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2005年7月30日 (土)

統計学の常識、やってTRY!第4回&俗流若者論ケースファイル42・弘兼憲史

 ブログ開設当初からあった企画「統計学の常識やってTRY」が5ヶ月以上も休んでしまっていたのは、ひとえに採り上げるようなネタがなかったからに過ぎない。本来ならそれが望ましいのであるが、平成17年7月28日付の読売新聞に掲載された、読売新聞社による「勤労観」に関する全国調査は、新聞社がここまで若年層たたきを目的とする調査をやっていいのか、と思い、さらにそこでは漫画家の弘兼憲史氏と慶応義塾大学教授の樋口美雄氏のコメントが引かれていたのだが、弘兼氏のコメントがまさに俗流若者論だったので、「統計学の常識やってTRY」と「俗流若者論ケースファイル」を合併して検証する次第である。

 まず読売新聞の調査から入ろう。この調査は有効回収数が1825人で、実施方法が個別訪問面接聴取法である。回答者の内訳が、男女別で言うと男48%、女52%。世代別では20歳代11%、30歳代16%、40歳代15%、50歳代22%、60歳代22%、70歳以上が14%。サンプリングの面ではまずクリアしているといってもいいだろう。問題は設問だ。下の設問を見て欲しい。(カッコ内は回答率、単位は%)

 第2問:あなたは、こうした「ニート」と呼ばれる若者が増えている原因は何だと思いますか。次の中から、あれば、いくつでもあげて下さい。

 ・雇用情勢が厳しいから(41.5)
 ・親が甘やかしているから(54.5)
 ・学校などで働くことの大切さを教えていないから(26.0)
 ・義務感や責任感のない若者が増えているから(50.4)
 ・社会とのつながりを広げようとしない若者が増えているから(28.8)
 ・人間関係をうまく築けない若者が増えているから(49.8)
 ・仕事をえり好みする若者が増えているから(29.9)
 ・その他(2.1)
 ・とくにない(1.0)
 ・答えない(0.9)

 第3問:決まった職業に就かず、多少収入は不安定でも、好きなときだけアルバイトなどをして生活する「フリーター」と呼ばれている若者も増えています。あなたは、こうしたフリーターやニートと呼ばれる若者が今後さらに増えていくと、日本の社会にどんな影響があると思いますか。次の中から、あれば、いくつでもあげて下さい。

 ・税収が減り、国や自治体の財政が悪化する(57.8)
 ・将来、生活保護を受ける人が増え、国や自治体の財政が悪化する(39.0)
 ・年金や医療などの保険料収入が減り、社会保障制度が揺らぐ(57.2)
 ・収入が不安定で結婚できない人が増え、少子化が進む(37.5)
 ・収入が不安定な人が増え、金欲しさの犯罪が起こりやすくなる(45.4)
 ・社会全体の勤労観や価値観がゆがむ(37.4)
 ・その他(0.3)
 ・とくにない(2.1)
 ・答えない(0.8)

 この調査の底流に強く流れているのは、明らかにフリーターや若年無業者の問題をリスクとしてしか見なさない考え、特に若年無業者に関しては「今時の若者」の問題としてしか考えてないことである。まず第2問、若年無業者に関する質問であるが、「その他」「とくにない」を除く選択肢7つのうち5つも「……若者が増えているから」という選択肢なのだ。これに「親が甘やかしているから」という選択肢も加えれば、まさに選択肢7つのうち6つが「今時の若者」の精神の問題としての若年無業者問題を選択させていることになる。このような俗流若者論御用達の論理を平然として選択肢に陳列させる読売の調査の設計者は、本気で若年無業者問題に取り組んでいこう、という態度があるのだろうか。所詮は他人事としてしか考えていない設計者、そして回答者の顔が浮かんでくる。だが、実際には若年無業者の問題が社会階層とは無関係でないことが東京大学助教授の玄田有史氏や「労働政策研究・研修機構」副統括研究員の小杉礼子氏によって実証されている。フリーターに関しても、東京大学助教授の本田由紀氏が、《学校経由の就職》(本田由紀[2005])の衰退が大きな原因になっている、ということを述べている。フリーターや若年無業者の問題は、社会構造の問題ともまた切り離せない問題であるのに、読売の調査の設計者はその点をほとんど覆い隠している。

 第3問に関しては、なぜそのような問いかけをするのか、ということばかりである。もちろんこの設問で描かれていることは、フリーターや若年無業者という「今時の若者」が国を滅ぼす、というストーリイである。例えば《税収が減り、国や自治体の財政が悪化する》(2005年7月28日付読売新聞、以下、断りがないなら同様)のが問題というのであれば、なぜ公共事業のスリム化とか、人口減少社会に対応した財政運用の設計を考えないのだろうか。その点の議論については、千葉大学助教授の広井良典氏や(広井良典[2001])、政策研究大学院大学教授の松谷明彦氏(松谷明彦[2004])に譲ることとするが、少なくともフリーターや若年無業者の増加をリスクとしてしか見なさない思考からいい加減脱却するべきである。

 それにしても《収入が不安定で結婚できない人が増え、少子化が進む》よりも《収入が不安定な人が増え、金欲しさの犯罪が起こりやすくなる》が多く、《社会全体の勤労観や価値観がゆがむ》も前者に迫る、という調査結果に、私は愕然としてしまった。

 結局のところ、この調査はいかに社会がフリーターと若年無業者に関して貧困な意識しか持ち合わせていない、ということを如実に表している。しかもこの調査が、意図的にフリーターや若年無業者を問題として捉えさせるように設計されている――いや、実際に問題なのだが、しかし問題は読売の記者が想定することの彼岸にある。この調査は、むしろ読売をはじめとするマスコミがいかに若年就業の問題に関して貧困なイメージばかり垂れ流し続けてきたか、ということを示す反省材料にすべきであろう。

 しかし、この記事の問題点はここでは終わらない。ここからはこの記事における、漫画家の弘兼憲史氏の発言の検証だ。最初に言っておくけれども、ここで発言しているもう一人の専門家、慶応義塾大学教授の樋口美雄氏の発言はそれなりに分析的で、安易なバッシングに走ろうとしないことは評価できる。だが、弘兼氏の発言は、あからさまに若年層を堕落した存在としてしか捉えていない、レヴェルの低いものだ。さすが「団塊のスター」とでも言うべきか(暴言で失礼!)。

 弘兼氏は、若年無業者の増加について、《日本が裕福になり、親が養ってくれるからだろう。恵まれた時代に育ち、自立するという自覚が若者にはないからだ。日本の今後を考えると極めて不安だ。子供に良い目を見させると、ろくなことはない》と語っている。あなたも経済に関する漫画を描いているのであれば、あるいは新聞に「専門家」として登場しているのであれば、少なくともテキスト化された俗流若者論以上のことは言うべきだろう。そもそも「自立」を至高として掲げるイデオロギーも、最近の低成長によって旗色が悪くなっているのだが、その点も弘兼氏は理解していないのか。例を挙げてみると、玄田有史氏によると、子供が親に「寄生」するという所謂「パラサイト・シングル」は、決して若年層が親からの既得権に甘えているのではなく、むしろ既得権を与えられた親に子供が依存している、という構造があるという(玄田有史[2001])。まったく、弘兼氏がこのような発言しかし得ないのは、弘兼氏が《裕福になり》、マスコミが《養ってくれるからだろう。恵まれた》メディア環境に《育ち》、テキスト化された俗流若者論異常の発言をするという《自覚が》弘兼氏には《ないからだ》。まったく、弘兼氏の《今後を考えると極めて不安だ》。

 しかし弘兼氏はこれでは終わらない。社会保障に関しても弘兼氏、《若者は世代間扶養の意識もなく、そもそも年金の仕組みなども知らないのではないか》などと知った顔で語っているのだから救いようがない。もう一度言うけれども、安易にテキスト化された俗流若者論に依拠して若年層をバッシングする弘兼氏に、コメンテーターとしての存在価値はもはやないだろう。少なくとも、ここまで断定できるのであれば、何かテキスト化された俗流若者論以上のことを語るべきである。

 しかし弘兼氏はまだまだ終わらない。弘兼氏は労働意欲の変容について《勤労観は高度成長期に比べ明らかに変わっている。歴史が示すように、国力が上向きのときはみんな一生懸命に働くが、いったん豊かになると勤勉でなくなる。上り坂の日本ではないからしようがない面もあるが、若い人たちはこのまま行くと、今の豊かさが失われるという危機感をもっと持つべきだ》とも語っている。弘兼氏のこの発言を読んでいる若年層がどれほどいるのだろうか。よほど熱心な若年層(=その人は就業に対するモチベーションが高く、この手の情報にはなんだって飛びつく)か、あるいは私のようなひねくれ者(=マスコミ御用達の自称「専門家」の発言を楽しむことに対するモチベーションが高く、この手の情報にはなんだって飛びつく)くらいではあるまいか。社会格差の反映に苦しんでいる若年層が、このような弘兼氏の無責任なコメントを読んでも、あまり効果は上がらないだろう。

 弘兼氏の如き高度経済成長礼賛の言説を読むたびに、私は以下のことを思い出す。東北地方に住んでいる人であれば、平成15年5月と7月に、宮城県を中心に大きな地震が起こったのはご存知であろう。そのとき、東北新幹線の一関~新花巻の間のコンクリート高架橋のコンクリートが剥離する、ということが起きた。また、これ以前にも、山陽新幹線のコンクリート高架橋が建造して10年もたたないうちに著しい劣化を示していた、という報告もある。東京大学名誉教授の小林一輔氏によると、これらの高架橋は高度経済成長期に建造されたものであり、その時期に打設されたコンクリートは容易に中性化したり、コンクリートの劣化を促す塩化物イオンが含まれている海砂を洗わないまま骨材として使っていたり、手抜き工事をしていたりと、杜撰なものばかりである(小林一輔[1999])。ついでに言うと、高度経済成長期において、少年による凶悪犯罪は現在の数倍起こっていた。ここで礼賛されている「勤勉さ」など、所詮は札束によって暗黒面が覆い隠された幻想に過ぎないのである(ちなみに、弘兼氏などが理想とする高度経済成長期にも現在のような問題が起こっていたことが、パオロ・マッツァリーノ[2004]で指摘されている)。

 もちろん現在の低成長の時代は、社会の抱える問題を経済成長で覆い隠すことができなくなり、社会環境も激変した故に、社会問題が現在において噴出しているように見えるようになった。弘兼氏は、そのような問題の根本的な原因を突き止めようとせずに、高度経済成長期の如き経済成長でまた問題を覆い隠せ、というものではないのか?そこまでは行かなくとも、いずれにせよ、弘兼氏の議論が高度経済成長期を理想とする考え方であることは間違いないようだ。

 しかし、高度経済成長期の如く、人々を経済成長という「目標」に向かって猪突猛進させることが現在において可能であろうか。我が国は長期停滞の期間を経ることによって、労働意識が成熟してきた、という見方もある。若年無業者の就業問題に深く関わってきた、「ニュースタート事務局」代表の二神能基氏は、現代の若年層の就業意識が「効率優先」から仕事そのものの中に喜びを見出したい、という考えに変わりつつある、ということを論じている(二神能基[2005])。このような意識の変容に、特に中高年を中心に避難が上がることは多いが、しかし、人口減少が間近に迫っている我が国において、経済成長を第一としない、人々の幸福を第一とする意識、あるいは多様な趣味の共存を認める意識が深まっていくのは、ある意味では良い影響も大きいと思う。もちろん効率優先で思いっきり儲ける人もいてもよく、その点においては収入の二極化が進行するのだが、しかしこの形での二極化を一概に否定することもできないかもしれない。エコノミストの森永卓郎氏が最近になってオタクを擁護しているのも、これと関わりがある(ただ、森永氏は少々叫びすぎだと思うが)。

 話を弘兼氏に戻すけれども、結局のところ弘兼氏の一連のコメントは、自分の生きてきた時代を理想として、若年層を精神的に劣ったものとして罵倒するというものに他ならず、社会的に責任のあるコメンテーターの発言としては無責任極まりないものであると断定できるだろう。弘兼氏の想像力は自らの自意識と図式化された「今時の若者」を超えることができず、それゆえに安易なバッシングに走っている。コメンテーターに求められるのは想像力とヴィジョンであると、改めて実感した次第である。

 ついでに弘兼氏と読売新聞に関して言うと、弘兼氏には立派な「前科」がある。今年5月から6月のある時期にかけて我が国を騒がせた「ガードレールの謎の金属片」騒動に関して、弘兼氏は、平成17年6月3日付の読売新聞において、《非常に卑劣で陰湿な事件だ。インターネットの掲示板などで呼びかけている愉快犯がいるのかもしれない。集団自殺のように見知らぬ者同士がある一つの目的のために同じ行動をとる妙な社会になってしまった》(2005年6月3日付読売新聞)などと放言している。しかし、その後に国土交通省の実験によって判明したことだが、これらの金属片は、自動車がガードレールにこすれたときに発生するものだとわかった。このことについて、弘兼氏はいかに思っているのだろうか。弘兼氏には、少なくとも1年はコメンテーターとしてマスコミに顔を出さないことを要求する。

 総括すると、読売のこの調査、そしてこの記事は、明らかに若年無業者やフリーターを問題視して、彼らをリスクとしてしか見なさないという発想に基づいている。社会構造の問題や、人口減少時代にふさわしい就業のヴィジョンを欠いて、ただ徒に彼らをバッシングするだけの記事にいかなる意味合いを持つことができるか。少なくとも短期的な若年層バッシングには役に立つかもしれないが、長期的にはむしろ害悪になる。ろくに歴史も調べもせず、問題に関して真剣にあたろうともせず、ただ「今時の若者」の問題としてしか取り組まないようでは、この記事に何らかの存在意義を求めるほうが難しいだろう。

 また、若年層に関するものに限らず、意識調査の類がなぜマスコミの検証材料にならないのだろうか。すなわち、ここで論じられている問題について、マスコミがいかに報じ、そしてそれが調査にどのように現れているか、ということである。この調査は、明らかに多くのマスコミが喧伝するフリーターや若年無業者に対するステレオタイプに基づかれて設計されているものであり、従ってマスコミの検証材料として読むにはある程度、この記事で触れられていないことを読み取る努力する必要がある。このような調査が新聞に掲載されること事態、新聞が自らの正当性を喧伝する目的で行なわれているのではないか、と疑わざるを得ない。

 いや、案外そうなのかもしれない。とすると、この記事が発表されることで最も喜んでいる人は、ひょっとしたら調査した人自身ではないか…。

 参考文献・資料
 玄田有史[2001]
 玄田有史『仕事のなかの曖昧な不安』中央公論新社、2001年10月
 小林一輔[1999]
 小林一輔『コンクリートが危ない』岩波新書、1999年5月
 広井良典[2001]
 広井良典『定常化社会』岩波新書、2001年6月
 二神能基[2005]
 二神能基『希望のニート』東洋経済新報社、2005年6月
 本田由紀[2005]
 本田由紀『若者と仕事』東京大学出版会、2005年4月
 パオロ・マッツァリーノ[2004]
 パオロ・マッツァリーノ『反社会学講座』イースト・プレス、2004年5月
 松谷明彦[2004]
 松谷明彦『「人口減少経済」の新しい公式』日本経済新聞社、2004年5月

 五十嵐敬喜、小川明雄『「都市再生」を問う』岩波新書、2003年4月
 マックス・ヴェーバー、大塚久雄:訳『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』岩波文庫、1989年1月
 谷岡一郎『「社会調査」のウソ』文春新書、2000年5月
 ロナルド・ドーア、石塚雅彦:訳『働くということ』中公新書、2005年4月
 広田照幸『教育言説の歴史社会学』名古屋大学出版会、2001年1月

 太田匡彦「こんな親の子就職はムリ!」=「AERA」2004年2月9日号、朝日新聞社
 島耕作「団塊世代のトップランナー、大いに語る」(取材協力:弘兼憲史)=「現代」2005年4月号、講談社
 諸永裕司「一生ずっとフリーター可能なのか」=「AERA」2003年7月14日号、朝日新聞社

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俗流若者論ケースファイル41・朝日新聞社説

 朝日新聞は、平成16年の4月初頭の社説において、同紙と産経新聞の間で国旗・国歌に関する論争が起こったことに触れて、「社説は読み比べてこそ魅力がある」という文章を掲げたことがある。また、朝日の社説は、これ以降も「論争」を求めるような社説を多く書いてきた。朝日新聞論説副主幹の桐村英一郎氏によると、このような姿勢を打ち出してからは、朝日の購読者において社説を読む人の比率が上がったという(桐村英一郎[2004])。なるほど、確かに社説はその新聞社の「姿勢」を打ち出しているものだから、他の新聞の社説=他の新聞社の「姿勢」と読み比べて情報を取捨選択するということは、メディア・リテラシーの育成にもつながるのかもしれない。

 しかし我が国のマスコミにおいて、そのような「読み比べ」が成立しない特異点が存在する。それが若者報道だ。若者報道においては、どのメディアも版を押したような空疎な「憂国」言説ばかりがまかり通り、どれを読んでもほとんど同じである。教育基本法の改正などについての差異はあろうが、少なくとも「今時の若者」に対する利害や考え方という点では新聞はほとんど対立していないので、論争が起こることはまずない。故に、若者報道、及び若年層を論評した社説を読む際には、新聞以外の情報を豊富に取り入れる必要がある。

 若者報道において、右と左は糾合される。その典型を見るような社説が、平成17年5月5日付の朝日新聞に書かれた。5月5日といえば当然「子供の日」で、各紙が「子供の日」に関連して社説を打ち出すのだが、この日の社説は成人の日と並び、俗流若者論が出てくる可能性が高い。各紙を読み比べてみたところ、もっとも醜悪なのが朝日だったと記憶する。

 その朝日の社説のタイトルは「親の汗で遊びを教えよう」。この社説の論旨というのは基本的に不明、いうなればゲーム害悪論であった。何せこの社説、最初に《かけっこをすると、まっすぐ50メートルを走ることができない。ソフトボールは片手で投げられない。つまずくと、そのまま倒れてしまって、歯を折ったり、頭を打って気を失ったりする。小学校の先生に聞くと、そんなこどもが珍しくなくなったそうだ。/こどもの体が、いよいよおかしくなっている。》(平成17年5月5日付社説、以下、断りがないなら同様)と書いているのだから。《珍しくなくなったそうだ》とか言う前に、まず取材せよ。取材して確証づけないと、これが都市伝説とそしられてもおかしくはあるまい。

 それにしてもこの社説の極めて牧歌的な社会観が気になるのはなぜだろう。一部を少し引用してみる。

 こうした基礎的な体づくりは、かつては家の外で遊ぶことで培われてきた。よく見かけた鬼ごっこや木登り、縄とび、石投げといった遊びだ。外遊びの集団には年齢の幅があり、年上のこどもの動きを年下がまねて、自然と上達した。
 いま、こどもたちが外で遊んでいる姿を探すのは難しい。家の中でテレビを見たり、ゲームをしたりするのでは、体にいいことは何もない。(2段目)

 ここまで書けるのも呑気としか言いようがない。まず、記者は子供の遊びの現状に関してしっかりと取材したのか。「昔は外遊び、今はゲーム」みたいな陳腐な図式に囚われすぎていやしまいか。数千歩譲って、そのような図式があるとしても、例えば人口が集中していると考えられる郊外の団地に、果たして道路以外に遊べる環境があるだろうか。また、以前も述べたとおり、小学生がキャッチボールで暴投して子供を殺してしまった、ということに関して、仙台地裁は「親の監督責任」を求めた。私はこれを暴論だと思っているのだが、朝日社説子はこのことについていかなる評価を持っているのだろうか。

 それにしてもこの社説の安易な外遊びの礼賛には辟易してしまう。子供はゲームをせず外で遊んでいれば安泰、ということか。朝日の社説子がここまで「外遊び」に固執するのは、そのような「外遊び」が自らをつくってきた、と言いたいからであろうか。ならば、筆者名を公開した上で、社説とは別のところでエッセイを書くがいい。また、安易に「今時の子供」を嘆くのをやめるがいい。自意識の発露でしかない「憂国」エッセイなど願い下げである。もう一つ、朝日社説子は《体力や運動能力が下がっているのは、こどもの体を育む環境が壊れかけていることを意味している》と書いているけれども、それならばそれを検証するがいい。

 安易な図式化と、自意識の発露でしかない牧歌的な社会観を社説という場で表現することが許されるということは、それだけ若者報道というものが貧困であることを表しているのである。

 参考文献・資料
 桐村英一郎[2004]
 桐村英一郎「社説を変えた200日――「陣地」は広がったか」=「論座」2004年12月号、朝日新聞社

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2005年7月29日 (金)

俗流若者論ケースファイル40・竹花豊

 平成15年6月、東京都の治安担当副知事に抜擢された竹花豊氏が、最近『子供たちを救おう』なる本を出したそうだ。私はこの本を読んでいないのだけれども、竹花氏が《現在の治安悪化の要因として、外国人の組織犯罪とともに、日本社会の病理的な側面の表れでもある少年犯罪への対策が必要だと申し上げました》(福井洋平[2004])と語っている通り、少年犯罪を重点的に考えていることは確かなようだ。

 その竹花氏のインタヴューが、平成17年5月3日付読売新聞に掲載されていた。このインタヴューが掲載されたのは、読売新聞が平成17年に入ってから現在まで連載している大型連載「教育ルネッサンス」のシリーズの一つである「学校の安全」の第5回(全体では第68回)に掲載されているのだが、竹花氏の青少年「対策」の一部が良く表れているような内容だったのでここで検証しておく。

 例えば竹花氏は、子供が犯罪に遭う可能性のあるものとして、携帯電話を採り上げている。曰く、《援助交際という名の売春も含めて、あらゆる情報に接することができる。大人と同じ圧倒的な情報量の中に、子供を無防備のまま放置していいのだろうか》(竹花豊[2005]、以下、断りがないなら同様)と。このような文句は規制派の常套句である、ということを我々はまず覚えておくべきだろう。そもそも子供が竹花氏などの心配する「有害」な情報に接する可能性はいかばかりであるか。少なくとも、携帯電話会社が設定しているリンクサイト(「iモード」なら「iMenu」)からたどっていく限りでは、そのような「有害」なサイトに辿り着くことはまずない。おそらく「有害」なサイトに辿り着く確率が最も高いのは迷惑メールであろうが、そのようなメールは常識的なリテラシーをつけておく程度で対策しうるものであるし、そのような情報もまた溢れかえっているから、子供が《無防備のまま放置》されている、という状況はまずない。

 その直後、これはこの記事を執筆した読売の記者の書いた文なのだが、竹花氏は《たかが子供の万引きと大目に見る風潮が、犯罪への抵抗感を弱め、もっと大きな犯罪を犯す下地になる》と考えているらしい。そのような事実が存在するかどうか、というのは怪しいのだが、ここではそのことについては触れないでおこう。だが、《たかが子供の万引きと大目に見る風潮》なるものが現在において本当に存在するかどうか、ということは検証してみる必要があるだろう。

 平成9年になって、我が国において少年による強盗が件数の面で急増した。件数の面で、と私が言ったのは、この件数の急増が、それまでは窃盗+傷害で捉えられていた事件が強盗として捉えられるようになったので急増した、というだけの話だからである。そしてこの中には、万引きが店員にばれて窃盗犯が店員を殴った、というものも含まれる(具体的に言うと、CDショップでCDを盗んだ19歳の少女がそれを見つかって店員を突き飛ばした、ということが強盗傷害としてカウントされている)。もう一つ万引きについて言わせてもらうと、これは昨今の検挙率の急落と関連しているのだが、これまでは警察が軽微な犯罪の被害届けを握りつぶしていたものを、最近になって素直に受理するようになって、犯罪の認知件数が急増した(検挙率が急落した)。その中には万引きも含まれる。要するに私が言いたいことは、ここ数年の間に高まっているのは、《たかが子供の万引きと大目に見る風潮》などではなく、むしろ子供の非行をリスクとして過大視する風潮である、ということである。その異常なまでの高まりが、かえって昨今になって《たかが子供の万引きと大目に見る風潮》が強まったと錯覚させる、という構造となっている。

 そして、案の定出てきたのがこのような論理。《ゲームのような仮想空間を離れ、生命の大切さを知ってもらうためにも、林間学校のような中途半端なものでなく、みっちりと自然の中で生活させたい》と語っているのだけれども、このような言い草に中国の文化大革命における下放政策やポル・ポトの独裁を想起してしまう私はやはり異常なのだろうか。しかも林間学校が《中途半端》と語っているのだが、何をさせたいのだろうか。キャンプでも中途半端なのだろうから、山籠りか。狩猟生活か。富士の樹海で遭難するのか。そして《ゲームのような仮想空間》に対する敵視が案の定出てきた。

 まあ、このインタヴューで、竹花氏がいかなる気持ちで青少年問題に取り組んでいるか、ということの一面が理解できるだけでも検証する価値があったか。しかしながら、徒に少年犯罪ばかり危険視するのもどうかと思う。これは、少年犯罪、特に少年による凶悪犯罪が人口比でも昭和のある時期に比べて減少している、ということだけでなく、現在の政治状況において、青少年よりも青少年「対策」が支持率を集める、ということも関連している。青少年を「歪めた」原因を「特定」し(それは限りなく10割に近い確率で漫画とゲームとインターネットと携帯電話と「戦後教育」と「戦後家庭」と教育基本法のどれかである)、それに対する「対策」を打ち出すことで、ポピュリズム的な人気を得る構造の最先端が東京都の石原慎太郎知事と神奈川県の松沢成文知事であるが、少なくともそのような構造を解体しない限り、政治をよりましな状況にすることは困難であろう。先に検証したとおり、今や憲法論すら俗流若者論に犯されている事態である以上、我々は俗流若者論に対するリテラシーをもっと持たなければならないし、科学に関しても科学と疑似科学を見分けられるだけのリテラシーが必要となる。少なくともこれらは、俗流若者論がポピュリズムとなる時代に生きている我々に課せられた使命なのである。

 ついでに竹花氏はこうも語っている。曰く、《奈良市の女児誘拐殺人事件のように、子供が犯罪の対象になる現象が深刻化しているのも、自分より弱い者になら目的を果たせるという病理の現れ》と。マスコミと石原知事に真っ先に言うべき言葉だろう。

 参考文献・資料
 竹花豊[2005]
 竹花豊「地域のリーダー養成」=2005年5月3日付読売新聞
 福井洋平[2004]
 福井洋平「東京・犯罪増えた街はここ」=「AERA」2004年3月22日号、朝日新聞社

 森真一『日本はなぜ諍いの多い国になったのか』中公新書ラクレ、2005年7月

 河合幹雄、杉田敦、土井隆義「犯罪不安社会の実相」=「世界」2004年7月号、岩波書店
 浜井浩一「「治安悪化」と刑事政策の転換」=「世界」2005年3月号、岩波書店

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2005年7月27日 (水)

俗流若者論ケースファイル39・川村克兵&平岡妙子

 前回に続き、今回も「AERA」の若年層右傾化論の怪しさについて述べようと思う。ただし、今回は憲法が絡んでいる。検証する記事は、同誌記者の川村克兵氏と平岡妙子氏による「若者「改憲ムード」の浮遊感」(平成17年5月2日・9日合併号に掲載)である。

 まず私の憲法に対する立場を述べさせてもらうと、私は「日本一消極的な護憲派」を自称している。というのも、そもそも現在の政治や言論に憲法について語るだけの覚悟があるのか、という点から、元来改憲やむなし、という立場の私も護憲派にならざるを得ないのが実情である。

 なぜか。それは、現在語られている憲法論の多くが俗流若者論であることだ。この連載の第30回第31回でも検証したことだけれども、特に改憲派による改憲論の中でもっとも勢いが強いのが、彼らの問題にしている(彼らが勝手に問題化している?)「今時の若者」は日本国憲法下の欺瞞の上で生まれたものであり、従って彼らに対するもっとも根本的な対策は憲法を改正することだ、という飛躍した論理が平然とまかり通っている。護憲派は護憲派で、彼らは「憲法を守れ」とひたすら叫ぶけれども、他方では「今時の若者」を改憲派と同じような口調で嘆く。要するに、「今時の若者」に対することでは左右の利害が対立していないから、憲法にかこつけた俗流若者論を批判できないのである。このままでは改憲論が俗流若者論に侵食されるのも当然といえようか。従って、(俗流若者論という名の排他的ナショナリズムをしつこく検証する立場としての)私は憲法に関しては「日本一消極的な護憲派」にならざるを得ないのである。

 「AERA」の記事の検証を始めよう。私がなぜ今回この記事を採り上げるのか、というと、ここで使われているコメントの多くがむしろ俗流若者論に依拠した改憲論にこそ当てはめるべきだ、と思うからである。もちろん、この記事で引かれている俗流若者論に依拠した「反改憲論」が図式化された「今時の若者」というイメージにのっとって作られたものだということは当然として批判の対象になるとしても、彼らの問題にしている「今時の若者」とほとんど同じようなこと、あるいはもっと過激なことを政治家や右派系の言論人が語っていたとしても、なぜ批判がそちらのほうに行かないのか、という疑問もまた私は抱いている。

 さて、それぞれの言説の検証に分け入っていくことにしよう。まず、88ページの1段目から4段目のライターの荷宮和子氏から。

 ……評論家の荷宮和子さんは、「決まっちゃったことはしょうがない」と考えるのが“団塊ジュニア気質”だと見る。理想なんて夢見ないし、わからない。だから、いまあることには筋を通しておきたい…。

 「改憲派が多いのは、みんなが改憲したほうがいいって言ってるみたいだし、という時代の空気を読み取っているだけですよ。深く考えていないんです」

 空気が読めない人が、いま、一番バカにされる。他人とまったく同じはイヤだけど、みんなと違うのはもっとイヤ。そんな心理を感じるというのだ。(川村克兵、平岡妙子[2005]、以下、断りがないなら同様)

 このような記述を見ていると、つくづく川村氏と平岡氏と荷宮氏が条件反射的にしか現代の若年層を語っていないことを考えさせられる。とりわけ荷宮氏は著書や文章の中では「空気」とか「時代」とか「世代」という言葉を多用するけれども、荷宮氏はそれらの語句の魅力的な感触に囚われすぎていて、結局単なる自意識の発露でしかない(すなわち護憲派であり(荷宮氏の妄想している)「空気」に流されない自分を礼賛している)文章を量産している、というのが荷宮氏の弱点である。もちろん、このコメントも同様だ。この点において《深く考えていない》のは荷宮氏のほうであろう。記事の筆者も、《空気が読めない人が、いま、一番バカにされる》と書いているけれども、少なくとも評論家の故・山本七平氏の『空気の研究』くらいは読んでいただきたいものだ。

 次はジャーナリストの斎藤貴男氏である。

 「自分に自信のない若者が多い」

 ジャーナリストの斎藤貴男さんはそう嘆く。

 社会のさまざまな場面で「格差」が広がり、就職できない若者も増えた。少し前まではアイデンティティーを会社に重ね合わせる人もいたけれど、いまや会社と一体感は持てなくなった。

 「何者にもなれない不安。自分探しをしても、何もない。アイデンティティーを感じられるのが『日本人である』ということしかなくなった。だから日本が強くあってもらわなきゃ嫌なんですよ」(88ページ4~5段目)

 ここまで断定されると、どうも引いてしまう。そもそもこの発言は俗流若者論に依拠した改憲論もさることながら、一部は斎藤氏自身にも降りかかってくるものもある。その部分とは、《アイデンティティーを感じられるのが『日本人である』ということしかなくなった。だから日本が強くあってもらわなきゃ嫌なんですよ》という部分がそれにあたる。私は斎藤氏が、かの曲学阿世の徒・京都大学霊長類研究所の正高信男氏の著書『ケータイを持ったサル』(中公新書)を、朝日新聞と著書『人を殺せと言われれば、殺すのか』(太陽企画出版)及び『安心のファシズム』(岩波新書)で絶賛しているのを見たことがあるのだが、その文章はどう見ても《アイデンティティーを感じられるのが『日本人である』ということ》であり《だから日本が強くあってもらわなきゃ嫌》というものであった。もちろんここでの《日本》は改憲派の妄想としての日本ではないけれども、しかし斎藤氏の「想い出の美化」に基づいた「日本」であることは間違いなかった。

 次は精神科医の斎藤環氏である。斎藤氏は護憲派であり、その理由として書かれている「護憲派最大のジレンマ」という論文(斎藤環[2005]に収録)はぜひともお勧めしたいのだが、この記事におけるコメントはいただけない。前回の社会学者の北田暁大氏に続き、斎藤氏(以下、特に断りがなければ「斎藤氏」と表記した場合は斎藤環氏を表すものとする)も信頼できる論者であるだけに、落胆してしまった。

 「憲法9条を守るには、ある種の思想が必要でしょう。でも、今、思想ぐらい若い人に忌み嫌われているものはない。『問題をうじうじ考えてるヤツはうざい』『何かを主張するヤツは痛い』と、生理的、脊髄反射的な嫌悪感。そもそも改憲というテーマへの関心は低く、どーでもいい。ならば、周りに『あいつ何かありそう』と怪しまれないほうが言いし、すでにある自衛隊を否定するような憲法ではなく、現状追認でわかりやすいほうがいい、となる。でも、国民投票になったら行かないと思う」(89ページ3~4段目)

 ひどい断定である。確かに《憲法9条を守るには、ある種の思想が必要》なのは痛いほど実感している(もちろん俗流若者論に対する反駁で)。しかし、私見によれば《今、思想ぐらい》俗流若者論に《忌み嫌われいているものはない》。《問題をうじうじ考えてるヤツはうざい》と考えているのは、むしろ俗流若者論に依拠する俗流論壇人ではないか。もちろん彼らのほうが《改憲というテーマへの関心は低く、どーでもいい》(蛇足だが、このような表記もどうにかならないものか)。若年層ばかりたたく言説は、その裏で進んでいる大きくて危険な動きを見落とす、というパターンの典型を見ているようである。

 映画作家の河瀬直美氏。

 みんな、実感を持って改憲を語っているのかな?ほんとにほんとに「自分ごと」として。去年生まれた長男の遺児苦をしていて思います。このあどけない笑顔を守りたい。でも、そんな想いとはかけ離れたところで、議論は繰り返されている気がする。(河瀬氏の発言については全て89ページ別枠)

 その通りである。おそらく現行憲法が改正されて我が国が軍隊を持つようになっても、国会議員の何人が自分の子供を軍隊に行かせるか。マイケル・ムーアの「華氏911」において、ムーアが国会議員に「自分の子どもをイラクに派兵しよう!」というビラを配るのと似た事態が起こって欲しくないものだ。川瀬氏は、若年層に上のような言葉を語るより先に国会議員に言ったほうがいいだろう。河瀬氏は《「憲法を変えれば何かが変わるかも」という若者が多いのでは》とも語っているけれども、それも若年層よりもむしろ国会議員と俗流右派論壇人である。また、《子どもに絡む犯罪が多発してきた背景には……》ともっともらしく語っているけれども、そのような犯罪は全体として減少している。

 作家の雨宮処凜氏。雨宮氏のコメント(90ページ別枠)は、前半部分は説得力がある。しかし最後の段落で唐突に若年層について触れるところはやはり若年層より先に国会議員に言うべき言葉だろう。

 若者が、強い改憲論を言う気持ちは分かる。私も特攻隊には憧れたし。国家に思いきり必要とされてみたい。普段は何の影響力も持たなくて、生きづらいから。まったく社会とつながっていないからこそ、「公」といいたがる。自衛軍を持ったらどうなるんだとか具体的ではない。考えてても、戦争で大活躍する自分とか、ほとんど妄想。国家を語ることで、鬱屈を発散しているんだと思いますよ。

 まさに俗流若者論にこそ当てはまる。それよりも、自分では戦争で出向かないくせに、顔も知らぬ若年層が戦争に出向くことで「国家」を妄想する人たちのほうが危険だと思うのだが。

 それぞれのコメントの検証はこれで終わりにしよう。しかしこの記事で引かれている全てのコメントが、若年層よりもむしろ国会議員に言ったほうがいいだろう、という類のものであった。

 どうして彼らは若年層ばかりを叩きたがるのだろうか。それについて詳しいことはあまりわからない。ただ一つだけ可能性があるとすれば、若年層の事を問題化した言説のほうが、国会議員の言説を検証した言説よりも売れる、ということか。しかし、若年層ばかりを問題化し、彼らの見ていない(あえて無視している)ところにおいてもっと大きな問題が進行していることを考えれば、徒に若年層ばかり叩いている状況ではないのである。

 彼らが若年層ばかり叩くのは、彼らが我が国の未来を左右するから、と考えているからではないだろうか。しかし、そのような考え方には一理あるとしても、かえってそのような考え方が、俗流若者論における無責任、すなわち現在の状況を無視して未来にばかり期待したがる、という欺瞞として表出することが往々にしてある。

 だから、この記事で展開されている若年層批判はかえって現在の状況に対する無関心を生み出す、とまではいかなくとも、少なくとも現在の状況に対する決定打とはなりえないのである。政治家たちの危険な言動を無視して、若年層ばかりに目を向けて、しかも益体のない、あるいは的はずれな「解説」ばかり生み出す、というのは、そのメディアはやはり政治に対する対抗意識を失っている、といわざるを得ない。

 目を覚ませ、「AERA」。今やるべきは、そのようなことではないはずだ。

 参考文献・資料
 川村克兵、平岡妙子[2005]
 川村克兵、平岡妙子「若者「改憲ムード」の浮遊感」=「AERA」2005年5月2・9日合併号、朝日新聞社
 斎藤環[2005]
 斎藤環『「負けた」教の信者たち』中公新書ラクレ、2005年4月

 鈴木謙介『カーニヴァル化する社会』講談社現代新書、2005年5月
 内藤朝雄『いじめの社会理論』柏書房、2001年7月
 山本七平『空気の研究』文春文庫、1983年10月

 杉田敦「「彼ら」とは違う「私たち」――統一地方選の民意を考える」=「世界」2003年6月号、岩波書店

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2005年7月25日 (月)

正高信男という斜陽

 かの曲学阿世の徒、京都大学霊長類研究所教授の正高信男氏が、平成17年7月25日に、最新刊『考えないヒト』(中公新書)を上梓した。ちなみにサブタイトルは「ケータイ依存で退化した日本人」である。本書の構成は、かつて私が批判した『人間性の進化史』(NHK人間講座テキスト)の各章を各種テーマ、すなわち「出あるく」「キレる」「ネット依存症」「文化の喪失」「サル化する日本人」に基づいて再構成されたものである。

 本書を読んでみる限り、何も変わっていない、と感じた。基本的に本書における疑問点の全てが、『人間性の進化史』を批判した「正高信男という頽廃」と完全に重なっているので、詳しくはそちらを参照されたい。もちろん、新しい知見もなく、かといって修正された箇所もなく、反省もなく、ただ前掲のテキストを少しばかり話題を足しただけの本に過ぎなく、基本的に若年層のこと、あるいは自分の気に食わない行動を「退化」と罵るというスタンスも、霊長類に関するアナロジーを乱用するという行為も、まったく変わっていない。そもそも青少年問題であれば、例えば就業の問題とか、もっと語るべき問題があると思うのだが。マスコミで興味本位で採り上げられている「問題行動」ばかり、というのが、また本書の哀しいところだ。『人間性の進化史』を新書にしただけ、という極めて手軽な本である。

 NHK人間講座テキストと各章の対応は次の通り。

 「出あるく」…第3回「家族って何」、第4回「父親が求められる時」
 「キレる」…第2回「はじめに言語ありき」、第6回「なぜ「キレる」のか」
 「ネット依存症」…第5回「愛と性の分離」
 「文化の喪失」…第7回「文明が文化を滅ぼす」
 「サル化する日本人」…第1回「人間はいつ人間になったか」、第8回「「自分探し」のはじまり」

 ただし、ここで新しく指摘しておきたいことは、第2回と第6回が一つの章にまとめられていることによって、さも第2回で論じられている「ギャル文字」(蛇足:私はこの文字が嫌いである。しかし、そのことと、その文字を使う人たちに対しての正高氏の差別的な目線を批判することは矛盾しないと考える)と、近年多発しているといわれている(その実は単にマスコミが興味本位で採り上げているのに過ぎなかったりする)「キレる」少年犯罪と関連がある、と捉えられかねない、ということである。

 だが、このように第2回と第6回が一つの章としてまとまることによって、正高氏は《どう考えてももはや言語的コミュニケーションの範疇を逸脱していると、考えざるを得ない》(正高信男[2005]、以下、断りがないなら同様)文字を「今時の若者」は用いており、その結果言語能力が退化して、結果としてワーキングメモリーの機能が低下し、そして「キレる」犯罪が起こってしまう、と正高氏は主張していることになる。

 笑止千万なりき。まず、「キレる」という言葉が、極めて政治的に捏造されたものであるということをなぜ正高氏は考え付かないのか。具体的にいうならば、定義が曖昧なまま乱用されているとか、無責任なマスコミ人が時流に迎合して作り出した言葉だとか。また、正高氏は具体的な事例にあたろうとしない。さらに、正高氏は、印象だけで《行動の理解に苦しむ事件は、まちがいなく増えているだろう》と語っているのだが、まず「行動の理解」というのが極めて恣意的、すなわち自らの「物語」をそのまま犯罪者の性格にそのまま当てはめるもので検証としてかなり怪しいし、昨今のマスコミが若年層バッシングにばかり熱心になっているのではないか、という疑念も浮かんでいないようだ。これも、『人間性の進化史』の頃とまったく変わっていない問題点だ。

 何度も指摘していることだが、正高氏は、マスコミで問題と喧伝されている(注目!)ことに、彼らを人間と見る以前にサルとして見ることで、その行動を「退化」だと決め付けるだけの単なる御用評論家に過ぎない。そもそも、そのような「観察」方法自体、正高氏の傲慢さを表すものであることに他ならないからである。

 この本と同時期に発売された、評論家の斎藤美奈子氏の著書『誤読日記』(朝日新聞社)で、斎藤氏は、正高氏の『ケータイを持ったサル』(中公新書)を評して《サル並みに扱われた若者たちこそいい迷惑。愚書でもいいが、むしろ現代の奇書であろう》(斎藤美奈子[2005])と述べている。しかし正高氏は、若年層をサルとして見なすことに対してまったくの葛藤や躊躇がない。所詮正高氏にとって若年層とは、自分の「飯の種」でしかないのだろう。そして、このような人がもてはやされている現在のメディア状況にもまた、疑問を呈さざるにはいられない。

 参考文献・資料
 斎藤美奈子[2005]
 斎藤美奈子『誤読日記』朝日新聞社、2005年7月
 正高信男[2005]
 正高信男『考えないヒト』中公新書、2005年7月/正高信男『人間性の進化史』NHK人間講座テキスト、2004年12月

 基本的に参考文献は「正高信男という頽廃」と同じですが、それ以降に新しく読んだ参考文献を追記しておきます。
 鈴木謙介『カーニヴァル化する社会』講談社現代新書、2005年5月
 広田照幸『教育言説の歴史社会学』名古屋大学出版会、2001年1月
 本田由紀『若者と仕事』東京大学出版会、2005年4月
 森真一『日本はなぜ諍いの多い国になったのか』中公新書ラクレ、2005年7月

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2005年7月23日 (土)

トラックバック雑記文・05年07月23日

 お久しぶりです。最近このブログの更新が停滞していたのは、建築の課題を作っていたからですが、一応毎日アクセス確認はしていました。

 その確認をしていたときに判明したのですが、どうやら誰かがパチンコ関係のネット掲示板に私の記事へのリンクを何の文脈もなく、しかも私が投稿したものであるかのように貼っている人がいるようです。

 ここで申し上げておきたいのですが、まず私はその事実を知るまでその掲示板の存在を知りませんでした。また、たとえ掲示板に投稿する際でも、私は原則として本名でしか投稿しません。なので、その掲示板にさも私が貼ったかのごとく書かれている書き込みは、明らかに私のものではないのです(ちなみに最近「北の系」の掲示板に投稿した文章は私のものです)。

 確かにこのブログは、タイトルの近くにも書いてある通り、リンク及び転載は歓迎しております。私に提供したい情報があれば、どしどしトラックバックやコメントを投稿していただきたいものです(アダルトブログなどからのトラックバックは無条件に削除させていただく場合があります)。しかし、この場合は、明らかに私に対する誤解をあおるものであり、私はそのことで大変迷惑を被っております。

 まさかこのブログの常連の読者がそのようなことをするはずはないのだと思いますが、この文章を読んでいるのであれば、まずその行為をやめてください。

 ここからが本文です。
 フィギュア萌え族(仮)犯行説問題ブログ版:ガードレールの金属片の謎、解明される(古鳥羽護氏)

 本の2ヶ月ほど前、あれほど我が国を騒がせた「ガードレールの謎の金属片」問題も、今ではまったく聞かれなくなりましたね。で、最近になって、ようやくその「原因」がわかったらしい。ここで引用されているNHKのニュースによると、車がガードレールにこすれたときに車の金属がはがれて、あのような形の金属片が生成されてしまうとか。

 それにしても、この記事における結びの言葉が極めて秀逸ですね。

 さて、この現象を、「テレビゲーム世代」、「2ちゃんねらー」、「ひきこもり」、「ニート」による人為的なイタズラであると決め付けたコメンテーターたちは、明日からテレビに出ないで欲しいものです。

 まったくもって正しいですね。しかし、これはテレビのみならず新聞も同じでしょう。私の家では読売新聞を購読しているのですが、このことを取り扱った第1社会面の記事で、2人の自称「識者」がコメントしていましたが、そこに掲載されていた、漫画家の弘兼憲史氏の発言がひどかったことを記憶しています。曰く、「このようなことがインターネットを通じて広く行われるようになるひどい社会になってしまった」と(うろ覚えで申し訳ありません)。この現象に関して、何でもかんでも「今時の若者」のせいにしてしまった人たちは、まず最低条件として1年ほどコメンテーターとして参加するのを自粛してくださいね。

 また、先ほどの話題とかなり関係があるのでここも採り上げておきましょう。

 週刊!木村剛:[金曜日ゴーログ]さすがにマスコミは「叩く相手」を知っている!(木村剛氏:エコノミスト)

 今年のバレーボールのワールドカップは、我が街仙台で行なわれましたけれども、そこでジャニーズの某グループとフジテレビの某アナウンサーの不祥事がありましたね。まあ、この問題に関しては、多くの人が知っていると思うので改めて書く気はありません。木村氏のブログで事件の概要がおさらいされているのでそちらを読んでください。

 それにしても、木村氏のブログでも触れられているのですけれども、本来であればこの手のネタは格好のワイドショー報道の材料になるはずなのですけれども、あまり報じられていないようですね。さすが、身内には甘い、というべきか。

 身内には甘い、ということで私が真っ先に思いつくのは若年層に関する報道や言論です。例えば我が国の左派論壇において、「今時の若者」を嘆くために「戦後」を持ち出すような歴史修正主義が増えています。これでは「今時の若者」を嘆くために「戦前」を持ち出すような右派の歴史主義者となんら変わるところはありませんよ。しかし、左派論壇の人たちは、彼らを右傾化したと批判したり指摘したりしない。特に筑紫哲也氏は、筑紫氏が今や(というよりもずいぶん前からか)左派論壇のトップスターであるということもあってか、いかに「週刊金曜日」の連載で復古主義的なナショナリズムを煽っていても(「俗流若者論ケースファイル10・筑紫哲也」を参照されたし)、そのような言論を右傾化だとか指摘する人はいません。筑紫氏ほどではありませんけれども、吉田司氏や斎藤貴男氏なんかもこの傾向が現れ始めていますね。特に斎藤氏。斎藤氏は、かの曲学阿世の徒・京都大学霊長類研究所教授の正高信男氏のトンデモ本『ケータイを持ったサル』(中公新書)を、朝日新聞と、著書『人を殺せと言われれば、殺すのか』(太陽企画出版)と『安心のファシズム』(岩波新書)で絶賛していた。そのような斎藤氏の文章を読んで、私は「いったい、斎藤貴男はどうなってしまったのか!」(もちろん、斎藤氏と魚住昭氏の共著『いったい、この国はどうなってしまったのか!』(NHK出版)のパクリです)と驚いてしまいました。「サイゾー」の今月号で、例の宮台真司氏と宮崎哲弥氏の対談において、宮崎市が斎藤氏のことを「頭は左翼だが、体は半分保守オヤジに浸かってしまっている」状態であると批判していましたけれども、「頭は左翼、体は保守オヤジ」という人たちが多すぎます。左右関わらず、「体が保守オヤジ」の人々によって現在の言論界が支えられているから、このような事態が生じるのでしょうかね。

 それにしても、彼らの考える「国家」とはなんなのでしょうか。

 ン・ジュンマ(呉準磨)の備忘録:ナショナリズムとは、つまり「国民国家の虚偽意識」か
 弁護士山口貴士大いに語る:カスパルがうさんくさい要望書をエロゲー関係各社に送ったようです(山口貴士氏:弁護士)
 kitanoのアレ:反性教育の動向(6)

 なぜ、俗流若者論に寄りかかる歴史修正主義者の思考を考える上でこのような記事を持ってきたか。それは、まさに彼らの「国家」が彼らを正当化するためだけの道具に過ぎない、ということを言いたいのです。

 山口氏のブログでは、アダルトゲーム規制を推進する団体がアダルトゲーム業界に怪文書を送ったことが報告されています。しかし、なぜこの団体はアダルトゲームにこだわるのでしょうかね。アダルトゲームにこだわりすぎると、犯罪の実像はまったく見えなくなりますが、彼らにとっては見えなくてもいいのでしょうか。所詮は自分の「理解できない」ものを国家によって規制しろ、といいたいわけですね。超国家主義と生活保守主義の最悪の結婚です。

 また「kitanoのアレ」では、中教審が高校生以下の性行為を認めない、という決定をしたようです。ここで引用されている共同通信の記事を読んでいると、嗚呼、やはり我が国は「言霊の国」だ、と嘆きたくなります。中教審の皆様方は、とにかく駄目だと言っていれば解決する、と思い込んでいるのですからね。考え方が甘すぎやしませんか。
 この2つに共通するのは、「強い国家」によって「今時の若者」を「是正」することを目的としていることでしょう。彼らが「今時の若者」に対して不快感を持っているのはよくわかります。しかし、その「解決」のために国家を持ち出し、「国家」に自らの「癒し」を求める、という態度は果たして正しいのか。私はそうは思いませんね。私だって、俗流若者論を批判する立場にある身であっても、やはりメディア的な「今時の若者」に不快感を覚えることはありますよ(仙台ではあまり見かけませんが)。しかし、そんな個人的な感情を、現代の若年層における「国家」意識の喪失なる論理と無理やり結びつける、という行為は、はっきり言って良識ある大人の行為ではないでしょう。

 今や国家は、「今時の若者」に対する個人的な恨みつらみを晴らしてくれる存在でしかなくなりつつあります。真面目な国家主義者は、直ちにこの状況を批判すべきでしょう。

 ヤースのへんしん:皆の道

 日本最速の161キロを記録した横浜ベイスターズのマーク・クルーン投手にあやかって、横浜市の市議より「市道鴨志田161号」に「クルーンロード」という愛称を付けようという動きが持ち上がってるらしい。

 うわあ、莫迦莫迦しい(笑)。もちろんこの記事の筆者も莫迦莫迦しいと思っていますが。

 この文章を読んで、東北大学助教授の五十嵐太郎氏(『戦争と建築』『過防備都市』の著者です)の授業において、北朝鮮の建築のスケールや装飾の数(例えば金日成広場の正面にある「主体思想塔」の高さ)が北朝鮮の革命史とか金日成にまつわる数字とかにあわせられている、ということが語られていたことを思い出しましたよ。

 このようにセンスもなく、ただ単に人気にあやかっただけの地名や愛称が、その後においてどのように語られるか、ということを考えてみるとなんだか滑稽に思えてきます。野球の選手が日本催最速の等級速度を出した、だからこの道路にそのような愛称がついたのだ、と言われても、その知名に愛着を持つ人がいるのでしょうかね。どうも疑問に思ってしまう。

 minorhythm:夏本番っ☆(茅原実里氏:声優)
 ひとみの日々:夏バテ?(生天目仁美氏:声優)

 仙台の梅雨明けはまだですが、いよいよ本格的な夏が始まりました。私も、本日、長かった建築の課題が終わり、いよいよ夏休みに入ります(補講とか試験とか提出とかたくさんありますが)。余暇の時間が多くなるので、このブログの更新頻度も多くなるでしょう。後はアルバイトが欲しい。私は「家庭教師のトライ」に所属しているのですが、現在生徒を持っていない状況です。なので、積極的にトライのほうに電話をかけて、新しい生徒はいないかといっております。さぞかしトライの仙台支部も迷惑千万でしょう(笑)。

 アルバイトがないなら、夏休みは物書きに徹しますか。一応現在検証待ちの文章もいくつかありますが、8月初旬からは夏休み特別企画を行なうことを考えております。
 それは「俗流若者論大賞」。平成12~15年に後で挙げる雑誌に発表された俗流若者論から1年ごとに、準グランプリを3~5本、そしてグランプリを1本ノミネートしようと思います。なので、この特別企画の期間中は、カレントな俗流若者論の批判はしばらくお休みになります。

 対象となる雑誌:文藝春秋、諸君!(以上、文藝春秋)、中央公論(中央公論新社)、現代(講談社)、世界(岩波書店)、正論(産経新聞社)、Voice(PHP研究所)、論座、週刊朝日、AERA(以上、朝日新聞社)、Yomiuri Weekly(読売新聞社)、サンデー毎日(毎日新聞社)、週刊金曜日(金曜日)

 また、雑誌に投稿するために、ここでは公開しない文章も執筆するつもりです。とりあえず現在執筆予定なのが「疑似科学の潮流と俗流若者論」とか「俗流若者論が生み出す歴史修正主義」とか。というのも、先月の頭ごろに、このブログの記事「壊れる日本人と差別する柳田邦男」を「論座」編集部に投稿したときに、編集部から既に発表された文章は掲載できないと電話がかかってきましたので、雑誌投稿向けに、これまでの私の俗流若者論批判を一つのテーマにまとめて、俗流若者論という言論体系にあまり明るくない人にも読んでもらえるような文章に仕上げるつもりです。もし投稿してから1ヶ月以上反応がなければ、ここで公開するつもりです。

 それから、前回の雑記分から、以下の記事を公開したので、是非読んでください。

 「俗流若者論ケースファイル35・斎藤滋」(7月10日)
 「俗流若者論ケースファイル36・高畑基宏&清永賢二&千石保」(7月13日)
 「俗流若者論ケースファイル37・宮内健&片岡直樹&澤口俊之」(同上)
 「俗流若者論ケースファイル38・内山洋紀&福井洋平」(7月16日)

 そうそう。あさってはついに我らが仇敵(だったのか)・正高信男の新刊が発売される日ですよ。

 正高信男『考えないヒト』中公新書、2005年7月25日発売予定

 中央公論新社のウェブサイトでは、《通話、通信からデータの記憶、検索、イベントの予約まで、今や日常の煩わしい知的作業はケータイに委ねられている。IT化の極致ケータイこそ、進歩と快適さを追求してきた文明の象徴、ヒトはついに脳の外部化に成功したのだ。しかしそれによって実現したのは、思考の衰退、家族の崩壊などの退化現象だった。出あるき人間、キレるヒトは、次世代人類ではないか。霊長類研究の蓄積から生まれた画期的文明・文化論》と紹介されています。まあ、帯を見る限りでは、おそらく『人間性の進化史』(NHK人間講座テキスト)をさらに拡大したものになるのでしょうか。しかし、あのテキストだけでは新書というサイズにまとめることができないので、ある程度加筆することになるのでしょうけれども、少なくともこの本が彼の疑似科学路線を突っ走った本になることは間違いないようです。

 皆様、この機会に、正高信男という曲学阿世の徒について復習をしてみましょう。

 まず、私の正高信男批判を。

 「正高信男という病 ~正高信男『ケータイを持ったサル』の誤りを糺す~」(平成16年11月7日)
 「正高信男という堕落」(平成16年12月4日)
 「またも正高信男の事実誤認と歪曲 ~正高信男という堕落ふたたび~」(平成17年2月24日)
 「正高信男という頽廃」(平成17年3月8日)
 「正高信男は破綻した! ~正高信男という堕落みたび~」(平成17年4月5日)
 「暴走列車を止めろ ~正高信男という堕落4~」(平成17年7月3日)
 私の正高信男批判を全部読みたい方はこちら

 また、他のブログにおける正高信男批判も紹介しておきます。

 えこまの部屋:[社会]EMYさんへの返事[社会]少子化対策ぅぅ~~?(着地点はコレかよ!)

 はぁ・・・?
 これケイタイを持つ者へのなんらかの批判と啓蒙の書だったのではないのですか?
 (少なくともそれを期待し彷彿させるタイトルだったんですが・・・)

 百万歩譲って「この本は本当は少子化対策の本だった」として、
 この程度の提案(少子化対策案)って・・・
 なんだか高校生の子が、もしくは家政科の短大生が明日提出で急いで仕上げた
 「私が考える少子化対策レポート」みたいに思えるんですけれど・・・。

 脱力である。

 ふたたびEMYさんのコメント再生
 >読まなくて正解と思います。

 ほ・・・ほんほひそうらね、EMYひゃん。(ほんとにそうだね、EMYさん)

 ちなみにこの記事では、このブログではおなじみの「千人印の歩行器」の栗山光司氏が私の文章を紹介しております(この記事が「堕落みたび」にトラックバックされているのもそのためでしょう)。この記事は、一般読者の立場から正高本に突っ込みを入れております。

 思考錯誤:[note] 『ケータイを持ったサル』か?(辻大介氏:社会学者)

 しかしだな、その実験の解釈や議論の組み立てかたは、やはりトンデモと言わざるをえないところがある*1。いかに優れた自然科学者であっても、生半可に社会評論に手を出してしまうと、こんなことになってしまうんかいなと愕然としてしまう。お願いだから、正高さんには、こっち方面からはとっとと手を引いて(どうせ片手間しごとなんだし)、着実に本業を進めてほしいと切に思う。優秀な人が道を誤っちゃいけない。

 本当にその通りであります。

 あと、オフラインの正高批判も挙げておきます。

 宮崎哲弥「今月の新書完全読破」2003年9月分=「諸君!」2003年12月号、文藝春秋

 私には呆れるほど杜撰で、学者としての良心すら疑いたくなる内容なのだが、新聞などの書評は押し並べて好意的だった。
 日本人が「退化」しているかもしれないという危惧にだけは同意してもよい。私の危惧は、著者を含めたインテリ層の知的能力の「退化」に対するものだけど。(280ページ)

 岸本佐知子「(ベストセラー快読)おじさんも「感動した!」」=2004年3月28日付朝日新聞

 この本の悪口を言うのは簡単だ(オヤジの主観丸出しだとかトンデモ本じゃないのかとか女になにか恨みでもあるのかとか)。が、そんなことはこの際どうでもいいのだ。著者は、学者として何より大切な客観性を投げうち、神聖な研究対象をネタに使ってまで、世の虐げられたおじさんたちを勇気づけようとしているのである。何と崇高な犠牲精神であろう。

 斎藤美奈子「(斎藤美奈子 ほんのご挨拶)サルとヒトの区別ない 印象のみの比較論」=「AERA」2003年12月8日号

 ※備考:この「ほんのご挨拶」をまとめた本が、斎藤氏の最新刊の『誤読日記』(朝日新聞社)として刊行されています。私はまだ読んでいないのですが、おそらく正高本への批判も収録されているでしょう。

 相手がサルだと社会統計学の原則に則る必要もないんですね。
 ……こんな乱暴な比較論もサルだから許されるわけです。ヒトの家族論、若者論、コミュニケーション論等がいまやこれだけ出ているのに、参照しないってのもすごい。

 皆様、来る25日に向けて、完全に論理武装をしておきましょう(笑)。

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2005年7月16日 (土)

俗流若者論ケースファイル38・内山洋紀&福井洋平

 左右に関わらず、俗流若者論であればなんだって斬るという作業を続けている私にとって、左派系のメディアで最近になってよく目にする「若年層が右傾化している」という理論は、はっきり言って左派系の俗流若者論の中ではもっとも厄介なものである。これは決して私が左派である(正確に言えば、妄想としての「国家」「社会」を取り戻せ、と主張する「若者論」に反対する立場から反ナショナリズムにならざるを得ない)から、という感情的な理由だけではなく、そこには、同様の論理を批判している首都大学東京の非常勤講師である鈴木謙介氏が指摘している通り(鈴木謙介[2005])、「右傾化」という言葉に関する論理や認識の倒錯が生じているからであり、さらに鈴木氏の議論に付け加えるならば、このような議論が結局のところ(俗流右翼が目的としている)「内面」への介入を正当化しうる、ということを含んでいるからである。思えば、この手の議論の嚆矢となる香山リカ氏の肩書きは精神科医だった。

 今回検証するのは、「AERA」平成16年8月30日号に掲載された、同誌編集部の内山洋紀、福井洋平の2氏による「20代の「ガチ」ナショナリズム」という記事である。ちなみに付け加えておくと、この記事は、かつて私が批判したノンフィクション作家の吉田司氏の記事も含めて(「俗流若者論ケースファイル29・吉田司」を参照されたし)、「日本の行方」について論じた一連の特集記事の一つになっている。

 ここから記事の検証に入ることにするが、この記事を読んでいて退屈になるのは、いかにも俗流若者論にありがちな印象操作をしていることだ。具体的に言うと、靖国神社に行った人たちとか(ついでに言うと私も靖国に行ったことがあるが、明治神宮ほどの感動は覚えなかった)、《夜中に外国人と一緒にいると……「俺たちがこうして平和に暮らしているのは、国のために死んだ人がいたからなのに、こいつらはそういうことを考えたこともないんだろうな」》(内山洋紀、福井洋平[2004]、以下、断りがないなら同様)と考えてしまう人たちという風に、若年層の「右傾化」なるものを主張するかの人ばかりを出してしまうのだから。

 また、これは鈴木謙介氏も指摘していることなのだが、著者は(この文章には内山氏と福井氏のクレジットがついているが、どの部分をどちらが書いたものか明確ではないので、こう表現することとする)《そんな彼らが一部の特殊な若者とはいえないデータがある》として、朝日新聞社が平成16年3月と4月にかけて行った調査を引き合いに出し、その証拠から若年層全体が「右傾化」していると断定するところにある。各種アンケートの結果を提示しておこう(単位は%。左から、20代/30代/40代/50代/60代/70代以上)。

 ・小泉首相の靖国神社への参拝は良いことだ
 46/39/32/39/47/52
 ・今の憲法は改正する必要があると思う
 63/62/58/55/46/40
 ・イラクへの自衛隊派遣に賛成する
 51/40/37/41/43/37
 ・今の日本は、自分によってよい国だと思う
 50/41/50/46/49/58
 ・今秋のアメリカの大統領選挙でブッシュ大統領の再選を望む
 27/15/18/23/26/25
 ・沖縄のアメリカ軍基地は今までどおりでよい
 26/15/17/17/22/33
 ・世界の安全を保つために、アメリカが中心的な役割を果たしていると思う
 50/41/47/46/43/38

 以上である。なるほど、この結果を見ると、確かに「若年層が「右傾化」している」と騒ぎ立てたくなる気持ちも分からぬでもない。しかし、これは明らかに「選択された」結果といわざるを得ないのではないだろうか。この著者が「右傾化」をいかに捉えているか、ということに対する疑問については鈴木氏に譲ることとして、ここでは私が持った疑念を羅列的に表していくことにする。

 まず、もしこの調査が、同じ年に起こった沖縄の大学に米軍機が墜落する、という許しがたい事故の後に行なわれたらどうなるか、ということだ。期せずしてこの記事が載った「AERA」が発売されたのはその事故の後なのだから、それについて編集部は調査を行うべきだろう。また、過去との比較が行われていないことも疑問の種になる。新聞社が行った調査であるからサンプリングもある程度は達成されているだろうし、従って誤差も数パーセントにしかならないだろうけれども、だからといって結果の恣意的な選択は許されない。
 しかもこの記事、些細なところに突っ込みどころがある。例えば14ページ3段目、《過去の日本や戦争を懐かしんでいるわけではない。中国や韓国への戦後補償はちゃんとするべきだし、天皇制へも固執しない。新憲法を制定して、軍隊を持つ「普通の国」になったときには、「君が代」も変えなくては、と思う》人のどこが「右傾化」しているのだろうか。
 とりわけこの記事において頭が痛くなるのは、社会学者の北田暁大氏の発言である。北田氏は信頼できる人だと思うのだが、この文章の発言は明らかにおかしい。例えば14ページ4段目、《「イデオロギー的な対立がみられなくなった今、若者の間では、現実主義の一人勝ち状態。議論をしていても、現実と会わないものは『それは理想』で片付けられてしまう」》というのは、少なくとも北田氏の周りではそうなのかもしれないけれども、それがどこまで広がりを持っているか、ということに関しては北田氏は語らずじまいだ。同じ段の《「学生の気質も変わりました。……いま30前後の世代では、授業なんて出なくて当たり前だったのに」》なんて、単なる「私語り」以外の何物でもなかろう。

 また、著者は、14ページ5段目においてナショナリズムを歌い上げるヒップホップユニットの歌詞を採り上げるのだが、このユニットを、私はオリコンチャートで名前を見たことがない。もちろんチャートがその歌手及びユニットの人気を直接に表しているわけではないのだろうけれども、このユニットの人気はいかばかりのものか、あるいは音楽業界内での評価はどうか、などは、少なくとも仙台在住でアニメソング愛好者の私にはわからない。

 また、著者は、15ページの1段目において、《今回取材した20代男性の愛読書で断トツに多かったのが、この『坂の上の雲』(筆者注:文春文庫。作家の故・司馬遼太郎氏の有名な著作)だった》と書いている。「AERA」が後に「30代女性のための司馬遼太郎入門」(平成17年5月2・9日合併号に掲載。著者は編集部の石川雅彦氏)という記事で、この『坂の上の雲』を好意的に採り上げたことを知っている私は思わず吹いた。私が吹いた理由はこれだけではなく、同じ雑誌の同じ号に、明らかにナショナリズムを煽り立てるオリンピック関連記事が載っていたという理由もある(残念ながら今は手許にない)。ダブルスタンダードが許されるのは、俗流若者論ゆえだろう。

 あまり揚げ足取りをしたくはないので、細かい部分に対する突っ込みはこれくらいにしよう。しかし、この記事は、左派の俗流若者論の大きな問題点をそのまま体現しているのである。

 著者は、巨大ネット掲示板の「2ちゃんねる」において《世間の誰もが「たたかれる」対象になりうる中で、なぜか「政府」や「官僚」が俎上にあがることは少ない》と書いている(ついでに私の名前もたびたび挙がる2chの大谷昭宏氏を取り扱ったスレッド(掲示板)では、少なくとも政府は表現規制がらみで何回か批判されている)が、そういう左派は、「今時の若者」はしきりに嘆くけれども、たとい「週刊金曜日」という左派の牙城とでも言うべき雑誌で、筑紫哲也氏や本多勝一氏といった大御所があからさまな言語ナショナリズム(+俗流若者論)をその連載で開陳していても(実際に開陳している。筑紫氏については、「俗流若者論ケースファイル10・筑紫哲也」を参照されたし)、彼らはそれを右傾化と批判しない。逆に、例えば東京大学教授の藤原帰一氏がイラク戦争に関わる左派の議論に対して、もっとリアリズムの視点から反戦平和を語ったらどうか、と苦言を呈したところ、藤原氏は右傾化したと糾弾されたという(金子勝、アンドリュー・デウィット、藤原帰一、宮台真司[2004]332ページ)。

 要するに、左派自身が強烈な「学級会民主主義」、要するに逸脱を許さず、その頂点に立つもの(ここでは筑紫氏と本多氏)は許すが、「村の掟」を少しでも逸脱した下部構造のもの(ここでは藤原氏)には強烈な制裁を与えるという思考停止に陥っているのだ。そしてこの「学級会民主主義」的傾向こそ、(鈴木謙介氏も指摘していることだが)まさしく、この記事で著者が難じた「「ガチ」ナショナリズム」の正体なのである。私は、他人の欠点は自分の欠点の投影なのだという俗流心理学者の言葉は信じたくはないけれども、少なくとも2ch同様の「学級会民主主義」に陥っている左派が若年層の「右傾化」を嘆く、というのは、結局のところ目糞鼻糞を笑うものでしかないのである。

 そしてこれは、現代の言論状況の一端でもある。要するに、「学級会民主主義」の蛸壺がまた別の蛸壺を攻撃している、という状況である。この蛸壺化の傾向は、特に右派に強く、その傾向が特に先鋭的に見える産経新聞社の月刊誌「正論」は、もはや正視するに堪えないほどの質の低下が目立つ。また、我が国の言論の場に参加するためには、その「蛸壺」の住人として認められることが第一となる(朝日新聞社の「論座」あたりには、その「蛸壺化」を解体しようとする試みが見られるが、あまり成功していないように思える。やはり俗流論壇人は「蛸壺」のほうが楽なのだろう)。

 少し話がそれてしまったが、左派の「若年層の「右傾化」」批判は、結局のところこのごろ力を失っている蛸壺を、若年層に対する敵愾心でもって強化しようという試みでしかないのである。かつて敵愾心によって蛸壺を強化して我が国を破滅に導いた国家的運動があったが、結局のところ左派はそれとまったく同じ構造を繰り返しているに過ぎないのである。結局のところ、我が国の論壇において「論争」と称するものの大半は、「蛸壺」同士の不毛な戦いでしかない。

 この記事には《日本を愛する気持ちや大国への憧れをあまりにもストレートに表現する彼らは、裏返せば「自分」という存在への不安感があるのかもしれない。だからこそ、せめて国=日本には強烈な存在感を示してほしいと思うのだろうか》というくだりがある。しかし、この構造は、左右を問わず全ての俗流若者論に見事に当てはまるだろう。今や左派にも俗流若者論のための歴史修正主義者が出現し、過去を美化する、という点においてはもはや五十歩百歩になってしまっている。私が冒頭で「反若者論」の立場から反ナショナリズムにならざるを得ない、と書いたのは、まさにこの構造に対するアンチテーゼである。

 参考文献・資料
 内山洋紀、福井洋平[2004]
 内山洋紀、福井洋平「20代の「ガチ」ナショナリズム」=「AERA」2004年8月30日号、朝日新聞社
 金子勝、アンドリュー・デウィット、藤原帰一、宮台真司[2004]
 金子勝、アンドリュー・デウィット、藤原帰一、宮台真司『不安の正体!』筑摩書房、2004年10月
 鈴木謙介[2005]
 鈴木謙介「若者は「右傾化」しているか」=「世界」2005年7月号、岩波書店

 笠原嘉『アパシー・シンドローム』岩波現代文庫、2002年12月
 谷岡一郎『「社会調査」のウソ』文春新書、2000年5月
 歪、鵠『「非国民」手帖』情報センター出版局、2004年4月
 山本七平『日本はなぜ敗れるのか』角川Oneテーマ21、2004年3月

 姜尚中「「こころ主義」蔓延した1年」=2000年12月29日付朝日新聞
 杉田敦「「彼ら」とは違う「私達」――統一地方選の民意を考える」=「世界」2003年6月号、岩波書店
 増田聡「軽やかに歌われる君が代ポップ」=「論座」2005年5月号

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2005年7月13日 (水)

俗流若者論ケースファイル37・宮内健&片岡直樹&澤口俊之

 擬似脳科学が俗流若者論においてもてはやされている最大の理由は、やはり「「今時の若者」は俺たちとは違う環境で育ってきたから脳が異常になり、従って犯罪や「問題行動」を起こす」と多くの人が考えたいからであろう。我が国において脳科学はもはや政治の道具であり、真面目な学問の徒はマスコミを中心とする世間の喧騒からは疎外される。脳の専門家としてマスコミに登場するのは大体10名くらいで、しかもそのほとんどがその論理に問題を持っているのだが、私はその中でも森昭雄、澤口俊之、片岡直樹、清川輝基の4氏を問題の多い「脳の専門家」の四天王だと規定したことがある(「俗流若者論ケースファイル16・浜田敬子&森昭雄」を参照されたし)(7月14日追記:コメントで「清川氏は脳の専門家ではない」という指摘があったので追記。確かに清川氏は本当の意味での脳の専門家ではないが、さらに言うと、この4氏の中で、本当に脳の専門家なのは澤口氏のみ。しかし、片岡氏と清川氏に関しては、「ゲーム脳」に親和的であることと、それ以外にも育児などに関わる疑似科学を好意的に紹介しているので、カギカッコつきで「脳の専門家」と言わせていただく。また、森氏に関しては、「ゲーム脳」を開陳してから、いつの間にか「脳の専門家」として見なされるようになった)。

 本題に入る。経営者や会社の高いポストの人を読者層に設定している雑誌「プレジデント」が、俗流脳科学に親和的だ、といわれたら皆様はどう思われるだろうか。というのもこの雑誌は、最近になって、平成16年から現在にかけて、擬似脳科学に関わる記事を少なくとも3本も掲載しているのである(その中には、この連載の第17回で採り上げた藤原智美氏によるものもある)。今回は、平成16年8月30日号に掲載された、ジャーナリストの宮内健氏による「脳科学者が警鐘「妻の携帯、子どものTV・ゲーム」」という記事である。しかもこの記事には、先ほど提示した四天王のうち、澤口俊之氏と片岡直樹氏が登場しているのである。

 案の定というべきだろうか、澤口氏も、片岡氏も、結局のところそこらじゅうで喧伝している自説を性懲りもなく開陳しているだけだった。

 片岡氏は、案の定、38ページの一番最初で《新しいタイプの言葉遅れの幼児が増えている》(宮内健[2004]、以下、断りがないなら同様)とし、その原因はこれまた案の定《その原因はテレビ・ビデオの長時間視聴と関係があると私は考えています》と言ってしまう。そのように片岡氏が主張するのが片岡氏も名を連ねている日本小児科学会の調査で、それによると《1歳6ヶ月の子ども1900人を対象に調査を行ったところ、一日の視聴時間が「子ども4時間以上、家庭にテレビがついている時間8時間以上」のグループは、意味ある言葉を話し始めるのが遅れる子どもの割合が二倍にも上ると報告している》。片岡氏は、だからテレビが「新しいタイプの言葉遅れ」を生み出す、と考えるのだが、片岡氏はテレビ以外の影響を排除した上でこのように語っているのだろうか。もしそうでないのだとしたら、テレビを「悪玉」に仕立て上げるためにこの調査を行った、と謗られても弁明できまい。
 また、38ページ2段目から39ページの1段目にかけて、《ところがいまの母親は朝起きてから寝るまでテレビをつけっぱなしの人が多い》だとか《子どもの世話をテレビに任せるだけでなく、メールに熱中する母親も多い》と、やけに今の子育てが「異常」であるかを喧伝するのだけれども、これをステレオタイプといい、かように安易なアナロジーに頼ってしまうのはジャーナリストとしての力量不足を疑わざるを得ない。このような書き方は読み手の「感情」に訴えかける性質のもので、単なる「世代論」でしかないだろう。

 39ページには澤口俊之氏が登場する。案の定、澤口氏は、下のような根拠不明確なことを言う。また、宮内氏も賛同する。

 (筆者注:澤口氏曰く)「さまざまな環境に適応することができるように、人の脳は未熟な状態で生まれます。幼少期に周囲の環境から刺激を受けることで、脳は育つわけです。そんな時期に、テレビばかり見ていてあまり他人と接していないとしたら、取り返しのつかないことになります。……友達と仲良くする、悪いことをしたら謝る、といった当たり前のことができない子どもが増えていますが、そういう子の脳波、人間関係に関する能力が未発達なのです」

 澤口教授によると、すぐにキレる子ども、陰湿ないじめ、子どもの自殺、凶悪な少年犯罪、家庭内暴力、無気力症候群など、子どもにまつわる多くの社会病理なども、脳の未発達に起因するという。……(39ページ2~4段目)

 これで納得してしまう読者がいたら、まず「プレジデント」など捨てて大学に入り直すべきだろう。それにしても、《友達と仲良くする、悪いことをしたら謝る、といった当たり前のことができない子どもが増えていますが》と書いているけれども、本当に増えているのだろうか。澤口氏の思い込みでしかないのではないか?

 しかしもっと醜悪なのは、澤口氏の暴論をそのまま受け入れてしまう宮内氏である。宮内氏は、《すぐにキレる子ども、陰湿ないじめ、子どもの自殺、凶悪な少年犯罪、家庭内暴力、無気力症候群など、子どもにまつわる多くの社会病理》を挙げているけれども、これはマスコミの大好きな「今時の若者」の「記号」である。まず、《すぐにキレる子ども》と言うけれども、犯罪白書によれば我が国において少年による凶悪事件は昭和35年ごろに比べて激減している。このような事実があっても、擬似農家学者は昭和35年ごろの青少年の「脳」には口を閉ざす。擬似脳科学の浅はかさが現れているだろう。《無気力症候群》に至っては、現在名古屋大学名誉教授の笠原嘉氏がつとに長い間指摘してきた(笠原嘉[1977][1988][2002])。俗流若者論というのは、青年期病理学を少しもかじっていなくともかけるのだから気楽な稼業だ。

 宮内氏は、大脳前頭葉の異常が「問題行動」を引き起こす事例として、1848年に米国で起こった事例を紹介している。かいつまんで言えば、事故により前頭葉の連合野が損傷した技術者のフィニアス・ゲージが、《粗暴で野卑な振る舞いを見せた》(39ページ4段目)というもの。なるほど、これは確かに歴史的な事実としてある。しかし、この例だけをもってして、前頭葉の損傷が「問題行動」を引き起こすと言えるのだろうか。

 これに対する疑問は二つ。第一に、これが外部からの損傷によるもので、澤口氏が問題にしている(問題にしたがっている)「未発達」とは根本的に違う。第二に、神経治療の分野では長い間「ロボトミー」という治療法があり、これはメスでもって精神障害者の大脳前頭葉を切断してしまうものであるが、このような治療法が受け入れられていたということは、前頭葉を切断すれば人間はおとなしくなる、と信じられていたことを証明する。しかしこれに関する結果はまちまちであり、一概に前頭葉を損傷すると粗暴になったり逆におとなしくなったりするとはいえないらしい。この2点に気づかずに、宮内氏は、39ページから40ページにかけて《他人への思いやりを失ったゲージと、昨今のすぐキレる子どもの行動。両者には重なる部分があるように見える》と書き飛ばしてしまう。あなたがそう見えるだけだろうが。

 以下、特に41ページに集中的に、「今時の子育て」がいかに「異常」であるかということを喧伝するが、これに対する検証は行なわない。単なる「想い出話」だからである。ちなみに片岡氏は41ページ3段目において《狼に育てられた少女》の話をしているけれども、この話の証拠は極めて乏しく(藤永保[1990])、残念ながら都市伝説の領域に属する。

 結局のところこの記事は、テレビやゲームや携帯電話を否定したい「善良な」人たちに対する「警鐘」であって、同時にテレビやゲームや携帯電話に時間と空間が占領されている(と彼らが勝手に思いこんでいる)若い母親たちや子供たちに対する差別を煽り立てるほどの効果しか期待できないだろう。しかも掲載誌が「プレジデント」で、さらにこの記事が掲載された特集の名前が「「不機嫌」女房、「無気力」わが子」であるから、この雑誌の読者に「父性」を子育てに復活させよ、と説いているわけであるな。

 それにしても、我が国において「新しいタイプの言葉遅れ」なる言葉がかくも流行してしまうほど、発達の遅滞は社会性の発達の遅れであり、さらにそれが凶悪犯罪や「問題行動」につながる、という論理がコンセンサスを得ている状況を我々はいかに見るべきか。悲観的に見れば、これらの誤った認識が、自閉症や発達障害に対する差別として噴出し始めているのかもしれない。杞憂であることを願いたいが。

 特に片岡氏に言いたいことがある。というのも、片岡氏が小児科医だからだ。小児科医であるにもかかわらず、安易なアナロジーと飛躍でもって「新しいタイプの言葉遅れ」なる概念を捏造し、子育てに対する不安を煽る片岡氏に、小児科医としての資格があるのだろうか。子供と正面から向き合わずに、「今時の子育て」を過度に図式化して、それらに対する不安を煽る、というのがあなたの仕事であるというのであれば、あなたは即刻小児科医をやめるべきだろう。澤口氏も然りである。あなたは、あなたの道徳的感覚を無理やり脳科学に当てはめることによって、脳科学を殺しているのである。

 マスコミも、このように問題のある自称科学者をこれ以上もてはやすのをやめていただきたい。そうしないと、彼らはますますつけ上がるだけだ。

 参考文献・資料
 笠原嘉[1977]
 笠原嘉『青年期』中公新書、1977年2月
 笠原嘉[1988]
 笠原嘉『退却神経症』講談社現代新書、1988年5月
 笠原嘉[2002]
 笠原嘉『アパシー・シンドローム』岩波現代文庫、2002年12月
 藤永保[1990]
 藤永保『幼児教育を考える』岩波新書、1990年5月
 宮内健[2004]
 宮内健「脳科学者が警鐘「妻の携帯・子どものTV・ゲーム」」=「プレジデント」2004年8月30日号、プレジデント社

 斎藤環『ひきこもり文化論』紀伊國屋書店、2003年12月
 広田照幸『日本人のしつけは衰退したか』講談社現代新書、1999年4月
 広田照幸『教育言説の歴史社会学』名古屋大学出版会、2001年1月

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俗流若者論ケースファイル36・高畑基宏&清永賢二&千石保

 あってはならないことであるが、俗流若者論を書き飛ばしている人を見るとうらやましくなるときがある。なぜか。それは、彼らは自らの言質に対して一切の責任を取らなくてもいいからだ。彼らは「今時の若者」に対する敵愾心を煽りさえすれば、そのためにさまざまな狼藉を働いていたとしても、「今時の若者」に対する批判という大義名分の下に全てが許容され、「善良な」人たちに受け入れられる。検証のためにいちいち論証を考えている私としては、ここまでうらやましいことはない(もちろん、論証を考えることのほうが遥かに大事なのだが)。

 俗流若者論とは政治の論理である。ここで言う政治の論理とは、検証の繰り返しによって事実に肉薄していく、というのではなく、自らの思い込みをそのまま他者に押し付けようとする論理のことだ。つい最近、皇學館大学助教授の森真一氏が『日本はなぜ諍いの多い国となったのか』(中公新書ラクレ、2005年7月)という面白い本を出したが、本書で語られていることは結局のところ、みんな「今時の若者」「今時の日本人」のマナー低下を嘆くけれども、それは単なる利害対立の問題でしかないし、若年層の行動をリスクとしてしか見なさない社会も問題である、ということだ。俗流若者論が政治の論理であるということは、俗流若者論によって立つ人と「利害」を共有する人たちの発言力を高める方向にしか俗流若者論は働かない。

 それを証明するような記事が、森氏の著書とほぼ同時期に発売された読売新聞社の週刊誌「Yomiuri Weekly」平成17年7月24日号に掲載されていた。筆者は同誌記者の高畑基宏氏で、タイトルは「狂いだした日本人の“体感距離”」である。要はこの記事は、「俺以外の人は駅でぶつかっても謝らない!それは、俺を除く日本人の“体感距離”が狂いだしたせいだ!!」という極めて「政治的な」記事なのである。

 何せ高畑氏、書き出し(86ページ1~2段目)からいきなり高畑氏と「利害」を共有することを勧めるような書き方をしているのだから。

 最近、似たような経験をしていないのだろうか。

 地下街の壁際を歩いてくると、女性が斜め前方から、こちらへ歩いてくる。そのままでは、自分に接触しかねないが、相手はこちらを見ているから「まさか」と思う。しかし、彼女は気にせず近づいてくる。そして、逃げ場がなく立ち止まった自分に右腕をぶつけて、地上へ通じる出口に消えた。もちろん無言のままだ。

 駅のホームで電車を待っていると、前後を通る人のカバンや紙袋が次々と自分の身体に当たる。ホームは混雑しているわけでもなく、邪魔なところに立っているとも思えない。にもかかわらず、こちらを気にせず、ガサッと大きな音がするほど強くぶつかることもある。誰も謝る気配がない。(高畑基宏[2005]、以下、断りがないなら同様)

 端から見たら被害者意識に満ちた人にしか見えないのだが。しかも、他の人が経験している「はずだ」として書いているのはどういうわけだろうか。また、このような行動が増えた、と結論付けたいのであれば、あなたは新聞記者なのだから調査・取材をすべきだし、無根拠に断定してしまうのは、俗流若者論の常套手段である。

 しかし、この記事はあらかじめある「物語」、すなわち「日本人の「劣化」」という物語に高畑氏、そして「善良な」読者が浸るために書かれた記事であるから、この手の手抜きは許容されるのだろう。案の定、高畑氏は、日本女子大学教授の清永賢二氏(この人は犯罪行動生態学の権威らしい)の《日本人の体感距離が狂ってきた》というこれまた無根拠な断定を引く。

 清永氏の学説、というより妄想はこの記事の最後のほうになって爆発するので、今は触れないで置こう。ちなみに清永氏が先のように考える理由として、

 「家族や住空間の変化が生み出した自己中心型の人間社会と、他家や他者を無視する社会が重なり、他者に見られることによる自己行動規範が崩壊しています。そこへ、一見矛盾する、他者への甘えが当然化した社会が重なった」(86ページ4段目)

 ということを挙げている。高畑氏は《なにやら、難しそうな論理展開》と書いているけれども、幾多の俗流若者論を検証してきた歴戦の戦士(笑)の私としては、このような論理展開は極めて典型的な俗流若者論である。ちなみに私は建築学科に在籍しているから言っておくけれども、このようなことに対する反省が最近になって都市計画や都市論や集合住宅の設計に表れてき始めているのだけれども。清永氏はテキスト化された俗流若者論しか語ることができないのであろうか。

 この記事では、日本青少年研究所所長の千石保氏も登場するのだが、まず87ページ1段目における発言は問題が多すぎる。

 ……(筆者注:千石氏は)若い世代の変わりように注目している。
 「このころから、親友と見なす人間にさえ、プライベートなことや自分の悩みをまるで話さなくなるという非常に大きな変化が起きました。親友でさえ、そこまで疎遠になれば、通りがかりの見ず知らずの人など、遠く関係のない人であり、ましてや謝罪などしなければならない対象ではなくなっているのです」

 千石氏にとって、現在を生きる若年層など、いくら暴論を発したとしても、《遠く関係のない人であり、ましてや謝罪などしなければならない対象ではなくなっている》、まる。このような論証立てに極めて飛躍が多いのは千石氏も承知しているのだろうか。千石氏は《親友と見なす人間にさえ、プライベートなことや自分の悩みをまるで話さなくなる》ことにさえ、現代の若年層にとって親友と見なす人間ですら疎遠になっている証拠として捉えられているけれども、自分のプライヴェートな悩みを友達に打ち明けて友達を傷つけてしまうよりも、自分の中でしまいこんでおいたほうがリスクが小さいと考えているから、と考えたほうが適切ではないか?しかも現在の「友達」関係の、千石氏は想定していないような大きな問題点は、詳しくは明治学院大学講師の内藤朝雄氏(内藤朝雄[2004])や横浜市立大学教授の中西新太郎氏(中西新太郎[2004]) 、首都大学東京非常勤講師の鈴木謙介氏(鈴木謙介[2005])、そして前掲の森真一氏(森真一[2005])に譲るけれども、これは携帯電話も深く関わっているのだが、簡単に言えば「友達」関係が戦時中の「隣組」みたいになりつつある、さらにその「隣組」の中において逸脱した行動をすることは許されない、というものがある。千石氏にはむしろこちらのほうを検証していただきたいのだが。

 そのような問題点を検証せずに、高畑氏、《どうやら、間違っているから正そう、という次元ではないようだ》(87ページ2段目)と書いてしまっているのだから、大本営発表とはこのことであろう。そして千石氏は87ページ2段目で現在のような状況が起こってしまった原因についてこのように述べている。私は読んでいて欠伸が出た。

 千石所長は、

 「物質的な豊かさによって、他人との実質的なコミュニケーションがなくても生きていけるようになったこともあります。しかし、少子化で親に大切に育てられる家庭で、親から叱られることが極めて少なくなり、憎んだり、ざんげしたり、許したりするという親子間の葛藤がなくなってしまったことが大きい。他人を思いやる心は、こうした葛藤を乗り越えて生まれるものです」

 と話す。

 私はこのくだりを読んで、もう日本青少年研究所に期待することはやめよう、と思った。千石氏に関わる黒い噂は幾つか明らかになっているのだが、少なくとも長期的に青少年を研究している研究所の所長である千石氏が、このようにテキスト化された俗流若者論しか語れないのであるから、もうこの研究所に期待するものは、所長が交代しない限り何もない。千石氏のものよりももっと優れた若者論はたくさんある。

 この記事自体が、自らの被害者意識と、清永賢二、千石保という格好の俳優を用いた高畑基宏というトリックスターの憂国劇と言っていいだろう。その憂国劇のフィナーレは、清永氏の妄想爆発の妄言(87ページ3段目)である。

 「見えていても他者が存在しない人が、他人にぶつかっても誤らないのは、相手を対等で生身の人間とは意識していないために、『私はぶつかるつもりはなかったのに、あんたがぶつかったのだ』と、自分の責任を一方的に中和するからです。そういう人は、本人が意識しない罪を犯す可能性があります。つまり、自分では悪いことをするつもりなどないまま他人を殺傷するような、本人も説明できない犯罪です」

 少なくとも、このような森昭雄・正高信男レヴェルの妄言を発している清永氏が、自分以外の人間、広げても自分と「利害」を共有しない人間を《対等で生身の人間とは意識していない》のは明らかであろう。こういう人が《『私はぶつかるつもりはなかったのに、あんたがぶつかったのだ』と、自分の責任を一方的に中和するからです》などといっているのを読んでいると哀しくなる。しかも《本人が意識しない罪》とは何を指すのだろうか。清永氏は《自分では悪いことをするつもりなどないまま他人を殺傷するような、本人も説明できない犯罪》のことを言っているのだろうが、それは最近マスコミが好き好んで採り上げている「理解不能な」犯罪のことを言っているのだろうか?清永氏よ、あなたはただ自らの妄想と俗流若者論に踊らされているだけ、ということを理解したほうがいい。

 そして案の定、高畑氏が採り上げるのが最近マスコミをにぎわした少年犯罪である。「お約束」は俗流若者論ではもはや常識だ。

 高知・明徳義塾高校の生徒が旧友をいきなり刺した事件や、山口・光高校の生徒による爆発事件だけではない。最近は、中高年も含め、希薄な動機に首を傾げたくなるような短絡的な事件が頻発し、多くの場合、犯人から反省や謝罪の言葉が聞かれない。その根底に、体感距離の狂いが横たわっていると見るのは、考えすぎだろうか。(87ページ3段目)

 《考えすぎだろうか》と言う以前に、こういうのをマッチポンプと言うのだろう。要するに、少年犯罪をセンセーショナルに取り上げまくって、その「原因」をもっともらしくでっち上げる、というまさに高畑氏の行為を、マッチポンプと呼ばずして何と呼べばいいのか。俗流若者論、俗流日本人論は、極めて歴史に疎いから(10年スパンの歴史ですら!)、最近の事例については生々しく採り上げるのに、以前の事例に関しては自分の自意識を肯定してくれるものしか採り上げないのだから、この手のダブルスタンダードを解消するには、もはや俗流若者論という言論体系を撃つ論理を用意しなければならないのかもしれない。

 それにしても、少数の猟奇的な凶悪犯罪と、身近で不満に感じたことを容易に結びつけるのが「体感距離」という擬似行動学的な概念であるということにも不満を感じる。自らの些細な経験と、マスコミによる偏向報道と、自らの道徳観(=自らの不満を逸らしてくれる「素晴らしいもの」)と、そして国家が、疑似科学によって結び付けられてしまうという状況を、我々はいかに批判すべきであるか。前掲の森真一氏は、現在の如く人々が「マナー神経症」(私の言い方だと「若年層批判依存症」)に陥っているのはマナーをめぐる過渡期的状況の先鋭化として捉えているけれども(森真一[2005])、本来、マスコミの役目は、このような状況をうまく操作することであろう。現在の我が国において、というよりも大衆社会において、マスコミの果たす役目は政治家や建築家や計画家のそれよりも多大な影響を及ぼす。そのようなマスコミが、疑似科学を持ち出し、過去に対するノスタルジー、あるいは「劣化」という物語を元に若年層、さらには同時代バッシングをしているようでは、新時代のコミュニティーなど生まれまい。

 狂いだしたのは、高畑、清永、千石の各氏の言論感覚だ。

 参考文献・資料
 鈴木謙介[2005]
 鈴木謙介『カーニヴァル化する社会』講談社現代新書、2005年5月
 高畑基宏[2005]
 高畑基宏「狂いだした日本人の“体感距離”」=「Yomiuri Weekly」2005年7月24日号、読売新聞社
 内藤朝雄[2004]
 内藤朝雄「「友だち」の地獄」=「世界」2004年12月号、岩波書店
 中西新太郎[2005]
 中西新太郎『若者たちに何が起こっているのか』花伝社、2004年7月
 森真一[2005]
 森真一『日本はなぜ諍いの多い国になったのか』中公新書ラクレ、2005年7月

 広田照幸『教育言説の歴史社会学』名古屋大学出版会、2001年1月
 パオロ・マッツァリーノ『反社会学講座』イースト・プレス、2004年5月
 山本七平『日本はなぜ敗れるのか』角川Oneテーマ21、2004年3月
 ウォルター・リップマン、掛川トミ子:訳『世論』岩波文庫、上下巻、1987年2月

 齋藤純一「都市空間の再編と公共性」=植田和弘、神野直彦、西村幸夫、間宮陽介(編)『(岩波講座・都市の再生を考える・1)都市とは何か』
 渋谷望「万国のミドルクラス諸君、団結せよ!?」=「現代思想」2005年1月号、青土社
 杉田敦「「彼ら」とは違う「私たち」――統一地方選の民意を考える」=「世界」2003年6月号、岩波書店

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2005年7月10日 (日)

俗流若者論ケースファイル35・斎藤滋

 相変わらず、曲学阿世の徒・日本大学教授の森昭雄氏の「ゲーム脳」理論という疑似科学に対する支持者は後を絶たないが、今回はちょっと面白いのを見つけたので紹介したい。

 宮城県図書館で東京新聞のマイクロフィルムを見ていたとき、斎藤滋という人物が書いているコラムを見つけた。斎藤氏の肩書きについては、ここでは少し伏せておこう。今回検証するのは平成15年10月31日付東京新聞に掲載された斎藤氏の「人間らしさを育てる」というコラムなのだが、この人、いきなりこのように書き出してしまうのだから救いようがない。

 いつもイライラしている、すぐ頭に来る、食卓や机をたたいて怒る。まさか、みなさんの周辺にはこんな光景はありませんよね!

 最近、テレビゲームや携帯電話でのゲームに熱中する子どもや若者が増えています。これらのゲームは瞬発的な判断が必要ですが、知、情、意といった人間としての判断力が育ちません。脳神経科学の専門家である日大医学部・森昭雄教授(ゲーム脳の恐怖:NHK出版・生活人新書)は、これらのゲームに長時間熱中していると、前頭前野(脳の前方部分で、脳に入った情報を総合的に統合している)がうまく機能しなくなり、痴ほう症の人と類似した状態(若年痴ほう)になると警告しています。(斎藤滋[2003]、以下、断りがないなら同様)

 ついでに言っておくと、このコラムが掲載されたのは、精神科医の斎藤環氏(以下、この文章において単に「斎藤氏」と表記したときは、斎藤滋氏を表すものとする)による「ゲーム脳」理論への徹底批判が掲載された著書『心理学化する社会』(PHP研究所)が発行されたおよそ1ヶ月後であり、一般書に「ゲーム脳」理論への批判が載り始めた頃であるから、今更このような「ゲーム脳」礼賛記事が載るのはいかがなものか、と思った人も少なくないかもしれない。とりあえず、《これらのゲームは瞬発的な判断が必要ですが、知、情、意といった人間としての判断力が育ちません》という物言いは、ゲームに対する無理解の裏返しでしかないことは言っておきたい。例えばロールプレイングゲームやシミュレーションゲーム、アドヴェンチャーゲームなどは熟考を必要とする。また、斎藤氏は《ゲームに長時間熱中していると、前頭前野(脳の前方部分で、脳に入った情報を総合的に統合している)がうまく機能しなくなり、痴ほう症の人と類似した状態(若年痴ほう)になる》と言っているけれども、森氏がその根拠としたのはただ痴呆症患者と「ゲーム脳」の人の脳波が類似していた、ということだけ。このような疑似科学の論法を批判できなくて、コラムを書く資格があるのか。

 しかも、斎藤氏は(森氏の受け売りで)このようなことを言い出すのだからますます救いようがない。

 なんと、テレビゲームを始めて約一分後に脳波的には痴ほう症状態になります。通常はゲームを止めて20~30秒で元の状態に回復します。しかし、ゲーム常習者は、止めても痴呆症と同じような脳波が持続するという衝撃的なデータを森教授は例示しています。

 《なんと》とか《衝撃的なデータ》なんて、冗談も休み休み言っていただきたいものだ。ゲームのような単純作業の熟練者は、熟練した作業をやっていても脳波にさして変化が見られなくなる、というのは脳科学の常識なのだが。

 ちなみに、ドイツのジャーナリストであるロルフ・デーゲンの著書『フロイト先生のウソ』の349ページでは、米国の実験で、単語の記憶テストを行なったところ、成績の低い人は前頭葉や海馬が活発に活動していた、という事例が紹介されている(ロルフ・デーゲン[2003])。ということは、成績の高い人は暗記テストをやっても脳が活性化されない!これは問題だ!まさに「暗記脳の恐怖」(笑)!!まあ、森氏と斎藤氏はこう言っているのに等しい、ということを認識されていただければ十分である。森氏や斎藤氏、及び他の「ゲーム脳」賛同者は、ゲームなら、さらに踏み込むなら若年層なら何を言っても許される、と思い込んでいる節がある。

 このコラム自体が斎藤氏の妄想爆発コラムなのであるのだが、しかしこれでは私が冒頭で言った「ちょっと面白い」コラムではないだろう。そこらの「ゲーム脳」礼賛記事と大差ない。ではここで種明かしをしよう。斎藤氏は、この妄想コラムを、このような文章で締めくくっている。

 現在、日常の社会・学校生活でも、前頭前野をはぐくむ環境づくりの必要性が指摘されています。最近、食物やガムを噛むことで、若者・中年・高齢者の前頭前野が顕著に活性化されることを世界で岐阜大医学部・藤田雅文講師らのMRI(磁気共鳴機能画像)で証明されました。……

 食物やガムをよく噛んで、人間らしい感性・情緒感を育てましょう!

 噛むことが「ゲーム脳」の「治療」になる?森氏はお手玉が「ゲーム脳」の「治療」になると言っていたはずなのだが。

 実を言うと斎藤氏、日本咀嚼学会の前理事長(現在は監事)なのだ。このコラムも実は斎藤氏の連載コラム「噛んで元気」の第18回なのである。そう考えれば、斎藤氏が「噛むこと」をここまで重要視するのも納得がいくだろう。しかし、ここで「ゲーム脳」など持ち出してくる必要などあったのだろうか。

 岐阜大の藤田講師らによってガムを噛むことで前頭葉が活性化されることが証明された、というのは事実である。私も大学受験期、ガムを噛みながら勉強していたことがあるので、「噛むこと」の有意性については否定するつもりはない。しかし、それを(諸悪の根源とされている)「ゲーム脳」と結び付けて、ゲームは人間性を奪い、そこで奪われた人間性を「噛むこと」が取り戻してくれる、と書いてしまうのは、結局のところ「ゲーム脳」は自分の営利のための道具でしかないのではないか、と言われても仕方ないのではないか。斎藤氏よ、少なくともあなたは日本咀嚼学会の理事長まで上り詰めた身分なのだから、「ゲーム脳」の如き疑似科学に踊らされてはまずいと思うのだが。

 しかし、青少年問題言説を自分の営利に結び付けてしまうのは、悪しき商業主義ここに極まれり、である。そういえば私がかつてネットを巡回していた頃、ある空手の道場が「青少年問題の解決の成果」をサイトに掲げて、その道場がいかに「ひきこもり」を解決したか、ということを喧伝していたものがあった。どことは言わないけれども、とりあえず現在の状況に関して言えることは、政治や俗流論壇に限らず、一般社会でも青少年問題を「自己実現」の為に利用するという事態が蔓延している、ということだろう。

 参考文献・資料
 斎藤滋[2003]
 斎藤滋「人間らしさを育てる」=2003年10月31日付東京新聞
 ロルフ・デーゲン[2003]
 ロルフ・デーゲン、赤根洋子:訳『フロイト先生のウソ』文春文庫、2003年1月

 池谷裕二『進化しすぎた脳』朝日出版社、2004年10月
 斎藤環『心理学化する社会』PHP研究所、2003年10月

 柄本三代子「科学のワイドショー化を笑えない時代」=「中央公論」2002年11月号

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トラックバック雑記文・05年07月10日

 大きな文章を立て続けに公開して、最近はかなり力が抜けています。建築の課題もあるのに。いいのか俺(「コンパクト建築設計資料集成」は熟読していますが)。

 というわけで、平成17年下半期に入っての初めての雑記文ですよ。と、アンニュイなモードで行こうとと思ったのですが、そうは問屋が卸さないようで…。

 週刊!木村剛:[ゴーログ] 「有害情報判定委員会」は創設されるのか?(木村剛氏:エコノミスト)
 kitanoのアレ:村田吉隆公安委員長「インターネットを規制すべきだ」
 やれやれ、またインターネット規制論ですか。この手のメディア悪影響論って、どうしてかくも支持を得てしまうのでしょうかね。

 なるほど、確かに最近の事件に関してインターネットがある程度関わっていた、ということは確実に言えるでしょう。しかし、だからといって、世の中にはインターネットを使う人がたくさんいて、それでも彼らの大半は犯罪を起こさない。事実、我が国において少年凶悪犯罪の件数は昭和35年ごろに比べれば激減しています。インターネットも今のようなポルノもなかった時代に、少年による凶悪犯罪が約3倍起こっていた。また、「少年犯罪データベース」という熱心なサイトがあるのですが、そのサイトを見る限りでは、「質の凶悪化」もまったくのうそだということがわかります。

 所詮、俗流若者論とは、自分をタブーにすることによって自らをまったく傷付かない場所に置くための武器なのですね。自分は「想い出」というイデオロギーに浸ることによって自らの世代が少年だった頃の凶悪犯罪を不問にして、今の青少年に対して強権的な政策を正当化するための方便なのですよ。

 「有害である」「有害ではない」なんて、どうでもいい話じゃないですか。もちろん既存の法律に反するようなもの(個人情報の暴露とか)はその人の良心によって規制されるべきですが。でも、さまざまな表現が混在している社会こそ健全な社会なんですよね。政府によって何らかの基準が決められて、それが「青少年に有害」という理由で規制されてしまう、というのはまさに言論統制ですよね。

 そもそも彼らの脳内において「青少年」とはどういう存在なんでしょうかね。私が思うに、それは限りなく無垢な存在です。当然悪い意味でですよ。要するに、暴力的な画像を見たら、すぐさま暴力は許されると思い、そしてすぐ暴力行為に走る。少女が陵辱されるゲームの画像を見たら、すぐさま少女への陵辱が許されると思い、そしてすぐ陵辱行為に走る。こういう存在です。彼らの想定している脳内青少年には、常識的な判断力がない。善悪の判断がつかない。全てが映像によって決められる。そういう存在として見られているのですよ、今を生きる青少年諸君!

 これが偏った青少年観と言わずして何というのでしょうかね。これこそ彼らの中でヴァーチャルが現実を凌駕してしまった、というよりも陵辱してしまった事態ですよ。もちろん、ここで言うヴァーチャルとは俗流若者論によって構成された「今時の若者」という虚像のこと。俗流若者論というフィルターによってのみ現代の青少年を見られなくなっているのだとしたら、それは極めて悲しいことです。

 minorhythm:赤(茅原実里氏:声優)
 茅原氏曰く、

 赤いラグマットに、赤いゴミ箱…。
 最近やけに“赤”にこだわる私。何かと赤が気になる私。
 なんなんだ?(笑)

 色彩の指向というものは、その人の精神状態などを表す指標となり、また、色彩はインテリアにも大きな影響を及ぼします。例えばあなたが赤ばかりの部屋で過ごしたらどうなるでしょうか。心が温かくなる?情熱的になる?感じ方は人それぞれでしょうが、少なくとも何らかの影響を及ぼすのは確かだと思います。

 まあ、赤ばかりの部屋にしてしまうのもいかがなものか、と思いますが。でも、その時々の気分をインテリアに反映させるというのは、さして悪いことではないのだと思います。
 余談ですけれども、俗流若者論を色で表すとどうなるでしょうね。黒?いや、そんな統一感のあるものではないでしょう。さしずめ言うならば、色なんてありません。さまざまな色が汚く交じり合って、結局色とはいえない色が形成されたグロテスクな空間ですよ。

 だいずのイソフラボンジュール:宙:七夕なくして・・・(水島大宙氏:声優)
 世間では七夕の季節ですね(もうちょっとだけ過ぎましたが)。でも、仙台では七夕は8月7日ですから!残念!!

 私が仙台市成人式実行委員をやっていた頃、仙台の七夕の歴史について調べていました。そのときに仙台の七夕にはいろいろな物語があることを改めて感じて、感慨深くなりました。もちろん、さまざまな商店や企業による豪華絢爛な七夕飾りも見ものですが、例えば飾りには全て和紙を使っているとか、時代の変遷に対応しつつ伝統を守り続ける姿にも目を向けるべきでしょう。それもまた、七夕の楽しみ方です。

 いずれにせよ、七夕を逃してしまった万国のプロレタリアート諸君、まだ仙台がある!是非見に来てください。

 お知らせ。以下の文章を公開しました。
 「俗流若者論ケースファイル30・森岡正宏&杉浦正健&葉梨康弘」(6月28日)
 「2005年4~6月の1冊」(7月1日)
 「2005年上半期の1曲」(7月2日)
 「俗流若者論ケースファイル31・細川珠生」(7月3日)
 「暴走列車を止めろ ~正高信男という堕落4~」(同上)
 「俗流若者論ケースファイル32・二階堂祥生&福島章&野田正彰」(7月6日)
 「俗流若者論ケースファイル33・香山リカ」(7月7日)
 「俗流若者論ケースファイル34・石原慎太郎&養老孟司」(7月9日)

 それにしても、石原慎太郎氏の暴走はどこまで続くのでしょうかね。「俗流若者論ケースファイル11・石原慎太郎」も参照してほしいのですが、このような人が都政を預かっているということ自体が疑問の種になろうというもの。

 メディア規制首都圏連合の形成も、もう目前なのでしょうかね。松沢成文氏も、もはやトートロジー(同語反復)に陥っているし。

 最近古典をよく読んでいます。丁度最近ニーチェの『アンチクリスト』が『キリスト教は邪教です!』となって講談社+α新書(適菜収:訳)から出ていますけれども、他にもマックス・ヴェーバーの『職業としての政治』(脇圭平:訳、岩波文庫)なんかも読みました。今読んでいるのはヴェーバーの『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』(大塚久雄:訳、岩波文庫)ですけれども、この本を読んでいると、いかに俗流論壇人のフリーター・若年無業者たたきが低俗で非歴史的なものであるか、ということがわかりますね。現代の良識ある学者や実践者の文章を読んでも俗流論壇人の低俗ヘタレぶりがわかるのですから、いわんや古典をや、です。

 あと、このブログの右側にある「おすすめブログ」に、以下のブログへのリンクを追加しました。いずれもよくできているブログですので、是非読んでください。

 「本日の「産経SHOW」
 「弁護士山口貴士大いに語る
 「森昭雄研究所

 もう一つ。マガジンハウスが発行している月刊誌「ダ・ヴィンチ」の新書新刊のページを読んでいたら、中公新書のところで目が止まりました。そう、あの曲学阿世の徒が中公新書から新刊を出す!

 正高信男『考えないヒト』中公新書、2005年7月25日発売予定

 この男の最近の仕事のひどさに関してはもうここで散々批判している通りですが、この本もまた疑似科学路線まっしぐらのトンデモ本になるのでしょうか。内容によっては、「正高信男という斜陽」(仮題)で、なるべく早く検証します。ですので、皆様も今のうち警戒しておいてください!

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2005年7月 8日 (金)

俗流若者論ケースファイル34・石原慎太郎&養老孟司

 ゲーム規制を推し進めている神奈川県の松沢成文知事が、自身のブログでゲーム規制に対する反対論への再反論を掲載した。しかしその文章は、結局のところ私が「俗流若者論ケースファイル12・松沢成文」で批判したものとなんら変わらず、結局のところコメント欄は「まだ疑問だ」「答えになっていない」といったものが多数書かれていた。

 詳しい検証は避けるが、松沢氏のみならずゲーム規制論者の思考を突き詰めれば、それは「俺が有害だと言っているから有害なんだ」というトートロジー(同語反復)になる。このような論理を振りかざす人たちに「それはトートロジーだ」と指摘するのは簡単だし、またそれがもっとも正しい態度なのだが、しかしトートロジーを平然と振りかざすようになっている人たちには、いくら論理的に説明しても聞いてもらえないケースが多い。そして現在、そのようなトートロジーを持った人たちが政治を牛耳り、無意味どころか有害なメディア規制に走っている、というのが現状である。

 また、トートロジーは脳科学を犯し、脳科学を疑似科学として再構築するのにも役立っている。典型的なのは曲学阿世の徒・日本大学教授の森昭雄氏であろうし、また同じく曲学阿世の徒・京都大学教授の正高信男氏も擬似脳科学に陥りつつあるのであるが(詳しくは「正高信男という頽廃」参照)、彼らがいかに「科学」を偽装しようとも、結局のところは推測の積み重ねであり、脳機能の欠陥が社会性を奪う、ということは証明されていない。というよりも、現に脳に障害を抱えている人も、福祉工学の発達によって人並みの生活を送れるようになっており、脳機能の欠陥により社会性が失われる、というのは脳機能障害者に対する差別に他ならない。まあ、擬似脳科学の徒には、このようなことを考えることもないのだろうが。

 なぜ私がこのような物言いをするのか。

 それは、ついにトートロジーにより強大な権力を振りかざす人と、擬似脳科学の最悪の結婚を見てしまったからである。

 それが、「文藝春秋」平成17年8月号に掲載された、東京都知事の石原慎太郎氏と、北里大学教授の養老孟司氏による対談「子供は脳からおかしくなった」だ。

 先に言っておくが、私は養老氏の『涼しい脳味噌』『毒にも薬にもなる話』『「都市主義」の限界』などの本はよく読んできた。ただ『バカの壁』などの最近の本は何となく忌避してきた。それでも、私が定期購読している「中央公論」の文章で養老氏のエッセイを楽しんできたが、石原氏とのこの対談を読んでみた限り、養老氏は一体どうしたのだろう、と思った。以前からも、養老氏が若年層について書いている文章の内容には少々疑問を持ってきたが、この対談における養老氏の発言は私が抱いてきたその疑問の集大成であった。

 そして石原氏。私は、この3ヶ月前に発売された「文藝春秋」平成17年5月号の文章を検証したけれども(「俗流若者論ケースファイル11・石原慎太郎」を参照されたし)、この座談会における石原氏の発言は、5月号の文章から少しも改善されていない。

 前置きが長くなってしまったので、ここから、話の流れに沿って検証を行なうことにしよう。養老氏は130ページにおいて、《このところ、子供たちの描く絵の多くが「下手なマンガ」のようになっていた、中には絵が描けない子供も出てきているそうです》(石原慎太郎、養老孟司[2005]、以下、断りがないなら同様)ということを紹介しており(おそらく作家の藤原智美氏の本を読んだのだと思う。藤原氏の立論の問題点については「俗流若者論ケースファイル17・藤原智美」を参照されたし)、なぜそのような事態が生じてしまったのか、ということについて、養老氏は131ページにおいて自閉症の子供が疾走する馬を素晴らしくデッサンしていたが、いざ自閉症が治ると《今そこにある馬を感覚的に捉える、という、彼女がかつてもっていた豊かな世界がとたんに痩せてしまった》ことを紹介している。まず笑えるのは、その直後における石原氏の発言だ。曰く、

 石原 象徴的な話ですね。ということは今大方の子供たちも、感覚的な世界が痩せて、絵が描けなくなっている可能性は十分にありますね。それはやはりテレビなどの影響、ということになるのかな。

 《感覚的な世界が痩せて》いるのは石原氏のほうであろう。養老氏の提示した実例から《今大方の子供たちも、感覚的な世界が痩せて、絵が描けなくなっている可能性は十分にありますね》と言ってしまうのは飛躍というものである。石原氏は、今の子供たちをみんな自閉症の状態にしろ、とでも言ってしまうのだろうか。まさかそのようなことは言わないだろうが、冒頭で養老氏の提示した事例がどこまで広がりを持っているのか、そして過去はどうだったのか、ということについての検証が必要だと思うのだが。

 そして、やはり来たか、メディア悪影響論。《やはりテレビなどの影響、ということになるのかな》など、勝手に「犯人」を決め付けないでいただきたいものだ。ところがそれを受けたよう労使は、そのような石原氏の発言を諌めるどころか、むしろ肯定してしまうのである。あなたは本当に科学者なのか。

 曰く、

 養老 そうですね。よく最近はバーチャル・リアリティーなんていわれますが、テレビの中のことと、現実に起こることは違いますよね。ところが今の子供たちはそれが混乱してしまっているんです。たとえば子供が険しい道を歩いていて、崖から落ちそうになれば普通「危ないよ」と声をかける。でも、それがテレビの映像であれば、崖から落ちる設定になっていれば声をかけようがかけまいが子供は落ちる。だからどんなに深刻な映像であっても、感情移入することなく淡々と見ることができるようになります。それどころか、実際の現実世界もまるでテレビの中の出来事であるかのように捉え、「現実に対して自分は以下に無力か」とシラケきってしまう。そういう乖離が子供の頃から起きているんです。

 と。かつて養老氏は、同様の論理を過去の著書で述べていたが(養老孟司[2002]159ページ)、私はそれを読んだときそんなわけないだろう、と苦笑したけれども、まさか今でもそのような考えを持っているとは思わなかった。

 まず《たとえば子供が険しい道を歩いていて、崖から落ちそうになれば普通「危ないよ」と声をかける。でも、それがテレビの映像であれば、崖から落ちる設定になっていれば声をかけようがかけまいが子供は落ちる。だからどんなに深刻な映像であっても、感情移入することなく淡々と見ることができるようになります》というのはどこで聞いた話なのだろうか。それとも養老氏の捏造か?また、《どんなに深刻な映像であっても、感情移入することなく淡々と見ることができるようになります》と養老氏は述べているけれども、あなたも科学者であればそのようなことを照明するデータの提示が必要だろう。ここまで無理のあるアナロジーに依拠するなど、森昭雄・正高信男並みの疑似科学者の行為である。文学者である石原氏は、そのような養老氏の無理のあるアナロジーを諌めるべきだろうが、案の定石原氏は賛同してしまう。この2人の蜜月は、最初2ページからすさまじい。

 この2ページで最も笑えるのはこの箇所であろう。

 養老 ……宮崎駿さんが、『千と千尋の神隠し』を三十回観ました、という手紙を受け取ってぞっとした、という話があって(笑)。

 石原 確かにぞっとするなあ、それは(笑)。反復可能な映像は、反復すればするほど単純に記号化されていくわけだから。そんな情報ばかりが氾濫する社会の中で、何がリアルで何がバーチャルなのか、未熟な人間である子供が一人で識別できるはずがない。

 笑いを取りたいのだろうか。特に石原氏。同じ映画を三十回も観たと聞いて、むしろぞっとしない人のほうが少ないと思うけれども。それに、《そんな情報ばかりが氾濫する社会の中で、何がリアルで何がバーチャルなのか、未熟な人間である子供が一人で識別できるはずがない》などと、勝手に決め付けないでいただきたいものだ。

 そもそもバーチャルとリアルの境界を厳密に決めることは可能なのだろうか。少し極論すれば、リアルはバーチャルによってしか成立し得ない。なぜなら、我々の見ているものそれ自体が、バーチャルであるからだ。というのも、我々の見ているものは、所詮はリアルの一部に過ぎないわけで、それ以外の世界は「推測」によってしか成立し得ない。それに、《反復可能な映像は、反復すればするほど単純に記号化されていくわけだから》などという言葉は、まずマスコミに言うべき言葉であろう。

 石原氏が132ページで採り上げている赤枝恒雄氏の例に関しては、前回検証したのでここでは触れない。しかし、132ページにおいては、養老氏の側に問題のある発言を見つけた。

 養老 ……親子関係、母子関係なんて、ヒトの脳がこんな風に発達するはるか以前、それこそ「理解」のはるか以前から成立しているんですよ。むしろ脳が関係を邪魔しているんです。昔の人はそうした「理解」以前の「実体」への信頼感があったから、「以心伝心」といっていたし、「人間てこういうものだろう」という事の順序みたいなものが長年の知恵で頭の中に入っていましたからね。そういう知恵がもはや親子間で共有できなくなってしまったところに、ちゃんとした親子関係ができるはずもありませんよ。

 《「理解」以前の「実体」》とか、《ちゃんとした親子関係》とは、一体何を指すのだろうか。結局のところ、養老氏と石原氏は、過去では親子関係が成立していたが、現在は成立していない、という共同幻想に浸っているだけだろう。なぜ私がこのように言うのかというと、同じページで石原氏が提示していた2つの事例が、それが典型的なものなのか極端なものなのかを例示しないまま、石原氏の提示した事例を典型的な現代の事例として扱っているからである。そして、過去の家族にも問題があったか、ということについては、一切触れずじまい。

 133ページでは、成人式論の研究家として怒らねばならぬ発言が石原・養老の両氏から発せられた。

 石原 ……精神科医の斎藤環さんが……日本人を分析してみて、「日本人の本当の成人は三十歳だ」ということになったそうです。確かに成人式が荒れていて、混乱が起こるから親の同伴が必要だ、なんてことになってるわけですから。

 養老 もっと遅くて、四十代でいいんじゃないかな。僕は三十代はじめにオーストラリアに留学したんですが、そのときに向こうの二十代半ばの人間と話していてちょうどよかったんです。しみじみ感じましたね。オーストラリアでさえそうなんだから、個々人の成熟は向こうの社会の方がはるかに早い。

 石原 ということは、二十代、三十代のまだまだ未熟な親に育てられている今の子供たちがおかしくなるのも、無理のない話ですな。

 もういい加減にしてもらいたい。石原氏よ、養老氏よ、ここは酒場ではないのである。養老氏は個人の成熟は早いほうがいい、と考えているのかもしれないが、石原氏が引き合いに出している斎藤環氏は、個人の成熟と社会の成熟は反比例する、という趣旨のことを述べているから(斎藤環[2005])、個人の成熟の速さが社会の質の良さを示すのか、といえばまんざらでもないのである。

 しかし、養老氏よりも問題があるのは石原氏だ。石原氏、ここ数年で加速度的にひどくなった成人式報道をそのまま真に受けているのだから救いようがない。何がひどくなったかというと、マスコミはみんな俗流若者論、若年層バッシングのために成人式を「政治利用」するようになった。私は平成17年仙台市成人式実行委員会で吹く実行委員長をしていたからわかるのであるが、我々の苦労、及び他の自治体における裏方の苦労はほとんど報道されない(かろうじてNHKで岩手県水沢市のが報道されたくらいだろう)。しかもマスコミが大好きな「荒れる成人式」がそのまま我が国の20歳の人たちが成熟していない証左として取り上げる、ということに関してはもはや莫迦莫迦しくて検証する気もないのだけれども、ただ一つだけいえることは、一部で怒っている単なる莫迦騒ぎをさも国家的・社会的な大事のように捉えるマスコミも、「今時の若者」という虚像に脅えて成人式を家族同伴にするという大愚作をしでかしてしまう自治体も、結局のところ単なる事なかれ主義者、ということだ。

 133ページから134ページにおける石原氏の発言。

 石原 ティーンエイジャーの娘をもつ親たちは、子供に携帯電話をもたせていると、たとえ子供が菅家で援助交際なんかをしていても、親子の心が通っている、つながっていると思い込もうとする。実際は互いにケータイを操作してなれ合っているだけでしょう。そんな関係、昔はありえなかった。つまり親子の関係での本質が欠落してしまっている。

 これもまた石原氏の思い込みに過ぎない。《そんな関係、昔はありえなかった》など、当たり前ではないか、昔は携帯電話など存在しなかったのだから。けれども、携帯電話の普及について、アプローチとして自然なのは、まず昔からある一定の感情があり、それが携帯電話にマッチしたから広まったとかそのようなところから入ることだと思うのだが、石原氏は最初から「昔の親子は正常で、現代の親子は異常だ」という幻想に浸っているから、現代の親子を罵ることしかできなくなってしまっているのだろう。

 さて、134ページから135ページであるが、ここで擬似脳化学が出てくる。といっても、マスコミが大好きな「キレる子供」は前頭葉が異常である、というもう聞き飽きたものなのだけれども。しかも前頭葉の以上は戦後教育が原因だ、といってしまう始末。まあ、この2人の蜜月からこのような暴論が生まれるのは、十分に想定しうるものなのだけれども。ここもあまりにも莫迦莫迦しいのでもう検証しない。そして135ページ下段において、また出てきた、脳幹が。まあ、この人にとって脳幹は国家(=石原氏の幻想としての「国家」)のメタファーなのだから仕方ないのだけれども。

 また、石原氏は、137ページでまた問題の大きい発言を行なっている。

 石原 ……最近の集団自殺というのは、インターネットなどで知り合った同士が集まって、互いに名乗りもせずに、ただ黙々と死んでいく。その間にセックスがあるわけでもない。一人で死ぬより数人で死んだほうが寂しくないということなのか。彼らは人とのつながり方において、大きな問題を抱えている。つまり、インポテンツだった、と考えるしかないのかもしれない。

 まったく、石原氏にとっては、現代の青少年は本質(=石原氏の幻想としての「本質」)が欠落した存在、「本質」を持ったものにより統制されるべき存在、としてしか捉えられていないのだから、このような暴言を吐けるのだろう。まず、我が国において、青少年の自殺よりもむしろ中高年の自殺のほうが多い。また、石原氏はインターネットによる集団自殺を、単に青少年の精神の問題として考えているけれども、実際には死にたい想いを抱えていても死に切れない人も多くいる。さらに、これは斎藤環氏の指摘なのだけれども、このような事態は韓国やアメリカでも起こっている(斎藤環[2005])。

 問題があるのは養老氏も同様だ。養老氏は、138ページにおいてこのように発言している。養老氏の発言だ、というキャプションがなければ正高信男の発言と見間違うところだった。

 養老 ……そこで、携帯電話依存の問題です。ケータイならば、ミラーニューロンが働きにくい。相手の視覚的な印象はないんですから。メールでのやり取りなら音声もないわけで、言葉以外の情報を一切シャットアウトできる。これは弱い自我を守るための貴重な方法なのではないか。だから若者が、面と向かって話をするよりケータイでコミュニケーションする方が、ずっと居心地がいい、というのも分かるような気がするんです。

 そんなに《ミラーニューロン》は重要なのだろうか。いや、少なくとも脳構造の解明にとっては重要なのは間違いないのだろうが、だからといってメールはミラーニューロンを働かせない、とか、だから弱い自我を守るだけの貴重な方法だとか、この論理には飛躍が多い。

 ついでにミラーニューロンの(本当の)意味について解説する。この対談では当てにならないので、薬学博士の池谷裕二氏の説明を引用すると、《自分であろうと、他人であろうと関係なく、ある〈しぐさ〉に対して反応する神経》だとか、《「2」という数字に反応する神経が見つかった。つまり、リンゴが2個ある、サルが2匹いる、何でもいい。とにかく「2」というものが目の前にあったときに反応する神経》(共に、池谷裕二[2004])と説明されている。とはいっても、池谷氏も言うとおり、これはサルでその存在が確認されたことだし、ミラーニューロンに関しても脳科学はまだ断片的なことしか分かっていないので、ましてやメールはミラーニューロンを発達させないだとか、ミラーニューロンを使わないから若年層にとっては快感になるとか言ってしまうのは言語道断というものだろう。

 もう一つ養老氏に関して言うけれども、養老氏は同じページにおいて《今の若い子はその「自分」がもともとあることに確信がもてないんでしょうね、だから不安になって「自分探し」をしているんです。フリーター、ニートなどといって》といっているけれども、若年層がフリーターや若年無業者になる背景には、経済構造的なところも大きいのではないか。例えば経済学者の玄田有史氏が長い間指摘していることなのだけれども、我が国では中高年雇用の既得権が強まっており、それにより若年者雇用が開拓されない、という事態が起こっている(玄田有史[2001])。さらに玄田氏は最近になって、若年無業者の問題にも経済格差が影響している、という発表をしている(平成17年4月中ごろの日経新聞の記事だったが、あいにくその記事を紛失してしまった)。雇用構造の変化ということで言うと、企業が自分に都合のいい若年労働力しか採用しなくなっている、という現状もある。安易な精神論は、現実の社会構造の問題を隠蔽する方向にしか働かない。

 最終的には、まあ完全に予想の範疇であるが、《身体的な体験をさせるしかない》(石原氏、140ページ)という方向に進んでしまう。ここから先はもう退屈なのでいちいち検証はしないけれども、気になった箇所について2点。まず、141ページにおいて、石原氏は

 石原 昨年末、小中学生を対象とした調査で、死んだ人が生き返ることがあると考える子供が五人に一人いる、という統計が発表されましたが、若い人たちにとって「死」はもはやリアリティを感じるものではないのかもしれない。

 この統計は長崎県教委のもので間違いないだろう。たくさんのところで引かれているのでうんざりする。この統計にはかなりの問題点が含まれており、その議論は「統計学の常識、やってTRY!第2回」に譲るけれども、このような調査において他の世代との比較がないのはどういうわけなのだろうか。結局のところ、このようなアンケートは、若年層を貶めることにしか使われない。そのような問題意識の低いアンケートを引用していい気になっている石原氏は、いい加減目を覚ましていただきたいものだ。

 また、142ページにおいて、石原・養老の両氏が戸塚ヨットスクールについて賛同しているのにも驚いた。まあ、石原氏が後援会の会長だということは前から分かっていたのだが、養老氏も賛同していたのには少々驚きを禁じえなかった。

 ここで検証は終わるのだけれども、私は石原・養老の両氏に問い詰めたい。

 なぜ、このように、問題の多い発言をして恬然としているのだろうか。

 はっきり言っておくけれども、この対談は、単なる「居酒屋の愚痴」異常の何物でもない。また、このような対談を平然と載せている「文藝春秋」の編集部も厳しくその責任を問われるべきだろう。

 それにしても、前回の「仮想と虚妄の時代」と同様に石原氏の暴言が炸裂している対談であった。所詮石原氏にとって青少年問題とは、国家の恥として吐き捨てるべきものでしかないのだけれども、石原氏が青少年に対してあまりにも軽い、また残酷な態度で望んでいるばかりに、安易な規制論や疑似科学に依拠して青少年を現代社会の鬼胎として語り、彼らを嘲りその「対策」こそが至上命題だとすることによって、結局は「今時の若者」に対する敵愾心の共同体を作り上げていく。

 俗流若者論は「今時の若者」に対する敵愾心の共同体を作り上げていくのに余念がない。そして彼らは、たとい言いたい放題言っているとしても、敵愾心の共同体の中で言っているのだから、外部からの検証には至極弱いだろう。それでも、俗流若者論は着々と支持を得ており、それらが作る敵愾心の共同体に入っていく人たちは後を絶たない。

 しかし、考えていただきたい。昨今推し進められている国家主義的な動き、例えば憲法や教育基本法の改正は、それらのルーツをたどっていけば俗流若者論を源流とする。そのような挙動に隠された危険な動きを、彼らは俗流若者論でもって甘い匂いをつけ、従わせようとする。しかし、我々に求められているのは、そのような俗流若者論の歪んだ欲望を見通すことであり、俗流若者論によって突き動かされる政治というものが、いかに異常なものであるかを見極めることだ。

 俗流若者論に突き動かされて、「本質」の再建こそが必要だ、と叫ぶ石原氏に、政治家としての資格があるのだろうか。マックス・ヴェーバーも言っているではないか、《政治とは、情熱と判断力の二つを駆使しながら、堅い板に力をこめてじわっじわっと穴をくり貫いていく作業である。もしこの世の中で不可能事を目指して粘り強くアタックしないようでは、およそ可能なことの達成も覚束ないというのは、まったく正しく、あらゆる歴史上の経験がこれを証明している》(マックス・ヴェーバー[1980])と。そして石原氏のみならず、神奈川県知事の松沢成文氏なども、問題を正面から受け止めることをせずに、俺が有害だと言っているから有害だ、というトートロジーに陥ったり、「今時の若者」を過剰に敵視したポピュリズムに陥ったりしているが、それでも彼らを政治家として信頼に足る人物である、と評価したいのであれば、もう私は勝手にしろ、と言うほかない。

 しかし、それでも、より多くの人が俗流若者論に牛耳られる政治の危険さを知って欲しいと、私は祈り続ける。

 参考文献・資料
 池谷裕二[2004]
 池谷裕二『進化しすぎた脳』朝日出版社、2004年10月
 石原慎太郎、養老孟司[2005]
 石原慎太郎、養老孟司「子供は脳からおかしくなった」=「文藝春秋」2005年8月号、文藝春秋
 マックス・ヴェーバー[1980]
 マックス・ヴェーバー、脇圭平:訳『職業としての政治』岩波文庫、1980年3月
 玄田有史[2001]
 玄田有史『仕事のなかの曖昧な不安』中央公論新社、2001年10月
 斎藤環[2005]
 斎藤環『「負けた」教の信者たち』中公新書ラクレ、2005年4月
 養老孟司[2002]
 養老孟司『異見あり』文春文庫、2002年6月

 マックス・ヴェーバー、大塚久雄:訳『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』岩波文庫、1989年1月
 笠原嘉『アパシー・シンドローム』岩波現代文庫、2002年12月
 姜尚中『ナショナリズム』岩波書店、2001年10月
 斎藤環『ひきこもり文化論』紀伊國屋書店、2003年12月
 ロナルド・ドーア、石塚雅彦:訳『働くということ』中公新書、2005年4月
 中西新太郎『若者たちに何が起こっているのか』花伝社、2004年7月
 広田照幸『教育言説の歴史社会学』名古屋大学出版会、2001年1月
 二神能基『希望のニート』東洋経済新報社、2005年6月
 パオロ・マッツァリーノ『反社会学講座』イースト・プレス、2004年5月
 山本七平『日本はなぜ敗れるのか』角川Oneテーマ21、2004年3月
 ウォルター・リップマン、掛川トミ子:訳『世論』岩波文庫、上下巻、1987年2月

 大和久将志「欲望する脳 心を創りだす」=「AERA」2003年1月13日号、朝日新聞社
 齋藤純一「都市空間の再編と公共性」=植田和弘、神野直彦、西村幸夫、間宮陽介(編)『(岩波講座・都市の再生を考える・1)都市とは何か』2004年3月、岩波書店
 瀬川茂子「東京都発「正しい性教育」」=「AERA」2004年10月25日号、朝日新聞社
 内藤朝雄「お前もニートだ」=「図書新聞」2005年3月18日号、図書新聞
 藤生明「サプライズ辞任の可能性」=「AERA」2005年6月20日号、朝日新聞社

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2005年7月 7日 (木)

俗流若者論ケースファイル33・香山リカ

 昨今のCDの売り上げにおいて、アニメのキャラクターの名義で出されるCD(キャラクターソング)の売上がすさまじい。平成14年ごろからアニメ「テニスの王子様」のキャラクターCDがオリコンで高い順位を記録するようになり、さらに平成16年から発売が始まり、現在のアニメ放送につながる「魔法先生ネギま!」は、所期の2枚を除いて(それでも初登場15位以上であったが)全てが初登場10位以上にランクインするようになっている。

 かく言う筆者も、この論文を書いた前日(平成17年7月6日)に、能登麻美子、相沢舞、皆川純子、井ノ上ナオミ、猪口有佳の各氏が歌う「魔法先生ネギま!」の平成17年6月分のオープニングテーマ「ハッピー☆マテリアル」を購入している。この論文の執筆時点ではオリコンの週間順位はわからないが、高い順位をマークするのはほとんど間違いないと思われる。これ以外にも、最近ではアニメ・声優関係の楽曲の売上が上昇している。私はアニメは見ないけれどもアニメ・声優関係の楽曲はよく購入している。

 このような新しいカルチュアのムーヴメントの一つになっているのが「萌え」である。一般に認知されている限り、「萌え」とはアニメや漫画のキャラクターに愛情を持つことであるといわれている。ポイントは「萌え」がアニメや漫画のキャラクターを志向している、ということだ。一般の人から見ればこのような行為は「妄想に欲情する気持ち悪いオタクの行為」と認知されるかもしれないが、個人的にそれを嫌うのは勝手だけれども、それに対して誤解と曲解を重ねて、猟奇犯罪と結びつけて過剰に危険視するのは許されざる行為であり、排他的ナショナリズムの発露にしかならないだろう。

 私がこのように前置きしたのも、この論文が前回の「俗流若者論ケースファイル32・二階堂祥生&福島章&野田正彰」の続編であり、前回に引き続いて今年5月に起こった少女監禁事件にかこつけた俗流若者論を検証するものだからである。

 多くの人の期待(?)を裏切って申し訳ないが、あまりにもひどい俗流若者論なので、「ブルータスよお前もか!」といわなければならない。というのも、今回検証するのが、精神科医であり、オタク・カルチュアにある程度の理解を示していると見られてきた香山リカ氏の文章だからである。香山氏は、硬派なメディア批評で有名な月刊誌「創」の平成17年7月号において、香山氏の連載「「こころの時代」解体新書」で「監禁事件と「萌え」文化」としてこの事件を採り上げているからだ。一読して、香山氏はいったいどうしてしまったのか、と不安になった。

 冒頭で述べたとおり、我が国のカルチュア・ステージにおいて「萌え」が一つの大きなムーヴメントになっている。香山氏は冒頭において平成17年4月23日付毎日小学生新聞における「萌え」の説明を引用しつつ、このように批判している。曰く、

 ここで「萌え」は、全面的に“よいもの”“もうかるもの”として扱われており、“危険なもの”“警戒が必要なもの”といった視点はまったくない。また、「萌え」の中核は「愛情」とされており、そこに「性的な欲望」がからんでいるかどうかについては、触れられていない。(香山リカ[2005]、以下、断りがないなら同様)

 と。もちろん、香山氏が一般論として、物事を認識する際には《“危険なもの”“警戒が必要なもの”といった視点》もまた必要である、と言っているのであれば私は大いに共感を示す。しかし、本文を読んでみる限り、香山氏はどうも一般論としてこのような物言いをしているわけではないようだ。

 なぜか。

 ここで少女監禁事件の登場である。香山氏はこの文章の中で、一連の少女監禁事件事件と「萌え」を強引に結び付けようとしている、というのがこの答えだ。香山氏は犯人・小林泰剛の特徴を述べた上で、79ページ2段目においてこのように述べている。曰く、

 小林容疑者が、小学生新聞の「アニメ、マンガ、ゲームの登場人物に愛情を覚える」という定義によるところの「萌え」の要素を濃く持っていたことは、間違いないだろう。

 と。確かにそうかもしれないけれども、精神科医の斎藤環氏や(太田啓之、太田サトル[2001])ライターの本田透氏(本田透[2005])が言っている通り、「萌え」とはあくまでも虚構=アニメやゲームや漫画の中で完結できる性的志向であり、実際に少女監禁とか強姦とかを起こしてしまったら、もうその時点で「萌え」ではなくなる。であるから、たとい小林がアニメやゲームなどに欲情していても、実際に現実の女性に犯罪をしでかしてしまったら、小林は「萌え」という感情を本質的に持っていないということになり、また「萌え」が犯罪に結びつくと断言することはできない。

 香山氏は79ページ末尾において《「女性を自分の思うがままにしたい」「女性を性的に開発したい」という男性の欲望そのものが異常というわけでは》ない、と前置きをし、さらにこの事件の報道において集中的に採り上げられている「調教ゲーム」に関しても80ページ1段目から2段目にかけて《「現実はこの正反対なのだ」とよく知っているからこそ、ゲームでファンタジーを満たしている》と書いている。しかし、香山氏が、それでも「萌え」が犯罪につながる、と強弁する所以とは何か。

 それはインターネットである。香山氏は80ページ2段目から3段目にかけて、インターネットのチャットにおいては《百にひとつ、千にひとつの確率でもファンタジーが現実になるチャンスがある》として、《男性が調教ゲームで抱いた歪んだ女性観は、「ネットだから」と気軽に相手の期待にこたえる女性たちによってかえってより強化されてしまうこともある》と、チャットによる性犯罪の危険性を書いている。しかしこのようなアナロジーには問題が多い。そもそも《調教ゲーム》が女性観をゆがめるものであるのか、ゆがめるものであるとしたらどれほどか、ということについての検証が必要であるし、小林の事件がこのような仮定で起こった典型的なものである、と証明するに足る証拠が必要であるだろう。

 しかし、香山氏の偏見はむしろ81ページにおいて噴出する。まず香山氏は81ページの冒頭、1段目において、このように述べる。

 よく考えれば、モニター上で調教ゲームをやり続け、その同じモニター上でゲームと同じノリで実際の女性とチャットをしている人が、いつの間にか「やっぱり現実の女性もゲームのキャラと同じなんだ」と思い込んだとしても、それほど不思議はないような気がする。

 と。相当に無理のあるアナロジーの後に《それほど不思議はないような気がする》などと憶測し、それだけであるひとつのもののついて敵愾心を煽るのは俗流若者論の常套手段である。そして香山氏は、81ページの1段目終わりから最後にかけて、相当にひどいことを言い出してしまう。全文を引用しよう。

 では、どうすればいいのか。いつものようにアダルトゲーム規制の話も出ているが、ネットや携帯電話がこれほど普及し、誰もが“なりすまし”で見知らぬ相手とコミュニケーションすることが可能になった今、ゲームやコミックの一部を規制してみても問題は解決しないだろう。「インタラクティブ性の高いシミュレーションゲームはすべて禁止」「チャットはすべて実名で」くらいの徹底的な措置をとれば、もしかしたら少しは効果があるかもしれないが、小学生新聞にもあるように「萌え」はいまや巨大市場となっていること、「稼ぐが勝ち」という市場原理主義がここまで浸透していることを考えると、そんな思い切った措置を提案できる人がいるとはとても思えない。

 これからもおそらく、「萌え」は日本を代表する産業として、文化として発展の一途をたどり、そして時おり今回のような犯罪や事件が起き、世間は「とは言っても、これからのにほんは『萌え』に頼るしかないわけだし……」と事態を静観しつつ、記憶が薄れるのを待つしかないのだろう。

 しかし、せめて「『萌え』は侘び・寂びに並ぶ日本特有の美意識」「『萌え』こそ今後の日本の主力産業」とその興隆を肯定、礼賛する人たちは、実はほとんどの「萌え」を支えているのは性的な欲望であり、そうであるからには明るく清潔なことばかりは期待できない、ということをきちんと自覚しておくことが必要だ。「小学生にも安全な『萌え』」などといったイメージは、「お金だけもうけたいがリスクは背負いたくない」というおとなの無責任きわまりない発想に基づいていると思う。犯罪や事件覚悟で「萌え」を推進するか、さもなくば大損承知で全面規制するか、とるべき道はふたつにひとつしかない。

 事実誤認、情報操作、恫喝。問題を列挙すれば切りがない。無数の問題点の中から得の重要と思われる部分を抜き出して検証することにしよう。

 まず、《「インタラクティブ性の高いシミュレーションゲームはすべて禁止」「チャットはすべて実名で」くらいの徹底的な措置をとれば、もしかしたら少しは効果があるかもしれないが》という部分。例えばインターネット上の相談に代表されるとおり、匿名であるからこそ言うことができるものもあり、インターネット上のコミュニケーションでさえも全て実名でやらなければならないとしたら、かえって「世間」の息苦しさがインターネット上に持ち越される、という結果にしかならないだろう。また、香山氏が《「インタラクティブ性の高いシミュレーションゲームはすべて禁止」「チャットはすべて実名で」》と主張しているのであれば(香山氏はこれ以外の案を示していないので、香山氏はそう主張したいと判断せざるを得ない)、それによるリスクも勘案しなければならないはずだし、リスク教育も考えなければならない。そもそもこのようなことが実を結ぶためには、北朝鮮並みの情報統制ができないと、可能性として限りなく0に近い(ちなみに「後藤和智」は実名である。あしからず)。

 また、香山氏は《「稼ぐが勝ち」という市場原理主義がここまで浸透していることを考えると》と述べている。香山氏がこのように述べている根拠は、同名の著書があるライブドア社長の堀江貴文氏が絶大な人気を持っていることなのかもしれないが(ついでに私は堀江氏があまり好きではない。あしからず)、多くの人は堀江氏を時代を変えてくれる風雲児として、いわば「キャラ」としてみているのではないか、というのが私の印象であり、どうも堀江氏の経営哲学(あるのかどうかもわからないが)そのものに対する人気はあまり見られない。要するに、堀江氏の考え方全体に賛同している人はあまり多くないのではないか。
 もう一つ、香山氏は《そして時おり今回のような犯罪や事件が起き》と書いているが、香山氏はこの事件が明らかに「萌え」が引き起こしたものとしてとらえているようだ。しかし、香山氏は、多くの「萌え」の感情を持つ人たちがなぜ犯罪を起こさないのか、ということに対する考察を欠いてはいまいか。

 そして最後に――。香山氏は、この文章の中で、明らかに「「萌え」を推進して経済的に発展しつつ犯罪も増加する道を選ぶか、それとも「萌え」を全面規制して犯罪も経済発展も抑制するか」という二項対立を煽っている。香山氏にとっては、「萌え」とは経済ナショナリズム、文化ナショナリズムのためのものと認知されているのだろうか。しかし、「萌え」による経済ナショナリズム及び文化ナショナリズム(そのようなものが生じるかどうかもわからないけれども)の大綱として香山氏が提示している全面規制もまた、ナショナリズムなのだ。簡単に言えば「現実」という名の。もっと具体的に言うと、「現実こそが至上であり、アニメやゲームの美少女に欲情する「萌え」は退廃的なものだ」というイデオロギーである。香山氏は明らかにこの「現実」ナショナリズムの隘路に嵌っており、そこらの俗流経済学者が提示しそうな「経済か、安全か」という二項対立は、所詮は「現実」ナショナリズムによる狼藉でしかない。そもそも《とるべき道はふたつにひとつしかない》などと、勝手に選択肢を狭めないで頂きたい。

 そもそも香山氏のみならず規制論者(この文章を読む限り、香山氏は「隠れ規制論者」と見なせるかもしれない)に共通していることだが、この手の人たちは「ゲームが犯罪を起こした。たといゲームをやって犯罪を犯す確率が極めて少ないとしても、現実に起こってしまったのだから規制するしかない」という人たちは、なぜ他のファクターに関しても同様のことを言わないのだろうか。彼らは、明らかに「ゲーム」なら何を言っても許される、と思っている。「ゲームの登場人物にも人権を認めよ」という似非人権論者を批判する人にも、このように「ゲームの犯罪性」という虚構を振りかざす人たちが多い。彼らこそ、(彼らの常套句を引けば)「現実と虚構の区別がつかない」人たちではないか。

 彼らは、「ゲームという虚構が我々の生きる現実を犯す」という「物語」を共通して持っている。しかし、そのような「物語」に仮託して自らの優位性を正当付ける論理は、ナショナリズムとしてしか析出しないし、現実に「現実」ナショナリズムが(こういう言い方も少々変だけれども)青少年を苦しめる規制を生み出している。それを象徴するのが、神奈川県であろう。

 「現実」ナショナリズムの横行が、やがては青少年を苦しめる。我が国で現在怪物の如く横行しているナショナリズムは、多分に俗流若者論を含んでいる。要するに「今時の若者」に対する敵愾心の共同体としてのナショナリズムである。これが現在、メディア規制や秋葉原の再開発として表れているのである。インターネットにも、ゲームにも逃避できなくなる社会が登場したら、我々はどこに逃避すればいいのだろう?これが、ここ数年横行しているオタクバッシングから私が得た疑問である。これは多くの人に考えて欲しい問題だ。

 参考文献・資料
 太田啓之、太田サトル[2001]
 太田啓之、太田サトル「「オタクの風上にも置けない」」=「AERA」2001年9月3日号、朝日新聞社
 香山リカ[2005]
 香山リカ「監禁事件と「萌え」文化」=「創」2005年7月号、創出版社
 本田透[2005]
 本田透『電波男』三才ブックス、2005年3月

 東浩紀『動物化するポストモダン』講談社現代新書、2001年10月
 五十嵐太郎『過防備都市』中公新書ラクレ、2004年7月
 マックス・ヴェーバー、脇圭平:訳『職業としての政治』1980年3月
 笠原嘉『アパシー・シンドローム』岩波現代文庫、2002年12月
 姜尚中『ナショナリズム』岩波書店、2001年10月
 斎藤環『ひきこもり文化論』紀伊國屋書店、2003年12月
 斎藤環『「負けた」教の信者たち』中公新書ラクレ、2005年4月
 長岡義幸『「わいせつコミック」裁判』道出版、2004年1月
 原克『悪魔の発明と大衆操作』集英社新書、2003年6月
 広田照幸『教育言説の歴史社会学』名古屋大学出版会、2001年1月
 森川嘉一郎『趣都の誕生』幻冬社、2003年2月
 山本七平『日本はなぜ敗れるのか』角川Oneテーマ21、2004年3月
 ウォルター・リップマン、掛川トミ子:訳『世論』岩波文庫、上下巻、1987年2月
 ジュディス・レヴァイン、藤田真利子:訳『青少年に有害!』河出書房新社、2004年6月

 石田衣良、森川嘉一郎「秋葉原は「萌え」ているか」=「Voice」2005年4月号、PHP研究所
 石田英敬「「象徴的貧困」の時代」=「世界」2004年6月号、岩波書店
 大沢千秋「アホっぽい超になってると指摘されて、「あっ、しまった」って(笑)」=「hm3 SPECIAL」2005年7月号、音楽専科社
 河村成浩「「残虐」とゲームが有害図書に 神奈川県、条例で指定」=「MANTANBROAD」2005年6月号、毎日新聞社
 小林ゆう「今度は木乃香お嬢さまとデュエットをしてみたいです(照)」=「hm3 SPECIAL」2005年6月号、音楽専科社
 齋藤純一「都市空間の再編と公共性」=植田和弘、神野直彦、西村幸夫、間宮陽介(編)『(岩波講座・都市の再生を考える・1)都市とは何か』
 斎藤環「診断名は「社交的ひきこもり」」=「文藝春秋」2005年5月号、文藝春秋
 渋谷望「万国のミドルクラス諸君、団結せよ!?」=「現代思想」2005年1月号、青土社
 志村由美、門脇舞「2-Aのメンバーとは長い間一緒にやってきたのでもうどんな組み合わせでもすんなりやれます(笑)」=「hm3 SPECIAL」2005年8月号、音楽専科社
 杉田敦「「彼ら」とは違う「私たち」――統一地方選の民意を考える」=「世界」2003年6月号、岩波書店
 内藤朝雄「お前もニートだ」=「図書新聞」2005年3月18日号、図書新聞
 福井洋平「アキハバラ萌えるバザール」=「AERA」2004年12月13日号、朝日新聞社
 福井洋平「オタク狩り?警察の狙い」=「AERA」2005年3月7日号、朝日新聞社
 渡辺明乃「主題歌では茶々丸っぽくするならむしろ音を消して録ってくださいって(笑)」=「hm3 SPECIAL」2005年5月号、音楽専科社

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2005年7月 6日 (水)

俗流若者論ケースファイル32・二階堂祥生&福島章&野田正彰

 いまだにはびこる「ゲーム脳」信者とか、「AERA」の俗流若者論とか、採り上げたいネタは山ほどあるのだが、連載第32回と33回は緊急特集として今年5月に起こった少女監禁事件にかこつけた俗流若者論の検証を行なう。第33回はサプライズを予定しているのでお楽しみに。

 さて、ジャーナリストの大谷昭宏氏の「フィギュア萌え族」なるプロファイリング騒動から幾多の昼夜が過ぎ、またも少女が被害者となる残忍な事件が起こってしまった。しかし、この事件に関するマスコミ報道もまた残忍であった。しかも今回は、昨年の奈良県女子児童誘拐殺人事件における犯人・小林薫(当時36歳)とは違い、犯人・小林泰剛が若年層(当時24歳)であったことと、警察の欧州物件としてパソコンのゲームなどが押収されたことから、俗流若者論とオタクバッシングが相乗効果でオーバーラップした報道・論評が相次いだ。この状況を見てほくそえんでいるのは松沢成文氏とか野田聖子氏とかいった規制論者だけだろう。

 今回は、読売新聞社の週刊誌「Yomiuri Weekly」において、同誌記者の二階堂祥生氏が書いた記事「未熟男たちの「歪んだ欲望」」(平成17年6月5日号掲載)を検証する。何せこの記事の書き始めが、事件のことではなく、《事件が起こる2か月前、発売されたばかりのアダルトゲームが、ゲームマニアの間で話題を呼んでいた》(二階堂祥生[2005]、以下、断りがないなら同様)と、事件を引き起こした「と思われる」アダルトゲームの話題から始まっているのだから。事件のことを後回しにして、いきなりこのように書き始めるのだから、二階堂氏が事件とゲームを結び付けようとしているのは明らかであろう。

 ここではっきり言っておくけれども、秋葉原などでは多くの人がアダルトゲームを買っているだろうに、なぜそれらの人が性犯罪を「起こさないか」ということを検証する人がマスコミに一人もいないのはどういうわけなのだろうか。小林(以下、単に「小林」と表記した場合は、5月の事件の小林泰剛を表すこととする)の起こした事件は、特異的な事件なのか、それとも典型的な事件なのか、検証が必要になるだろう。それなのに、二階堂氏をはじめとする多くのマスコミは、さもゲームがなかったら犯罪を起こさなかったかのように印象操作・捏造報道・報道加害を繰り返し、ゲーム、及び若年層に敵愾心を煽ることばかりするのであろうか。このようなあおり方は、オタクどころか若年層全体に対する理解を遮断し、彼らを社会的な「異物」と見なして、ただ単に排除すべき対象としてしかみなさなくなるということしか生み出さないのではないか、というより、既にそのような状況に陥りつつある。何も、ライターの本田透氏の如く「萌え」は世界を救う!と主張するつもりはないけれども(本田氏の主張が知りたいならば本田透[2005]を参照されたし)、それでもマスコミの煽り方は以上であり、緻密な検証を怠った短絡的なやり方、といわざるを得ない。

 話を二階堂氏の記事に戻そう。二階堂氏は、22ページ4段目においてこのような誤報を行なう。曰く、

 警視庁捜査1課は札幌市内の小林容疑者の自宅から、アダルトゲームソフトのCD-ROM100点以上、セーラー服などの衣装、アダルト系少女漫画などを押収している。……

 この《アダルトゲームソフトのCD-ROM1000点以上》というのは誤報で、実際には「アダルトゲームを含むゲームソフトのCD-ROM1000点以上」と書かなければならないはずなのだが、二階堂氏はこの周辺に起こった小林の事件にかこつけたゲーム・若年層敵視報道を真に受けてこのように書いてしまったのだろう。しかし、二階堂氏の記事の問題の本質は、ここにあるのではない。それよりも23ページに問題のある文章が続く。

 まず23ページ中段。これは二階堂氏の偏見なのだろうか。

 恋愛という人間関係。その基本的な対人関係を築く能力が壊れた男たちが少なからずいる。こうしたコミュニケーション不全の遠因を、育った家庭環境にみる向きもある。30歳代を中心とした男性の母親は微妙な世代だ。戦後の男女平等教育を受けたが、女性進出を阻む社会構造がまだ色濃く残る時代に生きた。多くは専業主婦として、その関心は子供へ向かった。教育ママに走ったり、息子を溺愛する傾向も他の世代に比べて多いとされる。

 もちろん二階堂氏が小林の世代にこのような影響が見られる傾向についてその証左として出しているのは、小林自身の生い立ちだけで、それ以外の具体的なデータや学説の引用がない。故に《その基本的な対人関係を築く能力が壊れた男たちが少なからずいる》と二階堂氏が書いているのは、単に若年層に対する二階堂氏の蔑視的な意識の表れであろう。

 そして二階堂氏はこの記事において、上智大学名誉教授の福島章氏と関西学院大学教授の野田正彰氏のコメントを引いているけれども、福島氏も、野田氏も、共に問題の多い発言をしている。

 まずは福島氏から。

 上智大学の福島章名誉教授(犯罪心理学)は1979年から11年間、東京と神奈川の公立中学校の生徒計900を対象に心理調査を行ったことがある。
 調査では、心の発達のゆがみを示唆する絵を描く生徒の割合は、調査開始当初は1~2%だったのが、調査を終えるころには5%に上がっていた。
 「その後、インターネットやテレビゲームといったバーチャルな世界がますます広がった。社会的な関係がより希薄になる社会で育ったせいで、ごく普通の恋愛ができない若者が増えている」

 と福島教授は言う。

 「小林容疑者の場合、極端に甘やかされて、人間として未熟なまま大人になり、きちんとした人間関係を気付けなくなったのが本質的な原因。母親の死で自分の言うことを聞いてくれる人間がいなくなり、母の代わりを探すなかで、調教ものゲームに出会ったのでは(筆者注:二階堂氏の記事ではこの部分は《出合ったのでは》になっているが、語句の意味からして誤植であろう)」

 まず、《心の発達のゆがみを示唆する絵》というのがポイントである。《示唆する》ということは、少なくともそこから心の歪みが「ある」と断定することができないのではないか。また、絵画による診断が診断者の主観が入るものであるということに関しても疑ってみるべきだし、そもそもそれがある程度規格化された方法によって行なわれたのか、ということも突っ込むべきだろう。もう一つ、福島氏は、この調査を行った生徒に関して現在も追跡調査をやっているのだろうか。

 また、福島氏のこの調査は、二階堂氏も書いている通り《1979年から11年間》行なわれたものなのだから、単純に1991年以降のデータはないはずである。それなのに福島氏は、《その後、インターネットやテレビゲームといったバーチャルな世界がますます広がった。社会的な関係がより希薄になる社会で育ったせいで、ごく普通の恋愛ができない若者が増えている》などといって、若年層の社会性の衰退とか心の歪みが広まっている、と無根拠に断定してしまう。いつから我が国の犯罪心理学者は、印象論だけで現代の若年層に対する敵愾心を煽ることができるようになったのか。また、これは二階堂氏にも言えることなのだけれども、《ごく普通の恋愛ができない若者が増えている》とは何を根拠にして言っているのかも疑問であるし、そもそも《ごく普通の恋愛》とは何を指しているのか。

 福島氏の発言の後半部分は、半分は事実を言い当てていると思えるのだが、やはり《極端に甘やかされて、人間として未熟なまま大人に》なった人たちの大半が事件を「起こさないのか」ということに対する認識がないのは無視できない。

 続いて野田正彰氏。

 関西学院大学の野田正彰教授(精神病理学)は、こう付け加える。
 「彼らの世代は、母親や社会からテストでいい点を取ることを要求され、多様な価値観があることを十分に理解できないまま大人になった。そうした場合、落ちこぼれたと感じた人は、鬱積した思いのはけ口を自分より力の弱い人間に向けてしまう傾向にある」

 このように、一つの衝撃的な事件と若年層全体を結びつけるようなお手軽なコメントを見るたびに、病理学者とは気楽な稼業ときたもんだ、と思ってしまう。私も建築学から足を洗って病理学に転向しようか。これは冗談であるが、野田氏のコンテクストに従って二階堂氏の記事を分析してみると、「二階堂氏の如きマスコミ人は、上層部や社会から衝撃的な記事を書くことを要求され、《多様な価値観があることを十分に理解できないまま》記者となった。そうした場合、《落ちこぼれたと感じた人は、鬱積した思いのはけ口を自分より弱い人間に向けてしまう傾向にある》」ということになろうか。

 野田氏もまた、《彼らの世代》がいかに犯罪を「起こさないか」ということに対する視点が欠落している。二階堂氏によれば、略取誘拐事件で検挙された男158人のうち30歳代が52人、20歳代が41人と多かったのだが、30歳代あるいは20歳代全員から見ればこの数はごく少数に過ぎない。また、野田氏は、過去との比較もないままにこのように語ってしまっているのだから、やはり病理学者とは気楽な稼業ときたもんだ。このような事件にコメントする精神科医や社会学者は、過去との比較も行わなければならないとも思うのだが、そのような態度を持っている学者は我が国では少ない、というより多いのだけれどもマスコミでは重宝されないという悪しき傾向がある。しかし、過去との比較を行なわないお気軽な精神病理学的コメントは、単なる俗流若者論の中の「茶番」ととらえるのがよろしかろう。

 ちなみに野田氏が知っているかどうかはわからないが、《母親や社会からテストでいい点を取ることを要求され》ることに対する悪影響は、むしろ「ひきこもり」の青少年や若年無業者に傾向として表れている(川戸和史[2002]、斎藤環[2003]、二神能基[2005])。しかし、このような影響は、むしろ「自立しなければならない、それなのに自分は自立していない」という過剰な自責から自分が今ある状況から脱却できない、という方向に働いている。これは若年層自身というよりも社会が「ひきこもり」や若年無業者であること=「世間」の認めない行動をとることを断固として認めない状況からきていると言ったほうが適切だろう。オタクバッシングも含めて、社会(というよりも「世間」)の狭隘さを論じずに若年層の精神状態を語らないほうがいい。

 残念ながらこの記事は、若年層に対する敵愾心を煽るために書かれた記事、と言うほかないのである。このように偏った印象操作を繰り返して、事件について詳しく述べることはほとんどしていないのだから、不安を煽るために書いたといわれてもおかしくないだろう。事実、二階堂氏は、この記事の結びにおいて《事件を引き起こす予備軍は多いかもしれない》と書いているのだから、《多いかもしれない》と思わせる方向に二階堂氏は記事を書いた、ということが見えてくる。

 しかし、もう私は口を酸っぱくして言ってきたことなのであるが、特定の「属性」を持った人に対する敵愾心を煽ることに、何の意味があるのだろうか。そのような報道や論評は、結局のところ排他的なナショナリズムを煽る結果にしかならない。というよりも、マスコミがそのように偏向した報道を行なってきたばかりに、二階堂氏の記事のように現実よりも「世代」だとか「オタク」だとかいったヴァーチャルが俗流若者論によって優先されるべきものとなり、過剰な印象操作も正義の名の下に断罪されなくなっている。そしてそのような状況が、とうとう現実の表現規制、行動規制につながっているのである。このような状況を作ってきた未熟マスコミたちの「歪んだ欲望」をマスコミが持ち続ける限り、マスコミに表現規制批判を行なう資格があるのか。私が問いかけたいのは、まさにこの点である。

 参考文献・資料
 川戸和史[2002]
 川戸和史「引きこもり癒やす地域通貨の力」=「AERA」2002年9月23日号、朝日新聞社
 斎藤環[2003]
 斎藤環『ひきこもり文化論』紀伊國屋書店、2003年12月
 二階堂祥生[2005]
 二階堂祥生「未熟男たちの「歪んだ欲望」」=「Yomiuri Weekly」2005年6月5日号、読売新聞社
 二神能基[2005]
 二神能基『希望のニート』東洋経済新報社、2005年6月
 本田透[2005]
 本田透『電波男』三才ブックス、2005年3月

 笠原嘉『アパシー・シンドローム』岩波現代文庫、2002年12月
 広田照幸『日本人のしつけは衰退したか』講談社現代新書、1999年4月
 ウォルター・リップマン、掛川トミ子:訳『世論』岩波文庫、上下巻、1987年2月

 河村成浩「「残虐」とゲームが有害図書に 神奈川県、条例で指定」=「MANTANBROAD」2005年6月号、毎日新聞社
 福井洋平「オタク狩り?警察の狙い」=「AERA」2005年3月7日号、朝日新聞社

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2005年7月 3日 (日)

暴走列車を止めろ ~正高信男という堕落4~

 さて、このブログでしつこく批判している曲学阿世の徒・京都大学霊長類研究所教授の正高信男氏であるが、正高氏のマスコミに対する影響力、というよりも読売新聞に対する影響力はいまだに大きいらしく、読売はいまだに教育面の「学びの時評」というコラムの執筆者に採用している。また、正高氏は、平成14年ごろに俗流若者論に走り出してから、学者としての評価をすっかり落としてしまった代わりにマスコミに重宝されるお手軽な「評論家」としての評価を飛躍的に高めてしまい、文章のレヴェルは低下の一途を辿るばかりである。

 そしてその低下の帰結なのだろうか、とうとう正高氏、何を言いたいのかわからないコラムを「学びの時評」に2回連続で書いてしまっているのである。今回検証するのは、それらの文章だ。

 一つ目は、平成17年5月9日付読売新聞の「教科書に権威、今は昔」である。正高氏はこのコラムの冒頭において、《あまり品のよい表現ではないけれど、ほかに思いつかないのであえて書くが、今どきの日本の子どもは教師の話す内容など屁とも思っていない》(正高信男[2005a]、以下、断りがないなら同様)と書くけれども、なぜ正高氏はそのように述べるのだろうか。これ以外にも、正高氏のこのコラムには、根拠のない断定が続出するのである。また、正高氏は、コラムの1段目から2段目にかけて、《教科書に書いてあるから真に受ける子どもなど、天然記念物に近いのではないだろうか。「そう」書いてあるからこそ、疑ってかかる者の方が多いようにすら私には思える》とも書いているのだけれども、そのことに関する根拠を正高氏が示さないのが不可解である。

 はっきり言うがこのコラムは、主張というものがない。文末の《少なくとも、教育手段としての影響力を極端に低下させた教科書にこだわることで、多大なエネルギーの浪費をしているいとまは、ないように私には見えるのだが》というのが主張にあたる部分なのかもしれないが、そもそも正高氏の主張の根拠となっている「教科書の影響力が低下した」という事実が正高氏によって証明されていないのだから、このコラム自体が意味を成さないものになっているとしか言いようがないだろう。本来なら、教科書の影響力を低下せしめたのは何か、そもそも教科書の影響力は低下しているのか、というところからはじめなければならないはずなのだが、そのようなことを正高氏は放棄している。このような無意味・無内容な文章を書いても受け入れられてしまう正高氏とは一体なんなのであろうか。

 これは私の推測であるのだが、正高氏は、中国の「反日」騒動で江沢民政権以降の中国が若年層の反日感情を培養するために「教科書の影響力」なるものについて触れたのであるまいか。中国の江沢民政権移行の対日外交の変容に関しては、東京新聞論説委員の清水美和氏が詳細に検証しているのでそちらを参照してもらうとして(清水美和[2003])、教科書が強い影響力を持つ中国と、それがほとんど影響力を持たない(らしい)我が国の比較をするためにわざわざ取り繕ったのであろうが、それだったらもっと中国の教育の現状についての考察、あるいは我が国の教科書をめぐる状況についての考察を深めるべきだろう。この程度の比較では、表層をあげつらっただけで、結局のところどちらの国の教育のことも語ったことにはならないのではないか。正高氏のこのコラムは、主張というものが見られず、ただ無味乾燥な「お話」に終始しているだけなのである。正高氏は、まず自分の執筆するコラムの限界文字数を認識すべきではないか。

 そして、正高氏の無味乾燥な「お話」は、次のコラムにも引き継がれることになる。それが、平成17年6月20日付読売新聞に掲載された「そびえ立つ父を持つ苦悩」である。まあ、このコラムは、結局のところいわゆる「若貴騒動」とドラマの「エンジン」にかこつけた俗流若者論なのだけれども。

 実際、こちらのコラムは、単に二子山親方の死去をめぐる騒動と「エンジン」を強引に結び付けて現代の家族を語っているだけであった。それが表れているのが、下の3段落であろう。

 そして『エンジン』が高視聴率なのは、見ていて多くの人に「かつての日本の親と子は、こんなだったなぁ」とノスタルジーを喚起するからだろう。現実の世界では、疲れた我が子の背中をたたき、励ましを与えてやれる父親など、そうそうお目にかかれなくなってしまっている。

 思えば私が小学生だった頃は、『七人の孫』や『ただいま十一人』といった大家族ホームドラマが全盛だった。核家族化が急速に進行するなか、やはり「以前は…」と、懐かしさをかき立てていたのだろう。

 家をめぐるドラマをヒットさせるには、少なくとも日本では設定をひと昔前のそれにすることに、あるのかもしれない。(正高信男[2005b]、以下、断りがないなら同様)

 解釈自体は正高氏の勝手なのだけれども、正高氏の解釈が実際のヒットにつながっているか、ということに関しては、検証が必要だろう。また、正高氏が《家をめぐるドラマをヒットさせるには、少なくとも日本では設定をひと昔前のそれにすることに、あるのかもしれない》と語るのであれば、他のヒットしているドラマとの比較が必要である。しかも《現実の世界では、疲れた我が子の背中をたたき、励ましを与えてやれる父親など、そうそうお目にかかれなくなってしまっている》なんて、安易に語らないでいただけないものか。あと、これは蛇足なのだけれども、正高氏の推測を多くの製作者が真に受けてしまい、世の中が一昔前を懐かしむ構成になっているドラマばかりになったら、北朝鮮のような気持ち悪さを覚えてしまいそうだ。

 この2つのコラムを通して見えてくるのは、正高氏が、現代社会や教育に対する違和感を表明するなら、中途半端な文章でもいい、という無責任な態度である。正高氏は、学者としての良心を捨て、「世代」という幻想や、安易なアナロジーに頼った、内容のない文章ばかりを生産し続けるようになった。事実、正高氏は、京都大学の学生の多く集まるネット上の掲示板でも、正高氏の醜態が報告されており、私のブログにも正高氏を「告発」するコメントが書かれている。

 また、正高氏は、エッセイの書き手としても中途半端である。学者としても、エッセイの書き手としても中途半端な正高氏の文章を、このコラム欄の執筆者としてとどめておく意義があるのだろうか。私はかつて「正高信男は破綻した! ~正高信男という堕落みたび~」という文章で、正高氏に「破綻宣告」をしたが、どうやら正高氏は本当に破綻してしまったようである(ちなみに「学びの時評」で今のところ秀逸なのは市川伸一氏と平野啓子氏。市川氏は学者として、平野氏はエッセイの書き手として非常に良くまとまっている。堀田力氏は微妙。藤原正彦氏は、正高氏とは逆に主張がありすぎて暴走しており、問題が多い。機会があったら「俗流若者論ケースファイル」で採り上げる)。

 最後に読売にも言っておく。

 やめさせるのも英断である、と。

 参考文献・資料
 清水美和[2003]
 清水美和『中国はなぜ「反日」になったか』文春新書、2003年5月
 正高信男[2005a]
 正高信男「教科書に権威、今は昔」=2005年5月9日付読売新聞
 正高信男[2005b]
 正高信男「そびえ立つ父を持つ苦悩」=2005年6月20日付読売新聞

 広田照幸『日本人のしつけは衰退したか』講談社現代新書、1999年4月

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俗流若者論ケースファイル31・細川珠生

 前回は憲法にかこつけた俗流若者論を検証したけれども、「憲法」というものに対して過剰に何らかの意味・幻想をもっているのは、保守系の政治家よりもむしろ保守系の自称「識者」のほうに多い。しかも、彼らの抱いている「幻想」は、政治家のそれよりも格段に強いものだ。憲法を変えて、憲法に「国家意識」を取り戻せば、少年犯罪も不登校もなくなる、と彼らは言う。このような奇妙な論理に接するたびに、私は彼らの「国家意識」こそ問いたくなる。所詮、彼らの言う「国家」は、俗流若者論的な懐古主義に基づくものでしかないのか、と。俗流若者論という排除の論理に基づく共同幻想に支えられた「国家」など、どこが国家だ。

 今回はそのような「国家」、すなわち自らの幻想としての「国家」を取り戻すために憲法を改正しろ、と主張する自称「識者」の文章を検証する。ジャーナリスト・細川珠生氏の「日本国憲法サン、60歳定年ですよ」(「諸君!」平成16年5月号に掲載)である。なにせこの記事、編集部がつけたものだろうが、のっけからリード文で《昨今の日本の衰弱、自己中心的な若者の増加の原因は「憲法」に起因するのではないか!?》(細川珠生[2004]、以下、断りがないなら同様)とかましているのだから情けない。そして本文を読んでいても、飛躍の連続であった。まったく、《自己中心的な》細川氏の登場の《原因は「憲法」に起因するのではないか!?》と思ってしまったほどだ。自分の不愉快に思う問題の全てを「憲法」(という幻想)に結びつけるのは、もうやめていただけまいか。

 67ページ3段目において、細川氏は《民主党幹部の言うように、「あと五年、十年改正が遅くなったって、そんなに大きなリスクはない」といえる状況下にあるとは私には思えない》と書く。このブログの愛読者であればここで笑うべきだろう。なぜなら、細川氏がなぜ《「あと五年、十年改正が遅くなったって、そんなに大きなリスクはない」といえる状況下にあるとは私には思えない》と言えるのかについての理由を述べたのが67ページ3段目から68ページ3段目までなのだが、その部分が個人的な恨み節をただ綴っているだけなのだから。

 67ページ1段目、《今、テレビでは、身近で何かトラブルが発生した場合、弁護士にその法的根拠を指導してもらい、どういう解決の方法があるかを取り上げる番組がはやりである》状況について、細川氏は68ページ1段目において《あまりにも私的なケースが多い》と指摘し、《冷静に話し合えば解決する問題》と言う。それについては私は異論を挟むつもりはないし、そもそもこの手の番組はそのような理由から見ていない。しかし細川氏は、このようなことに過剰な難癖をつけてしまう。曰く、《冷静に話し合えば解決する問題でも、裁判沙汰にする風潮が日本でも高まってきているが、これも現行憲法の悪しき「理念」――「権利の重視」と「義務の軽視」が拡大してきているからではないだろうか》と言ってしまう。正直言って呆れてしまった。まず、この手の番組で、何らかの些細な行為に法的な根拠が与えられたからといっても、実際に裁判沙汰にしてしまう人が何人いるだろうか。多くの人は、これらの番組を単なる「ネタ」として楽しんでいる程度ではないだろうか。

 私が笑ってしまったのは、68ページ2段目の投票率について述べたくだりである。このようなことさえも「憲法」のせいにできる細川氏の感性というもののほうが異常なのではないか、と思ってしまう。例えば細川氏は、《「誰が(総理大臣を)やったって、同じ」「選挙なんて、自分ひとりがマジメに行ったところで、何も変わらない」と、政治への無関心を、あたかももっともらしく語る人が多いが、本当にそうだろうか。ならば、なぜ、二十歳以上の国民全員に、選挙権が与えられているのだろうか》と述べるけれども、論点がずれていやしまいか。要するに、《ならば、なぜ、二十歳以上の国民全員に、選挙権が与えられているのだろうか》という問いかけが、政治に対して何も関心も期待も持っていない人に対して少しでも意味のあるものになりうるか、ということだ。一回、細川氏は、出馬してみたらどうか。
 さらに同じページで、《ましてや、国民が、「国のため」に命をささげるなどとは、とんでもないことだと思っている。ロシア、中国、北朝鮮、韓国、台湾、シンガポール、マレーシアなど日本の周辺国のほとんどが採用している徴兵制も、「とんでもない」という意見が大勢を占めている》と書いているけれども、恣意的な選定ではないか。どうしてアジアなのだろう?アメリカやヨーロッパはどうなのだろうか(ちなみに多くの先進国が徴兵制を廃止している傾向にあるというのは周知の通り)。また、韓国では、徴兵制に否定的な考え方を持つ若年層が増えているというデータもある(尹載善[2004])。ちなみに本筋から外れるけれども、徴兵制が決して「ひきこもり」の解決につながらないことも指摘しておきたい。

 さて、本筋に戻ろう。案の定、細川氏は、68ページ3段目において、《独断かもしれないが、私は、これらの問題は全て、今の「日本国憲法」に起因すると思うのだ》と言ってしまう。漫画やアニメでは「お約束」は許されるけれども(もちろん製作者の技量にもよる)、憲法論で「お約束」が許されるわけがない。さらに細川氏は、このように妄想を堂々と開陳するのだから、たまったものではない。

 結局のところ、他国の占領下にあった時に、他国の人の手によって作られた憲法によって治められている国というのは、そこに住む人々も、“それなりの人”にしかならないのではないだろうか。何か他人任せで主体性もなく、さまざまな矛盾にも気づかずに、九条のようにただ「戦争放棄の日本」を外に唱えればそれで世界が「日本はいい国だ」と納得してくれるものだと思いこんでいる。日本の伝統や文化が何たるかも理解できず、何よりも自己の生活、つまり自分だけが大事で大切だ、何でも自分の思い通りにすることが正しいんだと思い込む、それが今の普通の「日本人」の姿であり、ふと考えてみれば、まさに「日本国憲法」の精神に「のっとった」国民ばかりになっただけともいえるのかもしれない。

 まったく、細川氏の現在の社会に対する認識が、透けて見えるような文章ではないか。細川氏は、自分の不愉快に思う事例は全て「憲法」のせいだ、と思い込み、それらを変えれば即刻日本は良くなる(=自分の思い道理になる)とでも妄想しているのだろう。まったく、《何か他人任せで主体性も》ないのは細川氏であり、《日本の伝統や文化が何たるかも理解できず、何よりも自己の生活、つまり自分だけが大事で大切だ、何でも自分の思い通りにすることが正しいんだと思い込む、それが》細川氏なのだ。つまり細川氏の理論に従えば、細川氏こそ《「日本国憲法」の精神に「のっとった」国民》と言えるのである。何かにつけて「憲法」に責任をなすり付け、「国家」を持ち出したがるのは、自分の精神が脆弱な証拠である。

 案の定、同様の妄想を、細川氏は72ページでも開陳してしまうのである。曰く、

 この間に、「憲法」というものの、国家における重要性を説いてこなかった政治やマスコミの責任は大きい。……その結果、憲法に無関心であり無知な国民が出来上がり、その国民の代表者である国会議員が、憲法をどうするべきかということに、意見もないような国となってしまった。政治かも、国民も、自分の懐だけが潤えばいいという意識にどっぷりと漬かっている。親としての責任、子供としての務め、社会人としての自覚、仕事における使命感など、お金に換算できないことには関心をもたないという、“空っぽ”な人間ばかりがはびこる社会となってしまった。

 一体、何を基準として語っているのだろう。所詮これらの物言いは、自分こそが国家(=細川氏の幻想としての「国家」)を救うことができる存在であり、自分の不愉快に思う人々を罵倒するためだけのロジックである。それにしても、この極めてステレオタイプな細川氏の認識はなんなのだろう。保守論壇という狭い世界でしか生きていけなかったからこうなるのか。それともこの「諸君!」の読者に媚びるためなのか。いずれにせよ、細川氏の認識が極めて一方的なのは確かだ。

 これ以降の文章に対する検証は、細川氏の同様の妄想が開陳されているだけか、あるいは単なる保守論壇の俗流憲法論の受け売りでしかないので省略するけれども、この文章で問いかけたいのは、細川氏の如く「憲法」を過剰に敵視「するため」に「今時の若者」をはじめとする「今時の日本人」を批判するというのが、憲法を論じる態度として許されるべきなのか、ということである。

 立憲主義の考えに基づくのであれば、憲法とは、国民が国家に充てた命令である。それゆえ、細川氏の如き改憲派が抱きがちな妄想、すなわち「憲法が国民の義務を解いてこなかったから、日本はここまで堕落してしまった」という妄想や、護憲派が抱きがちな妄想、すなわち「憲法の理念を生活に浸透させなければいけない」という妄想の入り込む余地はない。しかし、現実において憲法は、限りなく「政治的」なものとして語られている。憲法にかこつけて俗流若者論を開陳する政治家や自称「識者」は(改憲派だけでなく護憲派にもいる。改憲派に比べれば極めて少数であるが)、憲法というものの本質を殺してしまっているのである。

 ここからは俗流保守論壇に限定して話を進めるけれども、憲法を批判するためだけに「今時の若者」及び「今時の日本人」を感情的に批判する、ということはすなわち、憲法とは何かという問いかけを最初から飛び越えて、「今時の若者」「今時の日本人」を「どうにかする」ためだけに憲法が持ち出されることになり、憲法の歴史や学説や性質をまったく踏まえないものになってしまう。それだけではなく、彼らは憲法の矛盾や欺瞞から「今時の若者」「今時の日本人」が生まれてくる、というけれども、では聞こう、憲法はすべからく無謬であるべきなのか。憲法が無謬であれば、「今時の若者」「今時の日本人」はどうにかできるのか。

 憲法といえど人間の作ったものであるから、いくら改正されてもそれは無謬であるはずはない。ましてや、憲法の矛盾や欺瞞から「今時の若者」「今時の日本人」が生まれてくるなど、倒錯した議論もいいところだ。結局のところ、憲法にかこつけた俗流若者論というものは、自分の不愉快に思う事は全て憲法改正が解決してくれる、というヒロイズムであり、自分の妄想を国家に反映させようとする自分勝手な政治認識であり、現実の政治問題を通り越してまず「今時の若者」を何とかすべきだ、という生活保守主義に過ぎないのである(ちなみに細川氏はこの文章の中で何度も「今時の日本人」を罵倒しているけれども、そのロジックのほとんど全てが細川氏自身に当てはまる)。

 憲法にかこつけた俗流若者論というものは、ここまで問題を持っているのである。そして、「今時の若者」「今時の日本人」を「どうにかする」ことが至上命題となり、憲法や教育基本法などの改正もそれにしたがって行われなければならない、という、社会で解決されなければならない問題、あるいはそのような考え方の基盤となっているものこそを問われなければならない問題を最大の政治問題として国家に丸投げすることこそ、最大の政治的無関心なのである。投票率ばかりが問題なのではない、そのような考え方の蔓延のほうがよほど問題である。

 参考文献・資料
 細川珠生[2004]
 細川珠生「日本国憲法サン、60歳定年ですよ」=「諸君!」2004年5月号、文藝春秋

 奥平康弘、宮台真司『憲法対論』平凡社新書、2002年12月
 橋爪大三郎『人間にとって法とは何か』PHP新書、2003年10月
 長谷部恭男『憲法と平和を問いなおす』ちくま新書、2004年4月
 歪、鵠『「非国民」手帖』情報センター出版局、2004年4月
 山本七平『日本はなぜ敗れるのか』角川Oneテーマ21、2004年3月
 ウォルター・リップマン、掛川トミ子:訳『世論』岩波文庫、上下巻、1987年2月

 井上達夫「削除して自己欺瞞を乗り越えよ」=「論座」2005年6月号、朝日新聞社
 小熊英二「改憲という名の「自分探し」」=「論座」2005年6月号、朝日新聞社
 河野勝「なぜ、憲法か」=「中央公論」2005年5月号、中央公論新社

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2005年7月 2日 (土)

2005年上半期の1曲

 私が2005年1月1日~6月30日まで買ったCD(シングル・アルバム)に関して、印象に残った曲を紹介します。「2005年4~6月の1冊」と併せてどうぞ。

 CDシングル収録曲・ベスト16
 1:Fiction Junction YUUKA「暁の車」作詞・作曲:梶浦由記/Fiction Junction YUUKA「暁の車」ビクターエンターテインメント、2004年9月
 哀愁が漂う曲。戦場に赴く人を必死で引き止めようとするがかなわぬ夢であることに絶望する人のイメージを髣髴とさせる歌詞と、夕暮れの暁のムードを表現する曲が見事なまでにマッチし、さらに南里侑香氏の壮大なヴォーカルによって聴く人を魅了させずにはいられない。
 ※アニメ「機動戦士ガンダムSEED」挿入歌

 2:米倉千尋「僕のスピードで」作詞・作曲:米倉千尋/米倉千尋「僕のスピードで」キングレコード、2005年2月
 米倉氏のデビュー10周年を飾るシングル曲。軽快なメロディーラインと、頑張っている人の背中を押してくれるような歌詞が魅力。もちろん米倉氏の歌唱も。
 ※アニメ「まほらば ~Heartful days~」エンディングテーマ

 3:angela「未来とゆう名の答え」作詞:atsuko、作曲:KATSU、atsuko/angela「未来とゆう名の答え」キングレコード、2005年1月
 ※アニメ「JINKI:EXTEND」エンディングテーマ

 4:水樹奈々「WILD EYES」作詞:水樹奈々、作曲:飯田高広/水樹奈々「WILD EYES」キングレコード、2005年5月
 ※アニメ「バジリスク ~甲賀忍法帖~」エンディングテーマ

 5:坂本真綾「ループ」作詞・作曲:h-wonder/坂本真綾「ループ」ビクターエンターテインメント、2005年5月
 ※アニメ「ツバサ・クロニクル」エンディングテーマ

 6:KOTOKO「Re-sublimity」作詞:KOTOKO、作曲:高瀬一矢/KOTOKO「Re-sublimity」ジェネオンエンターテインメント、2004年11月
 ※アニメ「神無月の巫女」オープニングテーマ

 7:佐藤裕美「終わりなきPrelude」作詞・作曲:上松範康/佐藤裕美「終わりなきPrelude」ビーフェアリーレコード、2004年11月
 ※PS2ゲーム「ギャラクシーエンジェル Eternal Lovers」エンディングテーマ

 8:愛内里菜、石田燿子、近江知永、奥井雅美、影山ヒロノブ、can/goo、栗林みな実、下川みくに、JAM Project、鈴木達央、高橋直純、水樹奈々、unicorn table、米倉千尋「ONENESS」作詞・作曲:奥井雅美/愛内里菜、他「ONENESS」ワンネスプロジェクト、2005年5月
 ※「Animelo Summer Live 2005 -THE BRIDGE-」テーマソング/アニメイト限定発売

 9:奥井雅美「TRUST」作詞・作曲:奥井雅美/奥井雅美「TRUST/A confession of TOKIO」エボリューション、2005年5月
 ※アニメ「これが私の御主人様」オープニングテーマ

 10:石田燿子「OPEN YOUR MIND ~小さな羽根ひろげて~」作詞:石田燿子、作曲:田中公平/石田燿子「OPEN YOUR MIND ~小さな羽根ひろげて~」ジェネオンエンターテインメント、2005年1月
 ※アニメ「ああっ女神さまっ」オープニングテーマ

 11:高橋広樹「BE YOURSELF」作詞:池田森、作曲:高橋広樹/高橋広樹「BE YOURSELF」インターチャネル、2005年4月
 ※ラジオ番組「BE YOURSELF」テーマソング

 12:JAM Project「迷宮のプリズナー」作詞・作曲:影山ヒロノブ/JAM Project「迷宮のプリズナー」ランティス、2005年6月
 ※OVA「スーパーロボット大戦 ORIGINAL GENERATION THE ANIMATION」オープニングテーマ

 13:高橋洋子「WING」作詞:高橋洋子、作曲:大森俊之/高橋洋子「WING」ジェネオンエンターテインメント、2005年5月
 ※アニメ「ああっ女神さまっ」エンディングテーマ

 14:谷山紀章「Daydreamin'」作詞:mavie、作曲:黒須克彦/谷山紀章「Daydreamin'」ランティス、2005年2月
 ※アニメ「好きなものは好きだからしょうがない!!」エンディングテーマ

 15:神田朱未、野中藍、能登麻美子、小林ゆう「輝く君へ」作詞:ヌマダテゆか、作曲:桑原秀明/神田朱未、野中藍、能登麻美子、小林ゆう「輝く君へ」キングレコード、2005年2月
 ※アニメ「魔法先生ネギま!」エンディングテーマ

 16:田村ゆかり「恋せよ女の子」作詞:羽月美久、作曲:小松一也/田村ゆかり「恋せよ女の子」コナミミュージックエンターテインメント、2005年5月
 ※アニメ「極上生徒会」オープニングテーマ

 CDアルバム・ベスト10
 1:tiaraway「TWO:LEAF」サイトロンディスク、2005年1月
 声優の千葉紗子氏と南里侑香氏によるヴォーカルユニットの最初にして最後のアルバム。さまざまな曲を、あるときは落ち着いて、あるときは壮大に、またあるときは可愛く歌いきれるユニットは、なかなか見当たらないのではないか。歌唱力、表現力共に我が国の歌手の中でも高く評価されてもいいくらいの高レヴェルなヴォーカルである。ちなみに、このユニットは今年3月8日に行なわれたライヴをもって活動を終了した。

 2:岡崎律子「Love & Life -private works 1999-2001-」ユニバーサルミュージック、2005年5月
 昨年5月5日に逝去した岡崎氏が、生前にファンクラブ向けに作成していた「プライベートCD」の曲を収録したもの。これまでにアニメなどに提供してきた曲とはまた違った岡崎氏の楽曲の魅力に触れることができ、ファンならずとも必聴といえる質である。ボーナストラックとしてアルバム未収録のシングル曲を収録。

 3:皆川純子「アイコトバ」キングレコード、2005年4月

 4:金月真美「たからもの」コナミメディアエンターテインメント、2004年12月

 5:國府田マリ子「メトロノーム」キングレコード、2005年2月

 6:佐藤利奈「空色のリボン」フロンティアワークス、2005年3月

 7:田村ゆかり「琥珀の詩、ひとひら」コナミメディアエンターテインメント、2005年3月

 8:椎名へきる「Clear Sky」ソニーミュージックレコード、2005年6月

 9:清水愛「発芽条件M」メローヘッド、2005年4月

 10:新谷良子「Pretty Good!」ランティス、2005年5月

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2005年7月 1日 (金)

2005年4~6月の1冊

 私が2005年4月1日~6月30日までに読んだ本に関して、特に印象に残ったものを紹介します。「2005年上半期の1曲」と併せてどうぞ。

 1:広田照幸『教育言説の歴史社会学』名古屋大学出版会、2001年1月
 労作。我が国において横行している教育言説の原点を我が国の近代化以降の歴史までさかのぼって、大量の史料に基づいて検証している。本書に収録されている最も古い論文は平成3年のものだが、その学問的、あるいは現在の教育言説を批判的に検証する論文としての価値は少しも衰えていない。本書を読めば、いかに我々が歴史に学んでいない教育言説ばかり垂れ流しているか(鵜呑みにしているか)、ということがわかるはずだ。

 2:内藤朝雄『いじめの社会理論』柏書房、2001年7月
 1の広田照幸氏の著書が優れた「歴史家」の仕事であるとすれば、本書は優れた「社会学者」による著書。昨今になって社会問題化している「いじめ」を、社会心理学的なアプローチで解明し、「中間集団全体主義」における子供たちの自意識の肥大化を「いじめ」の最大原因と突き止める。また、「いじめ」を語る、左右を問わない多くの自称「識者」が、安易な共同体主義に逃げ込んでいることも批判の対象になっている。難点を1つ挙げるとすれば、「いじめ」の解決策としての教育政策提言があまりにも過激すぎるところか。

 3:赤川学『子どもが減って何が悪いか!』ちくま新書、2004年12月
 「子育て支援を拡充し、男女共同参画社会を実現すれば少子化は解決する」という、意見聞こえのいい「トンデモ少子化言説」を、根拠のない暴論であるのに加え、政策論的にも「子供を産む」自由や「仕事と子育てを両立する」自由のみを尊重するものである、と徹底批判。少子化を前提とした上で社会政策を構築し、男女共同参画社会への政策を少子化対策と切り離すべきだとする本。

 4:高坂正堯『国際政治』中公新書、1966年8月
 国際関係論の古典的名著。本書は冷戦時に書かれたものであるが、現代の状況にも当てはまるところが多い。軍備・経済交流・国際機構の3つの側面から国際政治や国際関係について論じており、冷静な状況分析は高い説得力を持つ。勢いがいいだけで戦略のない俗流外交論ばかり振りかざしている人たちにはぜひとも読んでほしい本である。

 5:佐藤優『国家の罠』新潮社、2005年4月
 平成14年に逮捕され、現在も裁判で闘争中の外務省ロシア・スクールの辣腕外交官がはめられた「国家の罠」とは。本書では、平成13年から逮捕までの日ロ関係の状況と著者、そして鈴木宗男氏の行動が語られ、逮捕以降のことに関しては検察と著者のやり取りが中心に語られる。本書の記述から、自分の「不快なもの」を排除しようとする小泉政権の「本性」が見えてくる。難点は鈴木宗男氏に対する評価が甘いことで、その一点張りで本書は評論家の佐高信氏の批判対象になっていた。

 6:ジュディス・レヴァイン、藤田真利子:訳『青少年に有害!』河出書房新社、2004年6月
 書評:「「有害」排除の先に見えてくるもの
 「青少年に有害」という大義の下、子供を「性」から遠ざける米国の現実を描いた渾身のルポルタージュ。教育界には性教育よりも「純潔」「禁欲」がまかり通り、子供の「性的な兆候」に親やメディアが過剰反応し、インターネットのポルノ画像の規制を求めるフェミニスト、小児性愛者バッシングに走るメディアが大手を振ってまかり通る米国の姿は、我が国にとって他人事と切り捨てることはできない。

 7:数土直紀『自由という服従』光文社新書、2005年1月
 「自由であること」は本当に幸せか、気づかないうちに権力に絡め取られていないか。個人と権力の関係を如実に示しているような日常の事例を、数理社会学の理論で説明しつつ、この問いかけの答えに迫る。「世間」の暴走からいわゆる「ネット右翼」まで、我が国における集団主義的な挙動を批判する上ではぜひとも押さえておきたい文献である。

 8:鈴木博之『(日本の近代・10)都市へ』中央公論新社、1999年1月
 戦前を中心に近代以降の都市計画の歴史をたどりつつ、現代の都市計画を問い直す労作。戦前の東京・京都・大阪の都市計画や、関東大震災の復興、郊外の成立から田中角栄の「日本列島改造案」まで、都市計画に興味のある人ならぜひとも押さえておきたい文献。

 9:吉見俊哉『万博幻想』ちくま新書、2005年3月
 戦後日本を覆った「万博幻想」とは。本書は、大阪万博から現在開催中の愛知万博まで、「万博」という幻想がいかに我が国に浸透し、またいかなるイメージでとらえられ、さらにその「実態」はどうだったか、ということを叙述する。そして「万博」の戦後史から見えてくる「ポスト万博」の状況とは。

 10:池谷裕二『進化しすぎた脳』朝日出版社、2004年10月
 慶應義塾ニューヨーク学院高等部の生徒を相手に、最新の脳科学が人間の「脳と心」の問題をどこまで解明できたかを平易に語る。脳の神秘や、脳科学で全てが解明できるわけではないことなど、深みを持った一冊。「ゲーム脳」などといった俗流脳科学に慣れ親しんだ人たちには特に読んでいただきたい。

 11:岡留安則『『噂の眞相』25年戦記』集英社新書、2005年1月
 平成16年3月に、鳴り物入りで休刊した反権力スキャンダリズム雑誌「噂の眞相」の名物編集長が回想する創刊から休刊までの長い道のり。ある種の「自慢本」にも見えるが、「噂の眞相」のような雑誌の存在はとても貴重であることに気付かされる。創刊したての頃の右翼、エセ同和から、最近では宅八郎氏、小林よしのり氏、本多勝一氏など多くの攻撃と、多数の裁判を相手にしてきた岡留氏の強さに感服する。

 12:阿部仁史『フリッカー』TOTO出版、2005年3月
 仙台出身の建築家の初の作品集。宮城県内の作品が多く、特に「宮城スタジアム」は宮城県に住んでいる人ならほとんどの人が知っているはず。魅力的な写真が多いので、機会があったら実物を見に行きたい。

 13:山田真哉『さおだけ屋はなぜ潰れないのか?』光文社新書、2005年2月
 会計学の手法を用いて、身近の疑問を解決していく本。極めて読みやすく、会計というものがどのような考え方に基づいているか、ということを抑えておくだけでも有益。また、身近な事例と、わかりやすい文章・論理で構成されているので、数式が苦手でも手軽に読めるだろう。

 14:北岡伸一『清沢洌(増補版)』中公新書、2004年7月
 戦前の我が国を代表するリベラル派のジャーナリスト・清沢洌の生涯を描いた評伝。清沢の米国に対する視点の揺れ動きは、親米・反米で世論を二分している状況にある我が国の状況に新たな視座を与えるだろう。

 15:渡辺昭一『犯罪者プロファイリング』角川Oneテーマ21、2005年2月
 警察のプロファイリングの第一人者が、犯罪者プロファイリングの最前線を概説する。本書を読めば、犯罪者の特定は一昼夜にして成るものではない、ということが痛いほどわかるはず(誰ですか、少年犯罪を全て漫画やゲームやインターネットやフィギュアのせいにしている人は)。ただし、警察サイドの人が書いたものなので、少し割り引いて読む必要があるが(例えば検挙率に関する記述とか)。

 16:清水美和『中国はなぜ「反日」になったか』文春新書、2003年5月
 戦後の日中関係の歴史を紐解きつつ、いかにして現在のような「反日」に熱狂する中国というものが生まれたかを説明する。毛沢東や鄧小平の時代は、中国は我が国に対して友好的に接してきたが、現在のような「反日」に舵を切るのは江沢民氏の時代らしい。

 17:斎藤環『「負けた」教の信者たち』中公新書ラクレ、2005年4月
 「中央公論」平成15年1月号から平成16年12月号までに連載されていた社会時評を中心に、現代の若年層をめぐる「現実」を論じた文章を新書としてまとめたもの。テーマが限定されているのでこの手の問題に関して興味のある人は手にとっておいて損はないだろう。特に、東京の青少年保護育成条例に関する文章は、極めて洗練されている。東京大学助教授、玄田有史氏との対談も収録。

 18:鈴木謙介『カーニヴァル化する社会』講談社現代新書、2005年5月
 若者論。新書という制約があるからか、あるいは論じている幅があまりにも広すぎるからか、切り込みは鋭いと言うことは残念ながらできないが、俗流ではないので読んで損になることはない。既存の俗流若者論に慣れ親しんだ人は、少なくともこれくらいのレヴェルに達していないと若年層の一部も語ったことにならない、ということを本書でもって思い知るべき。

 19:阿部仁史、小野田泰明、本江正茂、堀口徹『プロジェクト・ブック』彰国社、2005年3月
 建築のプロジェクトを創出するためのツールと理論を概説。建築学科の学生や若い建築家のために書かれた本であるが、これから文章を書きはじめたい人にも応用できる部分が多い。というよりも、これから何か大きなプロジェクトを始めたい人には是非お勧めしたい一冊。文章に気合が入っているので、励まされた気分になれる。

 20:松下文洋『道路の経済学』講談社現代新書、2005年5月
 高速道路の料金予測システムを概説。本書を読めば、いかに我が国の道路行政が論理的に間違っていることを行なっているかがわかる。しかし、経済学の論理を知っていないととっつけないような部分も一部ある。ちなみに本書の主張は、「東京湾アクアラインは800円でいい!」。この意味を知りたい人は是非読もう。

 ワースト:柳田邦男『壊れる日本人』新潮社、2005年3月
 書評:「俗流若者論スタディーズVol.3 ~壊れているのは一体誰だ?~
 関連記事:「壊れる日本人と差別する柳田邦男
 高名なジャーナリストの手による著書だが、突っ込みどころが満載だ。本書では明らかに携帯電話とインターネットが「敵」として「発見」されており、それによって本書がそれらに対する誹謗中傷をいとわない、という実に「政治的な」文章になってしまっている。著者は一体どうしてしまったのだろうか。著者は「ノーケータイデー」「ノー電子メディアデー」が必要だという。しかし、この著者に最も必要なのは「ノー俗流若者論デー」であることは間違いない!

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