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2005年6月 3日 (金)

俗流若者論ケースファイル26・三砂ちづる

 「若者報道から見た日本」というサブタイトルを掲げているこのブログにとってすれば、例えば女性の身体性に関わる問題に関する記述に対する批評など、門外漢の印象論の域を出ることはないかもしれない(その上、執筆者が男だ)。しかし、俗流若者論によく見られる論法、すなわち、過去を美化して現在を醜悪化し、過去=善、現在=悪という二元対立式の図式に当てはめて、具体的なデータも出さないまま現在を過度にバッシングする、というものが、俗流若者論以外の分野にも横行し、そして本当に俗流若者論になってしまう、ということも実際にあるので、それを批判しておくことにも手間を省かないようにしようと思う。

 こと学者やジャーナリストの文章においては、具体的なデータを示さない限り、あるいは具体的な論証立てを開示しない限り、本当に取材したのか、考えたのか、ということを問われても仕方ないだろう。俗流若者論は、そのような思考やデータの収集を一切抜きにする、あるいは虚飾するので、このような思考とは無縁の分野と言わざるを得ない。

 そろそろ本題に入る。なぜ冒頭において「例えば女性の身体性に関わる問題に関する記述に対する批評など」と書いたかというと、今回取り上げる文章が、女性の身体性にかこつけた俗流若者論だからである。その文章とは、私は未読であるが、ベストセラーとなっている『オニババ化する女たち』(光文社新書)なる本を書いた、津田塾女子大学教授・三砂ちづる氏の筆による「「負け犬」に警告!あなたはもう「オニババ」かもしれない」(「新潮45」平成16年12月号収録)である。ちなみに、前掲の『オニババ化する女たち』において、三砂氏がどのような記述をしているか、ということについては、鍼灸師の田中美津氏による批判で少々知っている程度だったので、「新潮45」に三砂氏の文章が載っていたことを思い出して図書館で読んでみたのだが、「新潮45」の文章は、思いのほか俗流若者論が目立つ文章であった。

 例えば三砂氏は冒頭(100ページ)において、《「オニババ」――日本のお話にはよく出てきますね》(三砂ちづる[2004]、以下、断りがないなら同様)と書いているのだが、その《オニババ》について、三砂氏は《社会の中できちんと「女性としての性」をまっとうできない、行き場のないエネルギーを抱えている女性達を「オニババ」として描いたのではないかと思うのです。自分の女性としてのエネルギーがうまく昇華されていかないと、そのエネルギーは鬱屈した形で発現してきます。それを昔の人は社会にとって好ましいことだと思わなかったのでしょう》と書いている。このように自信たっぷりに記述するのであれば、まずそのデータを開示するのが必然であろう。三砂氏の言うとおり、我が国には多くの鬼婆伝説があるのだが、そのような物語が生まれた背景に関して、三砂氏はきちんとした考察を行なったのか。

 当然の如く、三砂氏は現代において《オニババ》が増加している、と説く。曰く、《その中で(筆者注:三砂氏がさまざまな地域の女性の生殖や出産の現場をフィールドワークし、研究している過程において)感じたのは、女性としてのからだの機能を十分につかっていないといえる女性が、現代の日本でふえているのではないかということでした》(100ページ)と。三砂氏は同じページにおいて、《オニババ》が《「女性としての性」をまっとうできない、行き場のないエネルギーを抱えている女性達》と規定しているのだから、《オニババ》が増加している現代において、未婚や子供を産んでいない女性に対する犯罪が増加している、という事実をまず示していただけないものか。それにしても、このような物言いは、未婚や子供を産んでいない女性に対する差別ではないか。なるほど、前出の田中美津氏が《昔の宗教は「地獄に堕ちるぞ」と脅した。でもこの頃じゃ「オニババになるぞ」と脅すみたいよ》(田中美津[2005])などと言うのも理解できる。

 それにしても、この文章を読んでいると、三流健康番組を見ているような感じに襲われるようだ。何せ、《おなかにちょっと力を入れたときに尿が漏れてしまう……最近の若い女性にとても多くなってきている》(101ページ)だとか《今は性能の優れた生理用ナプキンが出てきていますから、……月経血は垂れ流すもの、と考えている女性がほとんどではないでしょうか》(101ページ)だとか《ところが今は、こういった女性の身体性を認識し、エネルギーを健全に出していくための月経とか、妊娠、出産、子育てといったことを、肯定的に感じられなくなってしまった》(102ページ)だとかいった物言いが頻出する。「この手」の健康番組を見ていると、腐るほど出てくるようなアナロジーだ。

 要するに、「現代人の生活」なるものを、健康に良くないものであると過剰に喧伝し、そこからの「脱却」を過剰に求めるような態度である。そして、そこでは、例によって自分の健康に不安を感じている人を引き合いに出し、その人の生活における「現代性」を過剰に強調して、その「現代性」の中から健康を脅かす「原因」を、もっともらしい理屈をつけてその「解決策」を提示する、というのがほぼ一般的である。もちろん、このような番組の構成によって何らかの解決策を掴む人も多いだろうが、このようなレトリックの濫用の危険性については、自覚しておきたいところだ。この文章においては、このようなレトリック、及び「昔の人はできていたが、今はできなくなった」ということに関する、極めて根拠薄弱な物言いがところどころに頻出するので、この文章それ自体が三流健康番組の内容を模倣している(あるいはそのテンプレートに従っている)と言えるだろう。

 そのような考えを差し引いても、看過できない一文を見つけたので、ここで引用しておきたい。

 ベストセラーにもなって、すっかり言葉も定着した「負け犬」(筆者注:エッセイストの酒井順子氏の著書『負け犬の遠吠え』(講談社)から発生した言葉。酒井氏は、三十代、未婚、子供なしの女性を「負け犬」と規定した)にあたる世代も、ちょうどこの七十代の女性を母に持つ世代ですね。「負け犬」と自分を自嘲的に言うことができる女性は、社会的に見ると強者です。経済的に自立しており、レベルの高い職域で仕事をしている女性が多いのではないでしょうか。このような、社会的強者は、自分の人生を自分で決定することができます。別に結婚しなくても、恋愛をしていたり、不倫をしていたりして、子どもを産むかは別にして、女性の性のエネルギーをきちんと使っているわけでしょう。

 ここまで断定できるのも、呆れるを通り越して感服してしまうほどだ。そもそも「負け犬」の女性たちが、恋愛はともかくとして、《不倫をしていたりして、……女性の性のエネルギーをきちんと使っているわけでしょう》と言われたら、怒る人も多いのではないかと思われる。

 というわけで、今回は女性の身体性にかこつけた俗流若者論を批判したが、私はかつて男性の身体性にかこつけた俗流若者論を批判したことがある。元「サンデー毎日」編集長で、毎日新聞社会部記者の牧太郎氏が、「サンデー毎日」の連載コラムに書いた、奈良県女子児童誘拐殺害事件に関するコラムである(詳しくは「俗流若者論ケースファイル05・牧太郎」を参照されたし)。牧氏は、『電車男』(新潮社)を読んで、その物語を構成する《ウブな男》(牧太郎[2003a])の実態を掴むために秋葉原に行ったのだが、牧氏はそこで目撃した、メイド喫茶(コスプレ風俗とメイド喫茶を混同しているとしか見えないのだが。両者はまったく違うものである)とか《かわいらしい制服姿の女の子が犯されるアダルトビデオ》(牧太郎[2004b])に熱中する《ウブな男》を指して、《恐ろしい。誰とも話さない(話せない)20~40代のオタクが、あの「手鏡の大学教授」と同じように「犯す行為」を夢想する》(牧太郎[2004a])だとか《そんな指導者(筆者注:小泉純一郎首相)を見ているからか、ある種の成年は東京・秋葉原の電気街で「かわいらしい制服姿の女の子が犯されるアダルトビデオ」を買いあさり、引きこもる。凶悪な犯罪に結びつく》(牧太郎[2004b])と書き飛ばした。このような発想は、要するに現実の女性と恋愛できない《ウブな男》はまともな身体性・社会性を持っていないから、こいつらが関わった、少女が被害者となる事件が増えている、という短絡した発想であり、また、空疎な男根主義に基づいた露骨なナショナリズムである。このような発想は、「フィギュア萌え族」という珍概念を発明したジャーナリストの大谷昭宏氏にも通じるところがある。

 人口減少社会を目の前にして、男女の身体性に対するバックラッシュが起こっている、ということについて、我々はもう少し真剣にならなければならないのかもしれない。また、《オニババ》だとか《ウブな男》という「階級」を捏造することによって、「正常な」人たちの敵愾心の冷風に晒す、というスタイルが、特に俗流若者論で台頭し始めている。これは明らかにレイシズムの萌芽である。俗流若者論とレイシズムという課題については、稿を改めて論じてみる必要がありそうだ。

 参考文献・資料
 田中美津[2005]
 田中美津「津田梅子もオニババなの?」=「論座」2005年2月号、朝日新聞社
 牧太郎[2004a]
 牧太郎「「コスプレ男」は最弱国のシンボルにして…」=「サンデー毎日」2004年12月5日号、毎日新聞社
 牧太郎[2004b]
 牧太郎「ヨンジュンシー サランヘヨ~!が、なぜ悪い」=「サンデー毎日」2004年12月19日号、毎日新聞社
 三砂ちづる[2004]
 三砂ちづる「「負け犬」に警告!あなたはもう「オニババ」かもしれない」=「新潮45」2004年12月号、新潮社

 斎藤美奈子『モダンガール論』文春文庫、2003年12月
 十川幸司『精神分析』岩波書店、2003年11月
 松谷明彦『「人口減少経済」の新しい公式』日本経済新聞社、2004年5月

 柄本三代子「科学のワイドショー化を笑えない時代」=「中央公論」2002年11月号、中央公論新社
 渋谷望「万国のミドルクラス諸君、団結せよ!?」=「現代思想」2005年1月号、青土社

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