この「反若者論」がすごい!02・河北新報社説
社説、特に成人の日と子供の日と「理解できない」少年犯罪が起こった次の日の社説は、俗流若者論が必ずといってもいいほど出てくる。現在、新聞における俗流若者論の出現頻度が高いのは、投書欄に次ぐのは社説だろう。
しかし、たまには社説もやるではないか、と思わせるような社説もまた存在するのも事実である。今回採り上げるのは、そのような社説だ。
平成17年4月8日、宮城県蔵王高校に通っていた、生まれつき髪の毛が赤っぽい16歳の女子高生が、教師3人から「他の生徒がまねをする」という理由をかこつけられ、染髪スプレーを用いて髪の毛を黒く染めさせられたことを理由に、仙台地裁に提訴した。それだけではなく、この教師たちは、件の女子高生に対して、成績についても文句をつけて、ついには女子高生は自主退学に追い込まれた。
東北のブロック紙である河北新報は、平成17年4月23日付の社説で、「人権軽視の教育現場を憂う」と打ち出し、教師側に対して批判的な姿勢を明確にした。
まず、私はこのタイトルに違和感を覚えた。このようなところで《人権軽視》(平成17年4月23日付河北新報社説、以下、断りがないなら同様)という言葉を使ってしまうことは、思慮の浅い一部の言論人から子供に人権はない、という倒錯した理由でこの教師の狼藉が正当化させられてしまいかねないし、問題の本質も覆い隠しかねない。この事実から照らし合わせる限りでは、この教師たちは明らかに刑法における暴行罪をしでかしてしまっているので、「生徒指導」なら無法を犯してもいいのか、というところを見出しに掲げるべきだった。
また、この社説の中には、《海外から成田空港に戻った瞬間、黒い頭ばかりの群衆に違和感を持った人は多いはずだ。狭い日本で通用する常識が、外国では非常識ということもある。そういう多様性を認め合うことが、国際社会にとってもっとも大切であることは疑いようもない》とか、《もし、生徒指導の一貫として、服装や身だしなみにも注意する必要があると主張するのなら、教師たちも自らの姿を日々、鏡に映して見たほうがいい》などといった、疑問に感じざるを得ない記述もある。
しかし、下に掲げた4段落に関しては、最大限の賞賛を惜しまない。
百歩譲って教師の言い分を聞けば多分、「茶髪を許すと非行を助長する」などという現場の論理を持ち出すのだろうが、理不尽としか言いようがない。
髪の毛を染めていても、非行とは無縁の子どもがいる。宮城県内には、染髪や化粧、ピアスだって自由な公立高校もあるが、とりわけ非行生徒が多いという話は聞かない。たかが毛髪の色にこだわること自体、教師がプロとして自信がないことを自ら証明しているようなものではないか。
個性重視の教育――などと言いながら、一方では「髪の毛の色は黒」と決めつけるばかばかしさに、どうして一部の教師たちは気付かないのだろう。
よく言ってくれた。《「茶髪を許すと非行を助長する」》という《現場の論理》は、ともすれば何らかの事件が起こったとき、本当の犯人を探す努力を放棄し、犯罪に向かう「しるし」を持った(しかし、特に問題になるようなことをしていない)人が「犯人」として疑われて、一方では真に解決すべき問題がいつまでたっても解決せず、他方ではある属性を持った人に対するいわれなき差別が横行する、という事態が発生することに拍車をかける。
また、実際に起こっている問題を解決しようとする努力を怠り、無抵抗の何もしていない、ただ生まれつき髪の毛が赤いだけの女子高生に対して、このような「見せしめ」を行なうことは、河北社説が指摘するとおり《教師がプロとして自信がないことを自ら証明しているようなもの》と言うほかないのである。このような「見せしめ」には、「自分は青少年問題に対して真剣に対処している!」という、実体のないメッセージだけを提示し、その裏では本来解決すべき問題は深刻化するのみならず、一人の女子高生の人生を台無しにしてしまう。
また、このような行動は、自らの持っている歪んだ権力意識の発露としてもとらえられるべきだろう。自分の行動に対する信念に基づかない、単なる権力意識に浸るためだけの暴力ほど、空しいものはない。
このような権力意識の発露としての暴力は、俗流若者論にも当てはまるものだ。俗流若者論は、現代の青少年問題について過剰なまでに反応し、それを生み出した「犯人」を血眼になって探し、その「犯人」とされるものが特定されなくても、「犯人」になるのではないか、と思われるものであれば、すぐさまそれらに対する敵愾心を煽り、そのような属性を持った人たちに対する差別的言説が世間に溢れ、「不可解な」少年犯罪、青少年問題はすぐさまそれに結び付けられる。
主観が前面に出される《現場の論理》によって立つ俗流若者論は、人々のポピュリズム的な「人気」によってのみ成り立つ。そして、ポピュリズム的な「人気」によってのみ支えられた俗流若者論は、次第に自らの暴走を抑えることができなくなる。その結果として、蔵王のこの事件が起こっている、としたら、なんとも皮肉な話ではないか。この事件は、頭髪の色が違う女子高生という存在を、「人間」ではなく「物」としてしか認識できなくなった、俗流若者論による思考の横暴の帰結と見られるべきかもしれない。
我々が注視すべきは、この裁判の行方である。もし、女子高生側の言い分が認められず、明らかな暴力行為が正当性を与えられてしまったら、我が国は《現場の論理》の下に粗暴な行為がまかり通ってしまう、という無法状態になりかねない。
俗流若者論のような考え方が支配する社会は、若年層を「人間」ではなく「異物」として見なす社会に他ならない。森昭雄や正高信男によって若年層を「人間」と見なさなくなった暴論がまかり通る現状において、若年層を「人間」としてとらえる意義は、恥ずかしいことであるが、問い直されなければならない。
参考文献・資料
芹沢一也『狂気と犯罪』講談社+α新書、2005年1月
内藤朝雄『いじめの社会理論』柏書房、2001年7月
広田照幸『教育言説の歴史社会学』名古屋大学出版会、2001年1月
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コメント
社会通念から若年層(10代~30代後半)
は、知識や技量があっても政界トップや
日本を動かせる人材にはなれっこない!
IT企業の社長になれても・・・!
例えば、中高学生でコンピューターの
知識が優れていても自分一人では、
プログラムを組んでソフトウェアー
が完成しても何かしら審査員会みたいなのが協議した後、言い渡された結果審査委員会(日本の昔から有る某大企業コンピューターソフト会社)が一目置いている
コンピューターソフト会社に著作権
みたいな物を無償で少年は言わば強引に
受け渡す実例があるが、これは点綴的な
大人社会の汚い汚職だ!こんな事が
日常茶飯事に行われていたら
今の学生に未来があるだろうか!
誰が考えても120%ないじゃんか!
そりゃー大学や専門学校だと必要経費
は、学校側が斡旋してるが、設計図や
データーを0から組み立てたのは、
誰だという事とその開発品の経費と
実際に商品化し単価×売れ数を計算し
あからさまに、経費より売り上げが
多ければ10代だろうが本人に売り上げの
99%を渡すのが筋では、ないのか!
世の中で若者の潜在能力を良い様に使って
何もせず若者を足蹴にしおいしい思い
している年寄り傲慢社長さん達よー!
年寄り議員も同等だ!自分らだけちゃっかり
しふくを肥やしやれ公共事業だの年金問題
だのふざけんじゃねー!特別会計なんていらねーだろ!おまえらー議員OBの貯金すべて
若者に還元しやがれー!仕事もしてへん
議員に何故国民の血税から国会決議中継
観ても大半が居眠りしたり欠席議員が
目立つやんか!それに、政策だーとか言って
るのに、大半が団塊世代~高齢世代優遇
の内容ばかりだよねー?若年層は、どうした!小中学生の教育費負担なんかは、預金も無い夫婦が夜遊びで知り合って出来ちゃった結婚したんだからほっときゃーいんだよ!
ニートへ月14萬円位安定就職費の名目で
議員年金廃止、議員給料全額カットして
浮いた資金で支給してやれよ!
そしたらニートやネットカフェ難民が
少しでも減って働く若者も増え所得税
の回収率もアップ出来るのでわ?
議員さんよー議員OBのご機嫌ばかり
伺っていても一般市民の若者には、
見向きもされないよ!今からでも年寄り
議員や議員OBを追い出し一般市民の10代~
30代の社会経験の浅い層を政界にもっと
入れてみてよ!どうしても若い世代の問題
が、軽視されやすいのは、誰も触れたく
無いからあえて参加させないしかたらせない年寄り世代の傲慢さがみにくくもむみえてます!
投稿: 酒鬼薔薇聖斗2世 | 2007年10月15日 (月) 13時49分