新書、2000年5月
 内藤朝雄『いじめの社会理論』柏書房、2001年7月
 中西新太郎『若者たちに何が起こっているのか』花伝社、2004年7月
 パオロ・マッツァリーノ『反社会学講座』イースト・プレス、2004年5月
 広田照幸『教育言説の歴史社会学』名古屋大学出版会、2001年1月
 宮台真司『宮台真司interviews』世界書院、2005年2月
 ウォルター・リップマン、掛川トミ子:訳『世論』岩波文庫、上下巻、1987年2月

 石田英敬「「象徴的貧困」の時代」=「世界」2004年7月号、岩波書店
 小熊英二「改憲という名の「自分探し」」=「論座」2005年6月号、朝日新聞社
 渋谷望「万国のミドルクラス諸君、団結せよ!?」=「現代思想」2005年1月号、青土社
 内藤朝雄「「友だち」の地獄」=「世界」2004年12月、岩波書店
 内藤朝雄「お前もニートだ」=「図書新聞」2005年3月18日号、図書新聞

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2005年6月 4日 (土)

俗流若者論ケースファイル27・毎日新聞社説

 1件の衝撃的な凶悪少年犯罪だけをもって、その世代について語った気になってみせる、ということがいかに愚かであることは、この連載で何回も述べている通りである。たった1件の凶悪犯罪をもって、現代の若年層を訳知り顔で語ってしまう人たちは、その認識に至るまでの交渉を放棄し、飛躍した考えでもって世間の「同情」を得て、そして若年層に対する敵愾心を煽る。

 笑止千万。彼らの視点に欠けているのは、まず、大多数の少年が凶悪犯罪を起こしていないことである。現在、たとえば殺人犯に関して言うと、現在我が国で1年間で検挙される少年殺人犯の数は約110人前後(昭和35年ごろの約4分の1)であるから、少年の人口から考えてみれば、現代の青少年が、青少年に「悪影響」を及ぼす風潮なるものによって毒されている少年たちがなぜこれほどまでに殺人を犯していないのか、というところまず突っ込むべきであろう。

 「理解できない」もの、すなわち漫画・アニメ・ゲーム・インターネット・携帯電話に対して彼らが過剰に反抗する理由は、そのようなものが社会に台頭することによって、彼らの自意識の基盤が崩れるからに他ならない。要するに、俗流若者論とは自意識の問題なのである。すなわち、彼らの幻想する共同性の質を、例えばゲームやインターネットがもたらすコミュニケーションは突きつけているのだが、彼らがこの「問い」に答えるのを避けるからこそ、メディア悪影響論を基盤とした俗流若者論が生まれる。俗流若者論は逃避の論理でもある。そして、彼らの逃避を正当化するのが、「風潮」とか「現代」とか「時代」とか「本質」とか、それこそ実体を伴っていない空疎な美辞麗句であり、あるいは「ゲーム脳」「ケータイを持ったサル」「フィギュア萌え族」といった、レイシズムのための「人種」捏造である。

 というわけで、このような私の考えを頭に入れつつ、平成17年2月17日付毎日新聞の社説を読んでほしい。この社説は、平成17年2月に大阪府寝屋川市で起こった教師刺殺事件について論じた社説であるのだが、突っ込みどころが満載だ。今回は、特に問題のある箇所を全文引用して、検証しようと思う。この社説の3段目から4段目である。

 かつて学校への不満は、窓ガラスなどを壊して発散するケースが多かった。いまは、いとも簡単に教職員を殺傷する。時代の影を感じる。

 最近の青少年の反抗にはテレビゲーム世代の特性がみられる。バーチャル(仮想)な空間では殺人がゲーム感覚で行なわれて、それに没頭するあまりに現実の生活感覚と区別がつかなくなっているのではないか、とゲーム文化を憂慮する声が広がっている。

 少年も小学校の卒業文集に「ゲームクリエーター」への夢を描いていた。この事件の背景にゲーム文化の影響があるのか、注意深く分析しなければならない。

 「ゆとり教育」のあり方を見直すために15日開かれた中央教育審議会の初総会では、委員から「少年が閉じこもってゲームをしていて、生活のリズムが崩れた。身体を動かす場所があって、よいコミュニケーションが取れていたら」との発言があった。

 周りの人間とのふれあいを避け、テレビゲームの世界に没入し、孤立していく少年たちに、どのように働きかけていけばいいのだろうか。少年たちの社会性を育てるために学校や地域によるサポート体制が求められている。

 いったい何が少年の心の傷となったのか、その過程と社会的な背景を可能な限り解明する必要がある。そのことが遠回りに見えても、学校への襲撃を避けるための手掛かりとなる。

 (2005年2月17日付毎日新聞社説、以下、断りがないなら同様)

 いや、ここまで露骨な俗流若者論を平気で社説で開陳できる毎日の社説子の強心臓ぶりに、ほとほと感心してしまう。例えば《かつて学校への不満は、窓ガラスなどを壊して発散するケースが多かった。いまは、いとも簡単に教職員を殺傷する》などと簡単に言ってしまっているけれども、それを裏付けるような事例的・数値的証拠を提示していないのだから、これは単なる「居酒屋の愚痴」の領域を超えることはないだろう。

 また、《最近の青少年の反抗にはテレビゲーム世代の特性がみられる。バーチャル(仮想)な空間では殺人がゲーム感覚で行なわれて、それに没頭するあまりに現実の生活感覚と区別がつかなくなっているのではないか、とゲーム文化を憂慮する声が広がっている》だとか《周りの人間とのふれあいを避け、テレビゲームの世界に没入し、孤立していく少年たちに、どのように働きかけていけばいいのだろうか。少年たちの社会性を育てるために学校や地域によるサポート体制が求められている》だとかいう記述を見たときは、思わず笑ってしまった、このような、思い込みに基づいた俗説を、いまだに毎日の社説子は信じているようである。

 大体、毎日の社説子は、「テレビゲーム=誰とも関わらずに一人で部屋に閉じこもってやるもの」だとか「少年の孤立化を促し、社会性の発達を阻害する」という偏ったイメージをいまだに信奉しているのだから救いようがない。もちろんそれはゲームのイメージの一面ではあるけれども、はっきり言ってそれは悪い一面をさらに強調して、よい一面(例えばゲームを仲介したコミュニケーションが成り立つこと)に対する検証をまったく放棄している行為に他ならない。

 そもそも《テレビゲーム世代の特性》とはなんなのか?もし、毎日の社説子がそのような図式化を行なうのであれば、《テレビゲーム世代》による殺人と《テレビゲーム世代》以前による殺人を峻別すべきであろう。もちろん、《バーチャル(仮想)な空間では殺人がゲーム感覚で行なわれて、それに没頭するあまりに現実の生活感覚と区別がつかなくなっている》という、既に論破されつくしている俗説ではなしに。もう一つ、《それに没頭するあまりに現実の生活感覚と区別がつかなくなっている》ということについて、どこまでが《現実の生活感覚と区別がつかなくなっている》状態であるかという定義もまず必要なのではないか。

 しかも、この毎日社説子が引いている《15日開かれた中央教育審議会の初総会》における発言の中に《少年が閉じこもってゲームをしていて、生活のリズムが崩れた。体を動かす場所があって、よいコミュニケーションが取れていたら》という発言があることには失笑を感じ得なかった。では聞こう。《体を動かす場所》が子供たちから奪われていたら?これは大袈裟に言っているのではない。実際問題、小学生がキャッチボールをしているときに、誤ってそれが関係のない子供の胸に当たってしまい、しかもその子供が死亡してしまった事件に関する裁判について、ボールを投げた子供に対する「親の監督責任」が司法によって問われたという実例があるのだ。すなわち、子供は親の監督の元でしか遊べない、という時代が到来しているのではないか、というのは少々大袈裟かもしれないが、それでも「ゲーム」という存在に頽廃的なイメージを供給し続けるのは、そろそろやめるべきではないか。

 毎日社説子は、《周りの人間とのふれあいを避け、テレビゲームの世界に没入し、孤立していく少年たちに、どのように働きかけていけばいいのだろうか。少年たちの社会性を育てるために学校や地域によるサポート体制が求められている》と気楽なことを言う。しかし、現在の学校や地域にそれが可能か、という議論もあることを忘れてはならない。学校に関して言うと、明治学院大学非常勤講師の内藤朝雄氏は、現在の学校の状況について、《生徒にされた人たちは、たまたま同じ箱に強制収用された他人たちと一日中べたべた共同生活し、諸関係のアンサンブルのようにふるまうことをきめ細かく強制される》(内藤朝雄[2004])ものであると批判している。内藤氏は、このような環境下によって生まれる集団意識が生み出す全能意識こそが、深刻な「いじめ」を引き起こす、とも論じている(内藤朝雄[2001])。内藤氏の視点から言えば、毎日の社説子の学校観は、あまりにも能天気なものといわざるを得ないだろう。

 また、地域にしても、東北大学助教授の五十嵐太郎氏が、見えない「敵」に対抗するために地域を閉鎖化させている様子を淡々と論じている文章を見ていると(例えば、五十嵐太郎[2004])、「今時の若者」なる存在に脅える地域社会に、青少年を育成する能力があるのか、と疑問を持ってしまう。

 現在、「今時の若者」への敵愾心を最も煽っているのは、マスコミといわざるを得ない。そして、残念ながら、今回採り上げた毎日の社説を始め、多くのマスコミが、そのような現状を棚に上げて、ひたすら「今時の若者」に対する「対策」としての政策ばかり掲げている。このような倒錯した状況を突き崩すのは、もはや外部からの圧力を強化するほかないのではあるまいか?

 参考文献・資料
 五十嵐太郎[2004]
 五十嵐太郎『過防備都市』中公新書ラクレ、2004年7月
 内藤朝雄[2001]
 内藤朝雄『いじめの社会理論』柏書房、2001年7月
 内藤朝雄[2004]
 内藤朝雄「「友だち」の地獄」=「世界」2004年12月号、岩波書店

 中西新太郎『若者たちに何が起こっているのか』花伝社、2004年7月
 パオロ・マッツァリーノ『反社会学講座』イースト・プレス、2004年5月

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2005年6月 3日 (金)

この「反若者論」がすごい!02・河北新報社説

 社説、特に成人の日と子供の日と「理解できない」少年犯罪が起こった次の日の社説は、俗流若者論が必ずといってもいいほど出てくる。現在、新聞における俗流若者論の出現頻度が高いのは、投書欄に次ぐのは社説だろう。

 しかし、たまには社説もやるではないか、と思わせるような社説もまた存在するのも事実である。今回採り上げるのは、そのような社説だ。

 平成17年4月8日、宮城県蔵王高校に通っていた、生まれつき髪の毛が赤っぽい16歳の女子高生が、教師3人から「他の生徒がまねをする」という理由をかこつけられ、染髪スプレーを用いて髪の毛を黒く染めさせられたことを理由に、仙台地裁に提訴した。それだけではなく、この教師たちは、件の女子高生に対して、成績についても文句をつけて、ついには女子高生は自主退学に追い込まれた。

 東北のブロック紙である河北新報は、平成17年4月23日付の社説で、「人権軽視の教育現場を憂う」と打ち出し、教師側に対して批判的な姿勢を明確にした。
 まず、私はこのタイトルに違和感を覚えた。このようなところで《人権軽視》(平成17年4月23日付河北新報社説、以下、断りがないなら同様)という言葉を使ってしまうことは、思慮の浅い一部の言論人から子供に人権はない、という倒錯した理由でこの教師の狼藉が正当化させられてしまいかねないし、問題の本質も覆い隠しかねない。この事実から照らし合わせる限りでは、この教師たちは明らかに刑法における暴行罪をしでかしてしまっているので、「生徒指導」なら無法を犯してもいいのか、というところを見出しに掲げるべきだった。

 また、この社説の中には、《海外から成田空港に戻った瞬間、黒い頭ばかりの群衆に違和感を持った人は多いはずだ。狭い日本で通用する常識が、外国では非常識ということもある。そういう多様性を認め合うことが、国際社会にとってもっとも大切であることは疑いようもない》とか、《もし、生徒指導の一貫として、服装や身だしなみにも注意する必要があると主張するのなら、教師たちも自らの姿を日々、鏡に映して見たほうがいい》などといった、疑問に感じざるを得ない記述もある。

 しかし、下に掲げた4段落に関しては、最大限の賞賛を惜しまない。

 百歩譲って教師の言い分を聞けば多分、「茶髪を許すと非行を助長する」などという現場の論理を持ち出すのだろうが、理不尽としか言いようがない。
 髪の毛を染めていても、非行とは無縁の子どもがいる。宮城県内には、染髪や化粧、ピアスだって自由な公立高校もあるが、とりわけ非行生徒が多いという話は聞かない。

 たかが毛髪の色にこだわること自体、教師がプロとして自信がないことを自ら証明しているようなものではないか。

 個性重視の教育――などと言いながら、一方では「髪の毛の色は黒」と決めつけるばかばかしさに、どうして一部の教師たちは気付かないのだろう。

 よく言ってくれた。《「茶髪を許すと非行を助長する」》という《現場の論理》は、ともすれば何らかの事件が起こったとき、本当の犯人を探す努力を放棄し、犯罪に向かう「しるし」を持った(しかし、特に問題になるようなことをしていない)人が「犯人」として疑われて、一方では真に解決すべき問題がいつまでたっても解決せず、他方ではある属性を持った人に対するいわれなき差別が横行する、という事態が発生することに拍車をかける。

 また、実際に起こっている問題を解決しようとする努力を怠り、無抵抗の何もしていない、ただ生まれつき髪の毛が赤いだけの女子高生に対して、このような「見せしめ」を行なうことは、河北社説が指摘するとおり《教師がプロとして自信がないことを自ら証明しているようなもの》と言うほかないのである。このような「見せしめ」には、「自分は青少年問題に対して真剣に対処している!」という、実体のないメッセージだけを提示し、その裏では本来解決すべき問題は深刻化するのみならず、一人の女子高生の人生を台無しにしてしまう。

 また、このような行動は、自らの持っている歪んだ権力意識の発露としてもとらえられるべきだろう。自分の行動に対する信念に基づかない、単なる権力意識に浸るためだけの暴力ほど、空しいものはない。

 このような権力意識の発露としての暴力は、俗流若者論にも当てはまるものだ。俗流若者論は、現代の青少年問題について過剰なまでに反応し、それを生み出した「犯人」を血眼になって探し、その「犯人」とされるものが特定されなくても、「犯人」になるのではないか、と思われるものであれば、すぐさまそれらに対する敵愾心を煽り、そのような属性を持った人たちに対する差別的言説が世間に溢れ、「不可解な」少年犯罪、青少年問題はすぐさまそれに結び付けられる。

 主観が前面に出される《現場の論理》によって立つ俗流若者論は、人々のポピュリズム的な「人気」によってのみ成り立つ。そして、ポピュリズム的な「人気」によってのみ支えられた俗流若者論は、次第に自らの暴走を抑えることができなくなる。その結果として、蔵王のこの事件が起こっている、としたら、なんとも皮肉な話ではないか。この事件は、頭髪の色が違う女子高生という存在を、「人間」ではなく「物」としてしか認識できなくなった、俗流若者論による思考の横暴の帰結と見られるべきかもしれない。

 我々が注視すべきは、この裁判の行方である。もし、女子高生側の言い分が認められず、明らかな暴力行為が正当性を与えられてしまったら、我が国は《現場の論理》の下に粗暴な行為がまかり通ってしまう、という無法状態になりかねない。

 俗流若者論のような考え方が支配する社会は、若年層を「人間」ではなく「異物」として見なす社会に他ならない。森昭雄や正高信男によって若年層を「人間」と見なさなくなった暴論がまかり通る現状において、若年層を「人間」としてとらえる意義は、恥ずかしいことであるが、問い直されなければならない。

 参考文献・資料
 芹沢一也『狂気と犯罪』講談社+α新書、2005年1月
 内藤朝雄『いじめの社会理論』柏書房、2001年7月
 広田照幸『教育言説の歴史社会学』名古屋大学出版会、2001年1月

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俗流若者論ケースファイル26・三砂ちづる

 「若者報道から見た日本」というサブタイトルを掲げているこのブログにとってすれば、例えば女性の身体性に関わる問題に関する記述に対する批評など、門外漢の印象論の域を出ることはないかもしれない(その上、執筆者が男だ)。しかし、俗流若者論によく見られる論法、すなわち、過去を美化して現在を醜悪化し、過去=善、現在=悪という二元対立式の図式に当てはめて、具体的なデータも出さないまま現在を過度にバッシングする、というものが、俗流若者論以外の分野にも横行し、そして本当に俗流若者論になってしまう、ということも実際にあるので、それを批判しておくことにも手間を省かないようにしようと思う。

 こと学者やジャーナリストの文章においては、具体的なデータを示さない限り、あるいは具体的な論証立てを開示しない限り、本当に取材したのか、考えたのか、ということを問われても仕方ないだろう。俗流若者論は、そのような思考やデータの収集を一切抜きにする、あるいは虚飾するので、このような思考とは無縁の分野と言わざるを得ない。

 そろそろ本題に入る。なぜ冒頭において「例えば女性の身体性に関わる問題に関する記述に対する批評など」と書いたかというと、今回取り上げる文章が、女性の身体性にかこつけた俗流若者論だからである。その文章とは、私は未読であるが、ベストセラーとなっている『オニババ化する女たち』(光文社新書)なる本を書いた、津田塾女子大学教授・三砂ちづる氏の筆による「「負け犬」に警告!あなたはもう「オニババ」かもしれない」(「新潮45」平成16年12月号収録)である。ちなみに、前掲の『オニババ化する女たち』において、三砂氏がどのような記述をしているか、ということについては、鍼灸師の田中美津氏による批判で少々知っている程度だったので、「新潮45」に三砂氏の文章が載っていたことを思い出して図書館で読んでみたのだが、「新潮45」の文章は、思いのほか俗流若者論が目立つ文章であった。

 例えば三砂氏は冒頭(100ページ)において、《「オニババ」――日本のお話にはよく出てきますね》(三砂ちづる[2004]、以下、断りがないなら同様)と書いているのだが、その《オニババ》について、三砂氏は《社会の中できちんと「女性としての性」をまっとうできない、行き場のないエネルギーを抱えている女性達を「オニババ」として描いたのではないかと思うのです。自分の女性としてのエネルギーがうまく昇華されていかないと、そのエネルギーは鬱屈した形で発現してきます。それを昔の人は社会にとって好ましいことだと思わなかったのでしょう》と書いている。このように自信たっぷりに記述するのであれば、まずそのデータを開示するのが必然であろう。三砂氏の言うとおり、我が国には多くの鬼婆伝説があるのだが、そのような物語が生まれた背景に関して、三砂氏はきちんとした考察を行なったのか。

 当然の如く、三砂氏は現代において《オニババ》が増加している、と説く。曰く、《その中で(筆者注:三砂氏がさまざまな地域の女性の生殖や出産の現場をフィールドワークし、研究している過程において)感じたのは、女性としてのからだの機能を十分につかっていないといえる女性が、現代の日本でふえているのではないかということでした》(100ページ)と。三砂氏は同じページにおいて、《オニババ》が《「女性としての性」をまっとうできない、行き場のないエネルギーを抱えている女性達》と規定しているのだから、《オニババ》が増加している現代において、未婚や子供を産んでいない女性に対する犯罪が増加している、という事実をまず示していただけないものか。それにしても、このような物言いは、未婚や子供を産んでいない女性に対する差別ではないか。なるほど、前出の田中美津氏が《昔の宗教は「地獄に堕ちるぞ」と脅した。でもこの頃じゃ「オニババになるぞ」と脅すみたいよ》(田中美津[2005])などと言うのも理解できる。

 それにしても、この文章を読んでいると、三流健康番組を見ているような感じに襲われるようだ。何せ、《おなかにちょっと力を入れたときに尿が漏れてしまう……最近の若い女性にとても多くなってきている》(101ページ)だとか《今は性能の優れた生理用ナプキンが出てきていますから、……月経血は垂れ流すもの、と考えている女性がほとんどではないでしょうか》(101ページ)だとか《ところが今は、こういった女性の身体性を認識し、エネルギーを健全に出していくための月経とか、妊娠、出産、子育てといったことを、肯定的に感じられなくなってしまった》(102ページ)だとかいった物言いが頻出する。「この手」の健康番組を見ていると、腐るほど出てくるようなアナロジーだ。

 要するに、「現代人の生活」なるものを、健康に良くないものであると過剰に喧伝し、そこからの「脱却」を過剰に求めるような態度である。そして、そこでは、例によって自分の健康に不安を感じている人を引き合いに出し、その人の生活における「現代性」を過剰に強調して、その「現代性」の中から健康を脅かす「原因」を、もっともらしい理屈をつけてその「解決策」を提示する、というのがほぼ一般的である。もちろん、このような番組の構成によって何らかの解決策を掴む人も多いだろうが、このようなレトリックの濫用の危険性については、自覚しておきたいところだ。この文章においては、このようなレトリック、及び「昔の人はできていたが、今はできなくなった」ということに関する、極めて根拠薄弱な物言いがところどころに頻出するので、この文章それ自体が三流健康番組の内容を模倣している(あるいはそのテンプレートに従っている)と言えるだろう。

 そのような考えを差し引いても、看過できない一文を見つけたので、ここで引用しておきたい。

 ベストセラーにもなって、すっかり言葉も定着した「負け犬」(筆者注:エッセイストの酒井順子氏の著書『負け犬の遠吠え』(講談社)から発生した言葉。酒井氏は、三十代、未婚、子供なしの女性を「負け犬」と規定した)にあたる世代も、ちょうどこの七十代の女性を母に持つ世代ですね。「負け犬」と自分を自嘲的に言うことができる女性は、社会的に見ると強者です。経済的に自立しており、レベルの高い職域で仕事をしている女性が多いのではないでしょうか。このような、社会的強者は、自分の人生を自分で決定することができます。別に結婚しなくても、恋愛をしていたり、不倫をしていたりして、子どもを産むかは別にして、女性の性のエネルギーをきちんと使っているわけでしょう。

 ここまで断定できるのも、呆れるを通り越して感服してしまうほどだ。そもそも「負け犬」の女性たちが、恋愛はともかくとして、《不倫をしていたりして、……女性の性のエネルギーをきちんと使っているわけでしょう》と言われたら、怒る人も多いのではないかと思われる。

 というわけで、今回は女性の身体性にかこつけた俗流若者論を批判したが、私はかつて男性の身体性にかこつけた俗流若者論を批判したことがある。元「サンデー毎日」編集長で、毎日新聞社会部記者の牧太郎氏が、「サンデー毎日」の連載コラムに書いた、奈良県女子児童誘拐殺害事件に関するコラムである(詳しくは「俗流若者論ケースファイル05・牧太郎」を参照されたし)。牧氏は、『電車男』(新潮社)を読んで、その物語を構成する《ウブな男》(牧太郎[2003a])の実態を掴むために秋葉原に行ったのだが、牧氏はそこで目撃した、メイド喫茶(コスプレ風俗とメイド喫茶を混同しているとしか見えないのだが。両者はまったく違うものである)とか《かわいらしい制服姿の女の子が犯されるアダルトビデオ》(牧太郎[2004b])に熱中する《ウブな男》を指して、《恐ろしい。誰とも話さない(話せない)20~40代のオタクが、あの「手鏡の大学教授」と同じように「犯す行為」を夢想する》(牧太郎[2004a])だとか《そんな指導者(筆者注:小泉純一郎首相)を見ているからか、ある種の成年は東京・秋葉原の電気街で「かわいらしい制服姿の女の子が犯されるアダルトビデオ」を買いあさり、引きこもる。凶悪な犯罪に結びつく》(牧太郎[2004b])と書き飛ばした。このような発想は、要するに現実の女性と恋愛できない《ウブな男》はまともな身体性・社会性を持っていないから、こいつらが関わった、少女が被害者となる事件が増えている、という短絡した発想であり、また、空疎な男根主義に基づいた露骨なナショナリズムである。このような発想は、「フィギュア萌え族」という珍概念を発明したジャーナリストの大谷昭宏氏にも通じるところがある。

 人口減少社会を目の前にして、男女の身体性に対するバックラッシュが起こっている、ということについて、我々はもう少し真剣にならなければならないのかもしれない。また、《オニババ》だとか《ウブな男》という「階級」を捏造することによって、「正常な」人たちの敵愾心の冷風に晒す、というスタイルが、特に俗流若者論で台頭し始めている。これは明らかにレイシズムの萌芽である。俗流若者論とレイシズムという課題については、稿を改めて論じてみる必要がありそうだ。

 参考文献・資料
 田中美津[2005]
 田中美津「津田梅子もオニババなの?」=「論座」2005年2月号、朝日新聞社
 牧太郎[2004a]
 牧太郎「「コスプレ男」は最弱国のシンボルにして…」=「サンデー毎日」2004年12月5日号、毎日新聞社
 牧太郎[2004b]
 牧太郎「ヨンジュンシー サランヘヨ~!が、なぜ悪い」=「サンデー毎日」2004年12月19日号、毎日新聞社
 三砂ちづる[2004]
 三砂ちづる「「負け犬」に警告!あなたはもう「オニババ」かもしれない」=「新潮45」2004年12月号、新潮社

 斎藤美奈子『モダンガール論』文春文庫、2003年12月
 十川幸司『精神分析』岩波書店、2003年11月
 松谷明彦『「人口減少経済」の新しい公式』日本経済新聞社、2004年5月

 柄本三代子「科学のワイドショー化を笑えない時代」=「中央公論」2002年11月号、中央公論新社
 渋谷望「万国のミドルクラス諸君、団結せよ!?」=「現代思想」2005年1月号、青土社

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