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2005年6月18日 (土)

俗流若者論ケースファイル29・吉田司

 私はこれまで、俗流若者論のために歴史修正を行なうのは、俗流右派論壇人の専売特許と思ってきた。しかし、その認識は、即刻改めなければならないようだ。もしこの文章の読者に、そう思っている人がいたら、この文章を読んで、即刻その認識を改めてほしい。

 今回検証するのは、ノンフィクション作家の吉田司氏による文章、「女と平和と経済の時代は終わった」(「AERA」平成16年8月30日号掲載)だ。吉田氏は、まあ最近では主要なオピニオン系の月刊誌にはほとんど顔を出していないが、基本的に左派、反権力の人と見なしていいジャーナリストである。しかし、この文章を読んで、吉田氏もまた俗流若者論限定で歴史修正主義ナショナリストになってしまうような人だったのか、と思った。ちなみに言っておくと、朝日新聞や、講談社の月刊誌「現代」にたびたび掲載される吉田氏の書評は、はっきり言って粗雑の極みだと思う(ちなみに私は、オンライン書店の「bk1」で評論家・斎藤美奈子氏の『男性誌探訪』(朝日新聞社)を書評したとき、吉田氏を批判したことがある)。

 吉田氏は、戦後の我が国の平和と発展が何によって支えられてきたか、ということについて、以下のように以下の視点に基づいて述べる。曰く、《《戦後》がどんなものであったか?そのはじまりを「過ちは繰返しませぬから」(原爆慰霊碑)という非戦・反戦平和の“誓いの言葉”に置くことは、たやすいことだ》《戦後の母たちは、芸能であれ教育であれ、自分の人生と財産を子どもに独占的に透視する=父親の手から子どもを奪い、己の人質にすることで、戦前家父長制(天皇「父性」国家からの離脱や「女の自立」を開始したのである》(吉田司[2004]、以下、断りがないなら同様)と。しかし、このような「物語」の裏には、一つの決定的な事実が欠落している。

 それは朝鮮戦争である。皆様もご存知の通り、戦後の我が国の爆発的な経済回復の起爆剤となったのは朝鮮戦争による特需だった(ちなみに最近の右派系の歴史修正主義者は、朝鮮戦争の特需さえも否定したがっているらしいが)。その結果がどうあれ、非戦・反戦主義の立場に立てば、我々が今立っている「戦後」が、他人の不幸に乗じたものを基盤とする、ということを考えると、それに対する検証もしなければならないだろうが、吉田氏にはそのような認識があるのだろうか。

 吉田氏に限らず、最近の左派論壇には、「戦前」を否定しながらも、「戦後」を美化することによって若年層をバッシングする、いわば左派系の歴史修正主義者が出始めている。その典型例がライターの荷宮和子氏であろうが、右派系であっても左派系であっても、我が国の歴史修正主義者の理論が、ここ十数年、特に「酒鬼薔薇聖斗」事件以降に喧伝された「今時の若者」というイメージに対する敵愾心によって成り立っているのだから、彼らの社会認識・歴史認識がいかに自分の自意識のために歪曲されたものであるか、ということは我々は認識して然るべきだろう。

 そして吉田氏もまた、「今時の若者」を、戦後の「崩壊」の象徴として提示するのだから、吉田氏が左派系の歴史修正主義者になってしまっているのは明らかであろう。問題のある箇所を引用する。

 もっともその“幸せな結合”は、また別の大きな国内的不幸と引き換えだった。子供たちの後輩と批判だ。少年少女は激化する受験「選別」戦争や教育ママゴン、いじめの連鎖の中で傷つき、脱落する「不登校」者が続出した。彼らは社会から引きこもり、親たちに「誰が(こんな世の中に)産んでくれと頼んだか!」と呪詛を浴びせかけ、多くが家庭内「暴力の王」や「女王」に姿を変えていった――それは80年代バブル天国ナショナリズムが生産し続けた、耐え難い“地獄”だった。
 (30ページ5段目~31ページ1段目)


 少年たちはどうしたか?2000年「われ革命を決行す」のHP宣言をした佐賀バス・ジャック事件を先頭に、いくつ物少年殺人・暴力事件が連発した。――こうして「失われた10年」のハチャメチャな《性と生》をめぐる秩序紊乱、それを育て、甘やかしてきた〈平和〉と〈女〉と〈経済〉の三位一体システム=いわゆる「母原病」社会の無力と退廃が誰の目にも明らかになり、やがてそれらを変革する希望のシステムとして、その反対物=《軍事》と《父性》をキーワードとする男権的な「国民保護」体制が呼び出されてきた。それがいまの小泉「軍事立国」主義=「改憲」ナショナリズムの正体なのである。
 (31ページ3段目)

 これらの文章の筆者が、例えば石原慎太郎だとか西村眞悟だとか言われても、それほど違和感を感じる人は少ないのではないか。特に、後者の記述の後に、「だから今流布しているナショナリズムは正常なのだ」という記述が続いたら、もはや完全に石原氏や西村氏の文章に見えてしまうだろう。要するに、吉田氏をはじめとする左派系の歴史修正主義者は、右派も敵視する「今時の若者」と同じイメージを共有しているのに過ぎないのである。違うのは結論だけで、アプローチは完全に同じなのだ。右派系の歴史修正主義者が「今時の若者」の「対策」のために「戦前」を持ち出すのに対し、左派系の歴史修正主義者は「今時の若者」の「対策」のために「戦後」を持ち出す。

 吉田氏の文章に戻る。これらの記述は、もはや私が批判し尽くした類の文章なので、今更検証する気も失せてしまうが、それでも看過できない記述がいくつもある。例えば前者で言うと、例えば《彼らは社会から引きこもり、親たちに「誰が(こんな世の中に)産んでくれと頼んだか!」と呪詛を浴びせかけ、多くが家庭内「暴力の王」や「女王」に姿を変えていった》と吉田氏は書くけれども、このようなケースになるのは至極稀だし(というよりも吉田氏が勝手に捏造した「物語」でしかない)、実際に「ひきこもり」が家庭内暴力に結びつくのは、その多くの場合が自分の体験による精神的な負担と、自分が親に対して迷惑をかけているという考えから来る負担、そして自分がいつまで生きられるかわからないという感覚から来る負担に圧迫された状態が長く続いたとき、暴発的に起こるものであるし、しかもこの場合においても家庭内暴力よりも自殺のほうが多い。しかも「ひきこもり」や不登校の人たちが《「誰が(こんな世の中に)産んでくれと頼んだか!」と呪詛を浴びせかけ》ていると吉田氏が記述している箇所にも、吉田氏が「ひきこもり」や不登校を単に自分の歴史修正主義を盛り上げるための道具としてしか考えていないことが表れている。

 後者に至っては、《こうして「失われた10年」のハチャメチャな《性と生》をめぐる秩序紊乱、それを育て、甘やかしてきた〈平和〉と〈女〉と〈経済〉の三位一体システム=いわゆる「母原病」社会の無力と退廃が誰の目にも明らかになり》という記述が、吉田氏の結論(これについては最後に引用することにする)を無効化するほどの矛盾をはらんでいる。もし吉田氏のこの記述が正しいのであれば、吉田氏がこの文章の結論としている《〈平和〉と〈女〉と〈経済〉》を取り戻せ、という首長が、青少年問題を激化させる、と言うことができるのである。本来であれば、これらが青少年問題を激化させてきた、と主張する右派に対抗するためなら、それらが青少年問題を激化させた、という彼らの主張がいかに空疎なものであるか、ということを衝くべきだろうが、吉田氏はそうするどころか、逆に右派系の歴史修正主義者のコンテクストの上で踊っているのである。

 要するに、吉田氏の「憂国」と歴史修正のよりどころが「今時の若者」、すなわち俗流若者論であるから、結論だけがいかに左派的なものであったとしても、結局はアプローチが右派系の歴史修正主義者と同じだから、彼らと同じ事を吉田氏は言ってしまっているのだ。彼らを突き崩すためには、彼らの共有する「今時の若者」のイメージをまず解体する(例えば、「少年犯罪の凶悪化」という言説が、いかにデータや過去の事例の検証に基づいていないかを提示する)ことこそが最良の方法である。

 それにしても、吉田氏のこの文章の最後の段落(31ページ5段目)が、また笑える。

 だからね、もう均等法世代の『負け犬の遠吠え』(30代以上、未婚、子なしは女の負け犬)宣言くらいでお茶を濁しているバヤイではないの。ハッキリ言う。台頭する「改憲」ナショナリズムは〈女性の敵〉だ。それと戦いぬかなければ、女たちに明日はない。なにっ、男は……?だって。男はダメだ。団塊の退職金「セカンド・ライフ」の消費ブームだナンテ、相変わらずの平和経済ボケで使い物にならない。女たちの《最後の聖戦》、それだけが21世紀ニッポンにおける新しい〈平和のかたち〉をリセットできる。女たちよ、負け犬よ、子供よりも、いまは平和を生み育てる刻だ。

 いや、この文章の筆者が、団塊の世代の男性であることを考えてみるだけでも、十分笑えるのだけれども。でも、吉田氏は、《団塊の退職金「セカンド・ライフ」の消費ブームだナンテ、相変わらずの平和経済ボケで使い物にならない》などと嘆いているけれども、ではこのような単なる「憂国」文章を書いている吉田氏はどうなのだろうか。結局のところ、《団塊の退職金「セカンド・ライフ」の消費ブーム》を送りたいのは、吉田氏のほうだろう。要するに、社会のための闘争は若い女性に丸投げしておいて、自分はそれを支援する不利をして高みの見物をしながら悠々自適の余生を過ごす、というのが吉田氏の本当の欲望なのではないか。《なにっ、男は……?だって。男はダメだ》という物言いは、結局は自分が休みたいだけということを正当化する伏線に思えてならない。なぜなら吉田氏は男性だから。吉田氏こそ《女性の敵》ではないか。

 いずれにせよ、ついに左派にまで出現し始めた俗流若者論的な歴史修正主義者の勢いを止める時が来た、と言うべきだろう。

 参考文献・資料
 吉田司[2004]
 吉田司「女と平和と経済の時代は終わった」=「AERA」2004年8月30日号、朝日新聞社

 姜尚中『ナショナリズム』岩波書店、2001年10月
 斎藤環『「負けた」教の信者たち』中公新書ラクレ、2005年4月
 広田照幸『教育言説の歴史社会学』名古屋大学出版会、2001年1月
 パオロ・マッツァリーノ『反社会学講座』イースト・プレス、2004年5月
 ウォルター・リップマン、掛川トミ子:訳『世論』岩波文庫、上下巻、1987年2月

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コメント

お久しぶりです。以前ここに通りがかった
ことがある者です。
しかし、こうしてみるとこと若者論に関する
限り右も左もろくないい方をしない人が
多いですね。
正直戦前を美化しようが戦後を美化しようが
それこそ江戸以前を美化しようが何一つ
解決にならないというのに…。
やはりここはM2のお二人にがんばってもらう
しかないのかな…。(M2=サイゾーにでてくる
宮台真司と宮崎哲弥のお二人のこと。)

投稿: hts | 2005年6月19日 (日) 10時46分

はじめてコメントを書かさせていただきます。
吉田司氏までがこのありさまでしたか。メディアでは40代のみなさまに頑張ってもらうしかないですね。

投稿: misail2 | 2005年6月19日 (日) 19時14分

 随分前、ウェブ上で吉田氏の「宮沢賢治殺人事件」に対し「(吉田氏の文章は)いじめっ子が揚げ足を取っているような感じ」と評する一文を見たことがあります。今回のケースファイルを読んでますますそれに対し頷かざるを得なくなりましたネ。

投稿: 克森淳 | 2005年6月21日 (火) 03時27分

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